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<kana>尋云(たずねていわく)</kana>、十劫正覚の<kana>謂(いわれ)</kana>を知るを往生の体と云こと<kana>如何(いかん)</kana>。 答、<kana>自元(もとより)</kana>浄土門のこゝろは、一文不知の愚鈍の下機を本として、称名の一行を本願としたまふ間、たとひ十劫のいわれを知らずというとも、信心決定ならば往生において疑いあるべからずそろ〔候〕。すでに光明大師は「衆生称念必得往生」(散善義) と釈し、法然上人は『選択集』にをいて、「南無阿弥陀仏、往生之業念仏為本」とあらわし、鸞上人は「名号を不思議と信じ、誓願を不思議と信じそろ〔候〕よりほかに異なる義なし」と、「御消息」(古写消息一意) に残しをかれ候あひだ、ゆめゆめ相伝なきともがら〔輩〕のまふ〔申〕すことを、本になさるべからずそろ〔候〕なり。
 
<kana>尋云(たずねていわく)</kana>、十劫正覚の<kana>謂(いわれ)</kana>を知るを往生の体と云こと<kana>如何(いかん)</kana>。 答、<kana>自元(もとより)</kana>浄土門のこゝろは、一文不知の愚鈍の下機を本として、称名の一行を本願としたまふ間、たとひ十劫のいわれを知らずというとも、信心決定ならば往生において疑いあるべからずそろ〔候〕。すでに光明大師は「衆生称念必得往生」(散善義) と釈し、法然上人は『選択集』にをいて、「南無阿弥陀仏、往生之業念仏為本」とあらわし、鸞上人は「名号を不思議と信じ、誓願を不思議と信じそろ〔候〕よりほかに異なる義なし」と、「御消息」(古写消息一意) に残しをかれ候あひだ、ゆめゆめ相伝なきともがら〔輩〕のまふ〔申〕すことを、本になさるべからずそろ〔候〕なり。
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第二問答
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尋云、当流の義、余流に少しも似そろはゞ、たすかるまじということいかん。答、このこと、一向学文をせざるものゝまふ〔申〕すことにてそろ〔候〕。聖道門にさえ<kana>似(に)</kana>たるところあり。いわんや、浄土一門のなかにをいて、すこしも当流は余流にに〔似〕べからずといふこと、無下にあさましき義にてそろなり。にたるところもあり、またにざるところもそろなり。
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第三問答
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尋云、極楽を願うを自力と言うこと如何。答、いわれざる義にてそろ。流祖上人の『和讃』(浄土和讃) にも、「安楽国をねがうひと 正定聚にこそ住しけれ 邪定・不定聚くにになし 本誓悲願のゆえなれば」といえり。また「弥陀初会の聖衆は 算数のをよぶことぞなき 浄土をねがわん人はみな 広大会を帰命せよ」(浄土和讃) といへり。その上、『愚禿鈔』(巻下意)に、「厭離真実・欣求真実」と二種の真実を明かして、欣求真実をば流義の安心と釈したまひそろ。ことに『唯信抄(鈔)文意』に、「願生彼国といふは、かのくにゝにむ〔生」まれんとねがへとなり」と をほせ〔仰〕られそろ〔候〕。加様の義を知らざるものゝまふ〔申〕すことにてそろ〔候〕。 
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第四問答
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尋云、至心信楽の信、衆生にすこしもあるまじといふこといかん。 答、すでに願文に機を「十方衆生」(大経巻上)とあらわして、「至心信楽 欲生我国  乃至十念」(大経巻上)と、安心・起行のすがたを誓いたまい候機に候はでは、いかがあるべく候や。たゞし衆生はこのちかひをたのみ候へども、みなもと法蔵因位の時、われら衆生に信行ともにほどこ〔施〕しあたへたまい候あひだ、他力の信・他力の行とこゝろへ候なり。かるが故に『経』(大経巻上) に「令諸衆生功徳成就」とみえて候。これ、たのむこゝろは機に候へども、功を本にゆづり候へば、他力の信にて候なり。この心を『和讃』(大経讃)に、「無碍光の利益より 威徳広大の信をえて かならず煩悩のこおりとけ すなわち菩提のみずとなる」とあらはし、また善導和尚は、「自信教人信、難中転更難、大悲伝普化、真成報仏恩」(礼讃) と釈したまい候。当流の門人、「伝」の字に心をと〔留〕めべく候。まことに本寺知識の厚恩にあらずは、いかでか生死の苦海をこへて涅槃無為の浄刹にいたらむや。報じても報じがたく謝しても謝しがたきは、仏恩・師恩にて候。
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第五問答
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尋ていわく、雑行、地獄にをつといふこといかん。答、雑行は真実報土にはむ〔生〕まれずそろ、地獄には を〔堕〕ちずそろ〔候〕。雑行、地獄にをつと言うことは、謗法罪にてそろなり。雑行も至心発願すれば、往生浄土の方便の善となりそろ。和讃を見らるべくそろ。

2022年11月14日 (月) 19:38時点における版

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第一問答

尋云(たずねていわく)、十劫正覚の(いわれ)を知るを往生の体と云こと如何(いかん)。 答、自元(もとより)浄土門のこゝろは、一文不知の愚鈍の下機を本として、称名の一行を本願としたまふ間、たとひ十劫のいわれを知らずというとも、信心決定ならば往生において疑いあるべからずそろ〔候〕。すでに光明大師は「衆生称念必得往生」(散善義) と釈し、法然上人は『選択集』にをいて、「南無阿弥陀仏、往生之業念仏為本」とあらわし、鸞上人は「名号を不思議と信じ、誓願を不思議と信じそろ〔候〕よりほかに異なる義なし」と、「御消息」(古写消息一意) に残しをかれ候あひだ、ゆめゆめ相伝なきともがら〔輩〕のまふ〔申〕すことを、本になさるべからずそろ〔候〕なり。


第二問答

尋云、当流の義、余流に少しも似そろはゞ、たすかるまじということいかん。答、このこと、一向学文をせざるものゝまふ〔申〕すことにてそろ〔候〕。聖道門にさえ()たるところあり。いわんや、浄土一門のなかにをいて、すこしも当流は余流にに〔似〕べからずといふこと、無下にあさましき義にてそろなり。にたるところもあり、またにざるところもそろなり。


第三問答

尋云、極楽を願うを自力と言うこと如何。答、いわれざる義にてそろ。流祖上人の『和讃』(浄土和讃) にも、「安楽国をねがうひと 正定聚にこそ住しけれ 邪定・不定聚くにになし 本誓悲願のゆえなれば」といえり。また「弥陀初会の聖衆は 算数のをよぶことぞなき 浄土をねがわん人はみな 広大会を帰命せよ」(浄土和讃) といへり。その上、『愚禿鈔』(巻下意)に、「厭離真実・欣求真実」と二種の真実を明かして、欣求真実をば流義の安心と釈したまひそろ。ことに『唯信抄(鈔)文意』に、「願生彼国といふは、かのくにゝにむ〔生」まれんとねがへとなり」と をほせ〔仰〕られそろ〔候〕。加様の義を知らざるものゝまふ〔申〕すことにてそろ〔候〕。


第四問答

尋云、至心信楽の信、衆生にすこしもあるまじといふこといかん。 答、すでに願文に機を「十方衆生」(大経巻上)とあらわして、「至心信楽 欲生我国 乃至十念」(大経巻上)と、安心・起行のすがたを誓いたまい候機に候はでは、いかがあるべく候や。たゞし衆生はこのちかひをたのみ候へども、みなもと法蔵因位の時、われら衆生に信行ともにほどこ〔施〕しあたへたまい候あひだ、他力の信・他力の行とこゝろへ候なり。かるが故に『経』(大経巻上) に「令諸衆生功徳成就」とみえて候。これ、たのむこゝろは機に候へども、功を本にゆづり候へば、他力の信にて候なり。この心を『和讃』(大経讃)に、「無碍光の利益より 威徳広大の信をえて かならず煩悩のこおりとけ すなわち菩提のみずとなる」とあらはし、また善導和尚は、「自信教人信、難中転更難、大悲伝普化、真成報仏恩」(礼讃) と釈したまい候。当流の門人、「伝」の字に心をと〔留〕めべく候。まことに本寺知識の厚恩にあらずは、いかでか生死の苦海をこへて涅槃無為の浄刹にいたらむや。報じても報じがたく謝しても謝しがたきは、仏恩・師恩にて候。


第五問答

尋ていわく、雑行、地獄にをつといふこといかん。答、雑行は真実報土にはむ〔生〕まれずそろ、地獄には を〔堕〕ちずそろ〔候〕。雑行、地獄にをつと言うことは、謗法罪にてそろなり。雑行も至心発願すれば、往生浄土の方便の善となりそろ。和讃を見らるべくそろ。