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「拾遺語灯録上」の版間の差分

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2012年6月26日付 中外日報(論・談)
 
2012年6月26日付 中外日報(論・談)
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[http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/SK/2002/SK20021R109.pdf 大徳寺本『拾遺漢語灯』について pdf資料]

2017年6月25日 (日) 22:45時点における最新版

参考資料

大正6(1917)年に醍醐三宝院から発見され、翌7年に、仏教学の泰斗望月信亨氏が「上人遺教の第一結集と称すべきものなるが如し」(「醍醐本法然上人に就いて」『仏書研究』37・38号)という評言を添えて紹介された醍醐本『法然上人伝記』は、多くの研究者の関心を集め、分厚い研究史を蓄積してきた。その結果、今日では『醍醐本』の史料的価値の高さは衆目の一致するところとなっている。

ただし、収録されている「一期物語」「禅勝房との問答」「三心料簡および御法語」「別伝記」「御臨終日記」「三昧発得之記」の全6篇の内、法然上人(以下祖師方の尊称略)の父の死を法然の登叡出家後のこととする、他の伝記類には見られない記事を載せている「別伝記」と、従来親鸞の創唱とされてきた悪人正機説を法然が説いた「善人尚以往生況悪人事」等、他の遺文集に見出せない法語を収めている「三心料簡および御法語」(以下「三心料簡」)の2篇については、法然の史料としての信憑性が問題視され、いかなる性格の史料なのか、いかなる系統に属する記録なのかを、既存の法然関係史料との比較検討を通じて解明しようとする試みがこれまでなされてきた。 しかし、諸先学の間で見解が分かれ、未だに定説を見ないのが現状である。こうした一種の膠着現状は、既存史料だけに頼っていては『醍醐本』の史料的性格の解明は困難であることを物語っていよう。

ところが、平成に入ってから、『醍醐本』と密接な関連がある新史料が相次いで見つかり、『醍醐本』研究のブレークスルーの兆しが見えてきたのである。平成7(1995)年、滋賀県甲賀郡水口町立水口図書館(現甲賀市水口図書館)から、元禄15(1702)年に安土浄厳院第14世興誉恩哲によって書写された『拾遺漢語灯録』が発見された(梶村昇・曽田俊弘「新出『大徳寺本 拾遺漢語灯録』について」『浄土宗学研究』22号、1996年)。

法然の曾孫弟子である了慧道光が集録した『黒谷上人語灯録』全18巻中の1巻『拾遺漢語灯録』と『醍醐本』とは、記事全体の約9割まで内容が相応するという深い関連性があることが早くから指摘され、両書の比較研究がなされてきた。しかし、『拾遺漢語灯録』は原本・写本が確認されず、文章に夥しい改変が加えられていることが明瞭な『正徳版』(正徳5〈1715〉年刊)に依拠するほかなかった。この史料的制約が、『醍醐本』と『拾遺漢語灯録』の関連性の解明を妨げていたのであるが、それが打破されることになったのである。

最近『醍醐本』研究に参入された日本史研究者伊藤真昭氏は、「この発見によって、義山本(筆者註:『正徳版』)によって考察を加えていた『典籍』段階の醍醐本研究は、新たな段階への突入を余儀なくされたのである。もはや大徳寺本『拾遺漢語灯録』なしの醍醐本研究はありえない」(「醍醐本『法然上人伝記』の成立と伝来について」『佛教文化研究』53号、2009年)と、『大徳寺本』の発見を、『醍醐本』の活字本(『仏教古典叢書』、1923年)の刊行、影印版と研究論集(藤堂恭俊博士古稀記念『浄土宗典籍研究』資料篇・研究篇、1988年)の刊行に次ぐ、『醍醐本』研究史に一大エポックを画す出来事として高く位置づけられた。

この『大徳寺本』の発見を受けて、『醍醐本』研究の第一人者梶村昇氏は、『醍醐本』と『大徳寺本』を比較検討され、「『拾遺漢語灯録』の原本は『醍醐本』である」という氏の従来からの持論を変更する必要はないとの認識を示された(『法然の言葉だった「善人なをもて往生をとぐいはんや悪人をや」』、1999年)が、この梶村説に対して、『大徳寺本』の発見者である筆者が異論を呈した(「『拾遺漢語灯録』と醍醐本『法然上人伝記』の関連性」『佛教文化研究』45号、2001年)。

筆者は、『大徳寺本』所収「臨終日記」に添えられている、了慧が入手した、勢観上人(法然の高弟・勢観房源智)記「浄土宗見聞」と「臨終日記」とが1組のものであった旨を示す註記の存在から、「臨終日記」並びにそれと対応する『醍醐本』所収「御臨終日記」の末尾に見られる「如来滅後一百年有阿育王(中略)上人御入滅巳及卅年(中略)今聊記見聞之事矣」という文は、源智が「浄土宗見聞 付臨終記」(『大徳寺本』目次の表記)の編纂意図を述べたものであり、この「浄土宗見聞 付臨終記」こそが、法然滅後30年になんなんとする時期に源智がまとめた見聞録の原型であり、これこそ法然遺教の第一結集と称するべきものではないか。そうなると『醍醐本』は後人が「浄土宗見聞 付臨終記」を種本として編纂したものということになるのではないかという仮説を立て、『醍醐本』と『大徳寺本』の構成上の相違点の検討を通じてその論証を試み、仮説が妥当であるとの確信を得たと述べた。


この両者の議論を受けて、伊藤氏は、『醍醐本』の種本を「浄土宗見聞」とする筆者の説に賛成の立場を表明された(ただし、伊藤氏は「浄土宗見聞」の原表題を「見聞書」であったとされる)。また、伊藤氏は、筆者が提示した、「浄土宗見聞 付臨終記」と『醍醐本』の表題「法然上人伝記 附一期物語」が近似しており、「一期」に「臨終」の意味もあることから、「一期物語」とは「御臨終日記」を指すとする見解にも賛同され、『醍醐本』の冒頭の法然が語った20の物語を「一期物語」と呼ぶ90年以上の長きに及ぶ慣習を改めるべきことを主張された。

この『大徳寺本』発見とほぼ期を同じくして、真宗高田派の文献に「三心料簡」がまとまった形で引用されていることが相次いで確認・報告された(永井隆正「顕智筆『見聞』に見られる醍醐本『法然上人伝記』」〈『法然上人研究』2号、1993年〉、眞柄和人「『本願成就聞書』について」〈『東山学園研究紀要』39号、1994年〉、曽田俊弘「恵雲(真宗高田派)の著書にみられる『法然上人伝記』「三心料簡事以下二十七法語」」〈『佛教論叢』42号、1998年〉)。これら一連の報告は「三心料簡」、ひいては『醍醐本』の史料的性格・系統を考える上で大きな示唆を投げかけた。

筆者は、この成果を援用しながらさらに、『醍醐本』所収「十一問答」と、『大徳寺本』の底本に収録されていた「十二問答」は、同じ「禅勝房との問答」でも系統を異にすることを指摘することによって、『醍醐本』は浄土宗鎮西派系の『大徳寺本』と別系統のものであることを示唆した。

伊藤氏はこの筆者の示唆を踏まえた上で、『醍醐本』の成立過程について、「別伝記」・「三心料簡」が法然の高弟・隆寛(系の人物)作と推定する中井真孝氏・坪井俊映氏の見解を前提として、原『醍醐本』は、隆寛の弟子で、『明義進行集』や『法然上人伝記』(未発見)を著している信瑞周辺において、源智の『見聞書』をもとにしてそこに「別伝記」・「三心料簡」・「十一問答」等が加えられて成立したと推定された。

そして伝来については、『醍醐本』に奥書を記した醍醐寺座主義演が『醍醐寺新要録』編纂のために醍醐寺に関する書籍を各地から取り寄せ書写させ、その中に、義演の出身家二条家の墓地がある二尊院からのものも含まれていたことから、『醍醐本』は二尊院に伝来していたものを書写したものと推定された。

伊藤氏の推論は、示唆に富む興味深いものであるが、『醍醐本』の撰者を信瑞とする点には、信瑞が『明義進行集』に「禅勝房との問答」を収録するのに、なぜ『醍醐本』・親鸞筆『西方指南抄』所収と同系の「十一問答」ではなく、これとは系統が異なる「十二問答」(『大徳寺本』と同系)を選んだのか、という問題が生じるので、再考の余地があると思われる。

以上述べてきた、平成に入ってからの新史料の発見・検討は、『醍醐本』研究のパラダイム転換をもたらしたといっても過言ではなかろう。これによって、一宗一派の狭い枠に囚われていては、『醍醐本』の成立過程と伝来過程の解明は覚束ないことがもはや自明のこととなったのである。

このことは、近年、青木淳氏等によって実証された、法然とその門下が、超教団的な「聖」のネットワークに連なり、他の聖集団との間に、快慶とその一門による造像へ共に結縁する等の密接な交流があったという事実も物語っていよう。これによって、『醍醐本』の原史料である源智の見聞録と源智相承の法然遺文(「三昧発得記」等)か『醍醐本』そのものが、このネットワーク上を伝わることによって成立あるいは流伝したことを想定に加えねばならなくなったのである。

したがって、今後は、醍醐寺、二尊院、『醍醐本』が伝来していたことが確実な浄土宗西山派、高田派を中心とした浄土系教団全体、および聖ネットワークを形成していた天台・南都浄土教グループ等を視野に入れた広範な文献調査が求められよう。そのためにまずなすべきことは、法然研究者が主体となって、法然上人への報恩の志をもって、超宗派的『醍醐本』研究体制の構築に取り組むことではないだろうか。


『醍醐本』研究の最前線 浄土宗総合研究所研究員 曽田俊弘氏

2012年6月26日付 中外日報(論・談)

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