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「新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)」の版間の差分

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それでも尚誤解が生まれる可能性があるため、更なる補足として「勧学・司教有志の会」の声明も合わせてどうぞ。また、トップ画像は、満井勧学が学習会等で解説されている注意事項を要約したものです。ガイドラインとしてご利用ください。
 
それでも尚誤解が生まれる可能性があるため、更なる補足として「勧学・司教有志の会」の声明も合わせてどうぞ。また、トップ画像は、満井勧学が学習会等で解説されている注意事項を要約したものです。ガイドラインとしてご利用ください。
 
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===新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)===
 
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南無阿弥陀仏<br />
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「われにまかせよ そのまま救う」の弥陀のよび声<br />
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私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ<br />
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「そのまま救う」が 弥陀のよび声<br />
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ありがとう といただいて<br />
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この愚身(み)をまかす このままで<br />
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救い取られる 自然(じねん)の浄土<br />
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仏恩報謝(ぶっとんほうしゃ)の お念仏<br />
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これもひとえに<br />
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宗祖親鸞聖人と<br />
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法灯を伝承された 歴代宗主の<br />
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尊いお導きに よるものです<br />
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み教えを依りどころに生きる者となり<br />
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少しずつ 執われの心を 離れます<br />
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生かされていることに 感謝して<br />
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むさぼり いかりに 流されず<br />
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穏やかな顔と 優しい言葉<br />
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喜びも 悲しみも 分ち合い<br />
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日々に 精一杯 つとめます<br />
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===勧学寮 解説===
 
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第一段 お念仏のこころに<br />
 
第一段 お念仏のこころに<br />
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1 龍谷門主釋専如 「親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年についての消息」、 2019年1月9日、 『本<br />
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1 龍谷門主釋専如 「親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年についての消息」、 2019年1月9日、 『本願寺新報』号外。<br />
願寺新報』号外。<br />
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2 論文原文は漢文であるが、便宜上 『浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)』 の書き下し文に変更した。 『浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)』(本願寺出版社、2022年)、 『往生論註』 巻下、143頁。<br />
2 論文原文は漢文であるが、便宜上 『浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)』 の書き下し文に変更した。 『浄<br />
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土真宗聖典七祖篇(註釈版)』(本願寺出版社、2022年)、 『往生論註』 巻下、143頁。<br />
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3 村上速水 「親鸞教義の研究』 永田文昌堂、 1984年、 175~176頁。<br />
 
3 村上速水 「親鸞教義の研究』 永田文昌堂、 1984年、 175~176頁。<br />
 
4 『浄土真宗聖典 (註釈版第二版)」 「御文章」 五帖 (五)、 本願寺出版社、2019年、 1192頁。<br />
 
4 『浄土真宗聖典 (註釈版第二版)」 「御文章」 五帖 (五)、 本願寺出版社、2019年、 1192頁。<br />

2024年2月1日 (木) 12:36時点における最新版

「隠/顕」

「新しい領解文」はそれだけを読むと誤解が生まれる恐れがあるため、勧学寮の解説とセットで読むことが推奨されています。その勧学寮の解説にも様々な疑義が生じているため、このたび、宗派の学習会で講義を担当している満井秀城勧学より『なぜ「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」なのか』が発表されました。今後は、勧学寮の解説に加えて、こちらも読むことが推奨されます。

この3点を合わせると、15,000字弱になります。仏説無量寿経が17,361文字ですので、それに匹敵する文量となりました。浄土真宗にご縁のない若者にわかりやすく伝えることを目的にした「新しい領解文」なのに、なぜこんなに難しくて膨大な情報量のものになってしまったのか?という疑問はさておき、今後、新しい領解文を拝読される機会がありましたら、誤解のないよう、勧学寮の解説、ならびに、『なぜ「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」なのか』を合わせてご唱和ください。

それでも尚誤解が生まれる可能性があるため、更なる補足として「勧学・司教有志の会」の声明も合わせてどうぞ。また、トップ画像は、満井勧学が学習会等で解説されている注意事項を要約したものです。ガイドラインとしてご利用ください。

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新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)

南無阿弥陀仏
「われにまかせよ そのまま救う」の弥陀のよび声
私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ
「そのまま救う」が 弥陀のよび声
ありがとう といただいて
この愚身(み)をまかす このままで
救い取られる 自然(じねん)の浄土
仏恩報謝(ぶっとんほうしゃ)の お念仏
これもひとえに
宗祖親鸞聖人と
法灯を伝承された 歴代宗主の
尊いお導きに よるものです
み教えを依りどころに生きる者となり
少しずつ 執われの心を 離れます
生かされていることに 感謝して
むさぼり いかりに 流されず
穏やかな顔と 優しい言葉
喜びも 悲しみも 分ち合い
日々に 精一杯 つとめます

勧学寮 解説

第一段 お念仏のこころに
南無阿弥陀仏
 はじめに、六字の名号が掲げられます。この名号は単に名前ではありません。阿弥陀如来の顕現したおすがたを示すものです。
 親鸞聖人が名号といわれるとき、多くの場合、上に本願の語が冠せられます。「本願名号正定業」などです。他に「誓願の名号」とか「誓いの名号」などの例もみられます。これらは、名号が本願であり誓願されたそのこころを表しているという意味です。本願とは、阿弥陀如来が因位の法蔵菩薩であったとき、一切の苦しみ悩む衆生を一人のこさず救いとろうと誓われたものです。この願いが成就して阿弥陀仏となられ、そして名号となって私をよんでくださっているのです。ですから続いて
「われにまかせよ そのまま救う」の弥陀のよび声
とあります。「そのまま救う」が阿弥陀如来の願いですので、短い消息文の中に二度にわたって述べられます。親鸞聖人はこの六字の名号を
しかれば、「南無」の言は帰命なり(中略)ここをもって「帰命」は本願招喚の勅命なり。「発願回向」といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり(註p.170)
として、阿弥陀仏が名号となって煩悩に覆われる私の上に届き「まかせよ、わが名を称えよ」とよびかけてくださるすがたと味わわれたのです。また、この名号はよび声ではありますが、阿弥陀仏の功徳のすべてを与えたいという慈悲のすがたでもあるのです。しかも、信ずることも、念仏することも如来よりいただくものと味わわれます。
私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ
「そのまま救う」が 弥陀のよび声
 ここで問題は、「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ」の受け止め方です。私たち凡夫の立場からすれば、異様な内容と映ります。しかし、阿弥陀如来の立場からするならば違って受け止めることができるのです。仏教では、迷いの世界とさとりの世界の両方を説きます。いま、私の煩悩と仏のさとりは本来一つ、と言われるのは、さとりの世界の風光を示すものです。
 阿弥陀如来には絶対的な真実無相の立場と、人間を救う仏として具体的なかたちをあらわす二面性があります。それが智慧と慈悲の阿弥陀仏と言われる所以です。智慧とはさとりを指しますので、その智慧の眼で眺めた時には「煩悩と菩提は一つ」と見ることができます。このさとりの智慧から衆生救済の慈悲が導き出されるのですから「ゆえ」が付加されているのでしょう。
 要するに阿弥陀如来のさとりの智慧から「この私をよんでくださる慈悲」が出されたという意味です。この弥陀のよび声に私が呼応して「ありがとうございます」といただくのです。「そのまま救う」とよびかけてくださるのですから、素直に「この身このまま、おまかせします」と、ただただおまかせするのみを「いただく」と言っているのです。ですから
ありがとう といただいて
と続きます。
 阿弥陀如来の必ず救うという慈悲のこころをそのまま受け入れて、この身をおまかせする。ここを「信心をいただく」と表現し、ここに他力の救いが成立します。本願を憶念して、自力のこころを離れていく、それ以外に煩悩具足の私が迷いの世界から抜け出る道はありません。
この愚身をまかす このままで
救い取られる自然の浄土
 すでに述べたように、救われるということは、如来のよび声を聞き、おまかせするということです。ですから、如来の側からすれば「そのままの救い」であり、私の側から言えば「このまま救われる」ということになります。
 ここを「愚身をまかす」とあえて「愚身」と書いて「み」と読むように指示されています。私という愚かな身ながら[このまま救われる]ことを表そうとされているのです。そうすれば、私の命が終かったその時にお浄土に往生させていただき、この私を仏にしてくださいます。
 その往生させていただく世界が「救い取られる 自然の浄土」、いわゆる極楽浄土です。浄土が自然の語によってさとりの世界であることを表そうとしています。「自然虚無之身無極之体」という経典のことばにも、自然がさとりを意味していることが窺えます。
仏恩報謝の お念仏
 阿弥陀如来の私をよんでくださるよび声が届いた瞬間からお浄土に寄せていただくまでのこの世での生活、それが「ありがとうございます」という感謝の念仏生活以外にはありません。「仏恩報謝のお念仏」と表現される所以です。南無阿弥陀仏と私の口からお念仏が出ます。決して救いの因として役立たせるためではありません。阿弥陀如来のご恩をよろこぶ気持ちがあふれ出たものです。仏になるべき身に育てあげていただいたご恩に対する報恩の念仏です。
第二段 師の徳を讃える
これもひとえに
宗祖親鸞聖人と
法灯を伝承された 歴代宗主の
尊いお導きに よるものです
 ところで、愚身の私が往生させていただく手段は、すべて阿弥陀さまの方で完成されていますので、これを「他力」といいます。この「他力の法門」を数あるお釈迦さまの教えの中から見出してくださり、この私に至るまでお伝えくださったのは「ひとえに宗祖親鸞聖人と 法灯を伝承された 歴代宗主の 尊いお導きに よるもの」と言えましょう。親鸞聖人ましまさずば、と思うとき本当にお念仏に遇いえた喜びが湧きあがってきます。そして法灯を伝承された歴代宗主のお導きに感謝しなければなりません。
第三段 念仏者の生活
み教えを依りどころに生きる者 となり
少しずつ 執われの心を 離れます
 「そのままの救い」とか「摂取不捨の救い」とはいっても、どんな悪事をしてもいいということではありません。「薬あればとて、毒をこのむべからず」という誡めもあります。ですから、他力の教えをいただき感謝の念仏を称える人たちの生き方はどのようなものといえるでしょうか、それを考えねばなりません。消息文では「み教えを依りどころに生きる者」と示されています。
 今生が終わった後の行き先が定まれば、その後の生活は当然ながら異なってくるものです。努力しなくとも「少しずつ 執われの心」が離れていきましょう。「執われ」とは「この世の財産や地位、名誉等々」に執われることで、当然ながら、そこには「生きる」ことも含まれます。要するに、死んだ後まで相続できないものへの執着です。
 私たちは、この執着心からなかなか離れることができないものです。しかし、それが阿弥陀如来のみ光に照らされて、死後に至るまで相続できないものとわかれば、少しずつ心に変化が生じてくるものです。そこを聖人は
仏のちかひをききはじめしより、無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ、三毒をもすこしづつ好まずして、阿弥陀仏の薬をつねに好みめす身となりておはしましあうて候ふぞかし(註p.739)
と示してくださいます。
 ここの「誓いを聞き始めしより」の文が大切です。煩悩成就の凡夫ですが、如来の誓願を知ったならばという意味でしょう。そうすれば、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころが少しずつ遠のいていくものだと示してくださっているのです。
生かされていることに 感謝して
むさぼり いかりに 流されず
 執われの心が薄れてくれば「生かされていることに 感謝」ができます。私たちは多くのご縁によって生かされています。常に自分を中心において、さまざまなご縁を眺めていますが、ご縁が先にあっての私だということがわかります。生かされて生きているのです。そのように思うとき、煩悩的欲求に無批判に従うことはできません。
 また、貪・瞋・痴の三毒の煩悩は死ぬまで無くなりませんが、親鸞聖人がお示しくださったように「無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ」てくるに違いありません。これらを「むさぼり いかりに 流されず」と言い表しているのです。くれぐれもそのように努力しなければならないという意味ではありません。自ずからそのような念仏生活ができるという意味ですのでご注意ください。
穏やかな顔と 優しい言葉
喜びも悲しみも分かち合い
 「和顔愛語」は法蔵菩薩修行の徳目の一つです。阿弥陀如来はいつも私たちによりそい、私の喜び悲しみを共にしてくださる仏さまです。
 善導大師は、阿弥陀仏と念仏の衆生との関係を親縁で示してくださいます。親しい間柄という意味です。阿弥陀さまと私が親しい間柄ということをこころに思い浮かべるとき、自然にこころ穏やかになり、顔や言葉にあらわれるものです。私の優しい態度や言葉は、広く他におよび、曇鸞大師が念仏者を「四海のうちみな兄弟とするなり」(註釈版聖典310ページ)と言われるような輪が広がっていきます。すなわち、「穏やかな顔と 優しい言葉」また「喜びも 悲しみも 分かち合」う生活が送れることになるのです。
日々に 精一杯 つとめます
 念仏申して生きることは、生きる意義がはっきりするということです。『仏説無量寿経』には
愚痴矇昧にしてみづから智慧ありと以うて、生の従来するところ、死の趣向するところを知らず(註p.70)
とあります。どこから来て、どこへ帰っていくのか知らない私です。そのような私に生きる方向を指し示してくださるのがお念仏です。
 そのお念仏による仏恩報謝の生活では、このように素睛らしい心安らぐ日常が送れるということです。
 そのために、私たちはとにかく「阿弥陀如来のよび声に呼応」しなければなりません。この呼応することが「ご信心をいただく」という意味でもあります。まず私たちが聞法にはげみ、そして少しでも如来のお心にかなう生き方を目指し、「日々に 精一杯 つとめ」なければならないでしょう。それを奨励した言葉であることを肝に銘じなければなりません。
 今回発布された消息文を以上のような味わいで唱和くださいますことをここに念じます。

『なぜ「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」なのか』/ 満井秀城

序論
 新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)の総局主催による学習会が、全31教区及び沖縄特区を対象におこなわれており、令和5年内で半数余りの教区で実施済みである。その折には、「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」の一行に、どこの教区でも疑問や質問が投げかけられている。これについて、研究所長としての私の説明論理は以下の通りである。
 「私の煩悩と仏のさとりは本来一つ」は、「生死即涅槃」の道理であり、宗祖親鸞聖人に「証知生死即涅槃」(正信偈)として明確な出拠がある。これは『往生論註』利行満足章に出る語で、そこでは、「無碍」の釈義として『華厳経』と関連させながら説明され、讃嘆門で釈される「尽十方無碍光如来」と首尾一貫した説示となっている。つまり、この「私の煩悩と仏のさとりは本来一つ」の部分については、議論の余地はまったくない。しかし、注意すべき点があり、多くの誤解が起こっているのも確かである。
① 先ず注意すべきは、「正信偈」では「証知」と示されており、「惑染の凡夫」の往相廻向の到達点としての証果の内容である点である。我々が、この身この世において信知する内容としては説かれていないのである。これを私は約仏の視点として説明して来た。約仏の視点としての「生死即涅槃」とは、仏の眼からご覧になれば「自他一如」として、仏と衆生との間には、何も隔てるものはない。相手のいのちに自らのいのちを見るのが、仏知見というもので、仏の無分別智から見れば、仏と衆生とは隔絶していない。それを衆生の側が、凡夫の妄分別によって生仏を隔絶して捉えてしまうのである。好きか嫌いか、役に立つか立たないか、まさに自分の都合によって自他を区別するので、「我他彼此」(ガタピシ)という不快な軋みが起こるのである。
 約仏と約生の混乱が最も典型的に表れるのが「悪人正機」である。もともと「悪人正機」とは、仏の側からご覧になって、凡夫悪人がほっておけないとする「約仏」の言葉である。それを勝手に衆生の側に持ち替えることによって、「悪人正機」なら、どんな悪いことを行なってもよいのだという理屈になってしまう。
 また、時折、「領解は自己の信仰表明だから、約生であるべきだ」との意見も寄せられるが、「自己の信仰表明だから」こそ、約仏としての仏徳讃嘆もありうるであろう。
② 次には、「本来一つゆえ」がどこに続くのかが問題点である。
 「本来一つだから、そのまま救われる」と理解したら、とんでもない事態になる。こうなると、信心さえも要らないという信心不要論、すなわち無帰命安心に転落してしまう。
 私が学習会で説明して来た論理は、以下の「論註』善巧摂化章の論理である。そこでは、『浄土論』本体の「巧方便回向」の成就について、
実相を知るをもつてのゆゑに、すなはち三界の衆生の虚妄の相を知るなり。衆生の虚妄なるを知れば、すなはち真実の慈悲を生ずるなり。
(『浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)』143頁)
 仏の真実の智慧をもって凡夫虚妄の実相をご覧になれば、必ず慈悲に展開するのである。つまり、「本来一つゆえ」は、そのまま救われるに繋がるのではなく、「弥陀のよび声」という、慈悲の展開に繋がるわけである。
 「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」を巡る疑問点は上の二つに集約されると思うが、基本的に、仏教の思想的流れを理解しておく必要があると考える。
そこで、仏教思想史上の流れを辿り、そのことによって、「他力廻向法」の根源を論理的に整理することを目的に、総合研究所の伝わる伝道研究室での基礎研究会において、いくつかの先行研究を学んで来た。その一端を示し、先ずは宗門内に向けての理解の一助たればと願う次第である。
《なぜ「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」なのか》
はじめに
 まずは「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえそのまま救うが弥陀の呼び声」に込められたご門主のお心を伺っておきたい。
 ご門主は「親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年についての消息」(以下「850消息」)で次のようにお示し下さっている。(以下、引用文の中略・下線は引用者による)
仏教は今から約2500年前、釈尊が縁起や諸行無常・諸法無我というこの世界のありのままの真実をさとられたことに始まります。(中略)ありのままの真実に基づく阿弥陀如来のお慈悲でありますから、いのちあるものすべてに平等にそそがれ、自己中心的な考え方しかできない煩悩具足の私たちも決して見捨てられることはありません(1)。
 この消息では、苦しむ衆生を「そのまま救う」という慈悲として成立し得る仏法上の思想的根拠を、「ありのままの真実に基づく阿弥陀如来のお慈悲」と表現されている。これはさとられた真実、すなわち仏の智慧に基づく慈悲であることを明示しているのである。
 村上速水氏は、仏の智慧と慈悲の関係性を次のように説明している。
すなわち真実の智慧に徹するとき、そこに実相が知られるが、同時にまた現実が虚であることも知らされる。現実が虚妄であることが知られれば、当然そのような虚妄なるものに執着するということは有り得ないし、しかも現実の虚妄相を認知すればこれを憐愍せざるをえないのは理の当然である。すなわち真実の智慧は必然的に慈悲を生ずる。これを『論註』には、
実相を知るをもってのゆゑに、すなはち三界の衆生の虚妄の相を知るなり。衆生の虚妄なるを知れば、すなはち真実の慈悲を生ずるなり(2)。
というのである(3)。
 「850消息」に示される内容を踏まえて「新しい領解文」を見てみると、「煩悩菩提体無二」という真実の智慧に基づく阿弥陀如来のお慈悲が示されていることは明らかである。以下、基礎となる文献と先学諸氏の論攷に基づき、弥陀の本願が、迷える夫を「そのまま救う」慈悲として成立しうる仏教の歴史における思想的根拠について究明することを本稿の目的とする。
 御文章の「信心獲得章」には、次のように説かれている。
南無と帰命する一念の処に発願回向のこころあるべし。これすなはち弥陀如来の凡夫に回向しましますこころなり。これを『大経』(上)には、「令諸衆生功徳成「就」と説けり。されば無始以来つくりとつくる悪業煩悩を、のこるところもなく願力不思議をもつて消滅するいはれあるがゆゑに、正定聚不退の位に住すとなりこれによりて「煩悩を断ぜずして涅槃をう」といへるはこのこころなり(4)。
 ここには、阿弥陀如来の発願回向の心、願力不思議をもって悪業煩悩を「消滅するいはれあるがゆゑに」「煩悩を断ぜずして涅槃をうといへる」と述べられているだけ
である。なぜ、願力不思議をもって「煩悩を断ぜずして涅槃をう」といえるのか。その理由の説明がなければ、知的理解を是とする教育になれ親しんでいる現代人には不親切であろう。肝腎なところがよくわからないのではないか。
I.仏教の思想的歴史
(1)縁起説は、いうまでもなく仏教の基本的な思想であり、それを軸に仏教思想史は展開してきた。初期仏教の縁起説は、苦しみ悩む有情が主題となっており、老死という苦しみの原因を愛(渇愛)や無明(無知)に求める十二支縁起(十二因縁)説が代表的なものとして説かれた。部派仏教時代になると、縁起説を、過去世・現在世・未来世の三世にわたる業の因果関係と見る三世両重の業感縁起説として解釈され、客観世界や客観的現象まで説明しうる「六因四縁五果」(説一切有部)や「二十四縁」(南方上座部)というような縁起説が説かれた。しかし、この段階までの縁起説は迷いの世界(有為)のみを説明するものであり、さとりの世界(無為)は縁起の中に含まれず、さとりは滅とか解脱と表現され、縁起を超越し、縁起の滅した世界とされた。
 また初期仏教・部派仏教では、さとりは出家者の実践修行(戒・定・慧など)によって到達できる出世間的果報(解脱・涅槃)とされ、在家信者に対しては「次第「説法」による「生天」思想が教説の中心であった。
(2)一方、紀元前後ごろに興起した大乗仏教では、すべての有情が仏になれる道がひらかれた。さらに、ナーガールジュナ(龍樹)は、初期仏教以来の縁起説を空・「無自性の思想によって解釈し、大乗仏教の思想的基盤を構築したのである。
 『根本中頌』の帰敬偈が示すように、ナーガールジュナ(龍樹)は釈尊の説かれた「縁起」の教えが、部派仏教の学者たちによって実体論的に理解されたのに対して、縁起とは空性である(諸法が縁起しているということは、諸法が実体的存在ではなくて、無自性・空である)と説いた。また別の論書(例えば、『廻諍論』)では、「諸法は縁起の故に空である」と説いている(5)。すなわち、ナーガールジュナは、縁起によって空および無自性を基礎づけたのである(6)。
『根本中頌』第24章第18偈第19偈には次のように説かれている。
18 yah pratityasamutpādah śūnyatām tām pracaks mahe/
sā prajñaptir upādāya pratipat saiva madhyamā//
19 apratityasamutpanno dharmah kaścin na vidyate/
yasmāt tasmād aśunyo 'pi dharmaḥ kaścin na vidyate//
(第18偈)[諸々のものが何かを]縁として生起すること(縁起)を、我々は[諸々のものが]空であること(空性)と言う。それ(縁起)は[何かを]因として、[何かが]概念設定されること(因施設)であり、その同じものが中道である。(第19偈)[何かを]縁とせずに生起するもの(法)は、何ら存在しない。したがって、空でないもの(法)は何ら存在しない(7)。
(桂紹隆五島清隆『龍樹『根本中頌』を読む』春秋社、2016年)
①中村元氏は、縁起・空について次のように説明されている。
この諸法(いろいろのもの)は空を特質としています。だから常識的に考えると、いろいろなものが現れ、また消えます。けれど高い境地から見ると、「生ぜず滅せず」、すなわち現象世界においては、いろいろな力が加わって生じたり滅びたりしているのですが、高い立場から見るとただ偉大なる一つの理があるだけで、生じても滅してもいません。だから垢がつくこともない、浄くなるということもない、増えるということも減るということもない。ただ偉大なる真実がそこにあるだけです(8)。
 仏の智慧によって見れば、この現象世界はただ空なる真実があるだけの境地なのであろう。
②藤田宏達氏は、阿弥陀仏になる前の法蔵菩薩の修行の内容について、『無量寿経』に「注意すべき叙述も見出される」として、次のように指摘されている。
「空・無相・無願の法に住して、作なく起なく、法を観ずること化のごとし」というのは、〈般若経〉に示されるような空の思想の影響を受けた表現と見られる。このような表現は、サンスクリット本など他の「後期無量寿経」の諸本にも認められるが、「初期無量寿経」には認められないから、〈無量寿経〉の発達した段階において〈般若経〉などの影響によって説かれるようになったものであろう。また、「自ら六波羅蜜を行じ」とあるのは、法蔵菩薩の修行内容が大乗仏教全体に通ずる菩薩行にほかならないことを示している(9)。
③梶山雄一氏は、阿弥陀仏信仰について次のように述べている。
 阿弥陀仏信仰は廻向の宗教ということができる。インドの業報思想では、善い行為はかならず、その行為者自身に、幸せをもたらし、悪い行為は、かならず、行為者自身に、不幸をもたらした。この鉄則は、神がみもブッダも聖者も、変えることができなかった。
しかし阿弥陀仏は、もと菩薩であったとき、あらゆる人びとを救うために、極楽国土を建設しようと誓いをたて、その後、兆載永劫の修行をなしとげて、成仏して極楽の主となった。そして、業報の法則によれば、地獄に堕ちるより仕方のない悪人をも、阿弥陀仏は自己の修行の功徳を彼にめぐらして、極楽に往生させ、成仏させる。それは、業報の鉄則を破り、超える、恩寵の宗教である。恩寵は、仏教では、廻向という言葉であらわされる(10)。
 梶山氏は、阿弥陀仏信仰は大乗の「廻向」の思想によって成り立っていると指摘する。ちなみに「廻向」の思想はすでに初期仏教に見られ、そこでは衆生が善業を行った結果として得られる功徳を、自分自身もしくは他者(通常、亡くなった親族)にふり向けるという考えであった。
 また梶山氏は大乗の「廻向」について、
この廻向という言葉と思想を、論理の裏づけを伴った形で最初に宣言したのは、『般若経』の空の思想であった。もとより、『般若経』以前にも、廻向に通じる考え方は散見される。しかし、その考え方を定形にまで発展させ、これを廻向(パリナーマナー)と名づけたのは『八千頌般若経』であった。
空とは、あらゆるものが、不変にして恒常な本性をもたない、ということである。もし、ものが変わらないで永続するならば、それは生ずることも、存在することも、滅することもないはずである。なぜなら、生起・存在・消滅は、いずれも、変化にほかならないからである。いいかえれば、あらゆるものは、固有の実体とか本性とかをもっていない、だから空である、ということになる。ものは原因や条件しだいで生じ、原因や条件がなくなれば滅するだけのものである。
空の思想は必然的に不二の思想に導いてゆく。もしAなるものに実体がなく、Bなるものにも実体がなければ、AとBとは、ともに実体の空なるものとして、区別されず、分つことのできないものとなる。すなわち、不二であることになる。一見対立している二つのものたとえば煩悩とさとりは、ともに空であるから、本質的には不二である。(中略)重要なことは、廻向の思想は空の論理なくしては成り立たない、ということであった。廻向とは、善行の果報である、この世での幸福を、極楽往生やさとりという超世間的なものに、内容的に転換したり、あるいは自己の功徳を、方向を変えて、他人にめぐらすことである。それはいずれも業報の法則を破るものである。
しかしそのような、功徳の内容あるいは方向の転換は、業も果も本質的には実体のない、空なるものであるからこそ可能となる。阿弥陀仏が自己の功徳を迷える人びとにめぐらすということは、仏も衆生もともに空であり、不二であるからできるのである(11)。
等と述べている。
④中村元氏の次の指摘は、極めて端的である。
慈悲と空とは、実質的には同じです。哲学面から見ると空ですが、実践面からいうと慈悲になります。われとなんじが相対しているとき、そこに隔てがあるかぎりわれとなんじの対立はいつまでも残っています。けれど、その根底にある空の境地に立って自分の身を相手の立場に置いて考えるようにすると、そこから、ほんとうの意味の愛が成立します。それを仏教では「慈悲」とよんでいます(12)。
つまり、空の故に対立項は不二であり、自他平等が意識され、慈悲(愛)が平等に注がれるのである。
II.廻向の出どころ
(1)他力廻向法の根源
①真宗の他力廻向に関して、村上速水氏は、
真宗に於ける皆有仏性義は、諸法の空無自性なることを表わすもので、救済可能の原理となるものであるが、信仰の場に於いて衆生の自覚にあらわれるというようなものではない。どこまでも性の立場に於いて語られることであって、修の立場、即ち現実の自己は必堕無間の凡夫の外の何ものでもないのである。換言すれば、善導が「出離の縁あることなし」といい、また謗法の如きは朽林碩石の如く受化の義なし、というのは、その造悪の当相についていうので、もし無自性の義を許さなかったならば、「謗法闡提廻心皆往」(「法事讃』上七丁一真聖全一・五六七)という言葉は解釈できぬこととなろう。
されば他力廻向が実践され、他力救済が可能となるためには、生仏一如にして無自性である義が許されるべきであって、生仏異質なりとすれば衆生の成仏は不可能といわなければならない(13)。
と極めて明解に述べられている。
②また、梶山氏も「回向の思想は、空の論理なくしては成り立たない」と言われ、さらに「空の思想は必然的に不二の思想に導いてゆく(中略)一見対立している二つのもの、たとえば煩悩とさとりは、ともに空であるから、本質的には不二である」
と念を押されている。
(2)煩悩菩提体無二
親鸞聖人は『高僧和讃』「曇鸞讃」において
本願円頓一乗は逆悪摂すと信知して
煩悩・菩提体無二とすみやかにとくさとらしむ
と示されている。この「煩悩菩提体無二」という語について、『浄土真宗聖典(註釈版第二版)』脚註には「煩悩と菩提とが本来一つであること」と説明している(14)。
①村上速水氏は、
仏性とは煩悩に対する菩提というような概念ではなく、両者に共通する基盤たるべきものであり、万法が縁によって変化してゆく無自性空なることをいうのである。故にもし衆生が一念の迷妄に遇えば、それを全うじて迷いとなり、仏の智に遇えばこれを全うじて悟界となる。仏と衆生とはこのように無自性空を共通の地盤とするから、煩悩が転じて菩提となり、生死を全うじて涅槃となり得るのであって、もし煩悩に固定した自性があるならば、煩悩はついに菩提に転ずることは不可能であろう。親鸞が「行巻」の一乗海釈において、海の転成の徳のあることを顕わし、仏や衆生の解釈をするのに多く曇鸞によられる意も、またここにありと見るべきである。『高僧和讃』(曇鸞讃)に
 本願円頓一乗は逆悪摂すと信知して
 煩悩菩提体無二とすみやかにとくさとらしむ
 (中略)
と歌われるのは、まさにこの意味である(15)
と述べられている。
 「煩悩菩提体無二」「私の煩悩と仏のさとりは本来一つ」、すなわち「煩悩とさとりは、ともに空であるから、本質的に不二(16)」ゆえに、仏の側からは「われにまかせよそのまま救う」という慈悲の言葉、すなわち空からの招き・よびかけとなる。そして、さとれない凡夫は「そのまま救う」の弥陀のよび声と聞かせていただくだけであり、疑いの心なく信じ任せるだけなのである。
②また村上速水氏は、浄土真宗の教法と仏教との関係性について、
その教法は「如来興世の正説」であり、「一乗究竟の極説」である。
本願一乗は頓極頓速円融円満の教なれば、絶対不二の教、一実真如の道なり。応に知るべし、専中の専、頓中の頓、真中の真、円中の円なり。一乗一実は大誓願海なり。(二・四五八)
である。これらの文によって明らかなように、親鸞の意図は浄土真宗をもって大乗無上の法とする意図であり、聖道門や浄土異流に超勝する意味であって、仏教そのものを超えた法とする意味ではない(17)。
と述べられている。
③梯實圓氏の行信教校での最後の講義は、平成26年12月16日であったというから、次に引用する同年11月4日の講義は最晩年のものといえる。梯氏は講義の中で「空」について、
「いのち」の根源を直感する。これは推理でもなければ、判断でもない直覚なのです。一瞬にして宇宙の全体が見通せるような直覚です。私が何かを知るというような対象的な知り方とは全く違います。天地が私を通して自らを自覚しているような、そういう知り方なのです。それを「無分別智」と言うのです。これを「一切が空である」と言ったのです(18)。
と述べられている。
④中村元氏は、「一切」ではなくさらに具体的に「救う主体も空、救われるものも空、さらに救われて到達する境地も空(19)」なのだといわれている。
 仏も衆生も空であり、ともに固定した実体、すがたかたちのない空なるものとして「区別されず、分かつことのできないもの(20)」である。したがって、勧学寮が「同意(21)」し、ご門主が発布されたご消息に示されている「新しい領解文」にあるように、私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ「そのまま救う」が弥陀のよび声と、われわれはいただくのである。
⑤ 桂紹隆氏によれば、「煩悩即菩提」という語は、縁起・無自性・空・不二の大乗仏教の思想に基づく表現である。大正大蔵経を検索するとインド仏典では「煩悩即「菩提」は二箇所にのみ出る。一つは『大乗荘厳経論』、もう一つは「摂大乗論』であり、いずれも唯識派の主要文献である。それらの梵語原文を見ると、表現は「煩「悩即菩提」とはなっていないが、主旨は同じであるという(22)。桂氏は結論として、梶山氏のように「空思想」に基づいて「煩悩即菩提」と解釈することは十分可能であるが、文献学的には唯識論書中の「煩悩即菩提」にも注目する必要があるといわれている。いずれにせよ、「煩悩即菩提」は仏陀の悟りの境地からの文言であり、決して私たち凡夫の視点から言えることではなく、必ず「本来は」とか「本当は」という限定が必要であると注意を促しておられる。
 「新しい領解文」に関して、三行目の「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」だけを取って見れば、従来の法話等を聞いてきた者にとっては違和感を覚えるかもしれない。もし、「私の煩悩と仏のさとりは一つゆえ」と表現されていて、ここに「本来」という言葉がなければ、これはわれわれ凡夫の側の認識である。もっとも、「仏の視線であれば、『私』と『仏』という対比もないはずである」という懸念もあるかもしれないが、この点を間違わない意味で「本来一つゆえ」と念が押されているのであろう。すなわち、生仏一如にして無自性・空、煩悩とさとりは「本来一つゆえ」、煩悩即菩提という仏の悟りの境地からの仰せとして、「そのまま救う」が弥陀のよび声、となるのである(23)。
結論
 「新しい領解文(浄土真宗のみ教え)」の「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」という一行について、二つの疑問点をふまえ仏教思想史上の流れを辿り「他力廻向法」の根源について整理した。
 その結果をふまえ、あらためて言いうることは「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」の一行は、勧学寮の同意があるように浄土真宗の法義として、また仏教思想史的にも問題はなく、序論でも述べたように議論の余地はないといえる。


1 龍谷門主釋専如 「親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年についての消息」、 2019年1月9日、 『本願寺新報』号外。
2 論文原文は漢文であるが、便宜上 『浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)』 の書き下し文に変更した。 『浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)』(本願寺出版社、2022年)、 『往生論註』 巻下、143頁。
3 村上速水 「親鸞教義の研究』 永田文昌堂、 1984年、 175~176頁。
4 『浄土真宗聖典 (註釈版第二版)」 「御文章」 五帖 (五)、 本願寺出版社、2019年、 1192頁。
5 中観派の空思想については、桂紹隆先生のご指導をいただいた。
6 中村元「空の論理』 (中村元選集 決定版 第22巻) 春秋社、1994年、 265~266頁参照。
7 桂紹隆・五島清隆 『龍樹 『根本中頌』 を読む』 春秋社、2016年、96頁。
8 中村元『般若経典 (現代語訳 大乗仏典I)』 東京書籍、2014年、 48頁。 9 藤田宏達 桜部建 「無量寿経 阿弥陀経』 講談社、1994年、 147頁。
10 梶山雄一『大乗仏教の誕生 「さとり」 と 「廻向」』 講談社、 2021年、20~21頁。
11 梶山雄一『大乗仏教の誕生 「さとり」 と 「廻向」』 講談社、 2021年、 21~23頁。
12 中村元 『般若経典 (現代語訳 大乗仏典I)』 東京書籍、2014年、 136頁。
13 村上速水 「親鸞教義の研究』 永田文昌堂、1984年、 177頁。
14 『浄土真宗聖典(註釈版第二版)』『高僧和讃』「曇鸞讃」、本願寺出版社、2019年、584頁。
15 村上速水 『親鸞教義の研究』 永田文昌堂、1984年、 174~175頁。
16 梶山雄一「大乗仏教の誕生 「さとり」 と 「廻向」』 講談社、 2021年、22頁。
17 村上速水 『続・ 親鸞教義の研究』 永田文昌堂、 1989年、 122頁。
18 梯實圓 「法界に遊ぶ』 学校法人行信教校梯實圓和上墓碑建立委員会、2016年、38~39頁。
19 中村元 般若経典 (現代語訳 大乗仏典I)』 東京書籍、 2014年、39頁。
20 梶山雄一『大乗仏教の誕生 「さとり」と「廻向」』 講談社、 2021年、22頁。
21 詳細は 『宗報』 2023年6月号、 22~27頁参照。
22 唯識派の主要文献である 『大乗荘厳経論』 と 『摂大乗論』における「煩悩即菩提」について、梵 語原典の翻訳 検討に基づくご指導を桂紹隆氏より賜った。
23 今回の論文執筆にあたり、 広島大学ならびに龍谷大学名誉教授の桂紹隆氏からさまざま有意義な ご教示をいただいた。氏の高い学問的見識に心からの敬意を表し、深く感謝を申し上げる次第である。
発行元 浄土真宗本願寺派総合研究所