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「華厳経-性起品」の版間の差分

提供: 本願力

(ページの作成: 「性起品」には風輪とか水輪という聞きなれない言葉がでてくる。これは古代インドの宇宙観がベースになっているのであろう。そ...)
 
 
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宇宙の形成は──『倶舎論』の記述にしたがえば──まず、なんの存在とてもない広く虚しい空間に、サットヴァ・カルマンの力がはたらきだすことによって、どこからともなく"微風"が吹き起こることから始まる。やがてその風は、空間の中でしだいしだいにその密度を増し、ついには円盤状の堅い「大気の層」に造り上げられてゆく。その大気の層の厚さは一六〇万ヨージャナに及ぶという。ヨージャナという距離の単位が正確にはどのくらいの長さなのか、論書の記述はやや明瞭を欠くが、五〇〇尋が一クローシャ、八クローシャが一ヨージャナであるというから、一尋をニメートルとみて、ここではいちおう一ヨージャナを八キロメートルとして計算することにしよう。
 
宇宙の形成は──『倶舎論』の記述にしたがえば──まず、なんの存在とてもない広く虚しい空間に、サットヴァ・カルマンの力がはたらきだすことによって、どこからともなく"微風"が吹き起こることから始まる。やがてその風は、空間の中でしだいしだいにその密度を増し、ついには円盤状の堅い「大気の層」に造り上げられてゆく。その大気の層の厚さは一六〇万ヨージャナに及ぶという。ヨージャナという距離の単位が正確にはどのくらいの長さなのか、論書の記述はやや明瞭を欠くが、五〇〇尋が一クローシャ、八クローシャが一ヨージャナであるというから、一尋をニメートルとみて、ここではいちおう一ヨージャナを八キロメートルとして計算することにしよう。
  
 そうするとこの大気の層の厚さは、一二八〇万キロである。そしてその周囲にいたってはアサンキャだという。アサンキャとは、「無数」という意味だから、つまり大気の層の横のひろがりは無限であるということになる。しかし、このアサンキャという語は、また、数を表わす単位の一つとしても使われており、その場合は10<sub>59</sub>を意味する。したがって大気の層の周囲がアサンキャだということは、それが10<sub>59</sub>ヨージャナだという意味に理解することもできる。漠然と「無数」というよりも、このほうがはっきりするから、われわれはアサンキャの語をこの意味にとることにしよう。
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 そうするとこの大気の層の厚さは、一二八〇万キロである。そしてその周囲にいたってはアサンキャだという。アサンキャとは、「無数」という意味だから、つまり大気の層の横のひろがりは無限であるということになる。しかし、このアサンキャという語は、また、数を表わす単位の一つとしても使われており、その場合は10<sup>59</sup>を意味する。したがって大気の層の周囲がアサンキャだということは、それが10<sup>59</sup>ヨージャナだという意味に理解することもできる。漠然と「無数」というよりも、このほうがはっきりするから、われわれはアサンキャの語をこの意味にとることにしよう。
  
 そうすると、この大気の層は、厚さが一二八〇万キロで周囲が。10<sub>59</sub>キロという、おそろしくひらたくて巨大な円盤状であるということになる。そしてその堅さは、"大力士マハーナグナがヴァジュラで打っても打ち欠くことのできないほど"だという。さて次には、この大気の層の上に、積み重なって「水の層」が形成される。これは、やはりサットヴァ・カルマンのはたらきによって、大気の層の中心部の上空に、しだいに雲が凝集させられ、その雲がやがてはげしい雨となって大気の層の上に降りそそぐと、それがついに積み重なって水の層を成すのである。
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 そうすると、この大気の層は、厚さが一二八〇万キロで周囲が。10<sup>59</sup>キロという、おそろしくひらたくて巨大な円盤状であるということになる。そしてその堅さは、"大力士マハーナグナがヴァジュラで打っても打ち欠くことのできないほど"だという。さて次には、この大気の層の上に、積み重なって「水の層」が形成される。これは、やはりサットヴァ・カルマンのはたらきによって、大気の層の中心部の上空に、しだいに雲が凝集させられ、その雲がやがてはげしい雨となって大気の層の上に降りそそぐと、それがついに積み重なって水の層を成すのである。
  
 
 その厚さは八九六万キロと算定される。水は大気の層の中心部に降り重なるだけで、けっして横にあふれ出ることがない。それはなぜかといえば、サットヴァ・カルマンの力がそれをささえて溢出させないからだともいい、また、風がその周囲を吹きめぐりその風の圧力が垣をめぐらしたように水の層をささえているからだともいう。
 
 その厚さは八九六万キロと算定される。水は大気の層の中心部に降り重なるだけで、けっして横にあふれ出ることがない。それはなぜかといえば、サットヴァ・カルマンの力がそれをささえて溢出させないからだともいい、また、風がその周囲を吹きめぐりその風の圧力が垣をめぐらしたように水の層をささえているからだともいう。

2014年2月28日 (金) 21:09時点における最新版

「性起品」には風輪とか水輪という聞きなれない言葉がでてくる。これは古代インドの宇宙観がベースになっているのであろう。そこで、『存在の分析』から『倶舎論』での宇宙観をUPしておく。


だれが宇宙を造ったか

 アビダルマの"煩項哲学"の深山に分け入るにあたって、われわれはまず宇宙論の小径からたどりはじめようと思う。

 宇宙論は、『倶舎論』でいえばその第三章にとりまとめて説かれている。これは、アビダルマの哲学の中でかならずしも重要な、本質的な部門ではない。もちろん説一切有部思想の本領とするところでもない。いま、それを第一に取り上げようとするのは、ただ一般の読者にとって、おそらくよほど異様に感じられるであろうアビダルマ仏教のものの考え方にとりつく、一つのいとぐちとするには、抽象的な術語が比較的少なく、具体的な記述が多いこの宇宙論の部分が、たぶんいちばん適当であろうと思うからである。

 ここに見られるのは、アビダルマ仏教が生んだ独特の自然観・宇宙観というよりも、むしろ仏教の中に取り入れられ仏教思想に裏づけられた古代インドの一つの自然観・宇宙観とみるべきものである。もちろん近代の自然科学的自然観と直接かかわるなにものもそこにはない。しかし、近代人にはかえって欠けた叡智や直観の上にインド人特有の限りないイマジネーションをまじえて打ち出された、この古代びとの自然認識には、現代のわれわれにもなにものかを示唆するところがあるのではなかろうか。

 まず、天地開闡(かいびゃく)の話から始めることにしよう。『旧約聖書』でも『古事記』『日本書紀』でも、神による天地創造からその筆を起こしているが、仏教ではどうであろうか。仏教では、もちろん、神が天地自然を創造したとは考えない。神と呼ぼうとなんと呼ばうと、ともかくそのような人間を越えた偉大な唯一者、超越者、絶対者がまず存在していて、それがこの自然界を創り出したのだという考え方をしない。すなわち、仏教は、造物主とか宇宙の支配者とかの観念を、本来、もっていないといえる。

 それでは、自然界は、造物主によらずに、何によって形成されたのであろうか。『倶舎論』によれば、それは「サットヴァ・カルマン」によって生まれるのだという。「サットヴァ」とは、ふつう「有情」とか「衆生」とか訳されている語で、この世に生命をもって存在するもの、あらゆる生きものを意味する。「カルマン」はふつう「業」と訳されるが、行為・動作の意味である。したがって「サットヴァ・カルマン」とは生命あるものの行為、生命体の生活行動、ということになる。

 常識的な順序からいえば、当然、まず自然界が先に存在していて、次に、そこに生命をもつものが発生して、その行為・動作が起こるはずのものである。にもかかわらず、ここでは、逆に生命あるものの行為・動作によって自然界が生み出されるという。とすると、自然界の成立に先立って生命あるものが存在していると考えなければならないことになるが、どうしてそのようなことが可能であるか。

 この問題は、一個でなく多数の自然界を考えることによって説明される。のちに述べるように、果てのないほど広大な宇宙空間の中では、この場所に「この、一つの」自然界がまだ成立していないときにも、他の場所には「他の、多くの」自然界が現に存在していると考えられる。そこで、現に他の自然界に生存している「有情(サットヴァ)」であってやがてこの自然界が成立したらそこに生まれてくるであろうものがあるはずである。そのものの「業(カルマン)」の力によって、この自然界は成立せしめられるというのである。

 サットヴァ・カルマンによって自然界が創り出される。それは、すべての有情が、もっと直接的にいえば、すべての人間が、生き行為することー泣き笑い、喜び怒り、善悪の行為をなすことーそれが、全体として、一つの宇宙を創り出す結果を生む、という考えにほかならない。宇宙を生成するエネルギーと、一個体が、一人間が、生き行為し動作する力とは、根源的に同一であるとする考え方であると言ってもよいかもれない。

第一部無常の弁証。

宇宙の形成と破滅

宇宙の形成は──『倶舎論』の記述にしたがえば──まず、なんの存在とてもない広く虚しい空間に、サットヴァ・カルマンの力がはたらきだすことによって、どこからともなく"微風"が吹き起こることから始まる。やがてその風は、空間の中でしだいしだいにその密度を増し、ついには円盤状の堅い「大気の層」に造り上げられてゆく。その大気の層の厚さは一六〇万ヨージャナに及ぶという。ヨージャナという距離の単位が正確にはどのくらいの長さなのか、論書の記述はやや明瞭を欠くが、五〇〇尋が一クローシャ、八クローシャが一ヨージャナであるというから、一尋をニメートルとみて、ここではいちおう一ヨージャナを八キロメートルとして計算することにしよう。

 そうするとこの大気の層の厚さは、一二八〇万キロである。そしてその周囲にいたってはアサンキャだという。アサンキャとは、「無数」という意味だから、つまり大気の層の横のひろがりは無限であるということになる。しかし、このアサンキャという語は、また、数を表わす単位の一つとしても使われており、その場合は1059を意味する。したがって大気の層の周囲がアサンキャだということは、それが1059ヨージャナだという意味に理解することもできる。漠然と「無数」というよりも、このほうがはっきりするから、われわれはアサンキャの語をこの意味にとることにしよう。

 そうすると、この大気の層は、厚さが一二八〇万キロで周囲が。1059キロという、おそろしくひらたくて巨大な円盤状であるということになる。そしてその堅さは、"大力士マハーナグナがヴァジュラで打っても打ち欠くことのできないほど"だという。さて次には、この大気の層の上に、積み重なって「水の層」が形成される。これは、やはりサットヴァ・カルマンのはたらきによって、大気の層の中心部の上空に、しだいに雲が凝集させられ、その雲がやがてはげしい雨となって大気の層の上に降りそそぐと、それがついに積み重なって水の層を成すのである。

 その厚さは八九六万キロと算定される。水は大気の層の中心部に降り重なるだけで、けっして横にあふれ出ることがない。それはなぜかといえば、サットヴァ・カルマンの力がそれをささえて溢出させないからだともいい、また、風がその周囲を吹きめぐりその風の圧力が垣をめぐらしたように水の層をささえているからだともいう。

 水の層は、やがて、サットヴァ・カルマンによって吹き起こる風のために吹きさらされて"わかしたミルクの表面に膜が生ずるように"しだいに凝固してゆき、上層七分の二は「黄金の層」となってしまう。あとの七分の五が水の層として残るわけである。さきに、大気の層の中心部に降り重なって水の層ができると言ったが、水・黄金の層のひろがりは大気の層に比べてずっと小さく、わずかに直径が九六二万七六〇〇キロ、周囲は直径の三倍すなわち二八八八万二八〇〇キロほどと考えられている。

 つまり、無限といってもいいほど広大な円盤状にひろがった大気の層の中心部に、それに比べればはるかにはるかに小さいがやはり同じ円盤状の水と黄金の層が、重なって載っているのである。ただ、層の厚みからいうと、大気の層を一〇とすれば水の層が五、いちばん上の黄金の層は二、という割合になる。

 この黄金の層の表面が大地である。そして大地の上にさらに、順序を追って、後述のような山・河などが形成されていって、ついにここに自然界が完成されるのである。

 自然界が完成されるとそこに生物すなわち有情(サットヴァ)が発生する。この発生にも定まった順序があって、まず天上の世界からそれが始まる。すなわち、まっさきにこの世に生まれ出るのは天の神々(「天人」「天女」などといわれるのがそれである。神々といってもサットヴァの一種にすぎない)である。ついで、地表の世界に人間・動物などが発生する。最後に地下の世界、すなわち地獄にも、地獄のサットヴァが生まれ出ることによって、世界形成の過程は完了する。 広く虚しい空間にサットヴァ・カルマンの力がはたらいて"微風"が吹きそめてから、自然界が完成されるに至るまでに、一アンタラ・カルパの時間を要し、自然界ができあがってから、天上・地表・地下のどこにも生物が発生して生物界の形成が完了するまでには、十九アンタラ・カルパを要するという。世界形成の全過程は二十アンタラ・カルパの長年月にわたるわけである。一アンタラ・カルパとはどのくらいの長さの時間か、それがどうもあまりはっきりしていないのであるが、ある算定法によると、千五百九十九万八千年となる。そうとすれば、世界形成過程の全期間は三億二千万年に近いことになる。

 世界形成の過程に続く次の二十アンタラ・カルパのあいだは、形成された世界が持続する過程である。そしてそれが終わると、今度は世界破滅の過程がめぐってくる。これも二十アンタラ・カルパのあいだ続き、世界形成の過程とまったく逆の経過をたどる。すなわち、まず地獄から始まって地上の世界、天上の世界という順序に生物が消滅してゆき、この世のすべての生物が滅び尽きるまでに、十九アンタラ・カルパの時が過ぎる。そして残りの一アンタラ・カルパのあいだに、いまやまったく生物の存在の見られなくなった自然界は"それを成り立たしめるサットヴァ・カルマンが尽きはてて"分解消滅してしまうのである。そのさいには、"七つの太陽が現われ"て山野を焼き尽くし、その上に水災・風災が加わって、ついにこの自然界は無に帰するのだという。あとにはただ広く虚しい空間 だけが残る。

これから二十アンタラ・カルパのあいだは、虚しい空間のほかになにものも存在しない空無の期間である。それが過ぎると、やがてふたたび、サットヴァ・カルマンが微風を吹き起こして、次の世界生成の期間が始まる。さきに述べたとおりの世界の形成・持続・破滅・空無の四つの過程がまたくり返されるのである。

 このようにして、大自然の生滅の過程は反復してやまず、無限の過去から無限の未来まで、永遠に続く。そのくり返しの周期は4×20アンタラ・カルパであるから、約十二億八千万年にたるわけで、これを一マハー・カルパという。