「竹林鈔」の版間の差分
提供: 本願力
細 (→第十三、念仏三昧為宗事) |
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23行目: | 23行目: | ||
廃一代八万教、立念仏一法也。是更に真言・止観を軽しめ、律宗・禅宗を下すに非す。法華は後五百歳遠沾妙道、真言は人寿十歳遥残修行、一乗観解三密の行法、何れも出離の要法也。律蔵は身口の七支を護る、禅宗は心地の一法を明む、皆是得脱の指南也。誰か云無其益。 | 廃一代八万教、立念仏一法也。是更に真言・止観を軽しめ、律宗・禅宗を下すに非す。法華は後五百歳遠沾妙道、真言は人寿十歳遥残修行、一乗観解三密の行法、何れも出離の要法也。律蔵は身口の七支を護る、禅宗は心地の一法を明む、皆是得脱の指南也。誰か云無其益。 | ||
− | + | 但し<kana>法雖妙(法妙なるといえども)</kana>、愚なる機には不相応。譬は<kana>盲(めしい)</kana>て灯を取、<kana>貧(まずしく)</kana>して隣の財を<kana>数(かぞふ)</kana>が如しと思知る。故に捨聖道入浄土、捨土行取念仏也。諸仏の化導に漏れ、一代の教益に叶はぬ愚痴の機を救んが為に、五劫が間思惟し、兆載永劫修行して、法蔵比丘既に阿弥陀仏と顕れ給り。<br> | |
故に此仏に帰しぬれは、初発心より仏果に至まて、万(よろず)の功徳皆名号に納て、行者の功徳となる故に、六字を即大善根とも説き、無上功徳とも云る不思議の名号也。<br> | 故に此仏に帰しぬれは、初発心より仏果に至まて、万(よろず)の功徳皆名号に納て、行者の功徳となる故に、六字を即大善根とも説き、無上功徳とも云る不思議の名号也。<br> | ||
三心既具しぬれは、行として成せすと云ことなしと釈し給り<ref>「三心既具 無行不成(三心すでに具すれば、行として成ぜざるなし)」。「散善義」で至誠心、深心、回向発願の三心を決釈される文。西山では名号を開いたものが『観経』の世・戒・行の三福であり十三観の定善だとする。これを念仏行成(念仏の行を成ず)であるという。</ref>。是を名行成名号。即世戒行の三福十三定善、乃至一代八万の教、八宗九宗の法、三世十方の諸仏の功徳まても無所残。只一念に顕るるを、云念仏行成也。<br> | 三心既具しぬれは、行として成せすと云ことなしと釈し給り<ref>「三心既具 無行不成(三心すでに具すれば、行として成ぜざるなし)」。「散善義」で至誠心、深心、回向発願の三心を決釈される文。西山では名号を開いたものが『観経』の世・戒・行の三福であり十三観の定善だとする。これを念仏行成(念仏の行を成ず)であるという。</ref>。是を名行成名号。即世戒行の三福十三定善、乃至一代八万の教、八宗九宗の法、三世十方の諸仏の功徳まても無所残。只一念に顕るるを、云念仏行成也。<br> | ||
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法然上人は以此文安心の肝心とし給り。只様もなく以称名の一行決定往生の業と信すへし。 | 法然上人は以此文安心の肝心とし給り。只様もなく以称名の一行決定往生の業と信すへし。 | ||
− | + | 又『観経』云。「光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨」と云り。是は弥陀の光明無量無辺にして、普く照十方世界、只念仏の衆生を摂取して、永く不捨事を説也。然は因位の本願に<kana>報(むくい)</kana>て、所照ぬ光に納り住して、永く不被捨我身なれは、平生より往生決定して、臨終の来迎更(さらに)疑なしと<kana>仰(あおぎ)</kana>て信ずる心を以て、得たる所の往生を退失せじと励むを、<kana>相続畢命為期(相続して畢命を期となす)</kana>の専修の行者と云也。<br> | |
− | + | 平生の念仏は未決定の業と成そと思て、<kana>為臨終(臨終の為に)</kana>励むをは、善恵上人は待幸はあぢきなしと嫌れたり。 | |
===第六、六字法門事=== | ===第六、六字法門事=== | ||
− | + | 南無阿弥陀仏の六字は、一代聖教の肝心、頓教一乗の宗極。二尊諸仏の己証、凡夫出離の秘要也。是を深位に修する時は、十地の大聖も非思議して所究。是を浅位に授ぐる時は、七歳の小児も称念して顕其証。天竺には云南無阿弥陀仏也。震旦には翻(ほんじて) 帰命無量寿覚。和国には命を無量の命を覚る人によすとも奉るとも帰へすとも読へし。<br> | |
命は是生死無常の命也。無量寿は涅槃常住の寿也。彼仏は自ら涅槃常住の無量寿法を覚り得て、尽未来際引接十方衆生人なれは、我等か生死無常の命を帰して後、極楽無為涅槃界に生して、仏と共に無量寿法を覚んと欲ふ心にて、南無阿弥陀仏と念すへき也。<br> | 命は是生死無常の命也。無量寿は涅槃常住の寿也。彼仏は自ら涅槃常住の無量寿法を覚り得て、尽未来際引接十方衆生人なれは、我等か生死無常の命を帰して後、極楽無為涅槃界に生して、仏と共に無量寿法を覚んと欲ふ心にて、南無阿弥陀仏と念すへき也。<br> | ||
如此念すれは、南無の二字は願と成り。阿弥陀仏は行と成て。願行具足して。則ち往生す。<br> | 如此念すれは、南無の二字は願と成り。阿弥陀仏は行と成て。願行具足して。則ち往生す。<br> | ||
故に大師御釈云。「言南無者。即是帰命。亦是発願迴向之義。言阿弥陀仏者。即是其行。以斯義故必得往生」と云り。文の意は。南無は帰命也。帰命の心は往生の為也。故亦是発願し迴向して往生を求る義也。如此帰すれは。阿弥陀仏無量無辺不可思議功徳の名号の力。即ち帰命の衆生の行体と成て。願行具足しつれは。一念も往生疑無しと云也。<br> | 故に大師御釈云。「言南無者。即是帰命。亦是発願迴向之義。言阿弥陀仏者。即是其行。以斯義故必得往生」と云り。文の意は。南無は帰命也。帰命の心は往生の為也。故亦是発願し迴向して往生を求る義也。如此帰すれは。阿弥陀仏無量無辺不可思議功徳の名号の力。即ち帰命の衆生の行体と成て。願行具足しつれは。一念も往生疑無しと云也。<br> | ||
− | + | 問。帰命に付て命をよせ命を奉る義は易知。命を帰へすとは何なる義ぞや。 | |
答。譬は流を源に帰さんか如し。一切衆生曠劫流転の生死無常の命は。本(もと)より是諸仏の果徳涅槃常住の無量寿也。然を仏は衆生の命は即無量寿也と覚て。帰する者あれは摂取して不捨玉は。親く近く礙り無き智願力を成就し給り。衆生は自ら迷倒して不知 願力無礙道。無量寿の外に我等か命ありと思て。徒に生し徒に死して。曠劫に流転して苦海に沈む。今釈尊の遺教に値ひ。弥陀の願意を聞時。日来の迷を捨て。仏智の覚に帰れは。命を無量寿に帰すとも云也。迷を翻して本家に帰るとも説く也。 | 答。譬は流を源に帰さんか如し。一切衆生曠劫流転の生死無常の命は。本(もと)より是諸仏の果徳涅槃常住の無量寿也。然を仏は衆生の命は即無量寿也と覚て。帰する者あれは摂取して不捨玉は。親く近く礙り無き智願力を成就し給り。衆生は自ら迷倒して不知 願力無礙道。無量寿の外に我等か命ありと思て。徒に生し徒に死して。曠劫に流転して苦海に沈む。今釈尊の遺教に値ひ。弥陀の願意を聞時。日来の迷を捨て。仏智の覚に帰れは。命を無量寿に帰すとも云也。迷を翻して本家に帰るとも説く也。 | ||
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問。衆生の命本は無量寿常住の法なれとも。流転して生死無常の命と成を。今帰命して本家に帰ると云とも。更又衆生と成て火宅に帰るへき歟。 | 問。衆生の命本は無量寿常住の法なれとも。流転して生死無常の命と成を。今帰命して本家に帰ると云とも。更又衆生と成て火宅に帰るへき歟。 | ||
− | + | 答。此疑甚誤れり。是は本家と云 本(も)との家の義を不心得故也。今本と云は。本とは覚りの命なりしが始て迷の命となれるには非す。只無始曠劫より迷る衆生命は。本より以来無量寿法也と云義也。譬は白石の中に本より銀の性あり。黄石の中には本より金の性あり。然とも黄石白石を練さる時は。金銀性不顕。練磨金銀と成つれは。更に黄石とならさるが如く。衆生の心中には本より無量寿法性ありといへとも。不修不顕。修顕し終りぬれは更有量の命とならず。故に『円覚経』に金還て礦(あらがね)と成さるか如く。諸仏還て不成衆生と云り。<br> | |
但し本より垂迹。浄土聖衆還来穢国する時。九界の形を現するは別の事也。元来未悟也。非謂前来成仏後起すと無明等也。九界とは三乗と六道と也。三乗者。菩薩・縁覚・声聞乗也。此九界に仏乗を加て云十界也<ref>云十界也(十界と云うなり)。天台の十界互具。</ref>。今帰命の寿は九界の命也。無量寿は即仏果の寿也。 | 但し本より垂迹。浄土聖衆還来穢国する時。九界の形を現するは別の事也。元来未悟也。非謂前来成仏後起すと無明等也。九界とは三乗と六道と也。三乗者。菩薩・縁覚・声聞乗也。此九界に仏乗を加て云十界也<ref>云十界也(十界と云うなり)。天台の十界互具。</ref>。今帰命の寿は九界の命也。無量寿は即仏果の寿也。 | ||
110行目: | 110行目: | ||
答。此義又不可然。三業を起せとも只是帰命の一心に住して。己か功を募(つのら)さる。是を名真念仏。<br> | 答。此義又不可然。三業を起せとも只是帰命の一心に住して。己か功を募(つのら)さる。是を名真念仏。<br> | ||
− | + | 喩は乗船後は三業を摂て船中に住すへし。不摂三業船より落て岸に不到故に。念仏の行人は三業皆他力に帰して。自力の心を不雑。一心専念三業無間とは名る也。三心の釈の中に。「身口意業所修解行。必須真実心中に作へし」と云る此意也。如此一心に帰命しつれは。行住坐臥身口意業。寝てもさめても阿弥陀仏者即是其行の願力の船に乗して。浄土無生の彼岸に無不到。此故に「一心専念弥陀名号。行住坐臥不問時節久近。念念不捨者是名正定之業」とも釈する也。 | |
問。此義実に甚深也。一心に帰命すへし。但し帰命といひ無量寿といふ。今の体は何なる法をや。 | 問。此義実に甚深也。一心に帰命すへし。但し帰命といひ無量寿といふ。今の体は何なる法をや。 | ||
118行目: | 118行目: | ||
又真言教の中には息風を命の体とする事あり。此故に帰命の法門は専ら弥陀の内証にありと談す。弥陀は五輪の中には風輪。三密の中には語密に司となりて。出入の息を其体とすと習故也。依此義今の帰命の義も。衆生の命の息本とより無量寿の体なる故に。翻迷 帰其本義あるべし。凡そ口称三昧の深義は真言宗に亘(わた)れり。三密加持の頓証は願力の功に帰す。然とも機情の領する所に難易の差別ある也。 | 又真言教の中には息風を命の体とする事あり。此故に帰命の法門は専ら弥陀の内証にありと談す。弥陀は五輪の中には風輪。三密の中には語密に司となりて。出入の息を其体とすと習故也。依此義今の帰命の義も。衆生の命の息本とより無量寿の体なる故に。翻迷 帰其本義あるべし。凡そ口称三昧の深義は真言宗に亘(わた)れり。三密加持の頓証は願力の功に帰す。然とも機情の領する所に難易の差別ある也。 | ||
− | + | 問。如此義者。出入の息風を阿弥陀の常寿に帰して。乃至臨終にも。此心改変せすは。別に雖不称名 必す可往生歟。<br> | |
答。此義勿論也。凡そ今の宗義は平生にても臨終にても。始て聞此教 一念帰信する時。即 証得往生無退失。此心常に存すれは。即ち常に称念する人也。縦(たと)ひたた念して不動舌立声。聞仏名発信心 生帰命念。皆是称名也。 | 答。此義勿論也。凡そ今の宗義は平生にても臨終にても。始て聞此教 一念帰信する時。即 証得往生無退失。此心常に存すれは。即ち常に称念する人也。縦(たと)ひたた念して不動舌立声。聞仏名発信心 生帰命念。皆是称名也。 | ||
130行目: | 130行目: | ||
本云 念仏宗愚老顕意。<br> | 本云 念仏宗愚老顕意。<br> | ||
− | 『観経』云。「諸仏如来是法界身。入一切衆生心想中」と云り。是は仏の衆生を哀み給ふ余りに。凡夫の拙き心中に入て正覚を成し給ふ也。譬は月の水に影を宿すか如し。月は遥なる空に栖(すむ) | + | 『観経』云。「諸仏如来是法界身。入一切衆生心想中」と云り。是は仏の衆生を哀み給ふ余りに。凡夫の拙き心中に入て正覚を成し給ふ也。譬は月の水に影を宿すか如し。月は遥なる空に栖(すむ)とも。此水を縁として必す影を移す。仏は十万億の西に浄土をしめて坐せとも。更に我等か胸の中を<kana>不離給(離れたまわず)</kana>。我等か受苦時は仏も悲之。受楽時は仏も悦之。依此 名号を唱る口の内の息。涅槃菩提の総体。生死煩悩の根源也。<br> |
− | + | 善導 念仏し給時。口より仏の出たまふ此謂れなるへし。彼は正行も進み。利他の功徳も功積みたまへは。色にいで形に現じ。人にも見へ給ふ。其余の人は正行も少く徳もいたらねは見へ給ことなし。然とも我等か唱る念仏の息も。同く仏体なるへし。依之 古き御詞にも。是を凡夫の口称と云んとすれは。<kana>忝(かたじけな)</kana>く万徳円満の如来の尊号也。是を如来の尊号と云んとすれは。又我等か口称に顕ると<kana>仰(おおせら)</kana>れたり。五劫思惟の仏の方便に依て。仏果六字の名号を。忝く凡夫の口業に顕し。三毒の心の内より唱る称名の息。即仏体也と宣(のたまえ)り。息と云は是我等か命也。阿弥陀仏を無量寿と申は無数の命なるへし。其の故は十方衆生の称名の息を修得して。十劫正覚の無量の長命を得給り。故に我等か称名の息と仏の御寿とは。如月影(月影の如く) 心の水に宿り給也。是を衆生同体の大悲と名く。是を機法一体の正覚と申す也。我等若し<kana>不唱名号不憑他力者(名号をとなえず他力を憑まざれば)</kana>。仏の御命を失ふに成ぬべし。若し乗他力本願の名号を唱れは。仏は正覚を成て蓮華座に坐し。凡夫は往生を遂て蓮台に坐す。五劫思惟の本願を果遂して。機法一体の悟り無残開也。 | |
===第八、三心事=== | ===第八、三心事=== | ||
− | + | 至誠心者。我等か虚仮雑毒の誠しからず心の内に。仏の真実の本願を憑み奉る心也。我等か心は縦ひ清心を発せとも。<kana>如画水(水にかくが如し)</kana>。且(しばら)くは善心発る様なれとも。煩悩の水の流に随て<kana>易流心也(流れやすき心なり)</kana>。然に仏は罪悪の機を救んと云願を発し給る故に。彼の願を憑み奉るを誠の心と名る也。 | |
− | + | 次に深心と者。仏の本願を聞きなから。堅固の信心も<kana>不発(おこらず)</kana>。本願も疑しき様に覚ゆる時は。又是ほどに不信ならん者。<kana>争(いかで)</kana>か仏も助け給へきと疑の発る也。爰に重て無信なるは凡夫の習也。仏は無信をも<kana>不捨給(捨てたまわず)</kana>と思ふ心は深心也。<ref>深心を、無信をも捨てたまわぬ深い心のあらわれの意と解すときは、既に信心の者である。</ref> | |
− | + | 次に迴向発願心と<kana>者(は)</kana>。如形一期の間た作る所の功徳は。何(いずれ)も同く往生の行と成へしと知る心也。我心に善悪の二あり。是を喩るに善は水上の油の如し。悪は水中の乳の如しと覚るへし。水の上の油はなにとかき合はすれとも。一になる事無して其姿異也。如其善心は適(たまたま)発れとも。心の底と一になる事無し。又久く続こと難し。煩悩はいささか発る様なれとも。心の底と一に成て久く相続する也。<kana>適所発善心(所にかないて善心を発す)</kana>。是を憑て往生を願はは。水上の油の如。不成一。<kana>若心無誠心(もし心に誠心無ければ)</kana>往生する事難かるへし。水中の乳の如なる悪に引れて。定て可堕三悪道。又煩悩悪業の我心に染むと。<br> | |
− | + | 仏の功徳の衆生に成するとを比れは。悪は還て水上の油の如くになり。仏の功徳は水中の乳の如くなるへし。仏は神通自在の御心なれは。慈悲智恵方便を以て。衆生の善心の中。悪心の中。三毒の心中。十悪の心底まても。<kana>聊(いささか)</kana>の<kana>隔(へだて)</kana>も無く。仏の功徳は円満し給る也。依之地獄の猛火の衆生を焼よりも。仏の光明の衆生を照す事は懇(ねんご)ろ也。仏の功徳を不知。我心に任するほとは猛火来迎すれとも。仏の本願を聞ぬれは。地獄の猛火化して清涼の風と成て。諸の天華を吹くに。華の上に化仏菩薩坐<kana>坐(すわり)</kana>て此人を来迎すと云り。<br> | |
− | + | よくよく是を可心得也。地獄の猛火は悪業の故に来迎す。化仏菩薩となるへき謂(いわれ)は無しといへとも。只今煩悩を発す心の中にも。仏の慈悲は附添て暫(しばらく)も不離(離れざるが)故に。地獄の猛火の中にも。仏の功徳は離れ給はぬはと知せんか為に。衆生に親しき姿也。<br> | |
されは煩悩発らん時には。此煩悩よりも猶(なお) 仏の功徳は懇にて。定て哀み給らんと憑み。罪の深からんに随て。弥(いよい)よ仏の功徳は深重にこそ成り給ふらんと可思也。正(まさし)き地獄の猛火たにも化して仏となるは。大願の力也。其猛火も来らざらん人の憑本願(本願を憑みて)往生せん事は。疑あるまじき事也。 | されは煩悩発らん時には。此煩悩よりも猶(なお) 仏の功徳は懇にて。定て哀み給らんと憑み。罪の深からんに随て。弥(いよい)よ仏の功徳は深重にこそ成り給ふらんと可思也。正(まさし)き地獄の猛火たにも化して仏となるは。大願の力也。其猛火も来らざらん人の憑本願(本願を憑みて)往生せん事は。疑あるまじき事也。 | ||
===第九、聖道浄土事=== | ===第九、聖道浄土事=== | ||
− | 夫離生死有二門。聖道浄土是也。聖道門の心をは。善導和尚は「依心起於勝行。門余八万四千。随縁者皆蒙解脱」と釈し給へり。心とは菩提心也。利他を先とす。衆生の苦を救ふ心也。菩提心には種種の品あり。菩提は仏果の名なれは。仏果を求る心を菩提心と云方もあり。又万法は一心より発る故に。善も悪も心の外なる物無し。色も香も中道の理に非る事なし。煩悩即菩提。生死即涅槃と悟て。真如の浄体心外に求へき菩提なしと談する教もあり。<br> | + | 夫離生死有二門。聖道浄土是也。聖道門の心をは。善導和尚は「依心起於勝行。門余八万四千。随縁者皆蒙解脱」と釈し給へり。心とは菩提心也。利他を先とす。衆生の苦を救ふ心也。菩提心には種種の品あり。菩提は仏果の名なれは。仏果を求る心を菩提心と云方もあり。又万法は一心より発る故に。善も悪も心の外なる物無し。色も香も中道の理に非る事なし。煩悩即菩提。生死即涅槃と悟て。真如の浄体心外に求へき菩提なしと談する教もあり。<ref>一色一香無非中道。『摩訶止観』の、いかなる些細な存在にも中道の真理が備わっているという天台宗の意。</ref><br> |
又浅教には出入の息を数て。静乱意 観身不浄治貪心。観心法雖区皆先心。以智恵離生死<ref>乱意を静めて、身の不浄を観じ貪心を治す。観心の法、区(べつべつ)なるといえども皆心を先とす。智恵を以つて生死を離る。</ref>。是を云聖道門也。 | 又浅教には出入の息を数て。静乱意 観身不浄治貪心。観心法雖区皆先心。以智恵離生死<ref>乱意を静めて、身の不浄を観じ貪心を治す。観心の法、区(べつべつ)なるといえども皆心を先とす。智恵を以つて生死を離る。</ref>。是を云聖道門也。 | ||
− | + | 浄土門者。「一切善悪凡夫。得生者莫不皆乗阿弥陀仏大願業力為増上縁也」と釈し給へり。垢障覆深なれは真如の浄体を顕すこと<kana>不叶(かなわず)</kana>。聖道の得益に漏たる我等は不簡善人悪人。皆名号の力にて極楽に往生する故也。往生して後ち華開る期。弥陀観音の説法を聞て。可悟聖道八万の法門。娑婆にては智恵も才覚も不可入る。唯名号の不思議を信するばかり也。<br> | |
− | + | 「根性利者皆蒙益。鈍根無智難開悟」と釈し給り。是聖道浄土の姿也。「戒品浮嚢易破。智恵船筏不全」<ref>戒品の浮嚢は破れやすく、智恵の船筏は全かからず</ref>。生死の大海を渡へき縁かけはてて。諸仏の化導に漏れ、八万の教益に<kana>不叶(かなわず)</kana> 愚痴の機を為救、五劫の間思惟し、兆載永劫修行して、法蔵比丘既(すでに)阿弥陀仏と顕れ給ふ。<br> | |
故に因位の悲願不虚。信此仏本願。初発心より仏果に至まての諸の功徳。皆な名号に納て。行者の功徳となる。故に五逆の罪人も一声に往生するを云本願念仏。是は浄土門の意也。<br> | 故に因位の悲願不虚。信此仏本願。初発心より仏果に至まての諸の功徳。皆な名号に納て。行者の功徳となる。故に五逆の罪人も一声に往生するを云本願念仏。是は浄土門の意也。<br> | ||
− | + | 『安楽集』に「得二種勝法以不排生死故不出火宅」と云り。「難受人身 仏法難値。急に可励出離一行。思之非為他」<ref>人身受け難し、仏法値い難し。急に出離の一行励むべし。これを思ふは他の為に非ず</ref>。よくよく我身の有様を量て、聖道より<kana>発菩提心可出離根(菩提心を発して出離べしの根)</kana>にや当る。浄土より信心一にて<kana>可往生機(往生すべき機)</kana>にや叶へると可思者也。根機種種なれは雖末代なりと聖道より解脱する人<kana>非可無(無くべきにも非ず)</kana>。<br> | |
− | + | 故に和尚も我所愛は即是我有縁行也。汝か所愛は即汝か有縁の行也。欲学行必依有縁法<ref>行を学せんと欲せば、かならず有縁の法によれ。</ref>釈し給り。東へ行ん人には教東。西へ行ん人には西を教べし。努力不可有偏執。発菩提心解脱すること思知難叶人は。捨聖道可入浄上(土)。望此機言難行道。陸路より行くは苦きか如し。浄土は易行道と名く。足なへたる道は船に乗て楽(たのしき)か如し。 | |
===第十、自力他力事=== | ===第十、自力他力事=== | ||
− | + | 念仏をは申しなから妄念の起るに煩(わずらい)て、心静なる時の念仏は往生の業と成り、心乱るる時の念仏は往生の業に非すと思へり。随心念仏に善悪ありと云は自力也。『往生要集』に「終日念仏閑撿其実。浄心是一二。其余皆濁乱せり。野鹿難繋。家犬自馴たり」<ref>終日に仏を念ぜんも閑かに其の実を撿せば、浄心は是れ一二、其の余は皆濁乱せり。野鹿繋ぎ難く、家犬は自から馴れたり。<br> | |
− | + | 『往生要集』中「止悪修善」p.1013に「尽日に仏を念ぜんも、閑かにその実を撿すれば、浄心はこれ一両、その余はみな濁乱せり。 野の鹿は繋ぎがたく、家の狗はおのづから馴れたり。」とある。</ref>と知とは此意也。恵心或時月夜登高楼澄心念仏し給けるに、心の難静事を知り給ぬより、頑魯<ref> 『往生要集』の序に、源信僧都が自己を指して「予がごとき頑魯のもの」といわれている。</ref>の機になりて他力を憑み、「極重悪人無他方便。唯称弥陀得生極楽」<ref> 極重の悪人他の方便無し、ただ弥陀を称えて極楽に生ずるを得。◇『往生要集』の念仏証拠門p.1098に『観経』の意を引いて「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」とある。</ref>と勧め給へり。<br> | |
− | + | 大方聖道門の勧なれは、妄念を止め散乱をも静て念仏せはやと思へとも、煩悩内に具し、悪縁外に催す。凡夫の習は<kana>就見物聞事発妄執無不散乱(物を見、聞く事に尽きても妄執を起し散乱せざるは無し)</kana>。<kana>識揚神飛観難成就我等(識あがり神飛びて観成就すること難き我ら)</kana>。乱想を静めん事 実に難るへし。静めんと思ふ心も妄念なれは、前念後念相続して無絶(絶えること無し)。<kana>縦一念発清心如画水(たとひ一念の清心を発せども水にかきたるが如し)</kana>。此故に念仏の信心立して本願不思議を疑はぬ 又は、悪業煩悩にも動かされず。<br> | |
− | 以此思知へし。妄念の起るに付てもいよ[いよ] | + | 妄念の中よりも。散乱の上よりも。口に名号を唱へ。心に名号を念し。身に名号を敬へは。三業其に南無阿弥陀仏に成て。一声に十悪の罪消て流転の障絶へ<kana>糜尼珠(まにしゅ)</kana>の澄濁。灯の闇を消か如く。名号の力にて貪嗔の濁もすみ。愚痴の闇も晴るゝ也。<kana>以譬顕日光闇(譬えば日光顕れるを以つて闇)</kana>晴る。目[日?]の力 眼を開計也。名号を唱へは罪皆消ぬ。機の能とては信する計也。<br> |
− | 無始より難離生死を離れて。今度往生の素懐を遂んと思立ほどの人は。争(いかで) | + | 以此思知へし。妄念の起るに付てもいよ[いよ]念仏の信心は立こと也。是を悪く心得て。或は<kana>畏罪者(罪をおそるる者は)</kana> <kana>疑本願(本願を疑う)</kana>也と云也。或は<kana>造罪者不可往生(造罪は往生すべからず)</kana>と云り。若は過き若は不足にして罪を恐る。凡そ罪を恐るるは<kana>非疑本願(本願を疑うに非ず)</kana>。当春日 雪の消ぬれは草の生出るか如し。摂取の光明に照されて罪消ぬれは善生する謂(いわれ)あり。故に念仏の徳として罪を恐るる心は発るへし。水は自ら冷く。火は自ら暖が如し。已造罪は五逆をも許す。是云摂取門。未造罪をば小罪をも誡る。是を名抑止門。<br> |
− | + | 無始より難離生死を離れて。今度往生の素懐を遂んと思立ほどの人は。争(いかで)か流転の業因を好み造るへきや。但 呑釣の魚は水にあること不久。魚強く糸弱き時は如不引。難有止悪修善の謂も。貪嗔具足の凡夫なれは。煩悩強くして歴縁犯すことあらは。必可随犯随懺。念念称名常懺悔せよと釈せり。<br> | |
− | + | 証空上人の御詞にも。帰命の行者の貪嗔は。水の上にふる雪の、ふるとは見へてたまらざる如しと云へり。念仏懺悔深く憑べし。凡そ念仏にさま[ざま]の功能あり。念仏すれは滅罪し。念仏すれは護念せられ。念仏すれは摂取せられ。念仏すれは往生す。是を名五増上縁利益。<br> | |
+ | 又摂取の益に預かれは。仏と衆生と一に成て。口に常に称すれば仏則聞給。身に常に礼すれは仏即見給ふ。心に常に念すれは仏即知給ふ。月独り不宿ら。必す如尋水。念仏の行者の信水の水を尋て。摂取不捨の月も宿る也。<kana>機法無隔云親縁(機法隔てなきを親縁と云ふなり)</kana>。弥陀来て入衆生三業故に。見んと願へは則応念目前に現し給を云近縁。親く近くなりぬれは。諸邪業繋不礙云増上縁。摂取の光明照しぬれは自ら備三謂也。<br> | ||
平生より業成するを云即便往生也。臨終に観音の蓮台に移るを名当得往生。一期の間護念せられ。臨終の夕には来迎し給ふ。是仏の名号の力也 当知。本誓莫忘。 | 平生より業成するを云即便往生也。臨終に観音の蓮台に移るを名当得往生。一期の間護念せられ。臨終の夕には来迎し給ふ。是仏の名号の力也 当知。本誓莫忘。 | ||
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何なる人か決定往生すへきと尋ぬるに。宗家の釈し給ふ所の機法二種の信心の立たる此人也。二種信心者。即帰命の心也。帰命せすして往生せんと思は。無目見物。無耳声を聞んと思か如し。唱なから不往生機の有様は不知法の不思議人也。<br> | 何なる人か決定往生すへきと尋ぬるに。宗家の釈し給ふ所の機法二種の信心の立たる此人也。二種信心者。即帰命の心也。帰命せすして往生せんと思は。無目見物。無耳声を聞んと思か如し。唱なから不往生機の有様は不知法の不思議人也。<br> | ||
− | 或人云。本願をは信すれとも。疑我身悪也。不捨名利。不調三業。不静妄念。不止貪心。念仏申せとも。凡夫は暫く難叶。或人云。念仏は纔(わずか) | + | 或人云。本願をは信すれとも。疑我身悪也。不捨名利。不調三業。不静妄念。不止貪心。念仏申せとも。凡夫は暫く難叶。或人云。念仏は纔(わずか)に六字なれは功徳も少かるへし。<kana>持戒修善不起悪者(持戒修善し悪を起さざる者は)</kana>。無上の念仏にて往生の業と成へしと。<br> |
− | + | 前人は疑機。後人は疑法。機を疑ふ人の為には第一の信心を勧め。法を疑ふ人の為には第二の信心を勧む。機の有様を不思知。<kana>止妄念(妄念をとどめ)</kana>貪嗔をも留むへき様に思て。兎角し煩ふ也。妄愛迷深き鈍根無智の我等は。妄念を止めんとすれとも不留。散乱を静めんと思へとも不静ら。倩(つらつ)ら機の姿を思ひとくに。更に不可有出離期。<br> | |
− | + | 釈第一信「一者決定深信。自身現是罪悪生死凡夫。曠劫已来常没常流転。無有出離之縁」と云り。<br> | |
− | + | 聖道の心は一筋に就仏法勧信。今身の有様を信せよと釈し給ふ。我身は往生難叶事を顕ん為也。《自身》者、他人の事をは且(しばら)くをく。先(まず)我身を思知れと云詞也。《現是》者。過去遠遠流転をばしらず。今生の有様 罪悪生死の凡夫の姿を思知れと云也。《罪悪》は生死因、生死は罪悪の果也。十二因縁の流転は車の輪の迴るか如して不絶事。作罪悪因。感生死果。生死の果上に又未来の生死を受へき業を造る故也。《生死》者。有為法 来必去始終也。華開れは散り。月出れは入か如し。<br> | |
− | + | 嘉祥釈云。「夫死由生来。宜畏於生。吾若不生何有死。見其初生即知終死。宜泣生。不応畏死」<ref>それ、死は生に由りて来る、よろしく生を畏るべし。吾もし生ぜずば何ぞ死あらん。其の初生を見るに即ち終に死すを知る。宜しく生を泣きて、死を畏るべからず。<br> | |
+ | 『続高僧伝』巻第十一に、釈吉蔵。俗姓安。本安息人也として「夫死由生来。宜畏於生。吾若不生何由有死。見其初生即知終死。宜応泣生 不応怖死」の文がある。</ref>。生を受る人死に帰せぬ事なし。生時も独り生し、死時も独り死す。無常念念に至て常に死王と居すと云は。司業閻王の眷属也。業に引れて独り行時。妻子も珍宝も更(さらに)随ふ者の無し。一且の名利に繋縛せられて。目前の事をのみ歓(よろこ)ひ。夢の後の昇沈を不辦事。誠に愚哉。<br> | ||
一期はほとなき仮の宿り。住はつべき所に非す。此の必滅の理を思知て。常住の棲(すみか)を求むへし。喜あらん時は極楽の快楽を思ひやり。憂あらん時は地獄の苦を悲て。折に触れ事に随て。厭無常。涅槃を願ふへき也。<br> | 一期はほとなき仮の宿り。住はつべき所に非す。此の必滅の理を思知て。常住の棲(すみか)を求むへし。喜あらん時は極楽の快楽を思ひやり。憂あらん時は地獄の苦を悲て。折に触れ事に随て。厭無常。涅槃を願ふへき也。<br> | ||
− | + | 《曠劫》者。無始の名也。生死に輪迴する事の久を顕す。《常流転》と云は。常悪道を栖(すみか)として流来生死の輪迴不絶詞也。《無有出離之縁》者。輪迴の間少き仏法結縁あれとも。皆随縁の雑善なれは。生死を離るる縁に非すと顕せり。曠劫にも未聞本願名号 出離の縁思たへたる詞也。<kana>憑機事(機を憑むこと)</kana>なく成て仏を憑む心を可発也。 | |
釈第二信心云。<br> | 釈第二信心云。<br> | ||
− | + | 「二者決定深信。彼阿弥陀仏四十八願。摂受衆生。無疑無慮。乗彼願力。定得往生」と。《彼四十八願》は第十八に極まる也。四十八願雖広。一一願言称我名号と釈して。第十八願に極まる。《摂受衆生》とは。本誓重願不虚。衆生称念すれは必す摂取し給義也。《無疑無慮》者。乃至十念。若不生者。不取正覚と誓て。法蔵既に成仏し給へり。是則南無阿弥陀仏と唱れは。必す往生すへき謂れは。極め顕し給ふ。仏と成ぞと聞は信心忽(たちまち)に起て無疑心云 無疑無疑の上に兎角思ひ乱る心無を云無慮。<br> | |
− | + | 《乗彼願力定得往生》者。煩悩に侵(おかさ)れて出離の縁なき愚痴の機を救んか為に。十念の悲願を発して。因位の修行一念も真実ならずと云ことなし。捨国城妻子。難行苦行し給し万行万善。併(あわせて)本願の名号に納りたるに依て。此仏に帰命すれは。我等に代りて修し給し仏の功徳。即我等が功徳と成て往生する意也。<br> | |
機を罪悪生死の凡夫そと信すれは無慢心。慢心ある時は不離生死也。法を乗彼願力定得往生と信すれは無卑下心。卑下ある時には不往生也。機を思知て仏を憑は、自力を捨て帰他力憑む也。機の有様も。法の不思議も、余所の事に非す。行者の自身に可思分也。<br> | 機を罪悪生死の凡夫そと信すれは無慢心。慢心ある時は不離生死也。法を乗彼願力定得往生と信すれは無卑下心。卑下ある時には不往生也。機を思知て仏を憑は、自力を捨て帰他力憑む也。機の有様も。法の不思議も、余所の事に非す。行者の自身に可思分也。<br> | ||
されは信知してと釈し給り。二種信心立ぬれは、自ら三心は具足する也。 | されは信知してと釈し給り。二種信心立ぬれは、自ら三心は具足する也。 | ||
至誠心者。以我身凡夫の三業を真実となすに非す。<br> | 至誠心者。以我身凡夫の三業を真実となすに非す。<br> | ||
− | + | 貪嗔具足の凡夫の習は。心に起妄念 好名利故。縦ひ口に宣法門。身には戒行を持(たも)てども。三業難調。外に賢善精進の相を現し。内虚仮を懐り。故に仏の本願に帰命しぬれは。転虚仮三業 成真実三業也。虚仮の三業は機の姿た。真実三業は仏の功徳也。<br> | |
深心の二種の信心の外に無至誠心体。又迴向心も第二の信心に顕るる名号を。随機説三世善。念仏に迴すれは皆往生の業と成也。<br> | 深心の二種の信心の外に無至誠心体。又迴向心も第二の信心に顕るる名号を。随機説三世善。念仏に迴すれは皆往生の業と成也。<br> | ||
− | + | 水火の二河は罪悪生死の凡夫 貪嗔を具足する姿也。三心は二種の信心に顕れ。二種の信心は帰命の一念に極る。<br> | |
− | + | 帰命と者。名号の力にて決定往生すへしと疑はぬ心也。此故に三心も詞(ことば)にて云時は三つあるに似たれとも。行者の発す時は只一心に顕る。<br> | |
− | + | 南無は第一の信心を立る機の姿。阿弥陀仏は第二の信心を勧る本願の功徳也。されは三心の名をもしらす。二種の信心の有様をも弁ざる一文不通の輩も。本願の不思議を信して名号を唱れは。願力住持する故に。機法相成必す往生する也。妄念を切る利剣。貪嗔を澄(すま)す糜尼珠はたた名号也。聖衆来迎も名号の力ならで求る事なし。 | |
==竹林鈔巻下目録== | ==竹林鈔巻下目録== | ||
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問。六字の名号は其体何物そや。 | 問。六字の名号は其体何物そや。 | ||
− | + | 答。機法生仏体にして。無二の道理を以て其体とする也。其故は南無は帰命なれは衆生也。機也。無量寿を阿弥陀仏と名るは法也。然(しかれば)衆生の機 諸仏の法に帰するを云南無也。諸仏の法を衆生の機に覚るを阿弥陀仏と号する。故に機法一体にして生仏不二也。<br> | |
− | + | 是を念仏三昧の禅門と名けき。誠 頓教一乗の極致也。 | |
問。機法一体生仏不二の道理に依らは、機をも忘れ、仏をも可亡。何そ唱此六字 他仏の浄土に生んと願するや。 | 問。機法一体生仏不二の道理に依らは、機をも忘れ、仏をも可亡。何そ唱此六字 他仏の浄土に生んと願するや。 | ||
− | + | 答。生仏一如の理は誠に雖天然、衆生は迷一如。諸仏は不二にして覚れり。故に三世の如来出世して衆生を化すと云は、顕此一実理。為救衆生迷也。然は聖道八万門は観心得道を宗として、即此不二の心地に至しむ。故に根性利者 観智明かなれは雖取悟 鈍根無智の障重は無由。爰に弥陀の智願超世の本誓は、常没至愚の衆生を哀て、此六字他力一門を開き給り。是則衆生の迷心を捨て、一向他力に帰する言語を成する故。一心称念する者は即念帰無念 即生至無生。<br> | |
− | + | ||
+ | 『五会讃』云。念即無念なれは不二門也。生即無生なれは第一義諦也と。正く此意也。然は観自身 止忘念 心励んよりは。己(おのれを)忘仏名を可念す。念仏名念即無念にして自ら可開無生念。無言を宗として証理を求んよりは、<kana>令声不絶 可称念仏名(声をして絶えざらしめん仏名を称念すべし)</kana>。称念仏名故に声即無声也 是を如義の定説とも名けたり。是則弥陀法王 自在加持力也。更不可例諸教自力観行努力。不顧自心定散自業善悪。唯一心称念可入一実道也。 | ||
問。既一心称念すと云は、猶是心を先とするに非すや。何そ諸教の観心に異なる念仏の宗義を可立耶。 | 問。既一心称念すと云は、猶是心を先とするに非すや。何そ諸教の観心に異なる念仏の宗義を可立耶。 | ||
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問。阿弥陀仏去此不遠と説き。是心作仏是心是仏とも説くは似観心法門。諸師の意多然也。今義如何。 | 問。阿弥陀仏去此不遠と説き。是心作仏是心是仏とも説くは似観心法門。諸師の意多然也。今義如何。 | ||
− | + | 答。諸師は誠に約観心雖釈、今宗義は不然。先釈去此不遠文有三義。一分斉不遠者。従是 西方過十万億仏土。不隔恒河沙世界仏土 近説けり。<br> | |
二道里雖遥者、道の里数遥也と云とも。前念に命終すれは後念即生するか故に、唯一念の隔なけれは不遠と云り。<br> | 二道里雖遥者、道の里数遥也と云とも。前念に命終すれは後念即生するか故に、唯一念の隔なけれは不遠と云り。<br> | ||
三不限命終時、平生注観すれは、心境相応して常に目前にある故に近しと云り。但し此三義は釈迦観仏三昧の分也。若し弥陀教念仏三昧の義をいはは、名体不二の仏身なれは。応声即現す。迴心正念にして生んと思ふ者、立地に即生す。<br> | 三不限命終時、平生注観すれは、心境相応して常に目前にある故に近しと云り。但し此三義は釈迦観仏三昧の分也。若し弥陀教念仏三昧の義をいはは、名体不二の仏身なれは。応声即現す。迴心正念にして生んと思ふ者、立地に即生す。<br> | ||
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或人云。今念仏三昧は但以口称非為宗。口称は凡夫の浅行也。往生には要法なれとも。成仏には不可至。成仏時には観念の意業にて悟をは可開く云り。 | 或人云。今念仏三昧は但以口称非為宗。口称は凡夫の浅行也。往生には要法なれとも。成仏には不可至。成仏時には観念の意業にて悟をは可開く云り。 | ||
− | + | 今云。此義甚不可也。諸師は観仏三昧は一法の異とて。両三昧とは不分別。今家には観仏をば名定心三昧。念仏をは名口称三昧。行相遥異也。然は観仏の定心三昧は釈迦教の意也。口称の念仏三昧は弥陀教の意也。弘願は釈迦諸仏の教位を超て。南無阿弥陀仏の口称を以て。頓教一乗の正宗要とせり。『観経』の流通分に観念相対して比校する時説云。「若念仏者当知。時[此]人是人中芬陀利華」なりと讃め給をは、専念弥陀名と釈して称念三昧と名たり。<br> | |
− | + | さて下文には「当坐道場生諸仏家」と云り。称名三昧を往生成仏の宗とするに非すや。然に称名浅しと下して観念を宗とせは、近くは和尚の釈義に違ひ、遠くは二尊の密意に背く。雖学浄土教文、還不越諸教宗義也。<br> | |
弘法大師の顕密二教を判し給ふに。一心の利刀をもて翫は顕なり。三密金剛を振ふは密也と習ふによらは。定心観恵を尊て口業の称名を賤むは。聖道宗の中に真言宗の深義をも不知人也。況や浄土弥陀別意の宗義をや。顕宗の学者。菩提成道の時は。但黙然坐禅して不起口業云り。<br> | 弘法大師の顕密二教を判し給ふに。一心の利刀をもて翫は顕なり。三密金剛を振ふは密也と習ふによらは。定心観恵を尊て口業の称名を賤むは。聖道宗の中に真言宗の深義をも不知人也。況や浄土弥陀別意の宗義をや。顕宗の学者。菩提成道の時は。但黙然坐禅して不起口業云り。<br> | ||
真言宗義は語密を為本と。口には誦真言。意には念真言。身に結印契を真言の仏とは成る也。<br> | 真言宗義は語密を為本と。口には誦真言。意には念真言。身に結印契を真言の仏とは成る也。<br> | ||
− | + | 浄土宗の心は又三業皆南無阿弥陀仏の六字の法門に住して。往生をも遂け成仏にも至る也。南無阿弥陀仏者。生死無常の命を捨て。帰涅槃常住言也。此故に捨四位命帰果仏命時き、南無阿弥陀仏の義は顕れはつべき也。口には命を無量寿の悟に帰する思をなし、身には命を無量寿の覚に帰する相を表して坐道場時き、菩薩の三業入無量寿覚位 名成仏也。<br> | |
− | + | 此三業は皆南無阿弥陀仏の六字の功徳法門也。南無阿弥陀仏の六字の法門なれは。総して口称三昧の三業と名る也。是則口称を為本 具三業法門也。例せは真言宗三密は皆語密を本とするか如し。不知此義者。口称名号を賤して。自心の観解を深しと思へり。既に弥陀智願別意に背けり。往生成仏共に遥なる安心也。抑等覚菩薩の道場に坐する時。賤仏名 称念せずといはば。釈迦成道復還て仏名を称念せしをば。此事軽相也と云へしや。<br> | |
『無量寿経』云。去来現仏仏仏相念 文<br> | 『無量寿経』云。去来現仏仏仏相念 文<br> | ||
− | 妙覚如来猶称名すと許さは。等覚の菩薩何そ以口称三昧成仏の因とせざらんや。其証文非一。『法華経』方便品。釈迦始て坐道場。三七日中に思惟し給し事を説て云。「我所得智慧。微妙最第一。衆生諸根鈍。云何而可度。尋念過去仏。所行方便力を以。我今所得道。亦応説三乗。作是思惟時。十方仏皆現。梵音慰論我。善哉釈迦文。第一之導師。得是無上法。随諸一切仏。而用方便力。舎利弗当知。我聞聖師子深浄微妙音。喜称南無仏。復作如是念。我於濁悪世。如諸仏所説。我亦随順行」<ref> | + | 妙覚如来猶称名すと許さは。等覚の菩薩何そ以口称三昧成仏の因とせざらんや。其証文非一。『法華経』方便品。釈迦始て坐道場。三七日中に思惟し給し事を説て云。「我所得智慧。微妙最第一。衆生諸根鈍。云何而可度。尋念過去仏。所行方便力を以。我今所得道。亦応説三乗。作是思惟時。十方仏皆現。梵音慰論我。善哉釈迦文。第一之導師。得是無上法。随諸一切仏。而用方便力。舎利弗当知。我聞聖師子深浄微妙音。喜称南無仏。復作如是念。我於濁悪世。如諸仏所説。我亦随順行」<ref>我が所得の智慧は、微妙にして最も第一なり。 |
衆生の諸根鈍にして{略}云何して度すべきと。 | 衆生の諸根鈍にして{略}云何して度すべきと。 | ||
尋いで過去仏の所行の方便力を以(念)て、 | 尋いで過去仏の所行の方便力を以(念)て、 | ||
246行目: | 249行目: | ||
是の思惟を作す時、十方の仏皆現じて、 | 是の思惟を作す時、十方の仏皆現じて、 | ||
梵音をもって我を慰諭したもう。 | 梵音をもって我を慰諭したもう。 | ||
− | + | 善哉釈迦文、第一の導師、是の無上の法を得たまえども、諸の一切の仏に随って方便力を用いたもう。{略} | |
− | + | 舎利弗当に知るべし、我聖師子の深浄微妙の音を聞いて、喜んで南無仏と称す。復是の如き念を作す。 | |
− | + | ||
− | + | ||
我濁悪世に於(出)いて諸仏の所説の如く、我も亦随順して行ぜんと。</ref>と云り。<br> | 我濁悪世に於(出)いて諸仏の所説の如く、我も亦随順して行ぜんと。</ref>と云り。<br> | ||
此文の心は釈迦一代の説法は南無仏と称し給し言を始として。念仏三昧の力には八万聖教を説給へりと顕すなり。然は釈迦利他の説法も。以称名念仏宗本とす。悉達の自成仏道も。必す亦た称名三昧を可為宗要。<br> | 此文の心は釈迦一代の説法は南無仏と称し給し言を始として。念仏三昧の力には八万聖教を説給へりと顕すなり。然は釈迦利他の説法も。以称名念仏宗本とす。悉達の自成仏道も。必す亦た称名三昧を可為宗要。<br> | ||
『守護国界経』云。一切義成就菩薩道場に坐して。初夜分に<br> | 『守護国界経』云。一切義成就菩薩道場に坐して。初夜分に<br> | ||
一道無為の正覚を成せし時き。油麻の諸仏の驚覚を蒙て。鼻端に唵の字を観して。後夜分に三密の成道を遂け給へりと説くも。此宗骨を以て見れは口称三昧の成道也。唵字は帰命也。南無の義と同し。一切義成就菩薩は悉達太子也。一道無為の覚は顕宗の至極也。即一心利刀也。唵字は三密金剛密宗要也。浄土宗の南無の義と同し。<br> | 一道無為の正覚を成せし時き。油麻の諸仏の驚覚を蒙て。鼻端に唵の字を観して。後夜分に三密の成道を遂け給へりと説くも。此宗骨を以て見れは口称三昧の成道也。唵字は帰命也。南無の義と同し。一切義成就菩薩は悉達太子也。一道無為の覚は顕宗の至極也。即一心利刀也。唵字は三密金剛密宗要也。浄土宗の南無の義と同し。<br> | ||
− | + | 帰命を宗とする謂れ立ぬれは。無量寿覚に成るを成仏とは知へし。さて南無阿弥陀仏の口称三昧を。頓教一乗の宗極と顕し畢ぬれは。弥陀超世の願意爰に顕れて。浄土の念仏宗は立也。此は序題門の教相。釈名門の宗義也。『五会讃』云。「念仏成仏是真宗」と云るも指此法門也。又往生と成仏と各別に執して。口称は往生の要也。成仏の宗に不及と云義は。不伝今宗 風迷情也。<br> | |
− | + | 今宗骨は往生成仏不二にして而二也。二而不二也。『法事讃』云。浄土無生亦無別。究竟解脱金剛身<ref> 浄土の無生また別なし。 究竟解脱の金剛身なり。『法事讃』p.533</ref>なりと云へり。又「序題門」にも捨此穢身即証彼法性常楽と云るは。往生は即成仏の義也。 | |
− | + | 釈名門に「既生彼国更無所畏。長時起行果極菩提」<ref> すでにかの国に生じぬれば、さらに畏るるところなし。 長時に行を起して、果、菩提を極む。「玄義分」p.305</ref>云。不二而二なる義也。往生既に成仏なる義を覚ぬれは。口称三昧の宗。往生には立して成仏には不立と云思ひはあるまじき也。よくよく可思之而已。<br> | |
− | + | 南無阿弥陀仏九品往生経云。仏説『九品往生阿弥陀三摩地集陀羅尼経』。 | |
+ | 「大菩薩声聞大衆。往詣仏所白言世尊。無量寿国在九品浄域三摩地。即是諸仏境界如来所居。三世諸仏従是成正覚。具足三明増長福恵。」<ref>大菩薩、声聞、大衆、仏の所に往詣して白して言さく、世尊、無量寿国に九品の浄域三摩地在り。即ち是れ諸仏の境界にして如来の所居なり。三世の諸仏是れより正覚を成ず。三明を具足して増長福恵なり。</ref> | ||
===第十四、一心帰命事=== | ===第十四、一心帰命事=== | ||
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今浄上門の帰命は十方衆生の生死無常の命を捨て。無量寿覚の涅槃常住の本家に帰する也。 | 今浄上門の帰命は十方衆生の生死無常の命を捨て。無量寿覚の涅槃常住の本家に帰する也。 | ||
− | + | 問。初二義は易知 帰還義は未顕。凡そ帰と云は他物を押取借請分得たらんを。本主に帰しつけん時。帰とは云へき也。然に無量寿命は自元仏命也。帰命は又衆生の各各の己か命他。仏命を押取にも非す。借請るにも非す。依何帰する謂可有耶。 | |
答。如此疑は衆生各各の迷也。翻此迷如仏覚安心するを帰命とは云也。其仏覚者。弥陀如来法蔵比丘の昔。五劫思惟して。十方衆生の生死流転の苦を愍み。涅槃常住の楽を与ん事を思惟観察して。何なる道よりか此大悲の利益を。衆生に施べきと案し給しに。十方衆生我か果徳涅槃常楽の国を願ひ。我常楽涅槃の無量寿覚に帰命して。唱名号者一人としても生せすといはは。不取正覚と誓てそ。此大願は成就し。円満すへしと案し得て。即発四十八願。正覚を唱てより既に十劫を経たまへり。倩此理を思へは。我等か命をは無量寿の涅槃た覚に収入て。無生常住の寿と知見しけるを。衆生愚迷にして不知本願深意。不解仏智普覚。各以人我執心我か命也と愛す。至今生死流転しつるは。即仏の御命を押取て我命とす迷也。依之釈尊出世して凡夫を化し給ふ。大小漸頓教門雖区。翻邪帰正を安心とせずと云ことなし。其翻邪帰正の意は翻邪三帰とて。南無仏・南無法・南無僧と唱て。出九十五種邪道 入仏道正路。如此帰すれは行者身命即諸仏の命に帰する謂あり。<br> | 答。如此疑は衆生各各の迷也。翻此迷如仏覚安心するを帰命とは云也。其仏覚者。弥陀如来法蔵比丘の昔。五劫思惟して。十方衆生の生死流転の苦を愍み。涅槃常住の楽を与ん事を思惟観察して。何なる道よりか此大悲の利益を。衆生に施べきと案し給しに。十方衆生我か果徳涅槃常楽の国を願ひ。我常楽涅槃の無量寿覚に帰命して。唱名号者一人としても生せすといはは。不取正覚と誓てそ。此大願は成就し。円満すへしと案し得て。即発四十八願。正覚を唱てより既に十劫を経たまへり。倩此理を思へは。我等か命をは無量寿の涅槃た覚に収入て。無生常住の寿と知見しけるを。衆生愚迷にして不知本願深意。不解仏智普覚。各以人我執心我か命也と愛す。至今生死流転しつるは。即仏の御命を押取て我命とす迷也。依之釈尊出世して凡夫を化し給ふ。大小漸頓教門雖区。翻邪帰正を安心とせずと云ことなし。其翻邪帰正の意は翻邪三帰とて。南無仏・南無法・南無僧と唱て。出九十五種邪道 入仏道正路。如此帰すれは行者身命即諸仏の命に帰する謂あり。<br> | ||
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其正行の帰命は仏の命を分て得たるを。又仏に奉帰也。其故は三業六根・色身命根。悉く捨て仏に帰し畢ぬれは。更に無衆生身命。只仏身命也。是云正因帰命。然又衆生と仏と分て因果位不乱。譬は父母の精血を分得て子孫の身体とするか如く。仏の御命をは分得て行者命とする故に。三業の功徳皆仏の功徳なれ。<br> | 其正行の帰命は仏の命を分て得たるを。又仏に奉帰也。其故は三業六根・色身命根。悉く捨て仏に帰し畢ぬれは。更に無衆生身命。只仏身命也。是云正因帰命。然又衆生と仏と分て因果位不乱。譬は父母の精血を分得て子孫の身体とするか如く。仏の御命をは分得て行者命とする故に。三業の功徳皆仏の功徳なれ。<br> | ||
然とも又行者の三業仏の三業。彼此相分たる位に非す。不二而二也。是を真の仏子と名く。知此理故我三業を守護し。行住坐臥に不捨帰命念。畢命を期とするは仏御命を分得たる命なれは。念念に力に帰し奉る。誠の心を至して仏恩を報謝する也。譬へは人の子の孝養の道を行は。身体髪膚を父母に受て破ざるを孝の初とする如く。念仏の行者も我身命は仏の身命なれは。三業緊くして敢て不懈孝の始とすべき也。<br> | 然とも又行者の三業仏の三業。彼此相分たる位に非す。不二而二也。是を真の仏子と名く。知此理故我三業を守護し。行住坐臥に不捨帰命念。畢命を期とするは仏御命を分得たる命なれは。念念に力に帰し奉る。誠の心を至して仏恩を報謝する也。譬へは人の子の孝養の道を行は。身体髪膚を父母に受て破ざるを孝の初とする如く。念仏の行者も我身命は仏の身命なれは。三業緊くして敢て不懈孝の始とすべき也。<br> | ||
− | + | 又人の子の身を立 名を挙け。親の徳を顕すは孝の終なるか如く。念仏の行者も真仏子と成ぬれは。念念相続し。畢命を期として臨終不乱也。されは信心一度発る正因成就の位に。我か命 仏の命に帰命して。越生死昇涅槃。即便往生の因証也。已に此証を得ん人は。<kana>上(か)</kana>み仏恩を報し。下衆生を可導也。臨終の正念は只衆生の為也と思ふへし。自身往生は一念に達する故也。 | |
− | + | 問。今の帰命は十劫正覚の弥陀の涅槃に帰すと聞へたり。聖道門の自心の本源に帰すと云るは。本覚の理に帰する歟。然は二門の義 <kana>終(つ)</kana>ゐに各別也と可定歟。如何。 | |
− | + | 答。今無量寿の本家に帰る外に。実には更に本覚の本家も無き也。其故は法蔵比丘五劫思惟の智慧深く徹性海底生死涅槃一道無礙なる謂を通達して。衆生一念帰命の位に。即無上大利を得て。我所住涅槃常楽に帰せん事。不可有滞と覚極めて所発仏智の願と名る故に。此正覚智海の外に更に不可論真如性海。始覚本覚不二の覚を。十劫正覚の弥陀と知へし。故に「一到弥陀安養国。元来是我法王家」<ref>一たび弥陀の安養国に到りぬれば、もとよりこれわが法王の家なり。『般舟讃』p.741</ref>と云り。<br> | |
但し聖道門は依心の道なる故に。自ら本家に帰すと習。浄土門は乗願の故に念仏証法性常楽也。 | 但し聖道門は依心の道なる故に。自ら本家に帰すと習。浄土門は乗願の故に念仏証法性常楽也。 | ||
− | + | 問。爾は聖道の行者は自ら発始覚智 直入本覚理。浄土門は帰弥陀始覚転して証本覚理歟。爾は聖道は頓教也。浄土は漸教也と可云歟。如何。 | |
− | + | 答。聖道の宗義より来し判ぜは爾也と可云。浄土の宗義は全不然。彼聖道の学人の自ら帰本覚と思は自力の執也。望仏知見以仏力帰する也。故に華厳 大品には菩薩の万行は不離念仏の心と明し。法華 真言には仏所護念神変加持と説けり。『智論』には若仏不念善根即滅と定たり。凡そ仏力を離て本家に帰る道無し。此義を如実明めて。捨自力帰他方念仏して帰本家。浄土真宗<ref>西山派に於いても宗名を指す語として、真宗や浄土真宗という語を使っていたことに留意。</ref>の正義とせり。彼聖道の機情を見れは。自ら本家に帰すと思るは。猶是我法の執なるか故に非真実正念。真実の正念に非れは成仏の直道にも非す。故に自ら頓教と執すれとも還て漸門に落つ。是は機情の科也。彼れ若し解仏密意如説修行せは。如法華説即往安楽して一乗の覚を可開也。是を法華の召美とす。<br> | |
又是華厳真言の正意也。普賢の十願極楽に帰るは華厳の極意也。諸仏の正覚弥陀に帰るは真言の密義也。能く諸教に明ならん人は不可疑此義故に観念門には諸教頓教文義歴然。<br> | 又是華厳真言の正意也。普賢の十願極楽に帰るは華厳の極意也。諸仏の正覚弥陀に帰るは真言の密義也。能く諸教に明ならん人は不可疑此義故に観念門には諸教頓教文義歴然。<br> | ||
爾有人公然不信。何由有と云り。是を答るには自性悪人は不信。自性善人は不疑と答給へり。諸の善より[男]子・善女人。若し悪性の名を離んと思はば可信此義也。 | 爾有人公然不信。何由有と云り。是を答るには自性悪人は不信。自性善人は不疑と答給へり。諸の善より[男]子・善女人。若し悪性の名を離んと思はば可信此義也。 | ||
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弘法大師『大日経』開題に。顕密の諸経如是我聞の上に曩謨の二字あり。翻訳の人略之。此帰命の二字は無量寿仏に帰する也と釈し給へり。然を此帰命の詞は能説の仏の自唱の言也とも釈し。結集の人の置る言也とも釈す。結集人と者。顕教は阿難。密教は金剛薩埵。『大日経』は即薩埵の結集也。金剛薩埵の弥陀に帰すらん事は其理可然。大日の帰命阿弥陀云事は似難思。其故は真言宗の意は以大日為諸仏本。四方四仏は大日の伴也。中台の大日還て西方の弥陀に帰すらん事。逆なるに似たり。然を大師已に『大日経』の教主帰弥陀曩謨と唱と許し給へり。依之深く習ふ事有りと 云云 | 弘法大師『大日経』開題に。顕密の諸経如是我聞の上に曩謨の二字あり。翻訳の人略之。此帰命の二字は無量寿仏に帰する也と釈し給へり。然を此帰命の詞は能説の仏の自唱の言也とも釈し。結集の人の置る言也とも釈す。結集人と者。顕教は阿難。密教は金剛薩埵。『大日経』は即薩埵の結集也。金剛薩埵の弥陀に帰すらん事は其理可然。大日の帰命阿弥陀云事は似難思。其故は真言宗の意は以大日為諸仏本。四方四仏は大日の伴也。中台の大日還て西方の弥陀に帰すらん事。逆なるに似たり。然を大師已に『大日経』の教主帰弥陀曩謨と唱と許し給へり。依之深く習ふ事有りと 云云 | ||
− | + | 取要是をいはは。凡そ五仏三十七尊正覚を成する経は無不帰弥陀。『大日経』の疏にも仏仏道同更無異路と釈して。阿弥陀の位に不帰して成仏する仏なしと定たり。故に大日如来の自覚正智も弥陀に帰して成す。覚他の諸仏も弥陀の転法輪智より成す。故に両部の真言金剛界には唵の字を始とし。胎蔵界には嚢謨<ref>嚢謨(のうも)。南無の音写語か?</ref>の詞を始とす。皆是帰命也。所謂無量寿に帰する趣也。依之八万四千の法門は皆弥陀三昧法曼荼羅身と習へり。真言宗の習事は諸仏を弥陀に帰して。三密の中に語密を宗とするも。浄土宗義に親き謂也。<br> | |
− | + | 凡そ此事を案するに。夫大日弥陀果海一味也。光明遍照智徳何そ異らん。然に五方の仏位を以て五智を配するか故に。以法界体性智 名普門大日以妙観察智 号無量寿仏。如此智智互融し。如此仏は仏仏同体也。以是『無量寿経』の中に又五智の名を列ねたり。仏智・不思議智・不可称智・[大乗広智・]無等無倫最上勝智と。是則仏地の五方大日の五智也。宜哉。彼如来の名を称する事。彼如来の光明智相の如く。彼名義の如に如実に修行し相応する者。生彼安楽国到蓮華蔵世界。以名異執二界処別耶。何況や性浄円明内証三点。即十地の菩薩といへとも猶非其境界。<br> | |
爾時如来往昔大悲願故住於加持世界示現悲生曼荼羅。是又妙観察智秘妙方便力。五智願行を開て十方を摂取するに非すや。故今弥陀の願海に帰して欲浴大日智水甘露灌頂。摂取作仏。仏仏道同無異路故也。<br> | 爾時如来往昔大悲願故住於加持世界示現悲生曼荼羅。是又妙観察智秘妙方便力。五智願行を開て十方を摂取するに非すや。故今弥陀の願海に帰して欲浴大日智水甘露灌頂。摂取作仏。仏仏道同無異路故也。<br> | ||
天台止観にも但専弥陀為法門主と釈す。況や浄土宗今の解釈。尽十方の三宝は皆無量寿の所開也と不顕耶。然に或学者尽十方の詞に迷て。通して帰諸仏と思る。愚痴の至り也。<br> | 天台止観にも但専弥陀為法門主と釈す。況や浄土宗今の解釈。尽十方の三宝は皆無量寿の所開也と不顕耶。然に或学者尽十方の詞に迷て。通して帰諸仏と思る。愚痴の至り也。<br> | ||
天親の論には尽十方無礙光如来と云り。諸仏皆弥陀なれは。帰無礙光如来一仏讃嘆せるを。今の文は弥陀即ち諸仏也と開き出して。弥陀の功徳十方に遍する義を顕す也。<br> | 天親の論には尽十方無礙光如来と云り。諸仏皆弥陀なれは。帰無礙光如来一仏讃嘆せるを。今の文は弥陀即ち諸仏也と開き出して。弥陀の功徳十方に遍する義を顕す也。<br> | ||
− | + | 『大経』云。「廿露灌頂衆妙法声」<ref>甘露灌頂、もろもろの妙法の声</ref>。善導釈云。「無辺菩薩弥陀心水浴身頂」<ref>無辺の菩薩同学となる。弥陀の心水身頂に沐す。◇礼讃p.705には「無辺菩薩為同学 性海如来尽是師 弥陀心水沐身頂 観音勢至与衣被(無辺の菩薩同学となる。性海の如来ことごとくこれ師なり。弥陀の心水身頂に沐す。観音・勢至、衣を与へて被す。)と、ある。</ref> 文 | |
+ | |||
===第十五、十劫正覚事=== | ===第十五、十劫正覚事=== | ||
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他力真実の頓教一乗浄土宗の前には。自力難行の随宜の教益をは方便也と可云事勿論也 云云 | 他力真実の頓教一乗浄土宗の前には。自力難行の随宜の教益をは方便也と可云事勿論也 云云 | ||
− | + | 写本云 | |
此書者竹林寺道教上人御作也。真宗最要也。不可外見者也。<br> | 此書者竹林寺道教上人御作也。真宗最要也。不可外見者也。<br> |
2014年8月2日 (土) 19:15時点における版
目次
竹林鈔
竹林鈔巻上目録
第一、廃立行成事
第二、観仏念仏事
第三、念仏王三昧事
第四、即便当得事
第五、領解後帰平信事
第六、六字法門事
第七、機法一体事
第八、三心事
第九、聖道浄土事
第十、自力他力事
第十一、二種信心事
竹林鈔上 私云、此書一本題「山叢林」
第一、廃立行成事
聖道の外に立浄土時は、廃立を本とす。
廃一代八万教、立念仏一法也。是更に真言・止観を軽しめ、律宗・禅宗を下すに非す。法華は後五百歳遠沾妙道、真言は人寿十歳遥残修行、一乗観解三密の行法、何れも出離の要法也。律蔵は身口の七支を護る、禅宗は心地の一法を明む、皆是得脱の指南也。誰か云無其益。
但し
故に此仏に帰しぬれは、初発心より仏果に至まて、万(よろず)の功徳皆名号に納て、行者の功徳となる故に、六字を即大善根とも説き、無上功徳とも云る不思議の名号也。
三心既具しぬれは、行として成せすと云ことなしと釈し給り[1]。是を名行成名号。即世戒行の三福十三定善、乃至一代八万の教、八宗九宗の法、三世十方の諸仏の功徳まても無所残。只一念に顕るるを、云念仏行成也。
八万の法と名号と各別に思ふは、凡夫の機情に留る随縁の法也。如来教法元無二の体六字顕るを、名本願不思議名号。
譬月を見る人の明石の浦を翫ふ時は、須磨の月をも更科姨捨山の月をも捨る也[2]。さてよくよく明石の月を見れは、明石を照す月は総して須磨をも照し、何(いず)くをも照す也。
法界を照す月なれども、明石の浦にて見る人は、猶明石の月と云か如し。名号即八万法蔵なれとも、浄土宗よりは何れも行体をは南無阿弥陀仏と取る也。
平信と云は、只月の面白きはかりを知て、須磨とも明石とも別(わか)ぬか如く、本願虚しからねは、必す往生すとはかり深憑(たのみ)て、一念も疑なく領解しつれは、平信[3]に帰る也。行成の功徳を顕すは、能能念仏の信心を瑩(みが)かん為なり。
第二、観仏念仏事
観仏三昧者釈迦教、念仏三昧者弥陀教也。[4]
極楽世界の依正二報種種の荘厳を観察思惟し、乃至穢土の苦を厭ひ、浄土の楽を欣ひ、機法の差別を
又名号は諸法の本源なるか故に、一心即名号也。一心是名号なれは、諸法又名号也。如此思惟する皆是観仏の所摂也。凡(おほよそ)観仏者、先(まず)定機の行体也といへとも、義は広く通散機憶念也。
次念仏三昧者、南無阿弥陀仏是也。不観相貎 専称名号と判し給り。不顧煩悩、不観相貎、三業倶に名号になるを、云念仏三昧也。観仏の時も非無念仏体、帰命の上の観仏なる故。念仏の時も非無観仏義。諸法含蔵する故に。
一代を六字につつむるは、弥陀教、念仏三昧の体也。六字を一代と説くは、釈迦教 観仏三昧の義也。而念仏観仏は非始終各別法、只是開合の不同也。
義理を一心に摂を名念仏。観仏は意業を本とし、念仏は口称を本とす。而を依心起行、釈迦一代の化儀、聖道門の通宗也。
帰行捨心[5]、直弥陀別意の弘願、浄土門の所詮也。
故に和尚[6]観仏三昧を立給は此意也。三業倶に南無阿弥陀仏に成て、機法一体になるを、念仏三昧といふ。されは念仏三昧功能超絶と釈せり。
第三、念仏王三昧事
道綽禅師 引『観仏三昧経』、念仏三昧は一切の三昧の王也と釈し給へり。是仏果無上の功徳なるか故に、諸仏も不可思議也と讃め給ふ。仏果には闕減なけれは、念仏三昧の中に一切諸法皆納る。故に和尚は「恒沙三昧自然彰」[7]と釈し給り。具縛の凡夫不断一毫惑、帰本願直証得仏果三昧。同仏心故。
曇鸞『註論』には、仏の功徳如実なるか故に、修行の者又如実の功徳を得と釈し給り。是則他力本願の加する所也。以凡夫自力 非可成。今浄土の機の前には、雖以心修行一切三昧、遂不取心。名号帰入する故に。念仏三昧は一切の三味の王たり、主たり。不可以言宣(言宣を以つてすべからず)。故云無称光也。
不可以心量(心量を以つてすべからず)。故名難思光也。
第四、即便当得事
即便往生者[8]
、一たひ他力の信心発りぬれは、凡夫の三業は則ち仏の三業と不相離故、忽成往生業、永不招輪回果。是を経には説「発三種心即便往生」。和尚は「回心念念生安楽」と釈し給り。本願は帰命して南無阿弥陀仏と称念すれは、毎念見仏し。毎称往生す。又恵心の僧都は四大毒蛇は仮りに穢土留り、九識心王は先ちて極楽に生すと宣給り。凡法蔵比丘の昔し修菩薩行時、立超世大願、「十方衆生称我名号、下至十声、若不生者不取正覚」と誓給。本願不虚已成仏し給り。是故十方衆生一人も弥陀の正覚に納めすと云ことなし。以是 法照禅師は「六道三途皆摂取 蓮華会裏著真名」と釈し給り。衆生は仏の正覚を成する種也。
衆生若不生者、顕不可果遂故、仏は衆生の往生を成する体也。仏若し正覚なり給はすは、衆生更に不可有出離縁。然れは弥陀と我等と二にして而も一体也。故に鸞師は「浄土仮名人穢土仮名人、不得決定一 不得決定異」釈し給り。十劫正覚の昔より、十方衆生の上に此理を成せるを、垢障覆深の我等は不信知。猶徒(いたずらに)流転の凡夫たりき。今たまたま遇知識 本願の名号を持ち、信心の一念に即ち往生の義顕るる也。
是を和尚は「帰去来魔境不可停」と釈し給り。又「努力翻迷還本家」とも定判し給り。是は即便往生の義也。
次当得往生者、平生の証得雖無尽、機は猶煩悩具足の凡夫也。故に常に貪瞋等の惑障に犯さる。此故念念相続して、期臨終来迎也。此穢身果報尽て、観音の蓮台に託し、報仏の浄土に生しぬれは、一切の悪業は一としても起ること無し。即便当得は如影副形無相離。若即便往生益を得つれは、当得往生の義あるへし。若当得往生の果を成せは、自ら即便往生の因を成する也。即便は法を面(おもて)として摂機。当得は機を面として摂法。
又是即便当得と云は、念仏行者の平生臨終利益の姿也。必しも此謂を領解して往生するには非す。故に平信の者は此等義一も知らされとも、帰本願 名号を称すれは、即便当得の能自ら納れる也。摂取の益に預りぬれは、仏方よりは既往生し、機の方よりは雖未、往生無一念疑故。因中説果 云即便当得也。曼陀羅の墨染は此人の影也。法然上人の御詞に券契を得れは、金銀に煩を事なし、雖爾正く金銀を不取程は猶本との貧人也。券契をうれは必す財を得へき故に福人と云るる也。已雖得即便往生、猶本との凡夫也。往生既に極る故に浄土の人と云るる也。
第五、領解後帰平信事
領解者、念仏の功徳を一分機の上に心得也。然を世人多名号をば浅く思て、領解を所詮とす、是大なる誤也。名号は仏果の功徳也。以凡夫心 非可知極法。法照禅師は念仏三昧は是実に無上深妙禅門也と釈し給り。又念仏三昧は中道実相の止観相応と判し給り。教外別伝も不可遠思。名号即無上の禅門なるか故に。
円頓の教法も不可外求、名号即中道止観なるか故。然我等は見性悟道不曽置心、何して深く妙なる名号を以迷心得量、名字観行猶無叶。争か中道実相の名号を以妄情可分別、不如捨思量一心南無阿弥陀仏と称せんには。
永観の『往生十因』云。千手観音説円満総持、本師弥陀を念せよと教へ、普賢大士現行禅師道場、同く弥陀を称せよと勧め給り。故知ぬ、弥陀の名号の殆と大陀羅尼の徳にも過き、又法華三昧の行にも勝れたりと云ことを。故に恒沙の諸仏も不可思議と説て、功徳の際限を不顕於竹林寺作之 念仏往生の安心は只可任経釈文 不可信人詞。
然を若し有衆生願生彼国者は、発三種心即便往生す。何等をか三とする。一には至誠心、二には深心、三には迴向発願心なり。此三心を具すれは、必す往生することを得と云り。就此三心 様様異義あれとも、和尚の御釈には、一心に信楽して往生を求願するを其義とせり。即是本願の至心信楽欲生我国の意なり。至心を名一心、則至誠心の義也。一心本願の名号に帰する心を誠の心と名る也。
信楽は深心也、深く信する心を体とす。欲生我国を迴向発願心と名く。帰名号 信心決定しぬれは、一切の万善は皆願力に引れて浄土の因行となる、是を迴向発願心と名る也。然は三心の法体は只専ら念仏する心なり。為顕此義 引本願文。所所釈には、至心信楽欲生我国をは、直に称我名号と引て、乃至十念をば、下至十声と引けり。故雖一文不知俗人、只仏の願力を憑て、六字の名号を唱ること他事なけれは、自ら三心具足の念仏者なるへし。即『観経』の下品下生の罪人、臨終に知識に値て、心に名号を念すること不能、只随知識勧 十声六字を唱れは、名号の力にて滅五逆罪、預金蓮華来迎得往生。『礼讃』に本願の意を宣て云。
「若我成仏十方衆生、称我名号下至十声、若不生者不取正覚、彼仏今現在世成仏、衆生称念必得往生」と云り。
法然上人は以此文安心の肝心とし給り。只様もなく以称名の一行決定往生の業と信すへし。
又『観経』云。「光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨」と云り。是は弥陀の光明無量無辺にして、普く照十方世界、只念仏の衆生を摂取して、永く不捨事を説也。然は因位の本願に
平生の念仏は未決定の業と成そと思て、
第六、六字法門事
南無阿弥陀仏の六字は、一代聖教の肝心、頓教一乗の宗極。二尊諸仏の己証、凡夫出離の秘要也。是を深位に修する時は、十地の大聖も非思議して所究。是を浅位に授ぐる時は、七歳の小児も称念して顕其証。天竺には云南無阿弥陀仏也。震旦には翻(ほんじて) 帰命無量寿覚。和国には命を無量の命を覚る人によすとも奉るとも帰へすとも読へし。
命は是生死無常の命也。無量寿は涅槃常住の寿也。彼仏は自ら涅槃常住の無量寿法を覚り得て、尽未来際引接十方衆生人なれは、我等か生死無常の命を帰して後、極楽無為涅槃界に生して、仏と共に無量寿法を覚んと欲ふ心にて、南無阿弥陀仏と念すへき也。
如此念すれは、南無の二字は願と成り。阿弥陀仏は行と成て。願行具足して。則ち往生す。
故に大師御釈云。「言南無者。即是帰命。亦是発願迴向之義。言阿弥陀仏者。即是其行。以斯義故必得往生」と云り。文の意は。南無は帰命也。帰命の心は往生の為也。故亦是発願し迴向して往生を求る義也。如此帰すれは。阿弥陀仏無量無辺不可思議功徳の名号の力。即ち帰命の衆生の行体と成て。願行具足しつれは。一念も往生疑無しと云也。
問。帰命に付て命をよせ命を奉る義は易知。命を帰へすとは何なる義ぞや。
答。譬は流を源に帰さんか如し。一切衆生曠劫流転の生死無常の命は。本(もと)より是諸仏の果徳涅槃常住の無量寿也。然を仏は衆生の命は即無量寿也と覚て。帰する者あれは摂取して不捨玉は。親く近く礙り無き智願力を成就し給り。衆生は自ら迷倒して不知 願力無礙道。無量寿の外に我等か命ありと思て。徒に生し徒に死して。曠劫に流転して苦海に沈む。今釈尊の遺教に値ひ。弥陀の願意を聞時。日来の迷を捨て。仏智の覚に帰れは。命を無量寿に帰すとも云也。迷を翻して本家に帰るとも説く也。
問。衆生の命本は無量寿常住の法なれとも。流転して生死無常の命と成を。今帰命して本家に帰ると云とも。更又衆生と成て火宅に帰るへき歟。
答。此疑甚誤れり。是は本家と云 本(も)との家の義を不心得故也。今本と云は。本とは覚りの命なりしが始て迷の命となれるには非す。只無始曠劫より迷る衆生命は。本より以来無量寿法也と云義也。譬は白石の中に本より銀の性あり。黄石の中には本より金の性あり。然とも黄石白石を練さる時は。金銀性不顕。練磨金銀と成つれは。更に黄石とならさるが如く。衆生の心中には本より無量寿法性ありといへとも。不修不顕。修顕し終りぬれは更有量の命とならず。故に『円覚経』に金還て礦(あらがね)と成さるか如く。諸仏還て不成衆生と云り。
但し本より垂迹。浄土聖衆還来穢国する時。九界の形を現するは別の事也。元来未悟也。非謂前来成仏後起すと無明等也。九界とは三乗と六道と也。三乗者。菩薩・縁覚・声聞乗也。此九界に仏乗を加て云十界也[9]。今帰命の寿は九界の命也。無量寿は即仏果の寿也。
問。今の迷を翻して本家に還る義と。聖道門の中に始覚帰て本覚に同すと云へる義と何の差別かありや。
答。始覚本覚の覚体は一なれとも。修行の用心に自力他力の不同あり。彼は自心の迷を翻して自心の覚に帰る。是は自力の迷を翻して他力の覚りに帰へる也。自心の迷を翻して自心の覚りに帰らんとすれは。迷は強く覚は弱くして。其行成じ難けれは。名難行道 自力の迷を翻して他力の覚に帰る時は。覚強く迷弱くして。其行成し易けれは。名易行道。故聖道門には漸頓二教あれとも。自力難行の故に皆是漸教也。浄土門の頓は頓か中の頓也。他力易行にして速に成する故也。
是則聖道門は観心得道を宗とし。浄土門は念仏往生を宗とする故此差別あるなり。
問。聖道門の中にも念仏三昧の門あり。何そ偏に観心得道を宗として。自力難行の道也と定むるや。
答。諸経の中に所説の念仏と。今の宗の念仏と法体は一つ也。仏意は隔(へだて)なけれとも。依機情不同 二門遥異也。彼は衆生覚仏時。仏応衆生故に念仏すれとも。是自力也。難行也。
此は仏覚衆生時。衆生帰仏故に。此念仏は正く他力也。易行也。
然今有浄土門行人。雖学念仏用心多く自力に帰して。一心帰命の輩少なし。是則不信阿弥陀仏即是其行義故也。
問。然らは何をか阿弥陀仏即是其行の義と知へきや。
答。世人の思るは阿弥陀仏と唱るは。即是口業の行なれは。即是其行と釈すと思へり。此義甚た不然。口称すれは口業の行也といはば。六字皆行也。何そ南無は是願也。阿弥陀仏は行也と可云や。
又口称の故に行也といはば。聞名往生の者は無行而生すと云へき歟。故に今の義は只就六字法門。願となり行となる功徳ありと心得也。其故は南無の二字の中には成願義 阿弥陀仏の名号には成就行功徳。一声称念すれは。一願一行具足し。十声称念すれは。十願十行具足し。乃至百千万億無量の願行を具足し。成就して決定往生の正業也と釈する也。
是則命を阿弥陀仏帰するは願生の心也。此願既に仏に帰すれは。阿弥陀仏の無量無辺の功徳本願力の故に。帰命の願を扶持して摂取して不捨。仏の功徳即ち往生の行体となるを。即是其行と云り。「序題門」中に。「一切善悪凡夫。得生者莫不皆乗阿弥陀仏 大願業力為増上縁也」と云り。一切善悪凡夫は能帰の機也。莫不皆乗と云は。即帰命の機の義なり。阿弥陀仏大願業力とは。即是其行体也。『婆娑論』には是を水路の乗船に譬へたり。船は願力所成の名号の功徳に譬ふ。乗するは帰命願生の心に喩ふ。若しかちより行く時は。自力の足を力として歩み行か如く。聖道自力の行は機の三業を其体として仏道に入らんとす。
今の他力易行の道は不然。以信仏因縁 帰命し発願すれは。所帰の仏の大願業力所成の無量無辺不可思議功徳の名号。行者の三業に代て浄土に往く力となる事。船に乗すれは歩行に勝たるが如し。然に念仏行者還て己か三業を励すを其行と思るは。船乗する者の目足を運て進んとせんか如し。豈に謬るに非すや。
問。然らは念仏の行人は僅に帰命の願を発すばかりにて。三業の行をは不可修歟。
答。此義又不可然。三業を起せとも只是帰命の一心に住して。己か功を募(つのら)さる。是を名真念仏。
喩は乗船後は三業を摂て船中に住すへし。不摂三業船より落て岸に不到故に。念仏の行人は三業皆他力に帰して。自力の心を不雑。一心専念三業無間とは名る也。三心の釈の中に。「身口意業所修解行。必須真実心中に作へし」と云る此意也。如此一心に帰命しつれは。行住坐臥身口意業。寝てもさめても阿弥陀仏者即是其行の願力の船に乗して。浄土無生の彼岸に無不到。此故に「一心専念弥陀名号。行住坐臥不問時節久近。念念不捨者是名正定之業」とも釈する也。
問。此義実に甚深也。一心に帰命すへし。但し帰命といひ無量寿といふ。今の体は何なる法をや。
答。帰命の命は有為無常の法也。別に無其実体。
只色心連持相続する所を。仮りに命根と名けたり。故命を仏に帰する時き。色心三業悉く帰する也。無量寿の命は無為常住の法也。無為法性は即是無為の法也。故に帰命して浄土に生する時は。即無為法性の身と成て。無量寿の法を覚る也。捨此穢身 彼法性常楽を証すへしと勧るも此意也。
又真言教の中には息風を命の体とする事あり。此故に帰命の法門は専ら弥陀の内証にありと談す。弥陀は五輪の中には風輪。三密の中には語密に司となりて。出入の息を其体とすと習故也。依此義今の帰命の義も。衆生の命の息本とより無量寿の体なる故に。翻迷 帰其本義あるべし。凡そ口称三昧の深義は真言宗に亘(わた)れり。三密加持の頓証は願力の功に帰す。然とも機情の領する所に難易の差別ある也。
問。如此義者。出入の息風を阿弥陀の常寿に帰して。乃至臨終にも。此心改変せすは。別に雖不称名 必す可往生歟。
答。此義勿論也。凡そ今の宗義は平生にても臨終にても。始て聞此教 一念帰信する時。即 証得往生無退失。此心常に存すれは。即ち常に称念する人也。縦(たと)ひたた念して不動舌立声。聞仏名発信心 生帰命念。皆是称名也。
問。帰命の義いよいよ銘心肝。但し経には「発三種心即便往生」と説き。釈には「若少一心即不得生」と判せり。今只帰命すれは一心に即生すと云。相違するに非すや。
答。是全非相違。帰命の義の中に自ら三心具(そなわ)れり。三心の詮要は一心也。其の故は三心は只是信仏の心也。信心の初の心を至誠心と名け。中の心を名深心。後心を名迴向発願心。故に『論註』には三種の信心と云り。信仏の心はまた帰命の心也。亦名念仏。故に帰命の外に別無三心。仍(よつて)本願の至心信楽欲生我国の文を引。ただ称我名号と釈し給へり。
又「言南無者帰命亦是発願迴向之義」と釈するも。帰命の意は至心信楽して迴向発願する心也と顕す也。七歳の小児も称念の証を顕す事。即此故なるへし。早く諸の雑念疑を捨てて一心に六字の名号を執持すへし。
第七、機法一体事
本云 念仏宗愚老顕意。
『観経』云。「諸仏如来是法界身。入一切衆生心想中」と云り。是は仏の衆生を哀み給ふ余りに。凡夫の拙き心中に入て正覚を成し給ふ也。譬は月の水に影を宿すか如し。月は遥なる空に栖(すむ)とも。此水を縁として必す影を移す。仏は十万億の西に浄土をしめて坐せとも。更に我等か胸の中を
善導 念仏し給時。口より仏の出たまふ此謂れなるへし。彼は正行も進み。利他の功徳も功積みたまへは。色にいで形に現じ。人にも見へ給ふ。其余の人は正行も少く徳もいたらねは見へ給ことなし。然とも我等か唱る念仏の息も。同く仏体なるへし。依之 古き御詞にも。是を凡夫の口称と云んとすれは。
第八、三心事
至誠心者。我等か虚仮雑毒の誠しからず心の内に。仏の真実の本願を憑み奉る心也。我等か心は縦ひ清心を発せとも。
次に深心と者。仏の本願を聞きなから。堅固の信心も
次に迴向発願心と
仏の功徳の衆生に成するとを比れは。悪は還て水上の油の如くになり。仏の功徳は水中の乳の如くなるへし。仏は神通自在の御心なれは。慈悲智恵方便を以て。衆生の善心の中。悪心の中。三毒の心中。十悪の心底まても。
よくよく是を可心得也。地獄の猛火は悪業の故に来迎す。化仏菩薩となるへき謂(いわれ)は無しといへとも。只今煩悩を発す心の中にも。仏の慈悲は附添て暫(しばらく)も不離(離れざるが)故に。地獄の猛火の中にも。仏の功徳は離れ給はぬはと知せんか為に。衆生に親しき姿也。
されは煩悩発らん時には。此煩悩よりも猶(なお) 仏の功徳は懇にて。定て哀み給らんと憑み。罪の深からんに随て。弥(いよい)よ仏の功徳は深重にこそ成り給ふらんと可思也。正(まさし)き地獄の猛火たにも化して仏となるは。大願の力也。其猛火も来らざらん人の憑本願(本願を憑みて)往生せん事は。疑あるまじき事也。
第九、聖道浄土事
夫離生死有二門。聖道浄土是也。聖道門の心をは。善導和尚は「依心起於勝行。門余八万四千。随縁者皆蒙解脱」と釈し給へり。心とは菩提心也。利他を先とす。衆生の苦を救ふ心也。菩提心には種種の品あり。菩提は仏果の名なれは。仏果を求る心を菩提心と云方もあり。又万法は一心より発る故に。善も悪も心の外なる物無し。色も香も中道の理に非る事なし。煩悩即菩提。生死即涅槃と悟て。真如の浄体心外に求へき菩提なしと談する教もあり。[11]
又浅教には出入の息を数て。静乱意 観身不浄治貪心。観心法雖区皆先心。以智恵離生死[12]。是を云聖道門也。
浄土門者。「一切善悪凡夫。得生者莫不皆乗阿弥陀仏大願業力為増上縁也」と釈し給へり。垢障覆深なれは真如の浄体を顕すこと
「根性利者皆蒙益。鈍根無智難開悟」と釈し給り。是聖道浄土の姿也。「戒品浮嚢易破。智恵船筏不全」[13]。生死の大海を渡へき縁かけはてて。諸仏の化導に漏れ、八万の教益に
故に因位の悲願不虚。信此仏本願。初発心より仏果に至まての諸の功徳。皆な名号に納て。行者の功徳となる。故に五逆の罪人も一声に往生するを云本願念仏。是は浄土門の意也。
『安楽集』に「得二種勝法以不排生死故不出火宅」と云り。「難受人身 仏法難値。急に可励出離一行。思之非為他」[14]。よくよく我身の有様を量て、聖道より
故に和尚も我所愛は即是我有縁行也。汝か所愛は即汝か有縁の行也。欲学行必依有縁法[15]釈し給り。東へ行ん人には教東。西へ行ん人には西を教べし。努力不可有偏執。発菩提心解脱すること思知難叶人は。捨聖道可入浄上(土)。望此機言難行道。陸路より行くは苦きか如し。浄土は易行道と名く。足なへたる道は船に乗て楽(たのしき)か如し。
第十、自力他力事
念仏をは申しなから妄念の起るに煩(わずらい)て、心静なる時の念仏は往生の業と成り、心乱るる時の念仏は往生の業に非すと思へり。随心念仏に善悪ありと云は自力也。『往生要集』に「終日念仏閑撿其実。浄心是一二。其余皆濁乱せり。野鹿難繋。家犬自馴たり」[16]と知とは此意也。恵心或時月夜登高楼澄心念仏し給けるに、心の難静事を知り給ぬより、頑魯[17]の機になりて他力を憑み、「極重悪人無他方便。唯称弥陀得生極楽」[18]と勧め給へり。
大方聖道門の勧なれは、妄念を止め散乱をも静て念仏せはやと思へとも、煩悩内に具し、悪縁外に催す。凡夫の習は
妄念の中よりも。散乱の上よりも。口に名号を唱へ。心に名号を念し。身に名号を敬へは。三業其に南無阿弥陀仏に成て。一声に十悪の罪消て流転の障絶へ
以此思知へし。妄念の起るに付てもいよ[いよ]念仏の信心は立こと也。是を悪く心得て。或は
無始より難離生死を離れて。今度往生の素懐を遂んと思立ほどの人は。争(いかで)か流転の業因を好み造るへきや。但 呑釣の魚は水にあること不久。魚強く糸弱き時は如不引。難有止悪修善の謂も。貪嗔具足の凡夫なれは。煩悩強くして歴縁犯すことあらは。必可随犯随懺。念念称名常懺悔せよと釈せり。
証空上人の御詞にも。帰命の行者の貪嗔は。水の上にふる雪の、ふるとは見へてたまらざる如しと云へり。念仏懺悔深く憑べし。凡そ念仏にさま[ざま]の功能あり。念仏すれは滅罪し。念仏すれは護念せられ。念仏すれは摂取せられ。念仏すれは往生す。是を名五増上縁利益。
又摂取の益に預かれは。仏と衆生と一に成て。口に常に称すれば仏則聞給。身に常に礼すれは仏即見給ふ。心に常に念すれは仏即知給ふ。月独り不宿ら。必す如尋水。念仏の行者の信水の水を尋て。摂取不捨の月も宿る也。
平生より業成するを云即便往生也。臨終に観音の蓮台に移るを名当得往生。一期の間護念せられ。臨終の夕には来迎し給ふ。是仏の名号の力也 当知。本誓莫忘。
第十一、二種信心事
何なる人か決定往生すへきと尋ぬるに。宗家の釈し給ふ所の機法二種の信心の立たる此人也。二種信心者。即帰命の心也。帰命せすして往生せんと思は。無目見物。無耳声を聞んと思か如し。唱なから不往生機の有様は不知法の不思議人也。
或人云。本願をは信すれとも。疑我身悪也。不捨名利。不調三業。不静妄念。不止貪心。念仏申せとも。凡夫は暫く難叶。或人云。念仏は纔(わずか)に六字なれは功徳も少かるへし。
前人は疑機。後人は疑法。機を疑ふ人の為には第一の信心を勧め。法を疑ふ人の為には第二の信心を勧む。機の有様を不思知。
釈第一信「一者決定深信。自身現是罪悪生死凡夫。曠劫已来常没常流転。無有出離之縁」と云り。
聖道の心は一筋に就仏法勧信。今身の有様を信せよと釈し給ふ。我身は往生難叶事を顕ん為也。《自身》者、他人の事をは且(しばら)くをく。先(まず)我身を思知れと云詞也。《現是》者。過去遠遠流転をばしらず。今生の有様 罪悪生死の凡夫の姿を思知れと云也。《罪悪》は生死因、生死は罪悪の果也。十二因縁の流転は車の輪の迴るか如して不絶事。作罪悪因。感生死果。生死の果上に又未来の生死を受へき業を造る故也。《生死》者。有為法 来必去始終也。華開れは散り。月出れは入か如し。
嘉祥釈云。「夫死由生来。宜畏於生。吾若不生何有死。見其初生即知終死。宜泣生。不応畏死」[19]。生を受る人死に帰せぬ事なし。生時も独り生し、死時も独り死す。無常念念に至て常に死王と居すと云は。司業閻王の眷属也。業に引れて独り行時。妻子も珍宝も更(さらに)随ふ者の無し。一且の名利に繋縛せられて。目前の事をのみ歓(よろこ)ひ。夢の後の昇沈を不辦事。誠に愚哉。
一期はほとなき仮の宿り。住はつべき所に非す。此の必滅の理を思知て。常住の棲(すみか)を求むへし。喜あらん時は極楽の快楽を思ひやり。憂あらん時は地獄の苦を悲て。折に触れ事に随て。厭無常。涅槃を願ふへき也。
《曠劫》者。無始の名也。生死に輪迴する事の久を顕す。《常流転》と云は。常悪道を栖(すみか)として流来生死の輪迴不絶詞也。《無有出離之縁》者。輪迴の間少き仏法結縁あれとも。皆随縁の雑善なれは。生死を離るる縁に非すと顕せり。曠劫にも未聞本願名号 出離の縁思たへたる詞也。
釈第二信心云。
「二者決定深信。彼阿弥陀仏四十八願。摂受衆生。無疑無慮。乗彼願力。定得往生」と。《彼四十八願》は第十八に極まる也。四十八願雖広。一一願言称我名号と釈して。第十八願に極まる。《摂受衆生》とは。本誓重願不虚。衆生称念すれは必す摂取し給義也。《無疑無慮》者。乃至十念。若不生者。不取正覚と誓て。法蔵既に成仏し給へり。是則南無阿弥陀仏と唱れは。必す往生すへき謂れは。極め顕し給ふ。仏と成ぞと聞は信心忽(たちまち)に起て無疑心云 無疑無疑の上に兎角思ひ乱る心無を云無慮。
《乗彼願力定得往生》者。煩悩に侵(おかさ)れて出離の縁なき愚痴の機を救んか為に。十念の悲願を発して。因位の修行一念も真実ならずと云ことなし。捨国城妻子。難行苦行し給し万行万善。併(あわせて)本願の名号に納りたるに依て。此仏に帰命すれは。我等に代りて修し給し仏の功徳。即我等が功徳と成て往生する意也。
機を罪悪生死の凡夫そと信すれは無慢心。慢心ある時は不離生死也。法を乗彼願力定得往生と信すれは無卑下心。卑下ある時には不往生也。機を思知て仏を憑は、自力を捨て帰他力憑む也。機の有様も。法の不思議も、余所の事に非す。行者の自身に可思分也。
されは信知してと釈し給り。二種信心立ぬれは、自ら三心は具足する也。
至誠心者。以我身凡夫の三業を真実となすに非す。
貪嗔具足の凡夫の習は。心に起妄念 好名利故。縦ひ口に宣法門。身には戒行を持(たも)てども。三業難調。外に賢善精進の相を現し。内虚仮を懐り。故に仏の本願に帰命しぬれは。転虚仮三業 成真実三業也。虚仮の三業は機の姿た。真実三業は仏の功徳也。
深心の二種の信心の外に無至誠心体。又迴向心も第二の信心に顕るる名号を。随機説三世善。念仏に迴すれは皆往生の業と成也。
水火の二河は罪悪生死の凡夫 貪嗔を具足する姿也。三心は二種の信心に顕れ。二種の信心は帰命の一念に極る。
帰命と者。名号の力にて決定往生すへしと疑はぬ心也。此故に三心も詞(ことば)にて云時は三つあるに似たれとも。行者の発す時は只一心に顕る。
南無は第一の信心を立る機の姿。阿弥陀仏は第二の信心を勧る本願の功徳也。されは三心の名をもしらす。二種の信心の有様をも弁ざる一文不通の輩も。本願の不思議を信して名号を唱れは。願力住持する故に。機法相成必す往生する也。妄念を切る利剣。貪嗔を澄(すま)す糜尼珠はたた名号也。聖衆来迎も名号の力ならで求る事なし。
竹林鈔巻下目録
第十二。六字妙解鈔
第十三。念仏三昧為宗事
第十四。一心帰命事
第十五。十劫正覚事
第十六。浄土頓教事
竹林鈔巻下
第十二。六字妙解抄
十八設我得仏と十方衆生とに校す。
問。六字の名号は其体何物そや。
答。機法生仏体にして。無二の道理を以て其体とする也。其故は南無は帰命なれは衆生也。機也。無量寿を阿弥陀仏と名るは法也。然(しかれば)衆生の機 諸仏の法に帰するを云南無也。諸仏の法を衆生の機に覚るを阿弥陀仏と号する。故に機法一体にして生仏不二也。
是を念仏三昧の禅門と名けき。誠 頓教一乗の極致也。
問。機法一体生仏不二の道理に依らは、機をも忘れ、仏をも可亡。何そ唱此六字 他仏の浄土に生んと願するや。
答。生仏一如の理は誠に雖天然、衆生は迷一如。諸仏は不二にして覚れり。故に三世の如来出世して衆生を化すと云は、顕此一実理。為救衆生迷也。然は聖道八万門は観心得道を宗として、即此不二の心地に至しむ。故に根性利者 観智明かなれは雖取悟 鈍根無智の障重は無由。爰に弥陀の智願超世の本誓は、常没至愚の衆生を哀て、此六字他力一門を開き給り。是則衆生の迷心を捨て、一向他力に帰する言語を成する故。一心称念する者は即念帰無念 即生至無生。
『五会讃』云。念即無念なれは不二門也。生即無生なれは第一義諦也と。正く此意也。然は観自身 止忘念 心励んよりは。己(おのれを)忘仏名を可念す。念仏名念即無念にして自ら可開無生念。無言を宗として証理を求んよりは、
問。既一心称念すと云は、猶是心を先とするに非すや。何そ諸教の観心に異なる念仏の宗義を可立耶。
答。此難甚愚也。三心と者、不募自心功。偏帰仏力時、念即無念にして只住仏徳心也。更自力宗義に異なる事、天と地との如し。是を名念仏三昧也。
問。阿弥陀仏去此不遠と説き。是心作仏是心是仏とも説くは似観心法門。諸師の意多然也。今義如何。
答。諸師は誠に約観心雖釈、今宗義は不然。先釈去此不遠文有三義。一分斉不遠者。従是 西方過十万億仏土。不隔恒河沙世界仏土 近説けり。
二道里雖遥者、道の里数遥也と云とも。前念に命終すれは後念即生するか故に、唯一念の隔なけれは不遠と云り。
三不限命終時、平生注観すれは、心境相応して常に目前にある故に近しと云り。但し此三義は釈迦観仏三昧の分也。若し弥陀教念仏三昧の義をいはは、名体不二の仏身なれは。応声即現す。迴心正念にして生んと思ふ者、立地に即生す。
三悪火坑臨臨欲入の機を救んか為に、立撮即行が故に説去此不遠。然は是心作仏是心是仏と説くは。第八観の文也。是は観仏三昧の法門也。其仏実には応声して来迎するを、真身観の中には念仏衆生摂取不捨と説けり。其文を釈するには親・近・増上の三縁義を述たり。皆是名体不二の仏の摂取衆生の相也。此義を信すれは知識の勧る声を聞くに、此声即仏身也と知り。自ら口称念しても。此声は即仏体也と信して。更に努力努力仏遠しと思ふ心には不可随。
『般舟讃』云。「唯恨衆生疑不疑。浄土対阿不相忤。莫論弥陀摂不摂。意在専心迴不迴」 文
『法事讃』云。「一切迴心向安楽。即見真金功徳身。浄土荘厳諸聖衆。籠籠常在行人前。迴心向者」。
「玄義」云。「南無者。即是帰命。亦是発願迴向之義。言阿弥陀仏者。即是其行。以斯義故必得往生」と云り。
第七観の所現の仏体は正き此等の深義を顕す也。
第十三、念仏三昧為宗事
或人云。今念仏三昧は但以口称非為宗。口称は凡夫の浅行也。往生には要法なれとも。成仏には不可至。成仏時には観念の意業にて悟をは可開く云り。
今云。此義甚不可也。諸師は観仏三昧は一法の異とて。両三昧とは不分別。今家には観仏をば名定心三昧。念仏をは名口称三昧。行相遥異也。然は観仏の定心三昧は釈迦教の意也。口称の念仏三昧は弥陀教の意也。弘願は釈迦諸仏の教位を超て。南無阿弥陀仏の口称を以て。頓教一乗の正宗要とせり。『観経』の流通分に観念相対して比校する時説云。「若念仏者当知。時[此]人是人中芬陀利華」なりと讃め給をは、専念弥陀名と釈して称念三昧と名たり。
さて下文には「当坐道場生諸仏家」と云り。称名三昧を往生成仏の宗とするに非すや。然に称名浅しと下して観念を宗とせは、近くは和尚の釈義に違ひ、遠くは二尊の密意に背く。雖学浄土教文、還不越諸教宗義也。
弘法大師の顕密二教を判し給ふに。一心の利刀をもて翫は顕なり。三密金剛を振ふは密也と習ふによらは。定心観恵を尊て口業の称名を賤むは。聖道宗の中に真言宗の深義をも不知人也。況や浄土弥陀別意の宗義をや。顕宗の学者。菩提成道の時は。但黙然坐禅して不起口業云り。
真言宗義は語密を為本と。口には誦真言。意には念真言。身に結印契を真言の仏とは成る也。
浄土宗の心は又三業皆南無阿弥陀仏の六字の法門に住して。往生をも遂け成仏にも至る也。南無阿弥陀仏者。生死無常の命を捨て。帰涅槃常住言也。此故に捨四位命帰果仏命時き、南無阿弥陀仏の義は顕れはつべき也。口には命を無量寿の悟に帰する思をなし、身には命を無量寿の覚に帰する相を表して坐道場時き、菩薩の三業入無量寿覚位 名成仏也。
此三業は皆南無阿弥陀仏の六字の功徳法門也。南無阿弥陀仏の六字の法門なれは。総して口称三昧の三業と名る也。是則口称を為本 具三業法門也。例せは真言宗三密は皆語密を本とするか如し。不知此義者。口称名号を賤して。自心の観解を深しと思へり。既に弥陀智願別意に背けり。往生成仏共に遥なる安心也。抑等覚菩薩の道場に坐する時。賤仏名 称念せずといはば。釈迦成道復還て仏名を称念せしをば。此事軽相也と云へしや。
『無量寿経』云。去来現仏仏仏相念 文
妙覚如来猶称名すと許さは。等覚の菩薩何そ以口称三昧成仏の因とせざらんや。其証文非一。『法華経』方便品。釈迦始て坐道場。三七日中に思惟し給し事を説て云。「我所得智慧。微妙最第一。衆生諸根鈍。云何而可度。尋念過去仏。所行方便力を以。我今所得道。亦応説三乗。作是思惟時。十方仏皆現。梵音慰論我。善哉釈迦文。第一之導師。得是無上法。随諸一切仏。而用方便力。舎利弗当知。我聞聖師子深浄微妙音。喜称南無仏。復作如是念。我於濁悪世。如諸仏所説。我亦随順行」[20]と云り。
此文の心は釈迦一代の説法は南無仏と称し給し言を始として。念仏三昧の力には八万聖教を説給へりと顕すなり。然は釈迦利他の説法も。以称名念仏宗本とす。悉達の自成仏道も。必す亦た称名三昧を可為宗要。
『守護国界経』云。一切義成就菩薩道場に坐して。初夜分に
一道無為の正覚を成せし時き。油麻の諸仏の驚覚を蒙て。鼻端に唵の字を観して。後夜分に三密の成道を遂け給へりと説くも。此宗骨を以て見れは口称三昧の成道也。唵字は帰命也。南無の義と同し。一切義成就菩薩は悉達太子也。一道無為の覚は顕宗の至極也。即一心利刀也。唵字は三密金剛密宗要也。浄土宗の南無の義と同し。
帰命を宗とする謂れ立ぬれは。無量寿覚に成るを成仏とは知へし。さて南無阿弥陀仏の口称三昧を。頓教一乗の宗極と顕し畢ぬれは。弥陀超世の願意爰に顕れて。浄土の念仏宗は立也。此は序題門の教相。釈名門の宗義也。『五会讃』云。「念仏成仏是真宗」と云るも指此法門也。又往生と成仏と各別に執して。口称は往生の要也。成仏の宗に不及と云義は。不伝今宗 風迷情也。
今宗骨は往生成仏不二にして而二也。二而不二也。『法事讃』云。浄土無生亦無別。究竟解脱金剛身[21]なりと云へり。又「序題門」にも捨此穢身即証彼法性常楽と云るは。往生は即成仏の義也。
釈名門に「既生彼国更無所畏。長時起行果極菩提」[22]云。不二而二なる義也。往生既に成仏なる義を覚ぬれは。口称三昧の宗。往生には立して成仏には不立と云思ひはあるまじき也。よくよく可思之而已。
南無阿弥陀仏九品往生経云。仏説『九品往生阿弥陀三摩地集陀羅尼経』。
「大菩薩声聞大衆。往詣仏所白言世尊。無量寿国在九品浄域三摩地。即是諸仏境界如来所居。三世諸仏従是成正覚。具足三明増長福恵。」[23]
第十四、一心帰命事
師云。十方一切の三宝皆弥陀の功徳也と照し見る心にて。弥陀の功徳の外に更無異三宝と念する故に。一心とは云也。如此帰する時は。諸仏菩薩も歓喜し。天神地神も随喜する也。
若有二心念弥陀外念余仏者。是則雑修雑行也。俗典にも一心を以ては可奉 百君以百心一君にも不可見と云り。念仏心も亦可如此。
次に帰命者。三義あり。帰依義。帰奉義。帰還義也。帰依仏を憑む心也。為蒙仏護念摂受帰依する也。帰奉義者。謂命を弥陀に奉る義也。即仏を供養する心也。一切衆生の所重不過命故。帰命するを以て第一の供養とす。帰還義者。翻迷帰本家心也。前二義は通大小乗。後一義は在大乗。大乗中有聖道有浄土。聖道意は以生死流転命帰一心本源。是猶依心立行門なるか故に自力の帰命也。
今浄上門の帰命は十方衆生の生死無常の命を捨て。無量寿覚の涅槃常住の本家に帰する也。
問。初二義は易知 帰還義は未顕。凡そ帰と云は他物を押取借請分得たらんを。本主に帰しつけん時。帰とは云へき也。然に無量寿命は自元仏命也。帰命は又衆生の各各の己か命他。仏命を押取にも非す。借請るにも非す。依何帰する謂可有耶。
答。如此疑は衆生各各の迷也。翻此迷如仏覚安心するを帰命とは云也。其仏覚者。弥陀如来法蔵比丘の昔。五劫思惟して。十方衆生の生死流転の苦を愍み。涅槃常住の楽を与ん事を思惟観察して。何なる道よりか此大悲の利益を。衆生に施べきと案し給しに。十方衆生我か果徳涅槃常楽の国を願ひ。我常楽涅槃の無量寿覚に帰命して。唱名号者一人としても生せすといはは。不取正覚と誓てそ。此大願は成就し。円満すへしと案し得て。即発四十八願。正覚を唱てより既に十劫を経たまへり。倩此理を思へは。我等か命をは無量寿の涅槃た覚に収入て。無生常住の寿と知見しけるを。衆生愚迷にして不知本願深意。不解仏智普覚。各以人我執心我か命也と愛す。至今生死流転しつるは。即仏の御命を押取て我命とす迷也。依之釈尊出世して凡夫を化し給ふ。大小漸頓教門雖区。翻邪帰正を安心とせずと云ことなし。其翻邪帰正の意は翻邪三帰とて。南無仏・南無法・南無僧と唱て。出九十五種邪道 入仏道正路。如此帰すれは行者身命即諸仏の命に帰する謂あり。
然に聖道諸教の門人は雖翻邪帰正。猶不捨自力情。仏に帰しても更に我命と思へり。此は仏の御命を借請たる分斉也。然を今の浄土の安心は永く捨自力専他力帰入すれは。借命永く仏に帰し奉るに当れり。一心に帰命して畢命を期とする念念相続の正行は。初一念正因帰命の上に正行の帰命を相続する也。
其正行の帰命は仏の命を分て得たるを。又仏に奉帰也。其故は三業六根・色身命根。悉く捨て仏に帰し畢ぬれは。更に無衆生身命。只仏身命也。是云正因帰命。然又衆生と仏と分て因果位不乱。譬は父母の精血を分得て子孫の身体とするか如く。仏の御命をは分得て行者命とする故に。三業の功徳皆仏の功徳なれ。
然とも又行者の三業仏の三業。彼此相分たる位に非す。不二而二也。是を真の仏子と名く。知此理故我三業を守護し。行住坐臥に不捨帰命念。畢命を期とするは仏御命を分得たる命なれは。念念に力に帰し奉る。誠の心を至して仏恩を報謝する也。譬へは人の子の孝養の道を行は。身体髪膚を父母に受て破ざるを孝の初とする如く。念仏の行者も我身命は仏の身命なれは。三業緊くして敢て不懈孝の始とすべき也。
又人の子の身を立 名を挙け。親の徳を顕すは孝の終なるか如く。念仏の行者も真仏子と成ぬれは。念念相続し。畢命を期として臨終不乱也。されは信心一度発る正因成就の位に。我か命 仏の命に帰命して。越生死昇涅槃。即便往生の因証也。已に此証を得ん人は。
問。今の帰命は十劫正覚の弥陀の涅槃に帰すと聞へたり。聖道門の自心の本源に帰すと云るは。本覚の理に帰する歟。然は二門の義
答。今無量寿の本家に帰る外に。実には更に本覚の本家も無き也。其故は法蔵比丘五劫思惟の智慧深く徹性海底生死涅槃一道無礙なる謂を通達して。衆生一念帰命の位に。即無上大利を得て。我所住涅槃常楽に帰せん事。不可有滞と覚極めて所発仏智の願と名る故に。此正覚智海の外に更に不可論真如性海。始覚本覚不二の覚を。十劫正覚の弥陀と知へし。故に「一到弥陀安養国。元来是我法王家」[24]と云り。
但し聖道門は依心の道なる故に。自ら本家に帰すと習。浄土門は乗願の故に念仏証法性常楽也。
問。爾は聖道の行者は自ら発始覚智 直入本覚理。浄土門は帰弥陀始覚転して証本覚理歟。爾は聖道は頓教也。浄土は漸教也と可云歟。如何。
答。聖道の宗義より来し判ぜは爾也と可云。浄土の宗義は全不然。彼聖道の学人の自ら帰本覚と思は自力の執也。望仏知見以仏力帰する也。故に華厳 大品には菩薩の万行は不離念仏の心と明し。法華 真言には仏所護念神変加持と説けり。『智論』には若仏不念善根即滅と定たり。凡そ仏力を離て本家に帰る道無し。此義を如実明めて。捨自力帰他方念仏して帰本家。浄土真宗[25]の正義とせり。彼聖道の機情を見れは。自ら本家に帰すと思るは。猶是我法の執なるか故に非真実正念。真実の正念に非れは成仏の直道にも非す。故に自ら頓教と執すれとも還て漸門に落つ。是は機情の科也。彼れ若し解仏密意如説修行せは。如法華説即往安楽して一乗の覚を可開也。是を法華の召美とす。
又是華厳真言の正意也。普賢の十願極楽に帰るは華厳の極意也。諸仏の正覚弥陀に帰るは真言の密義也。能く諸教に明ならん人は不可疑此義故に観念門には諸教頓教文義歴然。
爾有人公然不信。何由有と云り。是を答るには自性悪人は不信。自性善人は不疑と答給へり。諸の善より[男]子・善女人。若し悪性の名を離んと思はば可信此義也。
問。如此多義甚深也。諸仏に帰命する帰命と。弥陀に帰命する帰命と二也哉一なりや。
答。此問非也。上来の義勢是明也。凡そ無量寿に非すは命を帰すべき理無し。故に諸仏に帰命するも。諸仏如来是法界身の謂にて。阿弥陀ならぬ仏なけれは。弥陀に帰命すと心得べき也。釈の偈の文に「帰命尽十方。乃至果得涅槃者」と云るは此意也。
果徳涅槃者。其体弥陀也。『法事讃』に果徳涅槃常住世と云。弥陀の妙果を無上涅槃とも云る此意也。されは華厳・法華・金光明・涅槃経等に。各各釈尊寿命長遠劫の功徳を説るは。釈尊の内証は阿弥陀也と顕されたり。『法事讃』に果徳涅槃常住世寿命延長難可量と云也。双樹林下往生楽と云を。釈尊涅槃の道場は弥陀涅槃会と讃め顕せるも此意也。
弘法大師『大日経』開題に。顕密の諸経如是我聞の上に曩謨の二字あり。翻訳の人略之。此帰命の二字は無量寿仏に帰する也と釈し給へり。然を此帰命の詞は能説の仏の自唱の言也とも釈し。結集の人の置る言也とも釈す。結集人と者。顕教は阿難。密教は金剛薩埵。『大日経』は即薩埵の結集也。金剛薩埵の弥陀に帰すらん事は其理可然。大日の帰命阿弥陀云事は似難思。其故は真言宗の意は以大日為諸仏本。四方四仏は大日の伴也。中台の大日還て西方の弥陀に帰すらん事。逆なるに似たり。然を大師已に『大日経』の教主帰弥陀曩謨と唱と許し給へり。依之深く習ふ事有りと 云云
取要是をいはは。凡そ五仏三十七尊正覚を成する経は無不帰弥陀。『大日経』の疏にも仏仏道同更無異路と釈して。阿弥陀の位に不帰して成仏する仏なしと定たり。故に大日如来の自覚正智も弥陀に帰して成す。覚他の諸仏も弥陀の転法輪智より成す。故に両部の真言金剛界には唵の字を始とし。胎蔵界には嚢謨[26]の詞を始とす。皆是帰命也。所謂無量寿に帰する趣也。依之八万四千の法門は皆弥陀三昧法曼荼羅身と習へり。真言宗の習事は諸仏を弥陀に帰して。三密の中に語密を宗とするも。浄土宗義に親き謂也。
凡そ此事を案するに。夫大日弥陀果海一味也。光明遍照智徳何そ異らん。然に五方の仏位を以て五智を配するか故に。以法界体性智 名普門大日以妙観察智 号無量寿仏。如此智智互融し。如此仏は仏仏同体也。以是『無量寿経』の中に又五智の名を列ねたり。仏智・不思議智・不可称智・[大乗広智・]無等無倫最上勝智と。是則仏地の五方大日の五智也。宜哉。彼如来の名を称する事。彼如来の光明智相の如く。彼名義の如に如実に修行し相応する者。生彼安楽国到蓮華蔵世界。以名異執二界処別耶。何況や性浄円明内証三点。即十地の菩薩といへとも猶非其境界。
爾時如来往昔大悲願故住於加持世界示現悲生曼荼羅。是又妙観察智秘妙方便力。五智願行を開て十方を摂取するに非すや。故今弥陀の願海に帰して欲浴大日智水甘露灌頂。摂取作仏。仏仏道同無異路故也。
天台止観にも但専弥陀為法門主と釈す。況や浄土宗今の解釈。尽十方の三宝は皆無量寿の所開也と不顕耶。然に或学者尽十方の詞に迷て。通して帰諸仏と思る。愚痴の至り也。
天親の論には尽十方無礙光如来と云り。諸仏皆弥陀なれは。帰無礙光如来一仏讃嘆せるを。今の文は弥陀即ち諸仏也と開き出して。弥陀の功徳十方に遍する義を顕す也。
『大経』云。「廿露灌頂衆妙法声」[27]。善導釈云。「無辺菩薩弥陀心水浴身頂」[28] 文
第十五、十劫正覚事
問。弥陀の正覚十劫と説くは教文の方便歟。真宗の実義歟。若夫方便也といはは。大経小経は可非真実了義。若依之実義也といは、案法華意。開三乗顕一乗。廃近成立久成。一乗真実実義とせり。
『般舟経』の中にも三世諸仏依弥陀三昧と説歟。若十劫正覚迹門の方便也卜不遺者。久遠諸仏念弥陀成正覚義。如何可成立耶。
答。一義は十劫正覚は教文の方便也。如一辺難大経小経不了義経になりぬと云難に至ては。了不了の義は随宗区なるへし。今の浄土の三経は。凡夫念仏して報仏の土に生する義を。分明に決了するを了義教とすへし。必しも久遠実成を宗とせされは。以不説此義不可為不了義。例せは楞伽深密の五法三性の義を決了して立了義名。
法華には開三顕一して了義の名を立か如し。如此諸経の宗義無尽也。必しも一経の中に尽宗義。初て了義と不可名く故也。一義は十劫三世は摂入無礙なるへし。彼『華厳経』は寂滅道場始成正覚と説て。而も三世九世摂入無尽にして。始成の舎那即無始無終の仏也と談して。法華の開近顕遠をは還て教文の方便と下す。真言大毘盧舎那成仏神変加持経の宗も。三時を越たる仏日の中に三世の劫海を摂入して。法華の久遠無量をも此宗に会する歟。
如此諸宗の習自所依の経説を本として。一切の法門を摂入する法也。爾は宗の教相としては。正依経の中の十劫正覚を本として。三世諸仏の正覚をも。弥陀経の中の十劫正覚を本として。三世諸仏の正覚をも弥陀の智海に可摂入也。『大経』建立常然無衰無変と説を。彦琮法師は一立古今然と得たる十劫正覚の浄土。即無始無終の義を顕す也。如此解すれは諸文悉非相違。法華の実義も伽耶山の近成即本地の幽微也と観達するを以て。釈迦如来の久遠成道は皆 在衆生一念心中と釈する歟。彼久遠成道猶一念心中を不越へ。弥陀の十劫何そ三世の劫を不摂入耶。
爾は初め海徳仏初際の如来より。今時の釈迦未来の諸仏に至まて。弥陀の正覚をは於今十劫と可説義あり。三世諸仏の正覚は皆十劫正覚の阿弥陀仏と成也。五百塵点劫の釈迦も行此難事得阿耨菩提と云時は。十劫正覚の弥陀を念して。本地無作の三身をも顕す也。
無始無終の大日も十劫の弥陀と成するを仏とは云也。
問。此義無礙自在なるに似たり。実に甚深也。但弥陀の正覚は何なる覚なれは。諸仏の本源。三世の所入と定むるや。
答。阿弥陀者。諸仏所証涅槃の常法也。此法常なるか故に諸仏も又常也。且釈迦の顕本は即無量寿と成也。如此諸仏は皆果徳涅槃常住世寿念延長難可量なれは。本国他方元無二。悉是涅槃平等法にして。仏と云仏は皆阿弥陀となり。浄土と云浄土は悉く極楽と成たるを。衆生の機根万差なれは。諸仏の利益区にして。用各立浄土導群生時。本国弥陀をも又諸仏随一の仏として。諸仏は能讃となり。弥陀は所讃と成て。発遣し来迎し。証誠する化儀はある也。既に無量寿常住の涅槃は諸仏の大涅槃の法体也けれは。一切衆生の命を帰すへき処也。
此故三世諸仏の正覚は南無阿弥陀仏と帰命する命。阿弥陀仏帰命をはりぬるを成仏と云也。『守護国界経』に一切義成就菩薩初夜に成道して。後諸仏の驚覚を蒙て。鼻端に唵字を観して。後夜の成道を唱るは。即此帰命の法門也。
問。真言教の意 無量寿は妙観察智成菩提位也と談する義也。今の義に同すや異すや。
答。或同或異也。異と者。教文の施設不同にして。彼は五智五仏の位を立て。妙観察智成菩提の一門の仏と説く。今は弥陀の五智海を以て。総して諸仏の本源と明す。此教門は異也。同と者。然に諸教の密意を探に。仏語千差なれとも旨帰一致なるへし。
彼の五智の覚体は皆以妙観察智成する義あり。凡そ仏と者覚也。自覚・覚他・覚行窮満せる智徳を以て仏と名れは。此覚体は妙観察智は邪正不謬智徳也。仍仏心者。大慈悲是。以無縁慈摂諸衆生と説て。此弥陀の仏身を見る時。即十方一切の仏を見ると云り。無縁慈者。一切本来成仏の自覚正智の上に。而も不忘衆生本迷。施抜苦与楽覚他之用也。
然は仏として阿弥陀仏の遍照の智を備へすと云こと無し。彼大日遍照の覚体も。正覚の名を得ことは無量寿位に帰する也。法相大乗の意。以妙観察智断迷開悟の智本と定むるも。不異此義也。
問。『般若経』には三世諸仏は依般若波羅蜜得阿耨菩提と云り。今は念仏と云相違に非すや。
答。是又非相違。般若三昧は一行三昧也。文殊般若に見へたり。般若の智は是念仏の智門なれは全非相違也。重重問答あり。略之
第十六、浄土頓教事
問、聖道門中に法華・真言・仏心等の宗は頓教也。易行也と談する歟。何そ必しも浄土の一門に限て易行・頓教と可称耶。
答。爾也。当世殊に此義を諍ふ人多し。但し是は凡夫の諍論也。馬鳴・竜樹等の大聖は聖道は難く浄土は易しと定給へり。加之諸宗の祖師皆不堪自宗悟者には。弥陀の浄土を可勧と教たり。天台大師の臨終の行儀伝文分明也。
真言に三根の悉地を立るに。上根は即身成仏。中根は浄土往生。下根は仙窟の住寿と云り。
禅門には百丈禅師の清軌に。大事未弁者教令念阿弥陀仏と勧めたり。然を今の末学聖道の悟は浄土の往生よりも易行也と諍事。皆論師人師の所判に背けり。不足言事也。
所詮難行・易行は自力・他力の故也。又穢土・浄土の不同也。又正報の悟を求め依報の往生を願ふ差別也。故に鈍根無智は悟難けれは。還て不如入弥陀国と云り。而を今の世に我れ能く悟を得たりと思る。宗宗の行者を見るに。未得悟事顕然也。且く真言宗は大日如来の内証の眷属と共に。以如来言種種の法門を説き給る教也。故に依其教得る人は他宗の未悟為悟宗義を諍ふ事は有とも。自宗の内に於て有無等の異見を生して。互諍ふ謂不可有。
同く大日普門の智印を伝て。真言如義の言を以て可説故。譬は彼の文殊は無相般若の智印を司り。普賢は法界縁起の法門に主となるか如く。真空妙有の二門殊なれとも。互に不相妨。同く無為の法楽を愛して諍論無きか如く。今の学者も可然。爰に当世を見聞するに。一乗の中に宗旨の諍嗷嗷也。互に自是非他の邪正未決。知ぬ真言の悟を得たる人無きに当れり。禅門亦如此。
凡そ伝得仏心人。は段段意同くして互に諍事無か如し。自他同心して和合すへし。然に違磨より至六祖宗宗無諍論。六祖の下に五宗を別しより以来至当代。門流千差にして互に是非すと見へたり。就中我朝伝来の行人諍論殊に甚し。計り知ぬ。未証入仏心と云事を。此にて以自心開悟為解脱門故。鈍根無智の輩は雖学難得証。
然浄土の一門は本来帰命の一心を正因とし。阿弥陀仏の願力を強縁とする故に。名号の法体は願行具足の道理也。不依智慧浅深。不論機根利鈍。唯能専念すれは往生無疑。更に自心の悟を宗とせざるか故に。経道滅尽の万歳までも。一念無上の大利不漏機明かせり。然を今の学者の中に不得念仏宗骨人は。往生の得否は思依智慧浅深。此は浄土宗には非す。以聖道宗風 諍此宗故非論限也。
問。易行は下機を引する方便なれは 聖道門より実義に非すと判せん事は。其理似可然。聖道門は既為根性利者也。何更可云方便引導権門耶。
答。是は自力宗の所判也。自力の宗には上機は求上法。下機には下法を授べしと定たり。故に以念仏易行下機を救と云をは。法も随て浅行也と思へり。然に他力の宗義は願力の一行は仏智最上の法にして。然も極悪最下の機を摂すと習か故に。五乗凡聖機に漸頓あれとも。等乗此一乗 入清浄真門頓教一乗の深義とす。此教の前には彼漸頓随宜の教は上中下の法門にて。因位の機情に堕て真実の仏乗に非れは。亦方便門也と下す也。
種種法門皆解脱無過念仏。往西方門門不同名漸教。先求要行入真門とも云るは。皆此意を顕す也。
又難行方便は自力の機情を調伏せんか為也。自力の情は皆自ら賢善精進の思をなす。故為彼教菩薩大行難行苦行せしむるに。行は疆く機は弱して。自是を求め難事を思知る時。浄土易行の道ありと思知て。迴心念仏して浄土真門に可入也。
彼三論の恵布禅師等の如し。彼平生には執聖道難行不願浄土。十劫有華内自楽を受よりは。長時に地獄に有て衆生を済度せんと願ひけり。然るを身に重病を受て身心悩乱せし時。大悲の願も不起。無生の観も修せられず。又年来意楽は機に相応せざりけりと思知。只彼竜樹菩薩の垢障の凡夫は。生浄土得無生忍後。濁世の衆生を可救と勧め給るは真実の道也けりと。病平愈せしかは迴心して一向念仏して往生を遂たりき。
又白楽天も本は天台の教を学して聖道を執せしかとも。老後に風病を受て自力の勤行廃れしかば。忽に入浄土門。迴心して投財宝三尊の像変を画し。安置して一期本尊に擬す。
即讃云。
極楽世界清浄上。無諸悪道及衆苦。
願如我身老病者。同生無量寿仏国。
異朝道俗多以如此。我朝先賢皆亦同之。彼顕真・公胤等則其人也。皆な始は聖道を執せしかども。終には浄土に迴心して念仏す。即『般舟讃』序文云。若能依教修行する者は。則門門仏を見て浄土生する事を得と云る。此言誠哉。
問。万劫の修行難成事は一時煩悩百千間(まじえる)ならは。一日七日の念仏も煩悩の間隔あるへし。何そ専念を成して得生浄土耶。若一日七日一心専念行相続せは。一期念念も可相続。一生正念相続せは。万劫の修行も何そ不相続耶。
答。此難誠爾也。不明専念宗義者。此難実に難会。一時煩悩百千間の機の上に。一日七日専称仏の行を成する事は。念仏は他力の行業 煩悩賊害の憂無き故也。八万四千の行門は皆是自力の行なるか故に。煩悩強けれは其行難成。念仏の一行は本より障重の凡夫。賊害の苦機を助る仏力願力の行なる故に。一時煩悩百千間の機に於て。正念専修清浄業を成すれは。易行頓成の要法也。然に浄土の行人と称する人雖念仏。安心自力に還て念仏同諸行。甚背宗旨。
問。爾ば念仏の行者として。貪嗔煩悩の来間事を可憚歟。如何。
答。是又不然。念仏行は不問罪福多少時節久近。貪嗔を留んとも不嗜。不浄をも不止。只帰正念一心称名すれは。不断煩悩入涅槃界也。但住此正念人は。三時六時懺悔を修する事あり。是正因の上の正行也。不問罪福多少。願力無礙道に乗しぬれは。不顧水火二河。決定往生の信心を堅くし。超断四流頓証を得と云所も。名号滅罪の用を施す時。罪障懺悔の方法を用ひ。念仏生善の徳を顕す時。諸善の功徳を迴向する功あり。是は要門の修行なれは。定散の法門に同す。然とも念仏本内の要用なれは。因力の定散には非す。故に名正行也。
問。聖道の漸頓は倶に難行なれは。挙彼漸頓『観経』の頓は彼の漸頓よりも易行にして。而も頓なる義を顕すへし。何の『瓔珞経』の漸に対して讃『観経』・『弥陀経』頓。彼の法華・真言等の頓には不対耶。
且如三論宗者。云一念不生即是仏。如法華宗者。円頓者。初縁実相造境即中無不真実と云といへとも。初後無二無別と談して成頓義如華厳宗者。可云信位成仏如真言宗者。説発心即到。乃至禅門の見性成仏。皆是捨身不受身。開一念頓成仏智。何そ彼等の頓に対して今の頓を不立。対瓔珞漸成頓義耶。
然今『観経』は以一日七日念仏。命絶へて彼国に生て後無生を証するを頓とす。瓔珞の万劫不退に対せは更雖可為頓。一念成覚即身成仏の頓に対せは。還て漸教と可云。如何。
答。此難実に爾也。但今釈の意は聖道は雖頓断惑証理の道。断迷開悟の宗なれは。鈍根無智難開悟機不相応者。還て万劫修功の漸門に同する謂れあり。故挙瓔珞漸摂難行之漸頓也。
さて『観経』念仏他力の頓は。垢障の凡夫報仏の浄土入て。即悟無生の頓証を得るか故に。不簡機之利鈍。名号利剣力の頓中の頓益を成する故に。法華真言の頓に対して念仏の頓を不顕義の意とする也。然に一日七日の時節を挙る事は。且く以正行時節対万劫修行也。
此正行は正因より発るか故に。正因即便の益を頓中の頓と成する也。但隔生証無生者。彼一念成覚等頓成よりも慚也と云難に至ては。先彼諸宗の頓証王雖云一念。修行時節非無長短。
即嘉祥云。階級の階無れは一念の成覚を不妨。無階の階級なれは五十二位をも不妨と云り。又此『観経』に修行の時節を説事一日七日云へとも。往生の証を得事発心即到の義あり。謂る発三種心即便往生是也。然は証を一念にとり。行を久近に励む事。彼此相同しといへとも。彼は自力也。此は他力也。彼は正報を期し。此は依報を求む。以自力求正報。一念頓成の証鈍根無智には益無し。乗他力求依報。発心即到の益常没底下不隔。
然又自力頓成は還て初心即悟と云へとも。下根の妙解浅けれは還て居娑婆人天。他力の一道より往生の証を得れは。垢障凡夫入浄土。不覚転入真如門。大小僧祇恒沙劫。亦如弾指須臾間なれは。往生即無生にして。還て仏果を不隔深義ある事を顕す也。
浄土無生亦無別。究竟解脱金剛身と云り。讃の意。一到弥陀安養国。元来是我法王家と讃めたる宗義。皆此謂を顕す也。
凡そ聖道門の漸頓の悟を得る事は。実行の凡夫に於ては難立宗義也。凡そ菩薩の大悲万行は。還来穢国の時可成法門也。竜樹『智論』にも具縛の凡夫発大悲心衆生を救んと思は。此理りある事無けんと云り。故に実行の凡夫は先以念仏一行証浄土無生。還来穢国の時。修漸頓修行除人法二執。悲智二行をは可成者也。
然は浄土宗の意にては。難行門をは如来随宜の方便の教と談する也。然を聖道門の方よりは。又凡夫往生の浄土の教をは方便也と思へり。是は宗宗互に我宗を実事と立るには。他宗を方便と云へき法則なるか故に。浄土宗よりも強にとかむましき也。剰へ一乗を真実と立る家には。三乗を方便と云ひ。三乗を真実と立る家には。一乗を方便と云か如く。難行を宗とする三乗漸教の自力の宗より。他力易行の念仏一乗の頓証の益を方便と不云。自力の宗は立まじけれは尤爾也と云へき事也。
他力真実の頓教一乗浄土宗の前には。自力難行の随宜の教益をは方便也と可云事勿論也 云云
写本云
此書者竹林寺道教上人御作也。真宗最要也。不可外見者也。
于時永正六年 己巳 後八月二十四日於和州宇多郡山辺庄戒長寺光舒軒。就文字難多不審。自身他身為修学繁昌。以方丈御本如形書写之者也
真宗西山深草末葉融誉 九三
- ↑ 「三心既具 無行不成(三心すでに具すれば、行として成ぜざるなし)」。「散善義」で至誠心、深心、回向発願の三心を決釈される文。西山では名号を開いたものが『観経』の世・戒・行の三福であり十三観の定善だとする。これを念仏行成(念仏の行を成ず)であるという。
- ↑ 明石、須磨の月は『源氏物語』にも出る。更科姨捨山も古来から月の名所とされてきた。月と月に照らされる対象を法と機の関係として説く例は多い。ここでは名号をあらゆる存在を照らす月になぞらえて名号の超勝性を説く。
- ↑ 平信。ひらに信ずる意。
- ↑ 「玄義分」の、「今此観経 即以観仏三昧為宗 亦以念仏三昧為宗(いまこの『観経』はすなはち観仏三昧をもつて宗となし、また念仏三昧をもつて宗となす)」の文を考察して、観仏三昧は釈尊の教説、念仏三昧を阿弥陀仏の教説とする。御開山も「化巻」で一経両宗の意として引文されておられる。ただ、善導大師の当面の意では、観仏三昧も念仏三昧も三昧であるから同義語として使われたであろう。しかし、観仏を説く観経の流通分付属の文に「汝好持是語 持是語者 即是持無量寿仏名(なんぢ、よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり)」の文から逆観すれば一経両宗の意もあったのであろう。
- ↑ 帰行捨心(行に帰して心を捨てる)。前段で説く聖道門の依心起行(心に依りて行を起こす)の反語。選択本願のなんまんだぶの行に帰入して自力の心を捨てるから帰行捨心という。
- ↑ 和尚。以下の和尚とは善導大師のこと。
- ↑ 礼讃に「恒沙三昧自然成(恒沙の三昧自然に成ず)」とある。
- ↑ 西山派では、信心一発した時に往生が定まることを即便往生(現益)といい、命終して浄土へ往生することを当得往生(当益)という。即便往生と『観経』の「若有衆生願生彼国者 発三種心 即便往生。何等為三一者至誠心二者深心三者廻向発願心。具三心者必生彼国。復有三種衆生当得往生(もし衆生ありてかの国に生ぜんと願ずるものは、三種の心を発して即便往生す。なんらをか三つとする。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具するものは、かならずかの国に生ず。また三種の衆生ありて、まさに往生を得べし。)」に依る。御開山は『大経』を真実経として『観経』に隠顕を見られるから、即便往生の即と便を分けられて「即往生」は真実報土への往生であり「便往生」は化土の往生とする。
- ↑ 云十界也(十界と云うなり)。天台の十界互具。
- ↑ 深心を、無信をも捨てたまわぬ深い心のあらわれの意と解すときは、既に信心の者である。
- ↑ 一色一香無非中道。『摩訶止観』の、いかなる些細な存在にも中道の真理が備わっているという天台宗の意。
- ↑ 乱意を静めて、身の不浄を観じ貪心を治す。観心の法、区(べつべつ)なるといえども皆心を先とす。智恵を以つて生死を離る。
- ↑ 戒品の浮嚢は破れやすく、智恵の船筏は全かからず
- ↑ 人身受け難し、仏法値い難し。急に出離の一行励むべし。これを思ふは他の為に非ず
- ↑ 行を学せんと欲せば、かならず有縁の法によれ。
- ↑ 終日に仏を念ぜんも閑かに其の実を撿せば、浄心は是れ一二、其の余は皆濁乱せり。野鹿繋ぎ難く、家犬は自から馴れたり。
『往生要集』中「止悪修善」p.1013に「尽日に仏を念ぜんも、閑かにその実を撿すれば、浄心はこれ一両、その余はみな濁乱せり。 野の鹿は繋ぎがたく、家の狗はおのづから馴れたり。」とある。 - ↑ 『往生要集』の序に、源信僧都が自己を指して「予がごとき頑魯のもの」といわれている。
- ↑ 極重の悪人他の方便無し、ただ弥陀を称えて極楽に生ずるを得。◇『往生要集』の念仏証拠門p.1098に『観経』の意を引いて「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」とある。
- ↑ それ、死は生に由りて来る、よろしく生を畏るべし。吾もし生ぜずば何ぞ死あらん。其の初生を見るに即ち終に死すを知る。宜しく生を泣きて、死を畏るべからず。
『続高僧伝』巻第十一に、釈吉蔵。俗姓安。本安息人也として「夫死由生来。宜畏於生。吾若不生何由有死。見其初生即知終死。宜応泣生 不応怖死」の文がある。 - ↑ 我が所得の智慧は、微妙にして最も第一なり。 衆生の諸根鈍にして{略}云何して度すべきと。 尋いで過去仏の所行の方便力を以(念)て、 我が今得る所の道も亦三乗と説くべし。 是の思惟を作す時、十方の仏皆現じて、 梵音をもって我を慰諭したもう。 善哉釈迦文、第一の導師、是の無上の法を得たまえども、諸の一切の仏に随って方便力を用いたもう。{略} 舎利弗当に知るべし、我聖師子の深浄微妙の音を聞いて、喜んで南無仏と称す。復是の如き念を作す。 我濁悪世に於(出)いて諸仏の所説の如く、我も亦随順して行ぜんと。
- ↑ 浄土の無生また別なし。 究竟解脱の金剛身なり。『法事讃』p.533
- ↑ すでにかの国に生じぬれば、さらに畏るるところなし。 長時に行を起して、果、菩提を極む。「玄義分」p.305
- ↑ 大菩薩、声聞、大衆、仏の所に往詣して白して言さく、世尊、無量寿国に九品の浄域三摩地在り。即ち是れ諸仏の境界にして如来の所居なり。三世の諸仏是れより正覚を成ず。三明を具足して増長福恵なり。
- ↑ 一たび弥陀の安養国に到りぬれば、もとよりこれわが法王の家なり。『般舟讃』p.741
- ↑ 西山派に於いても宗名を指す語として、真宗や浄土真宗という語を使っていたことに留意。
- ↑ 嚢謨(のうも)。南無の音写語か?
- ↑ 甘露灌頂、もろもろの妙法の声
- ↑ 無辺の菩薩同学となる。弥陀の心水身頂に沐す。◇礼讃p.705には「無辺菩薩為同学 性海如来尽是師 弥陀心水沐身頂 観音勢至与衣被(無辺の菩薩同学となる。性海の如来ことごとくこれ師なり。弥陀の心水身頂に沐す。観音・勢至、衣を与へて被す。)と、ある。