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「称えるままに本願を聞く」の版間の差分

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江戸期の名僧、香樹院師(1772-1856)の語録『香樹院講師語録』から抜粋。
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御開山が法然聖人から継承し展開なされた「浄土真宗」は、
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:念仏成仏これ真宗
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:: 万行諸善これ仮門
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:: 権実真仮をわかずして
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:: 自然の浄土をえぞしらぬ  ([[chu:浄土和讃#no71|浄土和讃]])
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と、されておられるように念仏〔なんまんだぶ〕を称えて浄土に往生するご法義である。その誰でも出来る、易行である口に〔なんまんだぶ〕を称える行業を、万人を浄土へ往生させて仏陀のさとりを得させようというのが、本願(第十八願)の「乃至十念」の教法である。「よき人にもあしきにも、おなじやうに生死出づべき道」に乗ずる、仏の選択したもう救済の法が、口に〔なんまんだぶ〕を称える仏法であった。<br />
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浄土真宗で煩い「信心正因」の信心とは、この〔なんまんだぶ〕と称える行業が往生成仏の正因であると信知する'''時'''をいうのである。永遠の救いの顕現である〔なんまんだぶ〕と称える法を、私のさとりへの行業であると信知した時を顕す表現が、覚如上人や蓮如上人が強調された「信心正因」という術語(テクニカルターム)なのであった。
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   七五。禅僧弘海との問答(その一)
 
   七五。禅僧弘海との問答(その一)
  

2017年6月6日 (火) 05:04時点における版

江戸期の名僧、香樹院師(1772-1856)の語録『香樹院講師語録』から抜粋。 御開山が法然聖人から継承し展開なされた「浄土真宗」は、

念仏成仏これ真宗
 万行諸善これ仮門
 権実真仮をわかずして
 自然の浄土をえぞしらぬ  (浄土和讃)

と、されておられるように念仏〔なんまんだぶ〕を称えて浄土に往生するご法義である。その誰でも出来る、易行である口に〔なんまんだぶ〕を称える行業を、万人を浄土へ往生させて仏陀のさとりを得させようというのが、本願(第十八願)の「乃至十念」の教法である。「よき人にもあしきにも、おなじやうに生死出づべき道」に乗ずる、仏の選択したもう救済の法が、口に〔なんまんだぶ〕を称える仏法であった。
浄土真宗で煩い「信心正因」の信心とは、この〔なんまんだぶ〕と称える行業が往生成仏の正因であると信知するをいうのである。永遠の救いの顕現である〔なんまんだぶ〕と称える法を、私のさとりへの行業であると信知した時を顕す表現が、覚如上人や蓮如上人が強調された「信心正因」という術語(テクニカルターム)なのであった。



   七五。禅僧弘海との問答(その一)

 禅僧弘海曰く。予かって師に問う、私、浄土真宗の教に帰し、御講師に随い聴聞致せども、未だ心に聞こえ申さず、如何(いかが)致すべく候やと。
師の仰せに、汝まづ聖教(しょうぎょう)を熟覧せよと。
即ち(めい)の如く拝見候いしが、分義はわかれども、我が出離にかけて思えば、往生一定ならず。再び如何せんと問いまいらす。
師曰く。よく聞くべしと。
予問て云わく、よく聞くとは如何(いかが)聞くべきや。
師曰く。骨折って聞くべし。
予云わく、骨折るとは、遠路を厭はず聞き歩くことに候や、衣食も思わず聞くことに候や。
師曰く、(しか)り。
予また問うて云わく、然らば、夫程(それほど)に苦行せねば聞こえぬならば、今迄の禅家の求法と何の別ありや。
 師()して曰く、汝法を求むる志なし、いかに易行の法なりとも、よく思え、今度仏果をうる一大事なり。然るに切に求法の志なき者は、是れを聞き得ることを得んや、ああうつけもの(かな)と。
予云わく、然らば身命を(かえり)みぬ志にて、聞くことなりや。
師曰く、最も然り、切に求むる志なくして、何ぞ大事を聞き得んや。又曰く、常に間断なく聞くべしと。
予問いまいらするよう、(それ)はその志にて聴聞(つかまつ)れども、法縁の常になきを如何致すべきやと。
 師その時に、何ぞ愚鈍なる事を云うぞ。法話なき時は、聞きたる事を常に思うべし。聞く間ばかり聞くとは云わぬぞ。又曰く。汝(まなこ)あり、常に聖教を拝見すべし、これまた法を聞くなり。()しまた世事にかかり合い、聞見常に縁なき時は、口に常に名号を称すべし、是れまた法を聞くなり。汝信を得ざるは業障(ごっ-しょう)の故なり さればいよいよ志を励まし、(かく)の如く常に心を砕き、よく聞けよ。信を得る御縁は聞思に(きわま)るなり、と。

   七六。禅僧弘海との問答(その二)

 予(禅僧弘海)問うて云はく、法話を聞くことと、自ら聖教を読んで我が耳に聞くと云うこととは、有難く(たま)わりぬ。(ただ)、念仏するを聞くと申すは、我れ称えて我が声を聞く事に候や。
 師大喝して曰く、汝何事をか云う。我が称える念仏と云うもの何処にありや。称えさせる人なくして、罪悪の我が身何ぞ称うることを得ん。称えさせる人ありて称えさせ給う念仏なれば、(そもそ)もこの念仏は、何のために成就して、何のためにか称えさせ給うやと、心を砕きて思えば、即ちこれ常に称えるのが、常に聞くのなり、と。
 予、この一語心肝に徹し、はっと受けたり。心に思うよう。「我至成仏道(がしじょうぶつどう)名声超十方(みょうしょうちょうじっぽう)究竟靡所聞(くきょうみしょもん)誓不成正覚(せいふじょうしょうがく)[1]。また第十七の願に、我名を諸仏にほめられんとの誓いは、名号を信ぜさせんとの御意(おん-こころ)也。()つまた、常に聞くと申すことは、ただ法話のみを聞くことと思いしは誤りなりき。
あわれ、志の薄かりしことよと恥じ入り、今まで禅門に於いて、知識より、汝今をも知れぬ命なれば、晝夜(ちゅう-や)十二時思惟して、この公案を拈底(ねん-てい)せよ、暫らくも忘るることを(なか)れ、と云われしことを思い浮べ、「聞思して遅慮するなかれ」との祖訓を、『見聞集』に盡し給いしことを感悟し、それより常に法話なき時は聖教を拝聴し、朝夕は『三経』、『正信偈』、『和讃』、『御文』を拝読し、また常恒(つね)に念仏を拝聴し奉るに、我れ今称うる念仏には、御主人ありて称えさせ給う也。然れば(ただ)称えさせるを詮としたまはず。称えさせ給うは、助け給はん為めに、一声をも称えさせて下さるることよと思えば、それより称えることに就いて、尊く称えさせて下さるる身となりしなり。このこと今に耳にありて、忘るる(あた)わずと申されけり。

『香樹院語録』


  1. われ仏道を成るに至りて、名声十方に超えん。 究竟して聞ゆるところなくは、誓ひて正覚を成らじ。『無量寿経』重誓偈の文。