「拾遺語灯録上」の版間の差分
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又一時師語曰。 | 又一時師語曰。 | ||
− | :また一時、師(法然聖人)語りていわく。 | + | :また一時、師(法然聖人)語りていわく。 |
我立浄土宗之元意。為顕示凡夫往生報土也。 | 我立浄土宗之元意。為顕示凡夫往生報土也。 | ||
− | :我、浄土宗を立てる元意は、凡夫、報土に往生することを顯示せんが為なり。 | + | :我、浄土宗を立てる元意は、凡夫、報土に往生することを顯示せんが為なり。 |
且如天台宗 雖許凡夫往生。其判浄土卑浅。 | 且如天台宗 雖許凡夫往生。其判浄土卑浅。 | ||
:しばらく天台宗のごときは、凡夫往生を許すといえども、その判ずる浄土は卑淺なり。 | :しばらく天台宗のごときは、凡夫往生を許すといえども、その判ずる浄土は卑淺なり。 | ||
如法相宗其判浄土雖亦高深。不許凡夫往生。 | 如法相宗其判浄土雖亦高深。不許凡夫往生。 | ||
− | :法相宗のごときは、その浄土を判ずることまた高深なりといえども、凡夫往生を許さず。 | + | :法相宗のごときは、その浄土を判ずることまた高深なりといえども、凡夫往生を許さず。 |
凡諸宗所談其趣雖異 総而論之 不許凡夫往生報土。 | 凡諸宗所談其趣雖異 総而論之 不許凡夫往生報土。 | ||
− | :おおよそ諸宗の所談その趣、異なるといえども、すべてこれを論ずるに凡夫報土に往生することを許さず。 | + | :おおよそ諸宗の所談その趣、異なるといえども、すべてこれを論ずるに凡夫報土に往生することを許さず。 |
是故我依善導釈義 建立宗門。以明凡夫生報土之義也。 | 是故我依善導釈義 建立宗門。以明凡夫生報土之義也。 | ||
− | :このゆえに、我、善導の釋義に依って宗門を建立し、以って凡夫報土に生まるの義を明かすなり。 | + | :このゆえに、我、善導の釋義に依って宗門を建立し、以って凡夫報土に生まるの義を明かすなり。 |
然人多誹謗云。勧進念仏往生何必別開宗門。豈非為勝他耶。 | 然人多誹謗云。勧進念仏往生何必別開宗門。豈非為勝他耶。 | ||
− | :然るに人多く誹謗して云く、念仏往生を勧進するに、何ぞ必ず別して宗門を開かん、豈、勝他の為にあらずやと。 | + | :然るに人多く誹謗して云く、念仏往生を勧進するに、何ぞ必ず別して宗門を開かん、豈、勝他の為にあらずやと。 |
如此之人未知旨也。 | 如此之人未知旨也。 | ||
− | :此の如きの人は未だ旨を知らざる也。 | + | :此の如きの人は未だ旨を知らざる也。 |
若不別開宗門何顕凡夫生報士之義乎。 | 若不別開宗門何顕凡夫生報士之義乎。 | ||
− | :若し別に宗門を開かずんば、何ぞ凡夫報土に生まる之義を顕さんや。 | + | :若し別に宗門を開かずんば、何ぞ凡夫報土に生まる之義を顕さんや。 |
且夫人問所言念仏往生是依何教何師者。既非天台・法相。又非三論・華厳。不知以何答之。 | 且夫人問所言念仏往生是依何教何師者。既非天台・法相。又非三論・華厳。不知以何答之。 | ||
− | :且つそれ人、言わゆる念仏往生は是れ何れの教何れの師に依るやと問はば、既に天台・法相にあらず、又三論・華厳にあらず、知らず何を以てか之を答えん。 | + | :且つそれ人、言わゆる念仏往生は是れ何れの教何れの師に依るやと問はば、既に天台・法相にあらず、又三論・華厳にあらず、知らず何を以てか之を答えん。 |
是故依道綽・善導意立浄土宗。全非為勝他也。 | 是故依道綽・善導意立浄土宗。全非為勝他也。 | ||
:是れ故に道綽・善導の意に依って浄土宗を立つ、全く勝他の為には非ずと也。 | :是れ故に道綽・善導の意に依って浄土宗を立つ、全く勝他の為には非ずと也。 | ||
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又一時師語曰。我立一向専念之義。人多難之曰。諸行往生倶是仏説。亦可勧進。何為揚一抑余。且設勧余行亦何妨礙念仏往生。然而強立一向専念之義。此有偏執失矣。 | 又一時師語曰。我立一向専念之義。人多難之曰。諸行往生倶是仏説。亦可勧進。何為揚一抑余。且設勧余行亦何妨礙念仏往生。然而強立一向専念之義。此有偏執失矣。 | ||
:また一時、師、語りていわく。我れ一向専念の義を立つるに、人、多くこれを難じていわく。諸行往生ともにこれ仏説なり。また勧進すべし。何の為に一を揚げて余を抑ふ。かつ設ひ余行を勧むも、また何ぞ念仏往生を妨礙せん。しかるに強ちに一向専念の義を立つるは、これ偏執の失なり。 | :また一時、師、語りていわく。我れ一向専念の義を立つるに、人、多くこれを難じていわく。諸行往生ともにこれ仏説なり。また勧進すべし。何の為に一を揚げて余を抑ふ。かつ設ひ余行を勧むも、また何ぞ念仏往生を妨礙せん。しかるに強ちに一向専念の義を立つるは、これ偏執の失なり。 | ||
如此難者不知宗之元意故也。経云。一向専念無量寿仏。釈云。一向尊称弥陀仏名。若離経釈而立私義則実可責也。経釈已有一向之言。而強致難破是謗仏祖。非関吾也。 | 如此難者不知宗之元意故也。経云。一向専念無量寿仏。釈云。一向尊称弥陀仏名。若離経釈而立私義則実可責也。経釈已有一向之言。而強致難破是謗仏祖。非関吾也。 | ||
− | :このごときの難者、宗の元意を知らざるがゆえ也。経に云く、一向専念無量寿仏。釈に云く、一向尊称弥陀仏名。もし経釈を離れて私義を立つるは則ち実に責むべき也。経釈、已に一向の言有り。しこうして強ちに難破を致すは、これ仏祖を謗るなり。吾の関するに非ず也。 | + | :このごときの難者、宗の元意を知らざるがゆえ也。経に云く、一向専念無量寿仏。釈に云く、一向尊称弥陀仏名。もし経釈を離れて私義を立つるは則ち実に責むべき也。経釈、已に一向の言有り。しこうして強ちに難破を致すは、これ仏祖を謗るなり。吾の関するに非ず也。 |
又師曽連坐弟子 安楽・住蓮事 窺于讃州。厳譴之日尚対徒弟演一向専念義。<br /> | 又師曽連坐弟子 安楽・住蓮事 窺于讃州。厳譴之日尚対徒弟演一向専念義。<br /> | ||
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沙門源空欽言。尊公閣下生知之質。覚悟世間電光。志来楽土不退。 | 沙門源空欽言。尊公閣下生知之質。覚悟世間電光。志来楽土不退。 | ||
− | :沙門源空、欽(つつし) | + | :沙門源空、欽(つつし)んで言く、尊公閣下は生知の質<ref>生知の質。◇『中庸』二十章にある「或生而知之、或学而知之、或困而知之(或いは生まれながらにこれを知り、或いは学んでこれを知り、或いは困しんでこれを知る)」からの成語。兼実は生まれながらにして仏教への関心があったという意。ちなみに聖徳太子も生知之質といわれていた。</ref>なり。世間の電光を覚悟して、楽土の不退を志来す。 |
述下賢旨咨叩心要。倏忽奉承高命驚悚。誠難譬喩。厳威是迫。欲辞不能。 | 述下賢旨咨叩心要。倏忽奉承高命驚悚。誠難譬喩。厳威是迫。欲辞不能。 | ||
:賢旨を述下して心要を咨叩す。倏、忽(たちまち)に高命を奉承し驚悚す。誠に譬喩すること難し。厳威是れ迫る。辞せんと欲せども能わず。 | :賢旨を述下して心要を咨叩す。倏、忽(たちまち)に高命を奉承し驚悚す。誠に譬喩すること難し。厳威是れ迫る。辞せんと欲せども能わず。 | ||
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沙門義山書于華頂茅舎<br /> | 沙門義山書于華頂茅舎<br /> | ||
正徳五{乙未}稔正月吉日 | 正徳五{乙未}稔正月吉日 | ||
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2014年5月30日 (金) 13:15時点における版
拾遺黒谷語灯録 巻上
上巻漢語 中・下和語
厭欣沙門了恵集録
三昧発得記 第一 附夢感聖相記
浄土随聞記 第二 附臨終祥瑞記
答博陸問書 第三
三昧発得記 第一
長承二年癸丑誕生。至于建久九年戊午行年六十有六建久九年正月朔日。予赴山桃法橋教慶之請。帰菴之後未刻正月一七箇日恒例別時念仏始之。
初日光明少現。第二日水想観自然成就。又瑠璃地相少現。至第六日後夜瑠璃地及宮殿相現。
二月四日早晨復瑠璃地現。其相分明。
同月七日復瑠璃地現。凡上来種種相自正月朔日至二月七日三十七日之間現。
顧我平生課念仏六万遍不退勤修。
由此今此等相現歟。
二月二十五日目出如赤嚢物。又出如瑠璃壺物。前則閉目見之開目即失。今則開閉倶見。
同月二十八日少有病悩。由暫減念仏。或一万遍或二万遍随意勤修。其後右眼有白光。現光端青色。又出瑠璃光。其貎如壺。内有紅華。状如宝瓶。
又日没後出望四方。各方有赤青色宝樹。高下無準。或四五丈或二三十丈。其相宛如経
中所説。
同年七月下旬所労乃復。八月朔日日課念仏六万遍如初勤行。
同月二日座下四方一歩許変為瑠璃地。
同年九月二十二日早晨復瑠璃地現。周囲可七八歩朗然映徹。
同二十三日後夜至暁復瑠璃地現。案地観文。為未来世一切大衆欲脱苦者説是観地法若親是地者除八十億劫生死之罪捨身他世必生浄国心得無疑。
釈曰。願行之業已円命尽無疑不往。依経釈文往生無疑也。
正治二年二月之頃。地想等五観坐臥随意任運顕現。
建仁元年二月八日後夜。聞極楽衆鳥并笒笛等音。其後日聞種種音声。
同二年正月五日仏殿勢至菩薩像後即彼菩薩丈六許頭面三度現。又彼菩薩丈六許真身現。想彼菩薩因地以念仏三昧入無生忍。故今為念仏者示現其身不可疑也。
同十二月二十八日午時。高畠少将来訪謁於仏殿。法話之間念仏如常。阿弥陀仏形像之後即彼仏丈六許頭面透徹障褚而現。少時而没。
元久三年正月朔日勤修恒例七日念仏。至第四日念仏之間阿弥陀仏観音勢至三尊共
現大身。五日復現
三昧発得記 源空自筆記之
夢感聖相記
源空多年勤修念仏。未曽一日敢懈廃焉。
一夜夢。有一大山。南北悠遠峯頂至高。其山西麓有一大河。傍山出北流南。浜畔渺茫不知涯際。林樹繁茂莫知幾許。予乃飛揚登於山腹。遥視西嶺。空間有紫雲一片。去地可五丈。意之何処有往生人現此瑞相。須臾彼雲飛来頭上。
仰望孔雀鸚鵡等衆鳥出於雲中。遊戯河浜。此等衆鳥身無光明而照曜無極。翔飛復入雲中。予為希有思。少時很雲北去覆隠山河。復以為。山東有往生人迎之。既而須臾彼雲復至頭上。漸大遍覆於一天下。
有一高僧。出於雲中住立吾前。予即敬礼瞻仰尊容。腰上半身尋常僧相。腰下半身金色仏相。予合掌低頭問曰。師是何人。
答曰。我是唐善導也。
又問。時去代異。何以今来于此耶。
答曰。汝能弘演専修念仏之道。甚為希有。吾為来証之。
又問曰。専修念仏之人皆得往生耶。未答乃覚。覚已聖容尚如在也
建久九年五月二日記之 源空
浄土随聞記 第二
勢観上人著
一時師語余曰。吾年十五登天台山。至十七閲六十巻。
十八辞山隠居黒谷。此為偏棄名利専学仏法也。爾来四十余年習学天台宗 粗得其大意。
凡我為性也 雖数巻書読之至三則明通文義。然宗義深邃難容易得之。是以学久知其綱領而已。
又傍遍窺諸宗教相。顕密諸典及仏心宗無不渉猟。欲求証明咨叩各宗賢哲皆得許可。
当初醍醐有三論先達。往述自解。彼師黙然乃起入室。出文櫃十余合而言曰。於我法門付属無人。久来憂之。公已達之。由悉与焉。進士入道阿性共行在座云
師又曰。予曽往謁蔵俊僧都談法相宗法門。俊歎曰。公也非直也人。雖値西天論主亦不可過焉。智慧深遠非吾輩所及也。自今而後永献供物。自其毎歳厚贈恵賜。
凡遇諸宗高徳皆所称嘆。
又本朝渡到聖教及俗間史伝等無不歴眼。然思出離道身心不安。因閲恵心往生要集。彼序云。往生極楽之教行濁世末代之目足。道俗貴賤誰不帰者。但顕密教法其文非一。事理業因其行惟多。利智精進之人未難。如予頑魯之者豈敢矣。是故依念仏一門聊集経論要文。披之修之易覚易行 云云
凡序者略述一部大旨。今就序文料之。此集専依念仏其事顕然。已而入文尋義建立十門。於中厭離穢土・欣求浄土・極楽証拠三門非是念仏行体。故暫措之。其余五門正就念仏立之。第九諸行往生従行者楽欲而且明之。
是以更無慇懃勧進。其第十門助道人法亦非行体。
因今就念仏五門料簡其義。第四正修念仏此為念仏行体。即是所助。第五是助念仏方法。即是能助。故知専心之意念仏為本也。
其第六門別時念仏。此為於長時勤行不能勇進者勧之。与上念仏全非別体也。
其第七門念仏利益。此為於上所明念仏令生信楽。考利益文備之。其第八門念仏証拠。此為於上念仏令断疑念。引諸経論証之。然則此集本意唯在念仏亦顕然也。
但就正修念仏又有種種念仏。為初心観行不堪深奥者教色想観。於中又有別相・総相・雑略・極略観。又有称名観。然慇懃勧進唯在称名也。
又雖以五念門名正修念仏。作願迴向非是行体。礼拝讃嘆不如観察。於観察中独於称名丁寧勧之。其為本意亦顕然也。但於百即百生義趣。譲道綽善導釈不委述之。要集之旨蓋如此也。
予故往生要集以為先導入浄土門。而窺此宗奥旨。取善導和尚釈再読以為。往生不容易矣。三読乃知。乱想凡夫依称名行決定可得往生也。但於白身出離己得決定。
又欲普為衆生弘通斯道。然時機難計。心懐猶予。一夜夢紫雲大起遍覆四海。雲中出無量光。光中百宝衆鳥翩翻飛散。時予陟高山忽値一高僧。腰下金色宛如仏身。腰上緇衣如尋常僧。高僧云。吾是唐善導。汝能弘通専修念仏。故来為証之。爾来弘法無塞。遍至四遠
又一時師語曰。昔時天台座主顕真以使告曰。久隔面晤。顧得相見以尽道情。他日登山必過我居。後一日過坂本。因告彼禅房。座主下山来訪。
乃問曰。方以何法今生解脱生死。
予答曰。不如賢慮思択。
座主復曰。公是法門達人。必有所決。願為開示。
予曰。於為自身不無所択。唯欲疾得往生極楽耳。
座主曰。順次往生未見其理。故致此問。乱想凡夫如何可得往生耶。
予曰。成仏難求往生易得。窃依道綽・善導等意。仏本願力以為強縁。故雖凡夫亦得往生報土也。
座主黙去。其後座主語人曰。然公雖智慧深遠聊有偏執失。彼人来語。
予曰。凡人自不知事必起疑念。世間皆爾。何止真公乎。
座主聞之言曰。実然。我雖於顕密教鑚仰累年。尚為名利志不在於浄土。未窺道綽・善導釈義。自非然師誰能出此言也。
深懐慚愧。因遂蟄居大原。百日閉戸。博閲浄土章疏。
而後致書曰。我已粗窺浄土法門。伏乞労屈芳駕相与咨決。
予許諾焉。東大寺上人俊乗亦未思決出離道。聞事大喜。乃将弟子三十余輩而来大原。其外諸宗碩学雲如ニ 集星 如ニ 列。時予広述浄土法門。
問難蜂如ニ起奇弁争馳。
予随所問難一一破立。衆皆感歎伏於予義。
於是座主発一大願曰。彼地建立五箇別院。令衆永常修一向専念行。称名之外更不交余行也。其行至今無有退転。
後勧妹尼公製念仏勧進書一巻。世称顕真消息者是也。
大仏上人亦発一願曰。我国道俗詣閻王宮。見問名字之時即唱仏号。我先自字曰南無阿弥陀仏。是乃吾朝以阿弥陀仏為字之権輿也
又一時師語曰。当世之人不知法門分際。汎爾以謂。今時解脱生死甚難矣。我師肥後闍梨光円才智過人道意幽深。自顧自身分際以為。今生不能解脱生死。若歴多生恐隔生即忘永廃仏法矣。不如受長命報待慈尊出世也。
凡報命長者無過竜身。寧我求彼畜報。但海底有金翅鳥之難。遠州笠原桜池深淵清潔幽林縁隈。此処甚好。可以寓躬焉。便請領家得其許疏。終焉之時乞水入掌結印而死。一日彼池無風波瀾忽起涾涾鼓撃水面無一点塵。郷里怪異。考其時日乃闍梨逝去之時也。闍利有智慧故知出離難。有道心故願値仏世。
惜哉不知浄土法門徒入異趣。当時我早得此法門。不論信不為指授之。実堪遺憾也。嗚乎当世之人有道心者徒期遠生之縁。無道心者虚堕名利之阬。豈不哀乎。凡謂以自力出生死者。不知時機分際故也
師曽有患瘧。医療無効。月輪禅閤酷憂之。
因命画工図善導大師肖像。於師之菴室供養。乃以告之安居院僧都聖覚。覚報曰。聖覚亦受瘧疾。殆不任起坐。然師恩難報。貴命是重。何不走于命乎。翌旦乃来執行仏事。以求法救。且陞座説法。
其大旨云。大師釈尊随類応同之日。尚示頭病背痛之迹。況凡夫血肉身奚無疾病。懼昏愚之徒不知此理。謾懐疑念於師。以為仏法無験。不足以依頼焉。嗚乎上人化導已称仏意得往生者不可勝計。然則諸仏菩薩諸天竜神云何不歎衆生疑謗。四天大王実守仏法。亟愈我師病悩也。
啓白之間導師影前異香芬馥。於是師及聖覚瘧疾如洗而不復発。
僧都自歎曰。我故法印請雨揚名都鄙。聖覚亦有此事。豈非奇特乎。世人驚歎服其至誠云」
又一時師語曰。
- また一時、師(法然聖人)語りていわく。
我立浄土宗之元意。為顕示凡夫往生報土也。
- 我、浄土宗を立てる元意は、凡夫、報土に往生することを顯示せんが為なり。
且如天台宗 雖許凡夫往生。其判浄土卑浅。
- しばらく天台宗のごときは、凡夫往生を許すといえども、その判ずる浄土は卑淺なり。
如法相宗其判浄土雖亦高深。不許凡夫往生。
- 法相宗のごときは、その浄土を判ずることまた高深なりといえども、凡夫往生を許さず。
凡諸宗所談其趣雖異 総而論之 不許凡夫往生報土。
- おおよそ諸宗の所談その趣、異なるといえども、すべてこれを論ずるに凡夫報土に往生することを許さず。
是故我依善導釈義 建立宗門。以明凡夫生報土之義也。
- このゆえに、我、善導の釋義に依って宗門を建立し、以って凡夫報土に生まるの義を明かすなり。
然人多誹謗云。勧進念仏往生何必別開宗門。豈非為勝他耶。
- 然るに人多く誹謗して云く、念仏往生を勧進するに、何ぞ必ず別して宗門を開かん、豈、勝他の為にあらずやと。
如此之人未知旨也。
- 此の如きの人は未だ旨を知らざる也。
若不別開宗門何顕凡夫生報士之義乎。
- 若し別に宗門を開かずんば、何ぞ凡夫報土に生まる之義を顕さんや。
且夫人問所言念仏往生是依何教何師者。既非天台・法相。又非三論・華厳。不知以何答之。
- 且つそれ人、言わゆる念仏往生は是れ何れの教何れの師に依るやと問はば、既に天台・法相にあらず、又三論・華厳にあらず、知らず何を以てか之を答えん。
是故依道綽・善導意立浄土宗。全非為勝他也。
- 是れ故に道綽・善導の意に依って浄土宗を立つ、全く勝他の為には非ずと也。
又一時師語曰。我立一向専念之義。人多難之曰。諸行往生倶是仏説。亦可勧進。何為揚一抑余。且設勧余行亦何妨礙念仏往生。然而強立一向専念之義。此有偏執失矣。
- また一時、師、語りていわく。我れ一向専念の義を立つるに、人、多くこれを難じていわく。諸行往生ともにこれ仏説なり。また勧進すべし。何の為に一を揚げて余を抑ふ。かつ設ひ余行を勧むも、また何ぞ念仏往生を妨礙せん。しかるに強ちに一向専念の義を立つるは、これ偏執の失なり。
如此難者不知宗之元意故也。経云。一向専念無量寿仏。釈云。一向尊称弥陀仏名。若離経釈而立私義則実可責也。経釈已有一向之言。而強致難破是謗仏祖。非関吾也。
- このごときの難者、宗の元意を知らざるがゆえ也。経に云く、一向専念無量寿仏。釈に云く、一向尊称弥陀仏名。もし経釈を離れて私義を立つるは則ち実に責むべき也。経釈、已に一向の言有り。しこうして強ちに難破を致すは、これ仏祖を謗るなり。吾の関するに非ず也。
又師曽連坐弟子 安楽・住蓮事 窺于讃州。厳譴之日尚対徒弟演一向専念義。
- また師、曽つて弟子、安楽・住蓮が事に連坐して、讃州に窺らる厳譴の日、なお徒弟に対し一向専念の義を演ぶ。
有西阿弥陀仏ト云者。作色言曰。師勿復言此事。諸弟亦莫復問此事。遠境艱厄本由此事之興起也。
- 西阿弥陀仏と云者あり。色をなして言いて曰く。師復た此の事を言ふことなかれ、諸弟も復た此の事問ふことなかれ。遠境の艱厄、もと此事の興起に由る也。
師曰。汝不見経釈之文乎。
- 師曰く、汝、経釈の文を見ざるや。
西阿曰。経釈之文雖是著明如世之機嫌何。
- 西阿曰く、経釈の文は是れ著明なりといえども世の機嫌をいかん。
師曰。為法軽命。吾死不悔。不可不敢言也。至誠之色発于辞気。見人涕泣感伏
- 師曰く、法の為に命を軽んず、吾、死すことも悔いず。敢えて言わざるんばあるべからず也。至誠の色、辞気に発(あら)はる。見ん人、涕泣感伏す。
或時有鎮西僧。行脚之次訪吉水廬。師適念仏在道場。侍者迎而相対。
行者問曰。称名之時繋心於仏相好可乎。
侍者答曰。此実可也。
師排道場戸言曰。源空不然。唯思 若我成仏十方衆生称我名号下至十声 若不生者不取正覚 彼仏今現在世成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生之文而已。
顧以我分際縦観仏相好。実非是如説観。不加深憑本願口称名号之為勝也。是則真実之行
或人問曰。導師釈本願文略安心者有何意乎。
師答曰。唯知衆生称念必得往生。則自然具足三心。為顕此理略而不釈也
或人問曰。日課称名六万十万而不如法ナルト。与二万三万而如法孰為善耶。
師答曰。乱想凡夫設是少数如法勤修事実難矣。不如課数之多也。科数之要畢竟在令心相続耳。只使念仏口頭不絶則足矣。何必択如法不如法乎
一時予問曰。若以智慧為往生要。吾随師励学業。若但称名其事為足更無他求。乞師示之。吾守之如金口説矣。
師答曰。往生正業称名為要釈文分明。不簡有智無智亦復顕然。何必用学業為。不如一向念仏疾得往生浄土。値遇聖衆聴受法門也。
又彼国荘厳昼夜説甚深法。自然開発勝解証無生忍。但若未知念仏往生之義学而知之。粗知則足矣。設得広学凡智無幾。莫徒好智解廃称名之光陰也
又一時師語曰。弘通浄土之師世世多之。皆勧菩提心。且以観察為正。唯善導一師許不発菩提心亦得往生。
又判観察以為称名助業。当世之人若不依善導意則恐難得往生也。曇鸞・道綽・懐感等雖皆為相承人師。而至其義則未必一準。当能弁別之。若不弁此旨於往生難易冥然有惑也
又一時予問曰。人多勧持斎。此義如何。
師答曰。凡出家人作法皆当如是。然至末代色力已衰。飡食亦減。以此弱報一食長斎恐心馳食境念仏不精矣。菩提心経云。食不妨菩提。心能妨菩提。各忖己分。行之可也
又一時予問曰。於往生行業已得決定焉。但一期行履云何当保護耶。
師答曰。凡僧尼之法有大小戒律。然末法人根実難堪矣。源空禁之誰人随之。只須要念仏相続。往生行業念仏為正。応守此旨而已
又一時師語曰。受教与発心此不必同時。以発心有触縁而発起也。
往歳有一住山僧。逢予問曰。我已久学浄土法門粗得大旨。而未得発信心。以何方便成立信心。
予諭曰。宜乞冥助於三宝焉。彼僧自其慇懃祈請久之。一日詣東大寺。会遇大殿上棟之日。見之須臾信心忽発。以謂。自非良工嘉謀巨材由何飛騰梁上。凡工尚爾。矧又如来善巧不思議力。我有願生志。仏有引接誓。往生浄土決定不違矣。一得此理無復疑念。彼僧復来語余其事。後経三年遂得往生。霊瑞尤多云。触縁起信如此。須常係念乞冥助於三宝耳
或人問曰。真言所修阿弥陀供養法此亦可為往生正行耶。
師答曰。不然。仏体雖一随教其意不同。其言教阿弥陀是己心如来不可外覓者。浄教所謂阿弥陀仏乃是法蔵比丘発願成就仏能在西方者。其意大異。不可以一混焉。況彼成仏之法。此往生之教。不可一同也
或人問曰。善導和尚意以聖道教為方便教。出在何文。
師答曰。法事讃云。如来出現於五濁 随宜方便化群萌 或説多聞而得度 或説小解詮三明 或教福恵双除障 或教禅念坐思量種種法門皆解脱 無過念仏往西方 已上
是也。
難曰。已言種種法門皆解脱。何以此文為方便証拠乎。
答曰。上云随宜方便化群萌。
次云種種法門皆解脱。至下云無過念仏往西方。明知念仏往生之外皆為方便説也
又一時師語曰。法門優劣由宗義転。学者雖多分別之者甚希。我朝真言乃有二流。所謂東寺真言・天台真言是也。就中天台所伝真言 其義不如東寺所伝真言。
所以者何。天台一山之内兼学顕密二教。而以法花為宗本意。而言天台奥旨者即真言也。是乃不出顕宗域内之真言也。東寺所伝真言乃言非顕宗之可比等焉。是則顕宗域外之真言也。
又我窺諸宗教相。真言・仏心両宗収取諸宗以為白宗教相。而廃諸教以立自宗。自余諸宗不取真言・仏心以為自宗教相。又不廃彼両宗。故知於宗義則無与此両宗等者也
又師在世時 三井僧正公胤作浄土決疑鈔三巻 破選択集。
其書云。法華有即往安楽之文。観経有読誦大乗之句。読誦法華往生浄土。是有何妨。然廃読誦大乗 唯立念仏一行。此大錯也。
胤公使弟子学仏齎之往而示於師。
師披之未終巻。而言曰。此書不足遍覧。曽聞胤公有優才也。不意出於如此浅語。胤公聞吾立浄土宗。必知判教権実。己知判教権実。復必知存廃権立実之義。
然今何為難我廃立之義。又以円頓一実法華 反摂爾前観経読誦大乗句中。以為所難準的。此亦似忘自宗廃立之旨。胤公若有深智乃責余言。観経爾前之教。何以円極法華摂在爾前観経読誦大乗句中而廃之乎。
然吾立浄土宗。通以観経前後諸大乗経悉摂往生行中。而対念仏廃之。何独遺法華乎。
学仏還報。胤公無語即焼其書。師之滅後七七日間門人聚会為修追福。
胤公自請一日勤其導師。説法之因語聴徒曰。
吾今来臨上人追修之席者偏為懺悔前非。具述上事。四座感其悃篤。
胤公自其而後深帰浄土。終焉吉祥数有佳瑞云
又一時師語曰。一日予遊月輪禅閤之館。適山僧某来会。
僧問予曰。聞公立浄土宗。爾乎。
予答曰。然也。
又問。依何経論立之耶。
答曰。依善導観経疏中付属釈文立之。
僧曰。其立宗義何唯依一文耶。
予微笑不答。
彼僧還山語宝地真公曰。空公得吾問不能答。
真公曰。空公不答者非不能矣。以不足答故也。空公於我台宗已為達人。且広渉亘諸宗神智高邁。子也自料所問浅薄勿敢軽篾空公矣。真公能知予者。円戒法門乃予之弟子也
私云。以此乃知。依付属文而立宗義也
又一時師語曰。聖道門者喩之如祖父履。祖父大足。児孫小足。其履不可用也。今人欲追昔賢之跡修聖道門亦復如是。此道綽禅師之意也 或文如祖父弓
或人問曰。常住廃悪修善之念念仏スルト。与常思本願之旨念仏。孰為勝耶。
師答曰。廃悪修善 雖是諸仏通誡。末世我等常多違背。若自不乗別意弘願恐難出生死者歟
又一時師召予言曰。汝見選択集否。予対曰。未見。
師曰。此我所述。汝当見之。我生存間不欲流布。故未許他焉。師曽罹于微恙。
方其復時。月輪禅閤請曰。願師撰集浄土要義為吾垂訓。拳拳服膺以備明鑑焉。於是師乃著選択集贈之。然此集中乃約浄土門中諸行而念仏与諸行所比論也。
是即浄土宗観無量寿経之意而已。
是故師述其意曰。此観無量寿経 若依天台宗意則爾前教也。故成法華方便。若依法相宗意則為別時意。然依浄土宗意則一切教行悉為念仏方便。故言浄土宗 観無量寿経也。
師又曰。凡於聖道門皆修三乗四乗因而得三乗四乗果。故諸行与念仏不比挍也。
於浄土門諸行・念仏倶是往生之因。故諸行与念仏所比挍也。然而諸行則非弥陀本願。是故弥陀光明不摂取之。釈尊亦不付属。故導師曰。自余衆行雖名是善 若比念仏者全非比挍也。
又道綽・善導宗義不異。当弁知之。又聖道浄土二門雖異行体是一也。義意可知
臨終祥瑞記
建暦元年十一月十七日。有帰洛之勅許。中納言藤光親奉綸命到勝尾。
因同月二十日師還洛東大谷。緇白奔走如逢父母。悲喜交流。
同二年正月二日少覚四大不愈。従来所患不接之気転増。自爾唯語往生一事不復余言。高声念仏宛如平生。雖睡眠間唇舌尚動。又比年老病相侵耳目稍衰。大限已近反復聡明。不亦奇乎。
同三日語諸弟曰。我前身在天竺交声聞僧常行頭陀。今来本邦学天台宗。竟開浄土門専弘念仏矣。
諸弟問曰。師今往生極楽世界乎。
答曰。極楽吾本邦也。盍帰去乎。
同十一日辰刻起坐合掌高声念仏殆過于平時。聞人皆零涙。
乃告諸弟曰。汝等高声念仏。今阿弥陀仏来。因為讃歎念仏功徳。少時又曰。観音勢至及海会聖衆来。汝等見不。
諸弟対曰。不見。
曰汝等至心念仏。必得見之。
又諸弟乞安仏像于前。手繋五色線以為臨終引接之助標。師笑而指空曰。此外又有仏乎。吾十余年来念仏功積。三昧成就頻見彼土仏菩薩及諸荘厳。於予何用仮助標乎。
同二十日当坊上紫雲起。雲中更有彩雲。色甚鮮明。状如画仏。諸人見之随喜感歎。弟子白曰。已有紫雲之瑞。師往生其近乎。
師曰。善哉令見聞之人増長信根者。
同日未刻師仰首見空。自西至東者五六度。
諸弟問曰。師見仏乎。曰仏菩薩来迦接於吾也。
同二十三日洛下伝言。東山有紫雲瑞。
同二十四日午刻紫雲大起覆于西山。樵夫十余人皆見之。又有尼某者。詣広隆寺。路見紫雲以相伝諸人。師自覚期迫愈力念仏。
自二十三日至二十五日高声念仏。或一時或半時歇又勤無断時。其勇進也過于平生。弟子数輩更相助音。結縁道俗満庭聴之。
二十五日午刻被著慈覚大師伝来僧伽梨衣。頭北面西。誦光明遍照四句之文。已如入禅定而化。世寿八十年。為僧六十六夏。実建暦二年壬申正月二十五日也。都下道俗競来哭泣連日如市。
僧某者嘗夢。有人持簿来示。僧曰。是何。曰記日本国中諸人往生之疏。因披見之。至巻尾記曰。法然上人臨終誦光明遍照四句之文而往生也。彼僧覚怪之。黙而不語。師入滅之後記贈門人。
其外霊感不一。今略記其大概而已如来滅後一百年時有阿育王。不信仏法。而其国人民皆帰仏法。王云。仏有何功徳得超衆人。若有値仏者我当往而尋之。時大臣奏云。波斯匿王妹尼乃値仏人也。
王即往而問曰。仏有何殊異。尼曰。仏功徳無量難測。昼夜一劫何能説尽。乃為説其一相。王聞悔喜交生。心開意解。今也師之滅後才経三十年。親値師之人世間尤多之。後来遥隔歳月。懼其嘉言善行空従晦冥焉。因今聊記見聞貽於遐代者也
私云。此記雖非上人之語。而附之随聞之後。庶幾後人視上人臨終之祥瑞発起信心。也見者得意
答博陸問書 第三
沙門源空欽言。尊公閣下生知之質。覚悟世間電光。志来楽土不退。
- 沙門源空、欽(つつし)んで言く、尊公閣下は生知の質[1]なり。世間の電光を覚悟して、楽土の不退を志来す。
述下賢旨咨叩心要。倏忽奉承高命驚悚。誠難譬喩。厳威是迫。欲辞不能。
- 賢旨を述下して心要を咨叩す。倏、忽(たちまち)に高命を奉承し驚悚す。誠に譬喩すること難し。厳威是れ迫る。辞せんと欲せども能わず。
貴問曰。一発信心更無疑慮者。少修一念十念以備往生資糧。自其而後不復称念。而自以為。決可往生矣。如此之人亦可順次往生也否。又信心決定之後設犯四重五逆等重罪。而不可為往生障耶。
- 貴問に曰く。一たび信心を発して更に疑慮無き者、少(わず)かに一念十念を修して以つて往生の資糧に備へ、其より後、復た称念せざれば、自ら以つて決を為して往生すべしや。此の如きの人、また順次に往生すべきなりや否や。又信心決定の後は設ひ四重・五逆等の重罪を犯すも、往生の障りと為すべからざるや。
対曰。観経所説十念往生是臨終事非平生時。臨終平生豈可混同。平生行人縦起決定信心成就一念十念。其人自其而後不復称念。則順次往生恐難剋果。後念罪悪障往生故。又縦犯小罪。若不懺悔則尚成往生之障。況犯四重五逆重罪而不用懺悔者。豈可得往生乎。是反不免悪趣者也。
- 対して曰く、『観経』所説の十念往生は是れ臨終の事にして平生の時に非ず。臨終と平生豈に混同すべけんや。平生の行人、縦(たと)ひ決定の信心を起こし一念十念を成就するも、其の人其れより後、復た称念せざれば、則ち順次の往生は恐く剋果し難し、後念の罪悪、往生を障ふ故に。又縦(たと)ひ小罪を犯して、若し懺悔せざれば則ち尚お往生の障と成る。況んや四重・五逆重罪を犯し而も懺悔を用いざる者の豈に往生を得べけんや。是れ反りて悪趣を免れざる者なり。
或曰。縦起深信常専称念。若犯重罪即当能懺悔念仏。若其不然則難得順次往生也。
- 或が曰く。縦ひ深信を起こして常に専ら称念するも、若し重罪を犯さば即ち当に能く懺悔念仏すべし。若し其れ然ずば則ち順次の往生を得ること難きなり。
此義尤善矣。夫乃至一念無有疑心上尽一形下至十声一声等之文。此即決定往生之依憑也。
- 此の義尤も善し。夫れ「乃至一念無有疑心」「上尽一形下至十声一声」等の文。此れ即ち決定往生の依憑なり。
然一称念後不復用念。且信心決定之後犯罪亦不妨往生也。如此信者雖是似深信反成就邪見者。近来自住此邪見者世間甚多。誠可悲也。
- 然るに一称念の後に復た念を用いざれば、且つ信心決定の後に罪を犯さるも亦た往生の妨げずとなるなり。此の如く信ずる者は是れ深信に似たりと雖も反りて邪見を成就する者なり。近来、自ずら此の邪見に住する者、世間に甚だ多し。誠に悲しきことなり。
又貴問曰。一生不退称念仏者誤犯重罪。未及懺悔念仏而命終者。以前念仏功可得往生耶。将以後犯罪咎不得往生耶。
- 又貴問に曰く、一生不退に称念仏する者誤りて重罪を犯す。未だ懺悔念仏の及ばずして命終する者、前の念仏の功を以つて往生を得べきや。将(は)た後の犯罪の咎を以つて往生を得ざるや。
対曰。誤犯罪咎。其過実軽。然於往生猶為不定。何者已造之罪不修懺悔罪体勢用能障善故。上来所述卑懐如是。余虔附于貴使耳。且徴弟子善恵今明之間拝侍閣下。誠惶謹言
- 対して曰く、誤りて罪咎を犯さん、其の過実に軽し。然れども往生に於いて猶お不定と為す。何となれば已造の罪、懺悔を修せざれば罪体の勢用能く善を障ふが故に。上来述する所の卑懐是の如し。余は虔(つつし)んて貴使に附するのみ。且く弟子善恵に徴(あらわ)して今明の間、閣下に拝侍せしむ。誠惶謹言。
二月二十一日 源空
- 拾遺黒谷語灯録巻上
漢語語灯録十巻十七章并拾遺語灯録上巻三章。
都是二十章。此予二十年来遍索此於華夷。慎検真偽而所撰集也。此外世間所流本願奥義一巻・往生機品一巻。称黒谷作者即偽善也。又有三部経総章列四十八願名目。第十八顧名十念往生願者一巻。及問決一巻金剛宝戒章三巻。并亦偽書也。上人与鎮西書曰。金剛宝戒章是偽書也。予不製如是書。釈迦・弥陀以為証明 云云
況又拠理而論。宝戒所述乃是聖道法門。而非上人之所作者著明矣。今則管見所及取捨如斯。若有升差後賢糾之。又有孑遺来哲続之。又拾遺語灯本有三巻。但中下両巻和語。而与和字語灯録第六第七巻其事全同。故今略不載之。若欲三巻全備以彼六七両巻続次于玆焉
建武四年七月得了慧上人所集語灯録草本十八巻。従其初冬至臘月二十五日。
与同門老宿四五輩治定之畢。更写一本蔵武州金沢称名寺文庫者也
下総州鏑木光明寺 良求刻語灯録跋
知門大王康存之日。予甞自携此録。呈之左右曰。是僕曽拠善本所挍正也。
伏請一歴高眸幸甚一大王欣然言曰。有是哉。已聞之。是実高掲宗灯。語灯之名宜也。宜繍梓附蔵以公于世也。子其知之。予謹奉命去。因乃使剞劂氏掌印行之事。刻成蔵之宝庫。鳴乎鶴駕既往。鳳吹今何在也。空掩老涙遂倣懸剣之志云
正徳元辛卯年臘月十八日
沙門義山書于華頂茅舎
正徳五{乙未}稔正月吉日
- ↑ 生知の質。◇『中庸』二十章にある「或生而知之、或学而知之、或困而知之(或いは生まれながらにこれを知り、或いは学んでこれを知り、或いは困しんでこれを知る)」からの成語。兼実は生まれながらにして仏教への関心があったという意。ちなみに聖徳太子も生知之質といわれていた。