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「法然教学の研究 /第二篇/第七章 法然聖人における一念多念の問題」の版間の差分

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==法然教学の研究 /第二篇/第七章 法然聖人における一念多念の問題==
 
 
===第七章 法然聖人における一念多念の問題===
 
===第七章 法然聖人における一念多念の問題===
 
====第一節 一念多念の諍い====
 
====第一節 一念多念の諍い====
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 隆寛は、少くともその『一念多念分別事』や『後世物語聞書』などをみるかぎりでは、多念義とはいえない。特に『一念多念分別事』には、
 
 隆寛は、少くともその『一念多念分別事』や『後世物語聞書』などをみるかぎりでは、多念義とはいえない。特に『一念多念分別事』には、
  
:念仏の行につきて、一念多念のあらそひ、このごろさかりにきこゆ。これはきはめたる大事なり。よくくつつしむべし。一念をたてゝ多念をきらひ、多念をたてゝ一念をそしる、ともに本願のむねにそむき、善導のをしへをわすれたり・・・・・・かへすがへすも、多念すなはち一念なり、一念すなはち多念なりといふことわりをみだるまじきなり。<ref>『一念多念分別事』(真聖全二・七六六頁)</ref>
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:念仏の行につきて、一念多念のあらそひ、このごろさかりにきこゆ。これはきはめたる大事なり。よくくつつしむべし。一念をたてゝ多念をきらひ、多念をたてゝ一念をそしる、ともに本願のむねにそむき、善導のをしへをわすれたり・・・・・・かへすがへすも、多念すなはち一念なり、一念すなはち多念なりといふことわりをみだるまじきなり<ref>『一念多念分別事』(真聖全二・七六六頁)</ref>
  
 
といい、一念多念の両派をきびしく批判されている。隆寛は一念を、一声の称名のこととみているから、行の一念であった。もっとも『散善義問答』に、
 
といい、一念多念の両派をきびしく批判されている。隆寛は一念を、一声の称名のこととみているから、行の一念であった。もっとも『散善義問答』に、
  
:念仏行一発心後、至往生期、不可退転勧進也。以何故者、正乗本願事最後一念也。正乗 蓮台事臨終一念、以尋常一念、有乗本願、善導懐感等人是也。其余行人、以尋常念仏力、成就最後正念乗本願也。{{BT|mark1}}{{SH3|mark1|念仏の行は一発心の後、往生の期に至るまで退転すべからずと勧進なり。何を以ての故にとは、正しく本願に乗ずることは最後の一念なり。正しく蓮台に乗ずることは臨終の一念なり。尋常の一念を以て本願に乗ずることあり、善導、懐感等の人これなり。その余の行人は、尋常念仏の力を以て、最後の正念を成就して本願に乗ずるなり。}}
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:念仏行一発心後、至往生期、不可退転勧進也。以何故者、正乗本願事最後一念也。正乗 蓮台事臨終一念、以尋常一念、有乗本願、善導懐感等人是也。其余行人、以尋常念仏力、成就最後正念乗本願也。<ref>『散善義問答』(隆寛全・一五頁)</ref> {{SH3|mark1|念仏の行は一発心の後、往生の期に至るまで退転すべからずと勧進なり。何を以ての故にとは、正しく本願に乗ずることは最後の一念なり。正しく蓮台に乗ずることは臨終の一念なり。尋常の一念を以て本願に乗ずることあり、善導、懐感等の人これなり。その余の行人は、尋常念仏の力を以て、最後の正念を成就して本願に乗ずるなり。}}
  
といわれたものなどによると、多念を勧め、臨終業成を主張されるもので、まさに多念義の典型のようにもみられる。『浄土源流章』に隆寛の思想を紹介して、長楽寺隆寛律師立多念義、・・・・・・行者修習念仏妙行、其業成就心在臨終、平生之間、雖相続修往生業因、未能成就、是故一形至 最後念、相続勤修、臨終業成、即見仏等。
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といわれたものなどによると、多念を勧め、臨終業成を主張されるもので、まさに多念義の典型のようにもみられる。『浄土源流章』に隆寛の思想を紹介して、
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:長楽寺隆寛律師立多念義、・・・・・・行者修習念仏妙行、其業成就心在臨終、平生之間、雖相続修往生業因、未能成就、是故一形至 最後念、相続勤修、臨終業成、即見仏等。 {{SH3|mark2|長樂寺隆寛律師は多念の義を立つ。・・・・行者、念佛の妙行を修習して、その業成就すること臨終にあり。平生の間は相続して往生の業因を修すといえども、成就すること能わず。是の故に一形最後の念に至るまで相続勤修して臨終に業成じて即ち仏等を見て、命終りて蓮に座し即ち彼土に生ず。}}
  
といったのは、隆寛の思想の一面をたしかにあらわしている。しかし上述の『一念多念分別事』の思想とあわせ考えるならば、石田充之氏もいわれるように、平生業成説に即する臨終業成説とでもいうべきものであろう。
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といったのは、隆寛の思想の一面をたしかにあらわしている。しかし上述の『一念多念分別事』の思想とあわせ考えるならば、石田充之氏もいわれるように、平生業成説に即する臨終業成説とでもいうべきものであろう。<ref>石田充之『法然上人門下の浄土教学の研究』上(二三二頁)</ref>
  
 聖覚は承久三年(一二二二)にあらわした『唯信鈔』のなかで一念多念の諍いにふれ
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 聖覚は承久三年(一二二二)にあらわした『唯信鈔』のなかで一念多念の諍いにふれ、
:つぎに念仏を信ずる人のいはく、往生浄土のみちは、信心をさきとす、信心決定しぬるには、あながちに称念を要とせず、経にすでに乃至一念ととけり、このゆへに一念にてたれりとす、遍数をかさねむとするは、かへりて仏の願を信ぜざるなり、念仏を信ぜざる人とて、おほきにあざけり、ふかくそしると。
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:つぎに念仏を信ずる人のいはく、往生浄土のみちは、信心をさきとす、信心決定しぬるには、あながちに称念を要とせず、経にすでに乃至一念ととけり、このゆへに一念にてたれりとす、遍数をかさねむとするは、かへりて仏の願を信ぜざるなり、念仏を信ぜざる人とて、おほきにあざけり、ふかくそしると。<ref>『唯信鈔』(真聖全二・七五四頁)</ref>
  
 
というような信一念をたてて多念相続をそしる一念義のあったことを伝えている。そして聖覚は、「この説ともに得失あり、往生の業一念にたれりといふは、その理まことにしかるべしといふとも、遍数をかさぬるは不信なりといふ、すこぶるそのことばすぎたり」と批判し、法然以来の伝統の正義として「一念決定しぬと信じて、しかも一生おこたりなくまふすべきなり」と断定している。
 
というような信一念をたてて多念相続をそしる一念義のあったことを伝えている。そして聖覚は、「この説ともに得失あり、往生の業一念にたれりといふは、その理まことにしかるべしといふとも、遍数をかさぬるは不信なりといふ、すこぶるそのことばすぎたり」と批判し、法然以来の伝統の正義として「一念決定しぬと信じて、しかも一生おこたりなくまふすべきなり」と断定している。
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 親鸞が、関東の門弟たちのなかに、一念多念の諍いが発生したとき、隆寛や聖覚の書をすすめて教導し、みずからも『一念多念文意』をあらわされたことは周知の如くである。そこには「一念をひがごとゝおもふまじき事」といって、信一念に往生が定まるということも、行一念が無上功徳をもつ業因であることも、経釈の実義であるといい、また「多念をひがごとゝおもふまじき事」といって、一念にかぎらず「乃至十念」と誓われた仏意にしたがって生涯念仏相続すべきことをすすめ、
 
 親鸞が、関東の門弟たちのなかに、一念多念の諍いが発生したとき、隆寛や聖覚の書をすすめて教導し、みずからも『一念多念文意』をあらわされたことは周知の如くである。そこには「一念をひがごとゝおもふまじき事」といって、信一念に往生が定まるということも、行一念が無上功徳をもつ業因であることも、経釈の実義であるといい、また「多念をひがごとゝおもふまじき事」といって、一念にかぎらず「乃至十念」と誓われた仏意にしたがって生涯念仏相続すべきことをすすめ、
  
:これにて一念多念のあらそひあるまじきことはおしはからせたまふべし。浄土真宗のならひには、念仏往生とまふすなり、またく一念往生、多念往生とまふすことなし。
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:これにて一念多念のあらそひあるまじきことはおしはからせたまふべし。浄土真宗のならひには、念仏往生とまふすなり、またく一念往生、多念往生とまふすことなし。<ref>『一念多念文意』(真聖全二・六一九頁)</ref>
  
 
と誡めておられる。
 
と誡めておられる。
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 弁長の『浄土宗名目問答』下の初に
 
 弁長の『浄土宗名目問答』下の初に
  
:問、同雖 浄土宗一門者、一念之流、数遍之流、水火相分、一念之人、咲 数遍之輩難行苦行、数遍之人謗一念之輩無行無修、互成<偏執、何悪何善、誠以其是非難 知、何将弁 是善悪、付 一方 固 其心、止 迷惑念、一向調 往生之行願、今度往生浄土、出離生死。
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:問、同雖 浄土宗一門者、一念之流、数遍之流、水火相分、一念之人、咲 数遍之輩難行苦行、数遍之人謗一念之輩無行無修、互成 偏執、何悪何善、誠以其是非難 知、何将弁 是善悪、付 一方 固 其心、止 迷惑念、一向調 往生之行願、今度往生浄土、出離生死。<ref>『浄土宗名目問答』下(浄全一〇・四一三頁)</ref>{{SH3|mark3|問ふ、同じく浄土宗の一門といえども、一念の流れ、数遍の流れ、水火あい分けて、一念の人、数遍の輩の難行苦行をわらい、数遍の人は一念の輩は無行無修と謗る。たがいに偏執を成して、何悪何善、誠に以てその是非知り難し。なんぞまさにこの善悪を弁ずれば、一方についてその心を固め、迷惑の念を止め、一向に往生の行願を調え、今度の浄土往生を生死を出離す。}}
  
という問いを出している。これによって一念義と多念義が水火の如く分れて論諍していたことがわかるが、弁長は、そのどちらが善であるかを決択して、その一方について心を固め、往生の行願を調えるように勧めている。そして答釈においては、『大経』の「精明求願積累善本、雖一世勤苦須臾之間、後生無量寿仏国、快楽無極」の文をはじめ、善導の『観念法門』の「大須精進、或得三万六万十万者、皆是上品上生人」等の文を多く引いて多念義を以て正義とし、一念義を邪義と定めている。すなわち一念義は、三心、四修、五念の法義に背くものとして専修の行者ではないというのである。そして多念相続の行儀としては四修の法により、また尋常行儀、別時行儀、臨終行儀を用うべきであるとすすめている。特に臨終行儀を重視し、臨終正念を祈り、臨終来迎を期するのが浄土教の伝統であるとして、平生に往生が定まると語り、臨終はたとえ悪相であっても往生すというような一念義は邪義であるといっている。
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という問いを出している。これによって一念義と多念義が水火の如く分れて論諍していたことがわかるが、弁長は、そのどちらが善であるかを決択して、その一方について心を固め、往生の行願を調えるように勧めている。そして答釈においては、『大経』の「精明求願積累善本、雖一世勤苦須臾之間、後生無量寿仏国、快楽無極」{{SH3|mark4|精明に求願して善本を積累せよ。一世に勤苦すといへども須臾のあひだなり、後に無量寿仏国に生れて快楽極まりなし。}}の文をはじめ、善導の『観念法門』の「大須精進、或得三万六万十万者、皆是上品上生人」{{SH3|mark5|大きにすべからく精進すべし。あるいは三 万・六万・十万を得るものは、みなこれ上品上生の人なり。}}等の文を多く引いて多念義を以て正義とし、一念義を邪義と定めている。すなわち一念義は、三心、四修、五念の法義に背くものとして専修の行者ではないというのである。そして多念相続の行儀としては四修の法により、また尋常行儀、別時行儀、臨終行儀を用うべきであるとすすめている。特に臨終行儀を重視し、臨終正念を祈り、臨終来迎を期するのが浄土教の伝統であるとして、平生に往生が定まると語り、臨終はたとえ悪相であっても往生すというような一念義は邪義であるといっている。
  
 
 弁長は『念仏名義集』中にも、一念義とは「三万六万返ノ念仏ヲハ捨ヨ、其ハ念仏ノ義ヲモ不<k>レ</k>知者コソ左様ニ数多ク申ス也、其ハ迷ヘル人也、実シクハ念仏ヲハ申サネトモ一念往生スル也、深義アリ是ヲ学ベ」と教えるものであるといい、これによって、
 
 弁長は『念仏名義集』中にも、一念義とは「三万六万返ノ念仏ヲハ捨ヨ、其ハ念仏ノ義ヲモ不<k>レ</k>知者コソ左様ニ数多ク申ス也、其ハ迷ヘル人也、実シクハ念仏ヲハ申サネトモ一念往生スル也、深義アリ是ヲ学ベ」と教えるものであるといい、これによって、
  
:是ヲ聞侭ニ皆人人三万六万ノ念仏ヲ捨テ 口<kana>徒(いたずら)</kana>ニ成ヌ、手空クシテ徒者ニ成ヌ、怖々、サテ罪ヲ恐ルル人モ任其法<罪ヲ造リ、六斎十斎ノ斎戒ノ人モ其日ヨリ狩漁ヲシ、尼法師ハ乍<<袈娑<<魚鳥<、人ノ見聞ヲ不<憚、 世人男女人目ヲツツム事<テコソ候ヘ、今ハ人目ヲツツムヲ虚仮ノ行ナントト云テ、可<耻仏ニハ不<耻、人見  ヲ耻ルヲ虚仮ノ念仏者也ト笑テ、本願念仏ノ深サハ人目ヲツツム事更<無トテ、黒衣ト女ト二人ツレアルキ、
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:是ヲ聞侭ニ皆人人三万六万ノ念仏ヲ捨テ 口<kana>徒(いたずら)</kana>ニ成ヌ、手空クシテ徒者ニ成ヌ、怖々、サテ罪ヲ恐ルル人モ任其法 罪ヲ造リ、六斎十斎ノ斎戒ノ人モ其日ヨリ狩漁ヲシ、尼法師ハ乍 懸 袈娑 食 魚鳥 、人ノ見聞ヲ不憚、世人男女人目ヲツツム事 テコソ候ヘ、今ハ人目ヲツツムヲ虚仮ノ行ナントト云テ、可 耻仏ニハ不 耻、人見  ヲ耻ルヲ虚仮ノ念仏者也ト笑テ、本願念仏ノ深サハ人目ヲツツム事更 無トテ、黒衣ト女ト二人ツレアルキ、或ハ尼ト法師ト二人不 憚墨染ノ肩ノ上ニ持 魚、尼ノ黒衣ノ袖ノ上ニラキヲツツム、此事 可 怖可怖。<ref>『念仏名義集』中(浄全一〇・三七五頁)</ref>
:或ハ尼ト法師ト二人不<憚墨染ノ肩ノ上ニ持<魚、尼ノ黒衣ノ袖ノ上ニ<ラキヲツ、ム、此事可<怖可<怖。
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とその行状をきびしく非難している。その他肥後国に行われているという相続開会の一念義という邪教なども紹介している。弁長の批判には誇張もあったと思うが、一念義系の造悪無碍者の言動には目をおおわしむるものもあったにちがいない。
 
とその行状をきびしく非難している。その他肥後国に行われているという相続開会の一念義という邪教なども紹介している。弁長の批判には誇張もあったと思うが、一念義系の造悪無碍者の言動には目をおおわしむるものもあったにちがいない。
  
 一念義の主唱者は、法本房行空と、成覚房幸西であったということは、『法水分流記』にも見られるが、当時の記録の諸所にでている。行空については『三長記』元久三年二月十四日条に、安楽房遵西とともに、この日院の庁へ召出され、罪科を行われることになったといい、「安楽房者勧進諸人、法々房者立一念往生義、仍可被配流此両人之由、山階寺衆徒重訴申之、仍及此沙汰歟」と記している。これによって法本房行空は一念義を立てたことを理由に、興福寺から流罪にせよという重訴があったことがわかる。興福寺の衆徒が、法然一門を罪科に処し、専修念仏を停止せよと奏上したのは元久二年十月(一二〇五)のことであったが、その後も幾度も重訴しており、元久三年二月廿一日にも、興福寺の五師三綱が藤原良経(兼実の二男で当時摂政であった)に強訴し、「源空仏法怨敵也、子細度々言上了、其身并弟子安楽、成覚此弟子未知名字、住蓮、法本等、可被行科・・・・・・」といったといわれる。このなかで住蓮と安楽は諸人勧化が問題だったし、法本と成覚房幸西とは一念義が問題視されたわけである。結局行空と安楽房遵西とは、元久三年二月三十日に、「偏執、傍輩に過ぐ、」というので罪科に処せられることになったが、行空は、殊に不当であるというので、「源空、一弟を放ち了ぬ」といい、破門に処せられたことがわかる。たしかに行空が一念義を唱えたことは事実であろうが、『三長記』所引の宣旨に「沙門行空忽立一念往生之義、故勧十戒毀化之業、恣謗余仏、願進其念仏行」とあることが、そんなに悪行であったかどうかは問題である。尚この翌年建永二年(承元元年)二月に行われた承元(建永)の法難に際して、住蓮、安楽等四人が死罪になり、行空は佐渡へ流刑、その後は不明である。
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 一念義の主唱者は、法本房行空と、成覚房幸西であったということは、『法水分流記』にも見られるが、当時の記録の諸所にでている<ref>『法水分流記』(幸西一〇頁・行空二九頁)、日蓮『一代五時図』(日蓮遺文全・上・四二〇頁)</ref>。行空については『三長記』元久三年二月十四日条に、安楽房遵西とともに、この日 院の庁へ召出され、罪科を行われることになったといい、「安楽房者勧進諸人、法々房者立一念往生義、仍可被配流此両人之由、山階寺(興福寺の古称)衆徒重訴申之、仍及此沙汰歟」<ref>◇林遊註:安楽房は諸人を勧進し、法々房は一念往生の義を立つ。しきりにこの両人を配流せるべくの由、興福寺の衆徒、重訴してこれを申す。しきりにこの沙汰に及ぶか。</ref>と記している。これによって法本房行空は一念義を立てたことを理由に、興福寺から流罪にせよという重訴があったことがわかる。興福寺の衆徒が、法然一門を罪科に処し、専修念仏を停止せよと奏上したのは元久二年十月(一二〇五)のことであったが、その後も幾度も重訴しており、元久三年二月廿一日にも、興福寺の五師三綱が藤原良経(兼実の二男で当時摂政であった)に強訴し、「源空仏法怨敵也、子細度々言上了、其身并弟子安楽、成覚此弟子未知名字、住蓮、法本等、可被行科・・・・・・」<ref>◇林遊註:源空は仏法の怨敵なり。仔細たびたび言上しおわんぬ。その身ならびに弟子安楽、成覚この弟子いまだ名字を知らず。住蓮、法本等に行科をこうむらすべし。</ref> といったといわれる。このなかで住蓮と安楽は諸人勧化が問題だったし、法本と成覚房幸西とは一念義が問題視されたわけである。結局行空と安楽房遵西とは、元久三年二月三十日に、「偏執、傍輩に過ぐ、」というので罪科に処せられることになったが、行空は、殊に不当であるというので、「源空、一弟を放ち了ぬ」といい、破門に処せられたことがわかる。たしかに行空が一念義を唱えたことは事実であろうが、『三長記』所引の宣旨に「沙門行空忽立一念往生之義、故勧十戒毀化之業、恣謗余仏、願進其念仏行」<ref>◇林遊註:沙門行空はたちまちに一念往生の義を立つ。ゆえに十戒毀化の業を勧む。ほしいままに余仏を謗り、その念仏の行を願進す。</ref>とあることが、そんなに悪行であったかどうかは問題である。尚この翌年建永二年(承元元年)二月に行われた承元(建永)の法難に際して、住蓮、安楽等四人が死罪になり、行空は佐渡へ流刑、その後は不明である。<br />
 
幸西は流罪となったが、無動寺の善題大僧正(前大僧正-慈鎮?)が申しあずかったといわれている。尚、幸西は嘉禄の法難(一二二七)には壱岐へ流罪ときまったが、讃岐あたりを経廻していたようである。宝治元年(一二四七)八十五歳で入寂したといわれている。
 
幸西は流罪となったが、無動寺の善題大僧正(前大僧正-慈鎮?)が申しあずかったといわれている。尚、幸西は嘉禄の法難(一二二七)には壱岐へ流罪ときまったが、讃岐あたりを経廻していたようである。宝治元年(一二四七)八十五歳で入寂したといわれている。
  
 行空の一念義がどのようなものであったかはわからない。ただ弁長の『浄土宗要集』に「法本房云、念者思ヨム、サレバ非<称名<云云」といい、行空は念仏の念を思念(心念)とみて口称としなかったといっているから、心念を重視したようであるが、それがはたして称名を否定していたかどうかは不明である。また弁長の『末代念仏授手印』に「或人云、寂光土往生尤是殊勝也、称名往生是初心之人往生也、其寂光土往生尤深也」というある人の説をあげているのを、良心の『授手印決答巻下受決鈔』には「美濃国法報房云人立<此義<」といって、常寂光土義を行空の説としているが、何を根拠にそういっているのかわからないから、にわかに信用できない。
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 行空の一念義がどのようなものであったかはわからない。ただ弁長の『浄土宗要集』に「法本房云、念者思ヨム、サレバ非 称名 云云」といい、行空は念仏の念を思念(心念)とみて口称としなかったといっているから、心念を重視したようであるが、それがはたして称名を否定していたかどうかは不明である。また弁長の『末代念仏授手印』に「或人云、寂光土往生尤是殊勝也、称名往生是初心之人往生也、其寂光土往生尤深也」というある人の説をあげているのを、良心の『授手印決答巻下受決鈔』には「美濃国法報房云人立 此義 」といって、常寂光土義を行空の説としているが、何を根拠にそういっているのかわからないから、にわかに信用できない。
  
 
 幸西の一念義は、現存する『玄義分抄』と凝然の『浄土源流章』所引の幸西の著書の諸文によって、ほぼ窺うことができる。
 
 幸西の一念義は、現存する『玄義分抄』と凝然の『浄土源流章』所引の幸西の著書の諸文によって、ほぼ窺うことができる。
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 『浄土源流章』には、
 
 『浄土源流章』には、
  
    幸西大徳立<一念義<、言<一念<者仏智一念、正指<仏心<<念心<、凡夫信心冥<会仏智<、仏智一念是弥陀本願、行者信念与<仏心<相応、心契<仏智願力一念<、能所無二、信智唯一、念念相続決定往生・・・・・・願心所成即是仏智、智上具有<諸宿願力<、是故智体願力所成、是故弥陀所有種智名為<智願<、是名<仏智一念心<、行者信心、契<此智<故、念念即与<仏智<相応。
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:幸西大徳立 一念義 、言 一念 者仏智一念、正指 仏心 為 念心 、凡夫信心冥 会仏智 、仏智一念是弥陀本願、行者信念与 仏心 相応、心契 仏智願力一念 、能所無二、信智唯一、念念相続決定往生・・・・・・願心所成即是仏智、智上具有 諸宿願力 、是故智体願力所成、是故弥陀所有種智名為 智願 、是名 仏智一念心 、行者信心、契 此智 故、念念即与 仏智 相応。
  
 
と解説されている。これによれば幸西のいう一念とは、仏智の一念であり、仏智の一念とは、願力所成の弥陀の一切種智をいうから、智願海ともいわれるものである。凡夫が念仏往生の本願を信ずるということは、この仏智願力と相応し、能信と所信が相応し一体となり、信智唯一となることであり、この信智唯一なる信心が念々相続して決定往生をとげるというのである。凡夫の信心の一念が往生の因となるというのも、このような仏智一念と一体であるような信心だからである。このように仏心と信心が一つになっている状態を本願に乗託するというのであり、それを開けば三心ともなるという。すなわち『浄土源流章』所引の『一渧記』によれば、
 
と解説されている。これによれば幸西のいう一念とは、仏智の一念であり、仏智の一念とは、願力所成の弥陀の一切種智をいうから、智願海ともいわれるものである。凡夫が念仏往生の本願を信ずるということは、この仏智願力と相応し、能信と所信が相応し一体となり、信智唯一となることであり、この信智唯一なる信心が念々相続して決定往生をとげるというのである。凡夫の信心の一念が往生の因となるというのも、このような仏智一念と一体であるような信心だからである。このように仏心と信心が一つになっている状態を本願に乗託するというのであり、それを開けば三心ともなるという。すなわち『浄土源流章』所引の『一渧記』によれば、
  
:如来能度是心、心者智、能度<物真実唯一念心也。衆生所<度是亦心、心者智、智所<度、正門無<外、是即心、一乗不<他是即心、捨<邪心也、帰<正心也、捨<小心也、採<大心也、捨<漸心也、採<頓心也、
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:如来能度是心、心者智、能度 物真実唯一念心也。衆生所 度是亦心、心者智、智所 度、正門無 外、是即心、一乗不 他是即心、捨 邪心也、帰 正心也、捨 小心也、採 大心也、捨 漸心也、採 頓心也、
:捨<聖心也、採<凡心也、二河亦心也、白道亦心也、是亦唯一念心也、是名<真実心<、是名<深心<、是名<願心<
+
:捨 聖心也、採 凡心也、二河亦心也、白道亦心也、是亦唯一念心也、是名 真実心 、是名 深心 、是名 願心 、
:故云具<此三心<必得<生也已上、約<義有<三心<、尅<体唯一念、信<願託<願契<智之心、与<仏智<冥体无二故。
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:故云具 此三心 必得 生也已上、約 義有 三心 、尅 体唯一念、信 願託 願契 智之心、与 仏智 冥体无二故。
  
といわれている。すなわち能救能度の真実なる仏心と、所救所度の衆生の心とが一体となった状態を、衆生の方でいえば信心であり信智である。このような信心の智が、幸西のいわゆる凡頓一乗すなわち弘願一乗の体なのであって、この心によって捨<邪帰<正、捨<小採<大、捨<漸採<頓、捨<聖採<凡するのであり、この心が三心であるから『観経』には「具此三心必得生」といわれるというのである。
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といわれている。すなわち能救能度の真実なる仏心と、所救所度の衆生の心とが一体となった状態を、衆生の方でいえば信心であり信智である。このような信心の智が、幸西のいわゆる凡頓一乗すなわち弘願一乗の体なのであって、この心によって捨 邪帰 正、捨 小採 大、捨 漸採 頓、捨 聖採 凡するのであり、この心が三心であるから『観経』には「具此三心必得生」といわれるというのである。
  
 
 このように幸西は、仏智と冥合した信の一念を強調しているが、決して称名を否定しているわけではない。『源流章』に、
 
 このように幸西は、仏智と冥合した信の一念を強調しているが、決して称名を否定しているわけではない。『源流章』に、
  
:問法蔵弥陀以<何専為<報仏浄土生因本願<、答四十八中第十八願、称名念仏為<生因願<、略料簡云、報仏報土而 指<方、本誓重願唯名号、十念念数、不<<時、別意弘願全異<余已上、既言<唯名号<、故生因願唯称<仏名<、  非<身意業<、凡夫至心称<仏名号<、頓超<娑婆<<初地位<、良以<如来不可思議宿願増上強縁力<故。
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:問法蔵弥陀以 何専為 報仏浄土生因本願 、答四十八中第十八願、称名念仏為 生因願 、略料簡云、報仏報土而 指 方、本誓重願唯名号、十念念数、不 指 時、別意弘願全異 余已上、既言 唯名号 、故生因願唯称 仏名 、  非 身意業 、凡夫至心称 仏名号 、頓超 娑婆 入 初地位 、良以 如来不可思議宿願増上強縁力 故。
  
 
というように、幸西は第十八願を称名往生の願とみ、称名を生因法と誓われていることは当然認めているわけである。彼にとって信一念は、むしろ称名往生成立の根拠だったのであろう。『源流章』に彼の所立を一念義という所以を釈して、
 
というように、幸西は第十八願を称名往生の願とみ、称名を生因法と誓われていることは当然認めているわけである。彼にとって信一念は、むしろ称名往生成立の根拠だったのであろう。『源流章』に彼の所立を一念義という所以を釈して、
  
:念仏往生、具周成立、必由<信心与<彼仏智一念之心<、相応契会、此事成立、任運往生、不<<時節久近早晩、 念修多少、事業浅深<、略料簡云、仏心相応時業成、無<<時節之早晩<已上、彼所立義名<一念義<、専由<是所成旨帰<
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:念仏往生、具周成立、必由 信心与 彼仏智一念之心 、相応契会、此事成立、任運往生、不 由 時節久近早晩、 念修多少、事業浅深 、略料簡云、仏心相応時業成、無 問 時節之早晩 已上、彼所立義名 一念義 、専由 如   是所成旨帰 。
  
といっている。すなわち称名往生成立の根源は、本願にあるが、その選択の願心を信知し、弥陀の智願海と相応契会する信心がなければ、真実に念仏往生と信受することはできない。逆にいえば、念仏往生と信知する信心は、仏智一念と冥合し、能所一体となっていて信体即仏智であるような信心であって、このような信が、法然のいわゆる「念仏行者必可具足三心」の三心であり、「涅槃之城以<信為<能入<」の信心であるというのであろう。
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といっている。すなわち称名往生成立の根源は、本願にあるが、その選択の願心を信知し、弥陀の智願海と相応契会する信心がなければ、真実に念仏往生と信受することはできない。逆にいえば、念仏往生と信知する信心は、仏智一念と冥合し、能所一体となっていて信体即仏智であるような信心であって、このような信が、法然のいわゆる「念仏行者必可具足三心」の三心であり、「涅槃之城以 信為 能入 」の信心であるというのであろう。
  
 
 なお幸西が「仏心相応時業成」といっていることは、念仏往生と本願を信じ、仏心と相応した一念に業事成弁し、不退の位につくとみていたことは明らかである。このことは『玄義分抄』別時門に、
 
 なお幸西が「仏心相応時業成」といっていることは、念仏往生と本願を信じ、仏心と相応した一念に業事成弁し、不退の位につくとみていたことは明らかである。このことは『玄義分抄』別時門に、
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 このようにみてくると、幸西の一念義は、念仏往生の信心の体徳について深い考察を行い、そこに本願の仏智との冥合、仏心と凡心との一体の相を釈顕したものであって、念仏往生を否定するものでもなく、一念以外の称名を不要として捨て去るものでもなく、まして造悪無碍を許すようなものではなかったことを知るのである。幸西の説を曲解した弟子が、異義を唱えたことが法然の「光明房に答うる書」にでてくるが、それは必ずしも幸西の失ではなかろう。『行状絵図』二九によれば、法然は幸西の一念義を邪義とみなして「わが弟子にあらずとて擯出せられにけり」と伝えているが、幸西は明らかに『選択集』の付属をうけており、源智は幸西所持の『選択集』を書写したといわれており、法然滅後も京中で大きな勢力をもっていたことなどからみて、『行状絵図』の記事は信用できない。
 
 このようにみてくると、幸西の一念義は、念仏往生の信心の体徳について深い考察を行い、そこに本願の仏智との冥合、仏心と凡心との一体の相を釈顕したものであって、念仏往生を否定するものでもなく、一念以外の称名を不要として捨て去るものでもなく、まして造悪無碍を許すようなものではなかったことを知るのである。幸西の説を曲解した弟子が、異義を唱えたことが法然の「光明房に答うる書」にでてくるが、それは必ずしも幸西の失ではなかろう。『行状絵図』二九によれば、法然は幸西の一念義を邪義とみなして「わが弟子にあらずとて擯出せられにけり」と伝えているが、幸西は明らかに『選択集』の付属をうけており、源智は幸西所持の『選択集』を書写したといわれており、法然滅後も京中で大きな勢力をもっていたことなどからみて、『行状絵図』の記事は信用できない。
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====第二節 乃下合釈と念仏往生の意味====
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 このようにみてくると、一念義、多念義といっても、隆寛や幸西においては必ずしも法然教学を逸脱するものではなかったことがわかる。特に一念義に関しては種々雑多なものがあり、相続開会の一念義のような邪義は別としても、幸西のような深遠な思想体系をもったものから、造悪無碍的なものにいたるまで実にさまざまであった。ただ一般的にいって一念義とは、一念の信心、もしくは一声の称名によって往生が決定するというので、称名そのものを非因とみるか、あるいは第一声は業因であるが、第二声以後は非因であるとみるような教説のことであった。
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信一念業成説を立てるのを信一念義とよび、行一念業成説を立てるのを行一念義というが、いずれにせよ臨終をまたずに往生が決定するという平生業成説をとることになる。また一念義の場合は、信心を強調して称名を軽視する傾向が強く、称名相続をすすめる場合も、正定業としてよりも報恩行に限定する場合が多かったようである。また平生の信一念、もしくは行一念に業成するならば、それ以後は、たとえ念仏しなくても、罪業を犯しても往生にさしつかえないということになる為に、この論法を極端におしすすめたものは、称名を廃したり、造悪無碍におちいるものもでるようになったのである。後にのべるように一念義は、安心門と起行門のなかでは、安心門を強調する立場である為に、廃立を徹底していく傾向があり、聖道門を捨て、諸行を捨て、助業を捨てるばかりか、多念の称名まで捨てて、行、または信の一念を取るというのであった。そのために聖道門に対して厳しく対決する姿勢をとり、聖道門の修行の基盤である戒律を捨てよと勧めたり、余仏余菩薩を軽んずるようになっていった。また神祇不拝を唱え、忌みを否定するなど、当時の社会通念となっていた俗信や習俗に対しても挑戦的であった。『興福寺奏状』などが、特に一念義系のものの思想と行動に焦点をしぼって論難し、告発しているのも、一念義系のものが、社会通念に対して挑戦的であったからである。
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こうした一念義に対して、多念義とは、臨終に至るまで退転することなく称名を相続し、特に臨終の念仏の力によって、臨終正念に住して、来迎を感得し、そのときにはじめて往生が決定するという臨終業成説を唱えていた。
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しかも平生の念仏の多少によって、往生後の果報に九品の差別があるといい、称名の数量の多少を往因にかけて問題にしている。またその生活態度も、破戒よりは持戒、在家よりは出家、悪人よりは善人である方が、上位の往生をとげることができるとして、廃悪修善を強調している。従って念仏修行においても助業を重視し、五念四修の起行門を策励していくから、一念義が安心門を重視するのに対して多念義は起行門を重視し、前者が全分他力を主張するのに対して、後者は念仏は自力の行因であり、他力とは助縁であるとして自力他力相資の救済説を立てたようである。
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 こうして一念義は多念義を自力の執着をはなれられない偽善者であると批判し、多念義は一念義を、他力の名をかりた邪見のものであり、仏法を汚す附仏法の外道であると非難して、文字通り水火の如く諍っていったのである。しかも論諍をくりかえす過程で両者はいよいよ極端にはしるようになっていき、どちらもが法然の説示した念仏往生の法門を見失っていったのである。
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 もともと法然が選択本願に立脚して「念仏往生」と説かれたとき、一念とか十念とか多念とかに称名を限定しないという本願念仏の特徴をあらわすためであった。『選択集』「本願章」に、第十八願に「乃至十念」と誓われたのを、善導が「下至十声」と釈された意味を追求して、念声是一釈と乃下合釈を施された。それによれば、本願の「乃至」とは従多向少の意味で誓われていたから、善導は、その義意をあらわす為に「上尽一形、下至十声」と上下相対の語にいいかえられたのが「下至十声」の釈であるといわれるのである。そして願文の乃至が下至の意味を主としていることを証明する為に五神通の願や光明、寿命の願などをあげ、そこに「下至」といわれているのは「是則従 多至 少、以 下対 上之義也、例 上八種之願 、今此願乃至者、則是下至也、是故今善導所 引釈 下至之言、其意不 相違 」といわれている。こうして本願に「乃至十念」と誓われたのは「下至十声」すなわち「十声までの往生」をあらわしており、同様にして本願成就文の「乃至一念」は「一声までの往生」を誓約された文ということになるのである。
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 法然はさらに諸師が第十八願を「十念往生願」とみたのに対して、善導は「念仏往生願」とみられたといい、
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:諸師別云 十念往生願 者、其意即不 周也。所 以然 者、上捨 一形 、下捨 一念 之故也。善導総言 念仏往生願 者、其意即周也。所 以然 者、上取 一形 、下取 一念 之故也。
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といわれる。諸師が十念往生の願といったとき、上は一形相続の多念を捨て、下は一声の称名を捨てて、往生行を十声に限定してしまうことになり、「乃至」と誓われた仏意を見失っていると批判されるのである。それに対し善導が念仏往生の願といわれたとき、上は一形相続の称名を取り、下は一念の称名も摂めて「上は一形をつくし、下は一声にいたるまで往生せしめる」と誓われていることをあらわす為に、あえて数量を示さずに「念仏往生願」といわれたというのである。これによって法然の「念仏往生」という用語は、一念か多念かと称名を限定することを嫌って、一念多念を包容する意味で用いられていたことがわかる。親鸞が「浄土真宗のならひには、念仏往生とまふすなり。またく一念往生、多念往生とまふすことなし」といわれたのは、この意を伝承されているのである。
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 ところで「乃至」とは、元来一多包容のことばであって、単に従多向少の意味に限定すべきではない。そこで法然も「浄土略要文」には『散善義』上品上生釈の文意によって、従多向少、従少向多の二義のあることを注意して次の如く論述されている。
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:十七、修 行浄業 時節延促之文
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:観経疏第四云、上尽 一形 下至 一日一時一念等 、或従 一念十念 至 一時一日一形 、大意者、一発心已後、誓畢 此生 無 有 退転 、唯以 浄土 為 期。
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====第三節 安心門と起行門====
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 「浄土宗略抄」には一多包容の念仏の行相を次の如く説かれている。
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:又一念に往生すればとて、かならずしも一念にかぎるべからず。弥陀の本願の心は、名号をとなへん事、もしは百年にても、十、二十年にても、もしは四、五年にても、もしは一、二年にても、もしは七日、一日、十声までも、信心をおこして南無阿弥陀仏と申せば、かならずむかへ給なり、総じてこれをいへば、上は念仏申さんと思いはじめたらんより、いのちおはるまでも申也。中は七日、一日も申し、下は十声、一声までも弥陀の願力なれば、かならず往生すべしと信じて、いくら程こそ本願なれとさだめず、一念までも定めて往生すと思ひて、退転なく、いのちおはらんまで申すべき也。
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 本願を信じて、念仏申さんと思いはじめた時から、いのち終わるまで念仏を申すのであるが、その念仏は、「一念までも定めて往生すと思ひて」一生涯称えていくというのである。
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 ところで一念も多念も兼ねおさめた一多包容の念仏をあらわすのに、従多向少で語る場合と、従少向多であらわす場合とでは所顕の義意が変ってくる。法然は本願や本願成就文の「乃至」は「下至」の意味であるといわれたが、このような従多向少の念仏をあらわす場合には「一声までの念仏、決定して往生すべきことわり」とか、「下は十声一声までも、弥陀の願力なれば、かならず往生すべしと信じて」というふうに「までの」「までも」といわれる。これは一念往生が実義であることをあらわしながらも、一念に執われて多念を否定せしめないための巧妙な用語であった。後に親鸞が門弟の慶信の上書を添削されるとき「一念するに往生定て・・・・・・」とあったのを、「一念にとゞまるところあしく候」というので、自筆で「一念までの往生定て・・・・・・」と書き改められるということがあった。ともあれ、「一声までも、弥陀の願力なれば、かならず往生すべしと信」ずるということは、選択本願の行である念仏は、正定業であるから、わずか一声も往生を決定せしめる行業であると信ずることであるから、就行立信の安心門を究極の相においてあらわしていることになる。それに対して従少向多の意味で念仏往生をあらわすときは、臨終まで退転することなく正定業たる念仏を相続するという相続起行門のあらわしかたであるといわねばならない。すなわち従多向少は、安心門の因体をあらわす法相であり、従少向多は起行門の行相をあらわす法相であるといえよう。
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 法然が「十一箇条問答」に、
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:問、礼讃の深心の中には、十声一声必得 往生 、乃至一念無 有 疑心 と釈し、また疏の中の深心には、念々不 捨者、是名 正定之業 と釈したまへり。いづれかわが分にはおもひさだめ候べき。答、十声一声の釈は念仏を信ずるやうなり。かるがゆへに信おば一念に生とゝり、行おば一形をはげむべしとすゝめたまへる釈也。
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:また大意は、一発心已後の釈を本とすべし。
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といわれている。同じ深心釈の法の深信の内容であるが、『礼讃』の「下至十声一声等」という従多向少のあらわし方は、一声までも決定して往生すと信ずる安心門の説き方であり、『散善義』の「念々不捨者」とは、正定業たる念仏を相続起行にかけて釈されたものだといわれるのである。いいかえれば信は、わずか一声までも往生をうと信じて疑わないことであり、行はその所信の行法たる称名正定業を臨終まで相続して退転しないことをいうのである。これが法然の一念と多念、信と行の分済についての基本的な考え方であったと考えられる。同じ意味のことが「禅勝房に示す御詞」では次のようにのべられている。
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:又云、一念、十念にて往生すといへばとて、念仏を疎相に申せば、信が行をさまたぐる也。念々不捨といへばとて、一念十念を不定におもへば、行が信をさまたぐる也。かるがゆへに信をば一念にむまるととりて、行おば一形はげむべし。
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 これと同じ言葉が聖覚の代筆と伝えられている「登山状」にもみられるし、すでにのべたように、『古今著聞集』や『唯信抄』において聖覚も同じことを述べているからこれが法然の常教であったとみるべきであろう。
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 ところで安心門と起行門について、善導の『礼讃』前序には、念仏往生と信ずる三心を安心門とし、礼拝、讃嘆、観察、作願、回向の五念門を起行とされている。しかし法然は三心を具足することと、念仏を相続することとを安心門と起行門とに分けておられる。いいかえれば、行(念仏)を信ずることを安心門といい、信じて行ずることを起行門といわれたのである。「浄土宗略抄」に、
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:つぎに浄土門にいりておこなふべき行につきて申さば、心と行と相応すべき也。すなはち安心、起行となづく。その安心といは、心づかひのありさま也。すなはち観無量寿経に説ていはく、もし衆生ありてかのくにゝむまれんと願ずるものは三種の心をおこしてすなはち往生すべし。・・・・・・次に起行といは、善導の御心によらば、往生の行おほしといへども、おほきにわかちて二とす、一には正行、二には雑行也・・・・・・善導を信じて浄土宗にいらん人は、一向に正行を修して、日々の所作に、一万二万乃至五万六万十万をも器量のたへむにしたがひて、いくらなりともはげみて申べきなりとこそ心えられたれ。それにこれをききながら、念仏のほかに余行をくはふる人のおほくあるは心えられぬ事也。
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といわれた如くである。要するに安心門とは念仏一行を正定業と信ずることであり、起行門とは、その所信の行法を実践していくことであるが、正定業の相続には、おのずから前三後一の助業が随伴してくる。いわゆる同類の助業である。さらに日常生活においては異類の助業までも随伴するが「まさしくさだめたる往生の業は、たゞ念仏ばかり」であるから、助業はあっても、常に念仏に統一されて、全体としては念仏を行ずるということになるから専修といわれるのである。法然は、安心門に立てば、一切の余行を捨てて、一念までも往生すと信じ、起行門においては、持戒の清僧として厳しく身を持しながら日課として六万遍、七万遍の念仏を行じていかれたのであった。また恒例の別時念仏も行じ、しばしば三昧発得されたともいわれている。
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 異義としての一念義とは、こうした法然の安心門の一面をうけているが、起行門の而が欠落したために信を偏重して観念化し、邪見におちいったものであり、多念義は、起行門の立場をうけているが、起行門の行状を安心門にもちこんだために聖道門的思考に逆転し、自力化したものといえよう。その意味でどちらも法然の念仏往生義が正確に領解されていなかったというべきである。法然が「かやうの事はあしく心うれば、いづかたもひが事になる也。つよく信ずるかたをすゝむれば邪見をおこし、邪見をおこさせじとこしらふれば信心つよからずなるが術なき事にて侍る也」となげかれたのはこうした両極にはしる弟子がいたからである。
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 ところで安心門は廃立為正の法門であり、起行門は念仏に統一されてはいるが助正門であらわされるような性格をもっているとみるのが法然教学の法相であった。それゆえ安心門に立つときは、聖道を閣き、雑行を抛うち、助業を傍らにして称名一行を正定業として選びとるという廃立を厳格に行うから自然と神祇信仰や聖道門ときびしく対決する姿勢になるわけである。しかも一切の自力を廃し否定するということは本願他力の絶対性を強調することになるから、善悪、賢愚、出家在家、持戒破戒といった人間の上の差別を全く問わずに、万人平等の救済が説かれるようになり、飲酒、肉食、妻帯もあながちに否定せず、「たゞむまれつきのまゝにて念仏すべし」という絶対肯定がなされていく。さきにのべたように一念義が聖道門に対して挑戦的であり、反倫理的、反社会的として非難されたのも、安心門における絶対否定と絶対肯定を、倫理的、社会的な日常性の場にそのままもちこんできたからであろう。
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 法然は「仏教には、いみといふ事なし」と忌みのような俗信を否定し、「神に後世申候事いかむ」という問いに対しては「仏に申すにはすぐまじ」といって神に救済を祈願することを否定し、戒律についても、「十一箇条問答」に次のような問答をあげている。
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:問、持戒の行者の念仏の数遍のすくなく候はむと、破戒の行人の念仏の数返のおほく候はむと、往生ののちの浅深いづれかすゝみ候べき。答、ゐておはします、たたみをさゝえてのたまはく、このたゝみあるにとりてこそ、やぶれたるか、やぶれざるかといふことはあれ、つやつやとなからむたゝみおば、なにとかは論ずべき、末法の中には持戒もなく、破戒もなし、無戒もなし、たゞ名字の比丘ばかりありと、伝教大師の末法灯明記にかきたまへるうへは、なにと持戒、破戒のさたはすべきぞ。かゝるひら凡夫のためにおこしたまへる本願なればとて、いそぎいそぎ名号を称すべしと云云。
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といい、末法の今日においては、持戒、破戒の沙汰さえも無意味であるとまで言い切っておられる。また「念仏往生要義抄」には、
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:問ていはく、聖人の申す念仏と、在家のものの申す念仏と勝劣いかむ。答ていはく、聖人の念仏と、世間者の念仏と功徳ひとしくして、またくかはりめあるべからず。
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といい、在家と出家、聖人と世間者の区別も念仏の前にはなかったのである。特にこの文につづいて、疑ていはく、この条なを不審也。そのゆへは、女人にもちかづかず、不浄の食もせずして申さん念仏は、たとかるべし。朝夕に女境にむつれ、酒をのみ、不浄食をして申さん念仏は、さだめておとるべし、功徳いかでかひとしかるべきや。答ていはく、功徳ひとしくして勝劣あるべからず、そのゆへは、阿弥陀仏の本願のゆえをしらざるものゝ、かゝるおかしきうたがひをばするなり。・・・・・・阿弥陀ほとけ、五劫に思惟してたて給ひし深重の本願と申すは、善悪をへだてず、持戒破戒をきらはず、在家出家をもえらばず、有智無智をも論ぜず、平等の大悲をおこして、ほとけになり給ひたれば、たゞ他力の心に住して念仏申さば、一念須臾のあひだに阿弥陀ほとけの来迎にあづかるべき也。むまれてよりこのかた、女人を目に見ず、酒肉五辛ながく断じて、五戒十戒等かたくたもちて、やん事なき聖人も、自力の心に住して念仏申さんにおきては、仏の来迎にあづからん事、千人が一人、万人が一二人なんどや候はんずらん。
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といわれているが、文言のうえでは、一念義のものの言動と変らないようにみえる。ただこうした安心門における絶対的な信の領域だけが強調されて、起行相続の行儀が無視されたときに問題が起きるのである。法然が、「ふかきみのりも、あしくこゝろうる人にあひぬれば、かへりてものならずきこえ候こそ、あさましく候へ」となげかれたのも、そうした誤解が多かったからであろう。
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====第四節 平生と臨終====
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 「信おば一念にむまるととりて、行おば一形はげむべし」といわれたときの一念とは、下至一声のことであるから、行の一念であって、信の一念ではなかった。ところでこの一念を臨終の一念とみるか、平生の一念とみるかは問題である。
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 法然には一念往生を臨終の機、多念往生を平生尋常の機とみる釈が多い。「十一箇条問答」に、
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:問、本願の一念は、尋常の機、臨終の機に通ずべく候歟。答、一念の願は、二念におよばざらむ機のためなり。尋常の機に通ずべくば上尽一形の釈あるべからず。この釈をもてこゝろうべし。かならず一念を仏の本願といふべからず。念々不捨者、是名正定之業、順彼仏願故の釈は、数返つもらむおも本願とはきこえたるは、たゞ本願にあふ機の遅速不同なれば、上尽一形下至一念とおこしたまへる本願なりとこゝろうべき也。かるがゆへに念仏往生の願とこそ善導は釈したまへと。
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といわれたものがそれである。ここに「本願の一念」とか「一念の願」といわれたのは、第十八願成就文をさしている。成就文では、「聞其名号、信心歓喜、乃至一念、至心廻向、願生彼国、即得往生、住不退転」といい、乃至一念によって即得往生すと説かれている。この一念を法然は称名の一声とされたわけであるが、ここではそれを臨終の機の一念とみ、わずか一声の念仏しかできなかった臨終の機も、即得往生の益をうると説かれたものとみられたのである。この場合「乃至」とは従多向少して、上尽一形下至一念の下至の意味であるというのである。もちろん本願に遇う時節は機によって不同であって、一声で死ぬものもあれば、千声、万声、十年、二十年と念仏生活を送るものもあるから、一念だけを本願の行と思ってはならない。「念々不捨者、是名正定之業」といわれたように、生涯相続していかに多数の念仏をもうしても、すべて本願行であり、正定業であることはいうまでもない。それゆえ一念多念と数量を限定せず念仏往生といわれたのである。今成就文が、あえて一念往生と説かれたのは、二念に及びえない至極短命の機も、もらさず救いたまう大悲の本願であることをあらわす為であるとみなされていたようである。醍醐本『法然上人伝記』「三心料簡事」に、
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:乃至一念即得往生事
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:我等非 一念機 、乃至機也云云、又乃至十念如 此。吾等非 十念機 、乃至機也云云。釈上尽一形下至十声等定
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:得往生文如 此、吾等非 下至十声機 、上尽一形機也云云。
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といわれているのも同じ意味である。一念往生とは二念にも及ばぬ臨終至極短命の機であり、十念往生も、下々品の如く十声で命終する臨終の機についていうことである。従って今念仏相続を行っている我等は、下至一念、十念の機ではなくて、「乃至」されている上尽一形の部類に属する機であるといわねばならないというのである。これは明らかに長命の機と、短命の機を分けて、短命の機ならば起行に及ばず、安心門のみで一念往生をとげるが、長命の機ならば、心ず起行相続する。その安心と起行、一念と多念を包摂する為に「乃至」の語をかむせて念仏を誓われたといわれるのである。
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 ところで法然が乃至一念を臨終に約して語られたのは、多念相続を無視する一念義的発想を否定する為であったことと同時に、即身成仏思想を浄土教へもちこむことを注意ぶかく避けようとされたからでもある。「東大寺十問答」に次のような問答がある。
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:問、本願には十念、成就には一念と候は、平生にて候か、臨終にて候か。
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:答、去年申候き。聖道にはさやうに一行を平生にしつれば、罪即時に滅して、のちに又相続せざれども成仏すといふ事あり。それはなを縁をむすばしめんとて、仏の方便してとき給へる事也。順次の義にはあらず。華厳、禅門、真言、止観なんどの、至極甚深の法門こそさる事はあれ。これは衆生もとより懈怠のものなれば、疑惑のもの一度申をきてのち申さずとも、往生するおもひに住して、数遍を退転せん事は、くちおしかるべし。十念は上尽一形に対する時の事也。
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:おそく念仏にあひたらん人は、いのちつづまりて、百念にもおよばぬ十念、十念にもおよばぬ一念也。この源空がころもをやきすてゝこそ麻のゆかりを滅したるにてはあらめ、これあらんかぎりは麻の滅したるにてはなき事也。過去無始よりこのかた罪業をもて成ぜる身ももとのごとし、心ももとの心ならば、なにをか業成し、罪滅するしるしとすべき。罪滅する物は無生をう、無生をうる物は金色のはだへとなる。弥陀の願に金色となさんとちかはせ給へども、念仏申人、たれか臨終以前に金色となる。たゞものさかしからで一発心已後無有退転の釈をあふいで臨終をまつべき也。
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 ここに「去年申候き」というのは、文治六年(建久元年一一九〇)に東大寺で行われた三部経の講釈をさしている。そして「一行を平生にしつれば、罪即時に滅して成仏す」というのは、『玄義分』に釈された如き成仏別時意説をさしていた。又平生の一念において成仏すと説くのは、華天密禅の四家大乗であるが、特に天台の本覚法門の如きはその代表的なものであった。たとえば法然が「これは恵心のと申て候へども、わろき物にて候也」と批判した『真如観』には、
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:我等ハカヽル無量劫ノ苦行ヲモセズ、六度ヲモ修行セズシテ、只且クノ間、我身ノ真如ナリト思計ノ一念ノ心ニ依テ仏ニ成リ、極楽ニ生ズル道ヲ知ル、返々世ノ中ニ有ガタキ希有ナル事也。
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といい、我即真如、我即仏と知る一念に利根は即身成仏し、鈍根は順次生に極楽に生まれるというような一念成仏説が行われていた。法然は本願成就文の「乃至一念」がこのような本覚法門的な一念と混同されることを注意深くさけているのである。そして「おそく念仏にあひたらん人は、命つゞまりて百念にもおよばぬ十念、十念にもおよばぬ一念也」といい、至極短命の機について一念にて往生すと説かれたもので、長命の機は臨終まで称名を退転しないように多念相続すべきである。それなのに一念往生に執着して多念相続を否定するものは本願を領解し誤った疑惑のものであるというのである。
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 法然は即身成仏説を批判するのに、自身が着用している麻の衣を例にあげ、衣を焼きすてたときはじめて麻との縁が完全に尽きるように、罪業によって形成されている有漏の身体がありつづけるかぎり、煩悩具足の凡夫であって、決して悟りを語るべきではないとし、臨終一念の往生をめざして念仏せよとすすめられているのである。
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 ところで法然には、一念を平生で語られたとみなしうる法語もたくさんある。さきにあげた「浄土宗略抄」に「上は念仏申さんと思いはじめたらんより、いのちおはるまで申也」といわれたとき、「念仏申さんと思いはじめた」一念は平生であるし、「正如房へ遣す書」に、
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:返々も本願をとりつめまいらせて、一念もうたがふ御こゝろなく、一声も南無阿弥陀仏と申せば、わがみはたとひいかにつみふかくとも、仏の願力によりて、一定往生するぞとおぼしめして、よくくひとすぢに御念仏候べきなり。
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といわれたものは、いずれも平生の一念(一声)が、往生の因であるといわれたものとせねばならない。そのことを「禅勝房にしめす御詞」では、
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:阿弥陀仏は、一念となふるに一度の往生にあてがひておこし給へる本願也。かるがゆヘに十念は十度むまるゝ功徳也。
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といい、また同じことを次下には逆に、
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:一念を不定におもふものは、念々の念仏ごとに不信の念仏になる也。そのゆへは、阿弥陀仏は、一念に一度の往生をあておき給へる願なれば、念々ごとに往生の業となる也。
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ともいわれている。一念が不定業であるならば、多念もまた不定業になる。従って一念を信じないものにとって、多念の念仏はすべて不信の念仏となるのである。一念が決定往生の正定業なるがゆえに、多念もまた正定業なのであり、決定信の相続となるというのが法然の一念多念観であった。
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 このように「一念に一度の往生をあておき給へる願」であるということを念仏の徳からいえば、本願の念仏は、一念に絶対無上の行徳をもたしめられているということをあらわしている。『選択集』「利益章」に、『大経』の付属に「乃至一念」の利益として「為得大利、則是具足無上功徳」といわれたものを釈して、諸行は小利有上であり、念仏のみが大利無上であるといい、
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:既以 一念 為 一無上 、当 知以 十念 為 十無上 、又以 百念 為 百無上 、又以 千念 為 千無上 、如 是展転、従 少至 多、念仏恒沙、無上功徳、復応 恒沙 。
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といわれている。念仏は一声が無上功徳であるというのは、「本願章」の「名号者是万徳之所 帰也、然則弥陀一仏所有四智三身十力四無畏等一切内証功徳、相好光明説法利生等一切外用功徳、皆悉摂 在阿弥陀仏名号之中 、故名号功徳最為 勝也」といわれたものと照応して、一声に往生すべき因徳が円満していることをあらわしている。
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従って念仏は、平生の一声において往生の因が満足し、決定する行法として選択されていると領解されていたことがわかる。その意味で法然には、平生の一念往生説もあったとしなければならない。
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 また法然は、一念往生の教説を易行の至極をあらわすものとも見られていた。「要義問答」に信楽一心を釈して、
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:このこゝろを具せざらむもの、もしは一日もしは二日、乃至一声十声に、かならず往生する事をうといふ。いかでか凡夫のこゝろに散乱なき事候べき。さればこそ易行道とは申ことにて候へ。・・・・・・劫をつみてむまるといはば、いのちもみじかく、みもたえざらむ人、いかゞとおもふべきに、本願に乃至十念といふ、願成就の文に、乃至一念も、かの仏を念じて、こゝろをいたして回向すれば、すなわちかのくににむまるゝ事をうといふ。
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といわれたように、下至十声一声までも往生を得るといわれたのは、「いのち短かく」難行に堪え得ない機の為の易行の法であることをあらわしていたから、下至一念とは、まさに易行の至極をあらわす言葉だったのである。一念往生ということは、選択本願念仏の特色である最勝の法と、至極の易徳をあらわしていたのである。親鸞が「行文類」に行一念を釈して「就 称名遍数 、顕 開選択易行至極 」といわれたのはこの釈意を伝承されたのである。
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 一念一無上功徳、十念十無上功徳ということを、法然はまた「死するとき一声申すものも往生す、十声申すものも往生すといふ事なり、往生だにもひとしくば、功徳なんぞ劣ならん」といい、一声も十声も乃至無量声も、往生の得分が同じだから、功徳は同じであると断言されている。これによって本願の念仏は、数の多少を超えた無上絶対の法であり、従ってまた称える人の自力の功を全くまじえない他力の行であることがわかる。一声一声如来の無上功徳が口業に顕現しているような称名ならば、一念か多念かを問題にする必要もなく、臨終か平生かを問うことも必要のないことになる。「念仏往生要義抄」には、臨終の念仏と平生の念仏の功徳の優劣を問うたのに対して、
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:たゞおなじ事也。そのゆへは平生の念仏、臨終の念仏とて、なんのかはりめかあらん。平生の念仏の死ぬれば臨終の念仏となり、臨終の念仏の、のぶれば平生の念仏となる也。
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といい、平生の念仏と、臨終の念仏を全く同じものとみられている。これを醍醐本『法然上人伝記』「三心料簡事」に、
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:平生臨終事  於 平生念仏 、往生不定思、臨終念仏又以不定也。以 平生念仏 、決定思、臨終又以決定也云云。
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といわれたものと対応してみると、法然は平生と臨終を決して別ものとはみられていなかったことがわかる。
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 それは平生を臨終の如く生きることであり、臨終を平生の如く迎えることだったといえよう。一念往生とは、臨終を平生にもちこんで、いのちはただ今ばかりとみ、ただ今のいのちを、ただ今の一声が充たして浄土にあらしめてくれると領解することであった。一声で命を終わる臨終の機にとって、その一声は全人生を包んでいることになるし、十念して臨終を迎えるものにとって、その十念は全人生を念仏の人生と転じていることであった。それゆえ一声か十声かが問題なのではなくて、念仏に包摂された人生を生きたか否かが問われているのである。法然が日課念仏として六万遍、七万遍を自らに課しておられたというのも、ただ今を臨終とみて、一瞬一瞬を念仏の人生として生きていこうとされたからにちがいない。それは「現世をすぐべき様は、念仏の申されん様にすぐべし」といわれたように全人生を念仏の道場として生きる念仏者の厳粛な生き方を示されていたのである。
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 臨終と平生を本質的に区別しなかったということは、平生も臨終も、ひっくるめて、全人生が如来の光明裡に摂取されているという信念があったからである。「念仏往生要義抄」は、前掲の文につづいて、摂取不捨は、平生の益か臨終の益かと問い、
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:答ていはく、平生の時なり。そのゆへは、往生の心ま事にて、わが身をうたがふ事なくて、来迎をまつ人は、これ三心具足の念仏申す人なり。この三心具足しぬれば、かならず極楽にうまるといふ事は、観経の説なり。
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:かゝる心ざしある人を、阿弥陀仏は八万四千の光明をはなちててらし給ふ也。平生の時てらしはじめて、最後まですて給はぬなり。かるがゆへに不捨の誓約と申候也。
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といわれている。ここには、平生に三心具足して念仏するものは、摂取されて臨終まですてられないという平生摂取が強調されているが、これが自ずから平生業成、現生不退説になっていくとみるべきであろう。
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====第五節 多念義的法語と一念義的法語====
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 法然の法語といわれるもののなかには、多念義的傾向の強いものと、一念義的傾向の強いものとがある。多念義的な傾向の強いものとしては、「七箇条の起請文」(『和語灯』二所収)がある。はじめに三心を釈し、ついで七箇条にわけて、念仏者を勧誡されるわけであるが、主として一念義的造悪者をいましめられている。第一条には諸仏菩薩や余経をそしり軽しめることをいましめ、第二条には「つみをつくらじと身をつゝしんで、よからんとするは阿弥陀ほとけの願をかろしむるにてこそあれ、又念仏をおほく申さんとて、日々に六万遍なんどをくりゐたるは、他力をうたがふにてこそあれ、といふ事のおほくきこゆる、かやうのひが事、ゆめくもちふべからず」と誡めている。そして「たゞ一念二念をとなふとも、自力の心ならん人は、自力の念仏とすべし、千遍万遍をとなふとも、百日千日よるひるはげみつとむとも、ひとへに願力をたのみ、他力をあふぎたらん人の念仏は、声々念々しかしながら他力の念仏にてあるべし」といい、他力の念仏を勧励されている。第三条には三心について「たゞひらに信じてだにも念仏すれば、すゞろに三心はあるなり」といい、いわゆる行具の三心を示されている。
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 第四条には、別時念仏を勧められる。「人の心ざまは、いたく目もなれ耳もなれぬれば、いそくとすゝむ心もなく、あけくれは心いそがしき様にてのみ、疎略になりゆく也。その心をためなおさん料に、時々別時の念仏はすべき也」といわれるのである。第五条には、臨終の正念を祈り、願うべきことを勧められている。第六条には、「念仏はつねにおこたらぬが、一定往生する事にてある也」といい、念仏相続を勧励される。第七条は、まことしやかな念仏者になったからといって、驕慢の心を生じてはならないと厳誡されている。この七箇条のなかで、特に別時念仏を勧め、臨終正念を祈れと勧められるところだけを抽出してきて強調すると、多念義になると考えられる。
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 これに対して一念義的傾向の強いものとしては、さきにしばしば引用した「念仏往生要義抄」(『和語灯』ニ所収)がある。そこには三世十方の諸仏に捨てられた罪悪深重のわれらをむかえんと誓われた阿弥陀仏の「願にあひたてまつれり、往生うたがひなしとふかくおもひいれて、南無阿弥陀仏くと申せば、善人も悪人も、男子も女人も、十人は十人ながら、百人は百人ながら、みな往生をとぐる也」といい、十一箇条の問答をもうけて、他力念仏の相を詳釈されている。
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 第一、第二、第三問答には、自力の念仏と他力の念仏を分別して、「他力の念仏は往生すべし、自力の念仏はまたく往生すべからず」ということを論証されている。ついで第四、第五問答には、聖人の念仏と在家者の念仏の功徳が同じであって勝劣のないことを示し、第六、第七問答には、清心の念仏と妄心の念仏の功徳が全く等しいことを述べられる。第八、第九問答は、念仏の一声と十声に勝劣のないことを、第十問答には、平生摂取の益を、第十一問答には、智者の念仏も、愚者の念仏も差別のないことを論証していかれる。いずれも一念義的傾向(決して一念義ではない)が強いことは、さきにしばしば引用した諸文によって窺うことができよう。
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 『西方指南抄』中末・所収の「三機分別」(決定往生三機行相)も、一念義的な傾向の強い法語である。石井教道氏編の『昭和新修法然上人全集』では、真偽未詳の「伝法然書篇」に収録していて、偽作とみなしているようである。
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しかし松野純孝氏などは、法然の法語とみなされている。法然の法語は、もともと対機説法的な色彩も強く、またそれを聞書きした人の思想傾向によっても幾分かの偏向が考えられるから、『選択集』のような正確さは期し得ないのが当然である。今は親鸞が、法然の法語として伝写された意に従って法然のものとみていくことにする。
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 この法語は「和尚の御釈によるに、決定往生の行相に、三の機のすぢわかれたるべし、第一に信心決定せる、第二に信行ともにかねたる、第三にたゞ行相ばかりなるべし」という書き出しではじまり、決定往生の機に三種を分別されている。もっともはじめの「和尚の御釈」が何をさすのか明確ではないが、善導の釈義に依準されたものとみるべきであろう。
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 第一の信心決定せる機について、精進の機と懈怠の機に分け、精進の機について、また報恩の念仏が自然に精進にせられる機と、決定の信を得ながらも、自分は凡夫であるから、仏からごらんになれば、至らないこともあるだろうと思うて、なお信心を決定するために念仏をはげむものとがある。そのはじめの機について、
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:一には弥陀の本願を縁ずるに、一声に決定しぬと、こゝろのそこより真実に、うらくと一念も疑心なくして、決定心をえてのうへに、一声に不足なしとおもへども、仏恩を報ぜむとおもひて、精進に念仏のせらるゝなり。また信心えての上には、はげまざるに念仏はまふさるべき也。
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という。本願を聞いて、一声の念仏で決定往生を得と信じて、一念の疑心もない信心決定の機は、仏恩報謝のために精進して多念の称名をするが、信をえたうえは、ことさらにはげまなくても、念仏するようになるのであるといわれている。これによって、行の一念を決定往生の業因と信じ、第二声以後は報恩の称名とするという教説のあったことがわかる。後に詳述するように平基親が、法然に告発している一念義の主張は、これに非常に近い説であったと考えられる。のちに親鸞が門弟の教忍房の問いに対して、
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:まづ一念にて往生の業因はたれりとまふしさふらふは、まことにさるべきことにてさふらふべし、さればとて一念のほかに念仏をまふすまじきことにはさふらはず。・・・・・・一念のほかにあまるところの御念仏を、法界衆生に回向すとさふらふは、釈迦、弥陀如来の御恩を報じまいらせんとて十方衆生に回向せられさふらふらんは、  さるべくさふらヘども、二念三念まふして往生せんひとを、ひがごとゝはさふらふべからず。
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と誡められているのをみると、この一念業因、多念報恩という教説が、一念義となり、次第に多念相続の称名を否定する方向にゆがめられていったらしい。尚信心正因、称名報恩説も、この一念多念観の系統に属する思想といえよう。
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 つぎに信心決定せる懈怠の機について次のようにいわれる。
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:決定心をえての上に、よろこびて、仏恩を報ぜむがために常に念仏せむとおもへども、あるいは世業、衆務にもさえられ、また地体懈怠のものなるがゆへに、おほかた念仏のせられぬ也。この行者は一向信心をはげむべき也。
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 これは恐らく在家の信者のことであろう。信決定の上の報恩の称名が、世間の業務にさまたげられたり、生来の懈怠のためにおろそかになるものがいるが、このようなものは、信心を深めるようはげむべきであるといわれる。
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 このなかにも精進の機と懈怠の機があり、懈怠のなかの精進の機とは、常に本願を思いうかべるもので、自然にさわやかな念仏も称えられてくる。このような念仏が最上である。ただし「この念仏ぞ往生おもし、また願にも乗ずらむとおもはむはわるし。そのゆへは、仏の御約束、一声もわが名をとなえむものをむかへむといふ、御ちかひにてあれば、最初の一念こそ、願には乗ずることにてあるべけれ」といわれるように、あくまで最初の一声で本願に乗じ終わっていると信ずべきで、相続の称名によって救われようと思ってはならないといわれる。
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 次に懈怠のなかの懈怠のものというのは、衆務にさまたげられたにせよ、本願を縁ずることがまれなものをいう。しかしまれではあるが「一念にとるところの信心」はゆるがず本願を縁ずるたびに、決定心が想起されるような人をいう。
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 ここにはしばしば「最初の一念こそ願には乗ずることにてあるべけれ」とか「一念にとるところの信心ゆるがずして」といわれていて、一念義的発想が強くあらわれている。しかしその一念さえも、超えてしまうところがあった。すなわち一声の称名も、わが行としてみれば、瞋恚の煩悩に焼きつくされるから、わが方よりは一分の功徳もなく全く本願力のみによって救われるのだと思うべきであるという全分他力説が出されている。
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:たゞおもふべきやうは、我かたより一分の功徳もなく、本願の御約束にそなえしところの念仏の功徳も、瞋恚のほむらにやけぬれども、かの願力の不取正覚の本誓の、あやまりなきかたよりすくわれまいらせて、往生はすべしと、返々もおもふべき也。
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といわれたものがそれであって、一念義的発想が、全分他力説と不可分に結びついていることがわかる。
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 第二の信行ともにかねたる機とは、さきにのべた信心決定せる精進の二機のことであるが、第三の行相をはげむ機(たゞ行相ばかりなる機)とは、自分はまだ決定往生の信が確立していないと思うものは、ひまなく念仏を申して、やがて決定往生の機となっていくことをいうのである。但しこの場合行業の功徳をもって往生しようと思うと疑惑の行者になるといい、
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:今念仏の行をはげむこゝろは、つねに念仏あざやかに申せば、念仏よりして信心のひかれていでくる也。信心いできぬれば、本願を縁ずる也。本願を縁ずれば、たのもしきこゝろのいでくる也。このこゝろいできぬれば、信心の守護せられて、決定往生をとぐべしとこゝろうべし。
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といわれている。すなわち念仏によって信心がひき起こされ、信心によって本願をたのもしく思う心がでてくるが、それによって疑い心がなくなり、決定信が成就するというのであろう。ここで信心が二重の意味で用いられていることがわかるが、そのことを次下に、
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:念仏を相続して、相続より往生をするは、またく自力往生にはあらず。そのゆへは、もとより三心は本願にあらず、これ自力なり。三心は自力なりといふは、本願のつなにおびかれて、信心の手をのべてとりつく分をさすなりとこゝろうべし。今念仏を相続して信心を守護せむとするに、三心の中の深心をはげむ行者也。相続の念仏の功徳をもちて、回向して往生を期せば、まことに自力往生をのぞむものといはるべきなり。・・・・・・たゞ自力を存せず、すべて疑惑のこゝろなくして常に念仏すれば、我こゝろにはおぼえねども、信心のいろのしたひかりて相続するあひだ、決定往生をうるなりとしるべし、そのこゝろは、たとへば月のひかりのうすぐもにおほはれて、満月の体はまさしくみえずといえども、月のひかりによるがゆへに、世間くらからざるがごとし。
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といわれている。もともと『観経』の三心は、本願所誓のものではなく自力の信心である。それはさきにいった念仏しているうちに、本願にさそわれてひき起こされた信心で、この信心の手をさしのべて本願の救いの綱にとりすがるわけである。これは自力心ではあるが、本願にとりつけば、本願にうながされて、たのもしく思う心がでてきて、おのずから疑い心が破れ、決定往生の他力の信心、すなわち深心が成就していく。いま念仏を相続して信心を守護するといったときの信心は、自力の三心ではなくて他力の深心のことであるというのであろう。ここに『観経』の三心を自力の分済とみ、深心のみを他力の信心とみるという特異な三心観が表明されているが、法然には深心を中心に統一された他力の三心観と、自力の三心観とがあったことは、すでに詳述した如くである。
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 ともあれ法然は、不信のものも念仏することによって決定往生の信が成就し、成就した信心は念仏相続によって守護されていくと考えられていたようである。ところで一たび決定往生の信が確立すれば、たとえつねには本願をたのもしく思う心が起こってこなくても、往生を不定に思ってはならない。わが心には思いうかべられていなくても、信心はかたちに見えないところで光りつつ相続しているから、決定して往生をうることであると知れといわれる。それはあたかも月光が、薄雲におおわれて、満月の体はみえなくても、月の光のゆえに、世間は闇でないようなものであるといわれている。このたとえが親鸞の『正信偈』の「譬如日光覆雲霧、雲霧之下明無闇」と相通じていることは、遇然の一致ではあるまい。
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 こうして「三機分別」の法語は最後に、
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:信心よはしとおもはゞ、念仏をはげむべし、決定心えたりとおもふての上に、なほこゝろかしこからむ人は、よくく念仏すべし、また信心いさぎよくえたりとおもひてのちの念仏おば別進奉公とおもはむにつけても、別進奉公はよくすべき道理あれば念仏をはげむべし。
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といい、信心が不定ならば、念仏をはげんで信心を決定し、信心決定したものは別進奉公とおもって、仏恩報謝の念仏をはげむべきであると勧励されている。この教説は、親鸞が性信房宛の御消息に、
 +
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:往生を不定におぼしめさんひとは、まづわが身の往生をおぼしめして御念仏さふらふべし。わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために御念仏こゝろにいれてまふして、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞおぼえさふらふ。
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といわれたものと符合していることがわかる。
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 『西方指南抄』所収の「四箇条問答」も、一念義的な傾向性の強い法語である。すなわち
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:本願と云ことは、もとのねがひと訓ずる也。もとのねがひと云は、法蔵菩薩の昔、常没の衆生を、一声の称名のちからをもて、称してむ衆生を我国に生ぜしめむと云こと也。
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といい、また以下に、
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:法蔵菩薩の本願に、成仏したらむ時の名、一声も称してむ衆生を極楽に生ぜしめむと願じたまへるがゆへに、今信じて一声も称してむ衆生は、かならず往生すべし。
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というような本願の領解は、明らかに行一念往生をもって念仏往生の本願の体とみなされている。このような本願を「信じて、名を唱てむ衆生はかならず生ず」るという道理を次のようにもいいあらわされる。
 +
 +
:本願薫力のたきものゝ匂は、名号の衣に熏じ、またこの名号の衣を一度南無阿弥陀仏とひきゝてむものは、名号の衣の匂、身に薫ずるがゆへに、決定往生すべき人なり、大願業力の匂と云は、往生の匂なり。
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 念仏衆生を決定往生せしめるという大願業力の徳用をもった名号を一声でも称えたものは、願力が身にそみついて、決定往生する人たらしめられるというのである。そしてかかる人を『観経』には芬陀利華とたたえ、善導は、極楽の聖衆に摂せられた。それは因中説果の義によるわけであるが、現世より観音勢至も勝友となられる道理があるのである。だから「一念に無上の信心をえてむ人は、往生の匂薫ぜる名号の衣をいくえともなくかさねきむとおもふて、歓喜のこゝろに住して、いよいよ念仏すべし」と結ばれている。
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====第六節 一念義批判の消息について====
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=====一、光明房への消息=====
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 法然が一念義を批判された文書として三篇の書簡が現存している。『西方指南抄』下本所収の「光明房に答ふる書」と「基親への返書」、それに古本『漢語灯録』十所収の「遣 北陸道 書状」とである。このなか「光明房に答ふる書」は『和語灯録』四に、「基親への返書」は古本『漢語灯録』十にも収録されている。もっとも義山本『漢語灯録』所収の「遺兵部卿基親之返報」は、字句の改竄が甚しいから依用できない。「光明房に答ふる書」は、『指南抄』では「又故聖人の御坊の御消息」と題がおかれ、最後に、
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:これは越中国に光明房と申しひぢり、成覚房が弟子等、一念の義をたてゝ、念仏の数返をとゞめむと申て、消息をもてわざと申候、御返事をとりて、国の人々にみせむとて申候あひだ、かたのごとくの御返事候き。
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という奥書きがあり、この消息の書かれた背景がうかがわれる。年月はわからないが、当時、越中国で、成覚房幸西の弟子たちが、一念義を主張して、「決定の信心をもて、一念してのちは、また一念せずといふとも、十悪五逆なほさわりをなさず、いはむや余の少罪おやと信ずべきなり」と教え、人々に念仏の数返をとどめさせていた。恐らく多念をすすめ、三万、五万といった日課念仏をすすめていたと思われる光明房は、そうした一念義が異義であることを法然に証明してもらい、国(越中)の人々にみせたいと申し出たのに対して、法然が「かたのごとくの御返事」を送られたのがこの書であるというのである。
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 この「あとがき」は『和語灯録』本にはない。しかし『行状絵図』二九第四図には、
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:成覚房弟子等、越後国にして一念義を立けるを、上人弟子光明房といふひじり、多念の行者なりけるが、心えぬ事におもひて、かの所述の法門をしるして、上人にうたへ申いれければ、御返事云。
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と前書して、この消息をあげている。ここでは、越中国が「越後国」に変えられている。しかも、それにつづいて第五図に「光明房の状につきて上人、一念義停止の起請文をさだめらる。かの状云」として、後にのべる『漢語灯録』所収の「遣北陸道書状」を略出し、末尾に「承元三年六月十九日沙門源空」と記している。従ってこれによれば「光明房に答ふる書」と「遣北陸道書状」とは一具のものとなり、年月日も承元三年六月十九日のことになる。しかし『指南抄』本も『和語灯録』本も年月日は記されていない。ところでこの消息のはじめに「一念往生の義、京中にも粗流布するところ也。おほよそ言語道断のことなり」といわれたところからみれば、法然の在京中のできごとであり、流罪以後とは考えられないから、少くとも建永二年二月(承元元年)以前であったとみるべきであろう。それに後述するように「遣北陸道書状」そのものが問題の書であるから、『行状絵図』の所論は信憑性に乏しいといわねばならない。
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 さて「光明房に答ふる書」によれば、越中における幸西の弟子たちの言動は、必ずしも称名相続を否定したわけではなく「わがいふところも、信を一念にとりて念ずべきなり、しかりとて、また念ずべからずとはいはず」といっている。これに対して法然は「ことばは尋常なるににたりといえども、こゝろは邪見をはなれず」と批判されている。何故ならば、彼等は「決定の信心をもて、一念してのちは、また一念せずといふとも、十悪五逆なほさわりをなさず、いはむや余の少罪おやと信ずべきなり」と主張しているからであるといわれる。すなわち一念義の徒は、本願を信ずる一念に往生が定まるから、その後は、たとえ念仏しなくても、またいかに罪業を造ったとしても、往生のさわりにはならないといって、自身の懈怠を恥じる心もなく、罪悪を痛み、慚愧する心もないということこそ、その一念の信が誤っている証拠であるといわれるのである。その信心が、機法二種の深信であるならば、当然自身の罪悪に対する懴悔、慚愧の心と、正定業の相続があるべきだといわれるのであろう。「かの一生造悪のものゝ臨終に十念して往生する、これ懴悔念仏のちからなり、この悪の義には混ずべからず、かれは懴悔の人なり、これは邪見の人なり」といわれたものがその意をあらわしている。
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 要するに、このような一念往生の義は、懈怠無道心のものが、「ほしいまゝに悪をつくらむとおもひて」主張している邪見の義であって、「附仏法の外道なり、師子のみの中の虫なり、またうたがふらくは、天魔波旬のために精進の気をうばわるゝともがら」であると、きびしく批判されている。そして「まことに十念一念までも、仏の大悲本願なほかならず引接したまふ無上の功徳なりと信じて、一期不退に行ずべき也」と一念多念の正義を教示されている。
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 なおこの消息のはじめに「一念往生の義、京中にも粗流布するところなり、おほよそ言語道断のことなり」といい、文中に「しかるをちかごろ愚癡無智のともがらおほく、ひとへに十念、一念なりと執して上尽一形を廃する条、无慚无愧のことなり」といわれている。これは元久元年(一二〇四)十一月七日付けの「七箇条制誡」に「此十箇年以後、無智不善輩、時時到来、非 啻失 弥陀浄業 、又汚 穢釈迦遺法 、何不 加 炳誡 乎」といわれたものとよく似た表現になっており、おそらくこのころから建永のころにかけてのできごとだったと思う。ことに元久二年十月に上奏された『興福寺奏状』の第八条「損 釈衆 失」に、罪を怖れず、悪を憚らない造悪破戒の専修の僧尼が、北陸、東海等の諸国において盛んに「圍双六不 乖 専修 、女犯肉食不 妨 往生 、末世持戒市中虎、可 恐可 悪、若人怖 罪、憚 悪、是不 憑 仏之人也」といって、人々をまどわしているといい「自 不 勅宣 乎得 禁遏 」
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と訴えている。これによれば、当時北陸では専修念仏者の過激な布教活動が行われていたことがわかるが、その言動からみて一念義系の人々が主体であったようにおもわれる。恐らくこの「光明房に答ふる書」も、このころ、そうした状況のもとで出されたものであったから、特に「かたのごとく」厳しく誡められたのではなかろうか。
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=====二、基親への消息=====
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 次に「基親への返書」であるが、『西方指南抄』本は和文であり、古本『漢語灯録』本は漢文である。行文に少異はあるが、内容は全く同じである。『指南抄』では、はじめに「基親取 信信 本願 之様」と標して、基親自身の領解と、対論者である一念義の説をあげている。つぎに「兵部卿三位のもとより、聖人の御房へまいらせらるゝ御文の按」が掲載せられ、最後に「聖人御房之御返事の案」が出されている。その最後に「八月十七日」と日付が記されている。古本『漢語灯録』では、はじめに「遣 兵部卿基親 之返報」が、次に「基親卿状」が、最後に「基親取 信信 本願 之様」という折紙状が掲載されている。そして初の返報の終わりには「八月十七日源空」と、日付と署名があり、「基親卿状」の最後には、「八月十五日、基親」とある。又「折紙状」の終わりには、「私云難者云成覚房也」と編者の細註が記されている。これによって、八月十五日に、兵部卿三位、平基親から、法然にあてて、一念義との対論の様子を書いて呈出し、「この折紙に、御存知のむね御自筆をもて書きたまわるべく候」と願い出たのに対して、八月十七日に返信されたものであることがわかる。『指南抄』本では、基親の対論者が誰であったかわからないが、『漢語灯録』本では、成覚房幸西であったといわれている。これによって『行状絵図』二九や『九巻伝』には、
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「兵部卿三位基親卿、ふかく上人勧進のむねを信じて、毎日五万遍の数遍、をこたりなかりけるを、成覚房一念義をたてゝ、彼卿の数遍を難じければ、重々問答して成覚房の義ならびに所存をしるして、上人に尋申されける状云」として、基親の註進状をあげている。そして両伝とも、幸西は一念義をたてたが故に、法然から破門されたといっているが、前述のように、幸西は破門されたとはみなしえない。また対論者も、はたして幸西であったかどうか内容からみて、にわかに決定しえないところもある。『公卿補任』によれば基親は、建久元年(一一九〇)十月に従三位に叙し、兵部卿に任ぜられているが、建永元年(一二〇六)五十六歳で出家している。従ってこの書状に基親と俗名で署名しているところからみて、建永元年以前のものとみるべきであろう。
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 さて基親は、第十八願文、同成就文、『礼讃』深心釈の法の深信の文、『観経疏』の二種深信の文を証権としてあげ、これに依って、基親、罪悪生死の凡夫なりといえども、一向に本願を信じて、名号をとなえ候、毎日に五万返なり、決定仏の  本願に乗じて、上品に往生すべきよし、ふかく存知し候。
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と自身の領解をのべている。ところが、ある人が、基親を批判して「本願を信ずる人は、一念なり、しかれば五万返無益なり、本願を信ぜざるなり」といったというのである。そこで基親が「念仏一声のほかより、百返乃至万返は本願を信ぜずという文候や」と返難したら、その人は「自力にて往生はかなひがたし、たゞ一念信をなしてのちは、念仏のかず無益なり」という。基親は、  自力往生とは、他の雑行等をもて、願ずと申さばこそは自力とは候はめ、したがひて善導の疏にいはく、上尽百年下至一日七日、一心専 念弥陀名号 、定得 往生 必無 疑と候ぬるは、百年念仏すべしとこそは候へ、また聖人の御房七万返をとなえしめまします。基親御弟子の一分たり。よてかずおほくとなえむと存じ候也。
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と主張したら、難者がいうには、二念よりは、仏の恩を報ずるなりと申す。すなわち礼讃に、不 相続念 報彼仏恩 故、心生 軽慢 、雖 作 業行 、常与 名利 相応故、人我自覆不 親 近同行善知識 故、楽近 雑縁 、自 障障 他往生正行 故云云。
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という。そこで基親はそれに対して、
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:基親いはく、仏恩を報ずとも、念仏の数返おほく候はむ。
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と返答したというのである。
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 基親は、以上の問答を記した折紙に、法然の存念を「御自筆をもて、かきたまはるべく候、難者にやぶらるべからざるゆへ也」と請求してきたわけである。そして難者が聖道門の別解別行の人ならば、耳にもかさないが、法然の「御弟子等の説に候へば、不審をなし候也」といっているから、法然の弟子が難者であったことは確かである。
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しかもその弟子たちは、「念仏者女犯はゞかるべからずと申あひて候、」と告発しているから、女犯、破戒を当然のこととして主張しているグループに属している人物であったといわねばならない。こうした言動に対して基親は、在家ならば妻帯は勿論許されるが、どんなに強く本願を信ずる人であっても、出家ならば女性に近づくべきではない、善導は「目をあげて女人をみるべからず」といわれているではないかといって持戒を強調している。
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 「基親は、たゞひらに本願を信じ候て、念仏を申候なり」といっているが、日課として五万返を称え、上品往生をめざしているのみならず、出家の念仏者には持戒を厳しく要求しているところからみて、多念義的な傾向の強い信者であったといえよう。それに対して難者は、明らかに一念義的傾向の強い人物で、他力を強調し、本願を信ずるとは、一声の念仏によって往生が決定すると信ずべきであって、往生の業としての日課念仏は無益である。毎日五万返を称えて上品往生をしようとすることは、本願を信じない自力の行者であると批判したのである。それに対して基親は、自力とは雑行の行者をいうのであって、本願を信じて念仏しているものは自力ではないといい、善導の上尽百年下至一日の文をあげ、また法然の日課七万返を例証として多念を主張したのである。ところが難者は、第二念以後の念仏は、仏恩を報謝する念仏であって、法然の念仏はそれであるといい、『礼讃』に雑修の失としてあげた「不 相続念 報彼仏恩 故」等の文をあげ、仏恩報謝の念仏を行うものが専修であり、そうでないものは雑修であるといった。そこで基親は仏恩を報ずるにしても、念仏の数を多く称えた方がいいではないかと反論したというのである。
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 これによると、この一念義的傾向の強い難者は、行一念業因、第二念以後報恩という説をもっていたようで、前述の「三機分別」に「弥陀の本願を縁ずるに、一声に決定しぬと、こゝろのそこより、真実に、うらくと一念も疑心なくして、決定心をえてのうえに、一声に不足なしとおもへども、仏恩を報ぜむとおもひて精進に念仏のせらるゝなり」というような立場に立っていた人物ではなかったかと推定される。幸西が、はたしてこのような主張を行っていたかどうかは不明である。
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 さてこの基親に対する法然の返信は、
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:御信心とらしめたまふやう、おりがみつぶさにみ候に、一分も愚意に存じ候ところにたがわず候、ふかく随喜したてまつり候ところなり。しかるに近来、一念のほかの数返無益なりと申義いできたり候よし、ほゞつたへうけたまはり候、勿論不足言の事か。文義をはなれて申人、すでに証をえ候か、いかむ、もとも不審に候。
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といい、基親の主張に賛成されている。しかし「一念のほかの数返無益」ということは否定されているが、報恩称名説については全くふれられていないところに微妙な含みがありそうである。
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 また破戒の問また破戒の問題についても、つづいて、
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    ふかく本願を信ずるもの、破戒もかへりみるべからざるよしの事、これまたとはせたまふにもおよぶべからざる事か。附仏法の外道、ほかにもとむべからず候。おほよそは、ちかごろ念仏の天魔きおいきたりて、かくのごときの狂言いできたり候か、なほくさらにあたはず候く、恐々謹言
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といい、「七箇条制誡」の線にそって造悪無碍を厳しく誡められている。一念義系の念仏者たちの過激な伝道が、大きな社会問題となってきており、念仏禁制の動きがでてきているという状況のもとで、法然がこのような返信を基親に送られたことは、むしろ当然の配慮であったと考えられる。もっとも法然は、信心を確立するという安心門を語るときは、持戒破戒を簡ばず、出家在家を問わず、念仏は一念までも定めて往生をうるという教説を堅持されていたから、弟子たちのなかには、「上人の詞には皆表裏あり、中心を知らずして、外聞に拘ることなかれ」と主張するものもいたようである。
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=====三、「遣北陸道書状」の真偽=====
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 『漢語灯録』十に収録されている「遣 北陸道 書状」は、『西方指南抄』には収められていない文献である。末尾に「承元三年已已六月十九日、沙門源空御判」とあるから、もし事実とすれば、承元三年(一二〇九)、法然が箕面の勝尾寺に滞在中に書かれたものということになる。
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 ここで批判されている邪義は、一宗の廃立も知らず、一法の名目も知らない無智誑惑の輩が、道心もなく、利養を求め、渡世の計とする為に唱導している一念の偽法であるといわれている。それは、
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:姧弘 一念之偽法 、無 謝 無行之過 、剰立 無念之新義 、猶失 一称之小行 、雖 微善 、於 善根 削 跡、雖 重  罪 、於 罪根 増 勢、為 受 刹那五欲之楽 、不 畏 永劫三途之業 、教 示人 云、憑 弥陀願 者、勿 憚 五逆 、
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:任 心造 之、不 可 着 袈娑 、着 直垂 、不 可 断 婬肉 、恣可 食 鹿鳥 云云。
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という如きものである。すなわちこの一念義は、一声の念仏すら捨てる無行の一念であり、「無念の新義」である。しかも本願をたのむものは造悪を憚かるなといい、袈娑を廃して直垂を着よとすすめ、女犯肉食を断ずる必要はないといっているから「捨戒還俗の儀」をすすめる在家主義者であったらしい。
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 ところでこの「遣北陸道書状」は、北陸道において、このような無念、造悪の一念義を唱えている誑法者を批判することを目的として書かれている。それについて、
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:而近日北陸道中、有 一誑法者 、構 妄語 云、法然上人七万遍念仏、是只外方便也。内有 実義 、人未 知 之、所謂心知 弥陀本願 、身必往 生極楽 、浄土之業於 是満足、此上何過 一念 、雖 一返 重可 唱 名号 哉。於  彼上人禅坊 、門人等有 二十人 、談 秘義 之処、浅智之類者、性鈍未 悟、利根之輩、僅有 五人 、得 此深法 、我其一人。彼上人己心中之奥義也。容易不 授 之、択 器可 令 伝授 云云、風聞説若実者、皆以虚言也。
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という。すなわち北陸道の一念義の誑法者は、法然の七万遍の日課念仏は、外の方便であって、実義は、心に本願を信ずる一念に、身必ず浄土に往生することに定まるのであって、この上に一念の念仏も必要ではない。法然の禅坊には二十人の門人がいたが、この秘義を得たものは、わずかに五人に過ぎず、我はその一人であると誇っていたという。しかしこの誑惑者は、法然から一句の法も受けたこともないのに、人の信用をうる為に、これを師教と詐称し、称名弘願門というような名目を使い、さらに『念仏文集』と称する謀書を作り、その初に『念仏秘経』という偽経を作成して、邪説を流布しているといわれている。
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 この「遣北陸道書状」について、中沢見明氏は「怪しむべき語句が多くて、法然の作つたものとは思はれない。
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恐らくは後人の偽作であらうと思ふ」といって偽作説を主張した。それはこの書は、「一念義の邪人排斥の言辞は極めて猛烈であるが、正義の念仏を教へることが甚だ不親切で、他の一念義破斥の法然の消息に比して疑はしい」ことと、この書に、法然が自らを語って、
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:抑貧道、従 山修山学之昔 、五十年間、広披 閲諸宗章疏 、叡岳所 無者、尋 之他門 、必遂 一見 、鑽仰年積、聖教殆尽、加之或一夏之間、修 四種三昧 、或九旬之中、行 六時懴法 、年来長斎、修 練顕密諸行 、身既疲 老後 勤 念仏 、今就 称名之一門 、雖 期 易行之浄土 、猶於 他宗教文 、悉成 敬重 、況素所 尚之真言止観哉。
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といわれているが、自ら愚癡の法然房といった人の語とは思われない。ことに一夏九旬に四種三昧や六時懴法を行じ、顕密の諸行を修練してきたが、老後に疲れて易行の念仏門に入ったといっているが、法然の専修念仏帰入は四十三歳のときで、決して老後ではなかった。もしその後も顕密の諸行を修練していたというのならば『選択集』等の文と甚しく矛盾することになるといわれるのである。松本彦次郎氏も、「用語が野卑で罵詈讒謗的」であり、『選択集』で樹立した「彼の新宗教の立脚地をば、彼自身が覆したこと」になり、「自説を自分で破壊し、浄土宗の根本原理すら捨ててあるやうにも見える」といって偽作説に賛成されているようである。田村円澄氏は「遺北陸道書状」は、「光明房に答ふる書」を換骨奪胎して偽作したものとみられている。
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 ところでさきに一言したように『行状絵図』二九には、第一図は幸西のこと、第二、第三図には基親の折紙と、法然の御返事、第四図には、光明房に答ふる書をあげ、第五図には、「光明房の状につきて、上人、一念義停止の起請文をさだめらる、かの状云」として「遣北陸道書状」を和文で略出し「一念義停止の起請文」にしている。もっともここでは『念仏文集』や『念仏秘経』のことや、法然の山学山修のありさまをのべた後半の部分が省かれている。ところで『行状絵図』が、「光明房に答ふる書」をあげるときに、越中国を改めて「成覚房弟子等、越後国にして、一念義をたてけるを・・・・・・」と、越後国に改作したことは、第五図にあげる一念義停止の起請文とあわせて、承元三年当時、越後に流罪中であった親鸞を、幸西門下の一念義の邪徒ときめつけてひそかに批判する意があったのではなかろうか。
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 『九巻伝』六下には、先ず幸西が、一念義を主張したことによって法然から破門されたといい、「基親への御返事」を出し、「光明房に答ふる書」は省略するが、つづいて「遣北陸道書状」を和文にして「一念義停止の状」としてあげる。そのはじめに、
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:爰上人配国の後、成覚房の弟子善心坊といへる僧、越後国にして専此一念義を立けるとき、光明坊といへるもの、不 心得 事に思て、承元三年夏の比、消息をもて上人に尋申けるに付て、配所にてかかれたる一念義停止の状云。
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といっている。ここには、成覚房の弟子で越後国で一念義を伝道している善心坊を非難するために、光明坊の請によって法然が「一念義停止の状」をしたためられたといっているが、越中が越後へ、さらに成覚房の弟子が、善心坊へと伝承を変化させることによって、親鸞とその門流を非難しようとしている伝記作者の意図が明らかに読みとれる。
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脚 註:

2019年6月20日 (木) 09:19時点における版

第七章 法然聖人における一念多念の問題

第一節 一念多念の諍い

 法然の晩年から滅後にかけて、最大の教学論諍となったものに一念多念論がある。『古今著聞集』一に「後鳥羽院、聖覚法印参上したりけるに、近来専修のともがら、一念多念とて、わけてあらそふなるは、いづれか正とすべきと御たづねありければ、行をば多念にとり、信をば一念にとるべきなりとぞ申侍りける」[1]と記されているように、後鳥羽上皇が関心をもつにいたったほどであったという。また信瑞の『明義進行集』(法然伝全・一〇〇八頁)には、空阿が一念多念の座を分けたことを伝えている。また法然の十三回忌にあたる貞応三年に叡山から朝廷に専修念仏の停止を奏上した『廷暦寺奏状』のなかにも、一念多念の諍いのあることをのべているし[2]、凝然の『浄土源流章』にも、一念義の主唱者として幸西を、多念義の主唱者として隆寛をそれぞれあげている。

 隆寛は、少くともその『一念多念分別事』や『後世物語聞書』などをみるかぎりでは、多念義とはいえない。特に『一念多念分別事』には、

念仏の行につきて、一念多念のあらそひ、このごろさかりにきこゆ。これはきはめたる大事なり。よくくつつしむべし。一念をたてゝ多念をきらひ、多念をたてゝ一念をそしる、ともに本願のむねにそむき、善導のをしへをわすれたり・・・・・・かへすがへすも、多念すなはち一念なり、一念すなはち多念なりといふことわりをみだるまじきなり[3]

といい、一念多念の両派をきびしく批判されている。隆寛は一念を、一声の称名のこととみているから、行の一念であった。もっとも『散善義問答』に、

念仏行一発心後、至往生期、不可退転勧進也。以何故者、正乗本願事最後一念也。正乗 蓮台事臨終一念、以尋常一念、有乗本願、善導懐感等人是也。其余行人、以尋常念仏力、成就最後正念乗本願也。[4] 「隠/顕」念仏の行は一発心の後、往生の期に至るまで退転すべからずと勧進なり。何を以ての故にとは、正しく本願に乗ずることは最後の一念なり。正しく蓮台に乗ずることは臨終の一念なり。尋常の一念を以て本願に乗ずることあり、善導、懐感等の人これなり。その余の行人は、尋常念仏の力を以て、最後の正念を成就して本願に乗ずるなり。

といわれたものなどによると、多念を勧め、臨終業成を主張されるもので、まさに多念義の典型のようにもみられる。『浄土源流章』に隆寛の思想を紹介して、

長楽寺隆寛律師立多念義、・・・・・・行者修習念仏妙行、其業成就心在臨終、平生之間、雖相続修往生業因、未能成就、是故一形至 最後念、相続勤修、臨終業成、即見仏等。 「隠/顕」長樂寺隆寛律師は多念の義を立つ。・・・・行者、念佛の妙行を修習して、その業成就すること臨終にあり。平生の間は相続して往生の業因を修すといえども、成就すること能わず。是の故に一形最後の念に至るまで相続勤修して臨終に業成じて即ち仏等を見て、命終りて蓮に座し即ち彼土に生ず。

といったのは、隆寛の思想の一面をたしかにあらわしている。しかし上述の『一念多念分別事』の思想とあわせ考えるならば、石田充之氏もいわれるように、平生業成説に即する臨終業成説とでもいうべきものであろう。[5]

 聖覚は承久三年(一二二二)にあらわした『唯信鈔』のなかで一念多念の諍いにふれ、

つぎに念仏を信ずる人のいはく、往生浄土のみちは、信心をさきとす、信心決定しぬるには、あながちに称念を要とせず、経にすでに乃至一念ととけり、このゆへに一念にてたれりとす、遍数をかさねむとするは、かへりて仏の願を信ぜざるなり、念仏を信ぜざる人とて、おほきにあざけり、ふかくそしると。[6]

というような信一念をたてて多念相続をそしる一念義のあったことを伝えている。そして聖覚は、「この説ともに得失あり、往生の業一念にたれりといふは、その理まことにしかるべしといふとも、遍数をかさぬるは不信なりといふ、すこぶるそのことばすぎたり」と批判し、法然以来の伝統の正義として「一念決定しぬと信じて、しかも一生おこたりなくまふすべきなり」と断定している。

 親鸞が、関東の門弟たちのなかに、一念多念の諍いが発生したとき、隆寛や聖覚の書をすすめて教導し、みずからも『一念多念文意』をあらわされたことは周知の如くである。そこには「一念をひがごとゝおもふまじき事」といって、信一念に往生が定まるということも、行一念が無上功徳をもつ業因であることも、経釈の実義であるといい、また「多念をひがごとゝおもふまじき事」といって、一念にかぎらず「乃至十念」と誓われた仏意にしたがって生涯念仏相続すべきことをすすめ、

これにて一念多念のあらそひあるまじきことはおしはからせたまふべし。浄土真宗のならひには、念仏往生とまふすなり、またく一念往生、多念往生とまふすことなし。[7]

と誡めておられる。

 弁長の『浄土宗名目問答』下の初に

問、同雖 浄土宗一門者、一念之流、数遍之流、水火相分、一念之人、咲 数遍之輩難行苦行、数遍之人謗一念之輩無行無修、互成 偏執、何悪何善、誠以其是非難 知、何将弁 是善悪、付 一方 固 其心、止 迷惑念、一向調 往生之行願、今度往生浄土、出離生死。[8]「隠/顕」問ふ、同じく浄土宗の一門といえども、一念の流れ、数遍の流れ、水火あい分けて、一念の人、数遍の輩の難行苦行をわらい、数遍の人は一念の輩は無行無修と謗る。たがいに偏執を成して、何悪何善、誠に以てその是非知り難し。なんぞまさにこの善悪を弁ずれば、一方についてその心を固め、迷惑の念を止め、一向に往生の行願を調え、今度の浄土往生を生死を出離す。

という問いを出している。これによって一念義と多念義が水火の如く分れて論諍していたことがわかるが、弁長は、そのどちらが善であるかを決択して、その一方について心を固め、往生の行願を調えるように勧めている。そして答釈においては、『大経』の「精明求願積累善本、雖一世勤苦須臾之間、後生無量寿仏国、快楽無極」「隠/顕」精明に求願して善本を積累せよ。一世に勤苦すといへども須臾のあひだなり、後に無量寿仏国に生れて快楽極まりなし。の文をはじめ、善導の『観念法門』の「大須精進、或得三万六万十万者、皆是上品上生人」「隠/顕」大きにすべからく精進すべし。あるいは三 万・六万・十万を得るものは、みなこれ上品上生の人なり。等の文を多く引いて多念義を以て正義とし、一念義を邪義と定めている。すなわち一念義は、三心、四修、五念の法義に背くものとして専修の行者ではないというのである。そして多念相続の行儀としては四修の法により、また尋常行儀、別時行儀、臨終行儀を用うべきであるとすすめている。特に臨終行儀を重視し、臨終正念を祈り、臨終来迎を期するのが浄土教の伝統であるとして、平生に往生が定まると語り、臨終はたとえ悪相であっても往生すというような一念義は邪義であるといっている。

 弁長は『念仏名義集』中にも、一念義とは「三万六万返ノ念仏ヲハ捨ヨ、其ハ念仏ノ義ヲモ不知者コソ左様ニ数多ク申ス也、其ハ迷ヘル人也、実シクハ念仏ヲハ申サネトモ一念往生スル也、深義アリ是ヲ学ベ」と教えるものであるといい、これによって、

是ヲ聞侭ニ皆人人三万六万ノ念仏ヲ捨テ 口(いたずら)ニ成ヌ、手空クシテ徒者ニ成ヌ、怖々、サテ罪ヲ恐ルル人モ任其法 罪ヲ造リ、六斎十斎ノ斎戒ノ人モ其日ヨリ狩漁ヲシ、尼法師ハ乍 懸 袈娑 食 魚鳥 、人ノ見聞ヲ不憚、世人男女人目ヲツツム事 テコソ候ヘ、今ハ人目ヲツツムヲ虚仮ノ行ナントト云テ、可 耻仏ニハ不 耻、人見 ヲ耻ルヲ虚仮ノ念仏者也ト笑テ、本願念仏ノ深サハ人目ヲツツム事更 無トテ、黒衣ト女ト二人ツレアルキ、或ハ尼ト法師ト二人不 憚墨染ノ肩ノ上ニ持 魚、尼ノ黒衣ノ袖ノ上ニラキヲツツム、此事 可 怖可怖。[9]

とその行状をきびしく非難している。その他肥後国に行われているという相続開会の一念義という邪教なども紹介している。弁長の批判には誇張もあったと思うが、一念義系の造悪無碍者の言動には目をおおわしむるものもあったにちがいない。

 一念義の主唱者は、法本房行空と、成覚房幸西であったということは、『法水分流記』にも見られるが、当時の記録の諸所にでている[10]。行空については『三長記』元久三年二月十四日条に、安楽房遵西とともに、この日 院の庁へ召出され、罪科を行われることになったといい、「安楽房者勧進諸人、法々房者立一念往生義、仍可被配流此両人之由、山階寺(興福寺の古称)衆徒重訴申之、仍及此沙汰歟」[11]と記している。これによって法本房行空は一念義を立てたことを理由に、興福寺から流罪にせよという重訴があったことがわかる。興福寺の衆徒が、法然一門を罪科に処し、専修念仏を停止せよと奏上したのは元久二年十月(一二〇五)のことであったが、その後も幾度も重訴しており、元久三年二月廿一日にも、興福寺の五師三綱が藤原良経(兼実の二男で当時摂政であった)に強訴し、「源空仏法怨敵也、子細度々言上了、其身并弟子安楽、成覚此弟子未知名字、住蓮、法本等、可被行科・・・・・・」[12] といったといわれる。このなかで住蓮と安楽は諸人勧化が問題だったし、法本と成覚房幸西とは一念義が問題視されたわけである。結局行空と安楽房遵西とは、元久三年二月三十日に、「偏執、傍輩に過ぐ、」というので罪科に処せられることになったが、行空は、殊に不当であるというので、「源空、一弟を放ち了ぬ」といい、破門に処せられたことがわかる。たしかに行空が一念義を唱えたことは事実であろうが、『三長記』所引の宣旨に「沙門行空忽立一念往生之義、故勧十戒毀化之業、恣謗余仏、願進其念仏行」[13]とあることが、そんなに悪行であったかどうかは問題である。尚この翌年建永二年(承元元年)二月に行われた承元(建永)の法難に際して、住蓮、安楽等四人が死罪になり、行空は佐渡へ流刑、その後は不明である。
幸西は流罪となったが、無動寺の善題大僧正(前大僧正-慈鎮?)が申しあずかったといわれている。尚、幸西は嘉禄の法難(一二二七)には壱岐へ流罪ときまったが、讃岐あたりを経廻していたようである。宝治元年(一二四七)八十五歳で入寂したといわれている。

 行空の一念義がどのようなものであったかはわからない。ただ弁長の『浄土宗要集』に「法本房云、念者思ヨム、サレバ非 称名 云云」といい、行空は念仏の念を思念(心念)とみて口称としなかったといっているから、心念を重視したようであるが、それがはたして称名を否定していたかどうかは不明である。また弁長の『末代念仏授手印』に「或人云、寂光土往生尤是殊勝也、称名往生是初心之人往生也、其寂光土往生尤深也」というある人の説をあげているのを、良心の『授手印決答巻下受決鈔』には「美濃国法報房云人立 此義 」といって、常寂光土義を行空の説としているが、何を根拠にそういっているのかわからないから、にわかに信用できない。

 幸西の一念義は、現存する『玄義分抄』と凝然の『浄土源流章』所引の幸西の著書の諸文によって、ほぼ窺うことができる。

 『玄義分抄』別時門に、

然るに聖道を捨てて浄土を行ぜしむる事は、正しく華厳経の意に依る。上品下生の釈の文、説偈の発願等に合す。定善を捨てて散善を行ぜしめ、諸行を捨てて称仏を行ぜしめ、多称を捨てて一称を行ぜしめ、諸仏を捨てて弥陀を行ぜしむる事は、法華経、観経等に依る。四の捨行の中に終りの一は唯観経也。口称を捨てゝ心念を行ぜしむる事は大経に依る。此事を真実として余門余行を別時とする事は、正しく阿弥陀経に依る也。

といわれたように、聖道を捨てて浄土に入り、定善を捨てて散善を、諸行を捨てて称仏を、多称を捨てて一称を、諸仏を捨てて弥陀を、口称を捨てて心念を行ぜしめるといわれているように、徹底した廃立義を立て、廃立の究極においては、『大経』による心念を重視していたことがわかる。その心念の一念について

 『浄土源流章』には、

幸西大徳立 一念義 、言 一念 者仏智一念、正指 仏心 為 念心 、凡夫信心冥 会仏智 、仏智一念是弥陀本願、行者信念与 仏心 相応、心契 仏智願力一念 、能所無二、信智唯一、念念相続決定往生・・・・・・願心所成即是仏智、智上具有 諸宿願力 、是故智体願力所成、是故弥陀所有種智名為 智願 、是名 仏智一念心 、行者信心、契 此智 故、念念即与 仏智 相応。

と解説されている。これによれば幸西のいう一念とは、仏智の一念であり、仏智の一念とは、願力所成の弥陀の一切種智をいうから、智願海ともいわれるものである。凡夫が念仏往生の本願を信ずるということは、この仏智願力と相応し、能信と所信が相応し一体となり、信智唯一となることであり、この信智唯一なる信心が念々相続して決定往生をとげるというのである。凡夫の信心の一念が往生の因となるというのも、このような仏智一念と一体であるような信心だからである。このように仏心と信心が一つになっている状態を本願に乗託するというのであり、それを開けば三心ともなるという。すなわち『浄土源流章』所引の『一渧記』によれば、

如来能度是心、心者智、能度 物真実唯一念心也。衆生所 度是亦心、心者智、智所 度、正門無 外、是即心、一乗不 他是即心、捨 邪心也、帰 正心也、捨 小心也、採 大心也、捨 漸心也、採 頓心也、
捨 聖心也、採 凡心也、二河亦心也、白道亦心也、是亦唯一念心也、是名 真実心 、是名 深心 、是名 願心 、
故云具 此三心 必得 生也已上、約 義有 三心 、尅 体唯一念、信 願託 願契 智之心、与 仏智 冥体无二故。

といわれている。すなわち能救能度の真実なる仏心と、所救所度の衆生の心とが一体となった状態を、衆生の方でいえば信心であり信智である。このような信心の智が、幸西のいわゆる凡頓一乗すなわち弘願一乗の体なのであって、この心によって捨 邪帰 正、捨 小採 大、捨 漸採 頓、捨 聖採 凡するのであり、この心が三心であるから『観経』には「具此三心必得生」といわれるというのである。

 このように幸西は、仏智と冥合した信の一念を強調しているが、決して称名を否定しているわけではない。『源流章』に、

問法蔵弥陀以 何専為 報仏浄土生因本願 、答四十八中第十八願、称名念仏為 生因願 、略料簡云、報仏報土而 指 方、本誓重願唯名号、十念念数、不 指 時、別意弘願全異 余已上、既言 唯名号 、故生因願唯称 仏名 、 非 身意業 、凡夫至心称 仏名号 、頓超 娑婆 入 初地位 、良以 如来不可思議宿願増上強縁力 故。

というように、幸西は第十八願を称名往生の願とみ、称名を生因法と誓われていることは当然認めているわけである。彼にとって信一念は、むしろ称名往生成立の根拠だったのであろう。『源流章』に彼の所立を一念義という所以を釈して、

念仏往生、具周成立、必由 信心与 彼仏智一念之心 、相応契会、此事成立、任運往生、不 由 時節久近早晩、 念修多少、事業浅深 、略料簡云、仏心相応時業成、無 問 時節之早晩 已上、彼所立義名 一念義 、専由 如 是所成旨帰 。

といっている。すなわち称名往生成立の根源は、本願にあるが、その選択の願心を信知し、弥陀の智願海と相応契会する信心がなければ、真実に念仏往生と信受することはできない。逆にいえば、念仏往生と信知する信心は、仏智一念と冥合し、能所一体となっていて信体即仏智であるような信心であって、このような信が、法然のいわゆる「念仏行者必可具足三心」の三心であり、「涅槃之城以 信為 能入 」の信心であるというのであろう。

 なお幸西が「仏心相応時業成」といっていることは、念仏往生と本願を信じ、仏心と相応した一念に業事成弁し、不退の位につくとみていたことは明らかである。このことは『玄義分抄』別時門に、

唯乃至一念のみ真実の生因なる事を又隠に知らしむ、然れば則現身得不退の益、捨身他世の往生、唯此の一念の大乗に乗じて無二無三也。当知乗願は不退、往生は安楽、証彼無為之法楽は初地、既生彼国更無所畏長時起行は万行円備、果極菩提は仏果也・・・・・・入正定聚といは一念を指す也。

といい、信の一念に正定聚に入り、現生に不退の益を得、往生と同時に初地に入り、彼土において万行円修して仏果を究竟すると考えられていたことがかわる。

 このようにみてくると、幸西の一念義は、念仏往生の信心の体徳について深い考察を行い、そこに本願の仏智との冥合、仏心と凡心との一体の相を釈顕したものであって、念仏往生を否定するものでもなく、一念以外の称名を不要として捨て去るものでもなく、まして造悪無碍を許すようなものではなかったことを知るのである。幸西の説を曲解した弟子が、異義を唱えたことが法然の「光明房に答うる書」にでてくるが、それは必ずしも幸西の失ではなかろう。『行状絵図』二九によれば、法然は幸西の一念義を邪義とみなして「わが弟子にあらずとて擯出せられにけり」と伝えているが、幸西は明らかに『選択集』の付属をうけており、源智は幸西所持の『選択集』を書写したといわれており、法然滅後も京中で大きな勢力をもっていたことなどからみて、『行状絵図』の記事は信用できない。

第二節 乃下合釈と念仏往生の意味

 このようにみてくると、一念義、多念義といっても、隆寛や幸西においては必ずしも法然教学を逸脱するものではなかったことがわかる。特に一念義に関しては種々雑多なものがあり、相続開会の一念義のような邪義は別としても、幸西のような深遠な思想体系をもったものから、造悪無碍的なものにいたるまで実にさまざまであった。ただ一般的にいって一念義とは、一念の信心、もしくは一声の称名によって往生が決定するというので、称名そのものを非因とみるか、あるいは第一声は業因であるが、第二声以後は非因であるとみるような教説のことであった。

信一念業成説を立てるのを信一念義とよび、行一念業成説を立てるのを行一念義というが、いずれにせよ臨終をまたずに往生が決定するという平生業成説をとることになる。また一念義の場合は、信心を強調して称名を軽視する傾向が強く、称名相続をすすめる場合も、正定業としてよりも報恩行に限定する場合が多かったようである。また平生の信一念、もしくは行一念に業成するならば、それ以後は、たとえ念仏しなくても、罪業を犯しても往生にさしつかえないということになる為に、この論法を極端におしすすめたものは、称名を廃したり、造悪無碍におちいるものもでるようになったのである。後にのべるように一念義は、安心門と起行門のなかでは、安心門を強調する立場である為に、廃立を徹底していく傾向があり、聖道門を捨て、諸行を捨て、助業を捨てるばかりか、多念の称名まで捨てて、行、または信の一念を取るというのであった。そのために聖道門に対して厳しく対決する姿勢をとり、聖道門の修行の基盤である戒律を捨てよと勧めたり、余仏余菩薩を軽んずるようになっていった。また神祇不拝を唱え、忌みを否定するなど、当時の社会通念となっていた俗信や習俗に対しても挑戦的であった。『興福寺奏状』などが、特に一念義系のものの思想と行動に焦点をしぼって論難し、告発しているのも、一念義系のものが、社会通念に対して挑戦的であったからである。

こうした一念義に対して、多念義とは、臨終に至るまで退転することなく称名を相続し、特に臨終の念仏の力によって、臨終正念に住して、来迎を感得し、そのときにはじめて往生が決定するという臨終業成説を唱えていた。

しかも平生の念仏の多少によって、往生後の果報に九品の差別があるといい、称名の数量の多少を往因にかけて問題にしている。またその生活態度も、破戒よりは持戒、在家よりは出家、悪人よりは善人である方が、上位の往生をとげることができるとして、廃悪修善を強調している。従って念仏修行においても助業を重視し、五念四修の起行門を策励していくから、一念義が安心門を重視するのに対して多念義は起行門を重視し、前者が全分他力を主張するのに対して、後者は念仏は自力の行因であり、他力とは助縁であるとして自力他力相資の救済説を立てたようである。

 こうして一念義は多念義を自力の執着をはなれられない偽善者であると批判し、多念義は一念義を、他力の名をかりた邪見のものであり、仏法を汚す附仏法の外道であると非難して、文字通り水火の如く諍っていったのである。しかも論諍をくりかえす過程で両者はいよいよ極端にはしるようになっていき、どちらもが法然の説示した念仏往生の法門を見失っていったのである。

 もともと法然が選択本願に立脚して「念仏往生」と説かれたとき、一念とか十念とか多念とかに称名を限定しないという本願念仏の特徴をあらわすためであった。『選択集』「本願章」に、第十八願に「乃至十念」と誓われたのを、善導が「下至十声」と釈された意味を追求して、念声是一釈と乃下合釈を施された。それによれば、本願の「乃至」とは従多向少の意味で誓われていたから、善導は、その義意をあらわす為に「上尽一形、下至十声」と上下相対の語にいいかえられたのが「下至十声」の釈であるといわれるのである。そして願文の乃至が下至の意味を主としていることを証明する為に五神通の願や光明、寿命の願などをあげ、そこに「下至」といわれているのは「是則従 多至 少、以 下対 上之義也、例 上八種之願 、今此願乃至者、則是下至也、是故今善導所 引釈 下至之言、其意不 相違 」といわれている。こうして本願に「乃至十念」と誓われたのは「下至十声」すなわち「十声までの往生」をあらわしており、同様にして本願成就文の「乃至一念」は「一声までの往生」を誓約された文ということになるのである。

 法然はさらに諸師が第十八願を「十念往生願」とみたのに対して、善導は「念仏往生願」とみられたといい、

諸師別云 十念往生願 者、其意即不 周也。所 以然 者、上捨 一形 、下捨 一念 之故也。善導総言 念仏往生願 者、其意即周也。所 以然 者、上取 一形 、下取 一念 之故也。

といわれる。諸師が十念往生の願といったとき、上は一形相続の多念を捨て、下は一声の称名を捨てて、往生行を十声に限定してしまうことになり、「乃至」と誓われた仏意を見失っていると批判されるのである。それに対し善導が念仏往生の願といわれたとき、上は一形相続の称名を取り、下は一念の称名も摂めて「上は一形をつくし、下は一声にいたるまで往生せしめる」と誓われていることをあらわす為に、あえて数量を示さずに「念仏往生願」といわれたというのである。これによって法然の「念仏往生」という用語は、一念か多念かと称名を限定することを嫌って、一念多念を包容する意味で用いられていたことがわかる。親鸞が「浄土真宗のならひには、念仏往生とまふすなり。またく一念往生、多念往生とまふすことなし」といわれたのは、この意を伝承されているのである。

 ところで「乃至」とは、元来一多包容のことばであって、単に従多向少の意味に限定すべきではない。そこで法然も「浄土略要文」には『散善義』上品上生釈の文意によって、従多向少、従少向多の二義のあることを注意して次の如く論述されている。

十七、修 行浄業 時節延促之文
観経疏第四云、上尽 一形 下至 一日一時一念等 、或従 一念十念 至 一時一日一形 、大意者、一発心已後、誓畢 此生 無 有 退転 、唯以 浄土 為 期。

第三節 安心門と起行門

 「浄土宗略抄」には一多包容の念仏の行相を次の如く説かれている。

又一念に往生すればとて、かならずしも一念にかぎるべからず。弥陀の本願の心は、名号をとなへん事、もしは百年にても、十、二十年にても、もしは四、五年にても、もしは一、二年にても、もしは七日、一日、十声までも、信心をおこして南無阿弥陀仏と申せば、かならずむかへ給なり、総じてこれをいへば、上は念仏申さんと思いはじめたらんより、いのちおはるまでも申也。中は七日、一日も申し、下は十声、一声までも弥陀の願力なれば、かならず往生すべしと信じて、いくら程こそ本願なれとさだめず、一念までも定めて往生すと思ひて、退転なく、いのちおはらんまで申すべき也。

 本願を信じて、念仏申さんと思いはじめた時から、いのち終わるまで念仏を申すのであるが、その念仏は、「一念までも定めて往生すと思ひて」一生涯称えていくというのである。

 ところで一念も多念も兼ねおさめた一多包容の念仏をあらわすのに、従多向少で語る場合と、従少向多であらわす場合とでは所顕の義意が変ってくる。法然は本願や本願成就文の「乃至」は「下至」の意味であるといわれたが、このような従多向少の念仏をあらわす場合には「一声までの念仏、決定して往生すべきことわり」とか、「下は十声一声までも、弥陀の願力なれば、かならず往生すべしと信じて」というふうに「までの」「までも」といわれる。これは一念往生が実義であることをあらわしながらも、一念に執われて多念を否定せしめないための巧妙な用語であった。後に親鸞が門弟の慶信の上書を添削されるとき「一念するに往生定て・・・・・・」とあったのを、「一念にとゞまるところあしく候」というので、自筆で「一念までの往生定て・・・・・・」と書き改められるということがあった。ともあれ、「一声までも、弥陀の願力なれば、かならず往生すべしと信」ずるということは、選択本願の行である念仏は、正定業であるから、わずか一声も往生を決定せしめる行業であると信ずることであるから、就行立信の安心門を究極の相においてあらわしていることになる。それに対して従少向多の意味で念仏往生をあらわすときは、臨終まで退転することなく正定業たる念仏を相続するという相続起行門のあらわしかたであるといわねばならない。すなわち従多向少は、安心門の因体をあらわす法相であり、従少向多は起行門の行相をあらわす法相であるといえよう。

 法然が「十一箇条問答」に、

問、礼讃の深心の中には、十声一声必得 往生 、乃至一念無 有 疑心 と釈し、また疏の中の深心には、念々不 捨者、是名 正定之業 と釈したまへり。いづれかわが分にはおもひさだめ候べき。答、十声一声の釈は念仏を信ずるやうなり。かるがゆへに信おば一念に生とゝり、行おば一形をはげむべしとすゝめたまへる釈也。
また大意は、一発心已後の釈を本とすべし。

といわれている。同じ深心釈の法の深信の内容であるが、『礼讃』の「下至十声一声等」という従多向少のあらわし方は、一声までも決定して往生すと信ずる安心門の説き方であり、『散善義』の「念々不捨者」とは、正定業たる念仏を相続起行にかけて釈されたものだといわれるのである。いいかえれば信は、わずか一声までも往生をうと信じて疑わないことであり、行はその所信の行法たる称名正定業を臨終まで相続して退転しないことをいうのである。これが法然の一念と多念、信と行の分済についての基本的な考え方であったと考えられる。同じ意味のことが「禅勝房に示す御詞」では次のようにのべられている。

又云、一念、十念にて往生すといへばとて、念仏を疎相に申せば、信が行をさまたぐる也。念々不捨といへばとて、一念十念を不定におもへば、行が信をさまたぐる也。かるがゆへに信をば一念にむまるととりて、行おば一形はげむべし。

 これと同じ言葉が聖覚の代筆と伝えられている「登山状」にもみられるし、すでにのべたように、『古今著聞集』や『唯信抄』において聖覚も同じことを述べているからこれが法然の常教であったとみるべきであろう。

 ところで安心門と起行門について、善導の『礼讃』前序には、念仏往生と信ずる三心を安心門とし、礼拝、讃嘆、観察、作願、回向の五念門を起行とされている。しかし法然は三心を具足することと、念仏を相続することとを安心門と起行門とに分けておられる。いいかえれば、行(念仏)を信ずることを安心門といい、信じて行ずることを起行門といわれたのである。「浄土宗略抄」に、

つぎに浄土門にいりておこなふべき行につきて申さば、心と行と相応すべき也。すなはち安心、起行となづく。その安心といは、心づかひのありさま也。すなはち観無量寿経に説ていはく、もし衆生ありてかのくにゝむまれんと願ずるものは三種の心をおこしてすなはち往生すべし。・・・・・・次に起行といは、善導の御心によらば、往生の行おほしといへども、おほきにわかちて二とす、一には正行、二には雑行也・・・・・・善導を信じて浄土宗にいらん人は、一向に正行を修して、日々の所作に、一万二万乃至五万六万十万をも器量のたへむにしたがひて、いくらなりともはげみて申べきなりとこそ心えられたれ。それにこれをききながら、念仏のほかに余行をくはふる人のおほくあるは心えられぬ事也。

といわれた如くである。要するに安心門とは念仏一行を正定業と信ずることであり、起行門とは、その所信の行法を実践していくことであるが、正定業の相続には、おのずから前三後一の助業が随伴してくる。いわゆる同類の助業である。さらに日常生活においては異類の助業までも随伴するが「まさしくさだめたる往生の業は、たゞ念仏ばかり」であるから、助業はあっても、常に念仏に統一されて、全体としては念仏を行ずるということになるから専修といわれるのである。法然は、安心門に立てば、一切の余行を捨てて、一念までも往生すと信じ、起行門においては、持戒の清僧として厳しく身を持しながら日課として六万遍、七万遍の念仏を行じていかれたのであった。また恒例の別時念仏も行じ、しばしば三昧発得されたともいわれている。

 異義としての一念義とは、こうした法然の安心門の一面をうけているが、起行門の而が欠落したために信を偏重して観念化し、邪見におちいったものであり、多念義は、起行門の立場をうけているが、起行門の行状を安心門にもちこんだために聖道門的思考に逆転し、自力化したものといえよう。その意味でどちらも法然の念仏往生義が正確に領解されていなかったというべきである。法然が「かやうの事はあしく心うれば、いづかたもひが事になる也。つよく信ずるかたをすゝむれば邪見をおこし、邪見をおこさせじとこしらふれば信心つよからずなるが術なき事にて侍る也」となげかれたのはこうした両極にはしる弟子がいたからである。

 ところで安心門は廃立為正の法門であり、起行門は念仏に統一されてはいるが助正門であらわされるような性格をもっているとみるのが法然教学の法相であった。それゆえ安心門に立つときは、聖道を閣き、雑行を抛うち、助業を傍らにして称名一行を正定業として選びとるという廃立を厳格に行うから自然と神祇信仰や聖道門ときびしく対決する姿勢になるわけである。しかも一切の自力を廃し否定するということは本願他力の絶対性を強調することになるから、善悪、賢愚、出家在家、持戒破戒といった人間の上の差別を全く問わずに、万人平等の救済が説かれるようになり、飲酒、肉食、妻帯もあながちに否定せず、「たゞむまれつきのまゝにて念仏すべし」という絶対肯定がなされていく。さきにのべたように一念義が聖道門に対して挑戦的であり、反倫理的、反社会的として非難されたのも、安心門における絶対否定と絶対肯定を、倫理的、社会的な日常性の場にそのままもちこんできたからであろう。

 法然は「仏教には、いみといふ事なし」と忌みのような俗信を否定し、「神に後世申候事いかむ」という問いに対しては「仏に申すにはすぐまじ」といって神に救済を祈願することを否定し、戒律についても、「十一箇条問答」に次のような問答をあげている。

問、持戒の行者の念仏の数遍のすくなく候はむと、破戒の行人の念仏の数返のおほく候はむと、往生ののちの浅深いづれかすゝみ候べき。答、ゐておはします、たたみをさゝえてのたまはく、このたゝみあるにとりてこそ、やぶれたるか、やぶれざるかといふことはあれ、つやつやとなからむたゝみおば、なにとかは論ずべき、末法の中には持戒もなく、破戒もなし、無戒もなし、たゞ名字の比丘ばかりありと、伝教大師の末法灯明記にかきたまへるうへは、なにと持戒、破戒のさたはすべきぞ。かゝるひら凡夫のためにおこしたまへる本願なればとて、いそぎいそぎ名号を称すべしと云云。

といい、末法の今日においては、持戒、破戒の沙汰さえも無意味であるとまで言い切っておられる。また「念仏往生要義抄」には、

問ていはく、聖人の申す念仏と、在家のものの申す念仏と勝劣いかむ。答ていはく、聖人の念仏と、世間者の念仏と功徳ひとしくして、またくかはりめあるべからず。

といい、在家と出家、聖人と世間者の区別も念仏の前にはなかったのである。特にこの文につづいて、疑ていはく、この条なを不審也。そのゆへは、女人にもちかづかず、不浄の食もせずして申さん念仏は、たとかるべし。朝夕に女境にむつれ、酒をのみ、不浄食をして申さん念仏は、さだめておとるべし、功徳いかでかひとしかるべきや。答ていはく、功徳ひとしくして勝劣あるべからず、そのゆへは、阿弥陀仏の本願のゆえをしらざるものゝ、かゝるおかしきうたがひをばするなり。・・・・・・阿弥陀ほとけ、五劫に思惟してたて給ひし深重の本願と申すは、善悪をへだてず、持戒破戒をきらはず、在家出家をもえらばず、有智無智をも論ぜず、平等の大悲をおこして、ほとけになり給ひたれば、たゞ他力の心に住して念仏申さば、一念須臾のあひだに阿弥陀ほとけの来迎にあづかるべき也。むまれてよりこのかた、女人を目に見ず、酒肉五辛ながく断じて、五戒十戒等かたくたもちて、やん事なき聖人も、自力の心に住して念仏申さんにおきては、仏の来迎にあづからん事、千人が一人、万人が一二人なんどや候はんずらん。

といわれているが、文言のうえでは、一念義のものの言動と変らないようにみえる。ただこうした安心門における絶対的な信の領域だけが強調されて、起行相続の行儀が無視されたときに問題が起きるのである。法然が、「ふかきみのりも、あしくこゝろうる人にあひぬれば、かへりてものならずきこえ候こそ、あさましく候へ」となげかれたのも、そうした誤解が多かったからであろう。

第四節 平生と臨終

 「信おば一念にむまるととりて、行おば一形はげむべし」といわれたときの一念とは、下至一声のことであるから、行の一念であって、信の一念ではなかった。ところでこの一念を臨終の一念とみるか、平生の一念とみるかは問題である。

 法然には一念往生を臨終の機、多念往生を平生尋常の機とみる釈が多い。「十一箇条問答」に、

問、本願の一念は、尋常の機、臨終の機に通ずべく候歟。答、一念の願は、二念におよばざらむ機のためなり。尋常の機に通ずべくば上尽一形の釈あるべからず。この釈をもてこゝろうべし。かならず一念を仏の本願といふべからず。念々不捨者、是名正定之業、順彼仏願故の釈は、数返つもらむおも本願とはきこえたるは、たゞ本願にあふ機の遅速不同なれば、上尽一形下至一念とおこしたまへる本願なりとこゝろうべき也。かるがゆへに念仏往生の願とこそ善導は釈したまへと。

といわれたものがそれである。ここに「本願の一念」とか「一念の願」といわれたのは、第十八願成就文をさしている。成就文では、「聞其名号、信心歓喜、乃至一念、至心廻向、願生彼国、即得往生、住不退転」といい、乃至一念によって即得往生すと説かれている。この一念を法然は称名の一声とされたわけであるが、ここではそれを臨終の機の一念とみ、わずか一声の念仏しかできなかった臨終の機も、即得往生の益をうると説かれたものとみられたのである。この場合「乃至」とは従多向少して、上尽一形下至一念の下至の意味であるというのである。もちろん本願に遇う時節は機によって不同であって、一声で死ぬものもあれば、千声、万声、十年、二十年と念仏生活を送るものもあるから、一念だけを本願の行と思ってはならない。「念々不捨者、是名正定之業」といわれたように、生涯相続していかに多数の念仏をもうしても、すべて本願行であり、正定業であることはいうまでもない。それゆえ一念多念と数量を限定せず念仏往生といわれたのである。今成就文が、あえて一念往生と説かれたのは、二念に及びえない至極短命の機も、もらさず救いたまう大悲の本願であることをあらわす為であるとみなされていたようである。醍醐本『法然上人伝記』「三心料簡事」に、

乃至一念即得往生事
我等非 一念機 、乃至機也云云、又乃至十念如 此。吾等非 十念機 、乃至機也云云。釈上尽一形下至十声等定
得往生文如 此、吾等非 下至十声機 、上尽一形機也云云。

といわれているのも同じ意味である。一念往生とは二念にも及ばぬ臨終至極短命の機であり、十念往生も、下々品の如く十声で命終する臨終の機についていうことである。従って今念仏相続を行っている我等は、下至一念、十念の機ではなくて、「乃至」されている上尽一形の部類に属する機であるといわねばならないというのである。これは明らかに長命の機と、短命の機を分けて、短命の機ならば起行に及ばず、安心門のみで一念往生をとげるが、長命の機ならば、心ず起行相続する。その安心と起行、一念と多念を包摂する為に「乃至」の語をかむせて念仏を誓われたといわれるのである。

 ところで法然が乃至一念を臨終に約して語られたのは、多念相続を無視する一念義的発想を否定する為であったことと同時に、即身成仏思想を浄土教へもちこむことを注意ぶかく避けようとされたからでもある。「東大寺十問答」に次のような問答がある。

問、本願には十念、成就には一念と候は、平生にて候か、臨終にて候か。
答、去年申候き。聖道にはさやうに一行を平生にしつれば、罪即時に滅して、のちに又相続せざれども成仏すといふ事あり。それはなを縁をむすばしめんとて、仏の方便してとき給へる事也。順次の義にはあらず。華厳、禅門、真言、止観なんどの、至極甚深の法門こそさる事はあれ。これは衆生もとより懈怠のものなれば、疑惑のもの一度申をきてのち申さずとも、往生するおもひに住して、数遍を退転せん事は、くちおしかるべし。十念は上尽一形に対する時の事也。
おそく念仏にあひたらん人は、いのちつづまりて、百念にもおよばぬ十念、十念にもおよばぬ一念也。この源空がころもをやきすてゝこそ麻のゆかりを滅したるにてはあらめ、これあらんかぎりは麻の滅したるにてはなき事也。過去無始よりこのかた罪業をもて成ぜる身ももとのごとし、心ももとの心ならば、なにをか業成し、罪滅するしるしとすべき。罪滅する物は無生をう、無生をうる物は金色のはだへとなる。弥陀の願に金色となさんとちかはせ給へども、念仏申人、たれか臨終以前に金色となる。たゞものさかしからで一発心已後無有退転の釈をあふいで臨終をまつべき也。

 ここに「去年申候き」というのは、文治六年(建久元年一一九〇)に東大寺で行われた三部経の講釈をさしている。そして「一行を平生にしつれば、罪即時に滅して成仏す」というのは、『玄義分』に釈された如き成仏別時意説をさしていた。又平生の一念において成仏すと説くのは、華天密禅の四家大乗であるが、特に天台の本覚法門の如きはその代表的なものであった。たとえば法然が「これは恵心のと申て候へども、わろき物にて候也」と批判した『真如観』には、

我等ハカヽル無量劫ノ苦行ヲモセズ、六度ヲモ修行セズシテ、只且クノ間、我身ノ真如ナリト思計ノ一念ノ心ニ依テ仏ニ成リ、極楽ニ生ズル道ヲ知ル、返々世ノ中ニ有ガタキ希有ナル事也。

といい、我即真如、我即仏と知る一念に利根は即身成仏し、鈍根は順次生に極楽に生まれるというような一念成仏説が行われていた。法然は本願成就文の「乃至一念」がこのような本覚法門的な一念と混同されることを注意深くさけているのである。そして「おそく念仏にあひたらん人は、命つゞまりて百念にもおよばぬ十念、十念にもおよばぬ一念也」といい、至極短命の機について一念にて往生すと説かれたもので、長命の機は臨終まで称名を退転しないように多念相続すべきである。それなのに一念往生に執着して多念相続を否定するものは本願を領解し誤った疑惑のものであるというのである。

 法然は即身成仏説を批判するのに、自身が着用している麻の衣を例にあげ、衣を焼きすてたときはじめて麻との縁が完全に尽きるように、罪業によって形成されている有漏の身体がありつづけるかぎり、煩悩具足の凡夫であって、決して悟りを語るべきではないとし、臨終一念の往生をめざして念仏せよとすすめられているのである。

 ところで法然には、一念を平生で語られたとみなしうる法語もたくさんある。さきにあげた「浄土宗略抄」に「上は念仏申さんと思いはじめたらんより、いのちおはるまで申也」といわれたとき、「念仏申さんと思いはじめた」一念は平生であるし、「正如房へ遣す書」に、

返々も本願をとりつめまいらせて、一念もうたがふ御こゝろなく、一声も南無阿弥陀仏と申せば、わがみはたとひいかにつみふかくとも、仏の願力によりて、一定往生するぞとおぼしめして、よくくひとすぢに御念仏候べきなり。

といわれたものは、いずれも平生の一念(一声)が、往生の因であるといわれたものとせねばならない。そのことを「禅勝房にしめす御詞」では、

阿弥陀仏は、一念となふるに一度の往生にあてがひておこし給へる本願也。かるがゆヘに十念は十度むまるゝ功徳也。

といい、また同じことを次下には逆に、

一念を不定におもふものは、念々の念仏ごとに不信の念仏になる也。そのゆへは、阿弥陀仏は、一念に一度の往生をあておき給へる願なれば、念々ごとに往生の業となる也。

ともいわれている。一念が不定業であるならば、多念もまた不定業になる。従って一念を信じないものにとって、多念の念仏はすべて不信の念仏となるのである。一念が決定往生の正定業なるがゆえに、多念もまた正定業なのであり、決定信の相続となるというのが法然の一念多念観であった。

 このように「一念に一度の往生をあておき給へる願」であるということを念仏の徳からいえば、本願の念仏は、一念に絶対無上の行徳をもたしめられているということをあらわしている。『選択集』「利益章」に、『大経』の付属に「乃至一念」の利益として「為得大利、則是具足無上功徳」といわれたものを釈して、諸行は小利有上であり、念仏のみが大利無上であるといい、

既以 一念 為 一無上 、当 知以 十念 為 十無上 、又以 百念 為 百無上 、又以 千念 為 千無上 、如 是展転、従 少至 多、念仏恒沙、無上功徳、復応 恒沙 。

といわれている。念仏は一声が無上功徳であるというのは、「本願章」の「名号者是万徳之所 帰也、然則弥陀一仏所有四智三身十力四無畏等一切内証功徳、相好光明説法利生等一切外用功徳、皆悉摂 在阿弥陀仏名号之中 、故名号功徳最為 勝也」といわれたものと照応して、一声に往生すべき因徳が円満していることをあらわしている。

従って念仏は、平生の一声において往生の因が満足し、決定する行法として選択されていると領解されていたことがわかる。その意味で法然には、平生の一念往生説もあったとしなければならない。

 また法然は、一念往生の教説を易行の至極をあらわすものとも見られていた。「要義問答」に信楽一心を釈して、

このこゝろを具せざらむもの、もしは一日もしは二日、乃至一声十声に、かならず往生する事をうといふ。いかでか凡夫のこゝろに散乱なき事候べき。さればこそ易行道とは申ことにて候へ。・・・・・・劫をつみてむまるといはば、いのちもみじかく、みもたえざらむ人、いかゞとおもふべきに、本願に乃至十念といふ、願成就の文に、乃至一念も、かの仏を念じて、こゝろをいたして回向すれば、すなわちかのくににむまるゝ事をうといふ。

といわれたように、下至十声一声までも往生を得るといわれたのは、「いのち短かく」難行に堪え得ない機の為の易行の法であることをあらわしていたから、下至一念とは、まさに易行の至極をあらわす言葉だったのである。一念往生ということは、選択本願念仏の特色である最勝の法と、至極の易徳をあらわしていたのである。親鸞が「行文類」に行一念を釈して「就 称名遍数 、顕 開選択易行至極 」といわれたのはこの釈意を伝承されたのである。

 一念一無上功徳、十念十無上功徳ということを、法然はまた「死するとき一声申すものも往生す、十声申すものも往生すといふ事なり、往生だにもひとしくば、功徳なんぞ劣ならん」といい、一声も十声も乃至無量声も、往生の得分が同じだから、功徳は同じであると断言されている。これによって本願の念仏は、数の多少を超えた無上絶対の法であり、従ってまた称える人の自力の功を全くまじえない他力の行であることがわかる。一声一声如来の無上功徳が口業に顕現しているような称名ならば、一念か多念かを問題にする必要もなく、臨終か平生かを問うことも必要のないことになる。「念仏往生要義抄」には、臨終の念仏と平生の念仏の功徳の優劣を問うたのに対して、

たゞおなじ事也。そのゆへは平生の念仏、臨終の念仏とて、なんのかはりめかあらん。平生の念仏の死ぬれば臨終の念仏となり、臨終の念仏の、のぶれば平生の念仏となる也。

といい、平生の念仏と、臨終の念仏を全く同じものとみられている。これを醍醐本『法然上人伝記』「三心料簡事」に、

平生臨終事 於 平生念仏 、往生不定思、臨終念仏又以不定也。以 平生念仏 、決定思、臨終又以決定也云云。

といわれたものと対応してみると、法然は平生と臨終を決して別ものとはみられていなかったことがわかる。

 それは平生を臨終の如く生きることであり、臨終を平生の如く迎えることだったといえよう。一念往生とは、臨終を平生にもちこんで、いのちはただ今ばかりとみ、ただ今のいのちを、ただ今の一声が充たして浄土にあらしめてくれると領解することであった。一声で命を終わる臨終の機にとって、その一声は全人生を包んでいることになるし、十念して臨終を迎えるものにとって、その十念は全人生を念仏の人生と転じていることであった。それゆえ一声か十声かが問題なのではなくて、念仏に包摂された人生を生きたか否かが問われているのである。法然が日課念仏として六万遍、七万遍を自らに課しておられたというのも、ただ今を臨終とみて、一瞬一瞬を念仏の人生として生きていこうとされたからにちがいない。それは「現世をすぐべき様は、念仏の申されん様にすぐべし」といわれたように全人生を念仏の道場として生きる念仏者の厳粛な生き方を示されていたのである。

 臨終と平生を本質的に区別しなかったということは、平生も臨終も、ひっくるめて、全人生が如来の光明裡に摂取されているという信念があったからである。「念仏往生要義抄」は、前掲の文につづいて、摂取不捨は、平生の益か臨終の益かと問い、

答ていはく、平生の時なり。そのゆへは、往生の心ま事にて、わが身をうたがふ事なくて、来迎をまつ人は、これ三心具足の念仏申す人なり。この三心具足しぬれば、かならず極楽にうまるといふ事は、観経の説なり。
かゝる心ざしある人を、阿弥陀仏は八万四千の光明をはなちててらし給ふ也。平生の時てらしはじめて、最後まですて給はぬなり。かるがゆへに不捨の誓約と申候也。

といわれている。ここには、平生に三心具足して念仏するものは、摂取されて臨終まですてられないという平生摂取が強調されているが、これが自ずから平生業成、現生不退説になっていくとみるべきであろう。

第五節 多念義的法語と一念義的法語

 法然の法語といわれるもののなかには、多念義的傾向の強いものと、一念義的傾向の強いものとがある。多念義的な傾向の強いものとしては、「七箇条の起請文」(『和語灯』二所収)がある。はじめに三心を釈し、ついで七箇条にわけて、念仏者を勧誡されるわけであるが、主として一念義的造悪者をいましめられている。第一条には諸仏菩薩や余経をそしり軽しめることをいましめ、第二条には「つみをつくらじと身をつゝしんで、よからんとするは阿弥陀ほとけの願をかろしむるにてこそあれ、又念仏をおほく申さんとて、日々に六万遍なんどをくりゐたるは、他力をうたがふにてこそあれ、といふ事のおほくきこゆる、かやうのひが事、ゆめくもちふべからず」と誡めている。そして「たゞ一念二念をとなふとも、自力の心ならん人は、自力の念仏とすべし、千遍万遍をとなふとも、百日千日よるひるはげみつとむとも、ひとへに願力をたのみ、他力をあふぎたらん人の念仏は、声々念々しかしながら他力の念仏にてあるべし」といい、他力の念仏を勧励されている。第三条には三心について「たゞひらに信じてだにも念仏すれば、すゞろに三心はあるなり」といい、いわゆる行具の三心を示されている。

 第四条には、別時念仏を勧められる。「人の心ざまは、いたく目もなれ耳もなれぬれば、いそくとすゝむ心もなく、あけくれは心いそがしき様にてのみ、疎略になりゆく也。その心をためなおさん料に、時々別時の念仏はすべき也」といわれるのである。第五条には、臨終の正念を祈り、願うべきことを勧められている。第六条には、「念仏はつねにおこたらぬが、一定往生する事にてある也」といい、念仏相続を勧励される。第七条は、まことしやかな念仏者になったからといって、驕慢の心を生じてはならないと厳誡されている。この七箇条のなかで、特に別時念仏を勧め、臨終正念を祈れと勧められるところだけを抽出してきて強調すると、多念義になると考えられる。

 これに対して一念義的傾向の強いものとしては、さきにしばしば引用した「念仏往生要義抄」(『和語灯』ニ所収)がある。そこには三世十方の諸仏に捨てられた罪悪深重のわれらをむかえんと誓われた阿弥陀仏の「願にあひたてまつれり、往生うたがひなしとふかくおもひいれて、南無阿弥陀仏くと申せば、善人も悪人も、男子も女人も、十人は十人ながら、百人は百人ながら、みな往生をとぐる也」といい、十一箇条の問答をもうけて、他力念仏の相を詳釈されている。

 第一、第二、第三問答には、自力の念仏と他力の念仏を分別して、「他力の念仏は往生すべし、自力の念仏はまたく往生すべからず」ということを論証されている。ついで第四、第五問答には、聖人の念仏と在家者の念仏の功徳が同じであって勝劣のないことを示し、第六、第七問答には、清心の念仏と妄心の念仏の功徳が全く等しいことを述べられる。第八、第九問答は、念仏の一声と十声に勝劣のないことを、第十問答には、平生摂取の益を、第十一問答には、智者の念仏も、愚者の念仏も差別のないことを論証していかれる。いずれも一念義的傾向(決して一念義ではない)が強いことは、さきにしばしば引用した諸文によって窺うことができよう。

 『西方指南抄』中末・所収の「三機分別」(決定往生三機行相)も、一念義的な傾向の強い法語である。石井教道氏編の『昭和新修法然上人全集』では、真偽未詳の「伝法然書篇」に収録していて、偽作とみなしているようである。 しかし松野純孝氏などは、法然の法語とみなされている。法然の法語は、もともと対機説法的な色彩も強く、またそれを聞書きした人の思想傾向によっても幾分かの偏向が考えられるから、『選択集』のような正確さは期し得ないのが当然である。今は親鸞が、法然の法語として伝写された意に従って法然のものとみていくことにする。

 この法語は「和尚の御釈によるに、決定往生の行相に、三の機のすぢわかれたるべし、第一に信心決定せる、第二に信行ともにかねたる、第三にたゞ行相ばかりなるべし」という書き出しではじまり、決定往生の機に三種を分別されている。もっともはじめの「和尚の御釈」が何をさすのか明確ではないが、善導の釈義に依準されたものとみるべきであろう。

 第一の信心決定せる機について、精進の機と懈怠の機に分け、精進の機について、また報恩の念仏が自然に精進にせられる機と、決定の信を得ながらも、自分は凡夫であるから、仏からごらんになれば、至らないこともあるだろうと思うて、なお信心を決定するために念仏をはげむものとがある。そのはじめの機について、

一には弥陀の本願を縁ずるに、一声に決定しぬと、こゝろのそこより真実に、うらくと一念も疑心なくして、決定心をえてのうへに、一声に不足なしとおもへども、仏恩を報ぜむとおもひて、精進に念仏のせらるゝなり。また信心えての上には、はげまざるに念仏はまふさるべき也。

という。本願を聞いて、一声の念仏で決定往生を得と信じて、一念の疑心もない信心決定の機は、仏恩報謝のために精進して多念の称名をするが、信をえたうえは、ことさらにはげまなくても、念仏するようになるのであるといわれている。これによって、行の一念を決定往生の業因と信じ、第二声以後は報恩の称名とするという教説のあったことがわかる。後に詳述するように平基親が、法然に告発している一念義の主張は、これに非常に近い説であったと考えられる。のちに親鸞が門弟の教忍房の問いに対して、

まづ一念にて往生の業因はたれりとまふしさふらふは、まことにさるべきことにてさふらふべし、さればとて一念のほかに念仏をまふすまじきことにはさふらはず。・・・・・・一念のほかにあまるところの御念仏を、法界衆生に回向すとさふらふは、釈迦、弥陀如来の御恩を報じまいらせんとて十方衆生に回向せられさふらふらんは、 さるべくさふらヘども、二念三念まふして往生せんひとを、ひがごとゝはさふらふべからず。

と誡められているのをみると、この一念業因、多念報恩という教説が、一念義となり、次第に多念相続の称名を否定する方向にゆがめられていったらしい。尚信心正因、称名報恩説も、この一念多念観の系統に属する思想といえよう。

 つぎに信心決定せる懈怠の機について次のようにいわれる。

決定心をえての上に、よろこびて、仏恩を報ぜむがために常に念仏せむとおもへども、あるいは世業、衆務にもさえられ、また地体懈怠のものなるがゆへに、おほかた念仏のせられぬ也。この行者は一向信心をはげむべき也。

 これは恐らく在家の信者のことであろう。信決定の上の報恩の称名が、世間の業務にさまたげられたり、生来の懈怠のためにおろそかになるものがいるが、このようなものは、信心を深めるようはげむべきであるといわれる。

 このなかにも精進の機と懈怠の機があり、懈怠のなかの精進の機とは、常に本願を思いうかべるもので、自然にさわやかな念仏も称えられてくる。このような念仏が最上である。ただし「この念仏ぞ往生おもし、また願にも乗ずらむとおもはむはわるし。そのゆへは、仏の御約束、一声もわが名をとなえむものをむかへむといふ、御ちかひにてあれば、最初の一念こそ、願には乗ずることにてあるべけれ」といわれるように、あくまで最初の一声で本願に乗じ終わっていると信ずべきで、相続の称名によって救われようと思ってはならないといわれる。

 次に懈怠のなかの懈怠のものというのは、衆務にさまたげられたにせよ、本願を縁ずることがまれなものをいう。しかしまれではあるが「一念にとるところの信心」はゆるがず本願を縁ずるたびに、決定心が想起されるような人をいう。

 ここにはしばしば「最初の一念こそ願には乗ずることにてあるべけれ」とか「一念にとるところの信心ゆるがずして」といわれていて、一念義的発想が強くあらわれている。しかしその一念さえも、超えてしまうところがあった。すなわち一声の称名も、わが行としてみれば、瞋恚の煩悩に焼きつくされるから、わが方よりは一分の功徳もなく全く本願力のみによって救われるのだと思うべきであるという全分他力説が出されている。

たゞおもふべきやうは、我かたより一分の功徳もなく、本願の御約束にそなえしところの念仏の功徳も、瞋恚のほむらにやけぬれども、かの願力の不取正覚の本誓の、あやまりなきかたよりすくわれまいらせて、往生はすべしと、返々もおもふべき也。

といわれたものがそれであって、一念義的発想が、全分他力説と不可分に結びついていることがわかる。

 第二の信行ともにかねたる機とは、さきにのべた信心決定せる精進の二機のことであるが、第三の行相をはげむ機(たゞ行相ばかりなる機)とは、自分はまだ決定往生の信が確立していないと思うものは、ひまなく念仏を申して、やがて決定往生の機となっていくことをいうのである。但しこの場合行業の功徳をもって往生しようと思うと疑惑の行者になるといい、

今念仏の行をはげむこゝろは、つねに念仏あざやかに申せば、念仏よりして信心のひかれていでくる也。信心いできぬれば、本願を縁ずる也。本願を縁ずれば、たのもしきこゝろのいでくる也。このこゝろいできぬれば、信心の守護せられて、決定往生をとぐべしとこゝろうべし。

といわれている。すなわち念仏によって信心がひき起こされ、信心によって本願をたのもしく思う心がでてくるが、それによって疑い心がなくなり、決定信が成就するというのであろう。ここで信心が二重の意味で用いられていることがわかるが、そのことを次下に、

念仏を相続して、相続より往生をするは、またく自力往生にはあらず。そのゆへは、もとより三心は本願にあらず、これ自力なり。三心は自力なりといふは、本願のつなにおびかれて、信心の手をのべてとりつく分をさすなりとこゝろうべし。今念仏を相続して信心を守護せむとするに、三心の中の深心をはげむ行者也。相続の念仏の功徳をもちて、回向して往生を期せば、まことに自力往生をのぞむものといはるべきなり。・・・・・・たゞ自力を存せず、すべて疑惑のこゝろなくして常に念仏すれば、我こゝろにはおぼえねども、信心のいろのしたひかりて相続するあひだ、決定往生をうるなりとしるべし、そのこゝろは、たとへば月のひかりのうすぐもにおほはれて、満月の体はまさしくみえずといえども、月のひかりによるがゆへに、世間くらからざるがごとし。

といわれている。もともと『観経』の三心は、本願所誓のものではなく自力の信心である。それはさきにいった念仏しているうちに、本願にさそわれてひき起こされた信心で、この信心の手をさしのべて本願の救いの綱にとりすがるわけである。これは自力心ではあるが、本願にとりつけば、本願にうながされて、たのもしく思う心がでてきて、おのずから疑い心が破れ、決定往生の他力の信心、すなわち深心が成就していく。いま念仏を相続して信心を守護するといったときの信心は、自力の三心ではなくて他力の深心のことであるというのであろう。ここに『観経』の三心を自力の分済とみ、深心のみを他力の信心とみるという特異な三心観が表明されているが、法然には深心を中心に統一された他力の三心観と、自力の三心観とがあったことは、すでに詳述した如くである。

 ともあれ法然は、不信のものも念仏することによって決定往生の信が成就し、成就した信心は念仏相続によって守護されていくと考えられていたようである。ところで一たび決定往生の信が確立すれば、たとえつねには本願をたのもしく思う心が起こってこなくても、往生を不定に思ってはならない。わが心には思いうかべられていなくても、信心はかたちに見えないところで光りつつ相続しているから、決定して往生をうることであると知れといわれる。それはあたかも月光が、薄雲におおわれて、満月の体はみえなくても、月の光のゆえに、世間は闇でないようなものであるといわれている。このたとえが親鸞の『正信偈』の「譬如日光覆雲霧、雲霧之下明無闇」と相通じていることは、遇然の一致ではあるまい。

 こうして「三機分別」の法語は最後に、

信心よはしとおもはゞ、念仏をはげむべし、決定心えたりとおもふての上に、なほこゝろかしこからむ人は、よくく念仏すべし、また信心いさぎよくえたりとおもひてのちの念仏おば別進奉公とおもはむにつけても、別進奉公はよくすべき道理あれば念仏をはげむべし。

といい、信心が不定ならば、念仏をはげんで信心を決定し、信心決定したものは別進奉公とおもって、仏恩報謝の念仏をはげむべきであると勧励されている。この教説は、親鸞が性信房宛の御消息に、

往生を不定におぼしめさんひとは、まづわが身の往生をおぼしめして御念仏さふらふべし。わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために御念仏こゝろにいれてまふして、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞおぼえさふらふ。

といわれたものと符合していることがわかる。

 『西方指南抄』所収の「四箇条問答」も、一念義的な傾向性の強い法語である。すなわち

本願と云ことは、もとのねがひと訓ずる也。もとのねがひと云は、法蔵菩薩の昔、常没の衆生を、一声の称名のちからをもて、称してむ衆生を我国に生ぜしめむと云こと也。

といい、また以下に、

法蔵菩薩の本願に、成仏したらむ時の名、一声も称してむ衆生を極楽に生ぜしめむと願じたまへるがゆへに、今信じて一声も称してむ衆生は、かならず往生すべし。

というような本願の領解は、明らかに行一念往生をもって念仏往生の本願の体とみなされている。このような本願を「信じて、名を唱てむ衆生はかならず生ず」るという道理を次のようにもいいあらわされる。

本願薫力のたきものゝ匂は、名号の衣に熏じ、またこの名号の衣を一度南無阿弥陀仏とひきゝてむものは、名号の衣の匂、身に薫ずるがゆへに、決定往生すべき人なり、大願業力の匂と云は、往生の匂なり。

 念仏衆生を決定往生せしめるという大願業力の徳用をもった名号を一声でも称えたものは、願力が身にそみついて、決定往生する人たらしめられるというのである。そしてかかる人を『観経』には芬陀利華とたたえ、善導は、極楽の聖衆に摂せられた。それは因中説果の義によるわけであるが、現世より観音勢至も勝友となられる道理があるのである。だから「一念に無上の信心をえてむ人は、往生の匂薫ぜる名号の衣をいくえともなくかさねきむとおもふて、歓喜のこゝろに住して、いよいよ念仏すべし」と結ばれている。

第六節 一念義批判の消息について

一、光明房への消息

 法然が一念義を批判された文書として三篇の書簡が現存している。『西方指南抄』下本所収の「光明房に答ふる書」と「基親への返書」、それに古本『漢語灯録』十所収の「遣 北陸道 書状」とである。このなか「光明房に答ふる書」は『和語灯録』四に、「基親への返書」は古本『漢語灯録』十にも収録されている。もっとも義山本『漢語灯録』所収の「遺兵部卿基親之返報」は、字句の改竄が甚しいから依用できない。「光明房に答ふる書」は、『指南抄』では「又故聖人の御坊の御消息」と題がおかれ、最後に、

これは越中国に光明房と申しひぢり、成覚房が弟子等、一念の義をたてゝ、念仏の数返をとゞめむと申て、消息をもてわざと申候、御返事をとりて、国の人々にみせむとて申候あひだ、かたのごとくの御返事候き。

という奥書きがあり、この消息の書かれた背景がうかがわれる。年月はわからないが、当時、越中国で、成覚房幸西の弟子たちが、一念義を主張して、「決定の信心をもて、一念してのちは、また一念せずといふとも、十悪五逆なほさわりをなさず、いはむや余の少罪おやと信ずべきなり」と教え、人々に念仏の数返をとどめさせていた。恐らく多念をすすめ、三万、五万といった日課念仏をすすめていたと思われる光明房は、そうした一念義が異義であることを法然に証明してもらい、国(越中)の人々にみせたいと申し出たのに対して、法然が「かたのごとくの御返事」を送られたのがこの書であるというのである。

 この「あとがき」は『和語灯録』本にはない。しかし『行状絵図』二九第四図には、

成覚房弟子等、越後国にして一念義を立けるを、上人弟子光明房といふひじり、多念の行者なりけるが、心えぬ事におもひて、かの所述の法門をしるして、上人にうたへ申いれければ、御返事云。

と前書して、この消息をあげている。ここでは、越中国が「越後国」に変えられている。しかも、それにつづいて第五図に「光明房の状につきて上人、一念義停止の起請文をさだめらる。かの状云」として、後にのべる『漢語灯録』所収の「遣北陸道書状」を略出し、末尾に「承元三年六月十九日沙門源空」と記している。従ってこれによれば「光明房に答ふる書」と「遣北陸道書状」とは一具のものとなり、年月日も承元三年六月十九日のことになる。しかし『指南抄』本も『和語灯録』本も年月日は記されていない。ところでこの消息のはじめに「一念往生の義、京中にも粗流布するところ也。おほよそ言語道断のことなり」といわれたところからみれば、法然の在京中のできごとであり、流罪以後とは考えられないから、少くとも建永二年二月(承元元年)以前であったとみるべきであろう。それに後述するように「遣北陸道書状」そのものが問題の書であるから、『行状絵図』の所論は信憑性に乏しいといわねばならない。

 さて「光明房に答ふる書」によれば、越中における幸西の弟子たちの言動は、必ずしも称名相続を否定したわけではなく「わがいふところも、信を一念にとりて念ずべきなり、しかりとて、また念ずべからずとはいはず」といっている。これに対して法然は「ことばは尋常なるににたりといえども、こゝろは邪見をはなれず」と批判されている。何故ならば、彼等は「決定の信心をもて、一念してのちは、また一念せずといふとも、十悪五逆なほさわりをなさず、いはむや余の少罪おやと信ずべきなり」と主張しているからであるといわれる。すなわち一念義の徒は、本願を信ずる一念に往生が定まるから、その後は、たとえ念仏しなくても、またいかに罪業を造ったとしても、往生のさわりにはならないといって、自身の懈怠を恥じる心もなく、罪悪を痛み、慚愧する心もないということこそ、その一念の信が誤っている証拠であるといわれるのである。その信心が、機法二種の深信であるならば、当然自身の罪悪に対する懴悔、慚愧の心と、正定業の相続があるべきだといわれるのであろう。「かの一生造悪のものゝ臨終に十念して往生する、これ懴悔念仏のちからなり、この悪の義には混ずべからず、かれは懴悔の人なり、これは邪見の人なり」といわれたものがその意をあらわしている。

 要するに、このような一念往生の義は、懈怠無道心のものが、「ほしいまゝに悪をつくらむとおもひて」主張している邪見の義であって、「附仏法の外道なり、師子のみの中の虫なり、またうたがふらくは、天魔波旬のために精進の気をうばわるゝともがら」であると、きびしく批判されている。そして「まことに十念一念までも、仏の大悲本願なほかならず引接したまふ無上の功徳なりと信じて、一期不退に行ずべき也」と一念多念の正義を教示されている。

 なおこの消息のはじめに「一念往生の義、京中にも粗流布するところなり、おほよそ言語道断のことなり」といい、文中に「しかるをちかごろ愚癡無智のともがらおほく、ひとへに十念、一念なりと執して上尽一形を廃する条、无慚无愧のことなり」といわれている。これは元久元年(一二〇四)十一月七日付けの「七箇条制誡」に「此十箇年以後、無智不善輩、時時到来、非 啻失 弥陀浄業 、又汚 穢釈迦遺法 、何不 加 炳誡 乎」といわれたものとよく似た表現になっており、おそらくこのころから建永のころにかけてのできごとだったと思う。ことに元久二年十月に上奏された『興福寺奏状』の第八条「損 釈衆 失」に、罪を怖れず、悪を憚らない造悪破戒の専修の僧尼が、北陸、東海等の諸国において盛んに「圍双六不 乖 専修 、女犯肉食不 妨 往生 、末世持戒市中虎、可 恐可 悪、若人怖 罪、憚 悪、是不 憑 仏之人也」といって、人々をまどわしているといい「自 不 勅宣 乎得 禁遏 」 と訴えている。これによれば、当時北陸では専修念仏者の過激な布教活動が行われていたことがわかるが、その言動からみて一念義系の人々が主体であったようにおもわれる。恐らくこの「光明房に答ふる書」も、このころ、そうした状況のもとで出されたものであったから、特に「かたのごとく」厳しく誡められたのではなかろうか。

二、基親への消息

 次に「基親への返書」であるが、『西方指南抄』本は和文であり、古本『漢語灯録』本は漢文である。行文に少異はあるが、内容は全く同じである。『指南抄』では、はじめに「基親取 信信 本願 之様」と標して、基親自身の領解と、対論者である一念義の説をあげている。つぎに「兵部卿三位のもとより、聖人の御房へまいらせらるゝ御文の按」が掲載せられ、最後に「聖人御房之御返事の案」が出されている。その最後に「八月十七日」と日付が記されている。古本『漢語灯録』では、はじめに「遣 兵部卿基親 之返報」が、次に「基親卿状」が、最後に「基親取 信信 本願 之様」という折紙状が掲載されている。そして初の返報の終わりには「八月十七日源空」と、日付と署名があり、「基親卿状」の最後には、「八月十五日、基親」とある。又「折紙状」の終わりには、「私云難者云成覚房也」と編者の細註が記されている。これによって、八月十五日に、兵部卿三位、平基親から、法然にあてて、一念義との対論の様子を書いて呈出し、「この折紙に、御存知のむね御自筆をもて書きたまわるべく候」と願い出たのに対して、八月十七日に返信されたものであることがわかる。『指南抄』本では、基親の対論者が誰であったかわからないが、『漢語灯録』本では、成覚房幸西であったといわれている。これによって『行状絵図』二九や『九巻伝』には、 「兵部卿三位基親卿、ふかく上人勧進のむねを信じて、毎日五万遍の数遍、をこたりなかりけるを、成覚房一念義をたてゝ、彼卿の数遍を難じければ、重々問答して成覚房の義ならびに所存をしるして、上人に尋申されける状云」として、基親の註進状をあげている。そして両伝とも、幸西は一念義をたてたが故に、法然から破門されたといっているが、前述のように、幸西は破門されたとはみなしえない。また対論者も、はたして幸西であったかどうか内容からみて、にわかに決定しえないところもある。『公卿補任』によれば基親は、建久元年(一一九〇)十月に従三位に叙し、兵部卿に任ぜられているが、建永元年(一二〇六)五十六歳で出家している。従ってこの書状に基親と俗名で署名しているところからみて、建永元年以前のものとみるべきであろう。

 さて基親は、第十八願文、同成就文、『礼讃』深心釈の法の深信の文、『観経疏』の二種深信の文を証権としてあげ、これに依って、基親、罪悪生死の凡夫なりといえども、一向に本願を信じて、名号をとなえ候、毎日に五万返なり、決定仏の 本願に乗じて、上品に往生すべきよし、ふかく存知し候。

と自身の領解をのべている。ところが、ある人が、基親を批判して「本願を信ずる人は、一念なり、しかれば五万返無益なり、本願を信ぜざるなり」といったというのである。そこで基親が「念仏一声のほかより、百返乃至万返は本願を信ぜずという文候や」と返難したら、その人は「自力にて往生はかなひがたし、たゞ一念信をなしてのちは、念仏のかず無益なり」という。基親は、 自力往生とは、他の雑行等をもて、願ずと申さばこそは自力とは候はめ、したがひて善導の疏にいはく、上尽百年下至一日七日、一心専 念弥陀名号 、定得 往生 必無 疑と候ぬるは、百年念仏すべしとこそは候へ、また聖人の御房七万返をとなえしめまします。基親御弟子の一分たり。よてかずおほくとなえむと存じ候也。 と主張したら、難者がいうには、二念よりは、仏の恩を報ずるなりと申す。すなわち礼讃に、不 相続念 報彼仏恩 故、心生 軽慢 、雖 作 業行 、常与 名利 相応故、人我自覆不 親 近同行善知識 故、楽近 雑縁 、自 障障 他往生正行 故云云。

という。そこで基親はそれに対して、

基親いはく、仏恩を報ずとも、念仏の数返おほく候はむ。

と返答したというのである。

 基親は、以上の問答を記した折紙に、法然の存念を「御自筆をもて、かきたまはるべく候、難者にやぶらるべからざるゆへ也」と請求してきたわけである。そして難者が聖道門の別解別行の人ならば、耳にもかさないが、法然の「御弟子等の説に候へば、不審をなし候也」といっているから、法然の弟子が難者であったことは確かである。

しかもその弟子たちは、「念仏者女犯はゞかるべからずと申あひて候、」と告発しているから、女犯、破戒を当然のこととして主張しているグループに属している人物であったといわねばならない。こうした言動に対して基親は、在家ならば妻帯は勿論許されるが、どんなに強く本願を信ずる人であっても、出家ならば女性に近づくべきではない、善導は「目をあげて女人をみるべからず」といわれているではないかといって持戒を強調している。

 「基親は、たゞひらに本願を信じ候て、念仏を申候なり」といっているが、日課として五万返を称え、上品往生をめざしているのみならず、出家の念仏者には持戒を厳しく要求しているところからみて、多念義的な傾向の強い信者であったといえよう。それに対して難者は、明らかに一念義的傾向の強い人物で、他力を強調し、本願を信ずるとは、一声の念仏によって往生が決定すると信ずべきであって、往生の業としての日課念仏は無益である。毎日五万返を称えて上品往生をしようとすることは、本願を信じない自力の行者であると批判したのである。それに対して基親は、自力とは雑行の行者をいうのであって、本願を信じて念仏しているものは自力ではないといい、善導の上尽百年下至一日の文をあげ、また法然の日課七万返を例証として多念を主張したのである。ところが難者は、第二念以後の念仏は、仏恩を報謝する念仏であって、法然の念仏はそれであるといい、『礼讃』に雑修の失としてあげた「不 相続念 報彼仏恩 故」等の文をあげ、仏恩報謝の念仏を行うものが専修であり、そうでないものは雑修であるといった。そこで基親は仏恩を報ずるにしても、念仏の数を多く称えた方がいいではないかと反論したというのである。

 これによると、この一念義的傾向の強い難者は、行一念業因、第二念以後報恩という説をもっていたようで、前述の「三機分別」に「弥陀の本願を縁ずるに、一声に決定しぬと、こゝろのそこより、真実に、うらくと一念も疑心なくして、決定心をえてのうえに、一声に不足なしとおもへども、仏恩を報ぜむとおもひて精進に念仏のせらるゝなり」というような立場に立っていた人物ではなかったかと推定される。幸西が、はたしてこのような主張を行っていたかどうかは不明である。

 さてこの基親に対する法然の返信は、

御信心とらしめたまふやう、おりがみつぶさにみ候に、一分も愚意に存じ候ところにたがわず候、ふかく随喜したてまつり候ところなり。しかるに近来、一念のほかの数返無益なりと申義いできたり候よし、ほゞつたへうけたまはり候、勿論不足言の事か。文義をはなれて申人、すでに証をえ候か、いかむ、もとも不審に候。

といい、基親の主張に賛成されている。しかし「一念のほかの数返無益」ということは否定されているが、報恩称名説については全くふれられていないところに微妙な含みがありそうである。

 また破戒の問また破戒の問題についても、つづいて、

   ふかく本願を信ずるもの、破戒もかへりみるべからざるよしの事、これまたとはせたまふにもおよぶべからざる事か。附仏法の外道、ほかにもとむべからず候。おほよそは、ちかごろ念仏の天魔きおいきたりて、かくのごときの狂言いできたり候か、なほくさらにあたはず候く、恐々謹言

といい、「七箇条制誡」の線にそって造悪無碍を厳しく誡められている。一念義系の念仏者たちの過激な伝道が、大きな社会問題となってきており、念仏禁制の動きがでてきているという状況のもとで、法然がこのような返信を基親に送られたことは、むしろ当然の配慮であったと考えられる。もっとも法然は、信心を確立するという安心門を語るときは、持戒破戒を簡ばず、出家在家を問わず、念仏は一念までも定めて往生をうるという教説を堅持されていたから、弟子たちのなかには、「上人の詞には皆表裏あり、中心を知らずして、外聞に拘ることなかれ」と主張するものもいたようである。

三、「遣北陸道書状」の真偽

 『漢語灯録』十に収録されている「遣 北陸道 書状」は、『西方指南抄』には収められていない文献である。末尾に「承元三年已已六月十九日、沙門源空御判」とあるから、もし事実とすれば、承元三年(一二〇九)、法然が箕面の勝尾寺に滞在中に書かれたものということになる。

 ここで批判されている邪義は、一宗の廃立も知らず、一法の名目も知らない無智誑惑の輩が、道心もなく、利養を求め、渡世の計とする為に唱導している一念の偽法であるといわれている。それは、

姧弘 一念之偽法 、無 謝 無行之過 、剰立 無念之新義 、猶失 一称之小行 、雖 微善 、於 善根 削 跡、雖 重 罪 、於 罪根 増 勢、為 受 刹那五欲之楽 、不 畏 永劫三途之業 、教 示人 云、憑 弥陀願 者、勿 憚 五逆 、
任 心造 之、不 可 着 袈娑 、着 直垂 、不 可 断 婬肉 、恣可 食 鹿鳥 云云。

という如きものである。すなわちこの一念義は、一声の念仏すら捨てる無行の一念であり、「無念の新義」である。しかも本願をたのむものは造悪を憚かるなといい、袈娑を廃して直垂を着よとすすめ、女犯肉食を断ずる必要はないといっているから「捨戒還俗の儀」をすすめる在家主義者であったらしい。

 ところでこの「遣北陸道書状」は、北陸道において、このような無念、造悪の一念義を唱えている誑法者を批判することを目的として書かれている。それについて、

而近日北陸道中、有 一誑法者 、構 妄語 云、法然上人七万遍念仏、是只外方便也。内有 実義 、人未 知 之、所謂心知 弥陀本願 、身必往 生極楽 、浄土之業於 是満足、此上何過 一念 、雖 一返 重可 唱 名号 哉。於 彼上人禅坊 、門人等有 二十人 、談 秘義 之処、浅智之類者、性鈍未 悟、利根之輩、僅有 五人 、得 此深法 、我其一人。彼上人己心中之奥義也。容易不 授 之、択 器可 令 伝授 云云、風聞説若実者、皆以虚言也。

という。すなわち北陸道の一念義の誑法者は、法然の七万遍の日課念仏は、外の方便であって、実義は、心に本願を信ずる一念に、身必ず浄土に往生することに定まるのであって、この上に一念の念仏も必要ではない。法然の禅坊には二十人の門人がいたが、この秘義を得たものは、わずかに五人に過ぎず、我はその一人であると誇っていたという。しかしこの誑惑者は、法然から一句の法も受けたこともないのに、人の信用をうる為に、これを師教と詐称し、称名弘願門というような名目を使い、さらに『念仏文集』と称する謀書を作り、その初に『念仏秘経』という偽経を作成して、邪説を流布しているといわれている。

 この「遣北陸道書状」について、中沢見明氏は「怪しむべき語句が多くて、法然の作つたものとは思はれない。 恐らくは後人の偽作であらうと思ふ」といって偽作説を主張した。それはこの書は、「一念義の邪人排斥の言辞は極めて猛烈であるが、正義の念仏を教へることが甚だ不親切で、他の一念義破斥の法然の消息に比して疑はしい」ことと、この書に、法然が自らを語って、

抑貧道、従 山修山学之昔 、五十年間、広披 閲諸宗章疏 、叡岳所 無者、尋 之他門 、必遂 一見 、鑽仰年積、聖教殆尽、加之或一夏之間、修 四種三昧 、或九旬之中、行 六時懴法 、年来長斎、修 練顕密諸行 、身既疲 老後 勤 念仏 、今就 称名之一門 、雖 期 易行之浄土 、猶於 他宗教文 、悉成 敬重 、況素所 尚之真言止観哉。

といわれているが、自ら愚癡の法然房といった人の語とは思われない。ことに一夏九旬に四種三昧や六時懴法を行じ、顕密の諸行を修練してきたが、老後に疲れて易行の念仏門に入ったといっているが、法然の専修念仏帰入は四十三歳のときで、決して老後ではなかった。もしその後も顕密の諸行を修練していたというのならば『選択集』等の文と甚しく矛盾することになるといわれるのである。松本彦次郎氏も、「用語が野卑で罵詈讒謗的」であり、『選択集』で樹立した「彼の新宗教の立脚地をば、彼自身が覆したこと」になり、「自説を自分で破壊し、浄土宗の根本原理すら捨ててあるやうにも見える」といって偽作説に賛成されているようである。田村円澄氏は「遺北陸道書状」は、「光明房に答ふる書」を換骨奪胎して偽作したものとみられている。

 ところでさきに一言したように『行状絵図』二九には、第一図は幸西のこと、第二、第三図には基親の折紙と、法然の御返事、第四図には、光明房に答ふる書をあげ、第五図には、「光明房の状につきて、上人、一念義停止の起請文をさだめらる、かの状云」として「遣北陸道書状」を和文で略出し「一念義停止の起請文」にしている。もっともここでは『念仏文集』や『念仏秘経』のことや、法然の山学山修のありさまをのべた後半の部分が省かれている。ところで『行状絵図』が、「光明房に答ふる書」をあげるときに、越中国を改めて「成覚房弟子等、越後国にして、一念義をたてけるを・・・・・・」と、越後国に改作したことは、第五図にあげる一念義停止の起請文とあわせて、承元三年当時、越後に流罪中であった親鸞を、幸西門下の一念義の邪徒ときめつけてひそかに批判する意があったのではなかろうか。

 『九巻伝』六下には、先ず幸西が、一念義を主張したことによって法然から破門されたといい、「基親への御返事」を出し、「光明房に答ふる書」は省略するが、つづいて「遣北陸道書状」を和文にして「一念義停止の状」としてあげる。そのはじめに、

爰上人配国の後、成覚房の弟子善心坊といへる僧、越後国にして専此一念義を立けるとき、光明坊といへるもの、不 心得 事に思て、承元三年夏の比、消息をもて上人に尋申けるに付て、配所にてかかれたる一念義停止の状云。

といっている。ここには、成覚房の弟子で越後国で一念義を伝道している善心坊を非難するために、光明坊の請によって法然が「一念義停止の状」をしたためられたといっているが、越中が越後へ、さらに成覚房の弟子が、善心坊へと伝承を変化させることによって、親鸞とその門流を非難しようとしている伝記作者の意図が明らかに読みとれる。


脚 註:
  1. 『古今著聞集』(新訂国史大系一九・五〇頁)
  2. 『延暦寺奏状』(『鎌倉遺文』・五・二七一頁)
  3. 『一念多念分別事』(真聖全二・七六六頁)
  4. 『散善義問答』(隆寛全・一五頁)
  5. 石田充之『法然上人門下の浄土教学の研究』上(二三二頁)
  6. 『唯信鈔』(真聖全二・七五四頁)
  7. 『一念多念文意』(真聖全二・六一九頁)
  8. 『浄土宗名目問答』下(浄全一〇・四一三頁)
  9. 『念仏名義集』中(浄全一〇・三七五頁)
  10. 『法水分流記』(幸西一〇頁・行空二九頁)、日蓮『一代五時図』(日蓮遺文全・上・四二〇頁)
  11. ◇林遊註:安楽房は諸人を勧進し、法々房は一念往生の義を立つ。しきりにこの両人を配流せるべくの由、興福寺の衆徒、重訴してこれを申す。しきりにこの沙汰に及ぶか。
  12. ◇林遊註:源空は仏法の怨敵なり。仔細たびたび言上しおわんぬ。その身ならびに弟子安楽、成覚この弟子いまだ名字を知らず。住蓮、法本等に行科をこうむらすべし。
  13. ◇林遊註:沙門行空はたちまちに一念往生の義を立つ。ゆえに十戒毀化の業を勧む。ほしいままに余仏を謗り、その念仏の行を願進す。