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「『恵信尼消息』の諸問題」の版間の差分

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2019年12月28日 (土) 23:32時点における版

(六) 『恵信尼消息』の諸問題

 なお『恵信尼消息』に依れば、建保二年(一二一四)、四十二歳の聖人は、妻子を伴って、越後から関東へ趣かれる途中上野国佐貫(群馬県板倉町佐貫)で、衆生利益のために三部経の千部読誦を発願し、四、五日続けられたが、ふと善導大師が『往生礼讃』に念仏者の生き方の基本として、

 みづから信じ人を教へて信ぜしむること、難きがなかにうたたさらに難し。
 大悲弘くあまねく化する、まことに仏恩を報ずるになる。

といわれていた言葉を想いだし、自らの信心である本願念仏の心を有縁の人々に伝えることの外になすべきことはないと思い返して、千部読誦を思いとどまり、常陸へ向かわれたという記事があり、関東へ趣かれるときの聖人の使命感を示す挿話として有名である。

げにげにしく三部経を千部よみて、すざう利益のためにとてよみはじめてありしを、これはなにごとぞ、〈自信教人信難中転更難〉(礼讃)とて、みづから信じ、人を教へて信ぜしむること、まことの仏恩を報ひたてまつるものと信じながら、名号のほかにはなにごとの不足にて、かならず経をよまんとするやと、思ひかへしてよまざりしことの、さればなほもすこし残るところのありけるや。人の執心、自力のしんは、よくよく思慮あるべしとおもひなしてのちは、経よむことはとどまりぬ。

と言われている。ただし『恵信尼消息』のこの記事は、その時より十七年後の寛喜三年(一二三一) 四月に、聖人が大病を患われた時に、熱に浮かされながら無意識に『大経』を読み続けて居られた経験から思い起こされた ことを綴ったものであった。

 三部経の千部読誦ということは自力の行であるから、聖人はまだこの時点では第十八願に転人していたかったという人がいる。しかしそれは『教行証文類』の聖人自身の回心の表白を無視した議論である。当時はしばしば大飢饉が起こって、多くの人が餓死していったが、その都度朝廷や幕府は寺社に命じて経典の読誦をさせ、死者を弔い、災害の終焉を祈らせていたことが、貴族の日記や、寺社の記録、あるいは『吾妻鏡』などで確認できる。そのような経典読誦によって国家の安穏を祈ることは律令に規定されていた寺院と僧侶に課せられた義務だったのである。また民間ではそれぞれの在所に住んでいる念仏聖や、持経聖、あるいは山伏や、遊行聖といった民間宗教者たちもまた、民衆の要請を受けて読経をしたり、祈祷をしたりして、さまざまな民衆の宗教的要求に応えていたのであった。それはさまざまな形態を取りながら古代からつづいてきた習俗だったのである。

むしろそのような習俗や俗信を阿弥陀仏の大悲の智慧を基準として見直していった人物こそ親鸞聖人だったのである。端的には大悲の本願によって与えられた信心の智慧が、教化の原理となって徐々に行動化していくすがたであった。今までは当然のこととして行われていた仏教の伝統的な行事であっても、それが仏の大悲の智慧に沿わないときには変革を迫り、背理の俗信や習俗は批判し教化していく。しかし教化は決して強制的な力で相手を変革するものではなかった。その意味で政治的な力による革命とは全く違っていた。力による急激な変革は、一人一人の個性を無視し、人の「いのち」を損なう危険を伴うものであった。教化は一人一人に法の目覚めを与えて、内側から徐々に変革していくものであった。また本願の教えをまことと受け容れる信心が開けたからといって、その人が、直ちに永い伝統的習俗や、社会意識から解放されるわけではない。疑いなく受け容れた教法によって心の眼を育てられ、仏教の原理に随ってものを考え行動するように徐々に変化していくものである。教えを疑いなく受け容れるのには手間も暇もかからない、まさに信の一念である。しかし受け容れた法が、その人がどっぷりとつかっている俗信や習俗を突き破っていくには時間がかかるのである。三部経の読誦を通して衆生利益が成立すると考えていた呪術的な俗信、習俗から脱却して、本願の教法に目覚めた信心の行者を育てることが自分に与えられた使命であると気づいていったのは信心の智慧が確実に聖人を動かしていたからである。 『恵信尼消息』の伝説は、聖人の信心が如何に透徹したものであったかを物語っている挿話であるというべきであろう。