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信心をえるということ

提供: 本願力

信心をえるということ
紅楳英顕
(東本願寺報、平成18年5月10日発行)

はじめに

 浄土真宗において一番大事なことは信心をえることであろう。このことは親鸞聖人御著の至る所に示されているのであり、誰にも異存はないはずである。
 ところが近年この一番大事な問題が曖昧になりつつあることを危惧するのは私だけであろうか。親鸞聖人の七百五十回忌を間近かに控えた今、一番大事なこのことについて、聖人の御教示をあらためて頂戴したいと思うのである。

一、信心

 『浄土和讃』に「真実信心うるひとは すなはち定聚のかずにいる 不退のくらゐにいりぬれば かならず滅度にいたらしむ」とあるように、信心をうることにより正定聚の位に入り、往生成仏の定まった身となるのである。浄土真宗の信心は自分が作るのではなく、如来より頂くものであり、「本願力回向の信心」であり、「如来よりたまはりたる信心」である。信心とは如何なるものかについて聖人は「疑蓋間雑なきがゆえに、これを信楽と名づく」 (「信巻」)、「信心は如来の御ちかひをききてうたがうこころのなきなり」(『一念多念文意』)といわれている。このように信心とは如来より頂くものではあるが、衆生の心の上にも現れるものである。近年信心について社会的行動を伴わなければ無意味であるという意見があるが、それは信後の実践の問題であって、信心そのものの問題ではない。信心とは聖人が『一念多念文意』簡潔にお示し下さるように「如来の御ちかひをききてうたがうこころのなき」心のことであり、
 この心が往生の正因であり、涅槃の真因なのである。大事なことはこの心は「如来よりたまはりたる信心」であり、そして衆生の心の上にも現れる心なのである。この心が生ずることを信心をえる(御信心を頂く)というのである。

二、真実信心の称名

 『正像末和讃』に「真実信心の称名は 彌陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる」とある。念仏において「真実信心の称名」(弘願念仏)と自力の称念(真門念仏)とを明確に分別したのは親鸞聖人の教えの大きな特色である。信心が具足か(具わっている)か、不具足(具わっていない)かによる分別である。このことも現代における大変大事な問題である。よく「このごろ念仏の声がなくなった」と言う言葉を聞く。私も同感である。以前は御法座で大きな声でお念仏するひとが沢山いたが近頃はめっきり少なく成ったのは確かなことである。しかしお念仏の声さえあればよいのではない。(もっとも筆者も念仏の声がないより、ある方がよいとは思う)。声さえ出していればそれが全部真実信心の称名ではないのであり、彌陀回向の法(他力回向の念仏)でもないのである。それに信心が具足していてこそ、真実信心の称名であり、彌陀回向の法なのであり、親鸞聖人の説かれた念仏なのである。信心をえた上で称える念仏が真実信心の称名であり、そうでない念仏は自力の称念なのである。

三、信心への道

 親鸞聖人が信心をえられたのは二十九才の時、比叡山を下りて法然上人にお会いし彌陀の本願をお聞きした時である。恵信尼公の『恵信尼消息』に「法然上人にあひまいらせて、(中略)また百か日、降るにも照るにも、いかなる大事にもまいりてありしに、(中略)生死出づべき道をば、ただ一すじにおおせられ候ひしを、うけたまはりさだめて候ひしかば」とあるように、百か日法然上人のもとに通い仰せを聞いた(聴聞した)、と述べられているところから、聞くことによって信に至ったことが分かる。このことは『歎異抄』にも「よきひと(法然上人)のおほせをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり」とあるように聞くこと(聴聞)によって信をえたことを述べられている。聖人御自身の言葉である『浄土和讃』にも「たとひ大千世界にみてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり」とあるように聞(聴聞)による信(得不退)を述べられているのである。蓮如上人は『御一代記聞書』に「いかに不信なりとも聴聞を心にいれまうさば、御慈悲にて候ふあひだに、信をうべきなり。ただ仏法は聴聞にきはまることなりと云々」とあるように、聴聞が信心への道と述べられている。
 このように浄土真宗における信心への道は聴聞にはげむ(現代では仏法を学ぶことも含まれる)ということであろう。

四、信心と社会実践

 親鸞聖人は『御消息集』に「わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のためにお念仏こころにいれて申して、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞ、おぼえ候ふ。」と述べられている。
 二〇〇一年の九・一一事件以来、紛争やテロ事件が絶えない。それに加えて地震、ハリケーン、津波等の自然災害も頻発し、世の中は不安に満ちている。こんな昨今の状況においてわれわれ念仏者はどうあるべきかと語られる時に上の『御消息集』の文がよく出される。しかし私が大変気になるのは、ほとんど例外なく「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」とある部分のみが出され、「わが身の往生一定とおぼしめさんひとは」の文は省かれていることである。確かに念仏者にとって世の中の安穏を願い、仏法のひろまることを願うことは大事なことである。しかし親鸞聖人がここでもっと大事なこととされているのは「わが身の往生一定とおぼしめさんひとは」とあることなのである。信心をえて「往生一定」と安堵し慶ぶ身となることである。「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」とあるのは信心をえた後の実践なのである。これが念仏者の本当の社会実践と言うことになろう。