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「『今、浄土を考える』2010年 勧学寮編 本願寺出版社」の版間の差分

提供: 本願力

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とお示しになって下さるのが、私たちの偽りなきすがたなのです。<br />
 
とお示しになって下さるのが、私たちの偽りなきすがたなのです。<br />
 
 そのような凡夫の実態を横に置いて、迷いと悟りとは「二つでない」といっても、それはただの観念論に過ぎないでしょう。そして、我見しか持てない凡夫にとっては、迷いと悟りとを全く別のものとする教えが最もぴったりした教えなのです。すなわち、悟りの世界である浄土と迷いの世界であるこの世界とを、全く別の世界と位置づける教えが、凡夫相応の教えだということができます。<br />
 
 そのような凡夫の実態を横に置いて、迷いと悟りとは「二つでない」といっても、それはただの観念論に過ぎないでしょう。そして、我見しか持てない凡夫にとっては、迷いと悟りとを全く別のものとする教えが最もぴったりした教えなのです。すなわち、悟りの世界である浄土と迷いの世界であるこの世界とを、全く別の世界と位置づける教えが、凡夫相応の教えだということができます。<br />
 ただ、ここで注意をはらっていただきたいのは、迷いと悟りとを「二つでない」とする教えが程度の高い教えであり、迷いと悟りとを「二つである」とする教えが程度の低い教えなのではないということです。「二つである」ということと、《「二つである」ということと、重複?》「二つでない」ということは、どちらも真実なのですから、一方の見方が程度が高く、一方の見方が程度の低いということはありません。程度の低い凡夫に合った教えだというと、ややもすると教えそのものまで程度が低いと思ってしまうのですが、決してそうではないということを強調しておきたいと思います。<br />
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 ただ、ここで注意をはらっていただきたいのは、迷いと悟りとを「二つでない」とする教えが程度の高い教えであり、迷いと悟りとを「二つである」とする教えが程度の低い教えなのではないということです。「二つである」ということと、「二つでない」ということは、どちらも真実なのですから、一方の見方が程度が高く、一方の見方が程度の低いということはありません。程度の低い凡夫に合った教えだというと、ややもすると教えそのものまで程度が低いと思ってしまうのですが、決してそうではないということを強調しておきたいと思います。<br />
  
 
 道綽禅師はまた、<br />
 
 道綽禅師はまた、<br />

2023年4月18日 (火) 11:33時点における版

『今、浄土を考える』2010年 勧学寮編 本願寺出版社
「第三章 浄土の意義」より抜粋。一部改行を変更した。 曽我 憲さん提供


『今、浄土を考える』

はじめに

 この章では、浄土の現代的意義について考えていきたいと思います。しかし浄土の現代的意義とはいっても、浄土が時代によって変化することを意味しているのではありません。浄土の意義そのものは時代・社会がいかに変化しようとも不変です。
 しかし一方、浄土の意義を表現するにあたっては、時代・社会の変化に応じた表現が要請されるのもまた当然です。浄土の教えに関して、その不変の意義をふまえつつ、現代日本という時代・社会に適した表現を考えようという一つの試みが本稿です。
 その意味では、できるかぎり仏教用語をつかわないように、浄土の意義を表現しようとしたつもりです。

迷いから悟りへ

 浄土とは穢土に対する言葉であり、穢とは「けがれ」です。宗教によって、何を「けがれ」とするのかは違います。たとえば、私たち浄土真宗では否定することですが、家族に死者が出た時、死を「けがれ」として、葬儀や火葬の後、塩で「けがれ」を清めるという風習もよく見られます。その他、血を「けがれ」とする風習もあるようです。
 仏教では、このような死や血を「けがれ」とするのではなく、煩悩を「けがれ」とします。つまり、穢土とは煩悩によって穢されている世界、逆に浄土とは煩悩という穢れが全く存在しない世界であるということができます。煩悩によって穢されている世界とは、すなわち迷いの世界であり、煩悩の穢れが存在しない世界とは、すなわち悟りの世界です。私たち自身が今現に迷いそのものの存在であるということは、私たちが生きている世界が迷いの世界ということです。仏教とは、仏に成る教えともいわれますが、その意味からすれば、迷いというあり方をしている存在が、悟りというあり方を目指すのが仏教であるということもできるでしょう。
 そして、迷いの世界である穢土から悟りの世界である浄土に生まれていくことを目指すのが、往生浄土の教えなのです。浄土の意義を考察するにあたって、浄土教すなわち往生浄土の教えが仏教の流れの一つとして成立しているという、当然の事実が見逃されてはなりません。すなわち、浄土とは、現に迷いというあり方にある存在が、悟りというあり方を目指すために往生していく世界であるというのが、浄土の原点です。曇鸞大師は『往生論註』において、「かの仏国はすなはちこれ畢竟成仏の道路、無上の方便なり」(『註釈版聖典七祖篇』一四五頁)といわれています。

迷と悟の関係

 ところで、仏教では迷いと悟りとの関係を「二つであって二つでない」ととらえます。「二つである」とは迷いと悟りとは異なったものであるという意味です。迷いと悟りとは異なったものであるからこそ、迷いを捨てて悟りを求めるという仏教の基本が成り立ちます。では、「二つでない」とはどのような意味なのでしょうか。それは、迷いと悟りとは、どちらも固定的なものではないことを意味しています。固定的なものではないということは、条件によって迷いともなり、悟りともなるということです。
 このような、迷いと悟りとの「二つであって二つでない」との関係は、よく氷と水との関係にたとえられます。「二つであって二つでない」というのは、結局は「違っていて同じである」ということですが、氷と水との関係で考えれば、「違っていて同じである」ということの意味がお分かりになるでしょう。氷と水とは、氷が固体であり、水が液体であるという点からいえば、異なった二つのものですが、どちらもH₂Oであるという点からいえば、同じ一つのものですから二つではありません。
 氷と水とが「違っていて同じである」ということについて、氷と水とは違っているので氷は溶けないと水に成らない(固体の氷のままでは液体の水ではない)、氷と水とは同じであるから氷が溶けると水に成る(水以外のものには成らない)、といわれています。それと同様に、迷いと悟りとの「違っていて同じである」との関係について、迷いと悟りとは違っているので、迷いの衆生は行を積み重ねないと悟りの仏に成れないといわれ、迷いと悟りとは同じであるので、迷いの衆生が悟りの仏に成ることができるといわれています。
 先の点についていえば、浄土真宗では私たちが行を積み重ねる必要はありませんが、阿弥陀仏の本願力がはたらかなかったならば仏に成ることはできません。後の点でいえば、神と人間とは全く異質の存在であるとして人間は決して神に成ることはできないとするキリスト教などに対し、仏とは衆生が成ったものであるという点に、仏教の特徴の一つを見ていくことができます。
 親鸞聖人も、
  無礙光の利益より 
  威徳広大の信をえて
  かならず煩悩のこほりとけ 
  すなはち菩提のみづとなる

  罪障功徳の体となる
  こほりとみづのごとくにて
  こほりおほきにみづおほし
  さはりおほきに徳おほし(『高僧和讃』曇鸞讃『註釈版聖典』五八五頁)
と氷と水との譬喩を用いておられます。迷いを意味する煩悩と罪障とが氷にたとえられ、悟りを意味する菩提と功徳とが水にたとえられています。

 先の和讃では、氷が溶けて水に成るといわれていますが、これは迷いを離れて悟りに至るという構図であり、迷いと悟りとか「二つである」という関係を示しています。後の和讃では、氷が多いと水が多いように、罪障が多いと功徳が多いといわれていますが、これは氷と水とはどちらもH₂Oであって、氷の量とその氷の溶けた水の量とが比例するということで、罪障と功徳とが「二つではない」ということを示しています。

二つであって二つでない

 大乗仏教は、このように、迷いと悟りとを「二つであって二つでない」という関係でとらえます。「二つである」ということだけでなく、「二つでない」ということだけでもありません。大乗仏教の教えは、「迷いと悟りとは二つである」という側面と、「迷いと悟りとは二つでない」という側面との、どちらの側面にも足を置いた教えであるということができます。
 ところが、どちらの側面にも足を置いているという大乗仏教の中で、「迷いと悟りとは二つである」という側面に置いた足に重心をかけた教えと、「迷いと悟りとは二つでない」という側面に置いた足に重点をかけた教えとがあるということができます。たとえば、「迷いと悟りとは二つではない」という側面に置いた足に重心をかけた教えでは、迷いそのものである衆生の心の中に悟りの仏をさがそうとします。また迷いの世界であるこの娑婆世界をそのまま悟りの世界である浄土としてみていこうとします。そして、「迷いと悟りとが二つである」という側面に置いた足に重心をかけた教えでは、迷いの私と悟りの仏とがはるかにかけ離れた存在であると教え、迷いの世界であるこの娑婆世界と悟りの世界である浄土とは、全く別の世界であると教えます。

 曇鸞大師の『往生論註』には、阿弥陀仏の浄土のあり方(荘厳)を明らかにされるのに、「仏本なんがゆゑぞこの荘厳(或いは「この願」)をおこしたまへる」と、阿弥陀仏が、なぜこのような浄土のあり方を願われたのかという問いをおこし、「ある国土を見そなはすに」と迷いの世界の不具合を示して答えていかれます。すなわち、浄土は、悟りの世界として、迷いの世界との対比で示されてくるのが、往生浄土の教えの一つの伝統であるということができます。
 一二の例を挙げておきましょう。

無垢光炎熾 明浄曜世間
この二句は荘厳妙色功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの荘厳を起したまへる。ある国土を見そなはすに、優劣不同なり。不同なるをもつてのゆゑに高下もつて形(あらわ)る。高下すでに形るれば、是非もつて起る。是非すでに起れば、長く三有に淪む。このゆゑに大悲心を興して平等の願を起したまへり。(『註釈版聖典七祖篇』六三頁)
仏慧明浄日 除世痴闇冥
この二句は荘厳光明功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの荘厳を興したまへる。ある国土を見そなはすに、また項背に日光ありといへども愚痴のために闇まされる。このゆゑに願じてのたまはく、「わが国土のあらゆる光明、よく痴闇を除きて仏の智慧に入り、無記の事をなさざらしめん」と。 (『同』六八頁)

 親鸞聖人には、『尊号真像銘文』の

真実と申すは如来の御ちかひの真実なるを至心と申すなり。煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見のゆゑなり。(『註釈版聖典』六四三頁)

 と、悟りの存在である阿弥陀仏(真実)と迷いの存在である衆生(真実なし)とを真反対の存在とするお示し、つまり「迷いと悟りとは二つである」とのお示しがあり、一方「正信偈」に「生死即涅槃」とあり、『高僧和讃』に「煩悩・菩提体無二」(『同』五八四頁)とあるように、「迷いと悟りとは二つではない」とのお示しもあります。このように、両方のお示しがあるということは、浄土真宗も大乗仏教であるかぎり、片方だけということはあり得ないということを意味しています。
 しかし、親鸞聖人の教え全体は、「信文類」に

「一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし」(『同』一三一頁)

といわれ、また、『正像末和讃』に「毒蛇・悪竜のごとくなり」(『同』六〇一頁)、「罪業深重」(『同』六〇六頁)、「虚仮不実のわが身」(『同』六一七頁)、「蛇蝎奸詐のこころ」(『同』六一八頁)といわれるように、救われる側の私たち(=迷い)と救う側の阿弥陀仏(=悟り)とを真反対に位置づける立場に立っているということができるでしょう。

 そして、それはまた、救われる側の私たちの世界(=穢土=迷い)と救う側の阿弥陀仏の世界(=浄土=悟り)とが、まったく違う世界として示されているということにもなります。

空見と我見

 まとめてみますと、親鸞聖人には、「迷いと悟りとは二つではない」とのお示しもありますが、全体としては、「迷いと悟りとは二つである」とのお示しが中心であるということができます。そして、その意味からすれば、悟りの世界である浄土と迷いの世界であるこの世界とを、全く別の世界と位置づけておられるのが親鸞聖人の教えであるということになるでしょう。浄土を考えていくのに際し、注意を払っておくべき点です。

 道綽禅師の『安楽集』には、全ての存在はそれぞれ異なったものであるという考えと、全ての存在は本質的に平等であるという考えについての興味深いお示しがあります。大乗仏教では、全ての存在について、それぞれ異なったものであり、また本質的に平等であると見なします。それは、波と水との関係にたとえられます。一つ一つの波のかたちはそれぞれ異なっています。しかし、どの波も本質的にはかたちを持たない水であるということからすれば平等です。本来決まったかたちを持たない水は、その場その場の条件によって様々にかたちをとります。決まったかたちを持たない(本質的に平等)から、様々なかたちをとる(それぞれ異なっている)のです。
 これと同様に、全ての存在は、その場その場の条件によって様々なあり方をしている(これを因縁生といいます)が、本質的には固定的な実体を持たない(これを無自性といいます)のだと考えられているのです。そして、因縁生だから無自性、無自性だから因縁生ということですので、それぞれが異なっているままで全てが平等であり、全てが平等のままでそれぞれが異なっているということになります。
 ところが、それぞれを固定的な実体としてとらえ、異なって存在しているとしか見なかったり(これを我見といいます)、条件によってそれぞれが異なった様々なあり方をするという面を無視して、固定的・実体的なものではないのだから全てが平等なのだとしか見なかったり(これを空見といいます)する偏った見方があります。
 どちらか一方しか見ないという偏った見方は当然誤った見方なのですが、道綽禅師は、我見は須弥山のように大きくても、仏はこれをおそれない、空見は芥子粒のように小さくても、仏はこれをゆるさないとお示しになります。そして、我見は誤ったものの見方ではあるが、迷いと悟りとが異なっていると見るので、迷いを離れて悟りを目指そうという心が生まれる、しかし空見という誤ったものの見方は、迷いと悟りとの違いを全く見ないので、迷いを離れて悟りを目指そうという心が生まれてこないと、その理由を述べておられます。

情の果たす役割

 ひるがえって、私たち自身のものの見方を考えてみますと、私たちのものの見方は、一つ一つのものを異なった固定的・実体的なものであるとするものの見方なのです。それぞれが固定的・実体的なものではなく、全ては平等なのだという見方を教えられても、知的には理解できるのですが、それは頭のなかで考えているだけで、結局は固定的・実体的なものとして見て、それにとらわれをおこし、ほしいという欲をおこしたり、思い通りにならないといって怒ったりしているということでしかありません。そのようなものの見方しかできないからこそ凡夫といわれるのです。親鸞聖人が、『一念多念文意』に

 「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そのみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらずら、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。かかるあさましきわれら、……(『註釈版聖典』六九三頁)

とお示しになって下さるのが、私たちの偽りなきすがたなのです。
 そのような凡夫の実態を横に置いて、迷いと悟りとは「二つでない」といっても、それはただの観念論に過ぎないでしょう。そして、我見しか持てない凡夫にとっては、迷いと悟りとを全く別のものとする教えが最もぴったりした教えなのです。すなわち、悟りの世界である浄土と迷いの世界であるこの世界とを、全く別の世界と位置づける教えが、凡夫相応の教えだということができます。
 ただ、ここで注意をはらっていただきたいのは、迷いと悟りとを「二つでない」とする教えが程度の高い教えであり、迷いと悟りとを「二つである」とする教えが程度の低い教えなのではないということです。「二つである」ということと、「二つでない」ということは、どちらも真実なのですから、一方の見方が程度が高く、一方の見方が程度の低いということはありません。程度の低い凡夫に合った教えだというと、ややもすると教えそのものまで程度が低いと思ってしまうのですが、決してそうではないということを強調しておきたいと思います。

 道綽禅師はまた、

もしここにおいて進趣せんと欲せば、勝果階ひがたし。ただ浄土の一門のみありて、情をもつて悕ひて趣入すべし。(『註釈版聖典七祖篇』一八四頁)

と述べられます。すなわち、この世界において悟りを開くことが不可能であり、残されているのは往生浄土の一門のみであると示されているのですが、そこでは往生浄土の道における情の果たす役割を指摘しておられます。ある宗教哲学者は、宗教とは私自身を包み支えている大いなるものを直感と感情でとらえることであると論じ、やはり宗教における感情の重要性を主張しています。
 ところで、迷いと悟りとの関係について、「二つである」ととらえる見方と、「二つでない」ととらえる見方とでは、どちらが宗教感情を引き起こしやすいでしょうか。実は、迷いと悟りとが「二つである」ととらえる見方の方が宗教感情を引き起こしやすいと考えられます。阿弥陀仏(=悟り)と私(=迷い)との関係で考えてみても、仏に背を向けていたような私と、そのようなものこそを救おうという願いを発している阿弥陀仏とは、真反対の存在と位置づけられます。
 『蓮如上人御一代記聞書』[1]には、蓮如上人のお書きになった六字の名号が火事で焼け、六体の仏になって天に昇って行かれたということについて、上人のお弟子が、「不思議なことで御座います」と上人に申し上げたところ、蓮如上人は「それは不思議ではない。(お名号は仏であるのだから、)仏が仏に成ることは不思議ではない。悪凡夫が阿弥陀如来におまかせすることによって仏に成ることこそ不思議である」とおっしゃったと記されています。 
 紙に書かれた文字が仏に成るとは、実に不思議なことなのですが、これを不思議と受け取る感性は、舞台の奇術を観ている観客の立場のものです。それは、当事者の受け止め方ではありません。傍観者としての感覚だということができるでしょう。仏教とは、この私が仏に成る教えです。私が当事者なのです。
 親鸞聖人は、
  いつつの不思議をとくなかに
  仏法不思議にしくぞなき 
  仏法不思議といふことは
  弥陀の弘誓になづけたり(『高僧和讃』曇鸞讃『註釈版聖典』五八四頁)
といわれ、『歎異抄』第一条にも「弥陀の誓願不思議」といわれていますが、その「不思議」とは、どこをさがしても仏になるのに役立ちそうなものは何一つとして見いだすことのできない私(=悪凡夫)が、阿弥陀如来の本願力によって仏に成ることができるという、私を当事者とする不思議です。

「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」(『同』八三三頁)

と詠嘆される私、まさしく悪凡夫としかいいようのない私、仏と正反対の存在と位置づけた私のところに感じられる不思議です。そのような関係と位置づけてこそ、

 弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなり。さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ。(『歎異抄』『同』八五三頁)

と述べられるような豊かな宗教感情のほとばしりが生まれてきます。
 この世界と浄土との関係もそうでしょう。親鸞聖人のお手紙には、

 かくねんばうの仰せられて候ふやう、すこしも愚老にかはらずおはしまし候へば、かならずかならず一つところへまゐりあふべく候ふ。(『註釈版聖典』七七〇頁)
 この身は、いまは、としきはまりて候へば、さだめてさきだちて往生し候はんずれば、浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし。(『同』七八五頁)

と述べられていますが、浄土が、また会うことのできる場として受け止められているということは、懐かしい人々の居る浄土が、命終えた後に待ち受けているということで、そこには浄土という世界に対するほのぼのとした感情が見られるでしょう。

                   称名
  1. 『蓮如上人御一代記聞書』(77) p.1256。