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親鸞教学の二重の構造

──救済の「論理」と「時間」──

「教義」と「教学」

「教学」という語はしばしば広義に、あるいは暖昧に用いられてきた。例えば「七祖教学」「親鸞教学」等という場合と、「教団教学」や「石泉・空華の教学」等という場合とでは、同じく「教学」という言葉を用いながらも、それぞれが表現しようとする概念やニュアンスには差があることが多い。すなわち前者の場合には何ほどか不変なるもの、いつの時代にも普遍的に妥当するものというようなニュアンスが含まれており、後者の場合にはある個人や団体が、ある時代に為した何ほどか限定的なるものを含むという意味あいがあるようである。

 逆に「教義」と「教学」とが、前者を「不変なるもの」、後者を「可変なるもの」という意味で明確に区別して用いられる場合もあるが、しかしそのことによって、「教義」が単純に固定的に、あるいは硬直化して捉えられてしまっていることもある。

 忘れてならないことは、宗教がいかに超越を説こうとも、われわれ人間・衆生の営みを離れたものではないということである。「教義」とは言っても、それが歴史の上に言葉となり文字となり、あるいは人生となって表現されていることにおいて、すでに歴史的・相対的なものなのであろう。それを単純に「変わらざるもの」と言って固定化・絶対化してしまえば、むしろその本来的意義や役割を覆い隠すという結果をまねいてしまうように思う。

 あるいは、それは「教義」という語の定義の問題であると言えばそうなのかもしれない。しかしたとえば「不変なるもの」を「教義」と言うとする者があったとしても、それは単にその人が「教義」という語を「不変なるもの」という概念において定義したということがわかるだけであって、何がどのように「不変」なのであるかということは、それだけでは何も明らかになってはこない。「教義」と「教学」についてもう少し厳密に定義しておく必要があろう。

 まず「教義」とは、「宗教的真実(いまは浄土真実・真如・法)の表現」と定義できる。言いかえれば、宗教的真実が文字・言葉・論理となって表現されたものが「教義」であるということになる。そしてその「真実」は、それがまた真実であり得るために、あらゆる歴史的・社会的状況において普遍的に妥当しなければならい。

 ところが「真実」が「教義」として、言葉や文字に表現されようとする場合、その表現が普遍妥当性を得る (つまりあらゆる具体的状況に普遍的に妥当する) ためには、できるだけ抽象化される必要性にせまられることになる。この時、「教義」はその「真実」を背景にして固定化されはじめると考えられる。しかしまた同時に、この「真実」そのものは、本来的に固定化されることを拒むものである。それはつねに具体の上、歴史の上に動きつつあるものとしてあるべきなのであり、逆に言えばそのように定義されるべきものが「真実」でなければならないのである。

 とすれば、そこにある「変わらざるもの、不変なるもの」とは、この「真実」の「動き・はたらき」において見られるべきなのであろうと思われるが、同時に「真実」は「教義」としての表現を経なければその身をあらわにすることができないという関係にある。しかし「教義」は具体的には言葉・論理であっても、その言葉・論理自体が「真実」なのではない。具体的には、「教義」の命題が表わす内容が「真実」の一面を捉えているということにおいて、それを用いる集団(教団)が「教義」として認めているだけのことである。けれども多くの場合、「教義」はひとたび「教義」と認められると、それは動かすべからざるものとして固定化して取り扱われるようになる。そしてその時から、「真実」と「教義」の「あいだ」に「差」が生じ、その「差」は次第に聞いてくるようになるのである。

 また一方で、本来「教義」とは、その抽象性の故に、具体的人間の歴史的状況において解釈し直され、具象化されなければその生命を失ってしまうものでもある。つまり「真実」との「差」が聞けば聞くほど、今度はその「教義」を解釈し理解しようとする営みが要求されてくることになる。そしてこの営みを「教学」と定義することができると思われるのである。すなわち「教学」とは、「真実」と「教義」との「差」を埋めようとする営みであり、具体的には歴史的・社会的状況において「教義を解釈し具現しようとする営み」であると定義することができると思う。

 したがって「教義」と「教学」とは不可分な関係にあり、われわれは教学すること、あるいは教学されたものを経てはじめて教義を理解することになる。言いかえれば、われわれが「教義」に目を向けた時、すでに「教学」の営みははじまりつつあるということであって、この意味では親鸞も七高僧も、それぞれの歴史的状況の中において「教学」した者として捉えられる。

本論考は以上のような意味において「教学」を定義し、その教学の展開の歴史を考察して、今後の新たな「教学」の展開へ一つの視座を提示してみようとするものである。

二 真宗教学史研究の概観

真宗の伝統的な宗学(教学)研究は、大まかには、

(1) 宗義研究……いわゆる要論、概論、体系の研究と各論(行信論、如来論、衆生論、利益論、生活論…等)
(2) 聖教研究……浄土三部経、七祖聖教、歴代聖教の研究
(3) 論題研究……安心論題、教義論題などテーマごとの研究

という三つの分野で捉えられるが、近代に入ってそこに新たな歴史的(思想史的)方法による研究が本格的に展開した。

 日本の仏教教学の研究に於いて、歴史学的な方法が本格的に聞かれたのは、やはり明治以降といわねばならない。もちろんそれ以前にも教理・教義の伝統や影響、およびその流れなどについて著されたものがないわけではないが、そこに歴史的社会的諸条件の影響や、それぞれの時代の教学者自身の個性との関連などという要素をも含めての総合的な研究という意味では、やはり近代的批判眼をもった研究方法が導入された明治以降と言うべきである。以下に真宗におけるその主たるものをとりあげてみよう。

 明治期の真宗教学界の動向は、まず明治維新政府の神仏分離令をきっかけに興った廃仏毀釈運動に対し、それにいかに対処してゆくかという課題のもとにはじまったと言えようが、真宗教学史研究に関する本格的な著述としては、明治三十四年(一九O一)に刊行された前田慧雲氏の『本願寺派学事史』をその最初に位置づけることができる。その巻末には、

宗学者の如きも。十三四年頃までは前代の遺老、善譲・針水・宏遠等四五輩の存在ありて、編集局等に対しては幾分か功益を与へたれども、其後は皆衰老して何等の用もなさざりき。右の外、猶ほ五六輩の遺老の其後に存するあれども、ただ宗学伝授者として尊敬せらるるに止まれり。…(中略)…今日に於ては帝国大学卒業者のみにても二十有余人の多きを見ることとなれば、明治八年己後は吾一派の学事は比較的進歩の運に向ひたるものと謂ふも決して不可なきなり。但し宗学の研究法が旧慣に仍って未だ一新面目を現ぜざることと、青年僧侶の世間学術を有するものが仏教の素養に乏しきこととは今日の一大遺憾なり。

と述べていて、当時の教学界の状況を語るとともに、教学研究法に言及し、批判を提示しているところが注目される。

前回慧雲氏にはすでに明治二十四年の『真宗教史序論』、や明治三十三年の『仏教古今変一斑』等の一連の著述があって、真宗に於いて、歴史的批判眼をもって教学を考察するという方法をはじめて提示したのはこの前田慧雲氏であると言うことができる。たとえば「仏教古今変一斑」が、広く仏教諸宗の動向にに注目しつつ、真宗教学が社会の形勢に応じて変遷してきたことを論じていることなどは、やはり旧来にはなかった方法である。

 明治初期には歴史の動勢にともなって真俗二諦論関係の著述が多く、中期になると概論・概説書の類やそれに付随して前代故人の著述が多く出版されるという状況であったが、その状況の中で宗学・教学の研究法に反省・批判を加えた氏の研究は、教学史研究のみならず広く教学の方法について新たな立場を開こうとする姿勢がうかがえる最初期のものと位置づけることができよう。

 この書の十年後、すなわち明治四十四年(一九一一)には、それに応えるように本願寺派・西谷順誓氏の『真宗教義及宗学之大系』が刊行された。その巻頭の「告白」には、

予は真宗の寺院に生れたりとの簡単なる理由の下に宗門の学校に入りしが、宗乗は寧ろ嗜好に適し其講席に列する時は常に莫大の興味を惹起したり、中頃思想上に一大変化を来しし為め之を死学とし煩瑣哲学として惜気もなく放棄せんとせしも、窃かに謂へらく研究法の如何に依りては斯学に対する興味も一陪せんと、これ予が多少系統を立てて斯学を研究するに至りし所以…

などと記して、この書が新たな研究法に注目した所産であることを述べている。

 巻末には、過去の宗学の長所・短所、制度の改革、学問の独立などの問題に進歩的な見解を示し、さらに付録として「宗学研究法」と題する論文を掲載して、過去の註疏的訓古的な研究法を脱し、新たに歴史的研究法と体系的研究法を採用すべきことを啓蒙的に論じてもいる。また本願寺派にとどまらず、大谷派、高田派の学事についても言及しており、真宗教学全般にわたって、かなり総合的な研究がなされている書でもある。この書は前の前田慧雲氏の研究方法に関する提言をうけて一歩を踏み出したものであり、教学史研究の方法論としても新たな視野を開いた画期的な書であるということができる。

 大正期に入ると、まず大正四年(一九一五)に大谷派の金子大栄氏が著した『真宗教義及其歴史』を見ることができる。この書は金子氏自身の処女作でもあるが、その第一章は「教義と歴史との概観」と題され、教義と歴史との関係を論じて教学史に対する観点を提示するものである。

 すなわちそれによれば、親鸞に至るまでの真宗(真宗七祖)の教義を、釈迦の教法の解釈の歴史として捉え、その歴史に即して、

(一) 如来より衆生への解釈(絶対他力教)
(一) 衆生より如来への解釈(相対自力教)
(一) 両者の根本的一致

という三段階の順序をもって見られるべきであることを述べ、さらにそれが親鸞以降の教学史に同様の構造をあてはめてみれば、親鸞以降の伝承者すなわち覚如・存覚・蓮如等の解釈の歴史に対応させて理解できるということを述べている。

 このような教学史観とでもいうべきものは、その内容にはなお検討を要するところがあるとしても、金子氏以前には明確にあらわれていないものであって、教理史および教学史研究に新たな視野を開いたものとして評価されるべきであろうと思う。

 さらに大正九年(一九二〇)には、本願寺派・鈴木法琛氏の『真宗学史』が刊行される。この書は仏教大学(現・龍谷大学)における著者の講義教案を校正して出版されたもので、本願寺派の教学史を論じたものである。注目されるのは親鸞以降蓮如までを「宗学創業時代の学説」として、必ずしも「教義」として扱っていないところである。またこの書の第二編は「異安心史」と題して論述されていて、真宗教学の歴史をその裏側から見るという方法で新たな視野を提示したものといえる。

 さて時代も昭和に入り、学事も充実してきた折、昭和十四年(一九三九)には『龍谷大学三百年史』が刊行されている。本書は大学の創建にはじまる歴史とともに、宗学史として多くの頁を割いており、ことに承応の鬩牆、明和の法論、三業惑乱などの事件の詳細も記述されていて、本願寺派の教学史研究の重要な資料となっている。

 その他にも、大正期以降は教学・宗学および教学史に関連する概説書などの出版もかなり多くなってくるが、その中、昭和十七年(一九四二)の普賢大円氏の『真宗思想史』が注目される。

 本書は真宗教学について「真宗成立のニ要素」という観点を提示する。すなわち真宗が成立するについては、第一に、仏と人間とは絶対他者であるという要素と、第二に、衆生には仏になさしめられる可能性がなければならないという要素との二つの要素があり、第一の要素を成立させようとすれば人間は仏になさしめられる可能性はないこととなり、また第二の要素を主張すれば、仏と人間とが絶対他者であると言うことができなくなるというように、真宗成立の根本要素の中に、すでに矛盾をはらんでいるというところに根本的な問題が存在するのであって、古来宗学者が心血を注いできた問題はここに起因するという、教学史に対する視点が示されている。

 そしてその上で、宗学者の思想傾向に、第一の要素すなわち人間と仏とは絶対他者なりとする立場に立つ傾向のもの(著者はこれを「異質論」と呼ぶ)と、第二の要素すなわち衆生には仏になさしめられる可能性ありとする立場に立つ傾向のもの(これを「同質論」と呼ぶ)との二つの大きな潮流があるとする教学史観を立てて、如来論、衆生論、救済論、生活論の四つの問題について、教学史上の学説を分類する。

 この論は昭和三十八年(一九六三)に刊行された同氏の『真宗教学の発達』ではさらに検討が加えられて、教学史上の二潮流の淵源を、親鷲教義の背景になっていると見られる七祖を継承する始覚法門の思想と、天台を相承する本覚法門の伝統とに見出し、前者は後世において石泉学派へ、また後者は空華学派へと展開したと結論づけられる。教学史研究の方法論としても大いに注目されるものであろう。

 以下、明治以降に出版された教学史研究に関する主たる著述を一覧にしておこう。

《真宗教学史研究関係出版一覧》*発表年次は略した 林遊
一八六八 明治
前田慧雲『真宗教史序論』
    『真宗学事年表』
    『仏教古今変一斑
    『真宗学苑談叢』
    『本願寺派学事史
前田慧雲・花田凌雲共著『略述真宗教史』
西谷順誓『真宗教義及宗学之大系
中島慈応『真宗法脈史』
三回村情『真宗誠照寺派本山誠照寺史要』
一九一二 大正
高田専修寺『専修寺史要』
金子大栄『真宗の教義及其歴史
村上専精『真宗全史』
中島覚亮『異安心史』
園田宗恵『仏教と歴史』
鈴木法潔『真宗学史
北畠玄瀛『教義と歴史』
前田恵雲『親鸞宗の教義及形体』
梅原真隆『真宗相承論』
山田文昭『真宗史』
広瀬南雄・橋川正『真宗教義及真宗史』
一九二六 昭和
広瀬南雄『真宗学史稿』
島地大等『教理と史論』
日下無倫『真宗史の研究』
島地大等『日本仏教教学史』
水谷寿『異安心史の研究』
山田文昭『真宗史稿』『真宗史の研究』
普賢大円『真宗行信論の組織的研究』
禿氏祐祥『真宗史の特異性』
大谷派『大谷派学事史』
大谷大学『真宗教学史概説』
龍谷大学『龍谷大学三〇〇年史
藤原猶雪『真宗史研究』
谷下一夢『真宗史の諸研究』
普賢大円『真宗思想史』
金子大栄『真宗の教義とその歴史』
武田統一『真宗教学史』
本願寺派『本願寺派学事要覧』
普賢大円『真宗教学の発達
本願寺派『本願寺史』

※太字は本論考においてとりあげたものを示す。

三 「教学」における二つの側面

 さて、真宗における教義解釈の歴史、すなわち「教学」の歴史を考察するについて、その基礎的作業として二つのことをふまえておこうと思う。第一に過去の研究において「教学」はどのような構造でなされてきたのかということ、第二に「教学」の対象であるところの「親鷺の教学」の結論、すなわち「教義」はどのような構造において捉えられるべきであるかいうことを明らかにしておきたい。

 まず第一の問題について、上にとりあげたものも含めて、従来の研究の中から宗教の「教学」の構造、あるいはその性格に論究したものをとりあげて、それらが様々な立場や観点から行われているにもかかわらず、ある共通した二つの側面を有していることを指摘しておこうと思う。

(1) 舟橋一哉氏の所論

 舟橋氏は、広く仏教教理の表現の形式から、仏教に「有形的表現」と「無形的表現」との二つの表現形式があるという論を展開する。それは直接に教学史研究の立場から主張されるものではないが、教学の構造を把握するための一方法として見ることができる。

 すなわち氏は、例えば仏教における「真空妙有」という語に注目し、否定即肯定の宗教として仏教教理を見てゆくと、その否定と肯定とに即して「無形的表現」と「有形的表現」とに問題が整理されるという。さらに氏は、この観点に立って仏身・仏土の問題を考察し、浄土教を「有形的表現」の側に位置づけたあと、真宗の教学における信心と念仏の問題にも同様の関係がうかがえるという論を展開する。

 すなわち信心は無形、念仏は有形であって、親鷲においてはこの信心と念仏とが不即不離の関係にあると説かれているのであり、そこに無形即有形の論理が示されているとする。

 例えば『末灯紗』に、

信心ありとも名号を称えざらんは詮なく候。また一向名号を称うとも信心浅くば往生しがたく候。

とある文をとりあげて、前半の「信心ありとも名号を称えざらんは詮なく候」とは、称名念仏を離れた信心、すなわち有形(念仏)にならない無形(信心)は無意味であることを示すのであり、親鷲は『歎異抄』などにしばしば信心ひとつで救われると主張するが、有形である称名念仏を離しては、その信心は観念論とならざるを得なくなり、その念仏も観念化の方向へ展開するのであって、この前半の文はそれをいましめたものであるという。

 また後半に「一向名号を称うとも信心浅くば往生しがたく候」とあるのは、逆に有形である称名念仏に偏して無形の信心の裏づけがなければ、その念仏は神秘化・呪術化の方向へ展開するのであって、後半はそれをいましめたものである。そして、このような真宗教学の表現の上においても「絶対の否定はそのまま絶対の肯定である」という「真空妙有」の真実の理は、無形即有形の論理で説かれているとするのである。

 その論は専門的にあるいは徹密に教学を考察した上に積み上げられたというよりは、大所高所からの基本的な視野を展開し示唆を与えてくれるものであって、真宗教学を仏教教理の解釈(これが「教学」の営みなのであるが)における「無形的表現」と「有形的表現」との二側面において把握しようとしているものである。

(2) 金子大栄氏の所論

金子大栄氏は前述したように釈迦の教法に対する真宗七祖の教学の歴史を、

(一) 如来より衆生への解釈(……絶対他力教)
(二) 衆生より如来への解釈(……相対自力教)
(三) 両者の根本的一致

という三段階の順序で見られるべきことを述べ、さらにそれは親鸞の教義に対する親鸞以降の伝承者における教学の歴史に対応させて理解できるという見方を示した。この「絶対他力教」と「相対浄土教」という観点は、同様な論として氏の「真宗の二方面」と題する論文にも見えている。

それによると「真宗」とは、一つに親鸞がその行信に即して広く宗教的真理を開顕したもの、換言すれば「誓願一仏乗」とか「念仏成仏是真宗」と言われるような、親鸞によって開顕された仏教という一面と、歴史的展開において現れたもの、すなわち「浄土真宗」の名に対して「聖道教」、「浄土仮宗」を語るような場合の、仏教の一派であるという一面との二方面があるとして前者を「絶対真宗」、後者を「相対真宗」と呼んでいる。

そしてこの二面が成立する根拠は、同論文に、

歴史も社会も自身の一生の内に摂められるに違いはない。されどその一生はまた歴史社会のうちにおいて見られるものである。それが真宗の二面を成立せしめているのであろう。その内に感じられたものは絶対であり、その外に見られたものが相対である。

というところにある。注意されるのは氏においては絶対も相対も、超歴史においてではなく「歴史の上」の「自身」において語られていることである。そして氏のこのような理解は『教行信証』そのものを二部作と見てゆくというところにまで展開しているのである。  いずれにせよ、ここに金子氏が「教学」について「絶対他力教」と表現されるような側面と、「相対浄土教」と表現されるような側面との二つの側面を見ていることが知られるのである。

(3) 神子上恵龍氏の所論

 真宗の、ことに本願寺派での伝統的な宗学の方法として、旧来より「往生門」と「正覚門」という二つの立場がある。神子上恵龍氏は「親鷲教学に於ける二の立場」という論文の中で、この二つの立場から親鸞の著述を分類するという見解をあらわして、親鸞教学(教義)を解明する方法を展開する。

 すなわち第一には、親鸞が教・行・証の三法を教・行・信・証の四法に聞いて信心正因 称名報恩の義を主張されたことなどは、従生向仏の往生門としての理解であり、これを「体験的立場」ということができる。第二にはその信心や称名が他力回向によるものであるという他力回向説を主張されたことなどは、従仏向生の正覚門としての理解であり、これを「論理的立場」での主張と見ることができる。親鷲においては、この体験と論理とは二而不離一体の関係にあると言わねばならないが、その著述を検討すると『教行信証』を中心とした往生門的体験の立場に据わって著されたものと、『和讃』、『文類聚鈔』、『入出二門偈』等のように正覚門的論理の立場に据して著されたものとが見えるとし、晩年には体験というより後者の正覚門的論理的立場に立って著されたものが多くなるという論を展開して、そこに「往生門的体験的立場」と「正覚門的論理的立場」という二つの立場を明らかにしている。

 同様の観点は基本的には伝統的な宗学が用いるもので、たとえば大原性実氏は『真宗教学の伝統と己証』において、

抑々(そもそも)本典を研鑽する視角には二個ありと考えられる。その一つは教を起点として行・信・証・真仏土と進行する順観の立場であり、その二は真仏・真土を起点として、行・信・証と進行する逆観のそれである。真宗学においては前者を往生門(趣入門)といい、後者を正覚門(摂化門)と名づけている。この二門の見方は学者によりて必ずしも一様ではないが、私は順観の往生門は真宗救済における「体験の事実」を語るものであり、逆観の正覚門は真宗救済における「先験の論理」を示すものと見る。

と述べて、伝統的な「往生門」と「正覚門」の立場を解説されている。二つの立場の見方は全く同じ表現ではないが、伝統的宗学におけるこの二つの立場は基本的には重なるものと見ることができよう。

(4) 普賢大円氏の所論

 普賢大円氏は前にも述べたように、真宗教学には二大潮流があるとし、親鸞以降の宗学者の傾向について、

(一) 人間と仏とは相隔絶するという立場に立ち、両者を異質的な存在とするもの=「異質論」
(二) 衆生には仏になさしめらるる可能性ありという立場に立ち、両者を同質的な存在とするもの=「同質論」

という二つの流れに分類する。そしてその淵源を親鸞に求め、親鸞教義における七祖相承の始覚法門的な思想傾向が「同質論」(石泉学派等)の宗学へ、また天台相承の本覚法門的思想傾向が「異質論」(空華学派等)の宗学へと展開したのであって、この両立場は必然的に生まれた大系であるという見解を明らかにされる。

 この論は両立場の淵源を七祖および天台の相承に求めているところにその特色があるが、真宗教学の流れを二つの立場・傾向に分析して、真宗教学史研究に一つの視野を聞いたものであるといえよう。

(5) 森龍吉氏の所論

 次に思想史学的立場から真宗思想を二つの側面において分析した例として森龍吉氏の所論をあげておこう。氏は真宗信仰が成立するための思想的要因を、真宗思想の社会性に要約して考察し、その社会性が成立する根拠を求める中で、真宗思想が持っている二つの側面を見出している。

 すなわち氏は、真宗の思想には超越の側面として拘束破壊的・救済的にはたらく「往相的ベクトル」と、内在の側面として、建設的・伝道的に展開される「還相的ベクトル」とがあるとし、真宗思想におけるこの両側面は、本来的に「自然の理」を根底として矛盾・緊張関係を保っているという見解を提示した。

真宗教学の専門家ではないので「往相、還相」などの語の理解などにやや疑問は残されるが、氏が論述するところのこの「二側面」は、教学史研究と関連して注目されるところである。

(6) 井門富二夫氏の所論

宗教学者である井門富二夫氏の論も、今の研究とは立場を異にするものではあるが、宗教の社会的機能という観点から同様の二側面について論究したものとしてとりあげておこう。

 氏は宗教の社会的機能として「安定の機能」と「挑戦の機能」とをあげる。すなわち、宗教は一面では社会体制や秩序の維持のために、それを支える超越的世界観を与える役割「安定の機能」を果たすが、もう一面ではこの超越的世界観があまりにも深く特定の社会体制と結びつき、その特定の社会体制を擁護する世俗的・政治的なイデオロギーの段階にまで堕ちた瞬間に、自らをふたたび聖なる基準の本来性にもどすために、その社会体制をつき放し、それを他の政治・経済体制とならぶ「この世的存在」においもどす「挑戦と反逆の機能」というはたらきを発揮すると言うのである。

 そしてこのような宗教の機能を「宗教的自覚を宗教的なものとしてとどめておくために常に繰り返されてきた『純粋化』の儀式」とし、それを「神殺し」と言うのである。氏はさらに、この「神殺し」の歴史的展開が三つの段階において行われることを述べて次のように言う。

まず第一に(一)イデー化する神による、この世にある神々の抹殺であり、(二)一方では、神が神であるために人聞の眼前で自らの具象性を殺し、彼方に超越してゆくことを意味していた。しかし逆に(三)有限者である人間の側を見れば、自分の思いやイデオロギーを正当化するために、絶えず絶対者である神の名において自分の主張を権威づけようとする人聞によって、彼方に超越するイデーからイデオロギーの段階にひきおろされた(物神化してしまう)神を、神でないと否定する、すなわち神殺しを絶えず行う必要があった。(傍点原文のまま)

と述べている。氏は宗教の機能を社会の「安定」と、それへの「挑戦」として捉え、宗教の純粋化の作用としてそれが「神殺し」の展開として現れると言うのである。宗教の歴史社会に対する機能として、「安定の機能」と「挑戦の機能」との二側面において捉えるこの論は、いま考察する「教学」の構造と関連して興味深いものがある。

 さて以上において、「教学」すなわちここで言うところの「教義解釈」(あるいは宗教理解)の構造について論究してあるものをいくつかとりあげてきたが、これらを概観するとき、それぞれの研究・考察は立場を異にし対象を異にしているにも関わらず、「教学」(広くは宗教理解)に関するある共通する二つの側面を提示し、それらを基礎において論じられていると見ることができる。

 その二側面とは、「教学」における「超越」(超歴史)の側面を基礎に置くものと、もう一つは内在(歴史)の側面にその基礎を置くものであると言える。各々の表現は異なってはいるが、それぞれは「教学」のもつこの二つの側面(あるいは立場)を同様の構造において捉えていると見ることができるのである。

 したがって上述の各論をこの二側面に対応させて整理してみれば、次の表のように分類し、まとめることができよう。

森説、井門説は基本的に内在(歴史)の上に立つ論述であるから必ずしも適当ではないかもしれないが、基礎にあるものをうかがえば、一応左のように示されると思われる。

  超越(超歴史)的側面 内在(歴 史)的側面
舟 橋 説 無形的表現 有形的表現
金 子 説 絶対他力教 相対浄土教
神子上 説 正覚門的立場 往生門的立場
普 賢 説 異質論 同質論
森   説 往相的ベクトル 還相的ベクトル
井 門 説 挑戦の機能 安定の機能

 ところでこのように「教学」(教義解釈・宗教理解)に二つの側面が認められているということは、必然的にその対象である「教義」(宗教)そのものが両方の要素を持っており、また両側面を持ちながら存在し、あるいは両側面の統一として説かれていると考えられる。

 しかしながらその教義解釈(宗教理解)の歴史、すなわち教学史をながめると、この二側面は必ずしも統一・総合されているようには見えていない。むしろ超越の側面を基礎に置く解釈と、内在の側面を基礎に置く解釈とが、片面ずつ繰り返されながら展開しているように見えるのである。あるいはそのこと自体が矛盾的・緊張的関係における統一と見ることができるのかもしれないが、やはり問題は残される。

 このことは「教学」の対象である「教義」が、論理的には超越と内在の統一を説いているとしても、それを解釈し理解する場(すなわち「教学」する場)は、つねに内在(歴史)の上においてのみ存在しているという「教学」の基本的立場をあらわしていると言うことができるのである。

四 親鷺教学の二重の構造

──救済の「論理」と「時間」──

 では真宗において、その「教学」の対象となる親鸞自身の「教学」の営み(すなわちその結論が「教義」となり、親鸞以降の「教学」の対象となるのであるが)とは、どのように捉えられるべきなのかということを考えてみよう。

 前項の考察からもある程度うかがえることであるが、従来の教学研究において、親鸞の教学(教義)も、「超越」と「内在」(いまの場合「仏」と「衆生」と置き換えてもよかろう)との関係構造の中で、「超越的内在」と「内在的超越」との(たとえば「従仏向生」と「従生向仏」というような)二つの側面の統一あるいは緊張という一重の構造をもって、ある意味で完結された円環的論理で捉えられてきたと言ってよいかと思われる。たとえば親鸞の、

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鴛一人がためなりけり。(『歎異抄』)

という言葉を、親鸞・親鸞の主体的自覚(内在)における本願(超越)の把握である(すなわち内在的超越である)と捉えることができ、また逆に、

如来よりたまはりたる信心(『歎異抄』)

という言葉を、仏(超越)は衆生(内在)をして信心を生ぜしめる(すなわち超越的内在)と理解することができる。そしてこの両者・両側面は親鸞において統一された論理構造をもって成立していると言うことはできる。

 しかしながらこのことを、単に人間の有限性の自覚による無限なるものへの展開とか、無限なるものによる有限なるものの包摂といわれるような「論理」としてのみ理解してはならないと思う。信仰にこのような論理構造があるということは、宗教においてはむしろ一般的に考えられることであろう。それは親鸞の信の論理的必然性を示すものではあっても、必ずしも親鸞における信の成立の「事実」を示すものではない。忘れていけないことは、弥陀の救済(超越の内在化)といい、衆生の往生(内在の超越化)といっても、これらは全て人間の歴史的現実、すなわち内在における「時間」の上に成立する事実であるということである。

 古来の「教学」(すなわち教義解釈)研究は、このことを忘れていなかっただろうか。例えば、真宗教学史における行信論の展開を見ると、それは超越と内在との関係構造において、いわゆる「能行派」と「所行派」とに展開したと考えられるが、それは遂には「能所不二」という論理をも成立させて一定の完結を見たようではある。しかしその論理は、時にトートロジー性(同語・同義反復性)を帯びているとさえ見られるほどに、その内実(リアリティー)を失っているように見えることがある。

 例えば「仏は真実であり、衆生は虚仮である」という命題も、その根拠が単に「衆生はよろづにおいて虚仮なるものであり、真実は仏のみに求められるからである」と言うのであれば、それは同義反復である。もしそこに既に「仏とは真実なるもの」であり、「衆生とは虚仮なるもの」であるという前提が反省されないままに存在しているとすれば、それは単に「AはAでありBはBである」と言っているのに過ぎないのであって、そこで真実あるいは虚仮と言われるものが具体的に如何なるものかということは何も明らかにされていないことになるのではないか。

 古来の「教学」の中には、そのような仕方で、われわれの経験や歴史という「時間」上の問題を、「論理」の内に解消させて、その「論理」の上でのみ解決してきたものが少なくなかったのではなかろうかと思われるのである。

 仏から見ればおそらく全てはトートロジーであり、一切はありのままにあるのであろうし、「真実」とは論理的にそのようにあるべきものなのかもしれない。親鸞の論理もよく円環的であり完成されたものであると言われることは、一面ではそのような「真実」の性格をあらわしていると言えるのかもしれない。しかし「真実」とはそのままでは他に対していっこうに自己を顕わにすることができないのであって、ここに人聞の時間的経験の世界が介入する余地がある。というより真実は人間の分別的経験的時間の世界の中にこそ生きなければならないのであり、そこにのみ存立の基盤が残されているのである。そしてそこにこそ如来と衆生との関係が生まれてくるのであろう。

 われわれはここに、「論理」の内に解消されてしまった「時間」を、もう一度引き出してみる必要があるように思う。完成された三次元的世界を打ち破るのは、いつも経験であり歴史であるところの「時間」だからである。

ただし、いま言いたいことは、親鸞の教学を理解するためには、親鸞の生きた鎌倉時代の歴史的状況を知らなければならないということではない。親鸞の信における超越と内在との「論理」も、その信が具体的な「時間」の上における具体的な事実である以上、その「時間性」はその「論理性」よりも重視されなければならないということが言いたいのである。

 ところでいま言う「時間」とはいわゆる「永遠」に対応する本来的時聞をいうのではなく、内在における日常的・直線的な時間、過去から未来へ一定の方向に流れる不可逆的な時聞を意味するものでなくてはならない。なぜなら、もしそれを「永遠」に即する本来的な時間としてしまうなら、たとえば「仏教の時間論」というテーマが、多く「存在の論理」において完結してゆくように、その「時間」もまた「論理」の中に解消されて、結局は「論理」だけが残ってしまうことになるからである。

 そしてさらに大事なことは、そのような日常的・直線的な時間の把握こそが凡夫の時間把握であり、凡夫の在り方であるということである。凡夫とはただ世俗の因縁につながれた罪悪深重なる存在であるという空間的次元だけでとらえられるべきではなく、同時に、例えば死をつねに未来に置いて「いつか来るもの」と見ているような、日常的・直線的時間概念をもって生きている存在であると捉えられるべきなのである。

 そして親鸞もそのような凡夫として「教学」した一人の人間であり、その時間把握の基礎は、やはり凡夫におけるそれであったと見ることができる。たとえば親鸞の宗教理解を体系的に示すものに、いわゆる「二双四重」の教判がある。これは『教行信証』の信巻・化巻にも見られるが、教判としての体系が明らかなのは『愚禿鈔』であろう。

 それによると親鷺は一代仏教(聖道教・浄土教)を大乗・小乗の二教とし、その大乗教について判釈する概念に、まず「頓」と「漸」とを用いている。すなわち「頓」とは証果を得ることが速い(すなわち時間的に短い)という意味であり、「漸」とはそれが遅い(すなわち時間的に長い)という意味であるから、親鸞の宗教理解の基礎にはやはり直線的時間把握があり、それはしかも重要な意味を持っていたと見ることができるのである。

 これは『信巻』の横超釈では、

大願清浄の報土には品位階次を問わず、……

とあるから、果を得るについて、時間的な遅速を言うのではなく、論理的に位階的立場で言われているものと見えなくもないが、続く文には、

一念須臾の頃に、速に疾く無上正真道を超証す。

とあって、やはり時間的な長短にもとづいて述べられていることがわかる。しかも二双四重の教判において、「頓」・「漸」に続く四重の配し方は「横」(他力)・「竪」(自力)という得果のための方法をもってくるのではなく、「超」・「出」という果を得るために次第を超えるか、漸次迂回して果に至るかという形式によって判別されており、よりその時間的性格が強められていると見ることができるのであって、以上のような親鷲における時間把握が、やはり日常的・直線的な時間、凡夫的時間に即するものであったと見ることができるのである。

 ただしこのことは。親鸞における「永遠」に即する本来的時間の把握を妨げるものではない。たとえば「三願転入」の文に)、

特に方便の真門を出でて選択の願海に転入せり。速やかに難思往生の心を離れて難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓、良に由あるかな、ここに久しく願海に入りて深く仏恩を知れり。(傍点筆者)

などと述べているのはそのことを表すものとも考えられる。しかし親鷺の「教学」の営みにおける時間把握の基礎は、やはり直線的・凡夫的時間概念においてあるとすべきであって、それ故に例えば親鸞教義の特色でもある「現生正定緊」の主張なども意味を持ってくるのであろう。すなわち超越と内在とが統一された「論理」は、それが凡夫的「時間」を超えて、なおかっその「時間」の上に成立している時に意味をもつものであるはずなのである。

以上のように親鸞における「教学」の営みが成立する場が、内在における「時間」の上にのみ存在するものであったと見れば、われわれは「教学」というものを単に「論理」における超越と内在との一重の関係において捉えるだけではなく、さらにその「超越即内在」という救済の「論理」の上に、「時間」を重ねた二重の構造において捉えられるべきではないかと考えるのである。すなわち親鸞の教学(教義解釈)は、「内在的超越」即「超越的内在」としての一重の「論理」の関係構造が、さらに凡夫における日常的・直線的な「時間」の上に重ねられているという二重の構造において捉えられるということである。

 「教学」への要求はつねに歴史の上、すなわち「時間」の上において求められてきたのであるのなら、そこで歴史を捨象し「時間」をとびこえて「論理」の中にのみその要求を解消し、あるいは閉じこめてしまうことは、その「教学」を大いに無責任なものにしてしまうであろう。われわれはそれを「超越」の名において誤魔化してはならないと思う

 またこの二重の構造を基礎にして、現在の「教学」がどこへ向かおうとしているのか、今後の「教学」の展開をどの立場で見極め、またどのようにバランスをとるべきかを見極めるということも可能になろうと思われるのである。