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「法然教学の研究 /第二篇/第二章 選択思想の成立と展開」の版間の差分

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 「本願章」には、法蔵菩薩が一切の諸行を選捨し、念仏一行のみを選取して本願の行と定められた選択の願心をさぐって次のようにのべられる。
 
 「本願章」には、法蔵菩薩が一切の諸行を選捨し、念仏一行のみを選取して本願の行と定められた選択の願心をさぐって次のようにのべられる。
  
:答曰、聖意難測、不能輒解、雖然今試以二義解之、一者勝劣義、二者難易義、初勝劣者、念仏是勝、余行是劣、所以者何、名号者是万徳之所帰也、然則弥陀一仏所有、四智三身十力四無長等、一切内証功徳、相好光明説法利生等、一切外用功徳、皆悉摂在阿弥陀仏名号之中、故名号功徳最為勝也。余行不然、各守一隅、是以為劣也。譬如世間屋舎名字之中、摂棟梁椽柱等一切家具、棟梁等一一名字中、不能摂一切、以之応知、然則仏名号功徳、勝余一切功徳、故捨劣取勝、以為本願歟。次難易義者、念仏易修、諸行難修、……故知念仏易故通於一切、諸行難故不通諸機、然則為令一切衆生平等往生、捨難取易為本願歟。<ref>『選択集』「本願章」(真聖全一・九四三頁)</ref>
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:答曰、聖意難測、不能輒解、雖然今試以二義解之、一者勝劣義、二者難易義、初勝劣者、念仏是勝、余行是劣、所以者何、名号者是万徳之所帰也、然則弥陀一仏所有、四智三身十力四無長等、一切内証功徳、相好光明説法利生等、一切外用功徳、皆悉摂在阿弥陀仏名号之中、故名号功徳最為勝也。余行不然、各守一隅、是以為劣也。譬如世間屋舎名字之中、摂棟梁椽柱等一切家具、棟梁等一一名字中、不能摂一切、以之応知、然則仏名号功徳、勝余一切功徳、故捨劣取勝、以為本願歟。次難易義者、念仏易修、諸行難修、……故知念仏易故通於一切、諸行難故不通諸機、然則為令一切衆生平等往生、捨難取易為本願歟。{{SH3|no23|答へていはく、聖意測りがたし。たやすく解することあたはず。しかりといへどもいま試みに二の義をもつてこれを解せば、一には勝劣の義、二には難易の義なり。初めの勝劣とは、念仏はこれ勝、余行はこれ劣なり。所以はいかんとならば、名号はこれ万徳の帰するところなり。しかればすなはち弥陀一仏のあらゆる四智・三身・十力・四無畏等の一切の内証の功徳、相好・光明・説法・利生等の一切の外用の功徳、みなことごとく阿弥陀仏の名号のなかに摂在せり。ゆゑに名号の功徳もつとも勝となす。余行はしからず。おのおの一隅を守る。ここをもつて劣となす。たとへば世間の屋舎の、その屋舎の名字のなかには棟・梁・椽・柱等の一切の家具を摂せり。棟・梁等の一々の名字のなかには一切を摂することあたはざるがごとし。これをもつて知るべし。しかればすなはち仏の名号の功徳、余の一切の功徳に勝れたり。ゆゑに劣を捨てて勝を取りてもつて本願となしたまへるか。次に難易の義とは、念仏は修しやすし、諸行は修しがたし。……ゆゑに知りぬ、念仏は易きがゆゑに一切に通ず。諸行は難きがゆゑに諸機に通ぜず。しかればすなはち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。}} <ref>『選択集』「本願章」(真聖全一・九四三頁)</ref>
  
 
 ここではまず勝劣、難易の二義をあげて諸行と念仏の価値批判がなされる。その勝劣は行徳につき、難易は修相について分別されたものともいえるし、勝劣は法に約して廃立し、難易は機に約して廃立されたものであるともいえよう。すなわち念仏は最勝の法徳をもちつつ、至易の行であるから選取し、諸行は劣行であって、しかも難行であるから選捨されたといわれるのである。
 
 ここではまず勝劣、難易の二義をあげて諸行と念仏の価値批判がなされる。その勝劣は行徳につき、難易は修相について分別されたものともいえるし、勝劣は法に約して廃立し、難易は機に約して廃立されたものであるともいえよう。すなわち念仏は最勝の法徳をもちつつ、至易の行であるから選取し、諸行は劣行であって、しかも難行であるから選捨されたといわれるのである。

2019年8月22日 (木) 20:14時点における版

法然教学の研究 /第二篇/第二章 選択思想の成立と展開


第二章 選択思想の成立と展開

第一節 善導教学と選択思想

 主著の『選択本願念仏集』をはじめ、法然のすべての著作や法語類を一貫していることは、諸行を廃して、念仏一行を専修すべきことを勧励する専修念仏の教説であるが、そのような教説を支えている信念を明確に教義として示されたものが『選択集』等にあらわされる選択の思想である。弥陀の本願も、釈尊の説教も、諸仏の証誠も、すべて念仏の一行を選択したまうており、『大経』も『観経』も『小経』も、いずれも選択念仏を宗致としているというのが法然の信念であった。[1]
そしてこのような選択念仏の思想が、善導の称名正定業説に依順して立てられたものであることも、法然自身が常にいわれている通りである。
善導教学は『観経』の付属の経意に立脚して樹立されていた。すなわち正宗分において、定善十三観と散善三福九品を説きながら、一経の肝要を付属するに際して「汝好持是語、持是語者、則是持無量寿仏名」[2] 「隠/顕」なんぢ、よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり。といって阿弥陀仏の名号を受持すべきことを勧められたのである。ところでこのような名号を受持する行法、すなわち称名念仏は、正宗分においては、わずかに三福無分の悪機たる下三品の機に説き与えられたものであって、『観経』を順見していくならば、極劣の機に与えられた極劣の行法としかみえないものであった。それをあえて阿難に付属して、遐代に流通せしめようとされた仏意をさぐって、善導は『散善義』に、

上来雖説定散両門之益、望仏本願意、在衆生一向専称弥陀仏名。[3]「隠/顕」上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。

といわれた。釈尊は、阿弥陀仏の本願の仏意に望むるがゆえに、正宗分所説の定散二善をさしおいて、称名念仏のみを付属されたというのである。善導によれば阿弥陀仏は、常没の衆生を救わんがために、大悲心をもって、称名往生の本願を建立し成就された。そのことを『往生礼讃』には、

又如無量寿経云、若我成仏、十方衆生、称我名号、下至十声、若不生者、不取正覚、彼仏今現在世成仏、当知本誓重願不虚、衆生称念必得往生。[4] 「隠/顕」また『無量寿経』(上・意)にのたまふがごとし。「もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ」(第十八願)と。かの仏いま現に世にましまして成仏したまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得。

といわれている。かくて釈尊は、この阿弥陀仏の大悲の本願に同心するがゆえに、みずから開説した定散二善を付属せずに、本願の行たる念仏一行を付属し、末代罪濁の衆生を救わんとせられたというのである。従って念仏こそ、弥陀、釈迦二尊の随自意の法門であり、定散二善は仏の随他意の法門であるということになる。[5]

 こうして善導の『観経』観からいえば、この経には、定散二善と本願の念仏と二つの法門が開説されていたことになる。『玄義分』序題門に『観経』の大意をのべて、

然娑婆化主、因其請故、即広開浄土之要門、安楽能人、顕彰別意之弘願、其要門者、即此観経定散二門是也。定即息慮以凝心、散即廃悪以修善、回斯二行求願往生也。言弘願者、如大経説、一切善悪凡夫得生者、莫不皆乗阿弥陀仏大願業力為増上縁也。[6] 「隠/顕」しかも娑婆の化主(釈尊)はその請によるがゆゑにすなはち広く浄土の要門を開き、安楽の能人(阿弥陀仏)は別意の弘願を顕彰したまふ。その要門とはすなはちこの『観経』の定散二門これなり。 「定」はすなはち慮りを息めてもつて心を凝らす。「散」はすなはち悪を廃してもつて善を修す。この二行を回して往生を求願す。弘願といふは『大経』(上・意)に説きたまふがごとし。「一切善悪の凡夫生ずることを得るものは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁となさざるはなし」と。

といい、この経には釈尊の開説された定散二善の要門と、阿弥陀仏が顕彰された『大経』所説の弘願と二種の法門が開示されているといわれた所以である。善導が『観経』の宗体を論じて「今此観経、即以観仏三昧為宗、亦以念仏三昧為宗、一心回願往生浄土為体」[7] 「隠/顕」いまこの『観経』はすなはち観仏三昧をもつて宗となし、また念仏三昧をもつて宗となす。 一心に回願して浄土に往生するを体となす。といって一経に念観両宗を立てられたのも、その故である。
すなわち観仏三昧は要門教としての『観経』の宗であり、念仏三昧は弘願教としての『観経』の宗である。この要門と弘願、観仏三昧と念仏三昧という二つの法門が、経の付属において廃立され、終極においてこの経は弘願念仏の一法に帰するとみられていたわけである。この経意に順じて、本願の念仏と、余行とを分判していかれたのが『散善義』深心釈下の就行立信の釈であった。すなわち一切の往生行を正雑二行、正助二業に分判し、深心の所就所信の行法は、順彼仏願の行たる称名であり、これを正定業と名づけると決択していかれたのであった。もっとも善導は廃立という用語は使用されていないし、法然ほど明確に一行専修を説述されていないが、その釈相は究極において法然が領解されたように廃立法門であったとみるべきである。[8]

 法然は、こうした善導教学をさらに一歩進めていかれる。善導は、第十八願において称名が往生行として誓われているとはいわれたが、それは余行を廃捨して、念仏のみを選びとったものだとはいわれていなかった。ところが法然は、釈尊の二行廃立が、弥陀の本願の意に望めて行われたものであるならば、本願それ自体においてすでに定散諸行と念仏の間に廃立がなされていなければならないとみなし、本願においてなされた弥陀の廃立を選択とよび、ここに法然の独自の教学概念である選択本願念仏が成立していくのである。選択という用語そのものは、後にのべるように『大阿弥陀経』からとられたのであるが、その内実は、善導教学を究極まで追及した法然の独自の信体験によって裏打ちされていた。『西宗要聴書』本に、良忠は、その師弁長からうけたまわったとして、次のような法然の言葉を伝えている。

先師云、故上人云、諸師作文、必本意有一、慧心立因明直弁之義、善導釈本願念仏一義、予立選択一義、造選択集也云云。[9] 「隠/顕」先師の云く、故上人の云、諸師文を作るに必ず本意一つ有り、慧心は因明直弁の義を立て、善導は本願念仏の一義を釈す、予は選択の一義を立てて『選択集』を造るなりと云云

たしかに「選択」という一義こそ、法然教学の中核をなすものであった。

第二節 選択思想成立の背景

 ところで法然教学が、善導教学を継承し、またすでにのべた如く源信教学や南都浄土教など日本浄土教の影響をうけながら形成されたとしても、それが平安時代から鎌倉時代へ移行していく文字通り歴史的転換期の、はげしい混乱の時代のただなかで、時代の苦悩と迷いを身に引きうけながら極めて主体的に樹立されたものであることを忘れてはならない。選択は、教義論的にいえば、久遠のむかしに、法蔵菩薩がなされたことにちがいない。しかしその法蔵菩薩の選択のいとなみのなかに、煩悩(わずらい悩み)しつつ生きる現実の社会と人間の姿を見出さなかったならば、その選択論は空論に過ぎない。人々が法蔵菩薩の選択の願心に共鳴し、感動するのは、選択の願心のなかに現実の自己を読みとり、現状を超脱していく道を聞き開くからである。法然の説く選択論のなかには、政治的にも、宗教的にも見捨てられて、現世にも後世にも依り処を失ってさまよう民衆の絶望的な状況が写し出されていた。そうした庶民大衆に救いをよびかけ往生を約束するものとして如来選択の願心が開顕されていたのである。

 『選択集』「本願章」には、如来が易行の念仏を選びとらねばならなかった所以を次の如く述べられる。

若夫以造像起塔、而為本願、則貧窮困乏之類、定絶往生望、然富貴者少、貧賎者甚多。若以智慧高才、而為本願者、愚鈍下智者、定絶往生望、然智慧者少、愚癡者甚多。若以多聞多見、而為本願者、少聞少見輩、定絶往生望、然多聞者少、小聞者甚多。若以持戒持律、而為本願者、破戒無戒人、定絶往生望、然持戒者少、破戒者甚多。自余諸行準之応知。当知以上諸行等、而為本願者、得往生者少、不往生者多、然則弥陀如来、法蔵比丘之昔、被催平等慈悲、普為摂於一切、不以造像起塔等諸行為往生本願、唯以称名念仏一行、為其本願也。[10] 「隠/顕」もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。もし持戒持律をもつて本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望みを絶たん。しかも持戒のものは少なく、破戒のものははなはだ多し。自余の諸行これに准じて知るべし。まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。

 もし造像起塔や智慧高才や多聞多見や持戒持律等の行を往生行と定めたならば、現実の社会の大部分を占める貧窮困乏の類、愚鈍下智の者、少聞少見の輩、破戒無戒の人は往生の望みを絶たれねばならぬ。それでは万人を平等に救わんとする大悲の願心は満たされない。だから法蔵は難行を捨てて、万人を包む普遍の大道として念仏一行を選び取られたと言われるのである。

 造像起塔をもって現当二世の安穏を祈った平安時代の貴族たちの阿弥陀仏信仰は、たしかに絢爛たる浄土教芸術を生み出していった。村山修一氏は「天台浄土教を代表する『往生要集』が、念仏に観想的契機を強調したことは、やがて貴族の浄土信仰を駆って華麗な美的表現に熱中せしめることとなり、ここに浄土教芸術の中心たる浄土教建築の流行をみるに至った」といい、平安後期(法成寺以後、後白河院政期まで)の浄土教建築(九体阿弥陀堂を除く)として六八例、同時期の九体阿弥陀堂三二例を数えあげられている[11]。そうしたおびただしい数にのぼる浄土教建築も、そこに安置された金色燦然たる仏、菩薩像も、すべて建立者自身とその一族の、繁栄と、後生浄土を祈る為のものであって、庶民大衆に救いを与えるものではなかった。

 これに対して法然は、一体の仏像をももちえない絶望的な貧窮困乏の庶民大衆を救わんとする選択の願心を、その庶民の側に身をおいて受けとめていかれたのであった。法然がつねに庶民大衆の側に立って発想し、仏教をその境位において確認していこうとされたのは、聖人自身が地下(じげ)の武土の子であったことにもよるが、また律令体制下の顕密仏教の枠外に生きる別所聖として、しかも常に庶民大衆と接触する念仏聖という境位におられたからであろう。貧窮困乏の類、愚鈍下智のものの立場に身をおいて、かかるものの救われる道を阿弥陀仏の本願のなかに聞き開き、見さだめていかれたのが法然の選択本願念仏であった。それとは逆に体制側から、貴族の目をもって歴史をみていった慈円は、その『愚管抄』のなかで、法然の専修念仏を評して、

又建永ノ年、法然房ト云上人アリキ。マヂカク京中ヲスミカニテ、念仏宗ヲ立テ、専宗念仏ト号シテ、タヾ阿弥陀仏トバカリ申ベキ也。ソレナラヌコト、顕密ノツトメハナセソト云事ヲ云イダシ、不可思議ノ愚癡無智ノ尼入道ニヨロコバレテ、コノ事ノタヾ繁昌ニ世ニハンジヤウシテツヨクヲコリツ、……[12]

といっている。智慧第一の法然房と、世人から称讃されていたとしても、摂関家の出身で、天台座主をつとめた慈円の目からみれば、所詮、法然が活動している領域は、「不可思議ノ愚癡無智ノ尼入道」たちの社会に属していた。そして法然が顕密の行法を否定して、念仏一行の専修を勧進し、それがうけ入れられていったのも、主として愚癡無智の尼入道たちの社会であったというのである。われわれは選択本願の教説が成立していく社会的な基盤を、従来の顕密仏教が見捨ててかえりみなかった愚癡無智なる庶民社会にみることができる。

 智慧高才を誇り、多聞広学を事とする顕密の仏教からは、愚鈍無智なる庶民大衆は疎外されるしかなかった。律令体制下にあった顕密の諸宗は、鎮護国家の修法と同時に義学を特色としていた。興福寺の維摩会、薬師寺の最勝会、延暦寺の六月会の広学竪義などは、義学の関門として特に有名であった。しかしそうした学解仏教は、庶民大衆の苦悩の救いには何のかかわりもない高踏的なものでしかなかった[13]。法然は常に「聖道門の修行は智慧をきわめて生死をはなれ、浄土門の修行は愚癡にかへりて極楽にむまる」[14] といわれているが、学問をして智慧をみがき、ついに生死一如の知見に達して生死を解脱しようとする聖道仏教は、「不可思議ノ愚癡無智ノ尼入道」を見捨てざるをえなかったのである。しかしそうした愚癡無智の衆生こそ、最も如来の救いを必要としているものであった。そしてまた諸仏の大悲は苦者に注がれているとすれば、如来は常に苦悩の衆生とともにあり、愚癡無智の衆生の救いに焦点をあわせて、行法の選択はおこなわれたとしなければならないというのが法然の願心領解であった。

戒律の問題にしても、『末法灯明記』によれば末法の世になれば、もはや無戒名字の比丘しかいなくなるといわれているが[15]、もし破戒無戒のものが救われないならば、末法五濁の今日、往生できるものはいなくなってしまう。
それゆえ阿弥陀仏は、こうした破戒無慚な末法的状況をみすえながら、かかるものの救いの道として称名一行を往生の行として選択されたといわれるのである。法然は、当時の顕密の仏教界にあっても如法に戒律を保っているものは極めて少く、たとえば安居院の澄憲のような山門高位の僧侶でさえも公然と妻帯しているという仏教界の現実を知悉しておられた。まして勧進聖たちの多くは妻帯者である以上、こうした破戒無戒の比丘たちによって護持せられる末法相応の仏法は、破戒無戒のものが救われるような性格のものでなければならないという確信をもっておられたのである。

 また「大経釈」の選択の説き方をみると、非常に具体的に、顕密の諸宗の行法と対照しながら如来の選択の相を述べておられる。

次難易義者、念仏易修、諸行難修故、諸仏心者、慈悲為体、以此平等慈悲、普摂一切也。仏慈悲不漏一人、普可利一切。先約宗言之者、昔法蔵比丘、由真言宗心以三密章句為往生別願、(善)無長、不空、恵果、法全往生、自余諸宗之人、不可生。次由仏心宗意、以見性成仏為別願、恵可、僧璨、弘忍、恵能往生、自余諸宗之人、不可生、次由法華宗意、以一乗実相為別願、天台、章安、妙楽、道邃可生、諸宗之人不可生。次由華厳法界意、以海印頓現為別願、賢首、清涼生、諸宗之人不可生。次由無相宗意……次由有相宗意……次由四分宗……次由梵網意……然念仏往生願、真言、止観行人同修之、華厳、達磨人、又以修之無妨、有相無相之行人、四分五分之律師、念仏無妨、往生有憑、然則真言等八宗共不漏往生慈悲願網也。「隠/顕」次に難易の義とは、念仏は修しやすく、諸行は修しがたき故、諸仏の心は、慈悲を体とす、この平等慈悲をもって、普く一切を摂す也。仏の慈悲は一人も漏さず、普く一切を利す。先に宗に約してこれを言ふは、昔く法蔵比丘、真言宗の心に由って三密の章句を以って往生の別願となせば、(善)無畏、不空、恵果、法全の往生、自余諸宗の人、生ずべからず。次に仏心宗の意に由らば、見性成仏を以て別願となす、恵可、僧璨、弘忍、恵能の往生、自余諸宗の人、生ずべからず、次に法華宗の意に由らば、一乗実相を以て別願となす、天台、章安、妙楽、道邃生ずべし、諸宗の人、生ずべからず。次に華厳法界の意に由らば、海印頓現を以って別願となす、賢首、清涼生、諸宗の人生ずべからず。次に無相宗の意に由らば……次に有相宗の意に由らば……次に四分宗に由らば……次に梵網の意に由らば……然に念仏往生の願、真言、止観の行人同くこれを修す、華厳、達磨人、また以ってこれを修すに妨げ無し、有相無相の行人、四分五分の律師、念仏に妨げ無し、往生に憑みあり、然れば則ち真言等八宗共に往生の慈悲の願網に漏れずと。 [16]

 もし真言の宗義によって三密の行法を往生行として選べば、善無長、不空等の祖師は往生できようが、余宗のものは往生できないことになる。同様に仏心宗(禅宗)、法華宗(天台宗)、華厳宗、三論宗、法相宗、四分律宗、梵網律宗等の各宗の法門に立脚して行業を選択するならば、それぞれの宗の祖師がたは、往生しえても、他の一切は往生しえないことになる。それゆえ万機を平等に救おうとおぼしめす阿弥陀仏は、個別的な八宗の行業のほかに、八宗の誰でもが、宗派の別をとわずそのまま実践できるような普遍の行法として念仏の一行を選びとり、これによって八宗の行人のすべてを救うていこうとされているといわれるのである。

 法然のこのような教説の背景には、すでに第一章においてのべたように、当時の仏教界における弥陀念仏の盛行ということがあった。天台浄土教、真言浄土教、三論浄土教とよばれるように、顕密の各宗は、それぞれの実践体系のなかへ弥陀念仏を取り入れ実修していた。ことに民衆と接触することの多い別所聖や勧進聖たちは、盛んに念仏をもって自行化他していたのである。このように念仏が宗派の別を超えて普遍性をもちえたのは、いうまでもなくその易行性、庶民性のゆえであった。すなわちその易行性の故に顕密の事理の観行の補助的、方便的な行法として、その実践体系の末端に組み入れられていたわけである。法然は念仏の易行性ゆえの普遍性に加えて、さらに念仏の絶対的な勝行性を顕彰し、勝易具足の念仏は、難劣なる顕密の実践行よりもすぐれた成仏法であることを釈顕されたのである。ここに諸仏土中にあった諸行の中から念仏一行を選択廃立して独立せしめられたという法蔵の選択と、法然の念仏独立とが美事な重なりを示していることがわかる。

 さらに「大経釈」には、もし布施を別願とすれば、戒日王ひとり往生するも、一切の貧窮人は往生できず、起塔を別願とせば阿育王のみ往生するが一切困乏の倫は往生できない等といって、布施、起塔、稽古、多聞広学、捨家棄欲等の諸行が否定的に超越されるべきことをのべ「若以貴家尊宿、為別願、一人三公生、九民百黎不可生」等といわれる[17]。ここに一人三公を中心とし「月卿雲客」のために成立していた律令体制下の顕密仏教に対して、九民百黎とよばれる「田夫野人」に基盤をすえて、普遍的な庶民の宗教として成立していくのが法然の選択本願の宗教だったのである。法然の浄土宗が必然的に反体制的な性格をもった所以である。もっとも下機に焦点をあわせるからといって上機を捨てるわけではなく、万機を平等に摂取する超宗派的な普遍の教法として成立していくのであった。「三心料簡事」に、

一、一法摂万機事、
第十八願云十方衆生、无漏十方之衆生、我願内込十方也。法照禅師云、彼仏因中立弘誓、聞名念我総来迎、不簡貧窮将富貴、不簡下智与高才、不簡多聞持浄戒、不簡破戒罪根深、但使回心多念仏、能令瓦礫変成金云云、此文心我身貧窮不造功徳、下知不知法門、破戒雖犯罪障、便廻心多念仏思云云。「隠/顕」一、一法に万機を摂す事。

第十八願に「十方衆生」と云ふは、十方の衆生、漏るること無し、我が願の内に十方を込めむとなり。法照禅師の云く、「かの仏の因中に弘誓を立つ。名を聞きてわれを念ぜばすべて迎へ来らしめん。貧窮と富貴とを簡ばず、下智と高才とを簡ばず、多聞と浄戒を持てるとを簡ばず、破戒と罪根の深きとを簡ばず。ただ回心して多く念仏せしむれば、よく瓦礫をして変じて金こがねと成さんがごとくせしむ。」云々。この文の心は、我が身の貧窮にて功徳を造らぬも、下知にて法門を知らぬも、破戒にして罪障を犯すといえども、すなわち廻心し多く念仏せん、と思ふべしと云々。 [18]

といわれた如く、選択本願の念仏は、貧窮と富貴、下智と高才、多問持浄戒と破戒罪根深とをえらばず、万機を一法に摂して往生せしめる普遍の行法であることを知らしめるのが選択論だったのである。

 要するに選択という二者択一を迫る思想は、当時の南都北嶺の顕密の大僧から、勧進聖や持経聖たちにいたるまで、あらゆる仏教者に支配的であった雑行雑修的な行業観、信心観を破って、信ずべきは弥陀一仏、行ずべきは念仏の一行という専修専念の宗教観を樹立していった。その意味で、それは律令体制下にあった顕密のみならず、神祇信仰や陰陽道などにいたるまで、あらゆる宗教と鋭く対決する革命的な教学理論であったが、同時に「万機摂一願、千品納十念」「隠/顕」万機を一願に摂し、千品を十念に納 めるというような普遍思想であったことを忘れてはならない。[19]

第三節 選択の語義

 法然が『大阿弥陀経』によって「選択」という語を、その教学の中軸をあらわすものとして用いられたのは、年代の確認できるものとしては『漢語灯録』所収の「大経釈」が初めであった。そこには『大阿弥陀経』を引いて、

此中選択者、即是取捨義也。謂於二百一十億諸仏浄土中、捨人天之悪、取人天之善、捨国土之醜、取国土之好也、大阿弥陀経選択義如是、双巻経意亦有選択義、謂云摂取二百一十億諸仏妙土清浄之行、是選択与摂取、其言雖異其意是同、然者捨不清浄行、取清浄之行也、上天人之善悪、国土之麁妙、其義亦然、準之応知。「隠/顕」この中選択とは、すなわち是れ取捨の義なり。謂く二百一十億の諸仏浄土の中のおいて、人天の悪を捨て、人天の善を取り、国土の醜を捨て、国土の好を取るなり。『大阿弥陀経』の選択の義かくのごとし、『双巻経』の意また選択の義あり、謂云く摂取二百一十億の諸仏妙土の清浄の行、これ選択と摂取と、その言異るといえどもその意これ同じ、しかれば不清浄の行を捨て、清浄の行を取るなり、上、天人の善悪、国土の麁妙、その義また然り、これに準じて知るべし。 [20]

といわれたものがそれである。そしてこの文はそのまま『選択集』「本願章」の私釈に用いられている[21]。これによれば、『大阿弥陀経』の選択とは「取捨」を意味する言葉であって、『無量寿経』に「摂取」といわれたものと言異意同であるといわれている[22]。もっとも「摂取」では「取」の意味が強く出ていて「捨」の一面がかくれているから、取捨の両意に通ずる「選択」の語を用いられたのであろう。特に法然の場合、廃立という法義を厳しく打ち出すために「捨」に非常に重要な意味をもたせていくから、どうしても「選捨」と「選取」の両義を明確にあらわしている「選択」を用いねばならなかったのであろう。

 法然がこの「選択」という用語を採用されるについて、恐らく善導の『法事讃』下の、

極楽無為涅槃界、随縁雑善恐難生、故使如来選要法、教念弥陀専復専。「隠/顕」極楽は無為涅槃の界なり。随縁の雑善おそらくは生じがたし。ゆゑに如来(釈尊)要法を選びて、教へて弥陀を念ぜしむることもつぱらにしてまたもつぱらならしむ。 [23]

という「選要法」が重要な指南となっていたと考えられる。法然はこの文を「逆修説法」に引き「凡念仏往生是弥陀如来本願行也、教主釈尊選要法也、六方諸仏証誠説也、余行不然」「隠/顕」おおよそ念仏往生は、これ弥陀如来の本願の行なり、教主釈尊は要法を選びたまふなり、六方諸仏の証誠の説なり、余行はしからず。 [24] といわれている。この場合、雑善に対して要法を選定したのは釈尊になっている。すでにのべたように、善導の釈義においては、まだ本願における念仏と余行の選択廃立は明確にされていなかった。しかし釈尊が要法たる念仏を選んで「専復専」と勧められたというところには、念仏が「選ばれた行法」であるという選びの思想のあったことはみとめることができる。また『法事讃』上に「弘誓多門四十八、偏標念仏最為親」[25] といわれている。阿弥陀仏が「偏へに念仏を標して最も親となす」といわれたものは、殆ど阿弥陀仏の選択とみなしうるだろう。だから法然は、「逆修説法」に「選択」を論ずるにあたってこの語を引用して、

今宗浄土人、依此経可持四十八願法門也。持此経者、則持弥陀本願者也。即法蔵菩薩四十八願法門也。其四十八願中以第十八念仏往生願、而為本体也。故善導曰弘誓多門四十八、偏標念仏最為親云云、念仏往生者、源従此本願起、然者観経、弥陀経所説念仏往生旨、乃至余諸経中所説、皆以此経所説本願為根本也。「隠/顕」いま浄土を宗とせん人は、この経によって四十八願の法門をたもつべき。この経をたもつとは、すなわち弥陀の本願をたもつ者なり。すなわち法蔵菩薩の四十八願の法門なり。その四十八願の中に第十八の念仏往生の願をもって、本体となすなり。ゆえに善導の曰く、弘誓、門多くして四十八なれども、ひとへに念仏を標してもつとも親しとなすと云云。念仏往生とは、源(みなもと)この本願より起る、しかれば『観経』、『弥陀経』の説く所の念仏往生の旨も、乃至余の諸経の中に説く所も、みなこの経に説く所の本願をもって根本となすなり。 [26]

といい、阿弥陀仏が念仏往生の旨を第十八願において選定されたから、この願を根本として釈尊の念仏往生の教説が成立するのであるといわれている。

 要するに法然は、善導の指南によりつつ、さらに一歩を進めて、釈尊の選要法を、阿弥陀仏の本願における選びにかえすことによって、釈尊も、諸仏も、善導も、行者もすべての選びがそれによって成立するような選びの根源を明らかにし、行法の選びの普遍性と絶対の真実性を教義的に確立していかれたのである。

 さて『選択集』「本願章」によれば、選択の相を明かすのに、まず四十八願に約して論ずるといって、第一、第二、第三、第四、第十八の五願をあげ、一々の願が麁悪を捨てて善妙を取っていることを述べ「自余諸願準之応知」「隠/顕」自余の諸願はこれに准じて知るべし。 [27] といわれているから、四十八願全体を選択本願とみられていたといえよう。しかしそれは「一往各論選択摂取之義」「隠/顕」一往おのおの選択摂取の義を論ぜば といわれているように一往の論であって、選択論のめざすところは行業の選択をあらわすにあった。
「本願章」の標章の文に「弥陀如来、不以余行為往生本願、唯以念仏為往生本願之文」「隠/顕」弥陀如来、余行をもつて往生の本願となさず、ただ念仏をもつて往生の本願となしたまへる文。 [28] といわれたように、余行を選捨して、念仏一行を選択された第十八願における選択の義意を顕わすためにこの章が設けられたのであるから、選択本願という名目は、正しくは第十八願の法義の特色をあらわす為のものであったといえよう。すでにのべたように「逆修説法」に「其四十八願中以第十八念仏往生願、而為本体」「隠/顕」その四十八願中、第十八念仏往生願をもって本体となす。 といい、また『選択集』「特留章」に「凡四十八願皆雖本願、殊以念仏為往生規、……故知四十八願之中、既以念仏往生之願、而為本願中之王也」「隠/顕」おほよそ四十八願みな本願といえども、ことに念仏を以て往生の規となす、……故に知んぬ四十八願の中、すでに念仏往生の願を以て、本願中の王となす。 [29] といわれたように、四十八願は、王本願であり、本体である第十八願に帰していくとみたのが法然の本願観だったのである。古来本願の本を果末に対する因本の義とみるときは、四十八願すべてが本願といわれるが、根本の義とみて、他の四十七願を枝末とするときは、本願とは第十八願の別目となるといわれるのも、法然の本願観から導きだされたものである。

 要するに、法然にあっては、一往は四十八願全体を選択本願というが、再往、願の根本、本体について論ずるときは、選択本願を第十八願の別目とみられるのであって、『選択本願念仏集』という場合の「選択本願」が王本願たる第十八願をさしていることはいうまでもない。親鸞が「信文類」に第十八願名を列挙されるとき、選択本願という願名を第十八願の別目として使われたのは、法然のこの意を相承されたものである。[30]

 ところで『選択集』第十六章には、三経(『般舟経』を加えると四経)にわたって八種の選択を論じ、それをさらに弥陀、釈迦、諸仏にわけて示される。

本願、摂取、我名、化讃、此之四者是弥陀選択也。讃嘆、留教、付属、斯之三者是釈迦選択也。証誠者六方恒沙諸仏之選択也。然則釈迦弥陀及十方各恒沙等諸仏、同心選択念仏一行、余行不爾、故知三経共選念仏以為宗致耳。「隠/顕」本願・摂取・我名・化讃、この四はこれ弥陀の選択なり。讃歎・留教・付属、この三はこれ釈迦の選択なり。証誠は六方恒沙の諸仏の選択なり。しかればすなはち釈迦・弥陀および十方のおのおのの恒沙等の諸仏、同心に念仏の一行を選択したまふ。余行はしからず。ゆゑに知りぬ、三経ともに念仏を選びてもつて宗致となすのみ。

 これによって、元来は本願の上で用いられていた選択の語を、弥陀の果上でも語り、さらに広く釈迦、諸仏が余行を選捨して念仏一行を選取されたという、いわゆる三仏の廃立の義理をあらわす用語として、その語義を拡大されていることがわかる。それはまた釈迦も諸仏も、すべて阿弥陀仏の選択の本願をみずからの随自意とされていたことをあらわしている。『観経』において釈尊が自ら開説した定散二善を付属せずに、本願に望めて念仏一行を付属されたのも、『小経』において諸仏が念仏一行を証誠されるのも、すべて阿弥陀仏の選択本願に随順されている相にほかならないというので、釈迦、諸仏にまでかけて八種の選択を釈顕されたのである。

 このことは阿弥陀仏の本願が、諸仏を超えて、むしろ諸仏をして仏陀たらしめているような、根源的真実であることを示しているといえよう。「付属章」には「随他之前、暫雖開定散門、随自之後、還閉定散門、一開以後、永不閉者、唯是念仏一門、弥陀本願、釈尊付属意在斯矣」「隠/顕」随他の前にはしばらく定散の門を開くといへども、随自の後には還りて定散の門を閉づ。一たび開きて以後永く閉ぢざるは、ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意これにあり。 [31] といい、随他の前に暫く開説した暫用還廃の法門である定散門と、一開永不閉の随自意真実の法門である念仏門とを鋭く相対して廃立されていた。この随自意とは、釈迦が本願の仏意を我が意とされることであり、随他意とは、釈迦、諸仏が、未熟の機を誘引するために、本願において選捨された定散諸行を暫く用いられたことをさしていたとせねばならない。従って釈迦、諸仏がおこなわれる廃立とは、釈迦、諸仏が、随他のために開いた自己の法門を捨てて、阿弥陀仏の本願念仏の法門に帰一していかれることをあらわしていた。かくて弥陀が選択廃立された本願念仏は、諸仏所説の万行中の一行ではなくて、諸仏法を超え、諸仏もまたそれを随自意とし、そこへ帰一せられるような絶対真実の行法であるということをあらわしているのが八選択の釈意であろう。法然が、このような法義をあらわす為に「選択」という語を使用されていたとすれば、法蔵菩薩が、二百一十億の諸仏土中において、念仏一行を選択されたという『大経』の教説も、根源的にはこのような諸仏法と弥陀の関係を顕示するものと法然は領解されていたとしなければならない。

 もっとも「本願章」の選択の説明は従容としている。

第十八念仏往生願者、於彼諸仏土中、或有以布施為往生行之土、或有以持戒為往生行之土……或有専称其国仏名為往生行之土……即今選捨前布施持戒乃至孝養父母等諸行、選取専称仏号、故云選択也。「隠/顕」第十八の念仏往生の願は、かの諸仏の土のなかにおいて、あるいは布施をもつて往生の行となす土あり。あるいは持戒をもつて往生の行となす土あり。あるいはもつぱらその国の仏の名を称して往生の行となす土あり。すなはちいま前の布施・持戒、乃至孝養父母等の諸行を選捨して、専称仏号を選取す。ゆゑに選択といふ。 [32]

といわれている。これによれば、二百一十億の諸仏土中にすでに存在した「専称仏号」を選び取ったようにのべられている。しかし諸仏念仏と弥陀念仏とは、根本的にちがっていた。すでに「二行章」において、諸仏念仏は、所廃の雑行として、正定業たる弥陀念仏とは厳格に簡別されていた。それはただ所称の名号が諸仏であると、阿弥陀仏であるとのちがいにとどまらず、前者は自力諸行の一行として難劣なる方便行であり、後者は本願他力の行業として勝易具足せる真実行であって、行の内実が全くちがうと法然はみられていたのである。その本願非本願、自力他力、勝劣難易の義意については後に詳述する。ともあれ、諸仏土中にあった「専称名号」という修行形態をそのまま選取されたわけではなかった。そのことを先哲は、称名往生という形式だけを採用されたのであって、内実は超世不共の他力念仏であった。それゆえ『大阿弥陀経』には「選択心中所欲願」「隠/顕」心中所欲の願を選択す。 といわれたのであって、形式は諸仏念仏によるも、選取された念仏は、法蔵の唯心結構の法であったといわれている[33]。いずれにしても法然にとって法蔵菩薩の諸仏土中における選択とは、諸仏法たる一切の自力の諸行と、弥陀法たる他力念仏との廃立を阿弥陀仏みずからが行ぜられたことを意味していた。だから僧叡は、法蔵の選択とは、要するに諸仏法たる自力の法門を選捨し、他力の法門を選取し建立することであるといっている[34]。二百一十億の諸仏土中において選択廃立して建立されたということは、それが諸仏法に超勝した超世無上の法であるという法門の超勝性を示している。従って所選の対象となった諸仏が、かえって弥陀法をみずからの本意として讃嘆されるというような弥陀法の根源的真実性を知らしめるのが選択であった。いいかえれば諸仏をして仏陀たらしめているような根源的真実が阿弥陀仏の本願であり、それが、念仏という万人の道として具現していることをつげるのが念仏選択ということなのであろう。

 真宗学の論題の一つに選択義相論があって、そこに選択即無選択ということが論じられている。たとえば鮮妙は、性と修に約して選択即無選択を談ずる場合と、相絶二門に約して選択は遂に無選択に帰すという場合とがあるといっている。前者は性海示現の法門として選択を論ずるもので、「選択差別は、もと一如法界平等門より出づる故、法蔵即法性とみれば、選択差別の諸相、法蔵の修因感果、真如の妙用示現なれば……実体は無選択なりとしるべし」[35] といい、真如法性の自ずからなる妙用として選択が示現されているのであって、凡夫が虚妄分別をもって取捨するようなものではないから、差別即平等、選択即無選択であるというのである。法然は「弥陀如来、法蔵比丘の昔、平等の慈悲に催されて」選択を行ぜられたとはいわれているが、直ちに真如法性の示現としての選択を語るということはなかった。しかし親鸞は、たとえば『唯信抄文意』の極楽無為涅槃界の釈に、

法身はいろもなし、かたちもましまさず、しかればこゝろもおよばれずことばもたへたり。この一如よりかたちをあらわして方便法身とまふす御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこして、あらわれたまふ御かたちおば、世親菩薩は尽十方无碍光如来となづけたてまつりたまへり。[36]

といい、一如の示現としての選択本願が釈顕されているから、選択は無選択の選択であるという義意があるとしなければならない。

 これに対して相絶二門について、選択無選択をいうとは、「外に向って選択を示現するは相対門に約して暫く称名行に就く、内に就て結構するは絶対門に約して終に無選択に帰す、故に正しく信心にあつて行に止まるべからず、相対以て絶対に帰し、絶対にて相対に入る……名号信心に就けば絶対に位して相対を成ずべからず、故に称名に寄顕して(寄顕即実顕に達す)以て彼定散諸行に相対す」[37] といっているものがそれである。すなわち定散諸行に対して称名を選択するのは、行々相対の法門であって、その相は諸仏称名に範をとる法門である。もちろん弥陀念仏は諸仏念仏とちがって、名号、信心を内実としている他力念仏である。すなわち念仏往生は、究極の実義としては名号往生、信心往生に帰すべき法門である。ところで法体からいへば名号往生、機受からいえば信心往生というような絶対他力の法門は諸仏土中に前例はなく、従って選択取捨すべきもののない絶対門の法義というべきである。これを法蔵の唯心結構の法門という。かくて法蔵の選択は、諸仏土中にあった称名往生という形式に、信心、名号の内実を寄顕して選取するのであるから、選択は諸行対称名という相対門の相にはじまって、名号、信心という絶対門、無選択の体に帰するというべきである。このことを顕わすために親鸞は『教行証文類』において、法然の念仏往生を開いて、法体名号と機受の信心に分け、大行、大信と示されたというのである。要するにこの説によれば称名は選択の法といえるが、名号信心は無選択の法であって、称名選択は寄顕(即実顕に帰するが)の法門であり、絶対の実義は名号信心という無選択の法門であるということになる。

 この説によると、選択称名は究竟の真実をあらわす名目ではなくなってしまうであろう。たとえ称名は即名号、信心であり、寄顕は実顕に達するといったとしても、一往にせよ称名往生は寄顕の法門であり、選択は無選択に帰するということになれば、称名往生とか、選択は真実の法門を直ちに顕わしていないことになるであろう。しかしすでにのべたように、選択と廃立は同義語であって、いずれも弥陀、釈迦、諸仏の随自意真実の法門をあらわす為に用いられている名目であった。このことは法然のみならず、親鸞にも共通していることである。親鸞は行信を無選択の法であるとは決していわれていない。「行文類」のはじめに「諸仏称名之願 浄土真実之行 選択本願之行」といい、「行文類」は選択本願の行を顕わすと明示し偈前の文には「選択本願之行信也」といって行信ともに選択の法であることをのべ、また「信文類」序には「護得信楽発起自如来選択願心」といい、また大信の徳を嘆じて「選択回向之直心」といわれるように、大行、大信のいずれも選択回向の法とみられている[38]。また「正信偈」に「本願名号正定業」といわれたものを『銘文』にみずから釈して「本願名号正定業といふは選択本願の行といふ也」[39] といわれるように、名号もまた選択の法体とみられていたことは明らかである。また称名は諸仏土中にあったから選択しうるが、名号、信心はなかったから選択しえないというのならば、称名も諸仏土中にあったものは、雑行として選捨されるべきものであって、選取された称名は、それ自体が弥陀不共の他力行であったということはすでにのべた通りである。また信心は絶対門であるとされるが、信疑対といわれるように疑に対する相対廃立の意味があり、念仏は相対門といわれるが、無上功徳の念仏は絶対不二の法ともいわれるのである。

かくて性海示現の選択であるから選択即無選択であるというのはもっともであるが、称名選択は、名号、信心という絶対無選択の法に帰して究意するから選択は無選択に帰するというのは穏当ではないと考えられる。善譲は『真宗論要』では、鮮妙と同じように、称名選択は、名号、信心の無選択に帰するといっているが『敬信記』には選択について余弁ありとして「行ヲ選ンデ信ヲ選バズト思フコトナカレ、行ノ有丈ガ信ノ有リ様ナレバ、行ヲ選ブガ即信ヲ選ブモノナリ、是ハコレ他力ノ奥義可思」[40] といって、『論要』の説を訂正しているのは注目すべきことである。

第四節 勝徳の開顕

 「本願章」には、法蔵菩薩が一切の諸行を選捨し、念仏一行のみを選取して本願の行と定められた選択の願心をさぐって次のようにのべられる。

答曰、聖意難測、不能輒解、雖然今試以二義解之、一者勝劣義、二者難易義、初勝劣者、念仏是勝、余行是劣、所以者何、名号者是万徳之所帰也、然則弥陀一仏所有、四智三身十力四無長等、一切内証功徳、相好光明説法利生等、一切外用功徳、皆悉摂在阿弥陀仏名号之中、故名号功徳最為勝也。余行不然、各守一隅、是以為劣也。譬如世間屋舎名字之中、摂棟梁椽柱等一切家具、棟梁等一一名字中、不能摂一切、以之応知、然則仏名号功徳、勝余一切功徳、故捨劣取勝、以為本願歟。次難易義者、念仏易修、諸行難修、……故知念仏易故通於一切、諸行難故不通諸機、然則為令一切衆生平等往生、捨難取易為本願歟。「隠/顕」答へていはく、聖意測りがたし。たやすく解することあたはず。しかりといへどもいま試みに二の義をもつてこれを解せば、一には勝劣の義、二には難易の義なり。初めの勝劣とは、念仏はこれ勝、余行はこれ劣なり。所以はいかんとならば、名号はこれ万徳の帰するところなり。しかればすなはち弥陀一仏のあらゆる四智・三身・十力・四無畏等の一切の内証の功徳、相好・光明・説法・利生等の一切の外用の功徳、みなことごとく阿弥陀仏の名号のなかに摂在せり。ゆゑに名号の功徳もつとも勝となす。余行はしからず。おのおの一隅を守る。ここをもつて劣となす。たとへば世間の屋舎の、その屋舎の名字のなかには棟・梁・椽・柱等の一切の家具を摂せり。棟・梁等の一々の名字のなかには一切を摂することあたはざるがごとし。これをもつて知るべし。しかればすなはち仏の名号の功徳、余の一切の功徳に勝れたり。ゆゑに劣を捨てて勝を取りてもつて本願となしたまへるか。次に難易の義とは、念仏は修しやすし、諸行は修しがたし。……ゆゑに知りぬ、念仏は易きがゆゑに一切に通ず。諸行は難きがゆゑに諸機に通ぜず。しかればすなはち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。 [41]

 ここではまず勝劣、難易の二義をあげて諸行と念仏の価値批判がなされる。その勝劣は行徳につき、難易は修相について分別されたものともいえるし、勝劣は法に約して廃立し、難易は機に約して廃立されたものであるともいえよう。すなわち念仏は最勝の法徳をもちつつ、至易の行であるから選取し、諸行は劣行であって、しかも難行であるから選捨されたといわれるのである。

 先ず勝劣の義とは、念仏における所称の名号には如来所有の内証、外用等の一切の功徳が摂在していて、これを領受している念仏は、無量の徳をもっているから最勝の行である。それに対して諸行は、その一々を修行して、やがて仏果の一分一分を荘厳するようになるもので、仏法中の一隅を守るに過ぎないから劣行である。喩えていえば家という名は、家具のすべてを摂めているが、棟とか梁とかという名は、ただ棟、梁を表わすだけで、家具のすべてを表わさないようなものであるといわれている。

 ところでこの譬喩を文字通り受けとると、名号(念仏)と諸行の関係は、全体と部分ということになる。すなわち名号は諸行の総体であり、諸行は名号所具の別徳をあらわしたことになって両者はただ量的な差であって、質的な差ではないかのように窺われる。行観は『選択集秘抄』二にこの勝徳論を批判して「万徳所帰之功徳往生云、非名号不思議力、是色不替諸行本願諸行往生義也」[42] といっている。すなわち名号が勝れているのは、諸行の総体だからだというのならば、実質的には諸行が勝れているということになる。諸行の功徳力によって往生するという法門を諸行往生というならば、諸行の総体である名号によって往生するということも、ただ諸行往生説の表現を変えたものに過ぎないことになる。念仏往生とは、諸行を廃して名号不思議力による往生をいうのである。今の釈を文字通りにうけとれば、「名号袋入万行生間、万行真実財、名号袋、方便散称浅行也」ということになる。すなわち名号は袋のようなもので、内容である万行に往生せしめる力をもたせるような、諸行往生的な釈になり、今師大谷(法然)の御本意ではないといわねばならない。それゆえ答の初に「今試以二義解之」といい、それが試みの釈でしかなかったことをあらわしているといっている。たしかに諸行と念仏を、単に部分と全体、別相と総相の如く量的なちがいとのみ理解するならば、行観の批判は当るといわねばならない。諸行と念仏のあいだに、選択廃立が談ぜられる以上、両者には質的なちがいがあって、否定的に対立する面があったとしなければならないからである。

 ところで「本願章」の文を仔細に見ると、その結文に「仏名号功徳、勝余一切功徳」といわれている。これは諸行の一々よりも名号が勝れているというだけではなくて、一切の諸行の功徳を集めたよりも勝れているということでなければならない。後に「利益章」において、菩提心等の諸行は、小利有上功徳であり、念仏は大利無上功徳であるから、釈尊はこれを付属されたといわれているのと対望すると、諸行と念仏とは、有上有量と無上無量、いいかえれば相対と絶対のちがいであるとみられていたとしなければならない[43]。無上、無量は、有上、有量の単なる延長線上にあるものではなくて、有上有量を否定的に超越した境位をあらわしている。両者は量的な相違ではなくて、質的なちがいであるとしなければならない。

 また屋舎の譬喩では明確ではないが、法義をあらわす所では、諸行は従因至果の因行をあらわしているのに対して、名号は仏の万徳円満不可思議の果徳をあらわしていた。法蔵菩薩のように、「一如よりかたちをあらわした」従果降因の菩薩の因行ならば、因果相即の因といえようが[44]、一般に断惑証理、従因至果の行者の因行ならば、無明性、虚妄分別性を脱却できていない思議の法である。それに対して名号は完全に無明を脱却し、真如法性の顕現した無分別知の領域をあらわしているから不可思議の法であるといわねばならない。こうして諸行と念仏(名号)とは、有上と無上、有量と無量、因行と果徳、思議と不可思議との関係にあり、両者の勝劣のありかたは、単に量的なものではなくて、質的なちがいをあらわしていたとみるべきである。それゆえに両者は必然的に廃立され、選択されねばならないのである。後に親鸞が「行文類」の一乗海釈において、念仏諸善比較対論して四十七(八)対をあげられるが、そのなかに無上有上対、思不思議対、因行果徳対、選不選対、有願無願対等を出されたのは、法然の諸行念仏の勝劣論を正統に伝承されたものといえよう[45]。その意味で、行観の説は、法然の勝劣論を正しく理解したものとはいえないであろう。[46]

 ところで名号が、仏果の万徳の所帰であるから、念仏が勝行であるということにも、いささか問題が残る。というのは名号が万徳の所帰であるということは、諸仏の名号の上でもいえる筈だからである。名号の、従って念仏の勝徳性をはじめて釈顕されたのは曇鸞の『往生論註』下、讃嘆門の称名破満の釈であった[47]。すなわち「名即法者、諸仏菩薩名号、般若波羅蜜及陀羅尼章句、禁咒音辞等是也」といい、諸仏菩薩の名号、陀羅尼、禁咒等と同じように阿弥陀仏の名号にも名法相即の功徳があるといい、またその名号を「方便荘厳真実清浄無量功徳名号」等といわれるのである[48]。また「法然聖人御説法事」には、慈恩の『西方要決』の「諸仏願行、成此果名、但能念号、具包衆徳、故成大善、不廃往生」の文を引いて念仏の勝徳を立証されているが[49]、いずれも全徳施名を諸仏にも通ぜしめられている。

 しかしすでにのべたように、法然は諸仏菩薩の名号を称えることは称名雑行であり、陀羅尼や禁咒等の持咒の行も雑行であって、従って小利有上の劣行とみなされていた。それゆえ名号が万徳の所帰なるが故に、称名は最勝の行であるということは、弥陀念仏のみのもつ不共の徳であったとしなければならない。しかしそういうことは、いかにしていえるのであろうか。それについて「四箇条問答」に次のような法語がある。

別願に約する時は、阿弥陀仏の御慈悲は余仏の慈悲にすぐれたまへり。そのゆへは、この常没の衆生を、十声 一声の称名の功力を以、無漏の報土へ生ぜしめむと云御願によて也。阿弥陀仏の名号の余仏の名号にすぐれたまへると云も、因位の本願にたてたまへる名号なるがゆへに勝たまへり。しからずは報土の生因となるべから  ず、余仏の名号に同ずべし。[50]

阿弥陀仏の慈悲が、諸仏にすぐれているというのも「常没の衆生を、十声一声の称名の功力を以、無漏の報土へ生ぜしめむと云御願」があるからであるが、阿弥陀仏の名号が余仏の名号に勝れているのも、称名往生を誓われた本願があるからであるといわれるのである。「四箇条問答」には、さらに、

阿弥陀仏の名号は余仏の名号に勝たまへり、本願なるがゆへなり。本願に立たまはずは、名号を称すとも、無明を破せざれば報土の生因となるべからず、諸仏の名号におなじかるべし。しかるを阿弥陀仏は乃至十念若不生者不取正覚とちかひて、この願成就せしめむがために兆載永劫の修行をおくりて、今已に成仏したまへり。この本願業力のそひたるがゆへに諸仏の名号にもすぐれ、となふればかの願力によりて決定往生おもするなり。[51]

といわれる。名号はただ万徳の所帰であるというだけではなく、その名号を称えるものを無漏の報土へ生ぜしめようという本願があるから、万徳所帰の名号が、それをいただいて称える衆生の無明を破し、その本願力の自ずからなるはたらきとして決定往生せしめるのである。ここに本願なき諸仏名号と、選択本願の名号との決定的なちがいがあるといわれるのである。

 こうして法然は「本願章」では「阿弥陀仏が念仏を選んで本願に誓われたのは、それが最勝の行だったからである」といい、「四箇条問答」では「弥陀の名号(念仏)が、余仏の名号にもすぐれて最勝の行であるのは、本願に誓われた行だからである」といわれるのは、一見循環論証の誤謬に陥るかのようにみえる。しかしこれは「四箇条問答」のように、名号が報土の生因たりうるのは、念仏往生を誓った本願があるからであるという信仰上の事実が根源的にあって、その上で名号には報土の生因でありうるような無上功徳を具しているという念仏勝徳論が展開されていったものであるとみるべきであろう。すなわち念仏勝徳論は、どこまでも本願論に包摂されて成立するもので、その逆ではないといえよう。法然が上掲「四箇条問答」の文につづいて「かるがゆへに如来の本誓をきくに、うたがひなく往生すべき道理に住して、南無阿弥陀仏と唱てむ上には、決定往生のおもひをなすべきなり」といい、「念仏往生要義抄」などにしばしば「わが身の善悪をかへりみず、ほとけの本願をたのみて念仏申すべき也」[52]というように、常に「本願をたのみて念仏せよ」といわれるが、決して「念仏の勝徳をたのみて念仏せよ」といわれなかった所以である。

 そこに永観などの念仏勝徳論との決定的なちがいがあった。法然の念仏勝徳論が、永観の『往生拾因』の第一因「一心称念阿弥陀仏、広大善根故、必得往生」をうけていたことは疑うことができない。そこには『西方要決』の「諸仏願行、成此果名」等の文と、真言の阿字観等を用いて名号の勝徳を開顕し、

弥陀名号中、即彼如来従初発心、乃至仏果、所有一切万行万徳、皆悉具足無有欠減、非唯弥陀一仏功徳、亦摂十方諸仏功徳、以一切如来不離阿字故……実知弥陀名号、殆過大陀羅尼之徳、又勝法華三昧之行。[53]

といって、真言の陀羅尼の徳や法華三昧よりも勝れているとしている。しかし永観が決して真言、法華を捨てよといわないのは、それらと同一次元上で、量的に勝行であるとみられていたからである。従って名号を称えるということは、語密を行ずるのと同じような意味をもち、定心をもって念仏を多念し、広大の善根を積植しようとする永観の念仏実践論がそこから導き出されてくるのである。そこに法然の本願念仏の勝徳論との決定的なちがいのあることを知るべきである。のちに親鸞が名号の広大善根性を信じて、称名して功徳を積植しようとするものを真門自力念仏とよび、『三経往生文類』に、

不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号をえらびて、万善諸行の少善をさしおく。しかりといゑども、定散自力の行人は、不可思護の仏智を疑惑して信受せず、如来の尊号をおのれが善根として、みづから浄土に回向して、果遂のちかひをたのむ、不可思議の名号を称念しながら、不可称不可説不可思護の大悲の誓願をうたがふ。そのつみふかくおもくして、七宝の牢獄にいましめられて、いのち五百歳のあひだ自在なることあたはず。[54]

と批判されたものは、永観的な念仏勝徳論をさしていたといえよう。

 ともあれ法然は、「本願章」において諸行に超勝した本願念仏の価値の絶対性を釈顕されたわけであるが、これを「約対章」に「為極悪最下之人、而説極善最上之法」[55]といわれたものと対望すると、念仏が極善最上の法であるということは、常に極悪最下の機の救済と対応していたことがわかる。すなわち法然は、念仏が最勝の行であるということの釈顕をとおして、極悪最下の機を救うて無漏の報土に入らしめようとする大悲の願心を読みとっておられたことがわかるのである。如来選択の願心をたずねて本願念仏の無上功徳性が釈顕されたことは、浄土教の価値観の基盤が確立せしめられたことを意味しており、ここから新しい価値体系が樹立されていくのである。


第五節 易行の意義

 次に難易の義というのは、すでにのべたように機に約して廃立されたものである。すなわち諸行は難行なるが故に機を摂すること狭く、念仏は、易行にして、いかなる下機にも堪えられるから、万機を漏らすことなく救う、すなわち機を摂することが寛い。それゆえ一切衆生を平等に摂せんと思し召す大悲の願心は、諸行を捨てて、念仏一行を選取せねばならなかったといわれるのである。すなわち平等の大悲という選択の願心に立脚して、摂機の寛狭に約して、行業の廃立を論ずるのが法然の難易対の法相なのである。
難易相対の念仏観は、竜樹の『易行品』や、それをうけた曇鸞の『論註』序題をはじめ、浄土教の伝統的な行業観であった。ことに源信の『往生要集』は、その序文に、

夫往生極楽之教行、濁世末代之目足也。道俗貴賎誰不帰者。但顕密教法其文非一、事理業因、其行惟多、利智精進之人、未為難、如予頑魯之者豈敢矣。是故依念仏一門、聊集経論要文、披之修之、易覚易行。[56]

といい、易行易修の行法の確立をめざして著わされたものであった。そのことは「大文第八念仏証拠」において、一切の善業は往生行となりうるが、今唯念仏の一門を勧めるのは「只是男女貴賎、不簡行住坐臥、不論時処諸縁、修之不難、乃至臨終願求往生、得其便宜、不如念仏故」[57] であるといわれたものは、明らかに難易相対をもって、念仏を勧進されていることがわかる。法然も「本願章」に易行の証文として善導の『往生礼讃』前序の文とともに、前掲の「念仏証拠門」の文を引用されている。

 ところで『往生要集』などにおいて難行易行に約して念仏が勧められるときには、ただ能修者の堪不だけが問題になっていて、仏意の所在までは論究されていなかった。『往生要集』「大文第四正修念仏」では念仏行として五念門を明かされるが、その中心は第四観察門における観仏であった。その観仏を明かすついでに「若有不堪観念相好、或依帰命想、或依引摂想、或依往生想、応一心称念」[58] といって、観念に堪えられないものには三想に依る一心称念が勧められていた。また「念仏証拠門」には、念仏についての十箇の証文をあげた後に「此中観経下々品、阿弥陀経、鼓音声経、但以念名号、為往生業、何況観念相好功徳耶」[59] といってどこまでも観勝称劣の立場を守っている。従って少くとも『要集』の文相の当分は行業の価値からいえば観仏は勝行、称名は劣行とみなされており、ただ難易でいえば観難称易であるから、下機の為には称名を勧めるという立場で書かれていたとしなければならない。法然が「往生要集詮要」に、

然観念称念、勝劣、難易、即観念勝、称念劣、故念仏証拠門中云……又観念難修称念易行、……然則依勝劣、先雖勧観念、約難易、専勧称念也、而此集意、自始至終、捨難取易、即序中云披之修之易覚易行。[60]

といわれたのは、源信浄土教の性格を的確に示されていたといえよう。

 法然は、それをさらに進めて、観仏も含めて、すべての余行は劣行であり、称名のみが最勝の行であると行業の価値観を逆転せられたわけであるが、そうなると難易ということの意味内容も変化してくる。すなわち難行とは、単に能修が困難な行法というだけではなく、特定の上根善機のみに救いの範圍を局限した偏狭な法門を意味するようになる。それに対して易行とは、単に能称の易を意味するだけではなくて、極悪の下機にも堪えられる行であることによって、万機を平等に摂取することのできる普遍の法門をあらわしているのである。そのことを「本願章」には、

念仏易故、通於一切、諸行難故、不通諸機、然則為令一切衆生平等往生、捨難取易、為本願歟、……然則弥陀如来、法蔵比丘之昔、被催平等慈悲、普為摂於一切、不以造像起塔等諸行、為往生本願、唯以称名念仏一行、為其本願也。[61]

といわれたのである。すなわち難行は平等の慈悲にかなわないという意味において随他意の法門であり、易行念仏は、平等の大悲を満足する随自意真実の法門であるということになる。かくて仏の随自意である平等の大悲に催されて行われた行業の選択において難行たる諸行は必然的に選捨され、易行たる念仏一行が選取されたといわれるのである。易行の念仏とは、万機を平等に救おうとする平等の大悲の具現であるといえよう。我々が難行を捨てて易行に帰するということは、ただ人間の恣意によって、むずかしいからやめる、易いから行ずるというような私的な次元の話ではなくて、真実なる仏意にかなうか否かの問題なのである。醍醐本『法然上人伝記』「三心料簡事」には、

余行しつべけれどもせずと思、専修心也。余行目出けれども、身かなはねばえせずと思は、修せねども雑行心也云云。[62]

とまでいわれている。余行は勝れているができないから、仕方がないから念仏を称えるというのは、余行を行じなくても雑行心であり、余行はやればできるとしても、本願の意にそわないから行じないというものこそ専修心であるというのである。ここに単に機の堪不のみに止まらず、本願の仏意にかなうか否かという根源にかえっているところに法然の難易対の意味があったのである。従って法然は、下機なるが故に念仏を説き、上機なれば観仏等の余行を勧めるということは決してされなかった。易行の念仏は、平等大悲の願心の具現した万機を摂する普遍の行であり、仏意にかなった唯一真実の行なるがゆえである。「鎌倉の二位の禅尼に答ふる書」にも、

まづ念仏を信ぜざる人々の申候なる事、くまがへの入道、つのとの三郎は、無智のものなればこそ、余行をせさせず、念仏ばかりおば、法然房はすゝめたれと申候なる事、きわめたるひがごとにて候也。そのゆへは、念仏の行は、もとより有智無智をえらばず、弥陀のむかしのちかひたまひし大願は、あまねく一切衆生のため也。無智のためには念仏を願とし、有智のためには余行を願としたまふ事なし。十方世界の衆生のためなり。
有智無智、善人悪人、持戒破戒、貴賎男女もへだてず、もしは仏の在世の衆生、もしは仏の滅後の衆生、もしは釈迦末法万年ののちに三宝みなうせての後の衆生まで、たゞ念仏ばかりこそ、現当の祈祷とはなり候へ。[63]

といって、本願の念仏の時空を超越して、万機を包摂する普遍性、平等性が強調されている。

 このようにして称名は勝易の二徳を具するゆえに選取されたわけであるが、勝行であることと、易行であることとは決して別々の事柄ではなかった。念仏の功徳が最勝無上であるならば、往生のために衆生が加えるべき功徳はないといわねばならぬ。衆生は罪の軽重も、功徳の有無もかへりみず、生まれつきのままにて本願を仰いで名号を称えるばかりである。それゆえ無上の勝行は、至極の易行でもあるのである。また念仏が至極の易行であるということは、極劣の機を漏らすことなく万機が平等に救われるという救済の普遍性と平等性をあらわしており、最勝の行であるということは、それによって万機が究竟涅槃の報土に入らしめられるという救済の絶対性を示していた。

こうして勝易の二義は、本願念仏という随自意真実の法のもつ絶対性と普遍性と平等性をあらわしており、浄土教的真理観の三つの特性を顕示していたといえよう。


第六節 選択思想の特色

 法然は「大経釈」に、阿弥陀仏の選択の願心を、勝劣、難易の二義をもって釈したあと「如一月浮万水、無嫌水浅深、如太陽照世界、不選地高低、……万機摂一願、千品納十念、以此平等慈悲、普摂一切也」[64] と結ばれている。ここで一月といい、太陽とたとえられたものは、地上的な一切の差別を超越した無差別平等の智慧の徳をあらわしており、それが水の浅深を嫌うことなく宿り、地の高低を選ぶことなく照すとは、真に超越的であるがゆえに、地上の一切の差別にとらわれることなく、一切を平等に包摂していく、大智の用たる大悲の徳をあらわされていたといえよう。『大経』によれば、法蔵菩薩の選択の願心の体をあらわして「超発無上殊勝之願、其心寂静、志無所著」[65] といい、無上殊勝の誓願は、何ものにもとどこおることなき、寂静なる智慧を体としそのはたらきとしてあらわれたものであるといわれている。又その自利々他の行徳を語って「誠諦不虚、超出世間、深楽寂滅」とか「三昧常寂、智慧無碍」といわれるように[66]、一切の煩悩生死の世間を超出した涅槃寂静の智慧の活動として法蔵菩薩の二利行がなされていることを明かされている。

法蔵菩薩は、無碍の智慧をもって世俗的な一切の差別を超越するがゆえに、よく衆生の賢愚、善悪、出家在家をわけへだてなく包摂し、平等に安住の処を得しめていかれるのである。かかる超越的絶対者である阿弥陀仏の大智を全うじて躍動する「平等の慈悲」が選択の願心であり、その具現が選択本願念仏である。それゆえ「万機を一願に摂し、千品を十念に納め」て、本願を信じ、念仏するものは、善人は善人のまま、悪人は悪人のまま、浄土にあらしめていくのである。 これに対して自力をたのみ、菩提心をおこし諸行を修して如来に近づいていこうとする顕密諸行の道は、その難行性と、有上功徳性(有限性)の故に、善悪、賢愚、貴賎について千差万別を生じ、一方では退転と脱落を、一方では・慢を生みだしていく。自力は差別を生み出す原理に堕する危険性をもっていた。そのことは、法然の選択思想をきびしく論難した『興福寺奏状』第六条に見出すことができる。

彼帝王布政之庭、代天授官之日、賢愚随品、貴賎尋家、至愚之者、縦雖有夙夜之功、不任非分之職、下賎之輩、縦雖積奉公之労、難進卿相之位。大覚法王之国、凡聖来朝之門、授彼九品之階級、各守先世之徳行、自業自得其理必然。而偏憑仏力不測涯分、是則愚癡之過也。就中仮名念仏浄業難熟、順次往生本意有違失、戒恵倶★、所特何事哉。[67]

 下賎愚鈍の者が、どんなに努力をしても公卿に任じられないように、凡夫が称名をしたくらいで上品に至ることはできず、まして戒律や智恵の欠けたものが、いかに念仏したとしても、順次の往生は不可能である。それが自業自得の道理である。それにもかかわらず、法然が仏力をたのんで、自身の涯分をかえりみず、念仏往生ができると考えているのは愚癡の至りであるというのである。このような考え方は『奏状』の作者、貞慶だけのものではなくて、当時のいわゆる南都北嶺の顕密の仏教者の一般的な思想だったのである。とくに帝王の授官と、仏の授ける九品の階位とを同一視し、「貴賎尋家」という如きは、当時の貴族階級の発想をもって仏教を世俗化するものだといえよう。それゆえに彼等の仏教が当時の貴族たちの階級的支配体制を支える思想となっていったのである。『興福寺奏状』には、当時の顕密仏教の思想的体質があざやかに示されている。

 法然は、こうした顕密仏教の発想をその根底から問いなおし、善悪、賢愚のへだてなく万機を平等に無漏の報土に入らしめようとするのが仏陀の願心であり、仏教の本来性であるといわれているのである。

 しかも法然が本願の普遍平等性を語られるときは、常に愚悪なるものの救いに焦点をあわせて説かれていた。すでに見てきたように顕密の行道から除外されている貧窮困乏、愚鈍下智、少聞少見、破戒無戒のものをあげ、かかる愚悪なる庶民大衆を救う道を開かねば、仏の平等の大悲は満足しないのだといい切られていた。ここに法然がつねに愚悪なるものの場に身をおいて選択の願心を領解しようとされていたことがわかる。そして万人を平等に救わんとする大悲の願心は、極悪最下の機をもらさぬための易行の念仏に、最勝の徳をこめて選択摂取することによって、願心の全き実現をはたされたといわれるのであるから、称名は平等の大悲の顕現態であるというべきである。

そして真実の仏法は、称名となって万人の上に実現していくものであるとみられていたのであった。
 「仏心とは大慈悲是なり」とは『観経』の金言であるが、大慈悲心は、平等心であり、一切衆生を賢愚、善悪のへだてなく、平等に一子の如く憐念したまう。それ故に、念仏の一法を選取して、九品平等に無漏の報土に入らしめようとするのだと領解された法然の仏法理解は、聖道仏教と対立するばかりではなく、当時の支配体制を根底からゆさぶるような危険性をもつとみなされていた。法然教団がはげしい弾圧にさらされる所以であった。

 このような選択本願念仏の教説によって、我々は第一に新しい救済体系の成立を知らしめられる。救済の成立には、機と教とが相応しなければならない。機をはなれた教法は空論に過ぎないし、教法をはなれた機には迷いしかないからである。ところが法然によれば機教相応のありかたに二種があって、聖道門のように、戒定慧の実践によって機をととのえて教法に相応させようとするものと、浄土門のように、機にあわせて教法が選定されるというものとである。すでにのべたように機を教に相応させようとしても「すでに三学のうつわ物にあら」ざる末法の凡愚にとって、それは絶望的な閉ざされた道でしかなかった。「法然聖人御説法事」に「しかればかの諸宗は、いまのときにおいて機と教と相応せず、教はふかし、機はあさし、教はひろくして機はせばきがゆへなり」[68] といわれた如くである。

 それに対して浄土の法門は「本願章」に「為令一切衆生平等往生、捨難取易」といわれたように、機にあわせて教法が選ばれているから、いかなる下機といえども機教相応せしめられるのである。しかもその選びかたは「約対雑善章」に、

加之下品下生、是五逆重罪之人也、而能除滅逆罪、所不堪余行、唯有念仏之力、能堪滅於重罪、故為極悪最下之人、而説極善最上之法、例如彼無明淵源之病、非中道府蔵之薬、即不能治、今此五逆重病淵源、亦此念仏霊薬府蔵、非此薬者、何治此病。[69]

といわれるように、救済は、病者と医者と薬の相応関係で見なければならないというのである。極重の病者を救いうる薬が極上である如く、極悪最下の機を救いうる法こそ極善最上なのである。真の名医は、極重病者に、醍醐という極上の妙薬を選び与えるように、如来は極悪の機に応じて、極善最上の法たる念仏を選びとり、万機を一機も漏さず救うのが選択本願念仏の奥義である。こうして機教相応についての新しい見解が確立し、新しい救済原理が成立していく。やがて親鸞はこれをうけて本願力回向の教説を展開されるのである。[70]

 第二に往生の行業が、すでに如来によって機にあわせて選定されているとすれば、行者は、ただはからいなく選択本願に信順し、不定業でしかない自力の行業をすてて、仏の御心にかなって選定された正定業たる本願の念仏を行ずべきであるという本願他力の信行の道理が明らかになってくる。選択とは、自力を捨てて他力に帰すべき道理を顕わしているのである。「法然聖人御説法事」に、第十八願をあげて選択の義をのべたあとに、

しかるに往生の行は、われらがさかしくいまはじめてはからふべきことにあらず、みなさだめおけることなり。……まことにわれら衆生自力ばかりにて往生をもとむるにとりてこそ、この行業は仏の御こころにかなひやすらむ、またなにとも不審にもおぼへ、往生も不定には候べき。念仏を申て往生を願人は、自力にて往生すべきにはあらず、たゞ他力の往生也。本より仏のさだめおきて、わが名号をとなふるものは、乃至十声一声までもむまれしめたまひたれば、十声一声念仏にて一定往生すべければこそ、その願成就して成仏したまふと云道理の候へば、唯一向に仏の願力をあおぎて往生おば決定すべきなり。わが自力の強弱をさだめて不定におもふべからず。[71]

といわれる如くである。まことに念仏は如来によって決定往生の行としてすでに選び定められているから正定業なのであって、行者が行修して正定業にしていくものではない。行者は「さかしくいまはじめてはからふ」ことなく、如来がかねて「さだめおけること」に信順して念仏すべきである。念仏するということは、選択本願への信順の相であり、念仏往生すべしという如来の願いに対する私心をはなれた応答なのである。

 第三に選択本願念仏の教説は、諸仏の法門たる聖道門に超えすぐれているという、浄土教の超勝性をあらわしていた。念仏の法門が二百一十億の請仏土中から選択された法門であるということは、諸仏法を否定的に媒介しつつ、その根源へ超出し、諸仏もそれを随自意としなければならないような法門の成立を意味していた。いいかえれば諸仏法もそこから成立するような根源的な真実の仏法を開顕することが選択だったのである。それゆえ選択本願念仏が成立すれば、諸仏はみずからの法門(聖道門)を随他意として捨て、弥陀法に帰一し、それを自身の随自意として証誠讃嘆されるわけである。「津戸三郎へつかはす御返事」(九月二十八日付)に、

されば念仏往生の願は、これ弥陀如来の本地の誓願なり、余の種々の行は、本地のちかひにあらず。釈迦如来の種々の機縁にしたがひて、様々の行をとかせたまひたる事にて候へば、釈迦も世にいで給ふ心は、弥陀の本願をとかんとおぼしめす御心にて候へども、衆生の機縁人にしたがひてときたまふ日は、余の種々の行をもとき給ふはこれ随機の法なり。仏の自らの御心のそこには候はず。されば念仏は弥陀にも利生の本願、釈迦にも出世の本懐也。[72]

といわれている。これは釈尊に約して出世本懐の法門が弥陀法にあることをのべられたものであるが、このことは、諸仏にも通ずることであって、『選択集』に「十方各恒沙等諸仏、同心選択念仏一行」といわれた如くである。かくて、選択によって諸仏は弥陀に統摂され、八万四千の法門は、念仏往生の一法に統摂されていくという道理が明らかになっていくのである。このような思想がやがて親鸞に伝承されて誓願一仏乗説へと展開していくのである。[73]

 かくて第四に、選択本願論は浄土宗独立の教学的根拠となっていくことがわかる。選択思想の成立は、必然的に浄土宗独立の宣言を生み出していくのである。すでにのべたように聖道門にも浄土教はあった。法然が傍明往生浄土教と名づけられたものがそれであり、師錬が『元亨釈書』において寓宗とよんだ浄土教がそれである[74]。具体的にいえば『大乗起信論』「修行信心分」に、心怯弱なる初学者のために勝方便として説き与えている西方極楽願生の教説の如きものがその典型である[75]。止観の二門に堪えられない下劣の衆生のために専意念仏による願生浄土が説かれるわけであるが、ここでは止観等の諸行は難行ではあるが勝行であり、念仏、特に称名の如きは易行ではあるが劣行であるとみなされていたことはいうまでもない。従って凡夫が称名によって報仏の境界に往生するというようなことは決して承認できることではなかった。すでにのべたように『興福寺奏状』では、戒定慧なき凡夫の称名の如きは、遠生の結縁とはなるけれども、報土往生の正因になるようなものではなかったのである。称名往生説はもちろん、浄土教自体が諸仏の随他意方便説でしかないとみなされていたのである。

 法然の選択本願論は、こうした聖道門的発想を逆転し、諸行は難行にして劣行であり、阿弥陀仏はもちろん釈迦、諸仏の随他意方便の教門であり、称名は最勝にして至易なる行法として万機を平等に往生せしめる弥陀、釈迦、諸仏の随自意真実の法門である。随自意の法門たる浄土教が、随他意の法門であるはずの聖道仏教の方便道として、その教義体系の末端に位置せしめられているということは、仏意に背くものといわねばならない。ここに法然が聖道仏教と袂別して浄土宗の独立を宣言しなければならなかった根源的な理由があった。浄土宗の独立は、選択思想の必然的帰結だったのである。

 こうして諸行と念仏、聖道門と浄土門の選択廃立という、二者択一を迫る一行専修の選択思想は、顕密の諸宗が融合し、神道や陰陽道、その他の俗信とも習合するという習合的な思考形態になれていた当時の仏教界に強烈な衝撃を与えたばかりでなく、従来の仏教思想に対して革命的な意味をもっていた。それゆえ聖道諸宗の人々は、法然を仏教(実は既成の八宗)の破壊者とみなし、ついに承元(建永)の法難をはじめとする度重なる念仏弾圧事件がおこるのである。

第七節 選択本願論

 法然の選択本願論は、その弟子たちに継承され展開されていくが、ここでは親鸞のそれについて概観しておこう。親鸞が、法然の教説の中核を「選択本願」に見出しておられたことは、「正信偈」の源空章に「真宗教証興片州、選択本願弘悪世」と、その釈功をたたえ、「高僧和讃」の源空讃に「智慧光のちからより、本師源空あらはれて、浄土真宗をひらきつつ、選択本願のべたまふ」と讃詠されたものによっても明らかなところである[76]。親鸞が浄土真宗とか真宗とよばれたものは、まさしく法然が開顕された浄土宗の中核をなす選択本願の法義だった。『末灯鈔』所収の御消息には「選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり、浄土真宗は大乗のなかの至極なり」[77]

等とのべられている。法然によって開宗された浄土宗という選択本願の宗教こそ真実の仏法であるというので浄土真宗と名づけられたのであろう。

 そもそも親鸞の主著『顕浄土真実教行証文類』は、元久二年、法然から『選択集』を伝授され、その真影を図画することを許された甚深の師恩に応答するために「真宗の詮を鈔し、浄土の要を摭(ひろ)う」て成立したものであった[78]
。 それは何よりも選択本願念仏の深意を祖述し展開するものだったのである。「行文類」の偈前の文に、この書に開示された法義を要約して、

凡就誓願、有真実行信、亦有方便行信、其真実行願者、諸仏称名願、其真実信願者、至心信楽願、斯乃選択本願之行信也。其機者則一切善悪大小凡愚也、往生者則難思議往生也。仏土者則報仏報土也。斯乃誓願不可思議一実真如海、大無量寿経之宗致、他力真宗之正意也。[79]

といわれたように選択本願の行信の因果を釈顕するほかにはないのである。

 「行文類」の初には「諸仏称名之願 浄土真実之行 選択本願之行」と標願細註し、「行文類」にあらわす浄土真実の大行が、法然が釈顕された選択本願の行たる他力の念仏であることを標示されている[80]。それは『選択集』の三選の文に第二、第三章をうけて、「正定之業者、即是称仏名、称名必得生、依仏本願故」といわれたものをうけていることはいうまでもなかろう[81]。ところで法然が選択本願の行といえば、第十八願の乃至十念をさしていたのに、親鸞は第十七願によって行を建立し、この願を「選択称名之願」と名づけられたことから、後学に種々の論議をよびおこした。しかしこれも法然の幽意をうけて展開されたものと考えられる。すなわち『三部経大意』に、

弥陀善逝、平等の慈悲にもよをされて、十方世界にあまねく光明をてらして転一切衆生にことぐく縁をむすばしめむがために光明無量の願をたてまへり。第十二の願これなり。つぎに名号をもて因として衆生を引接せむがために念仏往生の願をたてたまへり。第十八の願これなり。その名を往生の因としたまへることを、一切衆生にあまねくきかしめむがために諸仏称揚の願をたてたまへり。第十七の願これなり。このゆへに釈迦如来この土にしてときたまふがごとく、十方におのく恒河沙の仏ましまして、おなじくこれをしめしたまへるなり。しかれば光明の縁あまねく十方世界をてらしてもらすことなく、名号の因は十方諸仏称讃したまひてきこへずといふことなし。……しかればすなわち、光明の縁と、名号の因と和合せば、摂取不捨の益をかぶらむことうたがふべからず。……又このぐわんひさしくして衆生を済度せむがために寿命無量の願をたてたまへり、第十三の願これなり。[82]

といわれている。ここには、第十二、第十三、第十七、第十八の四願を引いて、光明名号の摂化と、それによって念仏の衆生たらしめられ、摂取不捨の利益を得しめられるという、いわゆる光号因縁の義意が釈顕されている。すなわち第十二願は往生の外縁となる光明の摂化をあらわし、第十七願は、諸仏の讃嘆によって名号を衆生往生の因として与えていくことをあらわし、第十三願は光号摂化の永遠性をあらわしている。この光明の縁と、名号の因とが、衆生の上で因縁和合しているのが、第十八願における「念仏衆生、摂取不捨」という念仏往生の成立であるといわれるのである。のちに親鸞が「行文類」に光号因縁(両重因縁)の妙釈をあらわされるのは、この釈義をうけて展開されたものといえよう[83]。ともあれ法然は第十八願の念仏往生の根源を第十七願に見出し、諸仏所讃の名号が、選択の行体であって、これを往生の因体として信受し奉行しているのが第十八願の念仏往生であるとみられていたことがわかる。この十七、十八願の関係は、聖覚が法然に代わってあらわしたという「登山状」にもみられ、聖覚の『唯信抄』にも伝承されている[84]。『唯信抄』に「まづ第十七に諸仏にわが名字を称揚せられむといふ願をおこしたまへり。この願ふかくこれをこゝろふべし。名号をもてあまねく衆生をみちびかむとおぼしめすゆへにかつく名号をほめられむとちかひたまへるなり。……さてつぎに第十八に念仏往生の願をおこして、十念のものおもみちびかむとのたまへり」といわれている。法然にせよ聖覚にせよ、選択本願念仏の法門は、諸仏の讃嘆をとおして衆生のうえに実現するのであって、第十七願の教法と、第十八願の機受が一体となって成就しているとみられていたことがわかる。親鸞はこのような考え方を伝承し、選択本願の念仏は、第十七願をとおして与えられたとして、第十七願をことに「往相回向之願」とよび、如来の本願力回向の相をこの願の上にみられたのであった。

 「教文類」の初めに、浄土真宗の教義体系を明かして「謹按浄土真宗、有二種回向、一者往相、二者還相、就往相回向、有真実教行信証」といわれている[85]。如来の本願力回向の救済相に往還の二相を開き、回向された往相に教行信証の四法をあげ、第十七願によって教と行が、第十八願によって教行を信受する信が、第十一願によって行信の因に対応する証果がそれぞれ回向成就されたといわれるのである。ここに示される親鸞独自の二回向四法の教義体系は、『論註』の指南に依るところが多かった。それは、「証文類」に「宗師顕示大悲往還回向、慇懃弘宣他利々他深義」[86] といい、「正信偈」の曇鸞章に「往還回向由他力」といい、「高僧和讃」の曇鸞讃にも、往還二回向説が『論註』によって立てられたと言明されている如くである。たしかに『論註』下「起観生信章」に回向門を釈して「回向有二種相、一者往相、二者還相」[87] 等と往還二回向の名目は出されている。しかしこの場合往相回向とは、願生行者の利他回向のことであり、還相とは、浄土に往生した願生行者が大悲を起こして還来穢国し、利他教化することであって、往還の回向を行う主体はどこまでも行者であった。それに対して親鸞が釈顕される往還二種の回向は、本願力回向であって、回向の主体は阿弥陀仏であり、往還する行者は回向せられる者だったのである。親鸞は往還回向という言葉をうけつぎながら、その内容を衆生から如来へ百八十度転換されたわけである。そのような転換の機縁となったのは、「証文類」にのべられたように、『論註』の最後に釈された覈求其本釈における「他利々他」の深義であった。今はそれについて詳説するいとまはないが、この他利々他の釈と、それにつづく第十八、第十一、第二十二願の三願的証によって、親鸞は衆生が往相することも、還相することも、すべて阿弥陀如来の本願力を増上縁として、あらしめられているということを読み取られたのであった。[88]

 このような曇鸞教学と同時に、親鸞の本願力回向説を内面から支えていたのは、上述のような法然の選択本願念仏の教説、特に第十七願に注目されたそれであったといえよう。念仏はただ選択されただけではなく、第十七願に誓われたように諸仏の教説をとおして衆生に教示し、施与されるのである。これによって衆生のうえにとどくのであるとすれば、念仏はまさに選択回向の行法であるといわねばならない。このような諸仏による行法回施のありさまを詳説されたのが「行文類」であり、そこに示される仏祖の引文であった。「行文類」の顕真実行の引文は『選択集』で結ばれる。そこには『選択集』の題号と撰号と標宗の十四文字と、それに三選の文八十一字が引かれたあと、上来所引の七高僧をはじめ、各宗の祖師たちの顕真実行の全文を結ぶ意味をこめて、

明知是非凡聖自力之行、故名不回向之行也。大小聖人重軽悪人、皆同斉応帰選択大宝海念仏成仏。[89]

といわれている。凡聖逆謗のすべてを平等に救うて成仏せしめる選択本願念仏は、自力回向の行ではないから、衆生のがわからいえば、不回向の行である。称名していることは、行者が、みずからのはからいを捨てて、万人を平等に往生成仏せしめようとはからいたまう如来の選択の願海に帰入し、如来の御はからいに随順している相にほかならない。それゆえ衆生からいえば法然がいわれるように不回向の行であるが、そのことを如来のがわからいえば、本願力回向の行であるといわれたのが親鸞であった。すなわち本願力回向ということは、法然が念仏は不回向行であるといわれたものをうけて展開されたものであるといえる。『浄土文類聚鈔』に「聖言論説特用知、非凡夫回向行、是大悲回向行故、名不回向」といい[90]、「正像末和讃」に「真実信心の称名は弥陀回向の法なれば不回向となづけてぞ自力の称念きらはるゝ」[91] と讃述された如くである。

 『選択集』「二行章」の不回向回向対には『玄義分』の六字釈を引証して念仏は「縦令別不用回向、自然成往生業」 [92] といわれていた。すなわち名号には南無帰命の義釈として発願回向の義がそなわっているからである。ところで法然によれば、念仏が自然に往生業となるのは、如来が往生業として選定された選択本願の道理によってである。そうすると念仏(名号)に自然に具わっている発願回向の義とは、根源的には、念仏を選択して一切衆生を往生せしめようと誓願された如来の選択の願心の上に見なければならないことになる。その意趣を見ぬかれたから親鸞は「行文類」の六字釈で「発願回向」の義を釈して、「如来已発願、回施衆生行之心也」といわれたのである[93]。もちろん法然が直ちに本願力回向の行信を語られたわけではないが、そのように展開する傾向性を選択本願論のなかに充分みることができるのである。

 また念仏について「利益章」に、諸行を小利有上とし、念仏を大利無上功徳と判じ、「既以一念為一無上、当知以十念為十無上……」といい、一声々々が無上功徳であると、念仏の無上功徳性を強調されている[94]。それによって、たとえば「念仏往生要義抄」には「問ていはく、一声の念仏と、十声の念仏と、功徳の勝劣いかむ。答ていはく、たゞおなじ事也」といわれるのである[95]。このように一声一声が絶対無上であるような念仏は、本願の名号が信者の上に全体露現しているからであって、如来の全体が名号となり、念仏となって衆生の上に与えられているといわねばならない。実際法然は如来から衆生に向かって行徳が回向せられるという言葉を用いられることがある。『三部経大意』の次のような文がそれである。

弥陀如来は因位のとき、もはら我が名をとなえむ衆生をむかへむとちかひたまひて、兆載永劫の修行を衆生に回向したまふ。濁世の我等が依怙、生死の出離これにあらずばなにおか期せむ、これによりてかの仏は、われよにこえたる願をたつとなのりたまへり。[96]

 ここには衆生の帰依処となるような、如来の行の回向がいわれている。文脈からいって、法蔵所修の行徳が名号中に摂せられて、称名の体徳として回向されているという意味とみられるから、萠芽的ではあるが、本願力回向への展開契機がうかがわれる。[97]

 なお親鸞が、信心を語られるとき、その信は「如来選択の願心より発起」せるものであるといい、「選択回向之直心」といわれるように、法然の選択思想をうけて、信心の根源を如来の願心に見出し、念仏を選んで、一切衆生を救わんと思しめす如来の願心が、わが心に徹到したものが信心であると領解されていた。すでに別稿で詳述したように信心を以て涅槃の真因であるといい、信疑を以て迷と悟を分判される信疑決判も法然を伝承されたものであることはいうまでもない[98]。さらに醍醐本『法然上人伝記』所収の「三心料簡事」によれば、

由阿弥陀仏因中真実心中作行悪不雑之善故云真実也。其義以何得知、次釈凡所施為趣求、亦皆真実文、此以真実施者、施何者云、深心二種釈、第一罪悪生死凡夫云施此衆生也、造悪之凡夫即可由此真実之機也。[99]

といい、如来が、真実心をもって成就された行のみが真実といわれるが、その「所選取之真実者、本願功徳、即正行念仏」である。この真実なる念仏を、罪悪生死の凡夫に施されるから、衆生は、これによって、浄土を趣求していくことを善導は「所施為趣求亦皆真実」といわれたというのである。また以下に二河譬の白道を論じて、雑行中の願生心と、専修正行の願往生心を分判し、後者は、願往生心が即願力の白道であるような信であるといわれている。これらはいずれも本願力回向の行信という言葉こそ用いられていないが、内容的には殆ど同じことがらがあらわされていたといえよう。こうして親鸞の本願力回向の教義体系は、たしかに『論註』の強い教学的影響下に形成されたものにちがいないが、信仰的には、そしてより根源的には法然の選択本願論を展開したものであったといえよう。すなわち正確には選択本願念仏の信仰を、『論註』教学をとおして教義体系化したものが、『教行証文類』の教義体系であったというべきであろう。

 なおここで注意すべきことは、親鸞の大行論は『選択集』の「二行章」をうけられたものにちがいないが、「二行章」の標章には「善導和尚立正雑二行、捨雑行帰正行之文」といって正雑二行対で説かれている。従ってその内容をみると安心門(廃立門)では、雑行は勿論、助業も捨てて、称名正定業の一行が独立せしめられているが、起行門(相続門)で法義をあらわすときには助正二業が勧められている。それが「本願章」では、唯称名一行を所選の行として明かし、最後の三選の文では「称名必得生、依仏本願故」と安心門に立って一行専修が主張されている。親鸞は、この三選の文意によって「行文類」では大行を一行として顕わされるのである。また「三心章」の標章には「念仏行者、必可具足三心」といい『観経』の三心をもって信心が釈されている。しかし私釈にいたって、迷悟の決判をするときには、深心の一つにおさめて「当知生死之家、以疑為所止、涅槃之城、以信為能入」といい、信と疑をもって対決されている。親鸞は、この信を本願の信楽とおさえ、三心即一の信楽一心をもって「信文類」の大信を顕わされるのである。すなわち五行三心という立場に対して、一行一心を、法然教学の究竟の立場として伝承されたのが『教行証文類』における行信だったといえよう。「行文類」の行一念釈において、『大経』付属の一念の当釈である一念の・数釈のほかに、あえて行相釈を出し「一行、形无二行」といい、また「信文類」には、信一念の当釈である時尅釈のほかに、信相釈をあげて「言一念者、信心无二心故曰一念、是名一心、一心則清浄報土真因也」といい、一行一心の義を強調される所以である[100]。『唯信抄文意』に「教念弥陀専復専」を釈して、

選択本願の名号を一向専修なれとおしえたまふ御ことなり。専復専といふは、はじめの専は一行を修すべしとなり、復はまたといふ、かさぬといふ。しかればまた専といふは一心なれとなり。一行一心をもはらなれとなり。……この一行一心なるひとを摂取してすてたまはざれば阿弥陀となづけたてまつると光明寺の和尚はのたまへり。[101]

といわれている。選択本願の行信とは、一心をもってはからいなく一行を修するほかにはなかったのである。


:脚註

  1. 『選択集』八選択の結文(真聖全一・九八九頁)
  2. 『観無量寿経』(真聖全一・六六頁)
  3. 『散善義』付属釈(真聖全一・五五八頁)
  4. 『往生礼讃』後序(真聖全一・六八三頁)
  5. 念仏と諸行を仏の随自意真実と、随他意方便とに分判されたのは『選択集』「付属章」(真聖全一・九八三頁)に「当知随他之前、暫雖開定散門、随自之後、還閉定散門。一開以後永不閉者、唯是念仏一門、弥陀本願、釈尊付属意在此」といわれたものがそれである。
  6. 『玄義分』序題門(真聖全一・四四三頁)、尚この要門と弘願についての法然の見解は、『本論』第一篇第六章第三節(一二八頁)參照。
  7. 『玄義分』宗旨門(真聖全一・四四六頁)
  8. 法然が善導教学を廃立義を説いたものとみなし、一行専修を善導の教説であると主張されたのを、はげしく非難し、法然の専修念仏義は善導に背いているといったのが、『興福寺奏状』(岩波日本思想大系『鎌倉旧仏教』所収三一四頁)や『延暦寺奏状』(鎌倉遺文・五・二七四頁)であり、高弁の『摧邪輪』上(岩波日本思想大系『鎌倉旧仏教』所収・三五二頁)であった。これについては第二篇第八章第一節六項(五一三頁)参照。
  9. 『西宗要聴書』(浄全一〇・二六二頁)
  10. 『選択集』「本願章」(真聖全一・九四四頁)
  11. 村山修一『浄土教芸術と弥陀信仰』(一三一頁)
  12. 『愚管抄』(岩波日本古典文学大系・八六・二九四頁)
  13. 宮井義雄『日本浄土教の成立』(一〇五頁)は、律令仏教を義学の仏教として把え、法然、親鸞の浄土教をその反定立として見ている。
  14. 「浄土宗の大意」(『指南抄』下本・真聖全四・二一九頁)
  15. 『末法灯明記』(伝教全一・四一七頁)、尚法然は「十一箇条問答」(『指南抄』下本・真聖全四・二一五頁)に『灯明記』を引いて、「末法のなかには持戒もなく、破戒もなし、たゞ名字の比丘ばかりあり」といわれている。法然と『灯明記」については第二篇第一章第六節(一九〇頁)參照。
  16. 「大経釈」(古本『漢語灯』一・真聖全四・二六九頁)
  17. 「大経釈」(同右・二七〇頁)◇「若以貴家尊宿、為別願、一人三公生、九民百黎不可生(もし貴家尊宿をもって別願となさば、一人三公生は生ずれども九民百黎生ずべからず)」
  18. 醍醐本『法然上人伝記』三心料簡事(法然伝全・七八四頁)
  19. 「大経釈」(古本『漢語灯』一・真聖全四・二七一頁)
  20. 「大経釈」(古本『漢語灯』一・真聖全四・二六六頁)、なお「大経釈」には日付はないが、「小経釈」の奥書(古本『漢語灯』三・真聖全四・三八四頁、古典叢書本・二八頁)には「本云、文治六年二月一日、於東大寺講之畢、所請源空上人、能請重賢上人已上書本」とあり「観経釈」の奥書(古本『漢語灯』二・真聖全四・三五六頁)には「本云、文治六年戌庚二月二日、於東大寺講之畢、所請源空上人、能請重賢上人」となっていて、この三経講釈が文治六年(一一九〇)二月初に行われたことがわかる。
  21. 『選択集』「本願章」(真聖全一・九四一頁)
  22. 『大阿弥陀経』上(真聖全一・一三六頁)、『平等覚経』一(真聖全一・七七頁)、『無量寿経』上(真聖全一・七頁)
  23. 『法事讃』下(真聖全一・五九七頁)
  24. 「逆修説法」(古本『漢語灯』七・古典叢書本・一一頁)、同文が「法然聖人御説法事」(『指南抄』上本・真聖全四・五七頁)に出ている。そのほか、『法事讃』の同文は「逆修説法」(同上・四六頁)、「法然聖人御説法事」(同上・九三頁)にも引用されており、又『選択集』「多善根章」(真聖全一・九八三頁)等に引用されている。
  25. 『法事讃』上(真聖全一・五七五頁)
  26. 「逆修説法」(古本『漢語灯』七・古典叢書本・四一頁)、「法然聖人御説法事」(『指南抄』上末・真聖全四・八八頁)
  27. 『選択集』「本願章」(真聖全一・九四二頁)
  28. 『同右』(同右・九四〇頁)
  29. 『選択集』「特留章」(同右・九五五頁)
  30. 「信文類」(真聖全二・四八頁)。もっとも親鸞は、「行文類」(真聖全二・四三頁)に第十七・第十八願をさして、「選択本願之行信」といい、『如来二種回向文』(真聖全二・七三〇頁)には、第十七、第十八、第十一願をさして「これらの本誓悲願を選択本願とまふすなり」といわれている。しかし親鸞の五願開示の法相からみれば、これらは第十八願の行信因果を開いたもので、どこまでも第十八願中の三願(五願)とみられているのである。それゆえ親鸞においては選択本願はいつも第十八願の別目とみなされていたとすべきであろう。
  31. 『選択集』「付属章」(真聖全一・九八三頁)
  32. 『選択集』「本願章」(真聖全一・九四二頁)
  33. 善譲『真宗論要』(真叢二・三三四頁)、同『敬信記』六(真全三〇・三二二頁)。鮮妙『宗要論題決択篇』(真叢二・三四二頁)等參照。
  34. 僧叡『選択集義疏』末(十一丁)
  35. 『宗要論題決択篇』(真叢二・三四三頁)
  36. 『唯信抄文意』(真聖全二・六四八頁)、その他『一念多念文意』(真聖全二・六一六頁)にも同意のことが述べられている。
  37. 『宗要論題決択篇』(真叢二・三四二頁)
  38. 「行文類」標願細註(真聖全二・五頁)、「同」偈前の文(同・四三頁)、「信文類」序(同・四七頁)、「同」大信嘆釈(同・四八頁)
  39. 『尊号真像銘文』広本(真聖全二・六〇〇頁)
  40. 『真宗論要』(真叢二・三三四頁)、『敬信記』六(真聖全・三〇・三二四頁)
  41. 『選択集』「本願章」(真聖全一・九四三頁)
  42. 『選択集秘抄』二(浄全八・三七〇頁)
  43. 『選択集』「利益章」(真聖全一・九五二頁)
  44. 親鸞は『唯信鈔文意』(真聖全二・六四八頁)や『一念多念文意』(同・六一六頁)に、法蔵菩薩を、一如より垂名示形した方便法身とみられており、一般の従因至果の菩薩とは性格のちがったものとされていた。従ってその因果は非因非果の因果であって、因果不二の法門とみなされていたことは明らかである。もっとも法然にはこのような不二法門の所談はあまり見られない。
  45. 「行文類」一乗海釈(真聖全二・四一頁)、尚親鸞は、法然の名号勝徳論をうけて、「行文類」(真聖全二・五頁)に、「斯行即是摂諸善法、具諸徳本、極速円満、真如一実功徳宝海」といい、また「円融至徳嘉号」(『教行証文類』序・真聖全二・一頁)とか「万行円備嘉号」(『浄土文類聚鈔』・真聖全二・四四三頁)と尊称されている。
  46. 僧叡は『選択集義疏』末(一四丁)に行観の説を批判して「本願修成万徳、与尋常自力諸行、一口説去者何居、名号无万徳者、所云不可思議力、果何所縁」といっている。
  47. 『論註』下・讃嘆門(真聖全一・三一四頁)
  48. 『論註』上・八番問答(同右・三一〇頁)
  49. 「法然聖人御説法事」(『指南抄』上末・真聖全四・八九頁)。慈恩の『西方要決』(浄全六・六〇〇頁)、もっとも『要決』は慈恩に仮托した偽撰であろう。
  50. 「四箇条問答」(『指南抄』中末・真聖全四・一七五頁)
  51. 「四箇条問答」(同右・一七九頁)
  52. 「念仏往生要義抄」(『和語灯』二・真聖全四・五九七頁)
  53. 『往生拾因』(浄全一五・三七二頁)
  54. 『三経往生文類』広本(真聖全二・五五七頁)
  55. 『選択集』「約対章」(真聖全一・九七三頁)
  56. 『往生要集』序分(真聖全一・七二九頁)
  57. 『往生要集』下本・大文第八「念仏証拠」(同右・八八一頁)
  58. 『往生要集』中本・大文第四「正修念仏」(同右・八〇九頁)
  59. 『往生要集』下本・大文第八「念仏証拠」(同右・八八三頁)
  60. 「往生要集詮要」(古本『漢語灯』六・古典叢書本・三三頁)
  61. 『選択集』「本願章」(真聖全一・九四四頁)
  62. 醍醐本『法然上人伝記』三心料簡事(法然伝全・七八三頁)
  63. 「鎌倉の二位の禅尼に答ふる書」(『指南抄』中末・真聖全四・一六九頁)
  64. 「大経釈」(『漢語灯』一・真聖全四・二七〇頁)
  65. 『無量寿経』上(真聖全一・七頁)
  66. 『同右』(同右・一四頁)
  67. 『興福寺奏状』(岩波日本思想大系・一五・三一四頁)
  68. 「法然聖人御説法事」(『指南抄』上本・真聖全四・五七頁)。尚機教相応については「念仏大意」(『指南抄』下末・真聖全四・二二二頁)參照。
  69. 『選択集』「約対雑善章」(真聖全一・九七二頁)
  70. 親鸞は『教行証文類』「信文類」(真聖全二・九七頁)において逆、謗、闡提という難化の三機、難治の三病は、如来という名医によって本願醍醐の妙薬が与えられてはじめて治癒されるといい、「難化三機、難治三病者、憑大悲弘誓、帰利他信海 矜哀斯治、憐憫斯療、喩如醍醐妙薬 療一切病濁世庶類、穢悪群生、応求念金剛不壊真心、可執持本願醍醐妙薬也。応知」といわれたものは、法然の極悪を救う法が極善であるという発想に立った新しい機教相応論を大成されたものといえよう。
  71. 「法然聖人御説法事」(『指南抄』上末・真聖全四・一一一頁)、「逆修説法」(古本『漢語灯』八・古典叢書本・二四頁)。尚「逆修説法」のこの部分は、義山改訂の「逆修説法」(真聖全四・四七一)では説落せしめられていて、義山が『漢語灯録』を自義にあわせて改変したもようを知ることができる箇所である。
  72. 「津戸三郎へつかはす御返事」(九月二十八日付)(『拾遺語灯』中・真聖全四・七三四頁)
  73. 『教行証文類』「行文類」一乗海釈(真聖全二、三八頁)、『愚禿鈔』上(真聖全二・四五八頁)等参照。
  74. 『元亨釈書』巻二七(日仏全一〇一・三三八頁)
  75. 『大乗起信論』修行信心分(大正蔵三二・五八三頁)
  76. 「行文類」正信念仏偈(真聖全二・四六頁)、『浄土文類聚鈔』念仏正信偈(真聖全二・四五〇頁)「高僧和讃」源空讃(真聖全二・五一三頁)
  77. 『末灯鈔』第一条(真聖全二・六五八頁)
  78. 『教行証文類』後序(同右・二〇三頁)
  79. 「行文類」偈前文(同右・四二頁)
  80. 「行文類」標願細註(同右・五頁)
  81. 「行文類」(同右・三三頁)に、『選択集』の題号と標宗と三選の文とが引用されているが、その意義については第一篇第二章・第七章等に詳述した。
  82. 『三部経大意』専修寺本(真聖全四・七八四頁)。なお『同』金沢文庫本(真宗学報一七・一七頁ー二〇頁)には第十七・第十八願文が略引されており『和語灯録』一所収の「三部経釈」(真聖全四・五五三頁)には、第十八、第十七願の次第であげられているが、いずれも文意は同じである。
  83. 「行文類」光号因縁釈(真聖全二・三三頁)
  84. 「登山状」(『拾遺語灯』中・真聖全四・七二一頁)、『唯信鈔』(真聖全二・七四二頁)
  85. 「教文類」(真聖全二・二頁)
  86. 「証文類」(真聖全二・一一九頁)
  87. 『論註』下(真聖全一・三一六頁)
  88. 『論註』下・「利行満足章」(真聖全一・三四七頁)、尚この文意については、第二篇第四章第一節(三四一頁)參照。
  89. 「行文類」(真聖全二・三三頁)
  90. 『浄土文類聚鈔』(真聖全二・四四四頁)
  91. 「正像末和讃」(真聖全二・五二〇頁)
  92. 『選択集』「二行章」(真聖全一・九三七頁)、尚、回向不回向対については、第一篇第四章第四節(八一頁)參照。
  93. 「行文類」六字釈(真聖全二・二二頁)
  94. 『選択集』「利益章」(真聖全一・九五三頁)
  95. 「念仏往生要義抄」(『和語灯』二・真聖全四・五九五頁)
  96. 『三部経大意』専修寺本(真聖全四・七八二頁)、『同』金沢文庫本(真宗学報一七・八頁)、「三部経釈」(『和語灯』一・真聖全四・五五一頁)
  97. 石田充之『法然上人門下の浄土教学の研究』上(一三六頁)
  98. 信疑決判については、『本論』第二篇第三章第三節二項(二九七頁)參照。
  99. 醍醐本『法然上人伝記』三心料簡事(法然伝全・七八二頁)、これについては第二篇第三章第二節五項(二八三頁)參照。
  100. 「行文類」行一念釈(真聖全二・三五頁)、「信文類」信一念釈(真聖全二・七二頁)
  101. 『唯信抄文意』専修寺本(真聖全二・六四九頁)