「九首和讃」の版間の差分
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2024年8月24日 (土) 18:46時点における版
九首和讃
この九首和讃は京都常楽台(存覚上人は常楽台の住持だった)の宝庫より出でたるものと伝え、古来、親鸞聖人の真作であると云われているが、林遊は、用語例から見て御開山のものとするには疑いが残る。なお「御臨末の御書」とされる書は明らかに後世の偽作であろう。→「御臨末の御書」
御開山は和歌は綺語(ウタヲヨミ イロヘ コトバ ヲ イフ)として使われず、今様といふ実直な形式で仏徳を讃詠されたのであった。
- 四十八願成就して
- 正覚の弥陀となりたまふ
- たのみをかけしひとはみな
- 往生かならずさだまりぬ。
- 極楽無為の報土には
- 雑行むまるゝことかたし
- 如来要法をえらんでは
- 専修の行ををしへしむ。
- 兆載永劫の修行は
- 阿弥陀の三字にをさまれり
- 五劫思惟の名号は
- 五濁のわれらに付属せり。
- 阿弥陀如来の三業は
- 念仏行者の三業と
- 彼此金剛の心なれば
- 定聚のくらゐにさだまりぬ。
- 多聞浄戒えらばれず
- 破戒罪業きらはれず
- たゞよく念ずるひとのみぞ
- 瓦礫も金と変じける。
- 金剛堅固の信心は
- 仏の相続よりおこる
- 他力の方便なくしては
- いかでか決定心をえん。
- 大願海のうちには
- 煩悩のなみこそなかりけれ
- 弘誓のふねにのりぬれば
- 大悲の風にまかせたり。
- 超世の悲願きゝしより
- われらは生死の凡夫かは
- 有漏の穢身はかはらねど
- こゝろは浄土にあそぶなり。
- 六八の弘誓のそのなかに
- 第三十五の願に
- 弥陀はことに女人を
- 引接せんとちかひしか。
なお、
- 超世の悲願きゝしより
- われらは生死の凡夫かは
- 有漏の穢身はかはらねど
- こゝろは浄土にあそぶなり。
の九首和讃の一首をとりあげて、有漏の穢身を離れて、心往生を説く人もいるのだが、これは時宗との混同であろう。
一遍上人は、「他力称名の行者は此の穢身はしばらく穢土にありといへども、心はすでに往生をとげて浄土にあり」「播州法語集」(林遊は未見)と云われたそうだが、この意が浄土真宗に混入されたのであろう。
御開山は、
- 惑染の衆生、ここにして性を見ることあたはず、煩悩に覆はるるがゆゑに。真巻 P.371
とされておられた。 (12)
とされ、御消息では、
- 仏と仏との御はからひなり、凡夫のはからひにあらず。補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからふべき人は候はず。しかれば、如 来の誓願には義なきを義とすとは、大師聖人(源空)の仰せに候ひき。(消息 P.779)
とされておられた。
もちろん凡情として浄土を語るのは否定できないが、凡情に流されるといふ危険も考察すべきであろう。
ちなみに林遊は、夕日の沈む西方の仏国を実体視(妙有)しているのであった。ありがたいこっちゃなあ。
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