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(第十七日 三尺立像阿弥陀『双巻経』・『阿弥陀経』)
 
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{{saihousinan}}
 
{{saihousinan}}
<span id="P--181"></span>
 
西方指南抄 下本<br />
 
  
===大胡の太郎實秀が妻のもとへつかわす御返事===
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<span id="P--47"></span>
{上野ノオホコノ女房御返事}
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==西方指南抄本 上本==
  
御ふみこまかにうけたまはり候ぬ。はるかなるほとに、念仏の事きこしめさむかために、わさとつかひをあけさせたまひて候、御念仏の御こころさしのほと、返返もあはれに候。<br />
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<h3>法然聖人御説法事</h3><br />
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{{Comment|承元の法難(1207)によって斬首された安楽房遵西の父である中原師秀 外記禅門の請により行われた説法。師秀が仏像を安置(1194?)し逆修説法を行ったときに法然聖人が説法されたものといわれる。『漢語灯録』所収の『逆修説法』はその異本。『師秀説草」という異本もある。この書は、浄土三部経を中心に相承論や選択本願念仏論がのべられている。文治六年(1190年)に東大寺で講説したときの『三部経釈』から『逆修説法』を経て、『選択集』(1198)へと法然聖人の思想が展開した経緯を示す法語ともされる。なお、「法然聖人御説法事」とあるように、法然聖人を「聖人」と表現されているのは親鸞聖人の特徴である。江戸時代以降、浄土真宗では、浄土宗(鎮西義)と対抗するために上人号で法然聖人を呼んでいるが、如何なものかと愚昧な一門徒は思う。}}
  
さてはたつねおほせられて候念仏の事は、往生極楽のためには、いつれの行といふとも、念仏にすきたる事は候はぬ也。そのゆへは、念仏はこれ弥陀の本願の行なるかゆへなり。本願といふは、あみた仏のいまだほとけにならせたまはさりしむかし、法蔵菩薩と申しいにしへ、仏の国土をきよめ、衆生を成就せむかために、世自在王如来と申仏の御まへにして、四十八の大願をおこしたまひしその中に、一切衆生の往生のために、一の願をおこしたまへり。これを念仏往生の本願と申也。<br />
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===第十七日 三尺立像阿弥陀『双巻経』・『阿弥陀経』===
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====仏身====
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経証の中に、仏の功徳をとけるに、無量の身あり。あるいは総じて一身をとき、あるいは二身をとき、あるいは半三身<ref>半三身。◇半は分けるの意で、法身・報身と応身(化身)に分けるので半三身というか。</ref>をとき、乃至『華厳経』には、十身<ref>華厳経に説く、仏・菩薩(ぼさつ)の得る十種の仏身。衆生身・国土身・業報身・声聞身・縁覚身・菩薩身・如来身・智身・法身・虚空身を解境の十仏、正覚仏・願仏・業報仏・住持仏・化仏・法界仏・心仏・三昧仏・性仏・如意仏を行境の十仏という。</ref>功徳とけり。<br />
  
すなわち『無量寿経』の上巻にいはく、「設我得仏、十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念、若不生者 不取正覚」と云。<br />
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いま且(しばらく)真身・化身の二身をもて、弥陀如来の功徳を讃嘆したてまつらむ。<br />
善導和尚この願を釈して云、「若我成仏、十方衆生 称我名号 下至十声、若不生者 不取正覚、彼仏今現在成仏、当知本誓重願不虚、衆生称念 必得往生。」{已上} 念<span id="P--182"></span>仏といふは、仏の法身を憶念するにもあらす、仏の相好を観念するにもあらす、ただこころをひとつにして、もはら阿弥陀仏の名号を称念する、これを念仏とは申也。かるかゆへに称我名号といふなり。念仏はほかの一切の行は、これ弥陀の本願にあらざるかゆへに、たとひめでたき行なりといふとも、念仏にはおよはす。おほかたそのくににむまれむとおもはむものは、その仏のちかひにしたかふへきなり。されは弥陀の浄土にむまれむとおもはむものは、弥陀の誓願にしたかふへきなり。本願の念仏と、本願にあらさる余行と、さらにたくらふへからす。かるかゆへに往生極楽のためには、念仏の行にすきたるは候はすと申なり。往生にあらさるみちには、余行またつかさどるかたあり。<br />
+
この真化二身をわかつこと、『双巻経』の三輩の文の中にみえたり。<ref>中輩の「其人臨終無量寿仏化現其身 光明・相好、具如真仏(その人、終りに臨みて、無量寿仏はその身を化現したまふ。光明・相好はつぶさに真仏のごとし)」p.42の文から、化現する化仏と真仏ということがわかる</ref><br />
しかるに衆生の生死をはなるるみち、仏のをしへやうやうにおほく候へとも、このころ人の生死をはなれ、三界をいつるみちは、たた極楽に往生し候はかりなり。このむね、聖教のおほきなることわりなり。<br />
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まづ真身といふは、真実の身なり、弥陀如来の因位のとき、世自在王仏のみもとにして四十八願をおこしてのち、兆載永劫のあひだ、布施・持戒・忍辱・精進等の六度万行を修して、あらはしたまえるところは、修因感果<ref>修因感果(しゅいんかんか) ◇因を修して果を感ず。善の因を修し、その各々の業力の作用により応ずべき果を感得すること。ここでは法蔵菩薩の修因感果を指す</ref>の身なり。<br />
  
つきに極楽に往生するに、その行やうやうにおほく候へとも、われらか往生せむこと、念仏にあらすはかなひかたく候なり。そのゆへは、仏の本願なるかゆへに、願力にすかりて往生することはやすし。さればせむずるところは、極楽にあらずば生死をはなるへからす、念仏にあらすは極楽へむまるべからざるものなり。ふかくこのむねを<span id="P--183"></span>信ぜさせたまひて、ひとすちに極楽をねかひ、ひとすちに念仏をして、このたひかならす生死をはなれむとおぼすべきなり。また一一の願のおはりに、もししからすは正覚をとらしとちかひたまへり。しかるに阿弥陀仏ほとけになりたまひてよりこのかた、すてに十劫をへたまへり。まさにしるへし、誓願むなしからす、しかれは衆生の称念するもの、一人もむなしからす、往生する事をう。もししからすは、たれか仏になりたまへることを信すへき。三宝滅尽の時なりといゑとも、一念すれはなほ往生す、五逆深重の人なりといゑとも、十念すれは往生す。いかにいはむや、三宝の世にむまれて、五逆をつくらざるわれら、弥陀の名号をとなえむに、往生うたがふべからず。いまこの願にあえることは、まことにこれおぼろけの縁にあらず。よくよくよろこびおぼしめすべし。<br />
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『観経』(意)にときていはく、「その身量、六十万億那由他恒河沙由旬なり。
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眉間の白毫、右にめぐりて、五須弥山のごとしと。その一須弥山のたかさ、出海・入海おのおの八万四千那由多なり。また青蓮慈悲の御まなこは、四大海水のごとくして清白分明なり、身のもろ<span id="P--48"></span>もろの毛孔より、光明をはなちたまふこと、須弥山のごとし。うなじにめぐれる円光は、百億の三千大千世界のごとし。
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かくのごとくして、八万四千の相まします、一一の相に、おのおの八万四千の好あり、一一の好に、また八万四千の光明まします。その一一の光明、あまねく十方世界の念仏の衆生を摂取してすてたまはず。
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御身のいろは、夜摩天の閻浮檀金のいろのごとし」[[chu:仏説_観無量寿経#no17|(*)]]といへり。<br />
  
たとひまたあふといゑとも、もし信ぜされは、あはさるかことし。いまふかくこの願を信せさせたまへり、往生うたかひおほしめすへからす。かならすかならすふたこころなく、よくよく御念仏候て、このたひ生死をはなれ、極楽にむまれさせたまふへし。また『観無量寿経』に云、「一一光明 遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨」已上 これは光明たた念仏の衆生をてらして、よの一切の行おはてらさすといふなり。ただし、よの行をしても極楽をねかはは、ひ<span id="P--184"></span>かりてらして摂取したまふへし。いかがただ念仏のものばかりをえらひて、てらしたまへるや。善導和尚釈してのたまはく、「弥陀真色如金山、相好光明照十方、唯有念仏蒙光摂、当知本願最爲強」已上。 念仏はこれ弥陀の本願の行なるかゆへに、成仏の光明つよく本地の誓願をてらしたまふなり。余行これ本願にあらざるかゆへに、弥陀の光明きらいててらしたまはさるなり。いま極楽をもとめむ人は、本願の念仏を行して、摂取のひかりにてらされむとおほしめすへし。これにつけても、念仏大切に候、よくよく申させたまふへし。また釈迦如来この経の中に、定散のもろもろの行をときおはりてのちに、まさしく阿難に付属したまふときには、かみにとくところの、散善の三福業、定善の十三観をは付属せすして、たた念仏の一行を付属したまへり。『経』に云く、「仏告阿難、汝好持是語、持是語者、即是持無量寿仏名」已上 善導和尚この文を釈してのたまはく、「従仏告阿難 汝好持是語已下、正明付属弥陀名号 流通於遐代、上来雖説定散両門之益、望仏本願、意在衆生一向専称弥陀仏名」已上。<br />
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これ弥陀一仏にかぎらす、一切諸仏は、みな黄金のいろなり、もろもろのいろの中には、白色をもて本とすとまふせば、仏の御いろも、白色なるべしといゑども、そのいろなほ損するいろなり。<ref>白は色の基本だが、汚れやすい色であるということ。</ref><br />
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ただ黄金のみあて不変のいろなり、このゆへに、十方三世の一切の諸仏、みな常住不変の相をあらわさむがために、黄金のいろを現したまへるなり、これ『観仏三昧経』のこころなり。<br />
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ただし、真言宗の中に五種の法あり<ref>五種の法。◇五停心観によって感得される仏か。</ref>、その本尊の身色、法にしたがふて各別なり、しかれども、暫時方便の化身なり、仏の本色にはあらず。このゆへに、仏像をつくるにも、白檀綵色(さい:彩色)なんども、功徳をえざるにあらずといへども、金色につくりつれば、すなわち決定往生の業因なり。<br />
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即生の功徳、略を存するにかくのごとし、「即生乃至三生に必得往生」<ref>即ち生じ乃至三生に必ず生ず。◇『漢語灯録』には「造佛功德即決定往生業因次生及三生必得往生也(造仏の功徳は即ち決定往生の業因なり、次生及び三生には必ず往生を得る也)」とある。</ref>といへり。これ弥陀如来真身の功徳、略を存ずるにかくのごとし。<br />
  
この定散のもろもろの行は、弥陀の本願にあらす。かるかゆへに、釈迦如来往生の行を付嘱したまふに、余の定善・散善おは付嘱せすして、念仏はこれ弥陀の本願なるかゆへに、まさしくえらひて、本願の行を付属したまへるなり。いま釈迦のおしえにしたかひて、<span id="P--185"></span>往生をもとむるもの、付属の念仏を修して、釈迦の御こころにかなふへし。これにつけても、またよくよく御念仏候て、仏の付属にかなはせたまふへし。また六方恒沙の諸仏、御したをのへて、三千世界におほいて、もはらたた弥陀の名号をとなへ往生すといふは、これ真実也と証誠したまふなり。これまた念仏は弥陀の本願なるかゆへに、六方恒沙に諸仏、これを証誠したまふ。余の行は本願にあらさるかゆへに、六方恒沙の諸仏証誠したまはす。これにつけても、よくよく御念仏候へし。弥陀の本願、釈迦の付属、六方の諸仏の証誠護念を、ふかくかうぶらせたまふへし。弥陀の本願、釈尊の付属、六方の諸仏の護念、一一にむなしからす。このゆへに念仏の行は、諸行にすくれたるなり。<br />
+
次に化身といふは、無而欻有(むにこつう:[[chu:無而忽有|無而忽有]])を化といふ、すなわち機にしたがふときに応じて身量<span id="P--49"></span>を現ずること、大小不同なり、『経』{観経}に、「あるいは大身を現して虚空にみつ、あるいは小身を現して丈六八尺」といへり。
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化身につきて多種あり。<br />
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まづ円光の化仏(者)、『経』{観経}にいはく、「円光のなかにおいて、百万億那由他恒河沙の化仏まします、一一の化仏に、衆多無数の化菩薩をもて侍者とせり」といへり。<br />
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つぎに摂取不捨の化仏、「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」<ref>光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。</ref>{観経}といふは、この真仏の摂取なり、このほかに化仏の摂取あり。三十六万億の化仏おのおの、真仏とともに、十方世界の念仏衆生を摂取したまふといへり。<br />
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次に来迎引接の化仏、九品の来迎に、おのおの化仏まします、品にしたがふて多少あり。上品上生の来迎には、真仏のほかに、無数の化仏まします。上品中生には、千の化仏まします、上品下生には、五百の化仏まします。乃至かくのごとく次第におとりて、下品上生には、真仏は来迎したまはず、ただ化仏と化観音勢至とをつかはす。その化仏の身量、あるいは丈六、あるいは八尺なり。化菩薩の身量も、それにしたがふて、下品中生は、「天華の上に化仏菩薩ましまして、来迎したまふと」{観経}いへり。下品下生は、「命終してのち、金蓮華をみる、猶如日輪住其人前」{観経}といへり。文のごとくは、化仏の来迎もなきやうにみえたれども、善導の御心は、『観経の疏』{散善義}の十一門の義によらば、第九門に、「命終のとき、聖衆<span id="P--50"></span>の迎接したまふ不同、去時の遅疾をあかす」といへり。<br />
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また、「いまこの十一門の義は、九品の文に約対せり。一一の品のなかに、みなこの十一あり」といへり。しかれば、下品下生にも来迎あるべきなり、しかるを、五逆の罪人そのつみおもきによりて、まさしく化仏菩薩をみることあたはず、ただわが座すへきところの金蓮華ばかりをみるなり、あるいはまた、文に'''隠顕'''<ref>隠顕。◇文章の表面に顕れたものと裏に隠れたものということ。「散善義」文前料簡で「 隠顕ありといへども、もしその道理によらばことごとくみなあるべし。」の語に依られた。 ここでの隠顕は、親鸞聖人が 「化身土文類」 でいわれるような真・仮 (真実・方便) を分別する意味ではない。</ref>あるなり。
  
また善導和尚は弥陀の化身なり、浄土の祖師おほしといへとも、たたひとへに善導による。往生の行おほしといゑとも、おほきにわかちて二としたまへり。一には専修、いはゆる念仏なり。二には雑修なり、いはゆる一切のもろもろの行なり。上にいふところの定散等これなり。『往生礼讃』に云く、「若能如上念念相続、畢命爲期者、十即十生、百即百生」と云へり、専修と雑行との得失なり。得といふは、往生する事をうるといふ。いはく、念仏するものは、すなわち十は十人なから往生し、百はすなわち百人なから往生<span id="P--186"></span>すといふこれなり。<br />
+
次にまた十方の行者の本尊のために、小身を現したまへる化仏あり、天竺の鶏頭摩寺(けいずまじ)の五通<ref>五通。◇五神通のこと。</ref>の菩薩、神足通をして極楽世界にまうでて、仏にまふしてまうさく、娑婆世界の衆生、往生の行を修せむとするに、その本尊なし、仏ねがわくは、ために身相を現じたまへと、仏すなわち菩薩の請におもむきて、樹の上に化仏五十体を現じたまへり。<br />
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菩薩すなわちこれをうつして、よにひろめたり、鶏題摩寺の五通の菩薩の曼陀羅といへる、すなわちこれなり。<br />
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また智光の曼陀羅<ref>智光の曼陀羅。◇奈良の元興寺に伝わる智光が感得したという曼荼羅の図像に基づいて作られた浄土曼荼羅の総称。</ref>とて、世問に流布したる本尊あり、その因縁は、人つねにしりたる事なり、つぶさにまふすべからす、『日本往生伝』をみるべし。また新生の菩薩を教化し説法せむがために、化して小身を現じたまへることまします。これはこれ弥陀如来の化身の功徳、また略してかくのごとし。<br />
  
失といふは、いはく、往生の益をうしなえるなり。雑修のものは、百人が中に、まれに一二人往生する事をえて、そのほかは生せす。千人か中に、まれに三五人むまれて、その余はむまれす。専修のものはみなむまるることをうるは、なにのゆへそと、阿弥陀仏の本願に相応せるかゆへなり、釈迦如来のおしえに随順せるかゆへなり。雑業のものはむまるることのすくなきは、なむのゆへぞと、弥陀の本願にたがへるかゆへなり。念仏して浄土をもとむるものは、二尊の御こころにふかくかなへり。雑修をして浄土をもとむるものは、二仏の御こころにそむけり。善導和尚二行の得失を判せること、これのみにあらす、『観経の疏』と申すふみの中に、おほく得失をあげたり。しげきかゆへにいださす、これをもてしるへし。おほよそこの念仏は、そしれるものは地獄におちて、五劫苦をうくることきわまりなし。信するものは浄土にむまれて、永劫たのしみをうくることきわまりなし。なほなほいよいよ信心をふかくして、ふたこころなく念仏せさせたまふへし。くはしき事御ふみにつくしかたく候。
+
いまこの造立せられたまへる仏は<ref>師秀が自らの[[chu:逆修|逆修]]の為に造った仏像を前にしての御説法であるからこのようにいう。</ref>、祇薗精舎の<kana>風(ふ)</kana><ref>風(ふ)。◇おもむき、様子。</ref>をつたへて、三尺の立像をうつし、<span id="P--51"></span>最後終焉のゆふべを期して、来迎引接につくれり。おほよそ仏像を造画するに、種種の相あり。あるいは説法講堂の像あり、あるいは池水沐浴の像あり、あるいは菩提樹下成等正覚の像あり、あるいは光明遍照摂取不捨の像あり。かくのごときの形像を、もしはつくりもしは画したてまつる、みな往生の業なれども、来迎引接の形像は、なほその便宜をえたるなり。<br />
 +
かの尽虚空界の荘厳をみ、転妙法輪の音声をきき、七宝講堂のみぎりにのぞみ、八功徳池のはまにあそび、おほよそかくのごとく、種種微妙の依正二報<ref>依正二報。◇依報と正報の二種の果報のこと。正報とは過去の業(行為)の報いとして得た心身をいい、依報とはその心身のよりどころとなる国土・環境をいう。</ref>をまのあたり視聴せむことは、まづ終焉のゆふべに、聖衆の来迎にあづかりて、決定してかのくにに往生してのうえのことに候也。しかれはふかく往生極楽のこころざしあらむ人は、来迎引接の形像をつくりたてまつりて、すなわち来迎引接の誓願をあおぐべきものなり。<br />
  
===大胡の太郎實秀へつかわす御返事===
+
====来迎====
<span id="P--187"></span>
+
:このつかひ御申候へし上野のくにの住人、おほこの太郎と申もの、京へまかりのほりたるついてに、法然聖人にあひたてまつりて、念仏のしさいとひたてまつりて、本国へくたりて念仏をつとむるに、ある人申ていはく、いかなる罪をつくれとも、念仏を申せは往生す、一向専修なるへしといふとも、ときときは『法華経』おもよみたてまつり、また念仏申さむも、なにかはくるしからむと申けれは、まことにさるかたもありとて、法然聖人の御もとへ、消息にてこのよしを、いかかと申たりける御返事かくのことし。件の太郎は、このすすめによりて、めおとことも往生してけり。
+
  
聖人の御返事<br />
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その来迎引接の願といふは、すなわちこの四十八願の中の第十九の願なり。<br />
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人師これを釈するに、おほくの義あり、まづ臨終正念のために来迎したまへり、おもはく<ref>おもはく。◇思うことには。思ふのク用法。</ref>、病苦みをせめてまさしく死せむとするときには、かならず境界・自体・当生の三種の愛心<ref>三種の愛心。◇人の臨終の際に起こす三つの執着の心のこと。家族や財産などへの愛着である境界愛、自分自身の存在そのものに対する執着である自体愛、自身は死後どのようになるのかと憂える当生愛をいう。</ref>をおこすなり。しかるに阿弥陀如来、大光明をはなちて行者のまへに現じたまふとき、未曾有の事なるがゆへに、帰敬の心のほかに他念なくして、三種の愛心をほろぼして、さらにおこることなし。<br />
  
さきの便にさしあふ事候て、御ふみをだにみとき候さりしかば、御返事こまかに申さず、さだめておぼつかなくおぼしめし候覧と、おそれおもひ給候。さてはたづねおほせられて候ことともは、御ふみなとにて、たやすく申ひらくへきことにても候はず、あはれまことに、京にひさしく御とうりう候し時、よし水の坊にて、こまかに御さたありせば、よく候なまし、おほかたは、念仏して往生すと申ことばかりおば、わづかにうけたまはりて、わがこころひとつに、ふかく信じたるばかりにてそ候へども、人までつはびらかに申きかせなどするほどの身にては候はねば、ましていりたちたることども不審など、御ふみに申ひらくべしともおぼえ候はねど<span id="P--188"></span>も、わづかにうけたまはりおよびて候はむほどの事を、はばかりまいらせて、すべてともかくも御返事を申さざらむことのくちおしく候へは、こころのおよび候はむほどのことは、かたのごとく申さむとおもひ候也。<br />
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かつはまた仏、行者<span id="P--52"></span>にちかづきたまひて、加持<ref>加持。◇加持とは、サンスクリット語のadhisthana(アディシュターナ)の訳語で、もとは寄りそって立つこと。菩薩や仏が衆生にかかわりあうことである。</ref>護念したまふがゆへなり。『称讃浄土経』に、「慈悲加祐してこころをしてみだらざらしむ、すてに命をすておはりて、すなわち往生をえ、不退転に住す」といへり。<br />
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『阿弥陀経』に、「阿弥陀仏もろもろの聖衆とそのまへに現ぜむ、この人おわらむとき、心顛倒せずして、すなわち阿弥陀仏国土に往生をえむ」ととけり。令心不乱(心をして乱らざらしむ)と心不顛倒(心顛倒せずして)とは、すなわち正念に住せしむる義なり。<br />
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しかれば臨終正念なるがゆへに来迎したまふにはあらず、来迎したまふがゆへに臨終正念なりといふ義、あきらかなり。在生のあひだ往生の行成就せむひとは、臨終にかならず聖衆来迎をうべし。来迎をうるとき、たちまちに正念に住すべしといふこころなり。<ref>◇自らのなした行為の結果によって正念に住するから来迎があのではなく、仏の来迎があるから正念に住するのである、と、法然聖人は来迎の意味を反転されておられる。つまり当時流布していた正念来迎説を否定しておられた。 この正念を究極的に推し進めれば、念仏衆生摂取不捨と信知することは正念であり、親鸞聖人による「しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ'''正念'''なりと、知るべしと」[[顕浄土真実行文類#no12|(*)]]という正念であり、如来を主体とした他力回向、つまり本願力回向論の正念になるのは当然であろう。ここで注意すべきは、御開山は弥陀の来迎そのものを完全否定しているのではないということである。もしそうであるならば、この『西方指南抄』を書き残される筈がない。往生決定は信の一念にあるという本願の思し召しに立たれて、臨終来迎を願い求めることを否定されたのである。<br />御消息(1)の、「来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。」の文は、来迎(を自力で願い求めて本願力を疑う者)は諸行往生にあり、と読むべきであろう。出来上がった教学の上で論ずるより、法然・親鸞両聖人の上で、このご法義を味わうべきであろう。文責:林遊@なんまんだぶ。</ref><br />
 +
しかるにいまのときの行者、おほくこのむねをわきまえずして、ひとへに[[chu:尋常|尋常]]の行においては怯弱生して、はるかに臨終のときを期して、正念をいのる、もとも僻韻<ref>僻韻(へきいん)。◇僻案と同意か。かたよった考え。誤った言い方。◇現在ただいまの尋常の可聞可称の〈なんまんだぶ〉を肯わずに、臨終を期すことを誤った考え方であるとされる。</ref>なり。<br />
  
まづ三心具足して往生すと申事は、まことにその名目ばかりをうちきくおりは、いかなるこころを申やらむと、ことごとしく<ref>事事しく。仰々しい。ものものしい。</ref>おほえ候ぬべけれとも、善導の御こころにて、こころやすき事にて候なり、もしならひさたせざらむ無智の人、さとりなからむ女人などは、え具せぬほどのこころえにては候はぬなり、まめやかに往生せむとおもひて念仏申さむ人は、自然に具足しぬへきこころにて候ものを。<br />
+
しかればよくよくこのむねをこころえて、尋常の行業において怯弱のこころをおこさずして、臨終正念において決定のおもひをなすべきなり、これはこれ至要の義なり、きかむ人こころをとどむへし。この臨終正念のために来迎すといふ義は、静慮院の静照法橋の釈なり。<ref>◇静照(~1003)の『四十八願釈』の第十九願の解釈に「雖聞称名 皆得往生。然命終時 心多顛倒。弘誓大悲 不得晏然 故与大衆 現其人前。」(称名を聞きて皆な往生すといえども、しかるに命終の時、心おおく顛倒す。弘誓の大悲、晏然(あんぜん:安らかで落ち着いた様子)たるを得ざるが故に、大衆とともに其の人の前に現ず。)[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch/search/image.php?lineno=Z04_0005B06 『四十八願釈』]とある。</ref><br />
そのゆへは、三心と申は、『観無量寿経』にとかれて候やうは、「もし衆生あて、かのくににむまれむとねがはむものは、三種の心をおこして、すなはち往生すべし。なにおか三とする、一には至誠心、二には深心、三には迴向発願心なり。三心を具せるもの、かならずかのくににむまる」ととかれたり。しかるに善導和尚の御こころによらば、はじめの至誠心といふは真実心なり。真実といふは、うちにはむなしくして、外にはかざるこころなきを申也。すなわち観無量寿経を釈してのたまはく、「外に賢善精進の相を現して、内には虚仮をいだく事な<span id="P--189"></span>かれ」と。この釈のこころは、内にはおろかにして、外にはかしこき人とおもはれむとふるまひ、内には悪をつくりて、外には善人のよしをしめし、内には懈怠にして、外には精進の相を現ずるを、実ならぬこころとは申也。<br />
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内にも外にも、ただあるままにて、かざるこころなきを、至誠心とはなづけたるにこそ候めれ。<br />
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二には深心とは、すなわちふかく信ずるこころなり。なに事をふかく信ずるぞといふに、もろもろの煩悩を具足して、おほくのつみをつくりて、余の善根なからむ凡夫、阿弥陀仏の大悲の願をあふぎて、そのほとけの名号をとなえて、もしは百年にても、もしは四五十年にても、もしは十二十年乃至一二年、すべておもひはじめたらむより、臨終の時にいたるまて、退せざらむ、もしは七日・一日、十声一声にても、おほくもすくなくも、称名念仏の人は決定して往生すと信じて、乃至一念もうたがふ事なきを、深心と也。しかるに、もろもろの往生をねがふ人も、本願の名号おばたもちながら、なほ内に妄念のおこるにもおそれ、外に余善のすくなきによりて、ひとへにわがみをかろめて、往生を不定におもふは、すでに仏の本願をうたがふなり。<br />
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次に道の先達のために来迎したまふといへり、あるいは『往生伝』に、沙門志法か遺<span id="P--53"></span>書にいはく<br />
されば善導は、はるかに未来の行者の、このうたがひをのこさむ事をかがみて、うたがひをのぞきて、決定心をすすめむがために、煩悩を<span id="P--190"></span>具してつみをつくりて、善根すくなくさとりなからむ凡夫、一声まての念仏、決定して往生すべきことわりを、こまかに釈してのたまへるなり。たとひおほくの仏、そらの中にみちみちて、ひかりをはなち、御したをのべて、つみをつくれる凡夫、念仏して往生すといふ事は、ひがことなり、信ずへからずとのたまふとも、それによりて一念も、おどろきうたがふこころあるべからず。<br />
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 我在生死海 幸値聖船筏<br />
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 我所顕真聖 来迎卑穢質<br />
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 若忻求浄土 必造画形像<br />
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 臨終現其前 示道路摂心<br />
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 念念罪漸尽 随業生九品<br />
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 其所顕聖衆 先讃新生輩<br />
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 仏道楽増進<ref>我れ生死海にありて幸いに聖船の筏にもうあえり。我が顕ずるところの真聖、卑穢の質を来迎したまう。もし浄土を欣求するに必ず形像造画せよ。臨終に其の前に現じて、摂心して道路を示すなり。念念に漸く罪を尽し、業に随いて九品に生ず。其の顕るところの聖衆は、まず新生の輩を讃じ、仏道の楽を増進せん。</ref> 云云<br />
 +
これすなわち、この界にして造画するところの形像、先達となりて浄土におくりたまふ証拠なり。<br />
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また『薬師経』をみるに、浄土をねがふともがら、行業いまださたまらずして、往生のみちにまどふことあり。<br />
 +
すなわち文{玄奘訳}にいはく、「よく受持すること八分斎戒をあらむ、あるいは一年をへ、あるいはまた三月受持せむ。まなぶところこの善根をもて、西方極楽世界無量寿仏のみもとにむまれむと願して、正法を聴聞すれども、いまださだまらざるもの、もし世尊薬師琉璃光如来の名号をきかむ。命終のときにのぞみて、八菩薩あて神通に乗してきたりて、その道路をしめさむ、すなわちかの界にして、種種の雑色衆宝華の中に、自然に化生す」<ref>
 +
『薬師琉璃光如来本願功徳経』に「復次に曼殊室利よ、若し四衆の苾芻(びっしゅ:比丘)・苾芻尼(びっしゅに:比丘尼)・鄔波索迦(うばそか:優婆塞)・鄔波斯迦(うばしか:優婆夷)、及び余の浄信の善男子・善女人等有りて、能く八分斎戒を受持すること、或は一年を経、或は復三月、学処を受持すること有らん。<br>
 +
此の善根を以て、西方極楽世界 無量寿仏の所に生れて、正法を聴聞せんことを願い未だ定まらざる者、若し世尊、薬師瑠璃光如来の名号を聞かば、命終の時に臨んで八大菩薩有り、其の名を文殊師利菩薩・観世音菩薩・得大勢菩薩・無尽意菩薩・宝檀華菩薩・薬王菩薩・薬上菩薩・弥勒菩薩と曰う。
 +
八大菩薩は空に乗じて来りて其の道路を示し、即ち彼の界、種種の雑色の衆の寳華の中に於て、自然に化生せん。
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[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T0450_,14,0406b08:0450_,14,0406b05.html] とある。</ref>といへり。<br />
 +
もしかの八菩薩その道路をしめさずは、ひとり往生することえがたきにや。これをもておもふにも、弥陀如来もろもろの聖衆とともに、行者のまへに現じて、きたりて迎接したまふも、みちびきて道路をしめしたまはむがためなりといふ義、まことにいはれたることなり。<br />
 +
娑婆世<span id="P--54"></span>界のならひも、みちをゆくには、かならず先達といふものを具する事なり、これによて、御廟の僧正<ref>御廟の僧正。◇源信僧都の師、慈恵大師良源。良源僧正は第十九願をもって浄土往生の願とされた。参考:「良源僧正は、第十八願は五逆と誹謗を犯していない凡夫の往生を誓った願であるが、その往生業は深妙ではないから臨終の来迎が誓われていない。それに引き替え第十九願に臨終来迎が誓われているのは、菩提心を発し、諸の功徳を修した勝れた行者であるからであって、当然第十八顧より第十九願の方が深妙な往生業が誓われている。」という。(梯實圓和上『顕浄土方便化身土文類講讃』より)[[三生果遂]]</ref>は、かの来迎の願をば、現前導生の願となづけたまへり。<br />
  
そのゆへは、阿弥陀仏いまだ仏になりたまはざりしむかし、もしわれ仏になりたらむに、わか名号をとなふる事、十声・一声までせむもの、わがくににむまれずは、われ仏にならじと、ちかひたまひたりし。その願むなしからずして、すでに仏になりたまへり。しるべし、その名号をとなえむ人は、かならず往生すべしといふことを。また釈迦仏この娑婆世界にいでて、一切衆生のために、かの阿弥陀仏の本願をとき、念仏往生をすすめたまへり。また六方の諸仏はその説を証誠したまへり。このほかにいづれの仏の、またこれらの諸仏にたがひて、凡夫往生せずとはのたまふべきぞといふことわりをもて、仏現じてのたまふとも、それにおどろきて、信心をやぶり、うたがひをいたす事あるべからす。いはむや仏たちののたまはむおや、いはむや辟<span id="P--191"></span>支仏等をやと、こまこまと釈したまひて候也。<br />
+
次に対治魔事のために来迎すとふ義あり、道さかりなれば魔さかりなりとまふして、仏道修行するには、かならず魔の障難のあひそふなり。<br />
いかにいはむや、このころの凡夫のいひさまたげむおや。いかにめでたき人と申とも、善導和尚にまさりて、往生のみちをしりたらむ事もかたく候。善導またただの凡夫にあらず、すなわち阿弥陀仏の化身なり。かの仏わが本願をひろめて、ひろく衆生に往生せさせむれうに、かりに人とむまれて、善導とは申なり。そのおしえ申せば、仏説にてこそ候へ。いかにいはむや垂跡のかたにても、現身に三昧をえて、まのあたり浄土の荘厳おもみ、仏にむかひたてまつりて、ただちに仏のおしへをうけたまはりて、のたまへることばどもなり。<br />
+
真言宗の中には、誓心決定すれは魔宮振動すといへり、天台止観の中には、四種三昧を修行するに、十種の境界おこる中に、魔事境来といへり。また菩薩三祇百劫の行すでになりて、正覚をとなふるときも、第六天の魔王きたりて、種種に障礙せり。<br />
本地をおもふにも、垂跡をたつぬるにも、かたかたあふきて信すへきおしえなり。しかればたれだれも、'''煩悩のうすくこきおもかへりみす、罪障のかろきおもきおもさたせず、ただくちにて南無阿弥陀仏ととなえば、こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし、'''決定心を、すなわち深心となづく。その信心を具しぬれば、決定して往生するなり。詮ずるところは、ただとにもかくにも、念仏して往生すといふ事をうたがはぬを、深心とはなつけて候なり。<br />
+
いかにいはむや凡夫具縛の行者、たとひ往生の行業を修すといふとも、魔の障難を対治せすば、往生の素懐をとげむことかたし。しかるに阿弥陀如来、無数の化仏菩薩聖衆に囲繞せられて、光明赫奕として行者のまへに現じたまふときには、魔王もここにちかずきこれを障礙することあたはず。<br />
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しかればすなわち、来迎引接は魔障を対治せむがためなり、来迎の義、略を存するにかくのごとし。これらの義につきておもひ候にも、おなじく仏像をつくらむには、来迎の像をつくるべきとおぼえ候なり、仏の功徳大概かくのごとし。<br />
  
三には迴向発願心と申は、これ別のこころにては候はず、わが所修の行を一向に迴向して、往生をねがふこころなり、「かく<span id="P--192"></span>のごとく三心を具足して、かならず往生す、このこころひとへにかけぬれは往生せず」と、善導は釈したまへるなり。たとひまことのこころありて、うへをかざらすとも、仏の本願をうたがはば、深心かけたるこころなり。たとひうたがふこころなくとも、うへをかざりて、うちにまことにおもふこころなくば、至誠心かけたるこころなるべし。たとひまたこのふたつのこころを具して、かざりごころもなく、うたがふこころもなくとも、極楽に往生せむとねがふこころなくば、迴向発願心すくなかるべし。また三心とわかつおりは、かくのごとく別別になるやうなれども、詮するところは、真実のこころをおこして、ふかく本願を信じて、往生をねがはむこころを、三心具足のこころとは申へき也。まことにこれほどのこころをだにも具せすしては、いかか往生ほどの大事おばとけ候へき。このこころを申せは、またやすきことにて候ぞかし。これをかやうにこころえしらねばとて、三心具せぬにては候はぬなり。<br />
+
====浄土三部経====
そのなをだにもしらぬものも、このこころおばそなえつべく、またよくよくしりたらむ人の中にも、そのままに具せぬも候ぬべきこころにて候なり。さればこそ、いふかひなき人のなかよりも、ただひとへに念仏申ばかりにて、往生したりとふことは、むかしより申つた<span id="P--193"></span>えたることにて候へ。それはみなしらねとも、三心を具したる人にてありけりと、こころうる事にて候なり。<br />
+
またとしごろ念仏申たる人の臨終わるき事の候は、さきに申つるやうに、うへばかりをかざりて、たうとき念仏者なと、人にいはれむとのみおもひて、したにはふかく本願おも信せず、まめやかに往生おもねがわぬ人にてこそは候らめとこそは、こころえられ候へ。<br />
+
さればこの三心を具せぬゆへに、臨終もわるく、往生もえせぬとは申候也。かく申候へば、さては往生は大事にこそあむなれ<ref>あり+なり、あんなれ。大へん難しいものであるそうだ。</ref>とおぼしめす事、ゆめゆめ候まじ。一定往生すべきぞとおもひとらぬこころを、やがて深心かけて往生せぬこころとは申候へば、いよいよ一定とこそおぼしめすべき事にて候へ。<br />
+
まめやかに往生のこころさしありて、弥陀の本願うたがはすして、念仏申さむ人は、臨終わるきことは、おほかた候まじきなり。<br />
+
そのゆへは、仏の来迎したまふ事は、もとより行者の臨終正念のためにて候なり。それをこころえぬ人は、みなわが臨終正念にて念仏申たらむおりに、仏はむかへたまふべきとのみこころえて候は、仏の願おも信ぜず、経の文おもこころえぬにて候なり。<br />
+
『称讃浄土経』には、「慈悲をもてくわえたすけて、こころをしてみだらしめたまはず」と、とかれて候也。ただの<span id="P--194"></span>時に、よくよく申おきたる念仏によりて、臨終にかならず仏来迎したまふ。仏のきたり現じたまへるをみたてまつりて、正念には住すと申しつたえて候なり。<br />
+
しかるに、さきの念仏おはむなしくおもひなして、よしなき臨終正念おのみいのる人などの候は、ゆゆしきひがゐむにいりたることにて候なり。されば仏の願を信ぜむ人は、かねて臨終うたがふこころあるべからすとこそはおぼへ候へ。ただたうじより申さむ念仏おぞ、いよいよもこころをいたして申候べき。いつかは仏の願にも、臨終の時念仏申たらむ人おのみむかへむとは、たてたまひて候。臨終の念仏にて往生をすと申ことは、往生おもねがはす、念仏おも申さずして、ひとへにつみをのみつくりたる悪人の、すでにしなむとする時に、はじめて善知識のすすめにあひて、念仏して往生すとこそ、『観経』にもとかれて候へ。もとよりの行者、臨終のさたは、あなかちにすべきやうも候はぬなり。仏の来迎一定ならば、臨終正念はまた一定とおぼしめすべきなり。この御こころをえて、よくよく御こころをととめて、こころえさせたまふべきことにて候なり。<br />
+
  
またつみをつくりたる人だにも、念仏して往生す、まして『法華経』などよみて、また念仏申さむは、などかはあしかるべきと、人人の申候らむことは、京へむにも、さ<span id="P--195"></span>やうに申候人人おほく候へば、まことにさそ候らむ。これは余の宗のこころにてこそは候はめ。よしあしをさため申候べきことに候はず。ひがことと申候はば、おそれあるかたもおほく候。<br />
+
次に三部経は、いま三部経となづくることは、はじめてまふすにあらず、その証これおほし。いはく、大日の三部経は、『大日経』・『金剛頂経』・『蘇悉地経』等これなり。弥勒の<span id="P--55"></span>三部経、『上生経』・『下生経』・『成仏経』等これなり。鎮護国家の三部経は、『法華経』・『仁王経』・『金光明経』等これなり。法華の三部経、『無量義経』・『法華経』・『普賢経』等これなり。<br />
ただし浄土宗のこころ、善導の御釈には、往生の行を、おほきにわかち二とす。一には正行、二には雑行也。はじめの正行といふは、それにまたあまたの行あり。はじめに読誦の正行、これは『大無量寿経』・『観無量寿経』・『阿弥陀経』等の三部経をよむなり。<br />
+
これすなわち三部経となづくる証拠なり。いまこの弥陀の三部経は、ある人師{智顗十疑論}のいはく、「浄土の教に三部あり、いはく、『双巻無量寿経』・『観無量寿経』・『阿弥陀経』等これなり。」<br />
つぎに観察正行、これは極楽の依正二報のありさまを観ずるなり。つぎに礼拝正行、これも阿弥陀仏を礼拝するなり。<br />
+
これによて、いま浄土の三部経となづくるなり、あるいはまた弥陀の三部経ともなづく、またある師{窺基(きき)小経疏}のいはく、「かの三部経に『鼓音声経』をくわえて、四部となつく」といへり。<br />
つぎに称名正行、これは南無阿弥陀仏ととなふるなり。つぎに讃嘆供養正行、これは阿弥陀仏を讃嘆供養したてまつるなり。これをさして五種の正行となづく。讃嘆と供養とを二にわかつには、六種の正行とも申なり。また「この正行につきて、ふさねて二種とす。一には一心にもはら弥陀の名号をとなえて、たちゐ・おきふし・よるひる、わするることなく、念念にすてざるを、正定の業となづく。かの仏の願によるがゆへに」と申て、念仏をもて、まさしきさだめたる往生の業にたてて、「礼誦等によるおば。なづけて助業とす」と申て、念仏のほかの礼拝や読誦や観察や讃嘆供養なとおば、かの念仏者をたすくる業と申候なり。<br />
+
おほよそ諸経の中に、あるいは往生浄土の法をとくあり、あるいはとかぬ経あり、『華厳経』にはこれをとけり、すなわち『四十華厳』の中の普賢の十願これなり、『大般若経』の中にすべてこれをとかず。<br />
 +
『法華経』の中にこれをとけり、すなわち薬王品の「即往安楽世界」の文これなり、『涅槃経』にはこれをとかず、また真言宗の中には、『大日経』・『金剛頂経』に、蓮華部にこれとくいゑども、大日の分身なり、別(わき)てとけるにはあらず。<br />
 +
もろもろの小乗経には、すべて浄土をとかず。しかるに往生浄土をとくことは、この三部経にはしかず、かるかゆへに浄土の一宗には、この三部経をもてその所縁とせり。<br />
  
さてこの正定の業と助業とをのぞき<span id="P--196"></span>て、そのほかの諸行おば、布施・持戒・忍辱・精進等の六度万行も、法華経おもよみ、真言おもおこなひ、かくのごとくの諸行おば、みなことごとく雑行となづく。さきの正行を修するおば、専修の行者といふ、のちの雑行を修するを、雑修の行者と申也。この二行の得失を判するに、「さきの正行を修するには、こころつねにかのくにに親近して、憶念ひまなし。のち雑行を行するには、こころつねに間断す、迴向してむまるることをうべしといゑとも、疎雑の行となづく」といひて、極楽にはうとき行とたてたり。また「専修のものは、十人は十人ながらむまれ、百人は百人ながらむまる。なにをもてのゆへに、外の雑縁なし、正念をうるがゆへに、弥陀の本願と相応するかゆへに、釈迦のおしえにしたがふがゆへに、恒沙の諸仏のみことにしたかふかゆへに。
+
====浄土宗名====
雑修のものは、百人に一二人、千人に四五人むまる。なにをもてのゆへに、雑縁乱動す、正念をうしなふかゆへに、弥陀の本願に相応せざるかゆへに、釈迦のおしへにしたがはざるかゆへに、諸仏のみことにたしがはざるかゆへに、繋念相続せさるかゆへに、憶想間断するかゆへに、名利と相応するかゆへに、自障障他するかゆへに、このみて雑縁にちかつきて、往生の正行をさふるかゆへに」と、釈せられて候めれは、善導和尚をふかく信じて、浄土宗<span id="P--197"></span>にいらむ人は、一向に正行を修すべしと身事にてこそ候へ。<br />
+
そのうへに、善導のおしえをそむきて、よの行を修せむとおもはむ人は、おのおのならひたるやうどもこそ候らめ。それをよしあしとはいかが申候べき。善導の御こころにてすすめたまへる行どもをおきながら、すすめたまはざる行を、すこしにてもくはふべきやうなしと申ことにて候なり。すすめたまひつる正行ばかりをだにも、なほものうきみに、いまだすすめたまはぬ雑行をくはへん事は、まことしからぬかたも候ぞかし。
+
  
またつみをつくりたる人だにも往生すれば、まして善なれば、なにかくるしからむと申候らむこそ、むげにけきたなくおぼえ候へ。往生おもたすけ候はばこそは、いみじくも候はめ。さまたげになりならぬばかりを、いみじき事にてくはえおこなはむこと、なにかせむにて候べき。<br />
+
またこの浄土の法門において宗の名をたつること、はじめてまふすにあらず、その<span id="P--56"></span>証拠これおほし。少少これをいださは、元暁の『遊心安楽道』に、「浄土宗の意ろ本爲凡夫兼爲聖人也」といへる、その証なり。かの元暁は華厳宗の祖師なり。<br />
悪をば、されば仏の御こころに、このつみつくれとやはすすめさせたまふ、かまえてとどめよとこそは、いましめたまへとも、凡夫のならひ、当時のまどひにひかれて悪をつくる、ちからおよばぬ事にてこそ候へ。まことに悪をつくる人のやうに、しかるべくて、経をよみたく、余の行おもくはへたからむは、ちからおよはず候。<br />
+
慈恩の『西方要決』に、「依此一宗」といえるなり。またその証なり。<br />
ただし『法華<span id="P--198"></span>経』などよまむことを、一言も悪をつくらむことにいひくらべて、それもくるしからねば、ましてこれもなど申候はむこそ、不便のことにて候へ。ふかきみのりも、あしくこころうる人にあひぬれは、かへりてものならずきこえ候こそ、あさましく候へ。これをかやうに申候おば、余行の人人はらたつことにて候に、御こころひとつにこころえて、ひろくちらさせたまふましく候。あらぬさとりの人人の、ともかくも申候はむ事おば、ききいれさせたまはで、ただひとすぢに、善導の御すすめにしたがひて、いますこしも、一定往生する念仏のかずを、申あはむとおぼしめすべく候。<br />
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かの慈恩は法相宗の祖師なり、迦才の『浄土論』には、「此一宗窃要路たり」といへる、またその証なり。善導『観経の疏』に「真宗叵遇」といへる、またその証なり。かの迦才・善導は、ともにこの浄土一宗をもはらに信ずる人なり。<br />
たとひ往生のさわりとこそならずとも、不定往生とはきこえて候めれば、一定往生の行を修べきいとまをいれて、不定往生の業をくわえむ事は、損にて候はずや、よくよくこころうべき事にて候なり。ただし、かく申候へば、雑行をくわえむ人、ながく往生すまじと申にては候はず。いかさまにも余の行人なりとも、すべて人をだたし、人をそしる事は、ゆゆしきとが、おもきことにて候なり。よくよく御つつしみ候て、雑行の人なればとて、あなづる御こころ候まじ。よかれあしかれ、人のうえの善悪をおもひいれぬが、よきことにて候也。またもとよりこころざしこの門にありて、すすむべからむ人おば、こしらへす<span id="P--196"></span>すめたまふべく候。<br />
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さとりたがひあらぬさまならむ人などに、論じあふ事は、ゆめゆめあるまじき事にて候なり。よくよくならひしりたまひたるひじりだにも、さやうの事おば、つつしみておはしましあひて候。ましてとのばらなどの御身にては、一定ひが事にて候はむずるに候。ただ御身ひとつに、まづよくよく往生をもねがひ、念仏おもはげませたまひて、くらゐたかく往生して、いそぎ
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かへりきたりて、人おもみちびかむとおぼしめすべく候。かやうにこまかにかきつつけて申候へとも、返返はばかりおもひて候なり。あなかしこあなかしこ。
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御ひろうあるましく候。御らむじこころえさせたまひてのちには、とくとくひきやらせたまふへく候。あなかしこあなかしこ。<br />
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自宗・他宗の釈すでにかくのごとし、しかのみならず、宗の名をたつることは、天台・法相等の諸宗みな師資相承による、しかるに浄土宗に師資相承血脈次第あり。<br />
 +
いはく菩提流支三蔵・恵寵法師・道場法師・曇鸞法師・法上法師・道綽禅師・善導禅師・懐感禅師・小康法師等なり、菩提流支より法上にいたるまでは、道綽の『安楽集』にいだせり、自他宗の人師すでに浄土一宗となづけたり。浄土宗の祖師また次第に相承せり。<br />
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これによて、いま相伝して浄土宗となづくるものなり、しかるを、このむねをしらざるともがらは、むかしよりいまだ八宗のほかに浄土宗といふことをきかずと、難破することも候へば、いささかまふしひらき候なり。<br />
  
  三月十四日 源空<br />
+
おほよそ諸宗の法門、浅深あり広狭あり。すなわち真言・天台等の諸大乗宗は、ひろくしてふかし、倶舎・成実等の小乗宗は、ひろくしてあさし。この浄土宗は、せばくしてあさし。<br /><span id="P--57"></span>
 +
しかれば、かの諸宗は、いまのときにおいて機と教と相応せず。教はふかし機はあさし、教はひろくして機はせばきがゆへなり。たとへ韻たかくしては和することすくなきがごとし。<br />
 +
またちゐさき器に大なるものをいるるかごとし。ただこの浄土の一宗のみ機と教と相応せる法門なり。かるがゆへに、これを修せばかならす成就すべきなり。しかればすなわち、かの不相応の教においては、いたはしく身心をついやすことなかれ。ただこの相応の法に帰して、すみやかに生死をいづへきなり。今日講讃せられたまへるところは、この三部の中の『双巻無量寿経』と『阿弥陀経』となり。<br />
  
===正如房へつかわす御文===
+
====大経====
  
 しやう如ばうの御事こそ、返返あさましく候へ。そののちは、こころならずうときやうになりまいらせ候て、念仏の御信もいかかと、ゆかしくはおもひまいらせ候つれとも、さしたる事候はず。<br />
+
まづ『無量寿経』には、はじめに弥陀如来の因位の本願をとく、次にはかの仏の果位の二報荘厳をとけり。しかればこの経には、阿弥陀仏の修因感果の功徳をとくなり 乃至 一一の本誓悲願、一一の願成就の文にあきらかなり。つぶさに釈するにいとまあらす。<br />
また申べきたよりも候はぬやうにて、おもひなから、なにとなくて、むなしくまかりすき候つるに、ただれいならぬ御事、大事になとばか<span id="P--200"></span>りうけたまはり候はむ。<br />
+
いま一どは、みまいらせたく、おはりまでの御念仏の事へ、おぼつかなくこそおもひまいらせ御候べきに、まして御こころにかけて、つねに御たづね候らむこそ、まことにあはれにも、こころくるしくも、おもひまいらせ候へ。
+
  
さうなくうけたまはり候ままに、まかり候て、みまいらせたく候へども、おもひきりて、しばしいでありき候はで、念仏申候ばやと、おもひはじめたる事の候を、やうにこそよる事にて候へ。<br />
+
その中に衆生往生の因果をとくといふは、すなわち念仏往生の願成就の「諸有衆生聞其名号」の文、および三輩の文これなり。もし善導の御こころによらば、この三輩の業因について、正・雑の二行をたてたまへり。正行についてまた二あり。正定・助業なり。三輩ともに一向専念といへる、すなわち正定業な<span id="P--58"></span>り、かの仏の本願に順するかゆへに。またそのほかに助業あり雑行あり 乃至 おほよそこの三輩の中に、おのおの菩提心等の余善をとくといゑども、上の本願をのぞむには、もはら弥陀の名号を称念せしむるにあり。<br />
これおば退してもまいるべきにて候に、またおもひ候へば、せむじては、このよの見参は、とてもかくても候なむ、かばねをしよ(執)するまどひにもなり候ぬべし。<br />
+
かるがゆへに一向専念といへり。上の本願といふは、四十八願の中の第十八の念仏往生の願をさすなり。一向のことば、二三向に対する義なり、もし念仏のほかに、ならべて余善を修せば、一向の義にそむくべきなり。往生をもとめむ人は、もはらこの経によて、かならずこのむねをこころうべきなり。<br />
たれとても、とまりはつべきみちも候はず、われも人も、ただおくれさきだつかはりめばかりにてこそ候へ。<br />
+
そのたえまをおもひ候も、またいつまでかとさだめなきうえに、たとひひさしと申とも、ゆめまぼろし、いくほどかは候べきなれば、ただかまへて、おなじ仏のくににまいりあひて、はちすのうえにて、このよのいぶせさおもはるけ、ともに過去の因縁おもかたり、たかひに未来の化道おもたすけむことこそ、返返も詮にて候へきと、はしめより申おき候しか、返返も本願をとりつめまいらせて、一念もうたがふ御こころなく、こゑも南無阿弥陀仏と申せは、わがみはたとひ、いかにつみふかくとも、仏の願力によりて、一定往生するそとおほしめして、よくよく<span id="P--201"></span>ひとすぢに、御念仏の候べきなり。
+
  
われらが往生は、ゆめゆめわがみのよきあしきにはより候まし。ひとへに仏の御ちからばかりにて候へきなり。わがちからばかりにては、いかにめでたくたうとき人と申とも、末法のこのごろ、ただちに浄土にむまるほどの事は、ありがたくそ候へき。<br />
+
====小経====
また仏の御ちからにて候はむに、いかにつみふかく、おろかにつたなきみなりとも、それにはより候まし、ただ仏の願力を信じ信ぜぬにぞより候べき、
+
  
されは『観無量寿経』にとかれて候。むまれてよりこのかた、念仏一遍も申さず、それならぬ善根もつやつやとなくて、あさゆふ、ものをころし、ぬすみし、かくのごときのもろもろのつみをのみつくりて、とし月をゆけとも、一念も懺悔のこころもなくて、あかしくらしたるもののおはりの時に、善知識のすすむるにあひて、たたひとこゑ南無阿弥陀仏と申たるによりて、五十億劫のあひた生死にめくるへきつみを滅して、化仏菩薩三尊の来迎にあつかりて、汝仏のみなをとなふるかゆへに、つみ滅せり、われきたりて、なむぢをむかふと、ほめられまいらせて、すなわちかのくにに往生すと候。<br />
+
次に『阿弥陀経』は、はじめには極楽世界の依・正二報をとく。<br />
 +
次には一日・七日の念仏を修して往生することをとけり。のちには六方諸仏、念仏の一行において証誠護念したまふむねをとけり。すなわちこの経には余行をとかずして、えらびて念仏の一行をとけり 乃至 <span id="P--59"></span>おほよそ念仏往生は、これ弥陀如来の本願の行なり。教主釈尊選要の法なり、六方諸仏証誠の説なり。余行はしからず、そのむね経の文およひ諸師の釈つぶさなり。 乃至
  
また五逆罪と申候て、現身にちちをころし、ははをころし、悪心をもて仏をころしめ、諸僧を破し、かくのごとくおもきつみをつくり、一念懺悔のこころもなからむ、そのつみによりて、無間地獄におちて、おほくの劫をおくりて、苦をうくべ<span id="P--202"></span>からむもののおわりの時に、善知識のすすめによりて、南無阿弥陀仏と、十声となふるに、一こゑごとに、おのおの八十億劫のあひだ生死にめぐるべきつみを滅して、往生すととかれて候ぬれ。<br />
+
===第二七日 弥陀『観経』『同疏』一部。{略}===
さほどの罪人だにも、十声一声の念仏にて、往生のし候へば、まことに仏の本願のちからならでは、いかてかさること候べきとおぼへ候て、本願むなしからずといふことは、これにても信しつへくこそ候へ。これまさしき仏説にて候、仏ののたまふみことはば、一言もあやまたずと申候へは、ただあふぎて信ずべきにて候。これをうたがはば、仏の御そらことと申にもなりぬへく、かへりてはまた、そのつみに候ぬべしとこそおぼえ候へ。ふかく信ぜさせたまふへく候。
+
====観経====
  
さて往生はせさせおはしますまじきやうにのみ、申きかせまいらする人人の候らむこそ、返返あさましく、こころくるしく候へ。<br />
+
また経を釈するに仏の功徳もあらはれ、仏を讃ずれは経の功徳もあらわるるなり。<br />
いかなる智者めでたき人とおほせらるとも、それになほをどろかされ、おはしまし候ぞ。おのおののみちには、めでたくたうとき人なりとも、さとりあらず行ことなる人の申候ことは、往生浄土のためは、中中ゆゆしき退縁・悪知識とも申候ぬへきことともにて候。ただ凡夫のはからひおばききいれさせおはしまさで、ひとすぢに仏の御ちかひをたのみまいらせさせたまふへく候。<br /><span id="P--203"></span>
+
また疏は経のこころを釈したるものなれば、疏を釈せむに経のこころあらはるべし。みなこれおなじものなり、まちまちに釈するにあたはず。 乃至
  
さとりことなる人の、往生いひさまたげむによりて、一念もうたがふこころあるべからずといふことわりは、善導和尚のよくよくこまかにおほせられおきたることにて候也。
+
いまこの『観無量寿経』に二のこころあり。はじめには定・散二善を修して往生することをあかし、つぎには名号を称して往生することをあかす。 乃至 <span id="P--60"></span>
たとひおほくの仏、そらの中にみちみちて、ひかりをはなち、御したをのべて、悪をつくりたる凡夫なりとも、一念してかならす往生すといふことは、ひが事ぞ、信ずべからずとのたまふとも、それによりて、一念もうたがふこころあるべからす。<br />
+
<span id="P--61"></span>
  
其のゆへは、阿弥陀仏のいまだ仏になりたまはざりしむかし、はふめて道心をおこしたまひし時、われ仏になりたらむに、わが名号をとなふること、十声一声までせむもの、わがくににむまれずは、われ仏にならしと、ちかひたまひたりし、その願むなしからす、すてに仏になりたまへり、また釈迦仏この娑婆世界にいてて、一切衆生のために、かの本願をとき、念仏往生をすすめたまへり。<br />
+
『清浄覚経』の信不信の因縁の文をひけり。この文のこころは、「浄土の法門をとくをききて、信向してみのけいよだつものは、過去にもこの法門をききて、いまかさねてきく人なり、いま信するかゆへに、決定して浄土に往生すべし。<br />
 +
またきけどもきかざるがことくにて、すべて信ぜぬものは、はじめて三悪道よりきたりて、罪障いまだつきずして、こころに信向なきなり。いま信ぜぬがゆへに、また生死をいづることあるべからず」{安楽集巻上所引平等覚経意}といへるなり、詮ずるところは、往生人のこの法おば信じ候なり。 乃至<br />
 +
<span id="P--62"></span>
 +
天台等のこころは、十三観の上に九品の三輩観をくわへて、十六想観となづく。この定・散二善をわかちて、十三観を定善となづけ、三福九品を散善となづくること、善導一師の御こころなり。 乃至<span id="P--63"></span><br />
 +
<span id="P--64"></span>
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<span id="P--65"></span>
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<span id="P--66"></span>
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抑、近来の僧尼を、破戒の僧・破戒尼といふべからず。持戒の人破戒を制することは、正法・像法のときなり、末法には無戒名字の比丘なり。伝教大師『末法灯明記』に云。<br />
 +
「末法の中に持戒の者ありといはば、これ怪異なり、市に虎あらむがごとし、だれかこれを信ずべき」といへり。また{末法灯明記}いはく、「末法の中には、ただ言教のみあて行証なし、もし戒法あらば、破戒あるべし。すてに戒法なし、いつれの戒おか破せむによて破戒あらむ。破戒なほなし、いかにいはむや持戒おや」といへり。<br />
 +
まことに受戒の作法は、中国には持戒の僧十人を請して戒師とす。<br />
 +
辺地には五人を請して戒師として戒おばう<span id="P--67"></span>くるなり、しかるにこのこころは、持戒の僧一人もとめいださむに、えがたきなり。しかればうけての上にこそ破戒とことばもあれば、末代の近来は破戒なほなし、たた無戒の比丘なりとまふすなり。この経に破戒をとくことは、正・像に約してときたまへるなり。<br />
 +
乃至<br />
  
また六方恒沙の諸仏、この念仏して一定往生すと、釈迦仏のときたまへるは決定なり。もろもろの衆生、一念もうたがふべからず、ことごとく一仏ものこらず、あらゆる諸仏、みなことごとく証誠したまへり。すでに阿弥陀仏は願にたて、釈迦仏その願をとき、六方の諸仏その説を証誠したまへるうえに、このほかには、なに仏の、またこれらの諸仏にたがひて、凡夫往生せずとは、のたまふべきぞといふことわりをもて、仏現してのたまふとも、それにおどろき<span id="P--204"></span>て、信心をやぶり、うたがふこころあるべからす。<br />
+
====念仏往生====
いはむや菩薩達ののたまはむおや、上辟支仏おやと。こまごまと善導釈したまひて候也。
+
  
ましてこのごろの凡夫の、いかにも申候はむによりて、げにいかがあらむずらむなと、不定におほしめす御こころ、ゆめゆめあるましく候。よにめでたき人と申とも、善導和尚にまさりて、往生のみちをしりたらむこともかたく候、善導また凡夫にはあらず、阿弥陀仏の化身なり。阿弥陀仏の、わか本願ひろく衆生に往生せさせむれうに、かりに人にむまれて、善導とは申候なり。<br />
+
次に名号を称して往生することをあかすといふは、「仏阿難につげたまはく、なんぢよくこの語をたもて、この語をたもてといふは、すなわちこれ無量寿仏のみなをたもてとなり」{観経}とのたまへり。善導これを釈していはく。<br />
そのおしへ申せは、仏説にてこそ候へ、あなかしこあなかしこ。<br />
+
「仏告阿難汝好持是語といふより已下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通することをあかす。かみよりこのかた、定散・両門の益をとくといゑども、仏の本願をのぞむには、こころ衆生をして一向にもはら弥陀仏のみなを称するにあり」{散善義}とのたまへり。<br />
 +
<span id="P--68"></span>
 +
おほよそこの経の中には、定散の諸行をとくといゑども、その定散をもては付属したまはず、たた念仏の一行をもて阿難に付属して、未来に流通するなり。遐代に流通すといふは、はるかに法滅の百歳まてをさす。すなわち末法万年ののち、仏法みなて滅して、三宝の名字もきかざらむとき、ただこの念仏の一行のみとどまりて、百歳ましますへしとなり。<br />
 +
しかれは聖道門の法文もみな滅し、十方浄土の往生もまた滅し、上生都(兜)率もまたうせ、諸行往生もみなうせたらむとき、ただこの念仏往生の一門のみとどまりて、そのときも一念にかならず往生すべしといへり。<br />
 +
かるかゆへに、これをさして、とおき世とはいふなり。これすなわち、遠をあげて近を摂するなり。仏の本願をのぞむといふは、弥陀如来の四十八願の中の第十八の願をおしふるなり。<br />
 +
いま教主釈尊、定散二善の諸行をすてて、念仏の一行を付属したまふことも、弥陀の本願の行なるがゆへなり。<br />
 +
一向専念といふは、『双巻経』にとくところの三輩のもんの中の、一向専念をおしふるなり、一向のことば、余をすつることばなり。この経には、はじめにひろく定散をとくといゑども、のちには一向に念仏をゑらびて、付属し流通したまへるなり。<br />
 +
しかれは、とおくは弥陀の本願にしたがひ、ちかくは釈尊の付属をうけむとおもはば、一向に念仏の一行を修して往生をもとむへきなり。<br />
 +
<span id="P--69"></span>
  
うたがひおぼしめすまじく候。またはじめより、仏の本願に信をおこさせおはしまして候し御こころのほど、みまいらせ候しに、なにしにかは、往生はうたがひおぼしめし候べき、経にとかれて候ごとく、いまだ往生のみちもしらぬ人にとりてのことに候。
+
おほよそ念仏往生は諸行往生にすぐれたることおほくの義あり。<br />
  
もとよりよくよくきこしめししたためて、そのうへ御念仏功つもりたることにて候はむには、かならずまた臨終の善知識にあはせおはしまさずとも、往生は一定せさせおはしますべきことにてこそ候へ。中中あらぬすぢなる人は、あしく候なむ。ただいかならむ人にても、あま女房なりとも、つねに御まへ候はむ人に、念仏まうさせて、きかせおはしまして、御こころひとつをつよくおぼしめして、ただ中中一向に凡夫の善知識をお<span id="P--205"></span>ぼしめしすてて、仏を善知識にたのみまいらせさせたまふへく候。<br />
+
一には因位の本願なり、いはく、{{DotUL|弥陀如来の因位法蔵菩薩のとき、四十八の誓願をおこして、浄土をまふけて、仏にならむと願したまひしとき、衆生往生の行をたてて、えらびさためたまひしに、余行をはえらびすてて、ただ念仏の一行を選定して、往生の行にたてたまへり。これを'''選択の願'''といふことは、『大阿弥陀経』の説なり}}。<br />
もとより仏の来迎は、臨終正念のためにて候也。それを人のみな、わが臨終正念にして念仏申たるに、仏はむかへたまふとのみ、こころえて候は、仏の願を信ぜず、経の文をぜぬにて候也。<br />
+
『称讃浄土経』の文を信ぜぬにて候也。『称讃浄土経』には、慈悲をもてくわへたすけて、こころをしてみだらしめたまはすと、とかれて候也。ただのときによくよく申おきたる念仏によりて、仏は来迎したまふときに、正念には住すと申べきにて候也。<br />
+
たれも仏をたのむこころははすくなくして、よしなき凡夫の善知識をたのみて、さきの念仏おばむなしくおもひなして、臨終正念をのみ、いのることどもにてのみ候が、ゆゆしきひがゐむのことにて候なり。
+
これをよくよく御こころえて、つねに御めをふさぎ、たなごころをあはせて、御こころをしづめて、おぼしめすべく候。ねがわくは、阿弥陀仏の本願あやまたず、臨終の時かならず、わがまへに現じて、慈悲をくわえたすけて、正念に住せしめたまへと、御こころにもおぼしめして、くちにも念仏申させたまふへく候。これにすぎたる事候まし。
+
  
こころよわくおぼしめすことの、ゆめゆめ候まじきなり。かやうに念仏をかきこもりて申候はむなとおもひ候も、ひとへにわがみ一のためとのみは、もとよりおもひ候はず。おりしもこの御ことを、かくうけた<span id="P--206"></span>まはり候ぬれば、いまよりは一念ものこさず、ことごとくその往生の御たすけになさむと、迴向しまいらせ候はむずれば、かまへてかまへて、おぼしめすさまに、とげさせまいらせ候はばやとこそは、ふかく念じまいらせ候へ。<br />
+
二には光明摂取なり。これは阿弥陀仏、因位の本願を称念して、相好の光明をもて、念仏の衆生を摂取してすてたまはずして、往生せさせたまふなり、余の行者おば摂取したまはす。<br />
もしこのこころざしまことならは、いかでか御たすけにもならで候べき。たのみおぼしめさるべきにて候。<br />
+
おほかたは、申いで候しひとことばに、御こころをとめさせおはしますことも、このよひとつのことにては候はじと、さきのよもゆかしくあはれにこそ、おもひしらるることにて候へば、うけたまはり候ごとく、このたびまことに、さきだたせおはしますにても、またおもはずにさきだちまいらせ候事になる、さだめなさにて候とも、ついに一仏浄土にまいりあひまいらせ候はむことは、うたかひなくおほえ候。
+
  
ゆめまぼろしのこのよにて、いま一度などおもひ申候事は、とてもかくても候なむ。これおば、ひとすぢにおぼしめしすてていよいよもふかくねがふ御こころおもまし、御念仏おもはげませおはしまして、かしこにてまたむとおぼしめすべく候。返返もなほなほ往生をうたがふ御こころ候まじきなり。五逆十悪のおもきつみつくりたる悪人、なを十声一声の念仏によりて、往生をし候はむに、ましてつみつくらせおはします御事は、なにごとにかは候へき。たとひ候べきにても、いくほどのことかは候へき。<br />
+
三には弥陀みづからのたまはく、「これはこれ跋陀和菩薩、極楽世界にまうでて、いづれの行を修してかこのくにに往生し候べきと、阿弥陀仏にとひたてまつりしかば、仏こたへてのたまはく、わがくにに生ぜむとおもはば、わが名を念して休息することなかれ、すなわち往生することをえてむ」{一巻本般舟三昧経意}とのたまへり。余行おばすすめたまはず。<br />
この経<span id="P--207"></span>にとかれて候罪人には、いひくらぶべくやは候、それにまづこころをおこし、出家をとげさせおはしまして、めでたきみのりにも縁をむすび、ときにしたがひ日にそえて善根のみこそは、つもらせおはします事にて候はめ。そのうへ、ふかく決定往生の法文を信じて、一向専修の念仏にいりて、ひとすぢに弥陀の本願をたのみて、ひさしくならせおはしまして候。なに事にかは、ひとことも往生をうたがひおぼしめし候べき。
+
  
専修の人は、百人は百人ながら、十人十人ながら往生すと、善導のたまひて候へば、ひとりそのかずにもれさせおはしますべきかはとこそは、おぼえ候へ。善導おもかこち、仏の本願おもせめまいらせさせたまふべく候。こころよはくは、ゆめゆめおぼしめすましく候、あなかしこあなかしこ。
+
四には釈迦の付属にいはく、いまこの経に、念仏を付属流通したまへり。<br />
 +
余行おば付属せす。<br />
  
ことわりをや申ひらき候とおもひ候ほどに、よくおほくなり候ぬる。さやうのおりふし、こちなくやとおぼえ候へども、もしさすがのびたる御ことにてもま候らむ。えしり候はねば、このたひ申候はでは、いつおかはまち候べき。もしのどかにきかせおはしまして、一念も御こころをすすむるたよりにやなり候と、おもひ候はかりに、とどめえ候はて、これほどもこまかになり候ぬ。機嫌をしり候はぬは、はからひがたくて、わびしくこそ候へ。もしむげによはくならせおはしましたる御事にて候はば、<span id="P--200"></span>これはことながく候べきなり。要をとりてつたえまいらせさせおはしますねく候。うけたまはり候ままに、なにとなくあはれにおぼえ候て、おしかへしまた申候也。
+
五には諸仏証誠、これは『阿弥陀経』にときたまへるところなり、釈迦仏えらびて念仏往生のむねをときたまへば、六方の諸仏おのおのおなじくほめ、おなじくすすめて、広長のみしたをのべて、あまねく三千大千世界におほふて証誠したま<span id="P--70"></span>へり。<br />
 +
これすなわち一切衆生をして、念仏して往生することは決定してうたがふへからずと、信ぜしめむ料なり。余行おばかくのことく証誠したまはず。<br />
  
===越中国光明房へつかはす御返事===
+
六には法滅の往生、いはく、「万年三宝滅、斯経住百年、爾時聞一念、皆当得生彼」<ref>万年にして三宝滅せんに、この経(大経)住すること百年せん。その時聞きて一念せんに、みなまさにかしこに生ずることを得べし。</ref>{礼讃}といふて、末法万年ののち、ただ念仏の一行のみとどまりて、往生すべしといへることなり。余行はしからず。<br />
 +
しかのみならず、下品下生の十悪の罪人、臨終のとき、聞経と称仏と二善をならべたりといゑども、化仏来迎してほめたまふに、「汝称仏名故 諸罪消滅、我来迎汝」<ref>なんぢ仏名を称するがゆゑにもろもろの罪消滅す。われ来りてなんぢを迎ふ。</ref>
 +
{観経}とほめて、いまだ聞経の事おばほめたまはず。<br />
 +
また『双巻経』に三輩往生に業をとく中に、菩提および起立塔像等の余の行おもとくといゑども、流通のところにいたりて、「其有得聞 彼仏名号 歓喜踊躍 乃至一念、当知此人 爲得大利、則是具足 無上功徳」<ref>それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなりと。</ref>とほめて、余行をさして無上功徳とはほめたまはず。念仏往生の旨要をとるに、これにありと。
  
又故聖人の御坊の御消息
+
===第三日 阿弥陀仏『双巻経』・『阿弥陀経』===
 +
====光明功徳====
  
一念往生の義、京中にも粗流布するところなり、おほよそ言語道断のことなり。まことにほとおと御問におよぶべらさるなり。詮ずるところ、双巻経の下に、乃至一念信心歓喜といひ、また善導和尚は、上尽一形下至十声一声等定得往生、乃至一念無有疑心といえる、これらの文を、あしくみたるともがら、大邪見に住して申候ところなり。乃至といひ下至といえる、みな上尽一形をかねたることばなり。<br />
 
  
しかるをちかごろ、愚痴無智のともがら、おほくひとへに十念一念なりと執して、上尽一形を廃する条、無慚無愧のことなり。まことに十念一念までも、仏の大悲本願なほかならず、引接したまふ無上の功徳なりと信じて、一期不退に行すべき也。<br />
+
又云、仏の功徳は、百千万劫のあひだ、昼夜にとくとも、きわめつくすべからず。これによて教主釈尊、かの阿弥陀仏の功徳を称揚したまふにも、要の中の要をとりて、略してこの三部妙典をときたまへり。仏すでに略したまへり、当座の愚僧いかがくはし<span id="P--71"></span>くするにたえむ。ただ善根成就のために、かくのごとく讃嘆したてまつるべし。<br />
文証おほしといゑとも、これをいだすにおよばす、いふにたらさる事なり。ここにかの邪見の人、この難をかぶりて、こたえていはく、わがいふところも、信を一念にとりて念すへきなり。しかりとて、また念ずべからすとはいはずといふ、これまたことばは尋常なるににたりといゑども、こころは邪見をはなれず。<br />
+
しかるゆへに、決定の信心をもて一念してのちは、また念ぜすといふとも、十悪五逆なほさわりをなさず、いはむや余の少罪おやと信ずべきなりといふ。このおもひに住せむものは、たとひおほく念ずといはむ、阿弥陀仏の御こころにかなはむや。いつれの経論・人師の説どや。これひとへに懈怠・無道心・不当不善のたぐひの、ほしいままに悪をつくらむとおもひて、また念ぜずば、その悪かの勝因をさえて、むしろ三途におちざらむや。かの一生造悪のものの、臨終に十念して往生するは、これ'''懺悔念仏'''のちからなり。この悪の義には混ずべからず。'''かれは懺悔の人なり'''<ref>二種深信の無い一念義は自らを懺悔することがない。</ref>、これは邪見の人なり。なほ不可説不可説の事也。<br />
+
  
もし精進のものありといふとも、この義をきかば、すなわち懈怠になりなむ。まれに戒をたもつ人ありといふとも、この説を信ぜは、すなわち無慚なり。おほよそかくのごときの人は、附仏法の外道なり、師子のみの中の虫なり。またうたがふらくは、天魔・波旬のために、精進の気をうばわるるともがらの、もろもろの往生の人をさまたげむとするなり。あやしむべし、ふかくおそるべきもの也。毎事筆端につくしがたし、謹言。<br />
+
阿弥陀如来の内証・外用の功徳、無量なりといゑども、要をとるに、名号の功徳にはしかず。このゆへにかの阿弥陀仏も、ことにわが名号をして衆生を済度し、また釈迦大師も、おほくかのほとけの名号をほめて、未来に流通したまへり。<br />
 +
しかれば、いまその名号について讃嘆したてまつらば、阿弥陀といふは、これ天竺の梵語なり、ここには翻訳して無量寿仏といふ。また無量光といへり。または無辺光仏・無礙光仏・無対光仏・炎王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏といへり。<br />
 +
ここにしりぬ、名号の中に光明と寿命との二の義をそなえたりといふことを。かの仏の功徳の中には、寿命を本とし、光明をすぐれたりとするゆへなり、しかればまた光明・寿命の二の功徳をほめたてまつるべし。
  
:これ越中国に光明房と申ししひじり、成覚房か弟子等、一念の義をたてて、念仏の数返をとどめむと申て、消息をもてわざと申候、御返事をとりて、国の人人にみせむとて申候あひだ、かたのごとくの御返事候き。<br />
+
まづ光明の功徳をあかさば、はじめに無量光は、『経』{観経}にのたまはく、「無量寿仏に八万四千の相あり、一一の相のおのおの八万四千の随形好あり。一一の好にまた八万四千の光明あり。一一の光明あまねく十方世界をてらす、念仏の衆生を摂取してすてたまはず」といへり。<br />
 +
恵心これをかむがへていはく、「一一の相の中に、おのおの七百五倶胝六百万の光明を具せり、熾然赫奕たり」{往生要集巻中本}といへり。<br />
 +
一相よりいづるところ<span id="P--72"></span>の光明かくのごとし、いはむや八万四千の相おや。<br />
 +
まことに算数のおよぶところにあらづ、かるがゆへに無量光といふ。<br />
 +
つぎに無辺光といふは、かの仏の光明そのかずかくのごとし、無量のみにあらず、てらすところもまた辺際あることなきがゆへに、無辺光といふ。<br />
 +
つぎに無礙光は、この界の日月灯燭等のごときは、ひとへなりといゑとも、ものをへだつれば、そのひかりとほることなし。もしかの仏の光明ものにさえらるれば、この界の衆生たとひ念仏すといふとも、その光摂をかぶることをうべからす。そのゆへは、かの極楽世界とこの娑婆世界とのあひだ、十万億の三千大千世界をへだてたり。その一一の三千大千世界に、おのおの四重の鉄囲山あり。いはゆる、まず一四天下をめぐれる鉄囲山あり、たかさ須弥山とひとし。つぎに少千界をめぐれる鉄囲山あり、たかさ第六天にいたる。つぎに中千界をめぐれる鉄囲山あり、たかさ色界の初禅にいたる。次に大千界をめぐれる鉄囲山あり、たかさ第二禅にいたれり。しかればすなわち、もし無礙光にあたらずば、一世界をすらなほとほるべからす、いかにいはむや十万億の世界おや。しかるにかの仏の光明、かれこれそこばくの大小諸山をとほりてらして、この界の念仏衆生を摂取したまふに、障礙あることなし。<br />
 +
余の十方世界を照摂したまふことも、またかくのごとし、かるかゆ<span id="P--73"></span>へに無礙光といふ。<br />
 +
次に清浄光は、人師{述文讃巻中意}釈していはく、「無貪の善根より生ずるところのひかりなり」。貪に二あり、婬貪・財貪なり。清浄といふは、ただ汚穢不浄を除却するにはあらず、その二の貪を断除するなり。貪を不浄となづくるゆへなり。もし戒に約せは、不婬戒と不慳貪戒とにあたれり。しかれは法蔵比丘、むかし不婬・不慳貪所生の光といふ、この光にふるるものは、かならず貪欲のつみを滅す、もし人あて、貪欲さかりにして、不婬・不慳貪の戒をたたもつことえざれとも、こころをいたしてもはらこの阿弥陀仏の名号を称念すれば、すなわちかの仏無貪清浄の光をはなちて、照触摂取したまふゆへに、婬貪・財貪の不浄のぞこる。無戒・破戒の罪愆滅して、無貪善根の身となりて、持戒清浄の人とひとしきなり。<br />
  
===基親取信信本願之様===
+
次に歓喜光は、これはこれ無瞋善根所生の光、ひさしく不瞋恚戒をたもちて、この光をえたまへり。かるがゆへに無瞋所生の光といふ、この光にふるるものは、瞋恚のつみを滅す。<br />
 +
しかれば憎盛の人なりといふとも、もはら念仏を修すれば、かの歓喜光をもて摂取したまふゆへに、瞋恚のつみ滅して、忍辱のひととおなじ。これまたさきの清浄光の、貪欲のつみ滅するかごとし。<br />
  
基親取信信本願之様<br />
+
次に智慧光は、これはこれ無痴の善根所生の光なり。ひさしく一切智慧をまなうて(まなんで、修して)、愚痴の煩悩をたちつくして、この光をえたまへるがゆへに、無痴所生<span id="P--74"></span>の光といふ。{{DotUL|この光はまた愚痴のつみを滅す。しかれば無智の念仏者なりといふとも、かの智慧の光をしててらし摂(おさめ)たまふがゆへに、すなわち愚痴の愆を滅して、智慧は勝劣あることなし。}}またこの光のごとくしりぬべし。<br />
 +
かくのごとくして、十二光の名ましますといふとも、要をとるにこれにあり。<br />
  
『双巻』上云。「設我得仏。十方衆生至心信楽欲生我国乃至十念。若不生者不取正覚」<ref>たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽して、わが国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、もし生ぜずといはば、正覚を取らじ。「第十八願の文」。</ref><br />
+
凡(おほよそ)そかの仏の光明功徳の中には、かくのごときの義をそなえたり、くはしくあかさば多種あるべし。おほきにわかちて二あり。<br />
同下云。「聞其名号信心歓喜乃至一念。至心迴向願生彼国。即得往生住不退転」<ref>その名号を聞きて信心歓喜して、乃至一念、心を至して回向してかの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得て不退転に住す。(ここでは『選択集』の訓点を採用した)「第十八願成就文」。</ref><br />
+
一には常光、二には神通光なり、はじめに常光といふは、諸仏の常光おのおの意楽にしたがふて遠近・長短あり。あるいは常光おもておのおの一尋相といへり、釈迦仏の常光のごときこれなり。あるいは七尺をてらし、あるいは一里をてらし、あるいは一由旬をてらし、あるいは二・三・四・五乃至百千由旬をてらし、あるいは一四天下をてらし、あるいは一仏世界をてらし、あるいは二仏・三仏乃至百千仏の世界をてらせり。<br />
『往生礼讃』云。「今信知。弥陀本弘誓願。及称名号下至十声一声等。定得往生。乃至一念 無有疑心」<ref>いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。</ref><br />
+
『観経疏』云。「一者決定 深信自身現是罪悪生死凡夫。曠劫已来常没常流転 無有出離之縁。二者決定 深信彼阿弥陀仏四十八願摂受衆生。無疑無慮。乗彼願力定得往生」<ref>一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。 二には決定して深く、かの阿弥陀仏の、四十八願は衆生を摂受したまふこと、疑なく慮りなくかの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず。</ref><br />
+
  
これらの文を按じ候て、基親罪悪生死の凡夫なりといゑども、一向に本願を信じて名号をとなえ候、毎日に五万返なり。決定仏の本願に乗じて、上品に往生すべきよし、ふかく存知し候也。このほか別の料間なく候。<br />
+
この阿弥陀仏の常光は、八方上下無央数の諸仏の国土におひて、てらさずといふところなし。八方上下は極楽について方角をおしふるなり。この常光について異説あり。すなわち『平等覚経』には、別して頭光をおしえたり。『観経』には、すへて身光といへり。かくのごとき異説あり。『往生要集』に堪(かむがへ)たり、みるべし。<br />
しかるに或人、本願を信ずる人は一念なり、しかれば五万返無益也、本願を信ぜざるなりと申す。基親こたえていはく、念仏一声のほかより、百返乃至万返は、本願を信ぜずといふ文候やと申す。<br />
+
  
難者云く、自力にて往生はかなひがたし、ただ一念信をなしてのちは、念仏のかず無益なりと申す。基親また申ていはく、自力往生とは、他の雑行等をもて願ずと申さばこそは自力とは候はめ。したがひて善導の『疏』にいはく、「上尽百年下至一日七日、一心専念弥陀名号、定得往生必無疑」<ref>上百年を尽し、下一日七日に至るまで、一心にもつぱら弥陀の名号を念ずれば、さだめて往生を得ること、かならず疑なし。「散善義」</ref>と候めるは、百年念仏すべしとこそは候へ。<br />
+
常光といふは、長時不断にてらす光なり。次に神通光とい<span id="P--75"></span>ふは、ことに別時にてらす光なり。釈迦如来の『法華経』をとかむとしたまひしとき、東方万八千の土をてらしたまひしがこときは、すなわち神通光なり。阿弥陀仏の神通光は、摂取不捨の光明なり。念仏衆生あるときはてらし、念仏の衆生なきときはてらすことなきがゆへなり。善導和尚『観経の疏』に、この摂取の光明を釈したまへるしたに、「光照の遠近をあかす」{定善義}といへり。この念仏衆生の居所の遠近について、摂取の光明も遠近あるべしといふ義なり。たとひ一ついゑのうちに住したりとも、東によりてゐたらむ人の念仏まふさむには、摂取の光明とおくてらし、西によりてゐたらむ人の念仏まふさむには、光明ちかくてらすべし。<br />
また聖人の御房七万返をとなえしめまします、基親弟子の一分たり、よてかすおほくとなえむと存し候なり。仏の恩を報ずる也と申す。すなわち『礼讃』に、「不相続念報彼仏恩故、心生軽慢、雖作業行、常与名利相応故、人我自覆不親近同行善知識故、楽近雑縁自障障他往生正行故」<ref>相続してかの仏恩を念報せざるがゆゑに、心に軽慢を生じて業行をなすといへども、つねに名利と相応するがゆゑに、人我おのづから覆ひて同行善知識に親近せざるがゆゑに、楽ひて雑縁に近づきて、往生の正行を自障障他するがゆゑなり。</ref>云云 基親いはく、仏恩を報ずとも、念仏の数返おほく候はむ。<br />
+
これをもてこころうれば、一つ城のうち、一国のうち、一閻浮提のうち、三千世界の内、乃至他方各別の世界まで、かくのごとしとしるべし。しかれは念仏衆生について光照の遠近ありと釈したまへる、まことにいわれたることとこそおぼえ候へ。これすなわち阿弥陀仏の神通光なり、諸仏の功徳は、いづれの功徳もみな法界に遍すといえども、余の功徳は、その相あらわるることなし。<br />
 +
ただ光明のみまさしく法界に遍する相をあらわせる功徳なり、かるがゆへに、もろもろの功徳の中には、光明をもて最勝なりと釈したるなり。また諸仏の光明の中には、弥陀如来の光明なほまたすぐれたまへり、このゆへに教主<span id="P--76"></span>釈尊ほめてのたまはく、「無量寿仏 威神光明 最尊第一、諸仏光明 所不能及」{大経}とのたまへり。<br />
  
:兵部卿三位のもとより、聖人の御房へまいらせらるる御文の按。基親はただひらに本願を信じ候て、念仏を申候なり、料間も候はざるゆへなり。
+
またいはく、「我説無量寿仏光明 威神巍巍殊妙、昼夜一劫尚未能尽」<ref>われ、無量寿仏の光明の威神、巍々殊妙なるを説かんに、昼夜一劫すとも、なほいまだ尽すことあたはじ」</ref>{大経}とのたまへり。<br />
 +
これはこれ、かの仏の光明と余の仏の光明とを相対して、その勝劣を校量せむに、弥陀仏におよばさる仏をかずえむに、よるひる一劫すとも、そのかづをしりつくすべからすとのたまへるなり。<br />
 +
かくのごとく殊勝の光をえたまふことは、すなわち願行にこたへたり、いはく、かの仏法蔵比丘のむかし、世自在王仏のみもとにして、二百一十億の諸仏の光明をみたてまつりて、選択思惟して、願じていはく、「設我得仏、光明有能限量、下至不照 百千億那由他 諸仏国者 不取正覚」<ref>たとひわれ仏を得たらんに、光明よく限量ありて、下、百千億那由他の諸仏の国を照らさざるに至らば、正覚を取らじ。</ref>{大経第十二願}とのたまへり。<br />
 +
この願をおこして、のち兆載永劫のあひだ、積功累徳して、願行ともにあらわして、この光をえたまへり。
  
そののち何事候乎。
+
仏在世に、灯指比丘といふ人ありき。生れしとき、指より光をはなちて、十里をてらすことありき。のちに仏の御弟子となりて、出家して、羅漢果をえたり。指より光をはなつ因縁によりて、なづけて灯指比丘といへり。過去九十一劫のむかし、毘婆尸仏のときに、ふるき仏像の指の損したまひたるを、修理したてまつりたりし功徳によりて、すなわち指より光をはなつ報をうけたるなり。<br />
抑、念仏の数遍、ならびに本願を信ずるやう、基親が愚按かくのごとく候、しかるに難者候て、いわれなくおぼえ候。このおりかみに、御存知のむね、御自筆をもてかきたまはるべく候、難者にやぶらるべからさるゆへなり。別解別行の人にて候はば、みみにもききいるべからず候に、御弟子等の説に候へば、不審をなし候也。又念仏者女犯はばかるべからずと申あひて候。在家は勿論なり、出家はこはく本願を信ずとて、出家の人の女にちかづき候条、いはれなく候。善導は、目をあけて女人をみるべからずとこそ候ぬれ。このことあらあらおほせをかぶるべく候。恐恐謹言<br />
+
             基親
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聖人の御房之御返事の案<br />
+
また梵摩比丘といふ人ありき、身より光をはなちて、一由旬をてらせり、これ過去に、仏に灯明をたて<span id="P--77"></span>まつりたりしがゆへなり。<br />
 +
また仏の御弟子阿那律は、仏の説法の座に睡眠したることありき。仏これを種種に弾呵したまふ。阿那律すなわち懺悔のこころをおこして睡眠断づ。七日をへてのち、その目開ながらそのまなこみずなりぬ。これを医師にとふに、医師こたえていはく、人は食をもて命とす、眼はねぶりをもて食とす、もし人七日食せすらむに、命あにつきざらむや、しかれはすなわち、医療のおよぶところにあらず、命つきぬる人に、医療よしなきかごとしといへり。<br />
 +
そのとき仏これをあわれみて、天眼の法をおしえたまふ、すなわちこれを修して、かへりて天眼通をえたり。すなわち天眼第一阿那律といへるこれなり、過去に仏のものをぬすまむとおもふて、塔の中にいたるに、灯明すてにきえなむとするをみて、弓のはすをもてこれをかきあく。<br />
 +
そのときに忽然として改悟のこころをおこして、あまさへ無上道心をおこしたりき。それよりこのかた、生生世世に無量の福をえたり、いま釈迦出世のとき、ついに得脱して、またかくのことく天眼通をえたり、これすなわち、かの灯明をかかけたりし功徳によてなり。 乃至<br />
 +
<span id="P--78"></span>
  
おほせのむね、つつしむてうけたまはり候ぬ。御信心とらしめたまふやう、おりがみつぶさにみ候に、一分も愚意に存じ候ところにたがわず候。<br />
+
====寿命功徳====
ふかく随喜したてまつり候ところなり。しかるに近来、一念のほかの数返無益なりと申義、いできたり候よし、ほぼつたへうけたまはり候。勿論不足言の事か、文義をはなれて申人、すでに証をえ候か、いかむ。もとも不審に候。またふかく本願を信ずるもの、破戒もかへりみるべからざるよしの事、これまたとはせたまふにも、およぶべからさる事か、附仏法の外道、ほかにもとむべからず候。おほよそは、ちかごろ念仏の天魔きおいきたりて、かくのごときの狂言いできたり候か、なほなほさらにあたはず候あたはず候。
+
  
恐恐謹言 八月十七日
+
次に寿命の功徳といふは、諸仏寿命、意楽にしたかふて長短あり、これによて、恵心僧都四句{小経略記意}をつくれり、
  
===或人念仏之不審聖人に奉問次第===
+
「あるいは能化の仏は命なかく、所化の衆生は命みしかきあり、華光如来のごとし、仏の命は十二小劫、衆生の命は八小劫なり。<br />
 +
あるいは能化の仏は命みしかく、所化の衆生は命なかきあり、月面如来のごとし。仏の命一日一夜、衆生の命は五十歳なり。<br />
 +
あるいは能化・所化ともに命みしかきあり、釈迦如来のことし、仏も衆生もともに八十歳なり。<br />
 +
あるいは能化・所化ともに命なかきあり阿弥陀如来のごとし、仏も衆生もともに無量歳なり、かるかゆへに経にのたまはく、<br />
 +
仏告阿難、無量寿仏寿命長久、不可勝計、汝寧知乎、仮使十方世界無量衆、皆得人身 悉令成就声聞縁覚、都共推算計、禅思一心、竭其智力。於百千万劫、悉共推算計 其寿命長遠之数。不能窮尽 知其限極、声聞菩薩天人之衆寿命長短、亦復如是、非算数譬喩 所能知也<ref>仏、阿難に語りたまはく、「無量寿仏は寿命長久にして称計すべからず。なんぢむしろ知れりや。たとひ十方世界の無量の衆生、みな人身を得て、ことごとく声聞・縁覚を成就せしめて、すべてともに集会し、禅思一心にその智力を竭して、百千万劫においてことごとくともに推算してその寿命の長遠の数を計らんに、窮尽してその限極を知ることあたはじ。声聞・菩薩・天・人の衆の寿命の長短も、またまたかくのごとし。算数譬喩のよく知るところにあらざるなり。</ref><br />
 +
とのたまへり、たたもし神通の大菩薩等のかすへたまはむには、一大恒沙劫なり」と、
  
或人念仏之不審聖人に奉問次第<br />
+
『大論』のこころをもて、恵心勘(かむがへ)たり、この数二乗凡夫のかずへてしるべき<span id="P--79"></span>かずにあらず、かるがゆへに無量とはいへるなり。<br />
 +
すへて仏の功徳を論するに、能持・所持の二義あり、寿命をもて能持といひ、自余のもろもろの功徳をは、ことことく所持といふなり、寿命はよくもろもろの功徳をたもつ、一切の万徳みなことことく寿命にたもたるるかゆへなり。<br />
 +
これは当座の道師が、わたくしの義なり。すなわちかの仏の相好・光明・説法・利生等の一切功徳、およひ国土の一切荘厳等の、もろもろの快楽のことら、たたかの仏の命のながくましますがゆへの事なり。<br />
 +
もし命なくは、かれらの功徳荘厳等、なにによりてかととまるへき。しかれは四十八願の中にも、寿命無量の願に、自余の諸願をはおさめたるなり、たとひ第十八の念仏往生の願、ひろく諸機を摂して済度するににたりといゑとも、仏の御命もしみじかくば、その願なほひろまらじ。そのゆへは、もし百歳・千歳、もしは一劫・二劫にてもましまさましかは、いまのときの衆生は、ことことくその願にもれなまし。かの仏成仏してのち、十劫をすきたるかゆへなり。<br />
  
問。八宗九宗のほかに、浄土宗の名をたつることは、自由にまかせてたつること、余宗の人の申候おは、いかか申候へき<br />
+
これをもてこれをおもはは、済度利生の方便は、寿命の長遠なるにすぎたるはなく、大慈大悲の誓願も、寿命の無量なるにあらはるるものなり。これ娑婆世界の人も、命をもて第一のたからとす、七珍万宝をくらの内にみてたれとも、綾羅綿繍をはこのそこにたくわへたるも、命のいきたるほとこそ、わか宝にてもある、<span id="P--80"></span>
 +
まなこ閉ぬるのちは、みな人のものなり。しかれは 乃至 弥陀如来の寿命無量の願をおこしたまひけむも、御身のため長寿の果報をもとめたまふにはあらず、済度利生のひさしかるへきために、また衆生をして忻求のこころをおこさしめんためなり。一切衆生はみな命ながからむことをねがふかゆへなり。<br />
 +
凡そかの仏の功徳の中には、寿命無量の徳をそなへたまふに、すぎたることは候はぬなり。このゆへに、『双巻経』の題にも、「無量寿経」といへとも、「無量光経」とはいはず、隋朝よりさきの旧訳には、みな経の中に宗とあることをえらひて、詮をぬき略を存して、その題目とするなり。<br />
 +
すなはちこの経の詮には、阿弥陀如来の功徳をとくるなり、その功徳の中<span id="P--81"></span>には、光明無量・寿命無量の二の義をそなへたり。その中には、また寿命なを最勝なるゆへに、「無量寿経」となづくるなり。また釈迦如来の功徳の中にも、久遠実成の宗をあらわせるをもて、殊勝甚深のこととせり。<br />
 +
すなはち『法華経』に、寿量品とてとかれたり、二十八品の中には、この品をもてすくれたりとす。まさにしるへし、諸仏の功徳にも、寿命をもて第一の功徳とし、衆生のたからにも、命をもて第一のたからとすといふことを。<br />
 +
その命なかき果報をうることは、衆生に飲食をあたへ、またものの命をころささるを業因とするなり、因と果と相応することなれは、食はすなはち命をつぐがゆへに、食をあたふるはすなはち命をあたふるなり。不殺生戒をたもつも、また衆生の命をたすくるなり。かるかゆへに、飲食をもて衆生に施与し、慈悲に住して不殺生戒をたもてば、かならす長命の果報をえたり。<br />
 +
しかるにかの阿弥陀如来は、すなはち願行あひたすけて、この寿命無量の徳おば成就したまへるなり。願といふは、四十八願の中の第十三の願にいはく、「設我得仏、寿命有能限量、下至百億那由他劫者 不取正覚」<ref>たとひわれ仏を得たらんに、寿命よく限量ありて、下、百千億那由他劫に至らば、正覚を取らじ。</ref>とのたまへり。<br />
  
 答。宗の名をたつることは、仏説にはあらす、みつからこころさすところの経教につきて、存したる義を学しきわめて、宗義を判ずる事也。諸宗のならひみなかくのことし。いま浄土宗の名をたつる事は、浄土の依正経につきて、往生極楽の義をさとりきわめたまへる先達の、宗の名をたてたまへるなり。宗のおこりをしらさるものの、さやうの事おは申也<br />
+
行といふは、かの願をたてたまふてのち、無央数劫のあひた、また不殺生戒をたもてり。また一切の凡聖におひて、飲食・医薬を供養し施与したまへるなり。これは阿弥陀如来の寿命の功徳なり。 乃至<span id="P--82"></span>
  
問。法華真言おは雑行にいるへからすと、ある人申候おは。いかむ<br />
+
====弥陀入滅====
  
 答。恵心の先徳、一代の聖教の要文をあつめて『往生要集』をつくりたまへる中に、十門をたてて、第九に往生の諸行の門に、法華真言等の諸大乗をいれたまへり。諸行と雑行と、ことばはことに、こころはおなし。いまの難者は。恵心の先徳にまさるへからさるなり 云云<br />
+
かの仏かくのことく寿命無量なりといえとも、また涅槃隠没の期まします。これについて、あわれなることこそ候へ、道綽禅師、念仏の衆生におひて、始終両益ありと釈したまへる。その終益をあかすに、すなはち『観音授記経』をひきていはく、「阿弥陀仏、住世の命兆載永劫ののち滅度したまひて、ただ観音・勢至、衆生を接引したまふことあるへし。そのときに、一向にもはら念仏して往生したる衆生のみ、つねに仏をみたてまつる、滅したまはぬかごとし、余行往生の衆生は、みたてまつることあらす」{安楽集巻下引所}といへり。往生をえてむ上に、そのときまてのことはあまりごとぞ。<br />
 +
とてもかくても、ありなむとおぼえぬべく候へとも、そのときにのぞみては、かなしかるべきことにてこそ候へ。かの釈迦入滅のありさまにても、おしはかられ候なり。<br />
 +
証果の羅漢・深位の大士も、非滅・現滅<ref>非滅・現滅。滅にして現に滅に非ず。</ref>のことはりをしりなから、当時別離のかなしみにたえす、天にあおき地にふし、哀哭し悲泣しき。いはんや未証の衆生をや、浅識の凡愚をや、乃至竜神八部も五十二類も、凡そ涅槃の一会、悲歎のなみたをなかさすといふことな<span id="P--83"></span>し。<br />
 +
しかのみならす、娑羅林のこすえ、抜提河の水、すへて山川・渓谷・草木・樹林も、みな哀傷のいろをあらはしき。しかれは過去をききて未来をおもひ、穢土になすらへて浄土をしるに、かの阿弥陀仏の、衆宝荘厳の国土をかくれ、涅槃寂滅の道場にいりたまひてのち、八万四千の相好ふたたひ現することなく、無量無辺の光明はなかくてらすことなくば、かの会の聖衆人天等、悲哀のおもひ、恋慕のこころざし、いかばかりかは候べき。<br />
 +
七宝自然のはやしなりとも、八功如意の水なりとも、名華軟草のいろも、鳬鴈・鴛鴦のこえも、いかかそのときをしらさらむや、浄穢は土ことなりといへとも、世尊の滅度すてにことなることなし。<br />
 +
迷悟はこころかわるといえとも、所化の悲恋なんそかはることあらむや。この娑婆世界の凡夫、具縛の人の心事相応せす。<br />
 +
意楽各別にてつねに違背し、たかひに厭悪をするだにも、あるいは夫妻のちきりをもむすひ、あるいは朋友のことばをもなして、しはらくもなづさひ(昵)、また馴ぬれば、遠近のさかひをへだて、前後の生をあらため、かくのことく生をも死をも、わかれをつくるときには、なごりをおしむこころたちまちにもよおし、かなしみにたえす、なみたをさへかたきことにてこそは候へ。<br />
 +
いかにいはむやかの仏、内には慈悲哀愍のこころをのみたくはへてましませば、なれたてまつるにしたか<span id="P--84"></span>ふて、いよいよむつまじく、外には見者無厭<ref>左訓:ミタテマツルモノイトフコトナシ。</ref>の徳をそなへてましませは、みまいらすることに、いやめづら<ref>いや目づら。◇悲しそうな顔のこと。</ref>なるをや。まことに無量永劫かあひた、あさゆふに万徳円満のみかほをおがみたてまつり、昼夜に四弁無窮<ref>四弁無窮。◇仏・菩薩のもつ4種の自由自在な理解能力と表現能力を智慧の面から示した言葉。教えに精通している法無礙智、教えの表す意味内容に精通している義無礙智、いろいろの言語に精通している辞無礙智、以上の3種をもって自在に説く楽説無礙智。理解力の面から四無礙解、表現力の面から四無礙弁ともいう。ここではこのような四弁無窮なる名号を称えながら、その徳に慣れてしまっている事を指すか。</ref>の御音になれたてまつりて、恭敬瞻仰し随遂給仕して、すてたらむここちに、ながくみたてまつらざらむことになりたらむばかり、かなしかるべきことや候へき。<br />
  
問。余仏余経につきて、善根を修せむ人に、結縁助成し候ことは、雑行にてや候へき<br />
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無有衆苦のさかひ、離諸妄想のところなりといふとも、このこと一事は、さこそおぼへ候らめとそおぼえ候。それに、もとのごとくみたてまつりて、あらたまることなからむことは、まことにあはれに、ありがたきこととこそおぼへ候へ。これすなはち念仏一行、かの仏の本願なるがゆへなり。おなじく往生をねがはむ人は、専修念仏の一門よりいるべきなり。
  
 答。我こころ弥陀仏の本願に乗し、決定往生の信をとるうえには、他の善根に結縁し助成せむ事、またく雑行となるへからす。わか往生の助業となるへき也。他の善根を随喜讃嘆せよと、釈したまへるをもて。こころうへきなり。<br />
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  康元二丁巳正月二日書之<br />
  
問。極楽に九品の差別の候事は、阿弥陀仏のかまへたまへる事にて候やらむ<br />
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愚禿親鸞 八十五歳<br />
  
 <b>答。極楽の九品は、弥陀の本願にあらす、四十八願の中になし、これは釈尊の巧言なり。善人悪人一処にむまるといはは、悪業のものとも慢心をおこすへきかゆへに、品位差別をあらせて、善人は上品にすすみ、悪人は下品にくたるなりと、ときたまふなり。いそきまいりてみるへし 云云</b>
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問。持戒の行者の念仏の数返のすくなく候はむと、破戒の行人の念仏の数返のおほく候はむと、往生ののちの浅深。いつれかすすみ候へき<br />
 
 
 {{DotUL|答。ゐておはしますたたみをささえてのたまはく、このたたみのあるにとりてこそ、やふれたるかやふれさるかといふことはあれ。つやつやとなからむたたみおは。なにとかは論すへき。<br />
 
末法の中には。持戒もなく、破戒もなし、無戒もなし、たた名字の比丘はかりありと、伝教大師の『末法灯明記』にかきたまへるうへは、なにと持戒破戒のさたはすへきそ。かかるひら凡夫のために、おこしたまへる本願なれはとて、いそきいそき名号を称すへしと 云云 }}<br />
 
 
問。念仏の行者等、日別の所作において、こゑをたてて申人も候。こころに念してかすをとる人も候、いつれおかよく候へき<br />
 
 
 答。それは口にも名号をとなへ、こころにも名号を念することなれは、いつれも往生の業にはなるへし。たたし仏の本願の称名の願なるかゆへに、こゑをあらわすへきなり。かるかゆへに、経には「こゑをたえす十念せよ」ととき。釈には「称我名号下至十声」と釈したまへり。わかみみにきこゆるほとおは、高声念仏にとるなり。されはとて、譏嫌をしらす、高声なるへきにはあらす、地体はこゑをいたさむとおもふへきなり。<br />
 
 
問。日別の念仏の数返は、相続にいるほとは、いかかはからひ候へき<br />
 
 
 答。善導の釈によらは、一万已上は相続にてあるへし。たたし一万返をいそき申て、さてその日をすこさむ事はあるへからす、一万返なりとも、一日一夜の所作とすへし。総しては、一食のあひたに、三度はかりとなえむは、よき相続にてあるへし。それは衆生の根性不同なれは、一准なるへからす、こころざしたにもふかけれは、自然に相続はせらるる事なり。<br />
 
 
問、礼讃の深心の中には、「十声一声必得往生。乃至一念無有疑心」と釈し、また『疏』の中の深心には、「念念不捨者。是名正定之業」と釈したまへり。いつれがわが分にはおもひさだめ候べき。<br />
 
 
 答、十声・一声の釈は、念仏を信するやうなり。かるがゆへに、'''信おば一念に生るととり、行おば一形をはげむべしと'''、すすめたまへる釈也。また大意は一発心已後の釈を本とすべし。<br />
 
 
問。本願の一念は、尋常の機・臨終の機に通すへく候歟<br />
 
 
 答。一念の願は。二念におよはさらむ機のためなり。尋常の機に通すへくば、上尽一形の釈あるへからす。この釈をもてこころうへし。かならす一念を仏の本願といふへからす。「念念不捨者。是名正定之業。順彼仏願故」の釈は、数返つもらむおも本願とはきこえたるは、たた本願にあふ機の遅速不同なれは、上尽一形下至一念と、おこしたまへる本願なりと、こころうへきなり。かるかゆへに念仏往生の願とこそ、善導は釈したまへと」<br />
 
 
問。自力他力の事は。いかかこころうへく候らむ<br />
 
 
 答らくは、源空は殿上へまいるへききりやうにてはなけれとも、上よりめせは、二度まいりたりき。これわかまいるべきしきにてはなけれとも、上の御ちからなり。まして阿弥陀仏の仏力にて、称名の願にこたえて、来迎せさせたまはむ事おは、なむの不審かあるへき。<br />
 
自身の罪のおもく、無智なれは、仏もいかにしてすくひましまさむとおもはむものは、つやつや仏の願をもしらさるものなり。かかる罪人ともを、やすやすとたすけすくはむれうに、おこしたまへる本願の名号をとなえなから、ちりはかりも疑心あるましきなり。十方衆生のうちに願、有智・無智・有罪・無罪・善人・悪人・持戒・破戒・男子・女人、三宝滅尽ののち。百歳まての衆生、みなこもれるなり。<br />
 
かの三宝滅尽の時の念仏者、当時のわ御坊たちとくらふれは、わ御房たちは仏のことし。かの時は人寿十歳の時なり、戒・定・慧の三学、なをたにもきかす、いふはかりなきものともの来迎にあつかるへき道理をしりなから、わかみのすてられまいらすへきやうおは、いかにしてかあむしいたすへき。たたし極楽のねかはしくもなく、念仏のまうされざらむ事こそ。往生のさわりにてはあるへけれ。<br />
 
かるかゆへに。他力の本願ともいひ、超世の悲願ともいふなり 云云<br />
 
 
問。至誠等の三心を具し候へきやうおは、いかかおもひさため候へき。<br />
 
 
 答。三心を具する事は、たた別のやうなし、阿弥陀仏の本願に、わか名号を称念せよ、かならす来迎せむと、おほせられたれは、決定して引接せられまいらせむずると、ふかく信して、心念口称にものうからす、すてに往生したるここちして、たゆまさるものは、自然に三心具足するなり。また在家のものともは、かほとにおもはされとも、念仏を申ものは極楽にうまるなれはとて、念仏をたにも申せは、三心は具足するなり。されはこそいふにかひなきやからともの中にも、神妙なる往生はする事にてあれと 云云<br />
 
 
===浄土宗大意===
 
 
また浄土宗の大意とて、おしえさせたまひしやうは、三宝滅尽の時なりといふとも、十念すれはまた往生いかにいはむや。三宝流行のよにむまれて、五逆おもつくらさるわれら、弥陀の名号を称念せむに、往生うたかふへからす。<br />
 
またいはく、浄土宗のこころは、聖道浄土の二門をたてて、一代怭諸教をおさむ。聖道門といふは、娑婆の得道なり、自力断惑出離生死の教なるかゆへに、凡夫のために、修しかたし、行しかたし。浄土門といふは、極楽の得道なり、他力断惑往生浄土門なるかゆへに、凡夫のためには、修しやすく行しやすし。その行といふは、ひとへに凡夫のために、おしえたまふところの願行なるかゆへなり。<br />
 
 
総してこれをいへは。五説の中には仏説也、四土の中には報土也、三身の中には二身也、三宝の中には仏宝也、四乗の中には仏乗なり、二教の中には頓教也、二歳の中には菩薩蔵也、二行の中には正行なり、二超の中には横超也。二縁の中には有縁の行なり、二住の中には止住也、思不思の中には不思議なり。<br />
 
またいはく、'''聖道門の修行は、智慧をきわめて生死をはなれ、浄土門の修行は、愚痴にかへりて極楽にむまる'''と 云云<br />
 
 
康元元丙辰十月三十日書之<br />
 
愚禿親鸞 八十四歳<br />
 
 
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末註
 
末註
 
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2021年6月13日 (日) 02:42時点における最新版

編集中!!
真宗高田派で伝時されてきた、親鸞聖人筆(国宝)の法語集。親鸞聖人が師匠である法然聖人の法語・消息・行状記などを、収集した書物。奥書より康元元(1256)年~康元二(1257)年頃(84~85歳)書写されたものと思われる。テキストは、ネット上の「大藏經テキストデータベース」を利用し、『真宗聖教全書』に依ってページ番号を付した。これによってページ単位でもリンクも可能である。
読む利便を考えカタカナをひらがなに、旧字体を新字体に変換した。また、適宜改行を付した。各サブタイトルは『昭和新修 法然聖人全集』などを参考に適宜、私に於いて付した。
なお、いかなる場合においても、本データベースの利用、及び掲載文章等を原因とすることによって生じたトラブルについて、当サイトは一切その責を負いません。

西方指南抄本 上本

法然聖人御説法事


承元の法難(1207)によって斬首された安楽房遵西の父である中原師秀 外記禅門の請により行われた説法。師秀が仏像を安置(1194?)し逆修説法を行ったときに法然聖人が説法されたものといわれる。『漢語灯録』所収の『逆修説法』はその異本。『師秀説草」という異本もある。この書は、浄土三部経を中心に相承論や選択本願念仏論がのべられている。文治六年(1190年)に東大寺で講説したときの『三部経釈』から『逆修説法』を経て、『選択集』(1198)へと法然聖人の思想が展開した経緯を示す法語ともされる。なお、「法然聖人御説法事」とあるように、法然聖人を「聖人」と表現されているのは親鸞聖人の特徴である。江戸時代以降、浄土真宗では、浄土宗(鎮西義)と対抗するために上人号で法然聖人を呼んでいるが、如何なものかと愚昧な一門徒は思う。

第十七日 三尺立像阿弥陀『双巻経』・『阿弥陀経』

仏身

経証の中に、仏の功徳をとけるに、無量の身あり。あるいは総じて一身をとき、あるいは二身をとき、あるいは半三身[1]をとき、乃至『華厳経』には、十身[2]功徳とけり。

いま且(しばらく)真身・化身の二身をもて、弥陀如来の功徳を讃嘆したてまつらむ。
この真化二身をわかつこと、『双巻経』の三輩の文の中にみえたり。[3]
まづ真身といふは、真実の身なり、弥陀如来の因位のとき、世自在王仏のみもとにして四十八願をおこしてのち、兆載永劫のあひだ、布施・持戒・忍辱・精進等の六度万行を修して、あらはしたまえるところは、修因感果[4]の身なり。

『観経』(意)にときていはく、「その身量、六十万億那由他恒河沙由旬なり。 眉間の白毫、右にめぐりて、五須弥山のごとしと。その一須弥山のたかさ、出海・入海おのおの八万四千那由多なり。また青蓮慈悲の御まなこは、四大海水のごとくして清白分明なり、身のもろもろの毛孔より、光明をはなちたまふこと、須弥山のごとし。うなじにめぐれる円光は、百億の三千大千世界のごとし。 かくのごとくして、八万四千の相まします、一一の相に、おのおの八万四千の好あり、一一の好に、また八万四千の光明まします。その一一の光明、あまねく十方世界の念仏の衆生を摂取してすてたまはず。 御身のいろは、夜摩天の閻浮檀金のいろのごとし」(*)といへり。

これ弥陀一仏にかぎらす、一切諸仏は、みな黄金のいろなり、もろもろのいろの中には、白色をもて本とすとまふせば、仏の御いろも、白色なるべしといゑども、そのいろなほ損するいろなり。[5]
ただ黄金のみあて不変のいろなり、このゆへに、十方三世の一切の諸仏、みな常住不変の相をあらわさむがために、黄金のいろを現したまへるなり、これ『観仏三昧経』のこころなり。
ただし、真言宗の中に五種の法あり[6]、その本尊の身色、法にしたがふて各別なり、しかれども、暫時方便の化身なり、仏の本色にはあらず。このゆへに、仏像をつくるにも、白檀綵色(さい:彩色)なんども、功徳をえざるにあらずといへども、金色につくりつれば、すなわち決定往生の業因なり。
即生の功徳、略を存するにかくのごとし、「即生乃至三生に必得往生」[7]といへり。これ弥陀如来真身の功徳、略を存ずるにかくのごとし。

次に化身といふは、無而欻有(むにこつう:無而忽有)を化といふ、すなわち機にしたがふときに応じて身量を現ずること、大小不同なり、『経』{観経}に、「あるいは大身を現して虚空にみつ、あるいは小身を現して丈六八尺」といへり。 化身につきて多種あり。
まづ円光の化仏(者)、『経』{観経}にいはく、「円光のなかにおいて、百万億那由他恒河沙の化仏まします、一一の化仏に、衆多無数の化菩薩をもて侍者とせり」といへり。
つぎに摂取不捨の化仏、「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」[8]{観経}といふは、この真仏の摂取なり、このほかに化仏の摂取あり。三十六万億の化仏おのおの、真仏とともに、十方世界の念仏衆生を摂取したまふといへり。
次に来迎引接の化仏、九品の来迎に、おのおの化仏まします、品にしたがふて多少あり。上品上生の来迎には、真仏のほかに、無数の化仏まします。上品中生には、千の化仏まします、上品下生には、五百の化仏まします。乃至かくのごとく次第におとりて、下品上生には、真仏は来迎したまはず、ただ化仏と化観音勢至とをつかはす。その化仏の身量、あるいは丈六、あるいは八尺なり。化菩薩の身量も、それにしたがふて、下品中生は、「天華の上に化仏菩薩ましまして、来迎したまふと」{観経}いへり。下品下生は、「命終してのち、金蓮華をみる、猶如日輪住其人前」{観経}といへり。文のごとくは、化仏の来迎もなきやうにみえたれども、善導の御心は、『観経の疏』{散善義}の十一門の義によらば、第九門に、「命終のとき、聖衆の迎接したまふ不同、去時の遅疾をあかす」といへり。
また、「いまこの十一門の義は、九品の文に約対せり。一一の品のなかに、みなこの十一あり」といへり。しかれば、下品下生にも来迎あるべきなり、しかるを、五逆の罪人そのつみおもきによりて、まさしく化仏菩薩をみることあたはず、ただわが座すへきところの金蓮華ばかりをみるなり、あるいはまた、文に隠顕[9]あるなり。

次にまた十方の行者の本尊のために、小身を現したまへる化仏あり、天竺の鶏頭摩寺(けいずまじ)の五通[10]の菩薩、神足通をして極楽世界にまうでて、仏にまふしてまうさく、娑婆世界の衆生、往生の行を修せむとするに、その本尊なし、仏ねがわくは、ために身相を現じたまへと、仏すなわち菩薩の請におもむきて、樹の上に化仏五十体を現じたまへり。
菩薩すなわちこれをうつして、よにひろめたり、鶏題摩寺の五通の菩薩の曼陀羅といへる、すなわちこれなり。
また智光の曼陀羅[11]とて、世問に流布したる本尊あり、その因縁は、人つねにしりたる事なり、つぶさにまふすべからす、『日本往生伝』をみるべし。また新生の菩薩を教化し説法せむがために、化して小身を現じたまへることまします。これはこれ弥陀如来の化身の功徳、また略してかくのごとし。

いまこの造立せられたまへる仏は[12]、祇薗精舎の()[13]をつたへて、三尺の立像をうつし、最後終焉のゆふべを期して、来迎引接につくれり。おほよそ仏像を造画するに、種種の相あり。あるいは説法講堂の像あり、あるいは池水沐浴の像あり、あるいは菩提樹下成等正覚の像あり、あるいは光明遍照摂取不捨の像あり。かくのごときの形像を、もしはつくりもしは画したてまつる、みな往生の業なれども、来迎引接の形像は、なほその便宜をえたるなり。
かの尽虚空界の荘厳をみ、転妙法輪の音声をきき、七宝講堂のみぎりにのぞみ、八功徳池のはまにあそび、おほよそかくのごとく、種種微妙の依正二報[14]をまのあたり視聴せむことは、まづ終焉のゆふべに、聖衆の来迎にあづかりて、決定してかのくにに往生してのうえのことに候也。しかれはふかく往生極楽のこころざしあらむ人は、来迎引接の形像をつくりたてまつりて、すなわち来迎引接の誓願をあおぐべきものなり。

来迎

その来迎引接の願といふは、すなわちこの四十八願の中の第十九の願なり。
人師これを釈するに、おほくの義あり、まづ臨終正念のために来迎したまへり、おもはく[15]、病苦みをせめてまさしく死せむとするときには、かならず境界・自体・当生の三種の愛心[16]をおこすなり。しかるに阿弥陀如来、大光明をはなちて行者のまへに現じたまふとき、未曾有の事なるがゆへに、帰敬の心のほかに他念なくして、三種の愛心をほろぼして、さらにおこることなし。

かつはまた仏、行者にちかづきたまひて、加持[17]護念したまふがゆへなり。『称讃浄土経』に、「慈悲加祐してこころをしてみだらざらしむ、すてに命をすておはりて、すなわち往生をえ、不退転に住す」といへり。
『阿弥陀経』に、「阿弥陀仏もろもろの聖衆とそのまへに現ぜむ、この人おわらむとき、心顛倒せずして、すなわち阿弥陀仏国土に往生をえむ」ととけり。令心不乱(心をして乱らざらしむ)と心不顛倒(心顛倒せずして)とは、すなわち正念に住せしむる義なり。
しかれば臨終正念なるがゆへに来迎したまふにはあらず、来迎したまふがゆへに臨終正念なりといふ義、あきらかなり。在生のあひだ往生の行成就せむひとは、臨終にかならず聖衆来迎をうべし。来迎をうるとき、たちまちに正念に住すべしといふこころなり。[18]
しかるにいまのときの行者、おほくこのむねをわきまえずして、ひとへに尋常の行においては怯弱生して、はるかに臨終のときを期して、正念をいのる、もとも僻韻[19]なり。

しかればよくよくこのむねをこころえて、尋常の行業において怯弱のこころをおこさずして、臨終正念において決定のおもひをなすべきなり、これはこれ至要の義なり、きかむ人こころをとどむへし。この臨終正念のために来迎すといふ義は、静慮院の静照法橋の釈なり。[20]

次に道の先達のために来迎したまふといへり、あるいは『往生伝』に、沙門志法か遺書にいはく
 我在生死海 幸値聖船筏
 我所顕真聖 来迎卑穢質
 若忻求浄土 必造画形像
 臨終現其前 示道路摂心
 念念罪漸尽 随業生九品
 其所顕聖衆 先讃新生輩
 仏道楽増進[21] 云云
これすなわち、この界にして造画するところの形像、先達となりて浄土におくりたまふ証拠なり。
また『薬師経』をみるに、浄土をねがふともがら、行業いまださたまらずして、往生のみちにまどふことあり。
すなわち文{玄奘訳}にいはく、「よく受持すること八分斎戒をあらむ、あるいは一年をへ、あるいはまた三月受持せむ。まなぶところこの善根をもて、西方極楽世界無量寿仏のみもとにむまれむと願して、正法を聴聞すれども、いまださだまらざるもの、もし世尊薬師琉璃光如来の名号をきかむ。命終のときにのぞみて、八菩薩あて神通に乗してきたりて、その道路をしめさむ、すなわちかの界にして、種種の雑色衆宝華の中に、自然に化生す」[22]といへり。
もしかの八菩薩その道路をしめさずは、ひとり往生することえがたきにや。これをもておもふにも、弥陀如来もろもろの聖衆とともに、行者のまへに現じて、きたりて迎接したまふも、みちびきて道路をしめしたまはむがためなりといふ義、まことにいはれたることなり。
娑婆世界のならひも、みちをゆくには、かならず先達といふものを具する事なり、これによて、御廟の僧正[23]は、かの来迎の願をば、現前導生の願となづけたまへり。

次に対治魔事のために来迎すとふ義あり、道さかりなれば魔さかりなりとまふして、仏道修行するには、かならず魔の障難のあひそふなり。
真言宗の中には、誓心決定すれは魔宮振動すといへり、天台止観の中には、四種三昧を修行するに、十種の境界おこる中に、魔事境来といへり。また菩薩三祇百劫の行すでになりて、正覚をとなふるときも、第六天の魔王きたりて、種種に障礙せり。
いかにいはむや凡夫具縛の行者、たとひ往生の行業を修すといふとも、魔の障難を対治せすば、往生の素懐をとげむことかたし。しかるに阿弥陀如来、無数の化仏菩薩聖衆に囲繞せられて、光明赫奕として行者のまへに現じたまふときには、魔王もここにちかずきこれを障礙することあたはず。
しかればすなわち、来迎引接は魔障を対治せむがためなり、来迎の義、略を存するにかくのごとし。これらの義につきておもひ候にも、おなじく仏像をつくらむには、来迎の像をつくるべきとおぼえ候なり、仏の功徳大概かくのごとし。

浄土三部経

次に三部経は、いま三部経となづくることは、はじめてまふすにあらず、その証これおほし。いはく、大日の三部経は、『大日経』・『金剛頂経』・『蘇悉地経』等これなり。弥勒の三部経、『上生経』・『下生経』・『成仏経』等これなり。鎮護国家の三部経は、『法華経』・『仁王経』・『金光明経』等これなり。法華の三部経、『無量義経』・『法華経』・『普賢経』等これなり。
これすなわち三部経となづくる証拠なり。いまこの弥陀の三部経は、ある人師{智顗十疑論}のいはく、「浄土の教に三部あり、いはく、『双巻無量寿経』・『観無量寿経』・『阿弥陀経』等これなり。」
これによて、いま浄土の三部経となづくるなり、あるいはまた弥陀の三部経ともなづく、またある師{窺基(きき)小経疏}のいはく、「かの三部経に『鼓音声経』をくわえて、四部となつく」といへり。
おほよそ諸経の中に、あるいは往生浄土の法をとくあり、あるいはとかぬ経あり、『華厳経』にはこれをとけり、すなわち『四十華厳』の中の普賢の十願これなり、『大般若経』の中にすべてこれをとかず。
『法華経』の中にこれをとけり、すなわち薬王品の「即往安楽世界」の文これなり、『涅槃経』にはこれをとかず、また真言宗の中には、『大日経』・『金剛頂経』に、蓮華部にこれとくいゑども、大日の分身なり、別(わき)てとけるにはあらず。
もろもろの小乗経には、すべて浄土をとかず。しかるに往生浄土をとくことは、この三部経にはしかず、かるかゆへに浄土の一宗には、この三部経をもてその所縁とせり。

浄土宗名

またこの浄土の法門において宗の名をたつること、はじめてまふすにあらず、その証拠これおほし。少少これをいださは、元暁の『遊心安楽道』に、「浄土宗の意ろ本爲凡夫兼爲聖人也」といへる、その証なり。かの元暁は華厳宗の祖師なり。
慈恩の『西方要決』に、「依此一宗」といえるなり。またその証なり。
かの慈恩は法相宗の祖師なり、迦才の『浄土論』には、「此一宗窃要路たり」といへる、またその証なり。善導『観経の疏』に「真宗叵遇」といへる、またその証なり。かの迦才・善導は、ともにこの浄土一宗をもはらに信ずる人なり。

自宗・他宗の釈すでにかくのごとし、しかのみならず、宗の名をたつることは、天台・法相等の諸宗みな師資相承による、しかるに浄土宗に師資相承血脈次第あり。
いはく菩提流支三蔵・恵寵法師・道場法師・曇鸞法師・法上法師・道綽禅師・善導禅師・懐感禅師・小康法師等なり、菩提流支より法上にいたるまでは、道綽の『安楽集』にいだせり、自他宗の人師すでに浄土一宗となづけたり。浄土宗の祖師また次第に相承せり。
これによて、いま相伝して浄土宗となづくるものなり、しかるを、このむねをしらざるともがらは、むかしよりいまだ八宗のほかに浄土宗といふことをきかずと、難破することも候へば、いささかまふしひらき候なり。

おほよそ諸宗の法門、浅深あり広狭あり。すなわち真言・天台等の諸大乗宗は、ひろくしてふかし、倶舎・成実等の小乗宗は、ひろくしてあさし。この浄土宗は、せばくしてあさし。
しかれば、かの諸宗は、いまのときにおいて機と教と相応せず。教はふかし機はあさし、教はひろくして機はせばきがゆへなり。たとへ韻たかくしては和することすくなきがごとし。
またちゐさき器に大なるものをいるるかごとし。ただこの浄土の一宗のみ機と教と相応せる法門なり。かるがゆへに、これを修せばかならす成就すべきなり。しかればすなわち、かの不相応の教においては、いたはしく身心をついやすことなかれ。ただこの相応の法に帰して、すみやかに生死をいづへきなり。今日講讃せられたまへるところは、この三部の中の『双巻無量寿経』と『阿弥陀経』となり。

大経

まづ『無量寿経』には、はじめに弥陀如来の因位の本願をとく、次にはかの仏の果位の二報荘厳をとけり。しかればこの経には、阿弥陀仏の修因感果の功徳をとくなり 乃至 一一の本誓悲願、一一の願成就の文にあきらかなり。つぶさに釈するにいとまあらす。

その中に衆生往生の因果をとくといふは、すなわち念仏往生の願成就の「諸有衆生聞其名号」の文、および三輩の文これなり。もし善導の御こころによらば、この三輩の業因について、正・雑の二行をたてたまへり。正行についてまた二あり。正定・助業なり。三輩ともに一向専念といへる、すなわち正定業なり、かの仏の本願に順するかゆへに。またそのほかに助業あり雑行あり 乃至 おほよそこの三輩の中に、おのおの菩提心等の余善をとくといゑども、上の本願をのぞむには、もはら弥陀の名号を称念せしむるにあり。
かるがゆへに一向専念といへり。上の本願といふは、四十八願の中の第十八の念仏往生の願をさすなり。一向のことば、二三向に対する義なり、もし念仏のほかに、ならべて余善を修せば、一向の義にそむくべきなり。往生をもとめむ人は、もはらこの経によて、かならずこのむねをこころうべきなり。

小経

次に『阿弥陀経』は、はじめには極楽世界の依・正二報をとく。
次には一日・七日の念仏を修して往生することをとけり。のちには六方諸仏、念仏の一行において証誠護念したまふむねをとけり。すなわちこの経には余行をとかずして、えらびて念仏の一行をとけり 乃至 おほよそ念仏往生は、これ弥陀如来の本願の行なり。教主釈尊選要の法なり、六方諸仏証誠の説なり。余行はしからず、そのむね経の文およひ諸師の釈つぶさなり。 乃至

第二七日 弥陀『観経』『同疏』一部。{略}

観経

また経を釈するに仏の功徳もあらはれ、仏を讃ずれは経の功徳もあらわるるなり。
また疏は経のこころを釈したるものなれば、疏を釈せむに経のこころあらはるべし。みなこれおなじものなり、まちまちに釈するにあたはず。 乃至

いまこの『観無量寿経』に二のこころあり。はじめには定・散二善を修して往生することをあかし、つぎには名号を称して往生することをあかす。 乃至

『清浄覚経』の信不信の因縁の文をひけり。この文のこころは、「浄土の法門をとくをききて、信向してみのけいよだつものは、過去にもこの法門をききて、いまかさねてきく人なり、いま信するかゆへに、決定して浄土に往生すべし。
またきけどもきかざるがことくにて、すべて信ぜぬものは、はじめて三悪道よりきたりて、罪障いまだつきずして、こころに信向なきなり。いま信ぜぬがゆへに、また生死をいづることあるべからず」{安楽集巻上所引平等覚経意}といへるなり、詮ずるところは、往生人のこの法おば信じ候なり。 乃至
天台等のこころは、十三観の上に九品の三輩観をくわへて、十六想観となづく。この定・散二善をわかちて、十三観を定善となづけ、三福九品を散善となづくること、善導一師の御こころなり。 乃至
抑、近来の僧尼を、破戒の僧・破戒尼といふべからず。持戒の人破戒を制することは、正法・像法のときなり、末法には無戒名字の比丘なり。伝教大師『末法灯明記』に云。
「末法の中に持戒の者ありといはば、これ怪異なり、市に虎あらむがごとし、だれかこれを信ずべき」といへり。また{末法灯明記}いはく、「末法の中には、ただ言教のみあて行証なし、もし戒法あらば、破戒あるべし。すてに戒法なし、いつれの戒おか破せむによて破戒あらむ。破戒なほなし、いかにいはむや持戒おや」といへり。
まことに受戒の作法は、中国には持戒の僧十人を請して戒師とす。
辺地には五人を請して戒師として戒おばうくるなり、しかるにこのこころは、持戒の僧一人もとめいださむに、えがたきなり。しかればうけての上にこそ破戒とことばもあれば、末代の近来は破戒なほなし、たた無戒の比丘なりとまふすなり。この経に破戒をとくことは、正・像に約してときたまへるなり。
乃至

念仏往生

次に名号を称して往生することをあかすといふは、「仏阿難につげたまはく、なんぢよくこの語をたもて、この語をたもてといふは、すなわちこれ無量寿仏のみなをたもてとなり」{観経}とのたまへり。善導これを釈していはく。
「仏告阿難汝好持是語といふより已下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通することをあかす。かみよりこのかた、定散・両門の益をとくといゑども、仏の本願をのぞむには、こころ衆生をして一向にもはら弥陀仏のみなを称するにあり」{散善義}とのたまへり。
おほよそこの経の中には、定散の諸行をとくといゑども、その定散をもては付属したまはず、たた念仏の一行をもて阿難に付属して、未来に流通するなり。遐代に流通すといふは、はるかに法滅の百歳まてをさす。すなわち末法万年ののち、仏法みなて滅して、三宝の名字もきかざらむとき、ただこの念仏の一行のみとどまりて、百歳ましますへしとなり。
しかれは聖道門の法文もみな滅し、十方浄土の往生もまた滅し、上生都(兜)率もまたうせ、諸行往生もみなうせたらむとき、ただこの念仏往生の一門のみとどまりて、そのときも一念にかならず往生すべしといへり。
かるかゆへに、これをさして、とおき世とはいふなり。これすなわち、遠をあげて近を摂するなり。仏の本願をのぞむといふは、弥陀如来の四十八願の中の第十八の願をおしふるなり。
いま教主釈尊、定散二善の諸行をすてて、念仏の一行を付属したまふことも、弥陀の本願の行なるがゆへなり。
一向専念といふは、『双巻経』にとくところの三輩のもんの中の、一向専念をおしふるなり、一向のことば、余をすつることばなり。この経には、はじめにひろく定散をとくといゑども、のちには一向に念仏をゑらびて、付属し流通したまへるなり。
しかれは、とおくは弥陀の本願にしたがひ、ちかくは釈尊の付属をうけむとおもはば、一向に念仏の一行を修して往生をもとむへきなり。

おほよそ念仏往生は諸行往生にすぐれたることおほくの義あり。

一には因位の本願なり、いはく、弥陀如来の因位法蔵菩薩のとき、四十八の誓願をおこして、浄土をまふけて、仏にならむと願したまひしとき、衆生往生の行をたてて、えらびさためたまひしに、余行をはえらびすてて、ただ念仏の一行を選定して、往生の行にたてたまへり。これを選択の願といふことは、『大阿弥陀経』の説なり

二には光明摂取なり。これは阿弥陀仏、因位の本願を称念して、相好の光明をもて、念仏の衆生を摂取してすてたまはずして、往生せさせたまふなり、余の行者おば摂取したまはす。

三には弥陀みづからのたまはく、「これはこれ跋陀和菩薩、極楽世界にまうでて、いづれの行を修してかこのくにに往生し候べきと、阿弥陀仏にとひたてまつりしかば、仏こたへてのたまはく、わがくにに生ぜむとおもはば、わが名を念して休息することなかれ、すなわち往生することをえてむ」{一巻本般舟三昧経意}とのたまへり。余行おばすすめたまはず。

四には釈迦の付属にいはく、いまこの経に、念仏を付属流通したまへり。
余行おば付属せす。

五には諸仏証誠、これは『阿弥陀経』にときたまへるところなり、釈迦仏えらびて念仏往生のむねをときたまへば、六方の諸仏おのおのおなじくほめ、おなじくすすめて、広長のみしたをのべて、あまねく三千大千世界におほふて証誠したまへり。
これすなわち一切衆生をして、念仏して往生することは決定してうたがふへからずと、信ぜしめむ料なり。余行おばかくのことく証誠したまはず。

六には法滅の往生、いはく、「万年三宝滅、斯経住百年、爾時聞一念、皆当得生彼」[24]{礼讃}といふて、末法万年ののち、ただ念仏の一行のみとどまりて、往生すべしといへることなり。余行はしからず。
しかのみならず、下品下生の十悪の罪人、臨終のとき、聞経と称仏と二善をならべたりといゑども、化仏来迎してほめたまふに、「汝称仏名故 諸罪消滅、我来迎汝」[25] {観経}とほめて、いまだ聞経の事おばほめたまはず。
また『双巻経』に三輩往生に業をとく中に、菩提および起立塔像等の余の行おもとくといゑども、流通のところにいたりて、「其有得聞 彼仏名号 歓喜踊躍 乃至一念、当知此人 爲得大利、則是具足 無上功徳」[26]とほめて、余行をさして無上功徳とはほめたまはず。念仏往生の旨要をとるに、これにありと。

第三日 阿弥陀仏『双巻経』・『阿弥陀経』

光明功徳

又云、仏の功徳は、百千万劫のあひだ、昼夜にとくとも、きわめつくすべからず。これによて教主釈尊、かの阿弥陀仏の功徳を称揚したまふにも、要の中の要をとりて、略してこの三部妙典をときたまへり。仏すでに略したまへり、当座の愚僧いかがくはしくするにたえむ。ただ善根成就のために、かくのごとく讃嘆したてまつるべし。

阿弥陀如来の内証・外用の功徳、無量なりといゑども、要をとるに、名号の功徳にはしかず。このゆへにかの阿弥陀仏も、ことにわが名号をして衆生を済度し、また釈迦大師も、おほくかのほとけの名号をほめて、未来に流通したまへり。
しかれば、いまその名号について讃嘆したてまつらば、阿弥陀といふは、これ天竺の梵語なり、ここには翻訳して無量寿仏といふ。また無量光といへり。または無辺光仏・無礙光仏・無対光仏・炎王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏といへり。
ここにしりぬ、名号の中に光明と寿命との二の義をそなえたりといふことを。かの仏の功徳の中には、寿命を本とし、光明をすぐれたりとするゆへなり、しかればまた光明・寿命の二の功徳をほめたてまつるべし。

まづ光明の功徳をあかさば、はじめに無量光は、『経』{観経}にのたまはく、「無量寿仏に八万四千の相あり、一一の相のおのおの八万四千の随形好あり。一一の好にまた八万四千の光明あり。一一の光明あまねく十方世界をてらす、念仏の衆生を摂取してすてたまはず」といへり。
恵心これをかむがへていはく、「一一の相の中に、おのおの七百五倶胝六百万の光明を具せり、熾然赫奕たり」{往生要集巻中本}といへり。
一相よりいづるところの光明かくのごとし、いはむや八万四千の相おや。
まことに算数のおよぶところにあらづ、かるがゆへに無量光といふ。
つぎに無辺光といふは、かの仏の光明そのかずかくのごとし、無量のみにあらず、てらすところもまた辺際あることなきがゆへに、無辺光といふ。
つぎに無礙光は、この界の日月灯燭等のごときは、ひとへなりといゑとも、ものをへだつれば、そのひかりとほることなし。もしかの仏の光明ものにさえらるれば、この界の衆生たとひ念仏すといふとも、その光摂をかぶることをうべからす。そのゆへは、かの極楽世界とこの娑婆世界とのあひだ、十万億の三千大千世界をへだてたり。その一一の三千大千世界に、おのおの四重の鉄囲山あり。いはゆる、まず一四天下をめぐれる鉄囲山あり、たかさ須弥山とひとし。つぎに少千界をめぐれる鉄囲山あり、たかさ第六天にいたる。つぎに中千界をめぐれる鉄囲山あり、たかさ色界の初禅にいたる。次に大千界をめぐれる鉄囲山あり、たかさ第二禅にいたれり。しかればすなわち、もし無礙光にあたらずば、一世界をすらなほとほるべからす、いかにいはむや十万億の世界おや。しかるにかの仏の光明、かれこれそこばくの大小諸山をとほりてらして、この界の念仏衆生を摂取したまふに、障礙あることなし。
余の十方世界を照摂したまふことも、またかくのごとし、かるかゆへに無礙光といふ。
次に清浄光は、人師{述文讃巻中意}釈していはく、「無貪の善根より生ずるところのひかりなり」。貪に二あり、婬貪・財貪なり。清浄といふは、ただ汚穢不浄を除却するにはあらず、その二の貪を断除するなり。貪を不浄となづくるゆへなり。もし戒に約せは、不婬戒と不慳貪戒とにあたれり。しかれは法蔵比丘、むかし不婬・不慳貪所生の光といふ、この光にふるるものは、かならず貪欲のつみを滅す、もし人あて、貪欲さかりにして、不婬・不慳貪の戒をたたもつことえざれとも、こころをいたしてもはらこの阿弥陀仏の名号を称念すれば、すなわちかの仏無貪清浄の光をはなちて、照触摂取したまふゆへに、婬貪・財貪の不浄のぞこる。無戒・破戒の罪愆滅して、無貪善根の身となりて、持戒清浄の人とひとしきなり。

次に歓喜光は、これはこれ無瞋善根所生の光、ひさしく不瞋恚戒をたもちて、この光をえたまへり。かるがゆへに無瞋所生の光といふ、この光にふるるものは、瞋恚のつみを滅す。
しかれば憎盛の人なりといふとも、もはら念仏を修すれば、かの歓喜光をもて摂取したまふゆへに、瞋恚のつみ滅して、忍辱のひととおなじ。これまたさきの清浄光の、貪欲のつみ滅するかごとし。

次に智慧光は、これはこれ無痴の善根所生の光なり。ひさしく一切智慧をまなうて(まなんで、修して)、愚痴の煩悩をたちつくして、この光をえたまへるがゆへに、無痴所生の光といふ。この光はまた愚痴のつみを滅す。しかれば無智の念仏者なりといふとも、かの智慧の光をしててらし摂(おさめ)たまふがゆへに、すなわち愚痴の愆を滅して、智慧は勝劣あることなし。またこの光のごとくしりぬべし。
かくのごとくして、十二光の名ましますといふとも、要をとるにこれにあり。

凡(おほよそ)そかの仏の光明功徳の中には、かくのごときの義をそなえたり、くはしくあかさば多種あるべし。おほきにわかちて二あり。
一には常光、二には神通光なり、はじめに常光といふは、諸仏の常光おのおの意楽にしたがふて遠近・長短あり。あるいは常光おもておのおの一尋相といへり、釈迦仏の常光のごときこれなり。あるいは七尺をてらし、あるいは一里をてらし、あるいは一由旬をてらし、あるいは二・三・四・五乃至百千由旬をてらし、あるいは一四天下をてらし、あるいは一仏世界をてらし、あるいは二仏・三仏乃至百千仏の世界をてらせり。

この阿弥陀仏の常光は、八方上下無央数の諸仏の国土におひて、てらさずといふところなし。八方上下は極楽について方角をおしふるなり。この常光について異説あり。すなわち『平等覚経』には、別して頭光をおしえたり。『観経』には、すへて身光といへり。かくのごとき異説あり。『往生要集』に堪(かむがへ)たり、みるべし。

常光といふは、長時不断にてらす光なり。次に神通光といふは、ことに別時にてらす光なり。釈迦如来の『法華経』をとかむとしたまひしとき、東方万八千の土をてらしたまひしがこときは、すなわち神通光なり。阿弥陀仏の神通光は、摂取不捨の光明なり。念仏衆生あるときはてらし、念仏の衆生なきときはてらすことなきがゆへなり。善導和尚『観経の疏』に、この摂取の光明を釈したまへるしたに、「光照の遠近をあかす」{定善義}といへり。この念仏衆生の居所の遠近について、摂取の光明も遠近あるべしといふ義なり。たとひ一ついゑのうちに住したりとも、東によりてゐたらむ人の念仏まふさむには、摂取の光明とおくてらし、西によりてゐたらむ人の念仏まふさむには、光明ちかくてらすべし。
これをもてこころうれば、一つ城のうち、一国のうち、一閻浮提のうち、三千世界の内、乃至他方各別の世界まで、かくのごとしとしるべし。しかれは念仏衆生について光照の遠近ありと釈したまへる、まことにいわれたることとこそおぼえ候へ。これすなわち阿弥陀仏の神通光なり、諸仏の功徳は、いづれの功徳もみな法界に遍すといえども、余の功徳は、その相あらわるることなし。
ただ光明のみまさしく法界に遍する相をあらわせる功徳なり、かるがゆへに、もろもろの功徳の中には、光明をもて最勝なりと釈したるなり。また諸仏の光明の中には、弥陀如来の光明なほまたすぐれたまへり、このゆへに教主釈尊ほめてのたまはく、「無量寿仏 威神光明 最尊第一、諸仏光明 所不能及」{大経}とのたまへり。

またいはく、「我説無量寿仏光明 威神巍巍殊妙、昼夜一劫尚未能尽」[27]{大経}とのたまへり。
これはこれ、かの仏の光明と余の仏の光明とを相対して、その勝劣を校量せむに、弥陀仏におよばさる仏をかずえむに、よるひる一劫すとも、そのかづをしりつくすべからすとのたまへるなり。
かくのごとく殊勝の光をえたまふことは、すなわち願行にこたへたり、いはく、かの仏法蔵比丘のむかし、世自在王仏のみもとにして、二百一十億の諸仏の光明をみたてまつりて、選択思惟して、願じていはく、「設我得仏、光明有能限量、下至不照 百千億那由他 諸仏国者 不取正覚」[28]{大経第十二願}とのたまへり。
この願をおこして、のち兆載永劫のあひだ、積功累徳して、願行ともにあらわして、この光をえたまへり。

仏在世に、灯指比丘といふ人ありき。生れしとき、指より光をはなちて、十里をてらすことありき。のちに仏の御弟子となりて、出家して、羅漢果をえたり。指より光をはなつ因縁によりて、なづけて灯指比丘といへり。過去九十一劫のむかし、毘婆尸仏のときに、ふるき仏像の指の損したまひたるを、修理したてまつりたりし功徳によりて、すなわち指より光をはなつ報をうけたるなり。

また梵摩比丘といふ人ありき、身より光をはなちて、一由旬をてらせり、これ過去に、仏に灯明をたてまつりたりしがゆへなり。
また仏の御弟子阿那律は、仏の説法の座に睡眠したることありき。仏これを種種に弾呵したまふ。阿那律すなわち懺悔のこころをおこして睡眠断づ。七日をへてのち、その目開ながらそのまなこみずなりぬ。これを医師にとふに、医師こたえていはく、人は食をもて命とす、眼はねぶりをもて食とす、もし人七日食せすらむに、命あにつきざらむや、しかれはすなわち、医療のおよぶところにあらず、命つきぬる人に、医療よしなきかごとしといへり。
そのとき仏これをあわれみて、天眼の法をおしえたまふ、すなわちこれを修して、かへりて天眼通をえたり。すなわち天眼第一阿那律といへるこれなり、過去に仏のものをぬすまむとおもふて、塔の中にいたるに、灯明すてにきえなむとするをみて、弓のはすをもてこれをかきあく。
そのときに忽然として改悟のこころをおこして、あまさへ無上道心をおこしたりき。それよりこのかた、生生世世に無量の福をえたり、いま釈迦出世のとき、ついに得脱して、またかくのことく天眼通をえたり、これすなわち、かの灯明をかかけたりし功徳によてなり。 乃至

寿命功徳

次に寿命の功徳といふは、諸仏寿命、意楽にしたかふて長短あり、これによて、恵心僧都四句{小経略記意}をつくれり、

「あるいは能化の仏は命なかく、所化の衆生は命みしかきあり、華光如来のごとし、仏の命は十二小劫、衆生の命は八小劫なり。
あるいは能化の仏は命みしかく、所化の衆生は命なかきあり、月面如来のごとし。仏の命一日一夜、衆生の命は五十歳なり。
あるいは能化・所化ともに命みしかきあり、釈迦如来のことし、仏も衆生もともに八十歳なり。
あるいは能化・所化ともに命なかきあり阿弥陀如来のごとし、仏も衆生もともに無量歳なり、かるかゆへに経にのたまはく、
仏告阿難、無量寿仏寿命長久、不可勝計、汝寧知乎、仮使十方世界無量衆、皆得人身 悉令成就声聞縁覚、都共推算計、禅思一心、竭其智力。於百千万劫、悉共推算計 其寿命長遠之数。不能窮尽 知其限極、声聞菩薩天人之衆寿命長短、亦復如是、非算数譬喩 所能知也[29]
とのたまへり、たたもし神通の大菩薩等のかすへたまはむには、一大恒沙劫なり」と、

『大論』のこころをもて、恵心勘(かむがへ)たり、この数二乗凡夫のかずへてしるべきかずにあらず、かるがゆへに無量とはいへるなり。
すへて仏の功徳を論するに、能持・所持の二義あり、寿命をもて能持といひ、自余のもろもろの功徳をは、ことことく所持といふなり、寿命はよくもろもろの功徳をたもつ、一切の万徳みなことことく寿命にたもたるるかゆへなり。
これは当座の道師が、わたくしの義なり。すなわちかの仏の相好・光明・説法・利生等の一切功徳、およひ国土の一切荘厳等の、もろもろの快楽のことら、たたかの仏の命のながくましますがゆへの事なり。
もし命なくは、かれらの功徳荘厳等、なにによりてかととまるへき。しかれは四十八願の中にも、寿命無量の願に、自余の諸願をはおさめたるなり、たとひ第十八の念仏往生の願、ひろく諸機を摂して済度するににたりといゑとも、仏の御命もしみじかくば、その願なほひろまらじ。そのゆへは、もし百歳・千歳、もしは一劫・二劫にてもましまさましかは、いまのときの衆生は、ことことくその願にもれなまし。かの仏成仏してのち、十劫をすきたるかゆへなり。

これをもてこれをおもはは、済度利生の方便は、寿命の長遠なるにすぎたるはなく、大慈大悲の誓願も、寿命の無量なるにあらはるるものなり。これ娑婆世界の人も、命をもて第一のたからとす、七珍万宝をくらの内にみてたれとも、綾羅綿繍をはこのそこにたくわへたるも、命のいきたるほとこそ、わか宝にてもある、 まなこ閉ぬるのちは、みな人のものなり。しかれは 乃至 弥陀如来の寿命無量の願をおこしたまひけむも、御身のため長寿の果報をもとめたまふにはあらず、済度利生のひさしかるへきために、また衆生をして忻求のこころをおこさしめんためなり。一切衆生はみな命ながからむことをねがふかゆへなり。
凡そかの仏の功徳の中には、寿命無量の徳をそなへたまふに、すぎたることは候はぬなり。このゆへに、『双巻経』の題にも、「無量寿経」といへとも、「無量光経」とはいはず、隋朝よりさきの旧訳には、みな経の中に宗とあることをえらひて、詮をぬき略を存して、その題目とするなり。
すなはちこの経の詮には、阿弥陀如来の功徳をとくるなり、その功徳の中には、光明無量・寿命無量の二の義をそなへたり。その中には、また寿命なを最勝なるゆへに、「無量寿経」となづくるなり。また釈迦如来の功徳の中にも、久遠実成の宗をあらわせるをもて、殊勝甚深のこととせり。
すなはち『法華経』に、寿量品とてとかれたり、二十八品の中には、この品をもてすくれたりとす。まさにしるへし、諸仏の功徳にも、寿命をもて第一の功徳とし、衆生のたからにも、命をもて第一のたからとすといふことを。
その命なかき果報をうることは、衆生に飲食をあたへ、またものの命をころささるを業因とするなり、因と果と相応することなれは、食はすなはち命をつぐがゆへに、食をあたふるはすなはち命をあたふるなり。不殺生戒をたもつも、また衆生の命をたすくるなり。かるかゆへに、飲食をもて衆生に施与し、慈悲に住して不殺生戒をたもてば、かならす長命の果報をえたり。
しかるにかの阿弥陀如来は、すなはち願行あひたすけて、この寿命無量の徳おば成就したまへるなり。願といふは、四十八願の中の第十三の願にいはく、「設我得仏、寿命有能限量、下至百億那由他劫者 不取正覚」[30]とのたまへり。

行といふは、かの願をたてたまふてのち、無央数劫のあひた、また不殺生戒をたもてり。また一切の凡聖におひて、飲食・医薬を供養し施与したまへるなり。これは阿弥陀如来の寿命の功徳なり。 乃至

弥陀入滅

かの仏かくのことく寿命無量なりといえとも、また涅槃隠没の期まします。これについて、あわれなることこそ候へ、道綽禅師、念仏の衆生におひて、始終両益ありと釈したまへる。その終益をあかすに、すなはち『観音授記経』をひきていはく、「阿弥陀仏、住世の命兆載永劫ののち滅度したまひて、ただ観音・勢至、衆生を接引したまふことあるへし。そのときに、一向にもはら念仏して往生したる衆生のみ、つねに仏をみたてまつる、滅したまはぬかごとし、余行往生の衆生は、みたてまつることあらす」{安楽集巻下引所}といへり。往生をえてむ上に、そのときまてのことはあまりごとぞ。
とてもかくても、ありなむとおぼえぬべく候へとも、そのときにのぞみては、かなしかるべきことにてこそ候へ。かの釈迦入滅のありさまにても、おしはかられ候なり。
証果の羅漢・深位の大士も、非滅・現滅[31]のことはりをしりなから、当時別離のかなしみにたえす、天にあおき地にふし、哀哭し悲泣しき。いはんや未証の衆生をや、浅識の凡愚をや、乃至竜神八部も五十二類も、凡そ涅槃の一会、悲歎のなみたをなかさすといふことなし。
しかのみならす、娑羅林のこすえ、抜提河の水、すへて山川・渓谷・草木・樹林も、みな哀傷のいろをあらはしき。しかれは過去をききて未来をおもひ、穢土になすらへて浄土をしるに、かの阿弥陀仏の、衆宝荘厳の国土をかくれ、涅槃寂滅の道場にいりたまひてのち、八万四千の相好ふたたひ現することなく、無量無辺の光明はなかくてらすことなくば、かの会の聖衆人天等、悲哀のおもひ、恋慕のこころざし、いかばかりかは候べき。
七宝自然のはやしなりとも、八功如意の水なりとも、名華軟草のいろも、鳬鴈・鴛鴦のこえも、いかかそのときをしらさらむや、浄穢は土ことなりといへとも、世尊の滅度すてにことなることなし。
迷悟はこころかわるといえとも、所化の悲恋なんそかはることあらむや。この娑婆世界の凡夫、具縛の人の心事相応せす。
意楽各別にてつねに違背し、たかひに厭悪をするだにも、あるいは夫妻のちきりをもむすひ、あるいは朋友のことばをもなして、しはらくもなづさひ(昵)、また馴ぬれば、遠近のさかひをへだて、前後の生をあらため、かくのことく生をも死をも、わかれをつくるときには、なごりをおしむこころたちまちにもよおし、かなしみにたえす、なみたをさへかたきことにてこそは候へ。
いかにいはむやかの仏、内には慈悲哀愍のこころをのみたくはへてましませば、なれたてまつるにしたかふて、いよいよむつまじく、外には見者無厭[32]の徳をそなへてましませは、みまいらすることに、いやめづら[33]なるをや。まことに無量永劫かあひた、あさゆふに万徳円満のみかほをおがみたてまつり、昼夜に四弁無窮[34]の御音になれたてまつりて、恭敬瞻仰し随遂給仕して、すてたらむここちに、ながくみたてまつらざらむことになりたらむばかり、かなしかるべきことや候へき。

無有衆苦のさかひ、離諸妄想のところなりといふとも、このこと一事は、さこそおぼへ候らめとそおぼえ候。それに、もとのごとくみたてまつりて、あらたまることなからむことは、まことにあはれに、ありがたきこととこそおぼへ候へ。これすなはち念仏一行、かの仏の本願なるがゆへなり。おなじく往生をねがはむ人は、専修念仏の一門よりいるべきなり。

  康元二丁巳正月二日書之

愚禿親鸞 八十五歳


末註

  1. 半三身。◇半は分けるの意で、法身・報身と応身(化身)に分けるので半三身というか。
  2. 華厳経に説く、仏・菩薩(ぼさつ)の得る十種の仏身。衆生身・国土身・業報身・声聞身・縁覚身・菩薩身・如来身・智身・法身・虚空身を解境の十仏、正覚仏・願仏・業報仏・住持仏・化仏・法界仏・心仏・三昧仏・性仏・如意仏を行境の十仏という。
  3. 中輩の「其人臨終無量寿仏化現其身 光明・相好、具如真仏(その人、終りに臨みて、無量寿仏はその身を化現したまふ。光明・相好はつぶさに真仏のごとし)」p.42の文から、化現する化仏と真仏ということがわかる
  4. 修因感果(しゅいんかんか) ◇因を修して果を感ず。善の因を修し、その各々の業力の作用により応ずべき果を感得すること。ここでは法蔵菩薩の修因感果を指す
  5. 白は色の基本だが、汚れやすい色であるということ。
  6. 五種の法。◇五停心観によって感得される仏か。
  7. 即ち生じ乃至三生に必ず生ず。◇『漢語灯録』には「造佛功德即決定往生業因次生及三生必得往生也(造仏の功徳は即ち決定往生の業因なり、次生及び三生には必ず往生を得る也)」とある。
  8. 光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。
  9. 隠顕。◇文章の表面に顕れたものと裏に隠れたものということ。「散善義」文前料簡で「 隠顕ありといへども、もしその道理によらばことごとくみなあるべし。」の語に依られた。 ここでの隠顕は、親鸞聖人が 「化身土文類」 でいわれるような真・仮 (真実・方便) を分別する意味ではない。
  10. 五通。◇五神通のこと。
  11. 智光の曼陀羅。◇奈良の元興寺に伝わる智光が感得したという曼荼羅の図像に基づいて作られた浄土曼荼羅の総称。
  12. 師秀が自らの逆修の為に造った仏像を前にしての御説法であるからこのようにいう。
  13. 風(ふ)。◇おもむき、様子。
  14. 依正二報。◇依報と正報の二種の果報のこと。正報とは過去の業(行為)の報いとして得た心身をいい、依報とはその心身のよりどころとなる国土・環境をいう。
  15. おもはく。◇思うことには。思ふのク用法。
  16. 三種の愛心。◇人の臨終の際に起こす三つの執着の心のこと。家族や財産などへの愛着である境界愛、自分自身の存在そのものに対する執着である自体愛、自身は死後どのようになるのかと憂える当生愛をいう。
  17. 加持。◇加持とは、サンスクリット語のadhisthana(アディシュターナ)の訳語で、もとは寄りそって立つこと。菩薩や仏が衆生にかかわりあうことである。
  18. ◇自らのなした行為の結果によって正念に住するから来迎があのではなく、仏の来迎があるから正念に住するのである、と、法然聖人は来迎の意味を反転されておられる。つまり当時流布していた正念来迎説を否定しておられた。 この正念を究極的に推し進めれば、念仏衆生摂取不捨と信知することは正念であり、親鸞聖人による「しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと」(*)という正念であり、如来を主体とした他力回向、つまり本願力回向論の正念になるのは当然であろう。ここで注意すべきは、御開山は弥陀の来迎そのものを完全否定しているのではないということである。もしそうであるならば、この『西方指南抄』を書き残される筈がない。往生決定は信の一念にあるという本願の思し召しに立たれて、臨終来迎を願い求めることを否定されたのである。
    御消息(1)の、「来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。」の文は、来迎(を自力で願い求めて本願力を疑う者)は諸行往生にあり、と読むべきであろう。出来上がった教学の上で論ずるより、法然・親鸞両聖人の上で、このご法義を味わうべきであろう。文責:林遊@なんまんだぶ。
  19. 僻韻(へきいん)。◇僻案と同意か。かたよった考え。誤った言い方。◇現在ただいまの尋常の可聞可称の〈なんまんだぶ〉を肯わずに、臨終を期すことを誤った考え方であるとされる。
  20. ◇静照(~1003)の『四十八願釈』の第十九願の解釈に「雖聞称名 皆得往生。然命終時 心多顛倒。弘誓大悲 不得晏然 故与大衆 現其人前。」(称名を聞きて皆な往生すといえども、しかるに命終の時、心おおく顛倒す。弘誓の大悲、晏然(あんぜん:安らかで落ち着いた様子)たるを得ざるが故に、大衆とともに其の人の前に現ず。)『四十八願釈』とある。
  21. 我れ生死海にありて幸いに聖船の筏にもうあえり。我が顕ずるところの真聖、卑穢の質を来迎したまう。もし浄土を欣求するに必ず形像造画せよ。臨終に其の前に現じて、摂心して道路を示すなり。念念に漸く罪を尽し、業に随いて九品に生ず。其の顕るところの聖衆は、まず新生の輩を讃じ、仏道の楽を増進せん。
  22. 『薬師琉璃光如来本願功徳経』に「復次に曼殊室利よ、若し四衆の苾芻(びっしゅ:比丘)・苾芻尼(びっしゅに:比丘尼)・鄔波索迦(うばそか:優婆塞)・鄔波斯迦(うばしか:優婆夷)、及び余の浄信の善男子・善女人等有りて、能く八分斎戒を受持すること、或は一年を経、或は復三月、学処を受持すること有らん。
    此の善根を以て、西方極楽世界 無量寿仏の所に生れて、正法を聴聞せんことを願い未だ定まらざる者、若し世尊、薬師瑠璃光如来の名号を聞かば、命終の時に臨んで八大菩薩有り、其の名を文殊師利菩薩・観世音菩薩・得大勢菩薩・無尽意菩薩・宝檀華菩薩・薬王菩薩・薬上菩薩・弥勒菩薩と曰う。 八大菩薩は空に乗じて来りて其の道路を示し、即ち彼の界、種種の雑色の衆の寳華の中に於て、自然に化生せん。 [1] とある。
  23. 御廟の僧正。◇源信僧都の師、慈恵大師良源。良源僧正は第十九願をもって浄土往生の願とされた。参考:「良源僧正は、第十八願は五逆と誹謗を犯していない凡夫の往生を誓った願であるが、その往生業は深妙ではないから臨終の来迎が誓われていない。それに引き替え第十九願に臨終来迎が誓われているのは、菩提心を発し、諸の功徳を修した勝れた行者であるからであって、当然第十八顧より第十九願の方が深妙な往生業が誓われている。」という。(梯實圓和上『顕浄土方便化身土文類講讃』より)三生果遂
  24. 万年にして三宝滅せんに、この経(大経)住すること百年せん。その時聞きて一念せんに、みなまさにかしこに生ずることを得べし。
  25. なんぢ仏名を称するがゆゑにもろもろの罪消滅す。われ来りてなんぢを迎ふ。
  26. それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなりと。
  27. われ、無量寿仏の光明の威神、巍々殊妙なるを説かんに、昼夜一劫すとも、なほいまだ尽すことあたはじ」
  28. たとひわれ仏を得たらんに、光明よく限量ありて、下、百千億那由他の諸仏の国を照らさざるに至らば、正覚を取らじ。
  29. 仏、阿難に語りたまはく、「無量寿仏は寿命長久にして称計すべからず。なんぢむしろ知れりや。たとひ十方世界の無量の衆生、みな人身を得て、ことごとく声聞・縁覚を成就せしめて、すべてともに集会し、禅思一心にその智力を竭して、百千万劫においてことごとくともに推算してその寿命の長遠の数を計らんに、窮尽してその限極を知ることあたはじ。声聞・菩薩・天・人の衆の寿命の長短も、またまたかくのごとし。算数譬喩のよく知るところにあらざるなり。
  30. たとひわれ仏を得たらんに、寿命よく限量ありて、下、百千億那由他劫に至らば、正覚を取らじ。
  31. 非滅・現滅。滅にして現に滅に非ず。
  32. 左訓:ミタテマツルモノイトフコトナシ。
  33. いや目づら。◇悲しそうな顔のこと。
  34. 四弁無窮。◇仏・菩薩のもつ4種の自由自在な理解能力と表現能力を智慧の面から示した言葉。教えに精通している法無礙智、教えの表す意味内容に精通している義無礙智、いろいろの言語に精通している辞無礙智、以上の3種をもって自在に説く楽説無礙智。理解力の面から四無礙解、表現力の面から四無礙弁ともいう。ここではこのような四弁無窮なる名号を称えながら、その徳に慣れてしまっている事を指すか。