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「『十住毘婆沙論研究』」の版間の差分

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声聞独覚地 若人便為死 以断於菩薩<br />
 
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諸所解知根。<br />
 
諸所解知根。<br />
仮死堕泥梨 菩薩不生怖 声聞独覚地<br />
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:声聞独覚地に 若(も)し入るをすなわち死となす。 菩薩の諸の解知する所と 根を断ずるを以てなり。
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仮使堕泥梨 菩薩不生怖 声聞独覚地<br />
 
便為大恐怖。<br />
 
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:たとひ、泥梨に堕するも 菩薩は怖れを生ぜざれども 
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声聞・独覚地は すなわち大恐怖となす。
 
非堕泥梨中 畢竟障菩提 声聞独覚地<br />
 
非堕泥梨中 畢竟障菩提 声聞独覚地<br />
 
則為畢寛障。<br />
 
則為畢寛障。<br />
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:泥梨の中に堕するも 畢竟じて菩提を障ふるに非ず。
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声聞・独覚地は 則ち畢寛じて障となる。
 
如説愛寿人 怖畏於斬首 声聞独覚地<br />
 
如説愛寿人 怖畏於斬首 声聞独覚地<br />
応作如是怖。(大・三二・五二七c~五二八a)
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応作如是怖。
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:寿を愛する人は 斬首を怖畏すと説くが如く 声聞・独覚地
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は 応(まさ)に是の如き怖れを作すべし。
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(大・三二・五二七c~五二八a)
  
 
と説かれている。
 
と説かれている。

2023年9月3日 (日) 15:01時点における版

『十住毘婆沙論研究』P.111 武邑尚邦和上著より

第三章 菩薩の願

 初地を菩薩の必成不退とみる『十住毘婆沙論』は世親が「住地」「釈名」「安住」と科した三分の叙述の内容を必成不退の如実菩薩の相を明らかにするものとみたのである。すなわち「入初地品」「地相品」「浄地品」の三品の叙述がこれを示している。

 ところで、このような必成不退の菩薩には、必ず成就すると保証される願と、その必成を保証する行が具備されねばならない。そのためには、まず願が必成であるために発願の根本における発心が必成のものでなければならない。とすれば、その発心は仏に保証された発心であり、法の確実な裏付けをもつものでなければならない。この為に論は「釈願品」で願を明し乍ら、次に「発心品」を説いて願の必成を根拠付ける発心の確実性を求め、それが「仏教えて発心せしむ」という点と、三宝帰依にあることをつきとめた。すなわち、このような発菩提心こそが阿惟越致を約束するものである。そこで発心を吟味し確実な発心が仏にしからしめられ、護法の為と衆生救済の為とのものは仏道成就が約束されるということから、そのような不退転を如実菩薩の中の無条件に仏になれるものとして「阿惟越致相品」の最初にあげ、これを明らかにした。しかし、七種発心中、後の四種発心には成不成があり、不成なるものは敗壊の菩薩として堕二乗、堕凡夫であるとして、これを敗壊の菩薩とよんだ。しかし、後の四種発心は成の場合も認められ、そのようなのを漸々に精進して菩提を成ずる人といってきたのである。いま「易行品」は、このような漸々に精進して菩提を得る菩薩に対して、真に成仏を達成せしめる道を説こうとして設けられているのである。ところで、この点については古来からの「易行品」の註釈では、大体いまいった漸々精進の菩薩の為ではなく、敗壊の菩薩の為であるとする解釈がなされている。たとえば東陽円月師の『易行品略解』には

此品前後の諸品に六度等の行を説くものは漸々転進の機に応ず。今此一品に諸仏菩薩の称名易行を説くものは敗壊の機に応ず。

と。「易行品」は敗壊の菩薩の為に説かれたものとしている。しかし、敗壊の菩薩とは仏道に発趣するに修善除悪の強い意志力をもたないものなどといわれるが、実は二乗法を信楽し、二乗に堕し自らの利楽のみを求めるものをいうのであり、これが正しく「菩薩の死」といわれるものである。このような堕二乗のものは、決して二度と大乗法に帰入しえないので、敗壊した菩薩は名のみの菩薩であるというのである。いま「易行品」は最初にも偈説されるように、たとえ地獄におちても、堕二乗の如く、もう二度と大乗へ戻ることのできない二乗とちがって、畢竟して仏に至ることを得る道として説かれたものと思われるから、敗壊の菩薩が成仏する道が易行道であると、敗壊と易行とを直結することは正しくない。このような点で、「易行品」は「敗壊するような菩薩」ではあっても、堕二乗の敗壊菩薩ではなく、むしろ、漸々に精進をする惟越致の菩薩の為に開示されたものと理解すべきであろう。このような菩薩道を「易行品」「除業品」「分別功徳品」の三品で明らかにするのである。

 まず「易行品」についてみよう。この品の初めに「問うて曰く、この阿惟越致の菩薩の初事は先に説くが如し。阿惟越致に至る者は、諸の難行を行じ、久しうして乃ち得べきも、或は声聞、辟支仏地に堕せん。もし、しからば、これ大衰患なり」といい、難行による漸々精進の菩薩の菩薩行は仲々成じ難く、ともすれば、その精進にたえずして二乗に堕することになる。これは、正しく菩薩の死であって大衰患であり、古来、これを難行道に諸久堕の難ありといわれてきたのである。

すなわち、いま説いた論の本文が

「行[諸]難行、[久]乃可得、或[堕]声聞辟支仏地。若爾者是大衰患。」

といわれるからである。

 このことを論は「助道法」の中に説くが如しとして偈によってこれを示す。

もし声聞地及び、辟支仏地に堕するは是れを菩薩の死と名づく。則ち一切の利を失す。もし地獄に堕するも、是の如きの畏れを生ぜざるに、若し二乗地に堕すれば、則ち大怖畏となす。地獄の中に堕するも、畢寛じて仏に至ることを得るも、若し二乗地に堕せば、畢竟じて仏道を遮す。仏自ら経の中において、是の如きの事を解説したもう。人の寿を貪る者の、首を斬れば則ち大いに畏るが如く、菩薩もまた是の如し。もし声聞地、及び辟支仏地において応に大怖畏を生ずべし。
と。この助道法の所説をよりどころとして、菩薩の死である堕二乗におち入る難行道以外に、たとえ地獄に堕しても仏道を遮することのないような菩薩の生きる道を求めたいというので、次に、もし諸仏の教えの中に、易行道にして疾く阿惟越致地に至ることのできる方法があれば、それを教えてほしいが、そのような道はないのかと問うのである。

 ところで、いま、ここに「助道法」といわれるものは何をいうのかというに、この趣旨は『菩提資糧論』巻三に菩薩の死について述べる偈と相応する。すなわち、そこには

声聞独覚地 若人便為死 以断於菩薩
諸所解知根。

声聞独覚地に 若(も)し入るをすなわち死となす。 菩薩の諸の解知する所と 根を断ずるを以てなり。

仮使堕泥梨 菩薩不生怖 声聞独覚地
便為大恐怖。

たとひ、泥梨に堕するも 菩薩は怖れを生ぜざれども 

声聞・独覚地は すなわち大恐怖となす。 非堕泥梨中 畢竟障菩提 声聞独覚地
則為畢寛障。

泥梨の中に堕するも 畢竟じて菩提を障ふるに非ず。

声聞・独覚地は 則ち畢寛じて障となる。 如説愛寿人 怖畏於斬首 声聞独覚地
応作如是怖。

寿を愛する人は 斬首を怖畏すと説くが如く 声聞・独覚地

は 応(まさ)に是の如き怖れを作すべし。 (大・三二・五二七c~五二八a)

と説かれている。

 さらに偈中、経の中においてといわれる経は『清浄毘尼方広経』中の

仏言。応怖。天子。但菩薩於声聞地中倍応生怖。天子、於意云何、如人護命、爲畏斬頭.畏斬手足。(大・二四・一O八Oa)

によると思われる。

 以上のように、二乗地に堕する可能性をもった阿惟越致地への菩薩道は、正しく難行道である。しかし、この場合、難行道とは単に修行が困難であるということではなかろう。菩薩行としての六波羅蜜行は成程、困難なことであろう。しかし、これを修行して仏になる道は確保され、保証されてあるのである。そこで、ここでいう難行とは、二乗地に堕し、菩薩の死を招くことについていわれているはずである。すなわち、地獄におちるということは修行者にとって決して好ましいことではない。しかし、地獄に堕ちても再び成仏への道があることは保証されている。ところが、もし二乗に堕すれば、殆んど成仏への可能性はなくなるのである。したがって次に説かれる易行・信行方便とは、修行が易であるという点よりも、堕二乗の可能性のない道であるところに易行の真意があるといってよいのではないか。もしも、易が単に容易なさとりへの道をいうなら、それは仏道の堕落であって易行道ではないはずである。

 この願いに対して、汝は儜弱怯劣と訶し、菩提を求めるためには身命をもおしんではならないというのは、二乗地に堕する可能性をもつ道でなく、地獄にも堕するかもしれないが、いつかは成仏する道であるから、易と考えて容易の道といってはならないと訶したものというべきであろう。

 さて、その弾訶の後に論には「若し人、発願して阿籍多羅三貌三菩提を求めんと欲して、未だ阿惟越致を得ずんば、その中間において、応に身命を惜まず、昼夜精進して頭燃をはらうが如くすべし。」といって偈を示す。すなわち「助道の中に説くが如し」という。この偈もまた確実には一致しないが、『菩提資糧論』巻三の

菩薩為菩提 乃至未不退 譬如燃頭衣
応作是勤行。
然彼諸菩薩 為求菩提時 精進不応息
以荷重担故。       (大・三二・五二七b)

を依処とするものである。偈として

菩薩未だ阿惟越致地に至ることを得ずんば、応に常に勤めて精進して、猶し頭燃をはらい、重坦を荷負するが如くすべし。菩提を求むるがための故に、常に応に勤めて精進して、解怠の心を生ぜざれ。声聞乗、辟支仏乗を求むる者のごとき、但だ己が利を成ずる為にするとも、常に応に勤めて精進すべし。何ぞ況んや菩薩は、自ら度し、また彼を度せんとするにおいておや。この二乗の人において、億倍して応に精進すべし。

と説かれる。

 いま、助道の中に説くとしてあげた、この経説をよりどころとして、菩薩が仏道を成ずる為には、応に並々ならない勤行精進が必要であると説くのである。そこで、易行をと求めるものに、たとえ信方便易行があるとしても、このことを考えて、それは容易な、安易な道であると考えてはならない。
ただ、この易行道は諸久堕の難のある菩薩道と異って、いつまでも仏道成就の可能性をもつものであることを自覚して、勤行精進し、必ず成仏すべしとの決意が与えられるものであることを示そうとして、偈の後に

 大乗を行ずるものに対して、仏は偈の如くに説かれたのである。発願して仏道を求めることは、三千世界をもちあげるよりも、なお重いのである。汝が、阿惟越致は、この法甚だ難し、久しくして乃ち得べし、若し易行道ありて、疾く阿惟越致地に至ることを得るやと間うのは、全く怯弱下劣の言葉であり、これは大人志幹のいうことではない。と再び訶し、次いで、汝が、若し必ずこの方便を聞こうとするなら、これから、その道を説くであろうという。この論の作者の自問自答には、前にいったように、論の著者自身に必ず成仏できる道として易行道が求められていたことを示すものである。その点、難行道といわれるものは成仏不定の道、易行道とは成仏必定の道というべきであろう。

 それでは、その易行道とは何か。これについて論は(一)十方十仏易行、(二)阿弥陀仏等易行と大きく二様の易行を説く。しかも第二の阿弥陀仏等の易行を(1)阿弥陀仏易行、(2)過未八仏易行、(3)十一仏易行、(4)三世諸仏易行の四段にわけて述べ、最後に善意菩薩等の諸大菩薩をあげ「是の如き等の諸の大菩薩みな応に憶念し、恭敬し、礼拝して阿惟越致地を求むべし」と結ぶのである。

 さて、易行道を説くについて、まず易行の説をおこすために難易を対比して易行の何であるかを示す。

 仏法に無量の門あり。世間の道に難有り、易あり。陸道の歩行は則ち苦しく、水道の乗船は則ち楽なるが如し。菩薩の道も、またかくの如し。或は勤行精進するあり、或は信方便を以って、易行にして疾く阿惟越致に至る者あり。

と。

 ここには仏法について、難易の二道を世間における陸道の歩行と水道の乗船に対比し、両道あることを示すのである。したがって、難行道とは、既に前に述べてきた漸々に精進して阿惟越致地にいたる道をさし、それについて論は「序品」においては

復次菩薩有八法、能集一切功徳。一者大悲、二者堅心、三者智慧、四者方便、五者不放逸、六者勤精進、七者常摂念、八者善知識、是故初発心者疾行八法、如救頭然、然後当修諸余功徳。

と、その難行であることを示し、「阿惟越致相品」には不得我などの五法を説く。さらに「地相品」には初地不退を得るに菩薩は堪受等の七法を行ずることを説いていたのである。いま、このように説いてきた難行に対して、水道の乗船にたとえられる易行道を示し、それを信方便というのである。その信方便の易行道によって疾く不退転にいたるのが、難に対する易であるというのである。この場合、それがただ教理や思想でないことはいうまでもない。信方便というのは具体的な行道でなければならない。ところで、信方便の易行とは具体的に何をいうのであるかというに、十方十仏の易行を説いて、これを結んで偈に

若人疾欲至 不退転地者 応以恭敬心
執持名号

と説き、その説明にも「若し人、一心にその名号を称すれば、即ち阿褥多羅三貌三菩提を退せざることを得」とある。さらに阿弥陀仏等の易行についても

阿弥陀等の仏及び諸の大菩薩あり、名を称して一心に念ずれば、また不退転を得

と偈説し、さらに

 若し人、我を念じ名を称し、自ら帰せば即ち必定に入り、阿藩多羅三貌三菩提を得ん。

といっている。このように信方便易行とは、具体的には称念仏名である。

ところで、まずこの十方十仏の易行について

若し菩薩にして、この身において阿惟越致地にいたることを得て阿褥多羅三貌三菩提を成就せんと欲するならば、まさに、この十方の諸仏を念じて、その名号を称すべし。

といって『宝月童子所聞経阿惟越致品』に説くが如しとして、この経典を引用するのである。ここに長々と引用されるこの経典については、月輪賢隆博士に詳しい研究があるので、その詳細についてはふれない。ところで、この十方十仏の説明の中で、大切なものはといえば、それは東方無憂世界の善徳如来を讃嘆して

宝月よ。もし善男子、善女人、この仏名を聞いて、よく信受するものは、すなわち、阿据多羅三貌三菩提を退せず。余の九仏の事も皆またかくの如し。

といわれる点にあるであろう。そのために十仏の名号、国土の名が解説されているのである。

 この経典の引用については、現存施護訳と本論の本文と比較する場合、月輪博士の対照によっても明らかなように、施護訳は非常に簡略であるが、現存チベット訳は本論の引用と大略相応する。さらに偈讃が本論では長行の後に一括してあげられるが、チベット訳では十仏それぞれの長行の後、夫々偈讃が述べられている点に相異があるが、その趣意はほぼ同意である。因みに十仏十土をあげれば次の如し。

東方 善徳仏 無憂界
南方 栴檀徳仏 歓喜界
西方 無量明仏 善世界
北方 相徳仏 無動界
東南方 無憂仏 月明界
西南方 宝施仏 衆相界
西北方 華徳仏 聚音界
東北方 三乗行仏 安穏界
上方 広衆徳仏 衆月界
下方 明徳仏 広世界

さて、『宝月童子所聞経』による十方十仏を説きおわって、論は

「間うて曰く、ただこの十仏の名号を聞いて、執持して心におけば、すなわち阿褥多羅三貌三菩提を退せざるを得るのか、さらに余の仏、余の菩薩の名あって、阿惟越致に至ることをうるとなすや」

と問い、それに答えて

阿弥陀等の仏、及び諸の大菩薩あり、
名を称して一心に念ずれば、また不退転をう。

と偈説し、長行釈を加えるのである。すなわち、阿弥陀仏等の百七仏の名をあげて、その易行を示している。その名をあげた後、

是の諸の仏世尊、現に十方清浄世界に在す。皆、名を称して憶念すべし

と結んで、次に代表として出された阿弥陀仏について

阿弥陀仏の本願は是の如し。若し人われを念じて名を称し、自ら帰せば即ち必定に入り、阿褥多羅三貌三菩提を得んと

と説き、次いで、偈讃するのである。

 この阿弥陀仏に対して述べられる二十九偈の弥陀別讃が何によるものであるか明瞭ではないが、そこには今日の『無量寿経』の類に属する経典の本願文が予想される。次にしばらく、このような点を明らかにする為に偈について考えておこう。

三十二偈の中、二十九偈までは正しく讃嘆の偈であり、後の三偈は結讃である。まず、初めの二十九偈についてみるのに、浄土真宗本願寺派の学哲明教院僧鎔の『十住毘婆沙論易行品中阿弥陀偈讃法音鼓』には次のように分科している。

・畧して如来の光明の智慧を讃嘆する
 初、体相を示す 1
 二照用を示す 2
・広く行者の得益の相を明す
 初 仏力によることを明す
  ・至徳具足の益 3
  ・入正定聚の益 4
  ・即生無碍の益 5
 二藉土の徳を明す
  ・不更悪趣の益 6
  ・色相等勝の益 7
  ・六通具足の益
   ・天眼耳通 8
   ・神足他心宿命通 9
   ・漏尽通 10
  ・声聞無数の益 11
  ・性順行善の益 12
  ・第一無比の益 13
三 能念の益を明す
  ・現益  14
  ・当益
   ・十方同往益 15
   ・相好具足益 16
   ・遍遊広供益 17
  ・示信疑得失 18
・重ねて諸仏同讃に約して明す
 初 総挙  19
二 別して明す
  ・国土厳浄の徳 20
  ・身業円満の徳
   ・足 相 21
   ・毫 相 22
  ・因行奇妙の徳 23
  ・口業普度の徳
   ・破 業  24
   ・救 倒  25
  ・最尊第一の徳 26
  ・五乗斉帰の徳 27
  ・二利自在の徳 28.29

 いま、ここには、これらの一々の説明は後に述べるので、省略するが、このような弥陀讃が、『無量寿経』系の経典を予想せしめることはいうまでもなかろう。ここに称念仏名が信方便といわれるのもこの阿弥陀仏易行に中心をおいていることも、想像にかたくない。しかし、本論としては、この阿弥陀仏易行を詳しくしながらこれを百七仏易行の代表として説いていることはいうまでもない。

 次で、論は過去七仏、未来弥勒仏、十一仏、総じて三世の仏、諸大菩薩を憶念恭敬礼拝すべきことを説いて「易行品」をおわるのである。

 以上の「易行品」の説明をみる時、信方便易行といわれるものが、称念仏名ということであり、それが主として阿弥陀仏易行として説かれていることは明かである。といって。論全体の構成から考えて、本論はこの阿弥陀仏易行を説こうとして構成されているとはいえないので、前に述べたように、信方便易行を出した理由は、菩薩の死である堕二乗のおそれのない道を求めるものに対するものである。その点、この易行といわれる信方便には堕二乗の怖れはないが、堕悪趣の難は避けることができない。ただ堕悪趣の難はあっても菩薩道に戻り成仏への道はとざされてはいないのである。しかし、それでは漸々に道を求め、精進するものが、この称名憶念で必定に入り、不退転地にいるならば、そこでは自らの発心により発願せる願は、必成となるので、この「易行品」の叙述によって、願成就はその説明を終了してよいであろう。ところがなお次に「除業品」と「分別功徳品」がつけられるのは、どのような意味があるのであろうか。次に、この点に注意しなければならない。

{中略}

『十住毘婆沙論研究』P.213 武邑尚邦和上著より

第七章 十住毘婆沙論の伝承と受容

 さて、高祖は『本典』において名号大行義を説く「行巻」に『十住毘婆沙論』を引用される。すなわち、名号大行の義が成立する必然性を明らかにするために『大無量寿経』の第十七願文、重誓偈の抄出、第十七願成就文などを引証してこれを明らかにし、次いで私釈して、会異を行って

 爾者、称名能破衆生一切無明。能満衆生一切志願。称名則是最勝真妙正業。正業則是念仏。念仏則是南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏即是正念也。可知。

といい、称名・名号・信心の三者が名は異なるが、その体は全同であることを論決するのである。
次いで論釈をあげて、さらにこれを論決するのであり、その第一が『十住毘婆沙論』であり、それに四文が引用されるのである。しかも、それらは連引される。すなわち「入初地品」「地相品」「浄地品」「易行品」の四文である。次にしばらく、これらについてその意趣を明らかにしよう。

一、入初地の文ー『本典』引用の文。

有人言。般舟三昧及大悲名諸仏家、従此二法生諸如来。此中般舟三昧為父、又大悲為母。復次般舟三昧是父、無生法忍是母。如助菩提中説。般舟三昧父、大悲無生母、一切諸如来、従是二法生、家無過咎者、家清浄。故清浄者、六波羅蜜・四功徳処。方便・般若波羅蜜、善・慧。般舟三昧・大悲・諸忍、是諸法清浄無有過。故名家清浄。是菩薩以此諸法為家故、無有過咎、転於世間道入出世上道者。
世間道名即是凡夫所行道。転名休息。凡夫道者、不能究竟至涅槃、常往来生死、是名凡夫道。出世間者、因是道得出三界故、名出世間道。上者妙故、名為上。入者正行道故、名為入。以是心入初地、名歓喜地。
問曰。初地何故名為歓喜。答曰。如得於初果究竟至涅槃。菩薩得是地。心常多歓喜。自然得増長諸仏如来種。是故如此人、得名賢善者。如得初果者、如人得須陀洹道。善閉三悪道門。見法入法、得法住堅牢法不可傾動、究竟至涅槃。断見諦所断法故、心大歓喜。設使睡眠懶堕、不至二十九有、如以一毛為百分、以一分毛分取大海水、若二三渧苦已滅。如大海水余未滅者。如二三渧心大歓喜。
菩薩如是、得初地已名生如来家。一切天・竜・夜叉・乾闥婆{乃至}声聞・辟支等、所共供養恭敬。何以故是家無有過咎。故転世間道入出世間道。但楽敬仏、得四功徳処、得六波羅蜜果報。滋味不断諸仏種故、心大歓喜。是菩薩所有余苦、如二三水渧、雖百千億劫得阿耨多羅三藐三菩提、於無始生死苦如二三水渧。所可滅苦如大海水。是故此地名為歓喜。

 いま、ここにあげたのは『本典』の引用文であるが、既に前にあげた『十住毘婆沙論』の文と比較対照すると二、三の文章の異なりがあるのみで余りきわだった差異はない。すなわち、第一点は初めの「此中般舟三昧為父」という文の次に本論では「又」の字なく「大悲為母」と続いている。第二点は「是菩薩以此諸法為家故、無有過咎」の次に本論では「転於過咎」の句があって「転於世間道入出世上道」に続いている。次に「如以一毛為百分、以一分毛分取大海水、若二三渧苦已減。如大海水余未滅者、如二三渧心大歓喜」という引用は本論と異なっている。すなわち、本論では「苦已減」の次に「者」の字がある。そこで、ここの続みが全く異なることになる。『本典』の読み方は

「一毛を以って百分となして、一分の毛を以って大海の水を分かち取るが如きは、二三渧の苦すでに減せむがごとし。大海の水は余の未だ減せざる者の如し。二三渧の如き心大きに歓喜せん」

とある。

ところが、本論当面の読み方からすれば、これは

「一毛を以って百分と為して、一分の毛を以って大海の水、若しは二三渧を分けとるが如く、苦の已に減せる者は大海の水の如く、余の未だ減せざるものは二三渧の如く、心大いに歓喜す」

と読むべきであろう。

 いま、本論によれば、この文章と最後の「是菩薩所有余苦、如二三水渧、雖百千億劫得阿耨多羅三藐三菩提、於無始生死苦如二三水渧。所可滅苦如大海水。是故此地名為歓喜」と対応せしめて、減すべき無始生死の苦は大海の水の如くであるが、現報の人天の苦は未だ減していない苦として僅か二三の水渧くらいなものである。この点で大きなよろこびであるという意味で、既に減した苦は大海の水の如く、いまだ減せず残っている苦は二三渧にすぎないと、初地に入ったもののよろこびを示すものである。

 ところが、『本典』の訓点を追って読んだ場合には、已に減した苦が二三渧の水にたとえられ、未だ減していない苦が大海の水にたとえられていて、全く本論そのものと逆の理解を示している。すなわち、初果(預流果)を得て見惑を断じ、三悪道の門は閉すことができても、それは僅か水渧にして二三渧にも比すべきものであり、あとには思惑等の涯しのない惑苦が、あたかも大海の水の如く残っているのである。しかし、この二三渧の水に比せられる惑苦を減してさえ心に大きな歓喜があるのであるという意味である。そこで、『本典』は、次の文に続けて、初果でさえこのような喜びがあるのに、いま初地に入った菩薩は「如来の家」に生じたのであり、一切の天・龍・夜叉乃至声聞辟支仏にさえ供養恭敬せられるもので、出世間の道に入ったものであるから、この菩薩にはもう残っている苦は二三滴の水位のものであり、減すべき大海の水に比せられる惑苦は已に殆んど減し去り、無始生死の苦の中、もうニ三渧の水位であるから、大いに歓喜の心の生ずるのは当然のことであるという意味に解釈しているのである。

 ところで、このように本文についての解釈の相異を生ずるような文章の改変(ここでは者の字一字を省いただけであるが)が、どうして行われたのであろうか。この点について高祖の意は二三の水渧のたとえで聖道門の人々の減した苦を示し、真の減苦は浄土門においてのみ可能であることを示そうとされる意図があったからであろうと考えられる。

 さて、それではこの「入初地品」を名号大行義を明かす「行巻」の中で論釈の初めに何故に引用するのであろうか、その引意を初めに尋ねてみよう。

 かつて『六要鈔』は、ここに引かれている『十住毘婆沙論』は名号の徳を示すものではなく、ただ菩薩が初地に入っての徳益を示すものである。それに、いま名号大行の義を明す「行巻」にどうして、この文を引くのかといって、それは、後の仏法に無量の門ありと説いて難易二道を説く文を出してくるために、いま「入初地」の文を出して前後の関連を明らかにしたのであり、さらに、その難易の二道は共に不退位即ち初地に入る道であるから、その初地に入る徳益をさきに述べたのであると説明している。

 このように『十住毘婆沙論』をここで引用した理由が考えられているが、直前に述べられるように、称名が衆生の一切の無明を破し、一切の衆生の悟りへの願いを満すものであることを明し、その点で称名は仏道成就の最勝真妙の正業であると説いてきたので、その仏道成就への最勝の正業が称名であることを論断するために、この論を引用するのである。その点からいえば、初地の不退位に入る道を示した難易二道を説く本論をまず引証することは重要な意味をもつ。そこで、いま初めに「入初地」の文を引いて「如来家」に生ずることを明らかにしようとしているのである。

 さて、この如来家に生ずというのは初地において菩薩が大菩提心を発して、自利利他の願をもって衆生を解脱せしめんとの心を発す時、菩薩は即時に凡夫地をすぎて菩薩の位に入って「仏家に生じ」一切の世間道をすぎて出世間道に入ると説いた『十地経』の主張をうけて『十住毘婆沙論』が十力をうるがための故に、必定聚に入り、則ち如来の家に生じて、諸の過咎あることなし。即ち世道を転じて、出世の上道に入らん。是をもって初地を得、この地を歓喜と名ずく。

といったものであり、いま、この「生如来家」が高祖によってまず問題とされるのである。ところで『十住毘婆沙論』はまず「生如来家」について、如来道を行じて相続不断であるという点と、必ず如来となるが故にという点とから、これを説明し、ことに必ず如来となるということについて、転輪聖王の家に生じて、転輪聖王の相を具していれば、必ず転輪聖王になるようなものであるといっている。すなわち、必定の意味である。そこで、それでは如来家とは何かと、これに対して五義を説く。一、四功徳処(諦・捨・滅・慧)。二、般若・方便。三、善法・智慧。四、般舟三昧・大悲。五、般舟三昧・無生法忍などの五である。これらの出拠は前に既に示したところであるが、この中、前の三についての『十住毘婆沙論』の説明は高祖によって引用されない。おそらく、この前三は難行道に約するものとみられたのであろうか。というのは、初めに称名を出し、称名こそ正業、その体は南無阿弥陀仏の名号、それがまた正念であり、信心であると示されたものについて言われるのが、この論の引文であるから、初めの三義については触れず、後の二義をここに用いられたと考えられるのである。すなわち、後の二義中般舟三昧は諸仏現前三昧であり、念仏三昧であるからであり、ここでは万行の中で念仏を須要なものとして示す必要があるからである。

 ところで、般舟三昧、すなわち諸仏現前三昧が見仏三昧であることから、成仏の契機としての見仏供養がここに見込まれる。したがって、その般舟三昧には成仏せんとの願心が根底にある。とすれば、それと一対である大悲は度衆生心である。このような般舟三昧と大悲とに如来の家をみようとするのが論であるから、般舟三昧の父と大悲の母との二法の中から如来が生れ育くまれるのである。また、般舟三昧を父として無生法忍を母とすというのは、無生法忍とは見仏三昧によって得る得益である。それは『大無量寿経』の第三四願聞名得忍願の中に示され、『観無量寿経』の章提得忍が光台見土での見仏によるとされることによっても明らかである。したがって、この般舟三昧と無生法忍との二法によって如来が生れ、育てられることも明らかである。そこで論は、これら二法より如来が生ずるから、これらの二法を如来の家というと説くのである。この家はしたがって、何らの過咎も存しない。というのは、それは前にあげた四功徳処、方便、般若、善法、智慧、般舟三昧、大悲、無生法忍が清浄で過咎がないからである。

 このように如来清浄の家によって、常に生死に往来して絶えることのない凡夫道を転じて、上妙なる出世間道に転入するのである。ここでは、上の如来家の五義を総じて示して転入を示しているが、高祖引用の趣旨は、後の二義を引くのであるから、易行道によっての転入を示そうとされているとみるべきであろう。しかも、その転入こそ必成仏果の約束された必定の位なのである。また、祖意を伺えば、この般舟三昧は念仏三昧の異名とみられるものであるから、それは念仏による入必定を示すものとみられるのである。このような入必定が初地であり、それが歓喜地とよばれることは、歓喜こそ入必定不退位、正定聚の特徴というべきである。

 そこで、次にこのような必定不退が歓喜であることの理由を述べるために「地相品」が引用される。
この点については、既に前に説いたので再説は省略するが、高祖の引用は高祖の祖意によって本論をみられたものであるといわねばならないであろう。初地の菩薩は既に無始生死の涯しない苦を克服して、現生余報のみが残っているので、初果の聖者の一分の苦の克服でも歓喜を得るに比べて大いに歓喜の心があるのは当然であるというのである。しかも、そこには無始以来の生死の苦は、称名によって破闇満願され、現生に必定位にいるものの歓喜は、いうまでもないことであると示そうとの意趣がうかがわれるのである。

二、地相品の文-『本典』引用の文

次に、『本典』には「地相品」の文が、直ちに連引される。それは、直前の歓喜の意味を明らかにするためであり、その歓喜が念仏の利益であることを明かさんがためとうかがわれるのである。

問曰。初歓喜地菩薩、在此地中名多歓喜。為得諸功徳故歓喜為地、法応歓喜、以何而歓喜。
答曰。常念於諸仏及諸仏大法、必定希有行。是故多歓喜。如是等歓喜因縁故、菩薩在初地中心多歓喜。念諸仏者、念然灯等過去諸仏、阿弥陀等現在諸仏、弥勒等将来諸仏。常念如是諸仏世尊、如現在前。三界第一無能勝者。是故多歓喜。念諸仏大法者、略説諸仏四十不共法。一自在飛行随意、二自在変化無辺、三自在所聞無碍、四自在以無量種門知一切衆生心。{乃至}
念必定諸菩薩者、若菩薩得阿耨多羅三藐三菩提記、入法位得無生忍、千万億数魔之軍衆不能壊乱、得大悲心成大人法{乃至}
是名念必定菩薩。念希有行者、念必定菩薩第一希有行、令心歓喜。一切凡夫所不能及、一切声聞・辟支仏所不能行。開示仏法無閡解脱、及薩婆若智。又念十地諸所行法、名為心多歓喜。是故菩薩得入初地、名為歓喜。
問曰。有凡夫人未発無上道心、或有発心者、未得歓喜地。是人念諸仏及諸仏大法、念必定菩薩及希有行、亦得歓喜。得初地菩薩歓喜与此人、有何差別。
答曰。菩薩得初地。其心多歓喜。諸仏無量徳。我亦定当得。得初地必定菩薩念諸仏有無量功徳。我当必得如是之事、何以故、我已得此初地入必定中。余者無有是心。是故初地菩薩、多生歓喜。余者不爾、何以故、余者雖念諸仏不能作是念、我必当作仏。譬如転輪聖子、生転輪王家、成就転輪王相、念過去転輪王功徳尊貴作是念。我今亦有是相、亦当得是豪富尊貴。心大歓喜。若無転輪王相者、無如是喜。必定菩薩、若念諸仏及諸仏大功徳威儀尊貴、我有是相必当作、仏即大歓喜。余者無有是事。定心者、深入仏法心不可動。

既に前に述べたように「地相品」は世親が「釈名」と科し、その中を「多喜」「当得」「現得」「初地障」と分けて経文を解釈した部分にあたるものである。ところが、「多喜」と科せられたものを『十住毘婆沙論』は歓喜の七事として説明している。次に、ここに引用された問答の解説が続くのであるが、それは初めに経が述べた歓喜多しというについて、何故多歓喜であるのかを説明する形をとっている。しかし、ここの偈頌である。

常念於諸仏 及諸仏大法 必定希有行
是故多歓喜

をみると、それは、第二の「当得」の部分の要略偈のようにもみえるのであり、この問答も経自身の説明を根拠としているといってよい。

 さて、初地が歓喜地であり、歓喜を地とすることはいうまでもないが、なぜ多歓喜であるのか、それについて、それが「常念諸仏」「常念諸仏大法」「常念必定菩薩」「常念希有行」の四種によることを説くのである。これらは『十地経』で

歓喜菩薩地に住する菩薩は、諸仏世尊を念ずる時歓喜す。又諸の仏法、、諸の菩薩、諸の菩薩行……(を念ずる時)益々歓喜を具うるなり

といわれるものをうけていることは明らかである。

 いま、本文のうえで第一に乃至といわれたところは、論では「如是等法後当広説」であり、引用文の「無生忍」は論では「無生法忍」である。次に第二番目の「乃至」は「不惜身命爲得菩提勤行精進」の略である。その他本文の異同はない。しかし読み方のうえではここでも一つの問題がある。

 さて、前の「入初地品」の引用において、必定不退転に入り、ただ現生の余報のみが残っているものの歓喜の大なることを述べた後を直ちにうけて、その歓喜の多なる理由を説くものとして「地相品」の文を連引されるのである。このような論の引用の仕方の中に、高祖の論の読み方の特徴をみることができるであろう。しかも、その歓喜のよって起る根本が、まず「常念諸仏」といわれ、それを論が過去仏現在仏未来仏を念ずることであるとし、特に現在仏の代表として阿弥陀仏が示されていることに高祖は深い関心を示されたのである。しかも「常に是の如き諸仏世尊を念ずること現に前に在すが如し、三界第一にして能く勝れたる者、いまさず。是故に歓喜多し」は、前の般舟三昧との関連においてうけとられるものであることは当然である。

 次は「念諸仏大法」で、これは仏の四十不共法を念ずることである。次の「必定の諸菩薩を念ずる」とは、普通には「必定の諸菩薩を念ずること」と読むべきであり、その説明の文章は「もしは菩薩阿耨多羅三藐三菩提の記を得て法位に入り、無生法忍を得ば、千万億数の魔の軍衆も壊乱すること能わず。大悲心を得て大人の法を成じ、身命を惜まず、菩提を得んが為に勤めて精進を行ず。是を必定の菩薩を念ずと名づく」と読むべきである。ところが、乃至で「如是等法後当広説」を略した後の本文の読み方は、全く独特の読み方がなされている。そのことが、次の「乃至」で「不惜身命為得菩提勤行精進」を略して「是名念必定菩薩」と結ぶことになったのであろう。ここに高祖の独自の見解が示される。

まず、引用文の読み方に注意してみよう。

「念必定の諸の菩薩は、若し菩薩、阿耨多羅三藐三菩提の記を得つれば、法位に入り無生忍を得るなり。千万億数の魔の軍衆、壊乱すること能はず、大悲心を得て、大人法を成ず。乃至是を念必定菩薩と名づく。」

この読み方によれば「念必定諸菩薩者」を「念諸仏」「念諸仏大法」と同じように「念必定」として偈を読み、「念希有行」と全部で多歓喜の四種の生起の因縁とするものの一つとするのではなく、偈の必定を.「必定の菩薩」のこととし、さらに念を必定の菩薩を念ずることとするのでなく「念必定諸菩薩」とみているのである。したがって、この「念必定諸菩薩」は「必定を念ずる諸菩薩」ということであり、「必ず成仏することを念じている諸菩薩」ということである。この必定を念ずる諸菩薩が、次に若し以下で、「もし正覚を成ずるという記莂を得るならば」「法位に入って無生法に忍許決定することになる」「このような菩薩に対しては干万億数の魔の軍勢もこれをやぶり乱すことはできない」「この菩薩は大悲心をえて大人の法(仏果)を成就するのであり、このような菩薩を、「念必定の菩薩」と名ずけるのである」という意味である。

 さらに、このように、ここの文章を解釈する場合、次の「念希有行」は、このような必定菩薩は第一の希有行を念ずるのであり、そこに心に歓喜を生じ、これは凡夫や二乗ではできないことであり、念必定の菩薩のみに可能である。というのは、この「念必定菩薩」とは、既に正覚を成ずるという記莂をうけた菩薩であるからである。

 さて、以上のように、論の引用を読む高祖の読み方は、この念必定菩薩とは、仏によって既に成仏間違いなしと保証された必定不退転の菩薩、すなわち阿弥陀仏の本願に救うと誓われ、それが成就した『大無量寿経』に説かれる阿弥陀仏によって救われる機であり、『観無量寿経』下々品の機であるとの理解であり、希有の行とは、念仏行であり、『本典』出体釈の「称無碍光如来名」であり、引用直前の「称名」であるといえるであろう。このような高祖の読み方が、ここにこの文を引用せられた理由であると考えられるのである。

 次ぎに、さらに問答が重ねられる。それは凡夫の身で、まだ発心していないもの、発心してもこの初歓喜地を得ないものがある。しかし、このような人も諸仏と諸仏の大法を念じ、必定の菩薩および希有の行を念じても、また歓喜をうるであろう。このような場合、このような人々の歓喜と初地を得た人の歓喜とは、どのような違いがあるのであろうかと間う。これに対して、初地を得た必定の菩薩が諸仏を念じたなら、諸仏のはかりない功徳を自分も得るにちがいと思う。というのは、自分は已に初地を得て必ず成仏するに違いないと定まった菩薩の仲間に入っているからである。しかし、ほかの者には、このような心はない。だから初地の菩薩には多くの歓喜が生ずるのである。ほかのものは必ず成仏するにちがいないという心がないから、歓喜が多くないという。次に転輪王の子が、転輪王の家に生れ、その王となる相を備えているから、過去の王の功徳を念じ、自らにも相があるから、やがて自分も功徳を得ると歓喜を生ずるようなものである。しかし、その相がないなら、そのような歓喜はおこらないと同様である。いま必定の菩薩は、これと同様の思いがあるから歓喜が多いのであるという。そして次に「定心者深入仏法心不可動」とあるが、この文章を「定心の者は深く仏法に入りて心動ずべからず」と一般に読んでいるが、高祖は「定心とは深く仏法に入りて心動ずべからず」と読まれ「定心とは、深く仏法を体得して、何ものにも動じない堅固な信心のことである」という意味に読まれている。ここにも、また独自の立場があらわれている。

 さて、以上が「地相品」からの引用であるが、ここには一貫して必定の菩薩の徳が述べられ、「念必定の菩薩」の徳としてこれが示されているのである。

 次に『本典』には「十住毘婆沙論巻二」として「浄地品」の文が引用される。これは、前の二品の文章が直ちに連引されるのとは異って、別に、次の「易行品」の引用と同じように、独立して引用される。しかし、これらの引用文が最初の名号大行義を論決するものとして引用されることには変りはない。

 さて、それでは「浄治品」の文章として、それは如何なる意味のものが引用されるかというに、『十地経』の世親の分科の「安住地分」全体の偈頌をあげた後で、論が偈頌の

信力転増上 深行大慈心 慈愍衆生類

の三句を解説するところが引用されるのである。
三浄治品の文ー『本典』引用の文

又云。「信力増上者、何名有所聞見必受無疑増上、名殊勝。問曰。有二種増上、一者多、二者勝。
今説何者。答曰。此中二事倶説。菩薩入初地、得諸功徳味故、信力転増。以是信力、籌量諸仏功徳無量深妙能信受。是故此心亦多、亦勝。深行大悲者、愍念衆生徹入骨体故、名為深。為一切衆生求仏道故名為大。慈心者常求利事安穏衆生。慈有三種」{乃至}

上の『本典』引用の文の中、「信力増上者何」の「何」は現存本では「信」となっているし、また「骨躰」は「骨髄」となっている。これら両者に関しては初めは「信」の方が本文としては適当であり、後者は「骨髄」の方がよいと思われる。もちろん、どちらにしても意味は変らないだろう。ところが、ここでも読み方が問題になる。すなわち、普通にこれを読めば

「信力増上というのは、信は聞見するところありて、必ず受けて疑なし。増上とは殊勝に名ずく。」

と、まず読むべきであろう。いわば偈の中にある「信力転増上」を説明するのに、信とは聞見するところに必ず受けて無疑なることをいうのであり、増上というのは殊勝という言葉と同じ意味であると解釈するのである。ところが、この同じ文章を高祖の訓点によってみれば

「信力増上とはいかん。聞見するところありて、必ず受けて疑なければ増上と名く。殊勝と名ずくと」

と読んである。とすれば、ここでは信増上について、それを説明して、信力が増上するというのは、聞見させられた法を受け入れて疑いないことであり、これを殊勝というのであるという意味である。論当面では信は無疑、増上が殊勝と説明されているのであるが、引用としてみると、そこには解釈の相違がある。

 次に、問答がなされる。それは増上という言葉に多と勝との二種の意味があるが、いまはどちらをとるのかという問いである。これに対しては二義ともにとるのであると答える。ここでは論も引用も同じであり、菩薩が初地に入るなら、多くの功徳の法味を得るから信力がいよいよ増す。それは多の意味である。また、この信力で諸仏の功徳の無量深妙なることを思いはかって、よくこれを信受する、これが勝の意味である。そこで、いま信力増上というのは、多の意味も勝の意味もともにあるというのである。

 次に「深行大悲心」について、衆生を愍む念いが骨髄に到徹するから「深く」といわれ、一切衆生を救うために仏道を求めるから「大」といわれるのであると説明され、衆生憐愍の念が深く、一切衆生にその救いの願いが及ぶような大慈心を行ずるというのである。次に「慈愍衆生類」の慈だけをとり出して、それは衆生の利益を念じ、安穏ならしめる念いであるという。これは大悲の悲と相応せしめて、抜苦与楽という利他の成就を示すためであろう。

 ところで、いま、ここにこの「浄地品」の信力と大慈悲行に関する文章だけを抜き出して引用される高祖の心はどこにあるのであろうか。前来、「入初地」「地相」の両品の引用において、仏に授記された必定の菩薩、とくに念必定菩薩の徳が、歓喜という点から明らかにされた。すなわち、その歓喜こそ信心獲得の正定聚不退転の行者の喜びに他ならないとの意図が示されたのである。「地相品」の引用の最後の「定心者。深入仏法。心不可動。」を定心とは深く仏法を体得して、何ものにも動じない堅固な信心であるとの意味でうけとられた高祖の心には、名号を頂いたものの信心の堅固さを説かれ示されたものとして、この論文をうけとられたであろう。とすれば、その歓喜こそ信心のよろこびにほかならない。その堅固なる信心の源は如来の本願力廻向の名号にあるとの意味である。

 いま、この堅固な信心をうけて、それは信力転増と深行大悲として、一切衆生の利益へと働いてゆくのであると「浄地品」の信力増上と深行大悲の文が引かれたと考えられるのである。

 以上、「入初地品」「地相品」「浄地品」の三品から念必定菩薩の徳を明らかにし、念仏の行者の姿を述べてきた。次にいよいよ「易行品」の文章が引用され、易行の法が明らかにされる。

 「易行品」の梗概については、既に前に述べたが、ここで高祖の引用を中心として「易行品」全体の構想を明らかにし、その中での高祖の引用の意味を明らかにしようと思う。

 「易行品」が本論において開説されるのは、前に已に述べたように「序品」に示される帰敬造論の願いにあるというべきである。というのは、論は十地の義を説く因縁について、まず地獄、畜生、餓鬼、人、天、阿修羅の生死海の苦悩をあげ、「無始よりこのかた、常にその中にあって、生死の大海を往来し、未だかつて彼岸に到達できない衆生を度脱せしめんために」この十地義が説かれることを示している。次に「生死海の度脱」について、それは二乗の道においても得られるであろうに、なぜ、このような十地を説くのかといい、二乗は成程自らの苦の度脱を行いうるかもしれないが、それは真実の苦の解脱にならないことを説く。すなわち、真実の苦の解脱とは一切の衆生と共に得るものでなければならないから、自利のみに留まる二乗の解脱は真の解脱にならないというのである。そこで、生死海を往来する一切の人々を救い、その人々の救われてゆく道において自らも共に救われるのであるといって共利の解脱を求める如実の菩薩の行道を提示してきたのである。
このような立場に立って、種々の難をもち二乗の解脱におちいってゆくような自力による解脱道を斥けて、仏により保証され必ず成仏するに間違いのない解脱道が求められたのである。もちろん、難はあっても堅固な精進によって不退転を得る道は尊いものである。しかし、真の菩薩道は苦悩の衆生の一切が共に救われ成仏する道でなければならない。このような道として提示されるものが易行道なのである。

 そこで易行道を説くにあたって、まず、解脱道における難をあげて、易を請うのである。すなわち

「阿惟越致地に至る者は、諸の難行を行じ、久しくして乃ち得べきも、或は声聞、辟支仏に堕せん。もし爾らば、これ大衰患なり」

といい、

「この故に、もし諸仏の所説にして、易行道にして、疾く阿惟越致地に至ることをうる方便あらば、願くば為にこれを説きたまえ」

と説く。古来、難行道に諸久堕の難ありといわれるのは、これである。行諸難行、久乃可得、或堕声聞辟支仏地である。この文は、「諸の難行を行じ、久しくして乃ち得べく、或は声聞辟支仏地に堕す」と読めるから、その点で諸、久、堕とみられるが、「難行を行じて久しくして、その果を得ることができるが、あるものは声聞辟支仏に堕してゆくことがある。それでは大衰患である。」という意味にみれば、難行道では必ず成仏するという保証がない。しかし菩薩道とは最終的に成仏するという保証のある道でなければならないはずである。そこで、諸仏の所説に二乗に堕するおそれのない、しかも速疾に不退転に至る道があるならば開説してほしいという意味にこの文章は理解できる。

 ところで、この要請に対して、これは丈夫志幹の語ではないと呵するのである。この呵責の意味について

「本論は元来『華厳経』「十地品」の註釈であるから、その立場で問者を呵責したのである。しかし、このような聖道門では傍機である問者の如きものが、実は浄土の正機であることを示すために、態々呵したのである」と説明し、また「これは難行道における非器が易行道における正機であることを示すもので、機が劣であることによって、法はいよいよ勝れたものであることを示そうとして、呵したのである」などと先哲は説明している。

 もちろん、この箇処については高祖自身の引用がないので、その意図は確かめようがないが、先哲が、「この一品、専ら恭敬心を勧むるをもって主意とす。僑慢を破るゆえんなり」と、この呵責について、それを謙敬聞奉行ならしめんとの意図にいずるものと解釈するのも一理あり、易行にあって易行に堕し、真の易行道を間違いなく勧めるために、あえて呵せられたとみることができるであろう。

このような点に立って、「汝、もし必ずこの方便を聞かんと欲せば、今まさに之を説くべし」との許説の主旨を思うべきであろう。
かくて、次に、総じてまず難易の二道があって不退転地に至ることがあると、難易二道を陸路の歩行と水道の乗船の譬喩によって、これを判釈する。

仏法有無量門、如世間道有難有易。陸道歩行則苦、水道乗船則楽、菩薩道亦如是、或有懃行精進、或有以信方便易行疾至阿惟越致者。(『本典』引用)

と。いま、一往この文を解釈すれば次のようにいえるであろう。仏所説の法は、いわゆる対機説法であるから、それは八万四千とよびならわされる程、無量といってよい。しかし、その無量の法も、それによって人々が成仏への道としてうけとるならば、二つにまとめることができるであろう。たとえば、世の中でいう道についてみても、同じところへゆく場合にも陸路を歩いてゆく方法と水路で船に乗ってゆく方法があり、陸路を歩いてゆくのは苦しいし、水路を船でゆくのは楽しい。菩薩が不退に到るにも二種の法がある。一つは三祗百大劫に六波羅蜜を修して成仏する方法、二つには信方便によって不退転に到る方法であると。

 さてこのように説いて、次に論は十方十仏をあげて、これを偈説する。即ち東方善徳仏、南方栴檀徳仏など既に前にあげた通りであるが、これら十方十仏をあげた後に
.
如是諸世尊 今現在十方 若人疾欲至
不退転地者 応以恭敬心 執持称名号

と結んでいる。次いで

若菩薩 欲於此身得至阿惟越致地 成阿耨多羅三藐三菩提者 応当念是十方諸仏 称(其)名号 如宝月童子所問経 阿惟越致品中説。

といって『宝月童子所間経』を引用するのである。

この文章からすれば、「信方便を以って易行にして疾く阿惟越致地に至るものあり」とは「応以恭敬心 執持称名号」であり「応当念是 十方諸仏 称其名号」であることは明らかである。

 そこで、高祖は『本典』に「仏法有無量門」より「有以信方便易行疾至阿惟越致者」までを引用し、次の偈頌を乃至と省略して、十方十仏の名をあげないで、偈の「若人疾欲至」から「阿惟越致品中説」までを、まず引用されるのである。

 いま、このように「執持称名号」「称其名号」が易行であり、それが信方便であるといわれるものであるとする立場から、これについて種々の解釈が行われるのである。しばらく祖意を伺いながら本文の解釈を尋ねよう。

 まず、この「仏法有無量門」等とは、論当面からいえば、仏教一般についていわれたものであり、それは諸仏の所説に無量の門があるということである。しかし、これを後の弥陀易行から考えれば狭く解釈して、阿弥陀仏の法にも種々の門があると考えることができる。すなわち要門真門などである。
そこで、次に易行道として出される信方便も広く一般の仏法中における易行としてみれば、信方便によるの易行とみることができるであろう。その場合、次に出る執持名号、称其名からみれば、称名をさして易行というと解釈すべきであり、それはどの仏にも通ずることであり、仏の名を執持し、称えることが易行である。ところが、これに弥陀法にのみ限って考えれば、それは二様に解釈することができるであろう。すなわち、一つには他の諸仏の称名と共通して、弥陀の名号を称えることである。

第二には信即方便と解釈し、その信方便即易行という立場で、それは信心をいうとみるのである。ところで、このように弥陀法の中で難易をみる時、十方三世の諸仏は、もとこれ弥陀界中より出たものであり、そこに無暈の法門があっても、それは衆生調機誘引のためである。このような意味で『大無量寿経』には「光閲道教」といわれているのであり、これらは遂に「真実之利」である易行道に帰するものであるとみて、難易二道とみることができるであろう。

 ところで、それでは難易二道というが、その難易とは何についていうのか。この点については、既に前に述べたように、「易行品」の冒頭の偈頌の主旨からすれば、堕二乗にならない道、畢寛じて成仏の道路でありうるもの、それが易行道であり、堕二乗の可能性のある道を難のある行道とみることができるであろう。その点からすれば陸路の歩行は挫折するおそれがあり、水道の乗船は自らの力でないからそのおそれがないという意味での譬喩と受けとることができるであろう。したがって陸路の歩行が苦であり、苦難の道であることを難行道、水道の乗船は喜びと楽しい道として易行道とみることができるであろう。しかし、難あり易ありを直ちに難行・易行と行そのものの難易とみる見方も成立するであろう。それが聖道門、浄土門という立場と結びつく立場であるとも思われる。東陽円月師の『略解』には

難易の判の如きは行について簡択するが故に、聖浄二門の別を論ぜずして、行の難と易とを分別すのみ、故に易行の中また聖道の法あり。聖浄の判の如きは、土について分別す。故に行の難易を問わず、此土入聖の法に対して、以て彼土得証の法を明す。故に浄土門の中、また難修の法あり。しかりといえども、これを論ずれば、易行の至極は弥陀に在り、浄土の実義また弘願に帰す。故に二祖の判釈、終に一致となる。故に吉水は難行易行聖道浄土その言は異なりといえども、その意は是れ同という。

といって、難易二道は直ちに聖浄二門に配当はできないが、至極のこころで論じて、言異意一ということができるといっている。

 論の本意が難易を行そのものについていうのかどうかは決定できないが、難の行道として堕二乗、菩薩の死を招きかねない難かしい行道が難行道、易行道は易往即易行という立場で易往の道、必成の道と理解することも可能である。このような立場は難行道が自力、易行道が他力であることと結びつくものであろう。高祖が『愚禿紗』上に「易行道浄土の要門」といい『観経』所説の要門を易行道といわれるのは易行即易往で彼土得証の道という意味でいわれるものであろう。単に行の易についていわれたものではない。

 ところで、高祖は論が説く十方十仏の易行の文を引用せず、それを省略して十方十仏易行の最後の偈頌から「称其名号」までを引用される。これは易行道の易行が称名であることを示そうとされたものであり、それによって、疾く不退転地に入り、正覚を成ずることができるのである。

 さて、高祖の引用ではこれ以後の『宝月童子所問経』の引用は乃至という語で省略しているが、東方善徳仏の世界の模様が依報と正報について述べられ、そこで「宝月よ。もし善男子、善女人、是の仏名を聞いて能く信受するものは、即ち阿耨多羅三藐三菩提を退せず」と説き、「仏名を聞いて信受すること」を勧めるのである。このような点で、他の九方九仏について、その仏の名号と国土の名号とを解説するのである。最後に「もし人、一心にその名号を称すれば、即ち阿耨多羅三藐三菩提を退せざることを得」と説く。

 次いで、これを頌として重ねて説いている。ところが、その中で高祖は、西方世界についての一偈を引用する。

西方に善世界の仏を無量明と号す。身光智慧明らかにして、照すところ辺際なし。それ名を聞くことあるものは、即ち不退転を得。

と。すなわち、十方十仏の中から西方無量明仏のみを取り出したのであるが、それは十方十仏の中の西方を選び、後の阿弥陀仏の易行との結合点として示すのである。このようにして、高祖は易行を弥陀易行という面で明らかにしようとされているのである。

 次に『本典』は、この西方無量明仏を讃した偈の次に過去仏に言及して

「過去無数劫に仏います。海徳と号す。この諸の現在の仏、みな彼にしたがって願を発せり。寿命量あることなし。光明照しては極りなし。国土甚だ清浄なり、名を聞いて定んで仏と作らんと。」という偈を引用する。

 このように西方無量明仏について述べ、その仏が過去仏である海徳仏について発心発願せりというのであるから、この二仏の関係、これらの二仏と阿弥陀仏との同異について、いろいろと議論がなされている。これらの議論は『口伝紗』の「真宗所立の報身如来、諸宗通途の三身を開出する事」という項下に出される主張を中心にして、種々議論されるもので、そこには善導の「法事讃」「般舟讃」さらに現存唐訳『大乗入榜伽経』巻六「偈頌品」中の「十方諸刹土 衆生菩薩中 所有法報仏 化身及変化 皆従無量寿 極楽界中出」(大・一六・六二七b)などによって論じているのである。
たとえば無量明も海徳も共に弥陀の迹中の異化であるとする説、両者共に弥陀のあとつぎであるとする説、弥陀の化身とする説、また海徳仏を態々「行巻」に引用されたのは、海徳をもって久遠実成の弥陀とみられたことを示すとする説、無量明はその垂末であるとする説、十仏海徳は共に弥陀を本体とする化用であるとする説などである。一体、これらの説の中、どれが妥当な考えであるのかというに、仲々定めがたい。勿論、論当面では海徳仏は十仏がその下で願を起したというのであるから、十仏の師であることはいうまでもないであろう。とすれば、無量明は海徳仏の資であることはいうまでもない。
ただ、西方の無量明に関する文を引用、次いで海徳仏の文を引用、その前に称其名号が不退の因行であることを説くという高祖の一連の引用は、執持名号、称其名号が不退転を得るための行として、それが易行であるとし、西方無量明・海徳仏、さらに再び、「十仏の名号を聞いて執持して心におけば、無上正覚を退せざることを得る」と説き、次に百七仏を阿弥陀仏によって代表せしめる百七仏易行を説き、別して阿弥陀仏の本願を示して弥陀易行を説くという筆勢からすれば、海徳仏は久遠の弥陀そのものではなく、海徳仏を含めて一切はみな弥陀の化用としてみるべきであろうか。

さて、論は十方十仏易行を重説偈にて示した後、問いを出して、さらに余の仏、菩薩の易行があるかを問う。これに対して百七仏の易行を出す。しかも、そこでは阿弥陀仏等、諸大菩薩の易行として「称名一心念、亦得不退転」と示している。ここに行を先にし心を後にしているのは諸仏の易行に共じてあげたので、阿弥陀仏易行を別して説くところでは念我称名といっている。注意すべきであろう。
ところで、以上偈説の後、長行釈で百七仏易行を示す。

更有阿弥陀等諸仏 亦応恭敬礼拝称其名号。今当具説。無量寿仏・世自在王仏・師子意仏……宝相仏、是諸仏世尊、現在十方清浄世界。皆称名憶念。阿弥陀仏本願如是。若人念我称名自帰、即入必、定得阿耨多羅三藐三菩提。是故常応憶念。以偈称讃。

と説き、以下の偈説に及ぶ。これを普通に読めば、返点の如く、

「更に阿弥陀等の諸仏有り、亦、応に恭敬し、礼拝して、その名号を称すぺし。今、当に具に説くべし。無量寿仏・世自在王仏・師子意仏……乃至……宝相仏、是の諸仏世尊、現に十方の清浄世界にいます。皆、名を称して憶念すべし。阿弥陀仏の本願も是の如し。もし人、我れを念じて名を称し、自ら帰せば即ち必定に入り、阿耨多羅三貌三菩提を得んと。この故に常に応に憶念すべし、偈を以つて称讃す」

と読むべきであろう。すなわち、百七仏の代表として阿弥陀仏を出し、恭敬礼拝、称其名号によって不退転に入る。このことは世自在王仏などについても同じであるというのである。ところで、ここにある無量寿仏と、百七仏の代表としての阿弥陀仏とは同か異かで議論があるが、百七仏といったこと自身で、即ち同の立場を取っているわけであり、同とみておくべきであろう。次で、阿弥陀仏のみの易行を説く。それが、「阿弥陀仏本願」以下の文である。ところで、百七仏といった時、無量寿仏以下百七仏となり、これらは同格で取りあつかわれる。ところが『本典』の訓点によると、偈頌の次に

「如是阿弥陀等諸仏、亦応恭敬礼拝称其名号。今当具説無量寿仏世自在王仏。{乃至}有其余仏」

とある文章を、次のように読む、

まず、初めの「如是」は現存本の「更有」である。これは異本にあるものであるが、如是であるから、これを前の偈につけて「亦た不退転を得ること是の如し」と読んでいる。これは前の文を偈としてみないようにも思われるが、とに角、前につけて読み、次を

「阿弥陀等の諸仏、亦まさに恭敬礼拝し、その名号を称すべし。今、まさに具に無量寿仏を説くべし。世自在王仏……」

と読んでいる。したがつて、ここでは無量寿仏は所讃の仏、世自在王仏などは、無量寿仏を能讃する仏として考えられ

「是の諸仏世尊現在十方の清浄世界に、みな名を称し、阿弥陀仏の本願を憶念すること是の如し。若し人、我を念じ名を称して、自ら帰すれば、即ち必定に入りて、阿耨多羅三貌三菩提を得。云云」

と読むのである。したがって、この百七仏の易行は、高祖にとっては百七仏の易行でなく、凡ては弥陀易行であるとうけとられているわけである。この転読は注意すべきである。この点を意訳『教行信証』は明瞭に次の如く意訳している。

『答えていう。
阿弥陀仏などのほとけおよび多くの大菩薩たちのみ名を称えて一心に念ずればまた不退転の位を得ることがこの通りである。阿弥陀仏などの仏たちも、またよろしく恭敬し礼拝して、その名号を称えるがよい。
今、くわしく無量寿仏の易行について説こう。世自在王仏をはじめ、そのほかの仏たちもましますが、これらの諸仏は、現に十方の清浄の世界にあってみな、阿弥陀仏の名号を称し、その本願を念じたもうことが、その通りである。
すなわち「阿弥陀仏の本願には<もし人あって、われを信じ名を称えておのずから帰依するならば、ただちに必定の位に入って、ついに無上の仏果を得ることができる>と誓われてある。それゆえ、常に阿弥陀仏を憶念するがよい」と諸仏が勧めていられる。』と。

 さて、論は次に偈を説いて、阿弥陀仏易行を讃嘆している。この偈に対する科段については、既に前に示したから再説しないが、そこには阿弥陀仏の本願とその法によって得られる利益が示されている。ところで、ここでは高祖の引用に注意しよう。

 まず、『本典』には全三十二偈中、九偈が引用される。その引用を前に示した科段によってみれば、
引用第一偈

無量光明慧 身如真金山 我今身口意
合掌稽首礼

は偈第一にあたり、如来智慧光明の体相を示して、これを讃嘆するものであり、光寿二無量の仏の勝れたる徳に対して全身をあげて敬礼することを示したものであり、仏への帰敬を示す。
引用第二偈

人能念是仏 無量力功徳 即時入必定
是故我常念

は、偈の第四偈で、行者の得益の中「入正定聚の益」を説くものである。
次に引用第三偈第四偈

若人願作仏 心念阿弥陀 応時為現身
是故我帰命
彼仏本願力 十方諸菩薩 来供養聴法
是故我稽首

これは偈第十四・第十五で、能念の現益と当益中の十方同生の益を示す。
次に引用第五・第六偈

若人種善根 疑則華不開 信心清浄者
華開則見仏
十方現在仏 以種種因縁 嘆彼仏功徳
我今帰命礼

は偈第十八・第十九で、信疑得失を示すものと諸仏同讃の総挙の偈である。
次に引用偈第七・第八・第九偈

乗彼八道船 能度難度海 自度亦度彼
我礼自在人
諸仏無量劫 讃揚其功 徳猶尚不能尽
帰命清浄人
我今亦如是 称讃無量徳 以是福因縁
願仏常念我

は、第二八・二九・三〇の三偈であり、第二八・二九は、二利自在の徳を示し、第三〇偈は廻願を結讃する偈である。

 以上の高祖の引用は「易行品」の中、阿弥陀仏易行について、光寿二無量の仏に帰命し、その仏を信じその名を称することによって得る益をまず「入正定聚の益」として、これをかかげられる。これは現生十益の根本が「入正定聚の益」であるのと同じく、いまの不退転の益を示したものである。次には十方の菩薩方と共に聞法する喜びを示し、次で、信心清浄、無疑を説き、十方の諸仏が阿弥陀仏を共に讃嘆することを述べ、最後に仏の二利自在の徳を讃嘆して、自らの救いを喜び、仏に護念せられんことを念じて引用を終るのである。この高祖の引用には、弥陀法による救いの喜びが、仏の徳のうえに伺われていることを知るのである。

 次いで「易行品」は過未八仏について説き、能勝等十仏、総じて三世の仏の易行を説いて阿弥陀仏等易行の解説を終り、最後に諸大菩薩の易行について述べるのである。

 以上、高祖の引用を中心として『十住毘婆沙論』全体についての高祖の見方を明らかにしてきたが、この引用が初めにいったように「行巻」の名号大行義を明すところに引用されていることは、玄智の『顕浄土真実教行証文類光融録』にいうように、「易行品」が本願念仏大乗無上法を宣説するための一論の肝腑であることから、その真の易行を明らかにし、称名易行の徳を明らかにするためには、本来、直接には名号の徳を示すものではないが、必定菩薩の姿、とくに念必定の菩薩の相貌を明らかにする「入初地」「地相」「浄地」などの文と続いて、ここに引用して、そこに執持名号、称其名号を諸仏に同じて説き、遂に念我称名と信即方便の信心による救済という易行道を開顕しようとされたのである。