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− | + | 御開山は和歌は[[chu:綺語|綺語]](ウタヲヨミ イロヘ コトバ ヲ イフ)として使われず、今様といふ実直な形式で仏徳を讃詠されたのであった。「我われなくも 法は尽きまじ和歌の浦 あをくさ人のあらんかぎりは」などいふ綺語の和歌を詠まれることはqありえない。<br /> | |
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:四十八願成就して | :四十八願成就して | ||
: 正覚の弥陀となりたまふ | : 正覚の弥陀となりたまふ | ||
: たのみをかけしひとはみな | : たのみをかけしひとはみな | ||
: 往生かならずさだまりぬ。 | : 往生かならずさだまりぬ。 | ||
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:極楽無為の報土には | :極楽無為の報土には | ||
: 雑行むまるゝことかたし | : 雑行むまるゝことかたし | ||
: 如来要法をえらんでは | : 如来要法をえらんでは | ||
: 専修の行ををしへしむ。 | : 専修の行ををしへしむ。 | ||
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:兆載永劫の修行は | :兆載永劫の修行は | ||
: 阿弥陀の三字にをさまれり | : 阿弥陀の三字にをさまれり | ||
: 五劫思惟の名号は | : 五劫思惟の名号は | ||
: 五濁のわれらに付属せり。 | : 五濁のわれらに付属せり。 | ||
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:阿弥陀如来の三業は | :阿弥陀如来の三業は | ||
: 念仏行者の三業と | : 念仏行者の三業と | ||
: 彼此金剛の心なれば | : 彼此金剛の心なれば | ||
: 定聚のくらゐにさだまりぬ。 | : 定聚のくらゐにさだまりぬ。 | ||
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:多聞浄戒えらばれず | :多聞浄戒えらばれず | ||
: 破戒罪業きらはれず | : 破戒罪業きらはれず | ||
: たゞよく念ずるひとのみぞ | : たゞよく念ずるひとのみぞ | ||
: 瓦礫も金と変じける。 | : 瓦礫も金と変じける。 | ||
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:金剛堅固の信心は | :金剛堅固の信心は | ||
: 仏の相続よりおこる | : 仏の相続よりおこる | ||
: 他力の方便なくしては | : 他力の方便なくしては | ||
: いかでか決定心をえん。 | : いかでか決定心をえん。 | ||
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:大願海のうちには | :大願海のうちには | ||
: 煩悩のなみこそなかりけれ | : 煩悩のなみこそなかりけれ | ||
: 弘誓のふねにのりぬれば | : 弘誓のふねにのりぬれば | ||
: 大悲の風にまかせたり。 | : 大悲の風にまかせたり。 | ||
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:超世の悲願きゝしより | :超世の悲願きゝしより | ||
: われらは生死の凡夫かは | : われらは生死の凡夫かは | ||
: 有漏の穢身はかはらねど | : 有漏の穢身はかはらねど | ||
: こゝろは浄土にあそぶなり。 | : こゝろは浄土にあそぶなり。 | ||
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:六八の弘誓のそのなかに | :六八の弘誓のそのなかに | ||
: 第三十五の願に | : 第三十五の願に | ||
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: 究竟せること虚空にして | : 究竟せること虚空にして | ||
: 広大にして辺際なし ([[chu:高僧和讃#no12|高僧 P.580]]) | : 広大にして辺際なし ([[chu:高僧和讃#no12|高僧 P.580]]) | ||
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:仏と仏との御はからひなり、凡夫のはからひにあらず。補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからふべき人は候はず。しかれば、如 来の誓願には義なきを義とすとは、大師聖人(源空)の仰せに候ひき。([[chu:消息下#P--779|消息 P.779]]) | :仏と仏との御はからひなり、凡夫のはからひにあらず。補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからふべき人は候はず。しかれば、如 来の誓願には義なきを義とすとは、大師聖人(源空)の仰せに候ひき。([[chu:消息下#P--779|消息 P.779]]) | ||
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とされておられた。<br /> | とされておられた。<br /> | ||
もちろん凡情として浄土を語るのは否定できないが、凡情に流されるといふ危険も考察すべきであろう。<br /> | もちろん凡情として浄土を語るのは否定できないが、凡情に流されるといふ危険も考察すべきであろう。<br /> | ||
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2024年8月24日 (土) 19:16時点における最新版
九首和讃
この九首和讃は京都常楽台(存覚上人は常楽台の住持だった)の宝庫より出でたるものと伝え、古来、親鸞聖人の真作であると云われているが、林遊は、用語例から見て御開山のものとするには疑いが残る。なお御開山の「御臨末の御書」とされる書は明らかに後世の偽作であろう。→「御臨末の御書」
御開山は和歌は綺語(ウタヲヨミ イロヘ コトバ ヲ イフ)として使われず、今様といふ実直な形式で仏徳を讃詠されたのであった。「我われなくも 法は尽きまじ和歌の浦 あをくさ人のあらんかぎりは」などいふ綺語の和歌を詠まれることはqありえない。
以下帖外九首和讃
(1)
- 四十八願成就して
- 正覚の弥陀となりたまふ
- たのみをかけしひとはみな
- 往生かならずさだまりぬ。
(2)
- 極楽無為の報土には
- 雑行むまるゝことかたし
- 如来要法をえらんでは
- 専修の行ををしへしむ。
(3)
- 兆載永劫の修行は
- 阿弥陀の三字にをさまれり
- 五劫思惟の名号は
- 五濁のわれらに付属せり。
(4)
- 阿弥陀如来の三業は
- 念仏行者の三業と
- 彼此金剛の心なれば
- 定聚のくらゐにさだまりぬ。
(5)
- 多聞浄戒えらばれず
- 破戒罪業きらはれず
- たゞよく念ずるひとのみぞ
- 瓦礫も金と変じける。
(6)
- 金剛堅固の信心は
- 仏の相続よりおこる
- 他力の方便なくしては
- いかでか決定心をえん。
(7)
- 大願海のうちには
- 煩悩のなみこそなかりけれ
- 弘誓のふねにのりぬれば
- 大悲の風にまかせたり。
(8)
- 超世の悲願きゝしより
- われらは生死の凡夫かは
- 有漏の穢身はかはらねど
- こゝろは浄土にあそぶなり。
(9)
- 六八の弘誓のそのなかに
- 第三十五の願に
- 弥陀はことに女人を
- 引接せんとちかひしか。
なお、
- 超世の悲願きゝしより
- われらは生死の凡夫かは
- 有漏の穢身はかはらねど
- こゝろは浄土にあそぶなり。
の九首和讃の一首をとりあげて、有漏の穢身を離れて、心往生を説く人もいるのだが、これは時宗との混同であろう。
一遍上人は、「他力称名の行者は此の穢身はしばらく穢土にありといへども、心はすでに往生をとげて浄土にあり」「播州法語集」(林遊は未見)と云われたそうだが、この意が浄土真宗に混入されたのであろう。
御開山は、
- 惑染の衆生、ここにして性を見ることあたはず、煩悩に覆はるるがゆゑに。真巻 P.371
とされておられた。 (12)
と唯仏与仏とされ、御消息では浄土は、
- 仏と仏との御はからひなり、凡夫のはからひにあらず。補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからふべき人は候はず。しかれば、如 来の誓願には義なきを義とすとは、大師聖人(源空)の仰せに候ひき。(消息 P.779)
とされておられた。
もちろん凡情として浄土を語るのは否定できないが、凡情に流されるといふ危険も考察すべきであろう。
ちなみに林遊は、夕日の沈む西方の仏国を、母も往った、父も往った、やがていのち終わればあえる世界(妙有)であると実体視しているのであった。ありがたいこっちゃなあ。
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