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(ページの作成: 黒谷上人御法語(二枚起請文) 僧俗等おもふべし、我身にはかしこきことは一もなし。仏の願によらずば、かゝるあさましきもの...)
 
 
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黒谷上人御法語(二枚起請文)
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{{Comment|二枚起請文とも呼ばれる法然聖人のご法語。真偽未詳とされるが前半は法然聖人の思想がよくあらわされているという。蓮如上人はこの法語を書写しておられるので「他力をたのみ」や「本願を憑(たのむ)」、「たすけたまへ」などの用語例は蓮如上人の「タノム・タスケタマヘ 」の拠り所となったのであろう。もっとも直接に蓮如上人の教化のしかたに影響を与えたのは、浄土宗一条流の向阿 (証賢) (1265-1336)著の「帰命本願鈔」「西要鈔」「父子相迎鈔」の3部から成る『三部仮名鈔』であるとされる。 蓮如上人の次女見玉尼、三女の寿尊尼は、向阿の開いた一条流浄華院摂受庵 見秀禅尼の弟子となっていた経緯があるので、その縁で「タノム・タスケタマヘ 」という教語を導入されたのであろう。タスケタマヘを請求(しょうぐ)ではなく許諾(こだく)の浄土真宗の教義をあらわすに意に取り切って使われたのである。タスケタマヘ は、私の側が先行すると請求になるのだが、逆にこの私が後手になると「おまかせいたします」という本願に信順する意になるのであった。「タノム・タスケタマヘ 」は、ある意味での「南無阿弥陀仏」の日本語化であり、この教語によって日本人は日本語によって阿弥陀仏との回路が開かれたのであろうともいえる。
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参考までに「[[chu:歸命本願抄|帰命本願鈔]]」はWikiArcにUPしてあり、安心論題の[[chu:安心論題/タノム・タスケタマヘ|タノム・タスケタマヘ]]もUPしてある。
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僧俗等おもふべし、我身にはかしこきことは一もなし。仏の願によらずば、かゝるあさましきものゝの往生の大事をとぐべしやと思て、阿弥陀仏の悲願をあふぎ、他力を'''たのみて'''名号を<kana>憚(はばか)</kana>りなく<kana>唱(となう)</kana>べき也。是を本願を'''<kana>憑(たのむ)</kana>'''とはいふなり。すべて仏'''たすけたまへ'''と思て、名号をとなふるに<kana>過(すぎ)</kana>たる事はなき也。<br>
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;黒谷上人御法語(二枚起請文)
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僧俗等おもふべし、我身にはかしこきことは一もなし。仏の願によらずば、かゝるあさましきものゝの往生の大事をとぐべしやと思て、阿弥陀仏の悲願をあふぎ、'''他力をたのみて'''名号を<kana>憚(はばか)</kana>りなく<kana>唱(となう)</kana>べき也。<kana>是(これ)</kana>を本願を'''<kana>憑(たのむ)</kana>'''とはいふなり。すべて仏'''たすけたまへ'''と思て、名号をとなふるに<kana>過(すぎ)</kana>たる事はなき也。<br>
 
此外によしと思も驕慢の心なり。<kana>凡(およそ)</kana>、仏をたのむというは、心の中の観念にあらず、たゞ名号を唱るをすなわち本願憑むとは云也。念仏の行者観念にとどまる事なかれ、思はゞやがて声をいだしてとなふべき也。<br>
 
此外によしと思も驕慢の心なり。<kana>凡(およそ)</kana>、仏をたのむというは、心の中の観念にあらず、たゞ名号を唱るをすなわち本願憑むとは云也。念仏の行者観念にとどまる事なかれ、思はゞやがて声をいだしてとなふべき也。<br>
 
称名の外には決定往生の正業なし。称名のほかには決定往生の観念なし、称名の外に決定往生の知恵なし。称名の外には三心なし。称名の外には決定往生の四修なし。五念も称名の外にはなし。仏の本願も称名を本願とす。厭離穢土の心も称名の中にあり。法蔵菩薩の昔の他力本願の故に、弥陀如来の自在神力を信じ奉るべし。<kana>若(もし)</kana> 是よりおくふかき事を存知候はゞ、日本国六十余州大小の神罰を蒙り、来世の弥陀の四十八願にもれ候て、無間地獄におつべし。
 
称名の外には決定往生の正業なし。称名のほかには決定往生の観念なし、称名の外に決定往生の知恵なし。称名の外には三心なし。称名の外には決定往生の四修なし。五念も称名の外にはなし。仏の本願も称名を本願とす。厭離穢土の心も称名の中にあり。法蔵菩薩の昔の他力本願の故に、弥陀如来の自在神力を信じ奉るべし。<kana>若(もし)</kana> 是よりおくふかき事を存知候はゞ、日本国六十余州大小の神罰を蒙り、来世の弥陀の四十八願にもれ候て、無間地獄におつべし。
  
 
『真宗聖教全書』 四p.43
 
『真宗聖教全書』 四p.43

2016年2月27日 (土) 13:45時点における最新版

二枚起請文とも呼ばれる法然聖人のご法語。真偽未詳とされるが前半は法然聖人の思想がよくあらわされているという。蓮如上人はこの法語を書写しておられるので「他力をたのみ」や「本願を憑(たのむ)」、「たすけたまへ」などの用語例は蓮如上人の「タノム・タスケタマヘ 」の拠り所となったのであろう。もっとも直接に蓮如上人の教化のしかたに影響を与えたのは、浄土宗一条流の向阿 (証賢) (1265-1336)著の「帰命本願鈔」「西要鈔」「父子相迎鈔」の3部から成る『三部仮名鈔』であるとされる。 蓮如上人の次女見玉尼、三女の寿尊尼は、向阿の開いた一条流浄華院摂受庵 見秀禅尼の弟子となっていた経緯があるので、その縁で「タノム・タスケタマヘ 」という教語を導入されたのであろう。タスケタマヘを請求(しょうぐ)ではなく許諾(こだく)の浄土真宗の教義をあらわすに意に取り切って使われたのである。タスケタマヘ は、私の側が先行すると請求になるのだが、逆にこの私が後手になると「おまかせいたします」という本願に信順する意になるのであった。「タノム・タスケタマヘ 」は、ある意味での「南無阿弥陀仏」の日本語化であり、この教語によって日本人は日本語によって阿弥陀仏との回路が開かれたのであろうともいえる。

参考までに「帰命本願鈔」はWikiArcにUPしてあり、安心論題のタノム・タスケタマヘもUPしてある。


黒谷上人御法語(二枚起請文)

僧俗等おもふべし、我身にはかしこきことは一もなし。仏の願によらずば、かゝるあさましきものゝの往生の大事をとぐべしやと思て、阿弥陀仏の悲願をあふぎ、他力をたのみて名号を(はばか)りなく(となう)べき也。(これ)を本願を(たのむ)とはいふなり。すべて仏たすけたまへと思て、名号をとなふるに(すぎ)たる事はなき也。
此外によしと思も驕慢の心なり。(およそ)、仏をたのむというは、心の中の観念にあらず、たゞ名号を唱るをすなわち本願憑むとは云也。念仏の行者観念にとどまる事なかれ、思はゞやがて声をいだしてとなふべき也。
称名の外には決定往生の正業なし。称名のほかには決定往生の観念なし、称名の外に決定往生の知恵なし。称名の外には三心なし。称名の外には決定往生の四修なし。五念も称名の外にはなし。仏の本願も称名を本願とす。厭離穢土の心も称名の中にあり。法蔵菩薩の昔の他力本願の故に、弥陀如来の自在神力を信じ奉るべし。(もし) 是よりおくふかき事を存知候はゞ、日本国六十余州大小の神罰を蒙り、来世の弥陀の四十八願にもれ候て、無間地獄におつべし。

『真宗聖教全書』 四p.43