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(ページの作成: ==愚管抄== 法然聖人関連 又建永の年、法然房と云上人ありき。まぢかく京中をすみかにて、念仏宗を立て専宗念仏と号して、「たヾ...) |
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+ | {{Comment|鎌倉初期の史論書。7巻。慈円(1155~1225)著。承久2年(1220)ごろ成立。神武天皇から順徳天皇までの歴史を、末法思想と道理の理念とに基づいて述べたもの。慈円は関白藤原忠通の子、鎌倉初期の天台宗の僧で天台座主を四回つとめた。法然聖人の外護者であった九条兼実の弟であり、親鸞聖人にとっては得度の師である。諡号は慈鎮。ここでは法然聖人関連を抜き出しておいた。}} | ||
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==愚管抄== | ==愚管抄== | ||
− | + | 法然聖人関連を抜書き。 | |
又建永の年、法然房と云上人ありき。まぢかく京中をすみかにて、念仏宗を立て専宗念仏と号して、「たヾ阿弥陀仏とばかり申べき也。それならぬこと、顕密の つとめはなせそ」と云事を云いだし、不可思議の愚痴無智の尼入道によろこばれて、この事のたヾ繁昌に世にはんじやうしてつよくをこりつヽ、その中に安楽房 とて、泰経入道がもとにありける侍、入道して専修の行人とて、又住蓮とつがいて、六時礼讚は善導和上の行也とて、これをたてヽ尼どもに帰依渇仰せらるヽ者 出きにけり。<br /> | 又建永の年、法然房と云上人ありき。まぢかく京中をすみかにて、念仏宗を立て専宗念仏と号して、「たヾ阿弥陀仏とばかり申べき也。それならぬこと、顕密の つとめはなせそ」と云事を云いだし、不可思議の愚痴無智の尼入道によろこばれて、この事のたヾ繁昌に世にはんじやうしてつよくをこりつヽ、その中に安楽房 とて、泰経入道がもとにありける侍、入道して専修の行人とて、又住蓮とつがいて、六時礼讚は善導和上の行也とて、これをたてヽ尼どもに帰依渇仰せらるヽ者 出きにけり。<br /> | ||
− | + | それらがあまりさへ云はやりて、「この行者に成ぬれば、女犯をこのむも魚鳥を食も、阿弥陀仏はすこしもとがめ玉はず。一向専修にいりて念仏ばかりを信じつれば、一定最後にむかへ玉ふぞ」と云て、京田舎さながらこのやうになりける程に、院の小御所の女房<ref>鎌倉時代前期の白拍子。後鳥羽上皇の愛妾。亀菊ともいう。</ref>、仁和寺の御むろの御母<ref>鎌倉時代の女官。後鳥羽上皇の妃である坊門局。 | |
+ | 坊門信清の次女。後鳥羽上皇の後宮にはいり道助(どうじょ)入道親王、頼仁(よりひと)親王、嘉陽門院(かようもんいん)を生む。承久の乱で後鳥羽上皇が隠岐(島根県)に流されたときしたがい、延応元年(1239)上皇の没後、京都にかえった。通称は別に西御方。</ref>まじりにこれを信じて、みそかに安楽など云物よびよせて、このやうとかせ てきかんとしければ、又ぐして行向どうれいたち出きなんどして、夜るさへとヾめなどする事出きたりけり。<br /> | ||
とかく云ばかりなくて、終に安楽・住蓮頚きられにけり。法然上人ながして京の中にあるまじにてをはれにけり。かヽる事もかやうに御沙汰のあるに、すこしかヽりてひかへらるヽとこそみゆれ。<br /> | とかく云ばかりなくて、終に安楽・住蓮頚きられにけり。法然上人ながして京の中にあるまじにてをはれにけり。かヽる事もかやうに御沙汰のあるに、すこしかヽりてひかへらるヽとこそみゆれ。<br /> | ||
− | されど法然はあまり方人なくて、ゆるされて終に大谷と云東山にて入滅してけり。それも往生往生と云なして人あつまりけれど、さるたしかなる事もなし。臨終行儀も増賀上人な どのやうにはいわるヽ事もなし。かヽることもありしかば、これは昨今までしりびきをして、猶その魚鳥女犯の専修は大方えとヾめられぬにや、山の大衆をこり | + | されど法然はあまり方人なくて、ゆるされて終に大谷と云東山にて入滅してけり。それも往生往生と云なして人あつまりけれど、さるたしかなる事もなし。臨終行儀も増賀上人な どのやうにはいわるヽ事もなし。かヽることもありしかば、これは昨今までしりびきをして、猶その魚鳥女犯の専修は大方えとヾめられぬにや、山の大衆をこり て、空あみだ仏が念仏をいちらさんとて、にげまどはせなどすめり。 |
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+ | 大方東大寺の俊乗房は、阿弥陀の化身と云こと出きて<ref>阿弥号は閻魔の前で名を問われたとき、阿弥陀仏と答えたら念仏する者を救うという本願があるので、罪は深くとも浄土へおくられるという意から発った。</ref>、わが身の名をば南無阿弥陀仏と名のりて、万の人に上に一字をきて、空阿弥陀仏、法あみだ仏など云名をつけヽるを、まことにやがて我名にしたる尼法師をヽかり。はてに法然が弟子とてかヽる事 どもしいでたる、誠にも仏法の滅相うたがいなし。 | ||
これを心うるにも、魔には順魔逆魔と云、この順魔のかなしうかやうの事どもをしふる也。弥陀一教利物偏増のまことならん世には、罪障まことに消て極楽へまいるも人もあるべし。まだしきに真言止観さかりにもありぬべき時、順魔の教にしたがいて得脱する人はよもあらじ。かなしきことヾもなり。<br /> | これを心うるにも、魔には順魔逆魔と云、この順魔のかなしうかやうの事どもをしふる也。弥陀一教利物偏増のまことならん世には、罪障まことに消て極楽へまいるも人もあるべし。まだしきに真言止観さかりにもありぬべき時、順魔の教にしたがいて得脱する人はよもあらじ。かなしきことヾもなり。<br /> | ||
さて九条殿は、念仏の事を法然上人すすめ申しをば信じて、それを戒師にて出家などせられにしかば、仲国が妻の事あさましがり、法然が事などなげきて、其建永二年の四月五日、久しく病にねて起居も心にかなはず、臨終はよくてうせにけり。 | さて九条殿は、念仏の事を法然上人すすめ申しをば信じて、それを戒師にて出家などせられにしかば、仲国が妻の事あさましがり、法然が事などなげきて、其建永二年の四月五日、久しく病にねて起居も心にかなはず、臨終はよくてうせにけり。 | ||
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+ | {中略} | ||
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+ | さて又ゆヽしき事の出きたりけり。承元二年五月十五日、法勝寺の九重塔の上に雷をちて火付て焼にけり。あさましきことにてありけり。 | ||
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+ | <references /> |
2014年1月17日 (金) 13:08時点における最新版
愚管抄
法然聖人関連を抜書き。
又建永の年、法然房と云上人ありき。まぢかく京中をすみかにて、念仏宗を立て専宗念仏と号して、「たヾ阿弥陀仏とばかり申べき也。それならぬこと、顕密の つとめはなせそ」と云事を云いだし、不可思議の愚痴無智の尼入道によろこばれて、この事のたヾ繁昌に世にはんじやうしてつよくをこりつヽ、その中に安楽房 とて、泰経入道がもとにありける侍、入道して専修の行人とて、又住蓮とつがいて、六時礼讚は善導和上の行也とて、これをたてヽ尼どもに帰依渇仰せらるヽ者 出きにけり。
それらがあまりさへ云はやりて、「この行者に成ぬれば、女犯をこのむも魚鳥を食も、阿弥陀仏はすこしもとがめ玉はず。一向専修にいりて念仏ばかりを信じつれば、一定最後にむかへ玉ふぞ」と云て、京田舎さながらこのやうになりける程に、院の小御所の女房[1]、仁和寺の御むろの御母[2]まじりにこれを信じて、みそかに安楽など云物よびよせて、このやうとかせ てきかんとしければ、又ぐして行向どうれいたち出きなんどして、夜るさへとヾめなどする事出きたりけり。
とかく云ばかりなくて、終に安楽・住蓮頚きられにけり。法然上人ながして京の中にあるまじにてをはれにけり。かヽる事もかやうに御沙汰のあるに、すこしかヽりてひかへらるヽとこそみゆれ。
されど法然はあまり方人なくて、ゆるされて終に大谷と云東山にて入滅してけり。それも往生往生と云なして人あつまりけれど、さるたしかなる事もなし。臨終行儀も増賀上人な どのやうにはいわるヽ事もなし。かヽることもありしかば、これは昨今までしりびきをして、猶その魚鳥女犯の専修は大方えとヾめられぬにや、山の大衆をこり て、空あみだ仏が念仏をいちらさんとて、にげまどはせなどすめり。
大方東大寺の俊乗房は、阿弥陀の化身と云こと出きて[3]、わが身の名をば南無阿弥陀仏と名のりて、万の人に上に一字をきて、空阿弥陀仏、法あみだ仏など云名をつけヽるを、まことにやがて我名にしたる尼法師をヽかり。はてに法然が弟子とてかヽる事 どもしいでたる、誠にも仏法の滅相うたがいなし。
これを心うるにも、魔には順魔逆魔と云、この順魔のかなしうかやうの事どもをしふる也。弥陀一教利物偏増のまことならん世には、罪障まことに消て極楽へまいるも人もあるべし。まだしきに真言止観さかりにもありぬべき時、順魔の教にしたがいて得脱する人はよもあらじ。かなしきことヾもなり。
さて九条殿は、念仏の事を法然上人すすめ申しをば信じて、それを戒師にて出家などせられにしかば、仲国が妻の事あさましがり、法然が事などなげきて、其建永二年の四月五日、久しく病にねて起居も心にかなはず、臨終はよくてうせにけり。
{中略}
さて又ゆヽしき事の出きたりけり。承元二年五月十五日、法勝寺の九重塔の上に雷をちて火付て焼にけり。あさましきことにてありけり。