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「大乗起信論」の版間の差分

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論曰、有法能起摩訶衍信根。是故応説。説有五分。云何為五。
 
論曰、有法能起摩訶衍信根。是故応説。説有五分。云何為五。
:論じていわく、法の能く摩訶衍の信根を起こすあり。是の故に応に説くべし。説くに五分あり。云何んが五となすや。
+
:論じていわく、法の能く<kana>摩訶衍(まかえん)</kana>の信根を起こすあり。是の故に応に説くべし。説くに五分あり。云何んが五となすや。
 
一者因縁分、二者立義分、三者解釈分、四者修行信心分、五者勧修利益分。
 
一者因縁分、二者立義分、三者解釈分、四者修行信心分、五者勧修利益分。
:一には因縁分、二には立義分、三には解釈分、四には修行信心分、五には勧修利益分なり。
+
:一には<kana>因縁(いんねん)</kana>分、二には<kana>立義(りゅうぎ)</kana>分、三には<kana>解釈(げしゃく)</kana>分、四には<kana>修行信心(しゅぎょうしんじん)</kana>分、五には<kana>勧修利益(かんしゅりやく)</kana>分なり。
  
 
===因縁分===
 
===因縁分===
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:一には、因縁の総相なり。<kana>所謂(いわゆる)</kana>、衆生をして一切の苦を離れ究竟の楽を得しめんがためにして、世間の名利と恭敬を求めるにあらざるが故なり。
 
:一には、因縁の総相なり。<kana>所謂(いわゆる)</kana>、衆生をして一切の苦を離れ究竟の楽を得しめんがためにして、世間の名利と恭敬を求めるにあらざるが故なり。
 
二者、為欲解釈如来根本之義、令諸衆生正解不謬故。
 
二者、為欲解釈如来根本之義、令諸衆生正解不謬故。
:二には、如来の根本の義を解釈して、諸の衆生をして正しく解して謬らざらしめんと欲するがための故なり。
+
:二には、如来の根本の義を解釈して、諸の衆生をして正しく解して<kana>謬(あやま)</kana>らざらしめんと欲するがための故なり。
 
三者、為令善根成熟衆生、於摩訶衍法堪任不退信故。
 
三者、為令善根成熟衆生、於摩訶衍法堪任不退信故。
 
:三には、善根の成熟せる衆生をして、摩訶衍の法に於いて不退の信に堪任ならしめんがための故なり。
 
:三には、善根の成熟せる衆生をして、摩訶衍の法に於いて不退の信に堪任ならしめんがための故なり。
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:四には、善根の微小なる衆生をして、信心を修習せしめんがための故なり。
 
:四には、善根の微小なる衆生をして、信心を修習せしめんがための故なり。
 
五者、為示方便消悪業障、善護其心、遠離痴慢出邪網故。
 
五者、為示方便消悪業障、善護其心、遠離痴慢出邪網故。
:五には、方便を示して悪業の障りを消し、善く其の心を護り、癡・慢を遠離して邪網を出でんがための故なり。
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:五には、方便を示して悪業の障りを消し、<kana>善(よ)</kana>く其の心を護り、癡・慢を遠離して邪網を出でんがための故なり。
 
六者、為示修習止観、対治凡夫二乗心過故。
 
六者、為示修習止観、対治凡夫二乗心過故。
 
:六には、止観を修習することを示して、凡夫と二乗の心の過ちを対治せんがための故なり。
 
:六には、止観を修習することを示して、凡夫と二乗の心の過ちを対治せんがための故なり。
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:八には、利益を示して、修行を勧めんがための故なり。
 
:八には、利益を示して、修行を勧めんがための故なり。
 
有如是等因縁、所以造論。
 
有如是等因縁、所以造論。
:是の如き等の因縁あり、所以に論を造る。
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:是の如き等の因縁あり、<kana>所以(ゆえ)</kana>に論を造る。
  
 
問曰、修多羅中具有此法 何須重説。<br>
 
問曰、修多羅中具有此法 何須重説。<br>
:問うて曰わく、修多羅の中に具さに此の法あるに、何ぞ重ねて説くを須うるや。
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:問うて曰わく、<kana>修多羅(しゅたら)</kana>の中に<kana>具(つぶ)</kana>さに此の法あるに、何ぞ重ねて説くを<kana>須(もち)</kana>うるや。
 
答曰、修多羅中雖有此法、以衆生根行不等 受解縁別。
 
答曰、修多羅中雖有此法、以衆生根行不等 受解縁別。
 
:答えて曰わく、修多羅の中に此の法有りと雖も、衆生の根・行は等しからざると、受解の縁の別なるを以ってなり。
 
:答えて曰わく、修多羅の中に此の法有りと雖も、衆生の根・行は等しからざると、受解の縁の別なるを以ってなり。
 
所謂 如来在世衆生利根、能説之人色心業勝、円音一演異類等解、則不須論。<br>
 
所謂 如来在世衆生利根、能説之人色心業勝、円音一演異類等解、則不須論。<br>
:所謂、如来の在世には、衆生は利根にして、能説の人は、色心の業は勝れたれば、円音を一たび演ぶれば、異類等しく解して、則ち論を須いず。
+
:<kana>所謂(いわゆる)</kana>、如来の在世には、衆生は利根にして、能説の人は、色心の業は勝れたれば、円音を一たび<kana>演(の)</kana>ぶれば、異類等しく解して、則ち論を<kana>須(もち)</kana>いず。
 
若如来滅後、或有衆生能以自力広聞而取解者、或有衆生亦以自力少聞而多解者、或有衆生無自心力 因於広論而得解者、自有衆生復以広論文多為煩、心楽総持少文而摂多義能取解者。
 
若如来滅後、或有衆生能以自力広聞而取解者、或有衆生亦以自力少聞而多解者、或有衆生無自心力 因於広論而得解者、自有衆生復以広論文多為煩、心楽総持少文而摂多義能取解者。
:如来の滅後の若きは、或いは衆生の能く自力を以って広く聞いて、解を取る者あり、或いは衆生の亦た自力を以って少し聞いて多く解する者あり、或いは衆生の自らに心力なく、広論に因って解を得る者あり、自ずから衆生のまた広論の文の多きを以って煩となし、心に総持の少文にして多義を摂するものを楽って能く解を取る者あり。
+
:如来の滅後の<kana>若(ごと)</kana>きは、或いは衆生の能く自力を以って広く聞いて、解を取る者あり、或いは衆生の亦た自力を以って少し聞いて多く解する者あり、或いは衆生の自らに心力なく、広論に<kana>因(よ)</kana>って解を得る者あり、自ずから衆生のまた広論の文の多きを以って煩となし、心に<kana>総持(そうじ)</kana>の少文にして多義を摂するものを<kana>楽(ねが)</kana>って能く解を取る者あり。
 
如是、此論、為欲総摂如来広大深法無辺義故、応説此論。
 
如是、此論、為欲総摂如来広大深法無辺義故、応説此論。
:是の如くなれば、此の論は、如来の広大の深法の無辺の義を総摂せんと欲するもがための故に、応に此の論を説くべし。
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:是の如くなれば、此の論は、如来の広大の深法の無辺の義を総摂せんと欲するがための故に、応に此の論を説くべし。
  
 
已説因縁分。
 
已説因縁分。
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:是の心の生滅の因縁の相は、能く摩訶衍の自の体と相と用を示すが故なり。
 
:是の心の生滅の因縁の相は、能く摩訶衍の自の体と相と用を示すが故なり。
 
所言義者、則有三種。云何為三。<br>
 
所言義者、則有三種。云何為三。<br>
:所言、義には、則ち三種有り。 云何んが三となすや。
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:<kana>所言(いわゆる)</kana>、義には、則ち三種有り。 云何んが三となすや。
 
一者体大、謂一切法真如平等不増減故。<br>
 
一者体大、謂一切法真如平等不増減故。<br>
 
:一には体が大なり、謂わく、一切の法の真如は平等にして増減せざるが故なり。
 
:一には体が大なり、謂わく、一切の法の真如は平等にして増減せざるが故なり。
109行目: 109行目:
 
:解釈分に三種あり。云何んが三となすや。一には正義を顕示す。二には邪執を対治す。三には道に発趣する相を示す。
 
:解釈分に三種あり。云何んが三となすや。一には正義を顕示す。二には邪執を対治す。三には道に発趣する相を示す。
 
顕示正義者、依一心法、有二種門、云何為二、<br>
 
顕示正義者、依一心法、有二種門、云何為二、<br>
:正義を顕示すれば、一心の法に依って二種の門があり。云何が二となすや。
+
:正義を顕示すれば、一心の法に依って二種の門あり。云何が二となすや。
 
一者心真如門、二者心生滅門。是二種門皆各総摂一切法。<br>
 
一者心真如門、二者心生滅門。是二種門皆各総摂一切法。<br>
 
此義云何。以是二門不相離故。
 
此義云何。以是二門不相離故。
:一は心の真如の門、二は心の生滅の門なり。是の二種の門は、皆各一切法を総摂す。此の義は云何ん。是の二の門は相い離れざるを以っての故なり。
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:一は心の真如の門、二は心の生滅の門なり。是の二種の門は、皆<kana>各(おのおの)</kana>一切法を総摂す。此の義は云何ん。是の二の門は相い離れざるを以っての故なり。
 
心真如者、即是一法界、大総相、法門体。<br>
 
心真如者、即是一法界、大総相、法門体。<br>
 
:心の真如とは即ち是れ一の法界にして、大総相、法門の体なり。
 
:心の真如とは即ち是れ一の法界にして、大総相、法門の体なり。
130行目: 130行目:
 
:答えて曰く、もし一切法は説くと雖も能説と可説とあることなく、念ずと雖も亦た能念と可念となしと知らば、是れを随順と名づけ、もし念を離れば、名づけて入ることを得たりとなす。
 
:答えて曰く、もし一切法は説くと雖も能説と可説とあることなく、念ずと雖も亦た能念と可念となしと知らば、是れを随順と名づけ、もし念を離れば、名づけて入ることを得たりとなす。
  
復次真如者、依言説分別、有二種義。云何為二。一者如実空、以能究竟顕実故。二者如実不空、以有自体具足無漏性功徳故。
+
復次真如者、依言説分別、有二種義。云何為二。
 
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:復た次に、真如は、言説に依って分別すれば二種の義あり。云何が二と為すや。
所言空者、従本已来、一切染法不相応故。<br>
+
一者如実空、以能究竟顕実故。二者如実不空、以有自体具足無漏性功徳故。
謂、離一切法差別之相、以無虚妄心念故。当知真如自性非有相、非無相、非非有相、非非無相、非有無倶相、非一相、非異相、非非一相、非非異相、非一異倶相、乃至総説、依一切衆生以有妄心、念念分別皆不相応故、説為空。若離妄心実無可空故。
+
:一には如実空、能く究竟して実を顕わすを以っての故なり。二には如実不空、自の体に無漏の性功徳を具足することあるを以っての故なり。
 
+
所言空者、従本已来、一切染法不相応故。謂、離一切法差別之相、以無虚妄心念故。
 +
:<kana>所言(いわゆる)</kana>空とは、本より已来、一切の染法と相応せざるが故に、謂わく、一切の法の差別の相を離れたれば、虚妄の心念 無きを以っての故なり。
 +
当知真如自性非有相、非無相、非非有相、非非無相、非有無倶相、非一相、非異相、非非一相、非非異相、非一異倶相、乃至総説、依一切衆生以有妄心、念念分別皆不相応故、説為空。若離妄心実無可空故。
 +
:当に知るべし、真如の自性は有相にもあらず、無相にもあらず、非有相にもあらず、非無相にもあらず、有無倶相にもあらず、一相にもあらず、異相にもあらず、非一相にもあらず、非異相にもあらず、一異倶相にもあらず、乃至、総説せば、一切の衆生は妄心あるを以って念々に分別して皆相応せざるに依るが故に、説いて空となす。もし妄心を離れれば、実には空ずべきのものなきが故なり。
 
所言不空者、已顕法体空無妄故、即是真心、常恒不変浄法満足故名不空、亦無有相可取。<br>
 
所言不空者、已顕法体空無妄故、即是真心、常恒不変浄法満足故名不空、亦無有相可取。<br>
 +
:<kana>所言(いわゆる)</kana>不空とは、已に法の体は空にして妄なきを顕わすが故に、即ち是れ真心にして常恒・不変の浄法を満足するが故に不空と名づくも、亦た相の取べきものあることなし。
 
以離念境界唯証相応故。
 
以離念境界唯証相応故。
 
+
:離念の境界は唯だ証とのみ相応するを以っての故なり。
 
心生滅者、依如来蔵故有生滅心。所謂、不生不滅与生滅和合非一非異、名為阿梨耶識。<br>
 
心生滅者、依如来蔵故有生滅心。所謂、不生不滅与生滅和合非一非異、名為阿梨耶識。<br>
 +
:心の生滅とは、如来の蔵に依るが故に生滅の心あり。所謂、不生不滅と生滅と和合して一にあらず異にあらざるを、名づけて阿梨耶識となす。
 
此識有二種義、能摂一切法生一切法。云何為二、一者覚義、二者不覚義。
 
此識有二種義、能摂一切法生一切法。云何為二、一者覚義、二者不覚義。
 
+
:此の識に二種の義の有り、能く一切の法を摂し、一切の法を生ず。云何んが二となすや。一には覚の義、二には不覚の義なり。
所言覚義者、謂心体離念。離念相者等虚空界、無所不遍、法界一相。即是如来平等法身、依此法身説名本覚。何以故、本覚義者対始覚義説、以始覚者即同本覚。
+
所言覚義者、謂心体離念。離念相者等虚空界、無所不遍、法界一相。即是如来平等法身、依此法身説名本覚。
 
+
:所言覚の義とは、心の体が念を離れるをいう。念を離れる相は虚空界の遍ぜざる所なきに等しく、法界と一の相なり。即ち是れ如来の平等の法身なり。此の法身に依って説いて本覚と名づく。
 +
何以故、本覚義者対始覚義説、以始覚者即同本覚。
 +
:何を以っての故に、本覚の義は始覚の義に対して説き、始覚は即ち本覚に同ずるを以ってなり。
 
始覚義者、依本覚故而有不覚、依不覚故説有始覚。又、以覚心源故名究竟覚、不覚心源故非究竟覚。
 
始覚義者、依本覚故而有不覚、依不覚故説有始覚。又、以覚心源故名究竟覚、不覚心源故非究竟覚。
 
+
:始覚の義とは、本覚に依るが故に不覚あり、不覚に依るが故に、始覚ありと説く。又、心原を覚するを以っての故に究竟覚と名づけ、心原を覚せざるが故に、究竟覚にはあらず。
 
此義云何、如凡夫人覚知前念起悪故、能止後念令其不起、雖復名覚、即是不覚故。<br>
 
此義云何、如凡夫人覚知前念起悪故、能止後念令其不起、雖復名覚、即是不覚故。<br>
 +
:此の義は云何ん。凡夫人の如きは前念の起悪を覚知するが故に、能く後念を止め其れをして起こさざらしむれば、復た覚と名づくと雖も、即ち其れ不覚なり。
 
如二乗観智初発意菩薩等、覚於念異。念無異相、以捨麁分別執著相故、名相似覚。
 
如二乗観智初発意菩薩等、覚於念異。念無異相、以捨麁分別執著相故、名相似覚。
 
+
:二乗の智観と初発意の菩薩等の如きは、念の異を覚して、念に異相なく、麁の分別に執着する相を捨てるを以っての故に、相似覚と名づく。
 
如法身菩薩等 覚於念住、念無住相、以離分別麁念相故、名随分覚。<br>
 
如法身菩薩等 覚於念住、念無住相、以離分別麁念相故、名随分覚。<br>
 +
:法身の菩薩等の如きは念の住を覚して、念に住相なく、分別の麁の念を相離れるを以っての故に、随分覚と名づく。
 
如菩薩地尽、満足方便、一念相応、覚心初起、心無初相、以遠離微細念故、得見心性、心即常住、名究竟覚。
 
如菩薩地尽、満足方便、一念相応、覚心初起、心無初相、以遠離微細念故、得見心性、心即常住、名究竟覚。
 
+
:菩薩地が尽きたるが如きは方便を満足し、一念に相応して、心の初起を覚し、心に初相なく、微細の念を遠離するを以っての故に、心性を見るを得て、心即ち常住なれば究竟覚と名づく。
 
是故修多羅説、若有衆生能観無念者、則為向仏智故。<br>
 
是故修多羅説、若有衆生能観無念者、則為向仏智故。<br>
 +
:是の故に修多羅に「もし衆生ありて能く無念を観ずる者は則ち仏智に向かうとなす」と説くが故なり。
 
又心起者、無有初相可知、而言知初相者、即謂無念。<br>
 
又心起者、無有初相可知、而言知初相者、即謂無念。<br>
 +
:又、心の起こるとは、初相の知るべきものあることなきに、しかも初相を知ると言うは、即ち、無念をいう。
 
是故、一切衆生不名為覚。<br>
 
是故、一切衆生不名為覚。<br>
 
以従本来念念相続、未曽離念故、説無始無明。
 
以従本来念念相続、未曽離念故、説無始無明。
 
+
是の故に、一切の衆生を名づけて覚となさず、本より来 念々に相続して、未だ曾て念を離れざるを以っての故に、無始の無明と説く。
 
若得無念者、則知心相生住異滅、以無念等故。而実無有始覚之異。<br>
 
若得無念者、則知心相生住異滅、以無念等故。而実無有始覚之異。<br>
 
以四相倶時而有、皆無自立、本来平等、同一覚故。
 
以四相倶時而有、皆無自立、本来平等、同一覚故。
 
+
:もし無念を得れば、則ち心相の生・住・異・滅を知る、無念と等しを以ってのが故なり。しかも実には始覚の異あることなし。四相は倶時にしてあり、皆自立することなく、本来平等にして、同一覚なるを以っての故なり。
 
復次本覚随染分別、生二種相。与彼本覚不相捨離。云何為二。一者智浄相、二者不思議業相。<br>
 
復次本覚随染分別、生二種相。与彼本覚不相捨離。云何為二。一者智浄相、二者不思議業相。<br>
 +
:復た次に本覚が染に随うを分別すれば、二種の相を生ず。彼の本覚と相い捨離せず。云何んが二と為すや。一には智浄相、二には不思議業相なり。
 
智浄相者、謂依法力熏習、如実修行、満足方便故、破和合識相、滅相続心相、顕現法身智淳浄故。
 
智浄相者、謂依法力熏習、如実修行、満足方便故、破和合識相、滅相続心相、顕現法身智淳浄故。
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:智浄相とは、謂わく、法力の熏習に依って如実に修行し、方便を満足するが故に、和合識の相を破し、相続の心の相を滅して、法身の智の清(淳)浄なるを顕現するなり。
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此義云何。以一切心識之相皆是無明、無明之相不離覚性、非可壊、非不可壊。
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:此の義は云何。一切の心識の相は皆是れ無明にして、無明の相は覚性を離れざるを以って、壊すべきに非ず、壊すべからざるにあらず。
 +
如大海水因風波動、水相風相不相捨離、而水非動性、若風止滅、動相則滅、湿性不壊(故)、如是、衆生自性清浄心、因無明風動、心与無明倶無形相、不相捨離、而心非動性、若無明滅、相続則滅、智性不壊故。
 +
:大海の水が風に因って波動するとき、水相と風相とは相い捨離せざるも、しかも水は動相にあらざれば、もし風が止滅するときは、動相は則ち滅するも、湿性は壊せざるが如し。
 +
是の如く、衆生の自性清浄心も無明の風に因って動ずるとき、心と無明とは倶に形相のなく、相い捨離せざるも、しかも心は動相にあらざれば、もし無明が滅すれば、相続は則ち滅するも、智性は壊せざるが故なり。
 +
:不思議業相者、以依智浄、能作一切勝妙境界。所謂、無量功徳之相常無断絶、随衆生根自然相応、種種而見[現]得利益故。
 +
:不思議業相とは、智の浄に依って、能く一切の勝妙なる境界を作すを以ってなり。所謂、無量の功徳の相は常に断絶することなく、衆生の根に随って自然に相応し、種々に現じて利益を得しむるが故なり。
  
此義云何。以一切心識之相皆是無明、無明之相不離覚性、非可壊、非不可壊。如大海水因風波動、水相風相不相捨離、而水非動性、若風止滅、動相則滅、湿性不壊(故)、如是、衆生自性清浄心、因無明風動、心与無明倶無形相、不相捨離、而心非動性、若無明滅、相続則滅、智性不壊故。
+
復次覚体相者、有四種大義、与虚空等、猶如浄鏡。云何為四。<br>
 +
:復た次に覚の体・相は、四種の大義有り。虚空と等しくして、なお浄鏡の如し。云何んが四と為すや。
  
不思議業相者、以依智浄、能作一切勝妙境界。所謂、無量功徳之相常無断絶、随衆生根自然相応、種種而見[現]得利益故。
 
 
復次覚体相者、有四種大義、与虚空等、猶如浄鏡。云何為四。<br>
 
 
一者如実空鏡。遠離一切心境界相、無法可現、非覚照義故。
 
一者如実空鏡。遠離一切心境界相、無法可現、非覚照義故。
 
+
:一には如実空鏡。一切の心と境界の相を遠離して、法の現ずべきものなく、覚照の義にはあらざるなり。
二者因熏習鏡、謂如実不空、一切世間境界悉於中現、不出不入、不失不壊、常住一心、以一<br>
+
二者因熏習鏡、謂如実不空、一切世間境界悉於中現、不出不入、不失不壊、常住一心、以一切法即真実性故。<br>
切法即真実性故。<br>
+
 
又一切染法所不能染、智体不動、具足無漏、熏衆生故。
 
又一切染法所不能染、智体不動、具足無漏、熏衆生故。
 
+
:二には因熏習鏡。謂わく、如実不空にして、一切の世間の境界は悉く中に於いて現じ、出でず入らず、失せず壊せずして、常住の一心なり、一切の法は即ち真実性なるを以っての故なり。又、一切の染法の染す能わざる所にして、智体は動ぜずして無漏を具足し、衆生に熏ずるが故なり。
 
三者法出離鏡。謂、不空法、出煩悩礙智礙、離和合相、淳浄明故。
 
三者法出離鏡。謂、不空法、出煩悩礙智礙、離和合相、淳浄明故。
 
+
:三には法出離鏡。謂わく、不空の法は煩悩礙と智礙を出て、和合の相を離れ、淳浄の明なるが故なり。
 
四者縁熏習鏡。謂、依法出離故、遍照衆生之心、令修善根。随念示現故。
 
四者縁熏習鏡。謂、依法出離故、遍照衆生之心、令修善根。随念示現故。
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:四には縁熏習鏡。謂わく、法出離に依るが故に、遍ねく衆生の心を照らして、善根を修せしめ、念に随って示現するが故なり。
  
 
所言不覚義者、謂不如実知真如法一故、不覚心起而有其念、念無自相、不離本覚、猶如迷人依方故迷、若離於方則無有迷。衆生亦爾。依覚故迷、若離覚性、則無不覚。以有不覚妄想心故、能知名義、為説真覚、若離不覚之心、則無真覚自相可説。
 
所言不覚義者、謂不如実知真如法一故、不覚心起而有其念、念無自相、不離本覚、猶如迷人依方故迷、若離於方則無有迷。衆生亦爾。依覚故迷、若離覚性、則無不覚。以有不覚妄想心故、能知名義、為説真覚、若離不覚之心、則無真覚自相可説。
 +
:所言不覚の義とは、謂わく、如実に真如の法は一なるを知らざるが故に、不覚の心が起こって其の念があるも、念は自相なく、本覚を離れざるなり。なお迷う人は方に依るが故に迷うも、もし方を離れれば即ち迷うことあることなきが如し。衆生も亦爾り、覚に依るが故に迷うも、もし覚性を離れれば、即ち不覚なし。不覚の妄想の心あるを以っての故に、能く名と義を知って、ために真覚と説くも、もし不覚の心を離れれば、即ち真如(覚)の説くべきものなし。
  
 
復次、依不覚故、生三種相、与彼不覚相応不離。云何為三。
 
復次、依不覚故、生三種相、与彼不覚相応不離。云何為三。
 
+
:複た次に、不覚に依るが故に、三種の相を生じ、彼の不覚と相応して離れず。云何んが三と為すや。
 
一者無明業相、以依不覚故心動、説名為業。覚則不動、動則有苦。果不離因故。
 
一者無明業相、以依不覚故心動、説名為業。覚則不動、動則有苦。果不離因故。
 
+
:一には無明業相、不覚に依るを以っての故に心が動ずるを、説いて名づけて業となす。覚するときは則ち動ぜず、動ずるときは則ち苦あり。果は因を離れざるが故なり。
 
二者能見相。以依動故、能見。不動則無見。
 
二者能見相。以依動故、能見。不動則無見。
 +
:二には能見相、動ずるに依るを以っての故に、能見あり。動ぜざれば則ち見なし。
 +
三者境界相。以依能見故、境界妄現。離見則無境界。<br>
 +
:三には境界相、能見に依るを以っての故に、境界は妄りに現ず。見を離れれば則ち境界なし。
  
三者境界相。以依能見故、境界妄現。離見則無境界。<br>
 
 
以有境界縁故、復生六種相。云何為六。
 
以有境界縁故、復生六種相。云何為六。
 
+
:境界の縁あるを以っての故に、複た六種の相を生ず。云何んが六となすや。
 
一者智相。依於境界心起、分別愛与不愛故。
 
一者智相。依於境界心起、分別愛与不愛故。
 
+
:一には智相。境界に依って心が起こり、愛と不愛とを分別するが故なり。
 
二者相続相。依於智故、生其苦楽覚、心起念相応不断故。
 
二者相続相。依於智故、生其苦楽覚、心起念相応不断故。
 
+
:二には相続相。智に依るが故に、其の苦楽を覚する心を生じ、念を起こして相応して断ぜざるが故なり。
 
三者執取相。依於相続、縁念境界、住持苦楽、心起著故。
 
三者執取相。依於相続、縁念境界、住持苦楽、心起著故。
 
+
:三には執取相。相続に依って、境界を縁念し、苦楽を住持して、心が著を起こすが故なり。
 
四者計名字相。依於妄執、分別仮名言相故。
 
四者計名字相。依於妄執、分別仮名言相故。
 
+
:四には計名字相。妄執に依って、仮の名言の相を分別するが故なり。
 
五者起業相。依於名字、尋名取著、造種種業故。
 
五者起業相。依於名字、尋名取著、造種種業故。
 
+
:五には起業相。名字に依って、名を尋ねて取著し、種々の業を造るが故なり。
 
六者業繋苦相。以依業受果、不自在故。
 
六者業繋苦相。以依業受果、不自在故。
 +
:六には業繋苦相。業に依って果を受け、自在ならざるを以っての故なり。
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当知、無明能生一切染法、以一切染法皆是不覚相故。
 +
:当に知るべし、無明は能く一切の染法を生ず。一切の染法は皆是れ不覚の相なるを以っての故なり。
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当知、無明能生一切染法、以一切染法皆是不覚相故。
 
  
 
復次、覚与不覚、有二種相、云何為二、一者同相、二者異相。
 
復次、覚与不覚、有二種相、云何為二、一者同相、二者異相。

2013年12月20日 (金) 22:18時点における版

大乗起信論

大乗起信論序

揚州僧智愷作

夫起信論者。乃是至極大乗。甚深秘典。開示如理縁起之義。
其旨淵弘。寂而無相。其用広大寛廓無辺。与凡聖為依。衆法之本。以其文深旨遠。信者至微。
故於如来滅後六百余年。諸道乱興。魔邪競扇。於仏正法毀謗不停。
時有一高徳沙門。名曰馬鳴。深契大乗窮尽法性。大悲内融随機応現。愍物長迷故作斯論。盛隆三宝重興仏日。起信未久迴邪入正。使大乗正典復顕於時。縁起深理更彰於後代。迷群異見者。捨執而帰依。闇類偏情之党。棄著而臻湊。自昔已来。久蘊西域。無伝東夏者。良以宣訳有時。
故前梁武皇帝。遣聘中天竺摩伽陀国取経。并諸法師。遇値三蔵拘蘭難陀。訳名真諦。其人少小博採。備覧諸経。然於大乗偏洞深遠。
時彼国王応即移遣。法師苦辞不免。便就汎舟。与瞿曇及多侍従。并送蘇合仏像来朝。而至未旬便値侯景侵擾。法師秀採擁流。含珠未吐。慧日暫停。而欲還反。遂嘱値京邑英賢慧顕智韶智愷曇振慧旻。
与仮黄鉞大将軍太保蕭公勃。以大梁承聖三年。歳次癸酉九月十日。於衡州始興郡建興寺。敬請法師敷演大乗。闡揚秘典。示導迷徒。遂翻訳斯論一巻。以明論旨。玄文二十巻。大品玄文四巻。十二因縁経両巻。九識義章両巻。伝語人天竺国月支首那等。執筆人智愷等。首尾二年方訖。馬鳴沖旨。更曜於時。邪見之流。伏従正化。余雖慨不見聖。慶遇玄旨。美其幽宗。恋愛無已。不揆無聞。聊由題記。儻遇智者。賜垂改作。

大乗起信論一巻

 馬鳴菩薩造

 梁西印度三蔵法師真諦訳

帰敬頌

帰命尽十方 最勝業遍知
尽十方の、最勝業の遍知にして、
色無礙自在 救世大悲者
色の無礙自在なる、救世大悲者と、
及彼身体相 法性真如海
及び、彼の身の体と相なる、法性真如の海にして、
無量功徳蔵 如実修行等。
無量の功徳の蔵と、如実の修行等に帰命したてまつる。
為欲令衆生 除疑捨耶執
衆生をして、疑いを除き、邪執を捨て、
起大乗正信 仏種不断故。
大乗の正信を起こして、仏種を断ぜざらしめんと欲するがための故なり。

論曰、有法能起摩訶衍信根。是故応説。説有五分。云何為五。

論じていわく、法の能く摩訶衍(まかえん)の信根を起こすあり。是の故に応に説くべし。説くに五分あり。云何んが五となすや。

一者因縁分、二者立義分、三者解釈分、四者修行信心分、五者勧修利益分。

一には因縁(いんねん)分、二には立義(りゅうぎ)分、三には解釈(げしゃく)分、四には修行信心(しゅぎょうしんじん)分、五には勧修利益(かんしゅりやく)分なり。

因縁分

初説因縁分。

初めに因縁分を説かん。

問曰、有何因縁而造此論。

問うて曰わく、何の因縁あって此の論を造るや。

答曰、是因縁有八種。云何為八。

答えて曰わく、是の因縁に八種有り。云何んが八となすや。

一者 因縁総相。所謂、為令衆生離一切苦得究竟楽、非求世間名利恭敬故。

一には、因縁の総相なり。所謂(いわゆる)、衆生をして一切の苦を離れ究竟の楽を得しめんがためにして、世間の名利と恭敬を求めるにあらざるが故なり。

二者、為欲解釈如来根本之義、令諸衆生正解不謬故。

二には、如来の根本の義を解釈して、諸の衆生をして正しく解して(あやま)らざらしめんと欲するがための故なり。

三者、為令善根成熟衆生、於摩訶衍法堪任不退信故。

三には、善根の成熟せる衆生をして、摩訶衍の法に於いて不退の信に堪任ならしめんがための故なり。

四者、為令善根微少衆生、修習信心故。

四には、善根の微小なる衆生をして、信心を修習せしめんがための故なり。

五者、為示方便消悪業障、善護其心、遠離痴慢出邪網故。

五には、方便を示して悪業の障りを消し、()く其の心を護り、癡・慢を遠離して邪網を出でんがための故なり。

六者、為示修習止観、対治凡夫二乗心過故。

六には、止観を修習することを示して、凡夫と二乗の心の過ちを対治せんがための故なり。

七者、為示専念方便、生於仏前必定不退信心故。

七には、専念の方便を示して、仏前に生じ必定して信心を退せざらんがための故なり。

八者、為示利益 勧修行故。

八には、利益を示して、修行を勧めんがための故なり。

有如是等因縁、所以造論。

是の如き等の因縁あり、所以(ゆえ)に論を造る。

問曰、修多羅中具有此法 何須重説。

問うて曰わく、修多羅(しゅたら)の中に(つぶ)さに此の法あるに、何ぞ重ねて説くを(もち)うるや。

答曰、修多羅中雖有此法、以衆生根行不等 受解縁別。

答えて曰わく、修多羅の中に此の法有りと雖も、衆生の根・行は等しからざると、受解の縁の別なるを以ってなり。

所謂 如来在世衆生利根、能説之人色心業勝、円音一演異類等解、則不須論。

所謂(いわゆる)、如来の在世には、衆生は利根にして、能説の人は、色心の業は勝れたれば、円音を一たび()ぶれば、異類等しく解して、則ち論を(もち)いず。

若如来滅後、或有衆生能以自力広聞而取解者、或有衆生亦以自力少聞而多解者、或有衆生無自心力 因於広論而得解者、自有衆生復以広論文多為煩、心楽総持少文而摂多義能取解者。

如来の滅後の(ごと)きは、或いは衆生の能く自力を以って広く聞いて、解を取る者あり、或いは衆生の亦た自力を以って少し聞いて多く解する者あり、或いは衆生の自らに心力なく、広論に()って解を得る者あり、自ずから衆生のまた広論の文の多きを以って煩となし、心に総持(そうじ)の少文にして多義を摂するものを(ねが)って能く解を取る者あり。

如是、此論、為欲総摂如来広大深法無辺義故、応説此論。

是の如くなれば、此の論は、如来の広大の深法の無辺の義を総摂せんと欲するがための故に、応に此の論を説くべし。

已説因縁分。

已に因縁分を説けり。

立義分

次説立義分。

次に立義分を説かん。

摩訶衍者、総説有二種。云何為二。一者法、二者義。

摩訶衍とは、総説するに二種有り。云何んが二となすや。一には法、二には義なり。

所言法者、謂衆生心。是心則摂一切世間法出世間法。

所言(いわゆる)、法とは、謂わく衆生心なり。是の心は則ち一切の世間の法と出世間の法とを摂す。

依於此心顕示摩訶衍義。何以故、是心真如相、即示摩訶衍体故。

此の心に依って摩訶衍の義を顕示するなり。何を以っての故に、是の心の真如の相は、即ち摩訶衍の体を示すが故なり。

是心生滅因縁相、能示摩訶衍自体相用故。

是の心の生滅の因縁の相は、能く摩訶衍の自の体と相と用を示すが故なり。

所言義者、則有三種。云何為三。

所言(いわゆる)、義には、則ち三種有り。 云何んが三となすや。

一者体大、謂一切法真如平等不増減故。

一には体が大なり、謂わく、一切の法の真如は平等にして増減せざるが故なり。

二者相大、謂如来蔵具足無量性功徳故。

二には相が大なり、謂わく、如来の蔵にして、無量の性功徳を具足するが故なり。

三者用大、能生一切世間出世間善因果故。

三には用が大なり、能く一切の世間と出世間の善の因果を生ずるが故なり。

一切諸仏本所乗故。一切菩薩皆乗此法到如来地故。

一切の諸仏が(もと)乗ぜし所なるが故なり。一切の菩薩も皆此の法に乗じて如来地に到るが故なり。

已説立義分。

已に立義分を説けり。

解釈分

次説解釈分。

次に解釈分を説かん。

解釈分有三種。云何為三。一者顕示正義、二者対治邪執、三者分別発趣道相。

解釈分に三種あり。云何んが三となすや。一には正義を顕示す。二には邪執を対治す。三には道に発趣する相を示す。

顕示正義者、依一心法、有二種門、云何為二、

正義を顕示すれば、一心の法に依って二種の門あり。云何が二となすや。

一者心真如門、二者心生滅門。是二種門皆各総摂一切法。
此義云何。以是二門不相離故。

一は心の真如の門、二は心の生滅の門なり。是の二種の門は、皆(おのおの)一切法を総摂す。此の義は云何ん。是の二の門は相い離れざるを以っての故なり。

心真如者、即是一法界、大総相、法門体。

心の真如とは即ち是れ一の法界にして、大総相、法門の体なり。

所謂心性不生不滅。一切諸法唯依妄念而有差別、若離妄[心]念則無一切境界之相。

所謂(いわゆる)、心性は不生不滅なり。一切の諸法は唯だ妄念に依ってのみ差別あり、もし心念を離れれば、即ち一切の境界の相なし。

是故一切法、従本已来、離言説相、離名字相、離心縁相、畢竟平等、無有変異、不可破壊、唯是一心。故名真如。

是の故に、一切の法は(もと)より已来(このかた)、言説の相を離れ、名字の相を離れ、心縁の相を離れ、畢竟平等にして、変異あることなく、破壊すべからず、唯だ是れ一心なり。故に真如と名づく。

以一切言説仮名無実、但随妄念不可得故、言真如者亦無有相。謂言説之極因言遣言。

一切の言説は仮名にして実なく、但だ妄念に随うのみにして、不可得なるを以つての故に、真如と言うも亦た相あることなし。謂わく、言説の極みは言に因つて言を()るなり[1]

此真如体、無有可遣。以一切法悉皆真故。

此の真如の体は、遣るべきものあることなし。一切の法は悉く皆真なるを以っての故なり。

亦無可立、以一切法皆同如故。当知、一切法不可説不可念故、名為真如。

亦た立つべきものなし、一切の法は皆同じく如なるを以っての故なり。当に知るべし、一切の法は説くべからず、念ずべからざるが故に、名づけて真如となす。

問曰、若如是義者、諸衆生等云何随順、而能得入。

問うて曰く、もし是の如きの義ならば、諸の衆生等は云何んが随順し、しかも能く入るを得るや。

答曰、若知一切法雖説無有能説可説、雖念亦無能念可念、是名随順、若離於念名為得入。

答えて曰く、もし一切法は説くと雖も能説と可説とあることなく、念ずと雖も亦た能念と可念となしと知らば、是れを随順と名づけ、もし念を離れば、名づけて入ることを得たりとなす。

復次真如者、依言説分別、有二種義。云何為二。

復た次に、真如は、言説に依って分別すれば二種の義あり。云何が二と為すや。

一者如実空、以能究竟顕実故。二者如実不空、以有自体具足無漏性功徳故。

一には如実空、能く究竟して実を顕わすを以っての故なり。二には如実不空、自の体に無漏の性功徳を具足することあるを以っての故なり。

所言空者、従本已来、一切染法不相応故。謂、離一切法差別之相、以無虚妄心念故。

所言(いわゆる)空とは、本より已来、一切の染法と相応せざるが故に、謂わく、一切の法の差別の相を離れたれば、虚妄の心念 無きを以っての故なり。

当知真如自性非有相、非無相、非非有相、非非無相、非有無倶相、非一相、非異相、非非一相、非非異相、非一異倶相、乃至総説、依一切衆生以有妄心、念念分別皆不相応故、説為空。若離妄心実無可空故。

当に知るべし、真如の自性は有相にもあらず、無相にもあらず、非有相にもあらず、非無相にもあらず、有無倶相にもあらず、一相にもあらず、異相にもあらず、非一相にもあらず、非異相にもあらず、一異倶相にもあらず、乃至、総説せば、一切の衆生は妄心あるを以って念々に分別して皆相応せざるに依るが故に、説いて空となす。もし妄心を離れれば、実には空ずべきのものなきが故なり。

所言不空者、已顕法体空無妄故、即是真心、常恒不変浄法満足故名不空、亦無有相可取。

所言(いわゆる)不空とは、已に法の体は空にして妄なきを顕わすが故に、即ち是れ真心にして常恒・不変の浄法を満足するが故に不空と名づくも、亦た相の取べきものあることなし。

以離念境界唯証相応故。

離念の境界は唯だ証とのみ相応するを以っての故なり。

心生滅者、依如来蔵故有生滅心。所謂、不生不滅与生滅和合非一非異、名為阿梨耶識。

心の生滅とは、如来の蔵に依るが故に生滅の心あり。所謂、不生不滅と生滅と和合して一にあらず異にあらざるを、名づけて阿梨耶識となす。

此識有二種義、能摂一切法生一切法。云何為二、一者覚義、二者不覚義。

此の識に二種の義の有り、能く一切の法を摂し、一切の法を生ず。云何んが二となすや。一には覚の義、二には不覚の義なり。

所言覚義者、謂心体離念。離念相者等虚空界、無所不遍、法界一相。即是如来平等法身、依此法身説名本覚。

所言覚の義とは、心の体が念を離れるをいう。念を離れる相は虚空界の遍ぜざる所なきに等しく、法界と一の相なり。即ち是れ如来の平等の法身なり。此の法身に依って説いて本覚と名づく。

何以故、本覚義者対始覚義説、以始覚者即同本覚。

何を以っての故に、本覚の義は始覚の義に対して説き、始覚は即ち本覚に同ずるを以ってなり。

始覚義者、依本覚故而有不覚、依不覚故説有始覚。又、以覚心源故名究竟覚、不覚心源故非究竟覚。

始覚の義とは、本覚に依るが故に不覚あり、不覚に依るが故に、始覚ありと説く。又、心原を覚するを以っての故に究竟覚と名づけ、心原を覚せざるが故に、究竟覚にはあらず。

此義云何、如凡夫人覚知前念起悪故、能止後念令其不起、雖復名覚、即是不覚故。

此の義は云何ん。凡夫人の如きは前念の起悪を覚知するが故に、能く後念を止め其れをして起こさざらしむれば、復た覚と名づくと雖も、即ち其れ不覚なり。

如二乗観智初発意菩薩等、覚於念異。念無異相、以捨麁分別執著相故、名相似覚。

二乗の智観と初発意の菩薩等の如きは、念の異を覚して、念に異相なく、麁の分別に執着する相を捨てるを以っての故に、相似覚と名づく。

如法身菩薩等 覚於念住、念無住相、以離分別麁念相故、名随分覚。

法身の菩薩等の如きは念の住を覚して、念に住相なく、分別の麁の念を相離れるを以っての故に、随分覚と名づく。

如菩薩地尽、満足方便、一念相応、覚心初起、心無初相、以遠離微細念故、得見心性、心即常住、名究竟覚。

菩薩地が尽きたるが如きは方便を満足し、一念に相応して、心の初起を覚し、心に初相なく、微細の念を遠離するを以っての故に、心性を見るを得て、心即ち常住なれば究竟覚と名づく。

是故修多羅説、若有衆生能観無念者、則為向仏智故。

是の故に修多羅に「もし衆生ありて能く無念を観ずる者は則ち仏智に向かうとなす」と説くが故なり。

又心起者、無有初相可知、而言知初相者、即謂無念。

又、心の起こるとは、初相の知るべきものあることなきに、しかも初相を知ると言うは、即ち、無念をいう。

是故、一切衆生不名為覚。
以従本来念念相続、未曽離念故、説無始無明。 是の故に、一切の衆生を名づけて覚となさず、本より来 念々に相続して、未だ曾て念を離れざるを以っての故に、無始の無明と説く。 若得無念者、則知心相生住異滅、以無念等故。而実無有始覚之異。
以四相倶時而有、皆無自立、本来平等、同一覚故。

もし無念を得れば、則ち心相の生・住・異・滅を知る、無念と等しを以ってのが故なり。しかも実には始覚の異あることなし。四相は倶時にしてあり、皆自立することなく、本来平等にして、同一覚なるを以っての故なり。

復次本覚随染分別、生二種相。与彼本覚不相捨離。云何為二。一者智浄相、二者不思議業相。

復た次に本覚が染に随うを分別すれば、二種の相を生ず。彼の本覚と相い捨離せず。云何んが二と為すや。一には智浄相、二には不思議業相なり。

智浄相者、謂依法力熏習、如実修行、満足方便故、破和合識相、滅相続心相、顕現法身智淳浄故。

智浄相とは、謂わく、法力の熏習に依って如実に修行し、方便を満足するが故に、和合識の相を破し、相続の心の相を滅して、法身の智の清(淳)浄なるを顕現するなり。

此義云何。以一切心識之相皆是無明、無明之相不離覚性、非可壊、非不可壊。

此の義は云何。一切の心識の相は皆是れ無明にして、無明の相は覚性を離れざるを以って、壊すべきに非ず、壊すべからざるにあらず。

如大海水因風波動、水相風相不相捨離、而水非動性、若風止滅、動相則滅、湿性不壊(故)、如是、衆生自性清浄心、因無明風動、心与無明倶無形相、不相捨離、而心非動性、若無明滅、相続則滅、智性不壊故。

大海の水が風に因って波動するとき、水相と風相とは相い捨離せざるも、しかも水は動相にあらざれば、もし風が止滅するときは、動相は則ち滅するも、湿性は壊せざるが如し。

是の如く、衆生の自性清浄心も無明の風に因って動ずるとき、心と無明とは倶に形相のなく、相い捨離せざるも、しかも心は動相にあらざれば、もし無明が滅すれば、相続は則ち滅するも、智性は壊せざるが故なり。

不思議業相者、以依智浄、能作一切勝妙境界。所謂、無量功徳之相常無断絶、随衆生根自然相応、種種而見[現]得利益故。
不思議業相とは、智の浄に依って、能く一切の勝妙なる境界を作すを以ってなり。所謂、無量の功徳の相は常に断絶することなく、衆生の根に随って自然に相応し、種々に現じて利益を得しむるが故なり。

復次覚体相者、有四種大義、与虚空等、猶如浄鏡。云何為四。

復た次に覚の体・相は、四種の大義有り。虚空と等しくして、なお浄鏡の如し。云何んが四と為すや。

一者如実空鏡。遠離一切心境界相、無法可現、非覚照義故。

一には如実空鏡。一切の心と境界の相を遠離して、法の現ずべきものなく、覚照の義にはあらざるなり。

二者因熏習鏡、謂如実不空、一切世間境界悉於中現、不出不入、不失不壊、常住一心、以一切法即真実性故。
又一切染法所不能染、智体不動、具足無漏、熏衆生故。

二には因熏習鏡。謂わく、如実不空にして、一切の世間の境界は悉く中に於いて現じ、出でず入らず、失せず壊せずして、常住の一心なり、一切の法は即ち真実性なるを以っての故なり。又、一切の染法の染す能わざる所にして、智体は動ぜずして無漏を具足し、衆生に熏ずるが故なり。

三者法出離鏡。謂、不空法、出煩悩礙智礙、離和合相、淳浄明故。

三には法出離鏡。謂わく、不空の法は煩悩礙と智礙を出て、和合の相を離れ、淳浄の明なるが故なり。

四者縁熏習鏡。謂、依法出離故、遍照衆生之心、令修善根。随念示現故。

四には縁熏習鏡。謂わく、法出離に依るが故に、遍ねく衆生の心を照らして、善根を修せしめ、念に随って示現するが故なり。

所言不覚義者、謂不如実知真如法一故、不覚心起而有其念、念無自相、不離本覚、猶如迷人依方故迷、若離於方則無有迷。衆生亦爾。依覚故迷、若離覚性、則無不覚。以有不覚妄想心故、能知名義、為説真覚、若離不覚之心、則無真覚自相可説。

所言不覚の義とは、謂わく、如実に真如の法は一なるを知らざるが故に、不覚の心が起こって其の念があるも、念は自相なく、本覚を離れざるなり。なお迷う人は方に依るが故に迷うも、もし方を離れれば即ち迷うことあることなきが如し。衆生も亦爾り、覚に依るが故に迷うも、もし覚性を離れれば、即ち不覚なし。不覚の妄想の心あるを以っての故に、能く名と義を知って、ために真覚と説くも、もし不覚の心を離れれば、即ち真如(覚)の説くべきものなし。

復次、依不覚故、生三種相、与彼不覚相応不離。云何為三。

複た次に、不覚に依るが故に、三種の相を生じ、彼の不覚と相応して離れず。云何んが三と為すや。

一者無明業相、以依不覚故心動、説名為業。覚則不動、動則有苦。果不離因故。

一には無明業相、不覚に依るを以っての故に心が動ずるを、説いて名づけて業となす。覚するときは則ち動ぜず、動ずるときは則ち苦あり。果は因を離れざるが故なり。

二者能見相。以依動故、能見。不動則無見。

二には能見相、動ずるに依るを以っての故に、能見あり。動ぜざれば則ち見なし。

三者境界相。以依能見故、境界妄現。離見則無境界。

三には境界相、能見に依るを以っての故に、境界は妄りに現ず。見を離れれば則ち境界なし。

以有境界縁故、復生六種相。云何為六。

境界の縁あるを以っての故に、複た六種の相を生ず。云何んが六となすや。

一者智相。依於境界心起、分別愛与不愛故。

一には智相。境界に依って心が起こり、愛と不愛とを分別するが故なり。

二者相続相。依於智故、生其苦楽覚、心起念相応不断故。

二には相続相。智に依るが故に、其の苦楽を覚する心を生じ、念を起こして相応して断ぜざるが故なり。

三者執取相。依於相続、縁念境界、住持苦楽、心起著故。

三には執取相。相続に依って、境界を縁念し、苦楽を住持して、心が著を起こすが故なり。

四者計名字相。依於妄執、分別仮名言相故。

四には計名字相。妄執に依って、仮の名言の相を分別するが故なり。

五者起業相。依於名字、尋名取著、造種種業故。

五には起業相。名字に依って、名を尋ねて取著し、種々の業を造るが故なり。

六者業繋苦相。以依業受果、不自在故。

六には業繋苦相。業に依って果を受け、自在ならざるを以っての故なり。

当知、無明能生一切染法、以一切染法皆是不覚相故。

当に知るべし、無明は能く一切の染法を生ず。一切の染法は皆是れ不覚の相なるを以っての故なり。


復次、覚与不覚、有二種相、云何為二、一者同相、二者異相。

(言)同相者、譬如種種瓦器皆同微塵性相、如是、無漏無明種種業幻、皆同真如性相。
是故、修多羅中、依於此[真如]義故説、一切衆生本来常、住入於涅槃。
菩提之法、非可修相、非可作相、畢竟無得。亦無色相可見、而有見色相者、唯是随染業幻所作。非是智色不空之性。以智相無可見故。

(言)異相者、如種種瓦器各各不同、如是、無漏無明随染幻差別、性染幻差別故。
復次、生滅因縁者、所謂衆生。依心意意識転故。此義云何。以依阿梨耶識、説有無明、不覚而起、能見、能現、能取境界、起念相続、故説為意。
此意復有五種名。云何為五。

一者名為業識。謂無明力不覚心動故。
二者名為転識、依於動心、能見相故。
三者名為現識、所謂、能現一切境界。猶如明鏡現於色像、現識亦爾、随其五塵対至、即現無有前後。以一切時任運而起、常在前故。
四者名為智識。謂分別染浄法故。
五者名為相続識。以念相応不断故。住持過去無量世等善悪之業、令不失故、復能成熟現在未来苦楽等報、無差違故、能令現在已経之事忽然而念、未来之事不覚妄慮。

是故、三界虚偽、唯心所作、離心則無六塵境界。此義云何。以一切法皆従心起、妄念而生、一切分別即分別自心。心不見心、無相可得。当知、世間一切境界、皆依衆生無明妄心、而得住持。是故、一切法、如鏡中像無体可得、唯心虚妄。以心生則種種法生、心滅則種種法滅故。

復次、言意識者、即此相続識。依諸凡夫取著転深、計我我所、種種妄執、随事攀縁、分別六塵、名為意識。亦名分離識、又復説名分別事識。此識依見愛煩悩増長義故。

依無明熏習所起識者、非凡夫能知、亦非二乗智慧所覚。謂、依菩薩、従初正信発心観察、若証法身、得少分知、乃至、菩薩究竟地不能知尽、唯仏窮了。何以故、是心従本已来、自性清浄、而有無明、為無明所染、有其染心、雖有染心、而常恒不変、是故、此義唯仏能知。

所謂心性常無念故、名為不変。以不達一法界故、心不相応、忽然念起、名為無明。
染心者有六種。云何為六。

一者執相応染。依二乗解脱及信相応地遠離故。
二者不断相応染。依信相応地修学方便、漸漸能捨、得浄心地、究竟離故。
三者分別智相応染。依具戒地漸離、乃至、無相方便地究竟離故。
四者現色不相応染。依色自在地能離故。
五者能見心不相応染。依心自在地能離故。
六者根本業不相応染。依菩薩尽地得入如来地能離故。

不了一法界義者、従信相応地観察学断、入浄心地、随分得離、乃至、如来地能究竟離故。
言相応義者、謂心念法異。依染浄差別、而知相縁相同故。
不相応義者、謂即心不覚。常無別異、不同知相縁相故。
又、染心義者、名為煩悩礙、能障真如根本智故。
無明義者、名為智礙、能障世間自然業智故。此義云何、以依染心能見能現、妄取境界、違平等性故。以一切法常静、無有起相、無明不覚、妄与法違故、不能得随順世間一切境界種種智故。

復次、分別生滅相者、有二種。云何為二。
一者麁、与心相応故。
二者細、与心不相応故。
又、麁中之麁凡夫境界、麁中之細及細中之麁菩薩境界、細中之細是仏境界。
此二種生滅、依於無明熏習而有。所謂、依因依縁。
依因者、不覚義故。依縁者、妄作境界義故。若因滅則縁滅。因滅故不相応心滅、縁滅故相応心滅。

問曰、若心滅者云何相続。若相続者、云何説究竟滅。
答曰、所言滅者、唯心相滅、非心体滅。如風依水而有動相、若水滅者、則風相断絶無所依止、以水不滅風相相続、唯風滅故動相随滅非是水滅・無明亦爾、依心体而動、若心体滅、則衆生断絶無所依止、以体不滅、心得相続。唯痴滅故。心相随滅。非心智滅。

復次、有四種法熏習義故、染法浄法起不断絶。云何為四。
一者浄法、名為真如。
二者一切染因、名為無明。
三者妄心、名為業識。
四者妄境界、所謂六塵。
熏習義者、如世間衣服実無於香、若人以香而熏習故、則有香気、此亦如是。真如浄法実無於染、但以無明而熏習故、則有染相。無明染法実無浄業、但以真如而熏習故、則有浄用。

云何熏習起染法不断。所謂、以依真如法故、有於無明。以有無明染法因故、即熏習真如、以熏習故、則有妄心。以有妄心、即熏習無明、不了真如法故、不覚念起、現妄境界。
以有妄境界染法縁故、即熏習妄心、令其念著、造種種業、受於一切身心等苦。

此妄境界熏習義則有二種。云何為二。一者増長念熏習、二者増長取熏習。
妄心熏習義則有二種。云何為二。一者業識根本熏習。能受阿羅漢辟支仏一切菩薩生滅苦故。二者増長分別事識熏習。能受凡夫業繋苦故。

無明熏習義有二種。云何為二。一者根本熏習、以能成就業識義故。二者所起見愛熏習、以能成
就分別事識義故。

云何熏習起浄法不断。所謂、以有真如法故、能熏習無明、以熏習因縁力故、則令妄心厭生死苦楽求涅槃。以此妄心有厭求因縁故、即熏習真如。自信己性、知心妄動無前境界、修遠離法、以如実知無前境界故、種種方便起随順行、不取不念、乃至。久遠熏習力故、無明則滅。以無明滅故、心無有起。以無起故、境界随滅。以因縁倶滅故、心相皆尽、名得涅槃成自然業。

妄心熏習義有二種。云何為二。
一者分別事識熏習。依諸凡夫二乗人等、厭生死苦、随力所能、以漸趣向無上道故。
二者意熏習、謂諸菩薩発心勇猛、速趣涅槃故。

真如熏習義有二種。云何為二。一者自体相熏習、二者用熏習。
自体相熏習者、従無始世来具無漏法、備有不思議業、作境界之性。依此二義恒常熏習、以有力故、能令衆生厭生死苦楽求涅槃、自信己身有真如法、発心修行。

問曰、若如是義者、一切衆生悉有真如、等皆熏習、云何有信無信、無量前後差別、皆応一時自知有真如法、勤修方便、等入涅槃。

答曰、真如本一、而有無量無辺無明、従本已来自性差別、厚薄不同故、過恒沙等上煩悩依無明起差別、我見愛染煩悩依無明起差別。如是、一切煩悩依於無明所起、前後無量差別、唯如来能知故。

又、諸仏法有因有縁、因縁具足乃得成辦、如木中火性是火正因、若無人知、不仮方便、能自焼木、無有是処。衆生亦爾、雖有正因熏習之力、若不値遇諸仏菩薩善知識等以之為縁、能自断煩悩入涅槃者、則無是処。若雖有外縁之力、而内浄法未有熏習力者、亦不能究竟厭生死苦楽求涅槃。若因縁具足者、所謂、自有熏習之力、又為諸仏菩薩等慈悲願護故、能起厭苦[求]之心、信有涅槃、修習善根、以修善根成熟故、則値諸仏菩薩示教利喜、乃能進趣向涅槃道。

用熏習者、即是衆生外縁之力。如是外縁有無量義、略説二種。云何為二。一者差別縁、二者平等縁。
差別縁者、此人依於諸仏菩薩等、従初発意始求道時、乃至得仏、於中若見若念、或為眷属父母諸親、或為給使、或為知友、或為怨家、或起四摂、乃至、一切所作無量行縁、以起大悲熏習之力、能令衆生増長善根、若見若聞、得利益故。

此縁有二種。云何為二。一者近縁、速得度故。二者遠縁、久遠得度故。是近遠二縁分別、復有二種。云何為二。一者増長行縁、二者受道縁。

平等縁者、一切諸仏菩薩、皆願度脱一切衆生、自然熏習恒常不捨、以同体智力故、随応見聞、而現作業。所謂、衆生依於三昧、乃得平等見諸仏故。
此体用熏習分別、復有二種。云何為二。

一者未相応。謂、凡夫二乗初発意菩薩等、以意意識熏習、依信力故而能修行、未得無分別心与体相応故、未得自在業修行与用相応故。

二者已相応、謂、法身菩薩、得無分別心、与諸仏智用相応、唯依法力、自然修行、熏習真如、滅無明故。

復次、染法、従無始已来、熏習不断、乃至、得仏後則有断。浄法熏習、則無有断、尽於未来。此義云何、以真如法常熏習故、妄心則滅、法身顕現、起用熏習、故無有断。

復次、真如自体相者、一切凡夫声聞縁覚菩薩諸仏、無有増減、非前際生、非後際滅、畢竟常恒、従本已来、性自満足一切功徳。所謂、自体有大智慧光明義故、遍照法界義故、真実識知義故、自性清浄心義故、常楽我浄義故、清涼不変自在義故、具足如是過於恒沙不離不断不異不思議仏法、乃至、満足無有所少義故、名為如来蔵、亦名如来法身。

問曰、上説真如其体平等離一切相、云何復説体有如是種種功徳。

答曰、雖実有此諸功徳義、而無差別之相、等同一味、唯一真如。此義云何。以無分別離分別相、是故無二、復以何義得説差別。以依業識生滅相示。此云何示。以一切法本来唯心実無於念、而有妄心、不覚起念、見諸境界故説無明、心性不起、即是大智慧光明義故。若心起見則有不見之相、心性離見、即是遍照法界義故。若心有動、非真識知、無有自性、非常非楽非我非浄、熱悩衰変則不自在、乃至、具有過恒沙等妄染之義。対此義故、心性無動、則有過恒沙等諸浄功徳相義示現、若心有起、更見前法可念者、則有所少、如是浄法無量功徳、即是一心、更無所念、是故満足名為法身如来之蔵。


復次、真如用者、所謂、諸仏如来本在因地、発大慈悲、修諸波羅蜜、摂化衆生、立大誓願、尽欲度脱等衆生界、亦不限劫数尽於未来、以取一切衆生如己身故。而亦不取衆生相。此以何義、謂、如実知一切衆生及与己身真如平等無別異故、以有如是大方便智、除滅無明見本法身、自然而有不思議業種種之用、即与真如等遍一切処、又亦無有用相可得、何以故、謂、諸仏如来、唯是法身智相之身、第一義諦、無有世諦境界、離於施作、但随衆生見聞得益故説為用。

此用有二種。云何為二。
一者依分別事識、凡夫二乗心所見者、名為応身、以不知転識現故、見従外来、取色分斉、不能尽知故。

二者依於業識、謂、諸菩薩、従初発意、乃至、菩薩究竟地心所見者、名為報身、身有無量色、色有無量相、相有無量好。所住依果亦有無量種種荘厳、随所示現即無有辺、不可窮尽、離分斉相、随其所応常能住持、不毀不失、如是功徳、皆因諸波羅蜜等無漏行熏、及不思議熏之所成就、具足無量楽相故、説為報身。

又、為凡夫所見者、是其麁色、随於六道各見不同、種種異類、非受楽相。故説為応身。

復次、初発意菩薩等所見者、以深信真如法故、少分而見、知彼色相荘厳等事、無来無去、離於分斉、唯依心現、不離真如、然此菩薩、猶自分別、以未入法身位故。若得浄心、所見微妙、其用転勝、乃至、菩薩地尽、見之究竟。若離業識、則無見相。以諸仏法身無有彼此色相迭相見故。

問曰、若諸仏法身離於色相者、云何能現色相。
答曰、即此法身、是色体故、能現於色。所謂、従本已来、色心不二。以色性即智故、色体無形、説名智身、以智性即色故、説名法身遍一切処、所現之色、無有分斉、随心能示十方世界無量菩薩、無量報身、無量荘厳、各各差別、皆無分斉、而不相妨、此非心識分別能知、以真如自在用義故。

復次、顕示従生滅門即入真如門、所謂、推求五陰、色之与心、六塵境界、畢竟無念、以心無形相、十方求之、終不可得、如人迷故謂東為西、方実不転、衆生亦爾、無明迷故謂心為念、心実不動、若能観察、知心無念、即得随順入真如門故。

対治邪執者、一切邪執、皆依我見、若離於我、則無邪執、是我見有二種、云何為二。一者人我見、二者法我見。
人我見者、依諸凡夫、説有五種、云何為五。

一者、聞修多羅説、如来法身畢竟寂寞猶如虚空、以不知為破著故、即謂虚空是如来性。云何対治、明虚空相是其妄法、体無不実、以対色故有、是可見相、令心生滅、以一切色法本来是心、実無外色、若無色者、則無虚空之相、所謂、一初境界唯心、妄起故有、若心離於妄動、則一切境界滅、唯一真心、無所不遍、此謂如来広大性智究竟之義。非如虚空相故。

二者、聞修多羅説、世間諸法畢竟体空、乃至、涅槃真如之法亦畢竟空、従本已来、自空離一切相、以不知為破著故、即謂真如涅槃之性唯是其空、云何対治、明真如法身自体不空。
具足無量性功徳故。

三者、聞修多羅説、如来之蔵無有増減、体備一切功徳之法、以不解故、即謂如来之蔵有色心法自相差別、云何対治、以唯依真如義説故、因生滅染義示現説差別故。

四者、聞修多羅説、一切世間生死染法、皆依如来蔵而有、一切諸法不離真如、以不解故、謂如来蔵自体具有一切世間生死等法、云何対治、以如来蔵、従本已来、唯有過恒沙等諸浄功徳、不離不断不異真如義故。以過恒沙等煩悩染法、唯是妄有、性自本無、従無始世来、未曽与如来蔵相応故、若如来蔵体有妄法、而使証会永息妄者、則無是処故。

五者、聞修多羅説、依如来蔵故有生死、依如来蔵故得涅槃、以不解故、謂衆生有始、以見始故、復謂如来所得涅槃、有其終尽、還作衆生、云何対治、以如来蔵無前際故、無明之相亦無有始、若説、三界外更有衆生始起者、即是外道経説、又如来蔵無有後際、諸仏所得涅槃与之相応、則無後際故。

法我見者、依二乗鈍根故、如来但為説人無我、以説不究竟、見有五陰生滅之法、怖畏生死、妄取涅槃、云何対治、以五陰法自性不生、則無有滅、本来涅槃故。

復次、究竟離妄執者、当知染法浄法皆悉相待、無有自相可説、是故、一切法従本已来、非色非心、非智非識、非有非無、畢竟不可説相、而有言説者、当知、如来善巧方便、仮以言説引導衆生。其旨趣者、皆為離念帰於真如。以念一切法、令心生滅、不入実智故。

分別発趣道相者、謂一切諸仏所証之道、一切菩薩発心修行趣向義故、略説発心有三種。云何為三。一者信成就発心、二者解行発心、三者証発心。

信成就発心者、依何等人、修何等行、得信成就堪能発心、所謂、依不定聚衆生、有熏習善根力故、信業果報、能起十善、厭生死苦、欲求無上菩提、得値諸仏、親承供養、修行信心、経一万劫信心成就故、諸仏菩薩教令発心、或以大悲故能自発心、或因正法欲滅以護法因縁能自発心、如是信心成就得発心者、入正定聚畢竟不退、名住如来種中正因相応。

若有衆生、善根微少、久遠已来煩悩深厚、雖値於仏亦得供養、然起人天種子、或起二乗種子、設有求大乗者、根則不定、若進若退、或有供養諸仏、未経一万劫、於中遇縁亦有発心、所謂、見仏色相而発其心、或因供養衆僧而発其心、或因二乗之人教令発心、或学他発心、如是等発心、悉皆不定、遇悪因縁、或便退失、堕二乗地。

復次、信成就発心者、発何等心、略説有三種、云何為三、一者直心、正念真如法故、二者深心、楽集一切諸善行故、三者大悲心、欲抜一切衆生苦故。

問曰、上説法界一相仏体無二、何故不唯念真如、復仮求学諸善之行。

答曰、譬如大摩尼宝体性明浄、而有鉱穢之垢、若人雖念宝性、不以方便種種磨治、終無得浄。如是、衆生真如之法体性空浄、而有無量煩悩染垢、若人雖念真如、不以方便種種熏修、亦無得浄。以垢無量遍一切法故、修一切善行、以為対治。若人修行一切善法、自然帰順真如法故。

略説方便有四種。云何為四。
一者行根本方便。謂、観一切法自性無生、離於妄見、不住生死、観一切法因縁和合業果不失、起於大悲、修諸福徳、摂化衆生、不住涅槃。以随順法性無住故。

二者能止方便。謂、慚愧悔過、能止一切悪法、不令増長。以随順法性離諸過故。

三者発起善根増長方便。謂、勤供養礼拝三宝、讃歎随喜勧請諸仏。以愛敬三宝淳厚心故、信得増長、乃能志求無上之道。又因仏法僧力所護故、能消業障、善根不退、以随順法性離痴障故。

四者大願平等方便。所謂、発願、尽於未来、化度一切衆生、使無有余、皆令究竟無余涅槃。以随順法性無断絶故、法性広大遍一切衆生、平等無二、不念彼此、究竟寂滅故。

菩薩発是心故、則得少分見於法身、以見法身故、随其願力、能現八種利益衆生。所謂、従兜率天退、入胎、住胎、出胎、出家、成道、転法輪、入於涅槃。然是菩薩、未名法身、以其過去無量世来有漏之業未能決断。随其所生与微苦相応、亦非業繋。以有大願自在力故。如修多羅中或説、有退堕悪趣者、非其実退、但為初学菩薩未入正位、而懈怠者恐怖、令使勇猛故。又是菩薩一発心後、遠離怯弱、畢竟不畏堕二乗地、若聞無量無辺阿僧祇劫勤苦難行乃得涅槃、亦不怯弱、以信知一切法従本已来自涅槃故。

解行発心者、当知、転勝、以是菩薩、従初正信已来、於第一阿僧祇劫将欲満故、於真如法中深解現前、所修離相、以知法性体無慳貪故、随順修行檀波羅蜜、以知法性無染離五欲過故、随順修行尸波羅蜜、以知法性無苦離瞋悩故、随順修行羼提波羅蜜、以知法性無身心相離懈怠故、随順修行毘梨耶波羅蜜、以知法性常定体無乱故、随順修行禅波羅蜜、以知法性体明離無明故、随順修行般若波羅蜜。

証発心者、従浄心地乃至菩薩究竟地、証何境界、所謂真如、以依転識説為境界、而此証者無有境界、唯真如智、名為法身。

是菩薩、於一念頃、能至十方無余世界、供養諸仏、請転法輪、唯為開導利益衆生、不依文字、或示超地速成正覚、以為怯弱衆生故、或説我於無量阿僧祇劫当成仏道、以為懈慢衆生故、能示如是無数方便不可思議、而実菩薩種性根等、発心則等、所証亦等、無有超過之法、以一切菩薩皆経三阿僧祇劫故、但随衆生世界不同、所見所聞根欲性異故、示所行亦有差別。

又、是菩薩発心相者、有三種心微細之相。云何為三。
一者真心。無分別故。二者方便心。自然遍行利益衆生故。三者業識心。微細起滅故。

又、是菩薩功徳成満、於色究竟処、示一切世間最高大身。謂、以一念相応慧、無明頓尽、名一切種智。自然而有不思議業、能現十方利益衆生。

問曰、虚空無辺故、世界無辺。世界無辺故、衆生無辺。衆生無辺故、心行差別、亦復無辺。如是境界、不可分斉。難知難解。若無明断、無有心想、云何能了名一切種智。

答曰、一切境界、本来一心、離於想念。以衆生妄見境界故、心有分斉。以妄起想念不称法性故、不能決了。諸仏如来離於見想、無所不遍。心真実故、即是諸法之性。
自体顕照一切妄法、有大智用、無量方便、随諸衆生所応得解、皆能開示種種法義。是故得名一切種智。

又問曰、若諸仏有自然業、能現一切処利益衆生者、一切衆生、若見其身若覩神変、若聞其説、無不得利。云何世間多不能見。

答曰、諸仏如来法身、平等遍一切処、無有作意故、而説自然、但依衆生心現。衆生心者、猶如於鏡。鏡若有垢、色像不現。如是、衆生心若有垢、法身不現故。

已説解釈分。

修行信心分

次説修行信心分。

是中、依未入正定(聚)衆生故、説修行信心。何等信心、云何修行。
略説信心有四種。云何為四。
一者、信根本。所謂、楽念真如法故。
二者、信仏有無量功徳。常念親近、供養、恭敬、発起善根、願求一切智故。
三者、信法有大利益。常念修行諸波羅蜜故。
四者、信僧能正修行自利利他。常楽親近諸菩薩衆、求学如実行故。

修行有五門、能成此信。云何為五。一者施門、二者戒門、三者忍門、四者進門、五者止観門。

云何修行施門。若見一切来求索者、所有財物随力施与、以自捨慳貪、令彼歓喜。
若見厄難恐怖危逼、随己堪任、施与無畏。若有衆生来求法者、随己能解、方便為説。不応貪求名利恭敬。唯念自利利他、迴向菩提故。

云何修行戒門。所謂、不殺、不盗、不婬、不両舌、不悪口、不妄言、不綺語、遠離貪嫉、欺詐諂曲瞋恚邪見。若出家者、為折伏煩悩故、亦応遠離憒閙、常処寂静、修習少欲知足頭陀等行、乃至、小罪心生怖畏、慚愧改悔、不得軽於如来所制禁戒。当護譏嫌、不令衆生妄起過罪故。

云何修行忍門。所謂、応忍他人之悩、心不懐報。亦当忍於利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽等法故。

云何修行進門、所謂、於諸善事心不懈退、立志堅強、遠離怯弱。当念過去久遠已来、虚受一切身心大苦、無有利益。是故、応勤修諸功徳、自利利他、速離衆苦。
復次、若人雖修行信心、以従先世来多有重罪悪業障故、為魔邪諸鬼之所悩乱、或為世間事務種種牽纒、或為病苦所悩、有如是等衆多障礙。是故、応当勇猛精勤、昼夜六時礼拝諸仏、誠心懺悔、勧請、随喜、迴向菩提、常不休廃、得免諸障、善根増長故。

云何修行止観門。所言止者、謂止一切境界相。随順奢摩他観義故。所言観者、謂分別因縁生滅相。随順毘鉢舎那観義故。云何随順。以此二義漸漸修習、不相捨離、双現前故。
若修止者、住於静処、端坐正意。不依気息、不依形色、不依於空、不依地水火風、乃至、不依見聞覚知、一切諸想、随念皆除、亦遣除想。以一切法本来無相、念念不生、念念不滅。亦不得随心外念境界後以心除心。

心若馳散、即当摂来住於正念。是正念者、当知、唯心無外境界。
既復此心亦無自相、念念不可得。若従坐起、去来進止有所施作、於一切時、常念方便、随順観察。久習淳熟、其心得住。以心住故、漸漸猛利、随順得入真如三昧、深伏煩悩、信心増長、速成不退。唯除疑惑、不信、誹謗、重罪業障、我慢、懈怠、如是等人所不能入。

復次、依如是三昧故、則知法界一相。謂、一切諸仏法身与衆生身平等無二。即名一行三昧。当知、真如是三昧根本。若人修行、漸漸能生無量三昧。

或有衆生、無善根力、則為諸魔外道鬼神之所惑乱。若於坐中現形恐怖、或現端正男女等相。当念唯心。境界則滅、終不為悩。

或現天像菩薩像、亦作如来像相好具足、若説陀羅尼、若説布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧、或説平等・空・無相・無願・無怨・無親・無因・無果・畢竟空寂是真涅槃。或令人知宿命過去之事、亦知未来之事、得他心智、弁才無礙、能令衆生貪著世間名利之事。

又、令使人数瞋数喜、性無常准、或多慈愛多睡多病、其心懈怠、或卒起精進、後便休廃、生於不信、多疑多慮、或捨本勝行、更修雑業、若著世事、種種牽纒。亦能使人得諸三昧少分相似、皆是外道所得、非真三昧。或復令人若一日、若二日、若三日、乃至、七日、住於定中、得自然香美飲食、身心適悦不飢不渇、使人愛著。或亦令人食無分斉、乍多乍少顔色変異。以是義故、行者常応智慧観察、勿令此心堕於邪網。当勤正念不取不著、則能遠離是諸業障。

応知、外道所有三昧、皆不離見・愛・我・慢之心。貪著世間名利恭敬故。
真如三昧者、不住見相、不住得相、乃至、出定亦無懈・慢、所有煩悩漸漸微薄。若諸凡夫、不習此三昧法、得入如来種性、無有是処。
以修世間諸禅三昧多起味著、依於我見繋属三界、与外道共。若離善知識所護、則起外道見故。

復次、精勤専心修学此三昧者、現世当得十種利益。云何為十。
一者、常為十方諸仏菩薩之所護念。
二者、不為諸魔悪鬼所能恐怖。
三者、不為九十五種外道鬼神之所惑乱。
四者、遠離誹謗甚深之法、重罪業障漸漸微薄。
五者、滅一切疑諸悪覚観。
六者、於如来境界信得増長。
七者、遠離憂悔、於生死中勇猛不怯。
八者、其心柔和、捨於憍慢、不為他人所悩。
九者、雖未得定、於一切時一切境界処、則能減損煩悩、不楽世間。
十者、若得三昧、不為外縁一切音声之所驚動。

復次、若人唯修於止、則心沈没、或起懈怠、不楽衆善、遠離大悲。是故修観。
修習観者、当観一切世間有為之法無得久停、須臾変壊、一切心行念念生滅、以是故苦。
応観過去所念諸法、恍惚如夢。応観現在所念諸法、猶如電光、応観未来所念諸法、猶如於雲忽爾而起。応観世間一切有身悉皆不浄、種種穢、汚無一可楽。

如是当念、一切衆生従無始世来、皆因無明所熏習故、令心生滅、已受一切身心大苦、現在即有無量逼迫、未来所苦亦無分斉、難捨難離、而不覚知、衆生如是、甚為可愍。

作此思惟、即応勇猛立大誓願。願令我心離分別故、遍於十方修行一切諸善功徳、尽其未来、以無量方便、救抜一切苦悩衆生、令得涅槃第一義楽。
以起如是願故、於一切時一切処、所有衆善、随已堪能、不捨修学、心無懈怠。

唯除坐時専念於止、若余一切、悉当観察応作不応作。若行、若住、若臥、若起、皆応止観倶行。所謂、雖念諸法自性不生、而復即念因縁和合善悪之業苦楽等報不失不壊。
雖念因縁善悪業報、而亦即念性不可得。若修止者、対治凡夫住著世間、能捨二乗怯弱之見。
若修観者、対治二乗不起大悲狭劣心過、遠離凡夫不修善根。以此義故、是止観二門、共相助成、不相捨離。若止観不具、則無能入菩提之道。

復次、衆生初学是法、欲求正信、其心怯弱、以住於此娑婆世界、自畏不能常値諸仏親承供養、懼謂信心難可成就、意欲退者、当知、如来有勝方便、摂護信心。
謂、以専意念仏因縁、随願得生他方仏土、常見於仏、永離悪道。
如修多羅説、若人専念西方極楽世界阿弥陀仏、所修善根迴向、願求生彼世界、即得往生。
常見仏故、終無有退。若観彼仏真如法身、常勤修習、畢竟得生、住正定故。

已説修行信心分。

勧修利益分

次説勧修利益分。

如是摩訶衍諸仏秘蔵、我已総説。
若有衆生、欲於如来甚深境界、得生正信、遠離誹謗、入大乗道、当持此論、思量修習。
究竟能至無上之道。若人聞是法已不生怯弱、当知、此人定紹仏種、必為諸仏之所授記。
仮使有人、能化三千大千世界満中衆生、令行十善、不如有人於一食頃正思此法。
過前功徳、不可為喩。復次、若人受持此論、観察修行、若一日一夜、所有功徳無量無辺、不可得説。仮令十方一切諸仏、各於無量無辺阿僧祇劫歎其功徳、亦不能尽。
何以故、謂、法性功徳無有尽故、此人功徳亦復如是、無有辺際。

其有衆生、於此論中毀謗不信、所獲罪報、経無量劫受大苦悩。是故、衆生但応仰信。不応誹謗、以深自害、亦害他人、断絶一切三宝之種。以一切如来皆依此法得涅槃故、一切菩薩因之修行入仏智故。

当知、過去菩薩、已依此法、得成浄信。現在菩薩、今依此法、得成浄信。未来菩薩、当依此法、得成浄信、是故、衆生応勤修学。

回向偈

諸仏甚深広大義
我今随分総持説。
迴此功徳如法性
普利一切衆生界。


大乗起信論一巻

  1. 言説之極因言遣言(言説の極みは言に因つて言を遣る)。 言葉の所詮は、言葉を使って誤った考えを正すものだということ。そして次下で真如という言葉の指しているそのものは、否定しようとしても否定できないものであるとする。