「現代における異義の研究(一) 特に「浄土真宗親鸞会」について」の版間の差分
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現代におげる異義の研究(一)伝道院紀要14 特に「浄土真宗親鸞会」について 山田行雄
はじめに
真宗において「正統」か「異端」かの論評の歴史は、そのまま真宗教学とその実践の歴史といってもよい。『歎異抄』に
- そもそもかの御在生のむかし、おなじくこころざしをして、あゆみを遼遠の洛陽にはげまし、信をひとつにして、心を当来の報土にかけしともがらは、同時に御意趣をうけたまはりしかども、そのひとびとにともなひて念仏まふさるる老若そのかずをしらずおわしますなかに、上人のおほせにあらざる異義どもを、おほくおはせられあふてそうらうよし、つたえうけたまはる、いはれなき条条の子細のこと。(真聖全・二の七七八~九)
とあるごとく、宗祖御往生の時代に端を発し、いずれの時代においても異義義異安心の徒は輩出し、祖意に反して、いたずらに聖人の門徒を困惑せしめてきた事実は、多くの異安心研究の著書[1]に示すところである。また現今においても、異義異安心が宗祖・蓮師の名をかりて各地に跋扈している現状は遺憾に思う。
いま私は、それら異義異安心のなかより、現今最も大きな組織と信者を持つであるうと目される高森顕徹氏を会員とする「浄土真宗親鸞会」の主張と、その異義異安心性の一端を指摘せんとするものである。もちろん、高森氏は現在、本願寺教団人ではなくなっている[2]。異義異安心、特に異安心とは、基本的には同一教団内における用語ではあるが、しかし親鸞会は本願寺教団と宗祖を同じくし、聖教量を等しくし、しかも「浄土真宗」の宗名まで同一にするのであり、広く親鸞教学の上より、更に直接的には「聖人の仰せ」にあらざるものとしての立場より、親鸞会を異義異安心と断定したいと思う。以下その理由を論考せんとする。
一
現在、聖教をも含めて、親鸞会より出版されているものは次に挙げるごとくである。
- 一、『正信聖典』(親鸞会発行)
- 一、『御文章』(親鸞会発行)
- 一、『顕正』(高森顕徹著)
- 一、『こんなことが知りたい』(高森顕徹著)
- 一、『絶対の幸福』上・下(谷口春子書翰集)
- 一、『かくて私は人生の目的を知った』(浅倉 保著)
- 一、『顕正マンガ』(親鸞会発行)
- 一、『会報』(親鸞会発行)
- 一、『顕正新聞』(親鸞会発行)
の九種類に及び、この他、各地方における支部よりのパソフレット的なものは数多くあると推定される。
それら、高森氏の著書をはじめとし、新聞に至るまでの所謂「親鸞会」の思想及び主張を考察し、その特色を挙げると次のごとくであると思われる。
- 一、一念覚知を主張する。
- 一、歓喜正因を主張する。
- 一、善知識だのみを主張する。
- 一、地獄秘事を主張する。
- 一、この世の地獄・極楽を主張する。
- 一、本尊は六字名号のみとする。(不拝秘事の傾向あり)
- 一、俗諦門の軽視。
- 一、歎異抄の軽視。
- 一、霊魂の実在を認める。
- 一、年忌法要の無視。
以上の親鸞会の特色のなか、特にいま私がこの小論で論究せんとするのは、前四項、即ち一念覚知・歓喜正因・善知識だのみ・地獄秘事の問題である。しかし、この四項はそれぞれ独立した思想体系を持つのではなく、実は「善知識だのみ」をその基盤として相関関係、もしくは派生的関係を持つ思想的一連性をもつものであると思われる。よって、箇別に論考することは困難ではあるが、いまは拠勝為論して考察せんとする。
ニ
まず一念覚知の問題であるが、親鸞会の会員(信者)の信心獲得の告白を窺って見る。
- 四月十三日、私の信は全く驚くほどに決定しました。この時をもって私は先生の信界に対して全く一点の疑いも持たなくなった。(顕正新聞十二号・富山青年部長、大島清氏)
- 十一月八口午後三時五分、御仏壇のランカンの角で、銀の棒が五分置きにキラキラ光り輝いて下さった不思議なる体験をハッキリさせて頂きました。(絶対の幸福・上・五八・谷口春子女史)
- 昭和三十一年八月初めて尊い御法座にあわせていただきました。それからは尊い善知識高森先生を深く信じ、求道一すじに進ませていただいたのでございます。中略 そして翌年四月二十七日朝から如来の本願に救われました。(顕正新聞五号・滋賀県 大森ふみ子女史)
- 昭和四十三年四月三日。この目が私の第二の誕生日なのだ。中略 高森先生という方は何とすばらしい助産婦さんだ。亀井勝一郎なんて問題ではない。払をこんな見事に誕生させてしまったではないか。(人生の目的を知った・一三四・浅倉保氏)
等と示すごとく、大島氏の体験記をはじめ、みな「信心決定」の年月日を明記するのである。そして、その信心決定の状態を述べて、高森氏はその著『こんなことが知りたい』のなかで、
- 阿弥陀仏の救いは一念でなされます。阿弥陀仏は「ひとおもい」で絶対の幸福にしてみせると誓っていられるからです。これを聖人は「一念往生」とか、「一念の信心」とも仰言っています。中略 他力の信心を獲ると、火にさわったようにハッキリするものである。(こんなことが知りたい・三三)
と述べ、信の覚知を強張するのである。もちろん信の世界は主体的体験である以上、自己の心相の上に「疑蓋無雑[3]」の心相がなければならぬ。しかし、主体的体験なるがゆえに、またその感応は各人別々で一論に統べることを許さぬものであることも認めねばならぬはずである。高森氏は、この火にさわったようにハッキリすることを宗祖の上で語るのに、『御伝鈔』上の第二段古水入室を述べるに、
- 「真宗紹隆の大祖聖人、ことに宗の淵源をつくし、教の理致をきわめて、これを述べたまふにたちどころに、他力摂生の旨趣を受得し、あくまで凡夫直入の真心を決定しましけり」と記されています。法然上人の法話を聞いていられた時、たちどころ(一念)に他力の信心を獲得されたのです。(こんなことが知りたい三四~五)
と示し、たちどころ(一念)こそまさにその証拠であるとするのである。
そして、その一念が本人の自覚の上にあるか否かの問に対して、
- 腹痛でコロゲ廻っていた者が名医の注射一本で激痛がケロリと治まった時、治ったことが本人に判るものか、判らぬもの。か、という質問と同じことですから答えるのも阿呆らしいというのです。判らない人は救われていない者だということは火をみるよりも明らかです。(こんなことが知りたい。三八)
と答えるのである。この立場は更に『教行信証』信巻における信一念釈に、
- 一念とは、これ但乗開発の時尅之極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり(真聖全・二の七一)
とある文を解釈して、『顕正』には、
- 信楽開発する初起の一念であるから無念無想である筈は毛頭ないから、やはり明かな自覚である。若し無念無想なら開発とはいわない。(顕正・九九)
というのである。高森氏自身は「私は一念を実時で語ったことはない[4]」と述べているが、いま列挙した一連の文、特に時尅の一念釈については、親鸞会における一念覚知説、もしくはその淵源になっているとの推考は当を得るものと考えられるのである。時尅の一念は、一は初一であるが、念は心念の義ではなく、まさに時尅なのである。宗祖におけるこの時尅の一念釈の義は、信益同時を示さんとするものであって、宗祖は同じく第十八願成就文の「即得往生」を解釈して、『教行信証』行巻に、
- 即の言は願力を聞くに由って、報土の真因決定する時尅之極促を光悶せるなり。(真聖全・二の二二)
と、一念と即とをまったく同義にされてある。よって、この宗祖の一念釈は、一念の時を自覚せよというものでないことは明瞭である。これに対して、高森氏は時尅の一念を「無念無想でなく自覚である」と信相、しかも「自覚」という意業運想の用語でもって説明せんとするところに、一念の時尅の覚知が言裏に要請されるのであり、しかもその一念の自覚が「火にさわったようにハ″キリする」とか、「腹痛の病人が注射一本でケロリとなる、その時がわからぬでどうするか」というがごときは、直接年月日の覚知を論ぜずとも、聞く者をして、信心獲得の年月日の記憶に心を用いさせ或は心を運ばしめんとすることは蓋し当然といわねばならぬ。
三
次に、その一念の信心獲得の相状(仕模様)について親鸞会の主張を考察するに、谷口春子女史は、『絶対の幸福』のなかで、
- おどり上ったその時の喜びは、とても言葉にあらはされない、ロでいえるようなちっぽけなものではありませんでした。泉の如く救われた喜びが湧き上り、不思議不思議としか思えませんでした。そのようにして信心決定の身にさせていただいた私(絶対の幸福・下・一〇四)
と述べている。また高森氏自身四国での講演において、信心獲得のその時は、
- 釈尊、親鸞聖人、蓮如上人が、「踊躍歓喜」「広大難思の慶心」「うれしさを昔は袖に包みけり、今宵は身にも余りぬるかな」と教えられているように、心も言葉もたえた天に踊り地に躍る喜びである(顕正新聞一二一号)
と語るのである。この高森氏の主張は、先の時尅の一念釈において、「広大難思の慶心」を解釈するに、
- 一刹那に湧き上る慶びを広大難思の慶心と仰言ったので、無量永劫の流転の絆をたち切られて、地獄一定が極楽一定と転じ変り、功徳の大宝海をただ貰いさせられ、不可称不可説不可思議の功徳が身にみちて下された時の喜びは、至心信楽己を忘るるというも愚なり。真に手の舞い足の踏むところのない大歓喜が起るのだ。(顕正・一〇一)
と示すのである。先に私は親鸞会の特色の一つに歓喜正因の主張を挙げたが、その指すところはここにある。だからとて、高森氏を含め親鸞会の著述等のなかには信心正因を否定する文はどこにもない。しかし今の解釈のごとく、初起の一念に「広大難思の慶心」が私の身口意の三業に発勤し、事実天に踊り地に躍る喜びであるとの主張は、逆説すると天に踊り地に躍る精神的肉体的に歓喜の相の無き者は、未だ信心決定ができていないということになり、歓喜の相の顕著なる人をもって信心獲得の行者とするに至るのである。
宗祖においては「広大難思の慶心」とある「広大」とか「難思」とかの語は、「広大無碍の浄心[5]」とか、「難思の弘誓は難度海を度する大船[6]」とかに用いられるごとく、如来の救済の徳を示す言葉である。よって、いまも他力廻向の信心の徳の上から「広大難思の慶心」と讃嘆されるのであり、天に踊り地に躍るがごとき衆生の三業に発動した相について示すものではないのである。では、真宗において初起の一念に歓喜がないかというに、もちろん初起一念には歓喜がある。蓋し、初起一念の歓喜とは、本願招喚の勅命に疑い晴れた、即ち如来の勅命が私の心に印現した相をいうのである。これは歓喜といっても信心の異名であり、信楽の楽の字の意味である[7]。
さらに、蓮師の『御文章』一帖目の一に出す古歌を都度引用し、初起一念に三業に歓喜のある文証とするのであるが、この古歌を蓮師は自から解釈して。
- うれしさをむかしはそでにつつみけり、こよひは身にもあまりぬるかな。うれしさをむかしはそでにつつむといへるこころは、むかしは雑行・正行の分別もなく、念仏だにも中せば、往生するとばかりおもいつるこころなり。こよひは身にもあまるといへるは、正雑の分別をききわけ、一向一心になりて、信心決定のうへに仏恩報尽のために念仏まふすこころは、おほきに格別なり。かるがゆへに身のおきどころもなく、おどりあがるほどにおもふあひだよろこびは身にもうれしさがあまりぬるといへるこころなり。(真聖全・三の四〇三)
とある。即ち蓮師においては古歌引用の意味とは、「昔は雑行・正行の分別すら知らなかった私であるが、信心をいただいでよりいまは、ただ仏恩報謝の念仏をさせていただいている身の幸せを喜んでいる」というほどのことであり、躍り上る喜びがなければ信心獲得ではないという文証では更々ないのである。
四
初起一念に衆生の三業に大歓喜があるとする高森氏においては、当然その歓喜が、天に踊り地に躍るほどというがごとき人間感情の最高調にまで昇揚させるためには、実践的論理として何かそこにテクユックが秘められていると推測され得るのである。その秘決こそ、まさしく地獄秘事である。
高森氏は、入信の思想的形式論として、三重の廃立を主論とするが、そのなかで真仮廃立について、『こんなことが知りたい』のなかに、
- 真実の浄土仏教というのは、生命がけで弥陀の本願のいわれを善知識から聞いて、自分のはからいは何一つ間にあわなかったと、助かる望みのツナが叩き切られて地獄の釜底へ顛落した時、間髪を入れない一念に、たちどころに光明無碍の大慶喜の境地に踊り出させて下される。(こんなことが知りたい・六四)
というのである。この地獄一定と知らされることがまず信心獲得の必須条件であるとする思想は、顕正新聞においても盛んに主張するところである。いまその顕著な例を挙げるならば、
- 誰あって声のかけてのない苦しい悲しい失意のドン底につきおとされた時、始めて衆生苦悩我苦悩、衆生安楽我女楽と共に泣き、共に喜んで下さる阿弥陀仏の大慈悲が知らされるのだ。「地獄の釜の底に親株ござる」至言でばないか。(顕止新聞・一八号)
- 説く者も愛想つかし、求める者も精も根もつき果てて、悲泣悶絶叩き堕された無間のドン底から湧き上る驚天動地の大歓喜、今こそ明かに知れたりとおどり上る明かな世界が「弥陀タノム」世界である。(顕正新聞・七四号)
等である。自己の内省において地獄一定と堕ち切ることを条件として、必堕無間の後に大悲が知れるのだとの主張は、これまた二種深信における信機自力・信機正因の轍を踏む路線が敷かれるのである。
二種深信における信機正因説とは、わが機は地獄一定と堕ち切ることを絶対条件とするのであり、助くる法は弥陀の手元に成就されているから、これを眺める必要はない。もし法を眺めんとせば、そのことは法に手をかけることであって自力である。かえって眺めぬことこそが本願を深く信じていることであり、地獄一定と堕ち切ることが即信心であるとの論法である。即ち地獄一定と堕ち切ったのが機の深信、その時こそ、法の深信は求めずして来たるというのである[8]。先の高森氏の主張は、まさにこの信機自力説・信説正因説と一類であると思われる。だから信者も獲信の告白には、この形式をもってするのである。高森氏をして、「谷口春子さんの書かれていることは、私がいつも云っていることと全く同じだろう。春子さんが私の真似をしているのか、私が真似をしているのか」(顕正新聞・一二二号)とまでいわしめた谷口春子女史の『絶対の幸福』には、
「アア、自分のような者は絶対に助からぬ」と、もうこれ以上堕ちるところがないところまで堕ちてゆきました。ぞの地獄の底で生きた阿弥陀仏にお値いすることができたのです。(絶対の幸福・下・一〇四)
と獲信の告白を述べている。かくのごとく地獄秘事の主張は、二種深信における信機・信法の二種一具を、いたずらに二相に分離させ、機の一辺のみを執拗に衝き、意識的自己否定を踏み台として、獲信の大歓喜を目さんとする手法である。しかし所聞の法を無視するところに、どうして帰命の信心が起り得るのだろうか。帰命の信心のあり得ぬところに二種深信は成立するはずがなく、明確に論理の矛盾を暴露して余りあるといえる。
五
さきの地獄秘事、信機自力説の趣向するところ、また不拝秘事の墓穴を掘り急ぐことは、その論理のもつ必然の結果であると思惟される。親鸞会においてその顕著なる主張は、木像、絵像を排斥して名号本尊のみをもって真実の仏身であるとするのである。この本尊観の依り処は、蓮師の『御一代記間書』に、
- 他流には、名号よりは絵像、絵像よりは木像といふなり。当流には、木像よりはゑざふ、絵像よりは名号といふなり。(真聖全・三の五四九)
とあるのを文証とするのである。高森氏もこの蓮師の文を引用して次に、
- 「他流(迷っている者達)は、名号よりは絵像(絵にかいてある阿弥陀仏)が有難いし、絵像よりは木像の方がもっと有難く拝める」といって絵像や木像を本尊としている。しかし、浄土真宗、親鸞聖人は、「木像よりは絵像がましである。絵像よりも御名号が最もよいのだから真宗のものは、みな御名号を御本尊とせよ」と仰言っているのです。(こんなことが知りたい・八〇)
といい、具体的には入信者の家の仏壇より絵像等をおろさせ、六字尊号を礼拝の対象とさせるのである。しかも、その六字尊号は宗祖筆跡の模写であり名号の左横には親鸞名が記してあるものをもってするのである[9]。
この木像・絵像の無視、もしくは排撃は、一には宗祖・蓮師の時代的背景の無視であり、二には善巧方便の無理解によるものであると思われる。そして第三に特に注意すべきは、信機自力説の思想的必然であることである。この信機自力・信機正因の説は法の無視としての不拝であるから、やがては名号本尊をも卻けて、堕ち切ったわが機に向って合掌するがごとき方向へと転計することと推考[10]されるのである。これが所謂不拝秘事なるものである。
六
以上のごとく、一念覚知、歓喜正因、またそれより派生、もしくは関連する地獄秘事、信機自力説、そして信機自力説の必然の結果としての不拝秘事の一連の思想は、最初に述べたごとく、その思想的基盤は「善知識だのみ」にあると考えられるのである。これがために親鸞会よりの出版物には至るところに善知識の語を出し、具体的には高森氏がその位に坐している。例えば、
- 弥陀の本願、真実を開顕して下される人は日本広しと雖も何処にありましょうか。今やわが会長先生なければ親鸞会もなければ浄土真宗もなく真実の仏法もまたあり得ないのでございます。(顕正新聞・七九号)
と、高森氏を仏教の人師として唯一最高の位置ずけをし、ついには高森氏を仏身とみなすのである。『絶対の幸福』には、
- 尊き親鸞会の皆様。「信心決定」とは生き仏様先生の真実に、全生命を打ち込むところに始めて生かされた仏凡一体と成らせて頂き――踊躍歓喜の心が湧き出ずるので有ります。(絶対の幸福・上・二五)
と述べているがごときは、善知識だのみの典形であるといっても過言ではない。
もちろん、高森氏自身は、自分が善知識であるとの直接の発言を記せるところはどこにも見えないようである。しかし、氏の教学的見解を論ずる『会報』には、「善知識」と題して、真宗の教学構想を述べるのであり、その講座は四十八講に及び、これがために『会報』は四七回それのみに費されているのが実際である。そこにはまず、「一向に専ら無量寿仏を念ぜよ」と鮮明に徹底的に教え勧むる方こそ、まことの善知識である。(会報・一〇一)と布石しておいて、長々と三重の廃立を講ずるのであり、その所廃となる宗教を誹謗するにおいては毒舌これに過ぐるものはなしの感である。そして、、その「善知識」を結ぶに、
- 機の計らいを奪えるだけ奪い、罪悪の谷間に堕せるだけ堕して、生死の断頭台に生首を突き出して下さる峻厳火を吐き、鬼気迫る善知識の説法にあわなければ、突破出来ない難中之難の境地である。(会報・一四〇)
と示すのである。これを承けてか、さきの谷口春子女史は
- 尊き生き仏会長先生の底知れぬ深き情熱、広大なる真実の仏心を心の奥底より感謝せずには居られません。(絶対の幸福上・三一)
と述べて、高森氏の論説に呼応するのである。更に女史は、『絶対の幸福』のなかに妙好人に凝してか歌を多く詠んでいるが、そのなか善知識に関する二三の歌を挙げると、
- 先生の姿かたちは変らねど 抱れし弥陀の声がする 春子
- 生き仏 顔で笑って 心で泣いて 信じてくれよと お呼びづめ 春子
- 浮気では六字の真いただけぬ 燃ゆる心で惚れこんでみよ 春子
とのごとく、まさに都々逸的であるが決して笑うことなかれ。女史は次に
- 真剣になってお味わい下さい。宿善を積んで一日も早く大安心の身の上にならせて頂き、生き仏様先生に慶んで頂きましょうね。(絶対の幸臨・下・七四)
といっていることを付しておく。谷口春子女史の『絶対の幸福』上・下二巻は、親鸞会において、宗教体験の書として、或は親鸞会的人間像の書物として極めて重要な地位を占めていることは、先の高森氏の「春子さんが真似たのか私が春子さんの真似をしたのか」の発言においても明瞭である。親鸞会において高森氏が教学面を担当するなら、谷口女史はその実践の指導者的存在であるといってもよく、両者は車の両輪的関係であると見ても過失ではあるまい。その女史をして、高森氏自身を「尊き善知識会長先生[11]」とか、「生き仏様会長先生」とかいわしめて、自分は女史の著書を全面的に支持すると公表するのであるから、実に巧妙な方法で結論的には、高森氏自身が善知識であることを是認しているのである。よって、この結論が実は親鸞会の思想の出発点であるともいい得るのである。
次に、真宗教学において「善知識だのみ」の起こりうる理由を考察せねばならぬが、この問題は、多くの異安心研究書のいずれにも解説考究がなされているところである。しかし、いま私は親鸞会の主張を考慮しながら、次の三点を特に指摘しておきたい。
- 一、仏身観の問題―ともすると仏の存在が観念的に考えられ易いのに対し、血の通った善知識こそ真の生き仏であるとする方が直接的であり魅力的であること。
- 一、信心獲得の認可の問題―信心決定に認可のなきものはたよりなく、はっきり信心決定の認可を他より宣言してもらいたいこと。
- 一、聖浄未分の開題―善知識の内容は生き仏であり、これは聖道門の即身成仏に通ずる。また此の土の往生、地獄極楽はこの世にあるとする主張[12]は、聖道門の娑婆即寂光土の思想の混入である。
そして、この三点に共通していることは、いずれも人間的感情を宗教的世界へ移行することである。このことは人間的自我愛を宗教的ムードのなかで肯定せんとするものである。それは真宗のもつ宗教的純粋性の破壊であり、真実に照らし出された自己の姿を未だ知らざる者の思索である。これを逆よりいえば、未だ真実に遇わざる者、如来の招換の勅命が聞こえざる徒の妄想であり弄言であるということである。
いうまでもなく、真宗の信仰は、弥陀一仏に帰命して、浄土に往生し仏果を得証することを信ずるのであり、仏と私との直接のまじわりの世界である。これに対し、知識帰命は法を説く善知識に帰命の対象が向けられるのであって、先の谷口女史のごとく「信心決定とは生き仏様会長先生の真実に、全生命を打ちこむところに仏凡一体と或る」との主張を是認するにおいては、親鸞会の信仰は真宗の信仰とまったくかかわり合いの無いところである。
それではなぜ、宗祖の信心とまったく異質と断定される親鸞会が、多くの信者を、しかもその大半が真宗門徒であった人を集めているのか。この問題はまた別に考察すべき重要な課題である。しかし、いまその一端を指摘するなれば、内面的には、先に述べたごとく、人間的自我愛の素朴的肯定であり、外面的には、高森氏自身の教祖的要素と、組織論にあると思考される。蓋し、この問題は未だ推察の域を脱し得ず、今後の調査研究に譲りたい。更に、最初に親鸞会の特色のいくつかを挙げながらも紙数の関係で全体を論究できず割愛せざるを得なかったことを容赦願いたい。
注釈
- ↑ 中島覚売氏著『異安心史』・水谷寿氏著『異安心史の研究』・中井玄道勧学著『異安心の種々相』・石田充之博士著『異安心』・勧学寮『異安心解説』・大原性実博士『真宗教学史』究第三巻参照。
- ↑ 昭和四五年六月二七日をもって帰俗す。『親鸞会の組織及び活動』一頁参照。
- ↑ 『教行信証』信巻(真聖全・二の六八頁)参照。
- ↑ 高森顕徹氏著『顕正』七五頁。
- ↑ 『文類聚紗』真聖全・二の四四六頁。
- ↑ 『教行信証』総序・真聖全・二の一頁。
- ↑ 大江淳誠博士著『安心論題講述』七八頁・大原性実博士著『真宗教学史研究』第三巻四一六頁参照。
- ↑ 大原性実博士『真宗教学史研究』第三巻四二〇頁。
- ↑ 『親鸞会の組織及び活動』六頁参照。
- ↑ 大原性実博土著『真宗教学史研究』第三巻四二七頁参照。
- ↑ 谷口春子女史書翰集『絶対の幸福』下巻四四頁。
- ↑ 『顕正新聞』第十四号・第七五号参照。