「:ブッダの真理のことば(ダンマパダ)」の版間の差分
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(→第十六章 愛するもの) |
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209、 道に違(たご)うたことになじみ、道に順(したが)ったことにいそしまず、目的を捨てて快いことだけを取る人は、みずからの道に沿って進む者を羨むに至るであろう。 | 209、 道に違(たご)うたことになじみ、道に順(したが)ったことにいそしまず、目的を捨てて快いことだけを取る人は、みずからの道に沿って進む者を羨むに至るであろう。 | ||
− | 210、 | + | 210、 愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。 |
− | 211、 | + | 211、 それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、わずらいの絆が存在しない。 |
212、 愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか? | 212、 愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか? | ||
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220、そのように善いことをしてこの世からあの世に行った人を善業が迎え受ける。───親族が愛する人が帰って来たのを迎え受けるよえに。 | 220、そのように善いことをしてこの世からあの世に行った人を善業が迎え受ける。───親族が愛する人が帰って来たのを迎え受けるよえに。 | ||
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===第十七章 怒 り=== | ===第十七章 怒 り=== |
2012年5月21日 (月) 13:26時点における最新版
ブッダの真理のことば(ダンマパダ) 岩波文庫 中村元著
目次
- 1 第一章 ひと組ずつ
- 2 第二章 はげみ
- 3 第三章 心
- 4 第四章 花にちなんで
- 5 第五章 愚かな人
- 6 第六章 賢い人
- 7 第七章 真人
- 8 第八章 千という数にちなんで
- 9 第九章 悪
- 10 第十章 暴力
- 11 第十一章 老いること
- 12 第十二章 自己
- 13 第十三章 世の中
- 14 第十四章 ブッダ
- 15 第十五章 楽しみ
- 16 第十六章 愛するもの
- 17 第十七章 怒 り
- 18 第十八章 汚 れ
- 19 第十九章 道を実践する人
- 20 第二十章 道
- 21 第二十一章 さまざまなこと
- 22 第二十二章 地 獄
- 23 第二十三章 象
- 24 第二十四章 愛 執
- 25 第二十五章 修行僧
- 26 第二十六章 バラモン
第一章 ひと組ずつ
1、ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。 もしも、汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人に付き従う。──車をひく(牛)の足跡に車輪がついてゆくように。
2、ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。 もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人に付き従う──影がそのからだから離れないように。
3、「彼はわれを罵った。彼はわれを害した。彼はわれにうち勝った。彼はわれから強奪した。」という思いを抱く人には、怨みはついに息むことがない。
4、「彼はわれを罵った。彼はわれを害した。彼はわれにうち勝った。彼はわれから強奪した。」という思いを抱かない人には、ついに怨みが息む。
5、実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。 怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。
6、「われらは、ここにあって死ぬはずのものである。」と覚悟をしょう。──このことわりを他の人々は知ってはいない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。
7、この世のものを浄らかだと思いなして暮らし、(眼などの)感官を抑制せず、食事の節度を知らず、怠けて勤めない者は、悪魔にうちひしがれる。──弱い樹木が風に倒されるように。
8、この世のものを不浄であると思いなして暮らし、(眼などの)感官をよく抑制し、食事の節度を知り、信念あり、勤めはげむ者は、悪魔にうちひしがれない。──岩山が風にゆるがないように。
9、けがれた汚物を除いていないのに、黄褐色の法衣をまとおうと欲する人は、自制がなく真実もないのであるから、黄褐色の法衣はふさわしくない。
10、けがれた汚物を除いていて、戒律を守ることに専念している人は、自制と真実とをそなえているから、黄褐色の法衣をまとうのにふさわしい。
11、まことではないものを、まことであると見なし、まことであるものを、まことではないと見なす人々は、あやまった思いにとらわれて、ついに真実(まこと)に達しない。
12、まことであるものを、まことであると知り、まことではないものを、まことではないと見なす人は、正しい思いにしたがって、ついに真実に達する。
13、屋根を粗雑に葺いてある家には雨が漏れ入るように、心を修養していないならば、情欲が心に侵入する。
14、屋根をよく葺いてある家には雨の漏れ入ることがないように、心をよく修養してあるならば、情欲の侵入することがない。
15、悪いことをした人は、この世で憂え、来世でも憂え、ふたつのところで共に憂える。 彼は自分の行為が汚れているのを見て、憂え、悩む。
16、善いことをした人は、この世で喜び、来世でも喜び、ふたつのところで共に喜ぶ。 彼は自分の行為が浄らかなのを見て、喜び、楽しむ。
17、悪いことをなす者は、この世で悔いに悩み、来世でも悔いに悩み、ふたつのところで悔いに悩む。 「私は悪いことをしました。」といって悔いに悩み、苦難のところ(地獄など)におもむいて(罪のむくいを受けて)さらに悩む。
18、善いことをなす者は、この世で歓喜し、来世でも歓喜し、ふたつのところで共に歓喜する。 「私は善いことをしました。」といって歓喜し、幸あるところ(天の世界)におもむいて、さらに喜ぶ。
19、たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。──牛飼いが他人の牛を数えているように、かれは修行者の部類には入らない。
20、たとえためになることを少ししか語らないにしても、理法にしたがって実践し、情欲と怒りと迷妄を捨てて、正しく気をつけていて、心が解脱して、執着することの無い人は、修行者の部類に入る。
第二章 はげみ
21、つとめ励むのは不死の境地である。怠りなまけるのは死の境涯である。 つとめ励む人々は死ぬことがない。怠りなまける人々は、死者のごとくである。
22、このことをはっきりと知って、つとめはげみを能(よ)く知る人々は、つとめはげみを喜び、聖者たちの境地を楽しむ。
23、(道に)思いをこらし、堪え忍ぶことつよく、つねに健(たけ)く奮励する、思慮ある人々は、安らぎに達する。 これは無上の幸せである。
24、こころはふるいたち、思いつつましく、行いは清く、気をつけて行動し、みずから制し、法(のり)にしたがって生き、つとめ励む人は、名声が高まる。
25、思慮ある人は、奮い立ち、つとめ励み、自制・克己によって、激流も押し流すことのできない島をつくれ。
26、智慧乏しき愚かな人々は放逸にふける。 しかし心ある人は、最上の財宝(たから)をまもるように、つとめ励むのをまもる。
27、放逸にふけるな。愛欲と歓楽に親しむな。おこたることなく思念をこらす者は、大いなる楽しみを得る。
28、賢者が精励修行によって怠惰を退けるときには、智慧の高閣(たかどの)に登り、自らは憂い無くして(他の)憂いある愚人どもを見下ろす。 ──山上にいる人が地上の人々を見下ろすように。
29、怠りなまけている人々の中で、ひとりつとめはげみ、眠っている人々の中で、ひとりよく目覚めている思慮ある人は、疾くはしる馬が、足のろの馬を抜いて駆けるようなものである。
30、マガヴァー(インドラ神)は、つとめ励んだので、神々の中での最高の者となった。 つとめはげむことを人々はほめたたえる。放逸なることは常に非難される。
31、いそしむことを楽しみ放逸に恐れをいだく修行僧は、微細なものでも粗大なものでも全て心のわずらいを、焼きつくしながら歩む ──燃える火のように。
32、いそしむことを楽しみ、放逸に恐れをいだく修行僧は、堕落するはずはなく、すでにニルヴァーナの近くにいる。
第三章 心
33、心は動揺し、ざわめき、護り難く、制し難い。英知ある人はこれを直くする──弓師が矢の弦を直くするように。
34、水の中の住処から引き出されて陸「おか」の上に投げ捨てられた魚のように、この心は、悪魔の支配から逃れようとしてもがきまわる。
35、心は、捉え難く、軽々(かろがろ)とざわめき、欲するがままにおもむく。その心をおさめることは善いことである。 心をおさめたならば、安楽をもたらす。
36、心は極めて見難く、極めて微妙であり、欲するがままにおもむく。英知ある人は守れかし。 心を守ったならば、安楽をもたらす。
37、心は遠くに行き、独り動き、形体なく、胸の奥の洞窟にひそんでいる。この心を制する人々は、死の束縛から逃れるであろう。
38、心が安住することなく、正しい真理を知らず、信念が汚されたならば、さとりの智慧は全うからず。
39、心が煩悩に汚されることなく、おもいが乱れることなく、善悪のはからいを捨てて、目ざめている人には、何も恐れることが無い。
40、この身体は水瓶のように脆いものだと知って、この心を城郭のように(堅固に)安立して、智慧の武器をもって、悪魔と戦え。勝ち得たものを守れ。──しかもそれに執着することなく。
41、ああ、この身はまもなく地上によこたわるであろう。──意識を失い、無用の木片(きぎれ)のように、投げ捨てられて。
42、憎む人が憎む人にたいし、怨む人が怨む人にたいして、どのようなことをしょうとも、邪なことをめざしている心はそれよりもひどいことをする。
43、母も父もその他親族がしてくれるよりもさらに優れたことを、正しく向けられた心がしてくれる。
第四章 花にちなんで
44、だれがこの大地を征服するであろうか? だれが閻魔の世界と神々とともなるこの世界とを征服するであろうか? わざに巧みな人が花を摘むように、善く説かれた真理のことばを摘み集めるのはだれであろうか?
45、学びにつとめる人こそ、この大地を征服し、閻魔の世界と神々とともなるこの世界とを征服するであろう。 わざに巧みな人が花を摘むように、学びつとめる人々こそ善く説かれた真理のことばを摘み集めるであろう。
46、この身は泡沫のごとくであると知り、かげろうのようなはかない本性のものであると、さとったならば、悪魔の花の矢を断ち切って、死王に見られないところへ行くであろう。
47、花を摘むのに夢中になっている人を、死がさらって行くように、眠っている村を、洪水が押し流して行くように、──
48、花を摘むのに夢中になっている人が、未だ望みを果たさないうちに、死に神が彼を征服する。
49、蜜蜂は(花の)色香を害(そこなわず)に、汁をとって、花から飛び去る。 聖者が村に行くときは、そのようにせよ。
50、他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。 ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ。
51、うるわしく、あでやかに咲く花でも、香りの無いものがあるように、善く説かれたことばでも、それを実行しない人には実りがない。
52、うるわしく、あでやかに咲く花で、しかも香りのあるものがあるように、善く説かれたことばも、それを実行する人には、実りがある。
53、うず高い花を集めて多くの華鬘(はなかざり)をつくるように、人として生まれまた死ぬべきであるならば、多くの善いことをなせ。
54、花の香りは風に逆らっては進んで行かない。栴檀(せんだん)もタガラの花もジャスミンもみなそうである。 しかし徳のある人の香りは、風に逆らっても進んで行く。徳のある人はすべての方向に薫る。
55、栴檀、タガラ、青蓮華、ヴァッシキ──ーこれら香りのあるものどものうちでも、徳行の香りこそ最上である。
56、タガラ、栴檀の香りは微かであって、大したことはない。しかし徳行のある人々の香りは最上であって、天の神々にもとどく。
57、徳行を完成し、つとめはげんで生活し、正しい智慧によって解脱した人々には、悪魔も近づくによし無し。
58、大道に捨てられた塵芥(ちりあくた)の山堆(やまずみ)の中から香しく麗しい蓮華が生ずるように。
59、塵芥にも似た盲(めしい)た凡夫のあいだにあって、正しくめざめた人(ブッダ)の弟子は智慧をもって輝く。
第五章 愚かな人
60、眠れない人には夜は長く、疲れた人には一里の道は遠い。 正しい真理を知らない愚かな者どもには、生死の道のりは長い。
61、旅に出て、もしも自分よりもすぐれた者か、または自分にひとしい者に出会わなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。 愚かな者を道伴(づ)れにしてはならぬ。
62、「わたしたちには子がある。わたしには財がある。」と思って愚かな者は悩む。 しかしすでに自己が自分のものではない。 ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。
63、もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。 愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。
64、愚かな者は生涯賢者に仕えても、真理を知ることが無い。匙が汁の味を知ることができないように。
65、聡明な人は瞬時(またたき)のあいだ賢者に仕えても、ただちに真理を知る。───舌が汁の味をただちに知るように。
66、あさはかな愚人どもは、自己に対して仇敵(かたき)に対するようにふるまう。悪い行いをして、苦い果実(このみ)をむすぶ。
67、もしも或る行為をした後に、それを後悔して、顔に涙を流して泣きながら、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善くない。 (悪因苦果)
68、もしも或る行為をしたのちに、それを後悔しないで、嬉しく喜んで、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善い。 (善因楽果)
69、愚かな者は、悪いことを行っても、その報いの現れないあいだは、それを密のように思いなす。しかし、その罪の報いの現れたときには、苦悩を受ける。
70、愚かなものは、たとい毎月(苦行者の風習にならって一月に一度だけ)茅草の端につけて(極く少量の)食べ物を摂るようなことをしても、(その功徳は)真理をわきまえた人々の16分の1にも及ばない。
71、悪事をしても、その業は、しぼり立ての牛乳のように、すぐに固まることはない。(徐々に固まって熟する)その業は、灰に覆われた火のように、(徐々に)燃えて悩ましながら、愚者につきまとう。
72、愚かな者に念慮(おもい)が生じても、ついにかれには不利なことになってしまう。その念慮は彼の好運(しあわせ)を滅ぼし、かれの頭を打ち砕く。
73、愚かな者は、実にそぐわぬ虚しい尊敬を得ようと願うであろう。修行僧らのあいだでは上位を得ようとし、僧房にあっては権勢を得ようとし、他人の家に行っては供養を得ようと願うであろう。
74、「これは、わたしのしたことである。在家の人々も出家した修行者たちも、ともにこのことを知れよ。およそなすべきこととなすべからざることとについては、私の意に従え」──愚かな者はこのように思う。こうして欲求と高慢(たかぶり)とがたかまる。
75、一つは利得に達する道であり、他の一つは安らぎにいたる道である。ブッダの弟子である修行僧はこのことわりを知って、栄誉を喜ぶな。孤独の境地に励め。
第六章 賢い人
76、(おのが)罪過(つみとが)を指し示し過ちを告げてくれる聡明な人に会ったならば、その賢い人につき従え──隠してある財宝のありかを告げてくれる人につき従うように。そのような人につき従うならば、善いことがあり、悪いことは無い。
77、(他人を)訓戒せよ、教えさとせ。宜しくないことから(他人を)遠ざけよ。そうすればその人は善人に愛せられ、悪人からは疎まれる。
78、悪い友と交わるな。卑しい人と交わるな。善い友と交われ。尊い人と交われ。
79、真理を喜ぶ人は、心きよらかに澄んで、安らかに臥す。聖者の説きたまうた真理を、賢者はつねに楽しむ。
80、水道をつくる人は水をみちびき、矢をつくる人は矢を矯め、大工は木材を矯め、賢者は自己をととのえる。
81、一つの岩の塊りが風に揺るがないように、賢者は非難と賞賛とに動じない。
82、深い湖が、澄んで、清らかであるように、賢者は真理を聞いて、こころ清らかである。
83、高尚な人々は、どこにいても、執着することが無い。快楽を欲してしゃべることが無い。楽しいことに遭(あ)っても、賢者は動ずる色がない。
84、自分のためにも、他人のためにも、子を望んではならぬ。財をも国をも望んではならぬ。 邪なしかたによって自己の繁栄を願うてはならぬ。(道にかなった)行いあり、明かな知慧があり、真理にしたがっておれ。
85、人々は多いが、彼岸(かなたのきし)に達する人々は少ない。他の(多くの)人々はこなたの岸の上でさまよっている。
86、真理が正しく説かれたときに、真理にしたがう人々は、渡りがたい死の領域を超えて、彼岸(かなたのきし)にいたるであろう。
87、賢者は、悪いことがらを捨てて、善いことがらを行え。家から出て、家の無い生活に入り、楽しみ難いことではあるが、孤独(ひとりい)のうちに、喜びを求めよ。
88、賢者は欲楽をすてて、無一物となり、心の汚れを去って、おのれを浄めよ。
89、覚りのよすがに心を正しくおさめ、執着なく貪りを捨てるのを喜び、煩悩を滅ぼし尽くして輝く人は、現世において全く束縛から解きほごされている。
第七章 真人
90、すでに(人生の)旅路を終え、憂いをはなれ、あらゆることがらにくつろいで、あらゆる束縛の絆をのがれた人には、悩みは存在しない。
91、こころをとどめている人々は努めはげむ。かれらは住居を楽しまない。白鳥が立ち去るように、かれらはあの家、この家を捨てる。
92、財を蓄えることなく、食べ物についてその本性を知り、その人々の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれらの行く路(足跡)は知り難い。───空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。
93、その人の汚れは消え失せ、食べ物をむさぼらず、その人の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれの足跡は知り難い。───空飛ぶ鳥の迹の知り難いように。
94、御者が馬をよく馴らしたように、おのが感官を静め、高ぶりをすて、汚れのなくなった───このような境地にある人を神々でさえも羨む。
95、大地のように逆らうことなく、門のしまりのように慎み深く、(深い)湖は汚れた泥がないように、───そのような境地にある人には、もはや生死の世は絶たれている。
96、正しい智慧によって解脱して、やすらいに帰した人───そのような人の心は静かである。ことばも静かである。行いも静かである。
97、何ものかを信ずることなく、作られざるもの(ニルヴァーナ)を知り、生死の絆を断ち、(善悪をなすに)よしなく、欲求を捨て去った人───かれこそ実に最上の人である。
98、村にせよ、林にせよ、低地にせよ、平地にせよ、聖者の住む土地は楽しい。
99、人のいない林は楽しい。世人の楽しまないところにおいて、愛著なき人々は楽しむであろう。かれらは快楽を求めないからである。
第八章 千という数にちなんで
100、無益な語句を千たびかたるよりも、聞いて心の静まる有益な語句を一つ聞くほうがすぐれている。
101、無益な語句よりなる詩が千もあっても、聞いて心の静まる詩を一つ聞くほうがすぐれている。
102、無益に語句よりなる詩を百もとなえるよりも、聞いて心の静まる詩を一つ聞くほうがすぐれている。
103、戦場において百万人に勝つよりも、唯だ一つの自己に克つ者こそ、じつに最上の勝利者である。
104/105、自己にうち克つことは、他の人々に勝つことよりもすぐれている。つねに行ないをつつしみ、自己をととのえている人、───このような人の克ち得た勝利を敗北に転ずることは、神も、ガンダルヴァ(天の伎楽神)も、悪魔も、梵天もなすことができない。
106、百年のあいだ、月々千回ずつ祭祀を営む人がいて、またその人が自己を修養した人を一瞬間でも供養するならば、その供養することのほうが、百年祭祀を営むよりもすぐれている。
107、百年のあいだ、月々千回ずつ祭祀を営む人がいて、またその人が自己を修養した人を一瞬間でも供養するならば、その供養することのほうが、百年祭祀を営むよりもすぐれている。
108、功徳を得ようとして、ひとがこの世で一年間神をまつり犠牲をささげ、あるいは火にささげ物をしても、その全部をあわせても、(真正なる祭りの功徳の)四分の一にも及ばない。行ないの正しい人々を尊ぶことのほうがすぐれている。
109、つねに敬礼を守り、年長者を敬う人には、四種のことがらが増大する。───すなわち、寿命と美しさと楽しみと力とである。
110、素行が悪く、心が乱れていて百年生きるよりは、徳行あり思い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。
111、愚かに迷い、心の乱れている人が百年生きるよりは、知慧あり思い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。
112、怠りなまけて、気力もなく百年生きるよりは、堅固につとめ励んで一日生きるほうがすぐれている。
113、物事が興りまた消え失せることわりを見ないで百年生きるよりも、事物が興りまた消え失せることわりを見て一日生きることのほうがすぐれている。
114、不死(しなない)の境地を見ないで百年生きるよりも、不死の境地を見て一日生きることのほうがすぐれている。
115、最上の真理を見ないで百年生きるよりも、最上の真理を見て一日生きるほえがすぐれている。
第九章 悪
116、善をなすのを急げ。悪から心を遠ざけよ。善をなすのにのろのろしたら、心は悪事を楽しむ。
117、人がもしも悪いことをしたならば、それを繰り返すな。悪事を心がけるな。悪が積み重なるのは苦しみである。
118、人がもし善いことをしたならば、それを繰り返せ。善いことを心掛けよ。善いことが積み重なるのは楽しみである。
119、まだ悪の報いが熟しないあいだは、悪人でも幸運に遭うことがある。しかし悪の報いが熟したときには、悪人はわざわいに遭う。
120、まだ善い報いが熟しないあいだは、善人でもわざわいに遭うことがある。しかし善の果報が熟したときには、善人は幸福(さいわい)に遭う。
121、「その報いは私には来ないだろう」とおもって、悪を軽んずるな。水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でも満たされるのである。愚かな者は、水を少しずつでも集めるように悪を積むならば、やがてわざわいに満たされる。
122、「その報いは私には来ないであろう」とおもって、善を軽んずるな。水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でも満たされる。気をつけている人は、水を少しずつでも集めるように善を積むならば、やがて福徳に満たされる。
123、生きたいとねがう人が毒を避けるように、ひとはもろもろの悪を避けよ。
124、もしも手に傷がなければ、その人は手で毒をとり去ることもできるであろう。傷の無い人に、毒は及ばない。悪をなさない人には、悪の及ぶことがない。
125、汚れの無い人、清くて咎のない人をそこなう者がいるならば、そのわざわいは、かえってその浅はかな人に至る。風にさからって細かい塵を投げると、(その人にもどって来る)ように。
126、或る人々は[人の]胎に宿り、悪をなした者どもは地獄に墜ち、行ないの良い人々は天におもむき、汚れの無い人々は全き安らぎに入る。
127、 大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の奥深いところに入っても、およそ世界のどこにいても、悪業から脱れることのできる場所は無い。
128、大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の洞窟に入っても、およそ世界のどこにいても、死の脅威のない場所は無い。
第十章 暴力
129、すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。已が身をひきくらぺて、殺してはならぬ。殺させてはならぬ。
130、すべての者は暴力におびえ、すべての(生きもの)にとって生命は愛しい。已が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺させてはならぬ。
131、生きとし生ける者は幸せをもとめている。もしも暴力によって生きものを害するならば、その人は自分の幸せをもとめていても、死後には幸せが得られない。
132、生きとし生ける者は幸せをもとめている。もしも暴力によって生きものを害しないならば、その人は自分の幸せをもとめているが、死後には幸せが得られる。
133、荒々しいことばを言うな。言われた人々は汝に言い返すであろう。怒りを含んだことばは苦痛である。報復が汝の身に至るであろう。
134、こわれた鐘のように、声をあらげないならば、汝は安らぎに達している。汝はもはや怒り罵ることがないからである。
135、牛飼いが棒をもって牛どもを牧場に駆り立てるように、老いと死とは生きとし生けるものどもの寿命を駆り立てる。
136、しかし愚かな者は、悪い行ないをしておきながら、気がつかない。浅はかな愚者は自分自身のしたことによって悩まされる。───火に焼きこがれた人のように。
137、140 手むかうことなく罪咎の無い人々に害を加えるならば、次に挙げる十種の場合のうちのどれかに速やかに出会うであろう、───(1)激しい痛み、(2)老衰、(3)身体の傷害、(4)重い病い、(5)乱心、(6)国王からの災い、(7)恐ろしい告げ口、(8)親族の滅亡と、(9)財産の損失と、(10)その人の家を火が焼く。この愚かな者は、身やぶれてのちに、地獄に生まれる。
141、裸かの行も、髻に結うのも、身が泥にまみれるのも、断食も、露地に臥すのも、塵や泥を身に塗るのも、蹲って動かないのも、───疑いを離れていない人を浄めることはできない。
142、 身の装いはどうあろうとも、行ない静かに、心おさまり、身をととのえて、慎みぶかく、行ない正しく、生きとし生けるものに対して暴力を用いない人こそ、<バラモン>とも、<道の人>とも、また<托鉢遍歴僧>ともいうべきである。
143 、みずから恥じて自己を制し、良い馬が鞭を気にかけないように、世の非難を気にかけない人が、この世に誰か居るだろうか?
144 、鞭をあてられた良い馬のように勢いよく努め励めよ。信仰により、戒しめにより、はげみにより、精神統一により、真理を確かに知ることにより、知慧と行ないを完成した人々は、思念をこらし、この少なからぬ苦しみを除けよ。
145 、水道をつくる人は水をみちびき、矢をつくる人は矢を矯め、大工は木材を矯め、慎しみ深い人々は自己をととのえる。
第十一章 老いること
146 、何の笑いがあろうか。何の歓びがあろうか?───世間は常に燃え立っているのに───。汝らは暗黒に覆われている。どういて燈明を求めないのか?
147 、見よ、粉飾された形体を!(それは)傷だらけの身体であって、いろいろのものが集まっただけである。病いに悩み、意欲ばかり多くて、堅固でなく、安住していない。
148 、この容色は衰えはてた。病いの巣であり、脆くも滅びる。腐敗のかたまりで、やぶれてしまう。生命は死に帰着する。
149 、 秋に投げすてられた瓢箪のような、鳩の色のようなこの白い骨を見ては、なんの快さがあろうか?
150 、 骨で城がつくられ、それに肉と血とが塗ってあり、老いと死と高ぶりとごまかしとがおさめられている。
151 、 いとも麗しい国王の車も朽ちてしまう。身体もまた老いに近づく。しかし善い立派な人々の徳は老いることがない。善い立派な人々は互いにことわりを説き聞かせる。
152 、 学ぶことの少ない人は、牛のように老いる。かれの知慧は増えない。
153 、わたくしは幾多の生涯にわたって生死の流れを無益に経めぐって来た、───家屋の作者(つくりて)をさがしもとめて───。あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。
154 、 家屋の作者よ! 汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を作ることはないであろう。汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。心は形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。
155 、 若い時に、財を獲ることなく、清らかな行ないをまもらないならば、魚のいなくなった池にいる白鷺のように、痩せて滅びてしまう。
156 、 若い時に、財を獲ることなく、清らかな行ないをまもらないならば、壊れた弓のようによこたわる。───昔のことばかり思い出してかこちながら。
第十二章 自己
157 、 もしもひとが自己を愛しいものと知るならば、自己をよく守れ。賢い人は、夜の三つの区分のうちの一つだけでも、つつしんで目ざめておれ。
158 、 先ず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むひとが無いであろう。
159 、 他人に教えるとおりに、自分で行なえ───。自分をよくととのえた人こそ、他人をととのええるであろう。自己は実に制し難い。
160 、 自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。
161 、 自分がつくり、自分から生じ、自分から起った悪が知慧悪しき人を打ちくだく。───金剛石が宝石を打ちくだくように。
162 、 極めて性の悪い人は、仇敵がかれの不幸を望むとおりのことを、自分に対してなす。───蔓草(つるくさ)が沙羅の木にまといつくように。
163 、 善からぬこと、己れのためにならぬことは、なし易い。ためになること、善いことは、実に極めてなし難い。
164 、 愚かにも、悪い見解にもとづいて、真理に従って生きる真人・聖者たちの教えを罵るならば、その人は悪い報いが熟する。───カッタカという草は果実が熟すると自分自身が滅びてしまうように。
165 、 みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることができない。
166 、 たとい他人にとっていかに大事であろうとも、(自分ではない)他人の目的のために自分のつとめをすて去ってはならぬ。自分の目的を熟知して、自分のつとめに専念せよ。
第十三章 世の中
167 、 下劣なしかたになじむな。怠けてふわふわと暮らすな。邪な見解をいだくな。世俗のわずらいをふやすな。
168 、 奮起てよ。怠けてはならぬ。善い行いのことわりを実行せよ。ことわりに従って行なう人は、この世でも、あの世でも、安楽に臥す。
169 、 善い行ないのことわりを実行せよ。悪い行ないのことわりを実行するな。ことわりに従って行なう人は、この世でも、あの世でも、安楽に臥す。
170 、 世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。
171 、 さあ、この世の中を見よ。王者の車のように美麗である。愚者はそこに耽溺するが、心ある人はそれに執著しない。
172 、 また以前は怠りなまけていた人でも、のちに怠りなまけることが無いなら、その人はこの世の中を照らす。───あたかも雲を離れた月のように。
173 、 以前には悪い行ないをした人でも、のちに善によってつぐなうならば、その人はこの世の中を照らす。───雲を離れた月のように。
174 、 この世の中は暗黒である。ここではっきりと(ことわりを)見分ける人は少ない。網から離れた鳥のように、天に至る人は少ない。
175 、 白鳥は太陽の道を行き、神通力による者は虚空(そら)を行き、心ある人々は、悪魔とその軍勢にうち勝って世界から連れ去られる。
176 、 唯一なることわりを逸脱し、偽りを語り、彼岸の世界を無視している人は、どんな悪でもなさないものは無い。
177 、 物惜しみする人々は天の神々の世界におもむかない。愚かな人々は分かちあうことをたたえない。しかし心ある人は分かちあうことを喜んで、そのゆえに来世には幸せとなる。
178 、 大地の唯一の支配者となるよりも、全世界の主権者となるよりも、聖者の第一階梯(かいてい)(預流果)のほうがすぐれている。
第十四章 ブッダ
179 、 ブッダの勝利は敗れることがない。この世においては何人も、かれの勝利には達しえない。ブッダの境地はひろくて涯しがない。足跡をもたないかれを、いかなる道によって誘い得るであろうか?
180 誘なうために網のようにからみつき執著をなす妄執は、かれにはどこにも存在しない。ブッダの境地は、ひろくて涯しがない。足跡をもたないかれを、いかなる道によって誘い得るであろうか?
180 、 正しいさとりを開き、念いに耽り、瞑想に専中している心ある人々は世間から離れた静けさを楽しむ。神々でさえもかれを羨む。
181 、人間の身を受けることは難しい。死すべき人々に寿命があるのも難しい。正しい教えを聞くのも難しい。もろもろのみ仏の出現したもうことも難しい。
182 、 すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること、───これが諸の仏の教えである。
183 、忍耐・堪忍は最上の苦行である。ニルヴァーナは最高のものであると、もろもろブッダは説きたまう。他人を害する人は出家者ではない。他人を悩ます人は<道の人>ではない。
184 、 罵らず、害わず、戒律に関しておのれを守り、食事に関して(適当な)量を知り、淋しいところにひとり臥し、坐し、心に関することにつとめはげむ。───これがもろもろのブッダの教えである。
185 、たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない。「快楽の味は短くて苦痛である」としるのが賢者である。
186 、 天上の快楽にさえもこころ楽しまない。正しく覚った人(仏)の弟子は妄執の消滅を楽しむ。
187 、 人々は恐怖にかられて、山々、林、園、樹木、霊樹など多くのものにたよろうとする。
178 、 しかしこれは安らかなよりどころではない。これは最上のよりどころではない。それらのよりどころによってはあらゆる苦悩から免れることはできない。
190 、191 さとれる者(仏)と真理のことわり(法)と聖者の集い(僧)とに帰依する人は、正しい知慧をもって、四つの尊い真理を見る。───すなわち(1)苦しみと、(2)苦しみの成り立ちと、(3)苦しみの超克と、(4)苦しみの終減におもむく八つの尊い道(八聖道)とを(見る)。
192 、 これは安らかなよりどころである。これは最上のよりどころである。このよりどころにたよってあらゆる苦悩から免れる。
193 、 尊い人(ブッダ)は得がたい。かれはどこにでも生れるのではない。思慮深い人(ブッダ)の生れる家は、幸福に栄える。
194 、 もろもろの仏の現われたまうのは楽しい。正しい教えを説くのは楽しい。つどいが和合しているのは楽しい。和合している人々がいそしむのは楽しい。
195 、196、 すでに虚妄な論議をのりこえ、憂いと苦しみをわたり、何ものをも恐れず、安らぎに帰した、拝むにふさわしいそのような人々、もろもろのブッダまたその弟子たちを供養するならば、この功徳はいかなる人でもそれを計ることができない。
第十五章 楽しみ
197、 怨みをいだいている人々のあいだにあって怨むこと無く、われらは大いに楽しく生きよう。 怨みをもっている人々のあいだにあって怨むこと無く、われらは暮らしていこう。
198、 悩める人々のあいだにあって、悩み無く、大いに楽しく生きよう。悩める人々のあいだにあって、悩み無く暮そう。
199、 貪っている人々のあいだにあって、患い無く、大いに楽しく生きよう。貪っている人々のあいだにあって、むさぼらないで暮らそう。
200、 われわれは一物をも所有していない。大いに楽しく生きて行こう。光り輝く神々のように、喜びを食(は)む者となろう。
201、 勝利からは怨みが起る。敗れた人は苦しんで臥す。勝敗をすてて、やすらぎに帰した人は、安らかに臥す。
202、 愛欲にひとしい火は存在しない。ばくちに負けるとしても、増悪にひとしい不運は存在しない。 このかりそめの身にひとしい苦しみは存在しない。やすにぎにまさる楽しみは存在しない。
203、 飢えは最大の病いであり、形成せられる存在(わが身)は最もひどい苦しみである。このことわりをあるがままに知ったならば、ニルヴァーナという最上の楽しみがある。
204、 健康は最高の利得であり、満足は最上の宝であり、信頼は最高の知己であり、ニルヴァーナは最上の楽しみである。
205、 孤独(ひとりい)の味、心の安らぎの味をあじわったならば、恐れも無く、罪過も無くなる、───真理の味をあじわいながら。
206、もろもろの聖者に会うのは善いことである。かれらと共に住むのはつねに楽しい。愚かなる者どもに会わないならば、心はつねに楽しいであろう。
207、 愚人とともに歩む人は長い道のりにわたって憂いがある。愚人と共に住むのは、つねにつらいことである。───仇敵とともに住むように。 心ある人と共に住むのは楽しい。───親族に出会うように。
208、 よく気をつけていて、明らかに知慧あり、学ぶところ多く、忍耐づよく、戒めをまもる、そのような立派な聖者・善き人、英知ある人に親しめよ。───月がもろもろの星の進む道にしたがうように。
第十六章 愛するもの
209、 道に違(たご)うたことになじみ、道に順(したが)ったことにいそしまず、目的を捨てて快いことだけを取る人は、みずからの道に沿って進む者を羨むに至るであろう。
210、 愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。
211、 それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、わずらいの絆が存在しない。
212、 愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?
213、 愛情から憂いが生じ、愛情から恐れが生ずる。愛情を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?
214、快楽から憂いが生じ、快楽から恐れが生じる。快楽を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?
215、 欲情から憂いが生じ、欲情から恐れが生じる。欲情を離れたならば、憂いは存しない。どうして恐れることがあろうか。
216、 妄執から憂いが生じ、妄執から恐れが生じる。妄執を離れたならば、憂いは存しない。どうして恐れることがあろうか。
217、 徳行と見識とをそなえ、法にしたがって生き、真実を語り、自分のなすぺきことを行なう人は、人々から愛される。
218、 ことばで説き得ないもの(ニルヴァーナ)に達しようとする志を起し、意(おもい)はみたされ、諸の愛欲に心の礙げられることのない人は、(流れを上る者)とよばれる。
219、 久しく旅に出ていた人が遠方から無事に帰って来たならば、親戚・友人・親友たちはかれが帰って来たのを祝う。
220、そのように善いことをしてこの世からあの世に行った人を善業が迎え受ける。───親族が愛する人が帰って来たのを迎え受けるよえに。
第十七章 怒 り
221、 怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。名称と形態とにこだわらず、無一物となった者は、苦悩に追われることがない。
222、走る車をおさえるようにむらむらと起る怒りをおさえる人───かれをわれは<御者>とよぶ。他の人はただ手綱を手にしているだけである。(<御者>とよぶにはふさわしくない。)
223、 怒らないことによって怒りにうち勝て。善いことによって悪いことにうち勝て。わかち合うことによって物惜しみにうち勝て。真実によって虚言の人にうち勝て。
224、 真実を語れ。怒るな。請われたならば、乏しいなかから与えよ。これらの三つの事によって(死後には天の)神々のもとに至り得るであろう。
225、 生きものを殺すことなく、つねに身をつつしんで聖者は、不死の境地(くに)におもむく。そこに至れば、憂えることがない。
226、 ひとがつねに目ざめていて、昼も夜もつとめ学び、ニルヴァーナを得ようとめざしているならば、もろもろの汚れは消え失せる。
227、アトゥラよ。これは昔にも言うことであり、いまに始まることでもない。沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、すこしく語る者も非難される。世に非難されない者はいない。
228、 ただ誹られるだけの人、またただ褒められるだけの人は、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう、現在にもいない。
229 、もしも心ある人が日に日に考察して、「この人は賢明であり、行ないに欠点がなく、知慧と徳行とを身にそなえている」といって称讃するならば、
230 、その人を誰が非難し得るだろうか? かれはジャンブーナダ河から得られる黄金でつくった金貨のようなものである。神々もかれを称讃する。梵天でさえもかれを称讃する。
231 、 身体がむらむらするのを、まもり落ち着けよ。身体について慎んでおれ。身体による悪い行ないを捨てて、身体によって善行を行なえ。
232 、 ことばがむらむらするのを、まもり落ち着けよ。ことばについて慎んでおれ。語(ことば)による悪い行ないを捨てて、語によって善行を行なえ。
233 、 心がむらむらするのを、まもり落ち着けよ。心について慎んでおれ。心による悪い行ないを捨てて、心によって善行を行なえ。
234 、 落ち着いて思慮ある人は身をつつしみ、ことばをつつしみ、心をつつしむ。このようにかれれれらは実によく己れをまもっている。
第十八章 汚 れ
235 、汝はいまや枯葉のようなものである。閻魔王の従卒もまた汝はいま死出の門路に立っている。しかし汝には資糧(かて)さえも存在しない。
236 、 だから、自己のよりどころをつくれ。すみやかに努めよ。賢明であれ。汚れをはらい、罪過がなければ、天の尊い処に至るであろう。
237 、 汝の生涯は終りに近づいた。汝は、閻魔王の近くにおもむいた。汝には、みちすがら休らう宿もなく、旅の資糧も存在しない。
238 、 だから、自己のよりどころをつくれ。すみやかに努めよ。賢明であれ。汚れをはらい、罪過がなければ、汝はもはや生と老いとに近づかないであろう。
239 、 聡明な人は順次に少しずつ、一刹那ごとに、おのが汚れを除くべし、───鍛冶工が銀の汚れを除くわように。
240 、 鉄から起った錆が、それから起ったのに、鉄自身を損なうように、悪をなしたならば、自分の業が罪を犯した人を悪いところ(地獄)にみちびく。
241 、 読誦しなければ聖典が汚れ、修理しなければ家屋が汚れ、身なりを怠るならば容色が汚れ、なおざりになるならば、つとめ慎しむ人が汚れる。
242 、 不品行は婦女の汚れである。もの惜しみは、恵み与える人の汚れである。悪事は、この世においてもかの世においても(つねに)汚れである。
243 、 この汚れよりもさらに甚だしい汚れがある。無明こそ最大の汚れである。修行僧らよ。この汚れを捨てて、汚れ無き者となれ。
244 、 恥をしらず、烏のように厚かましく、図々しく、ひとを責め、大胆で、心のよごれた者は、生活し易い。
245 、 恥を知り、常に清きをもとめ、執著をはなたれ、つつしみ深く、真理を見て清く暮す者は、生活し難い。
246 、247 、 生きものを殺し、虚言(いつわり)を語り、世間において与えられないものを取り、他人の妻を犯し、穀酒・果実酒に耽溺する人は、この世において自分の根本を掘りくずす人である。
248 、 人よ。このように知れ、───慎みがないのは悪いことである。 ───貪りと不正とのゆえに汝がながく苦しみを受けることのないように。
249 、ひとは、信ずるところにしたがって、きよき喜びにしたがって、ほどこしをなす。だから、他人のくれた食物や飲料に満足しない人は、昼も夜も心の安らぎを得ない。
250 、 もしひとがこの(不満の思い)を絶ち、根だやしにしたならば、かれは昼も夜も心のやすらぎを得る。
251 、 情欲にひとしい火は存在しない。不利な骰(さい)の目を投げたとしても、怒りにひとしい不運は存在しない。迷妄にひとしい網は存在しない。妄執にひとしい河は存在しない。
252 、他人の過失は見やすいけれど、自己の過失は見がたい。ひとは他人の過失を籾殻のように吹き散らす。しかし自分の過失は、隠してしまう。 ───狡猾な賭博師が不利な骰(さい)の目をかくしてしまうように。
253 、 他人の過失を探し求め、つねに怒りたける人は、煩悩の汚れが増大する。かれは煩悩の汚れの消滅から遠く隔っている。
254 、 虚空には足跡が無く、外面的なことを気にかけるならば、<道の人>ではない。ひとびとは汚れのあらわれをたのしむが、修行完成者は汚れのあらわれをたのしまない。
255 、 虚空には足跡が無く、外面的なことを気にかけるならば、<道の人>ではない。造り出された現象が常住であることは有り得ない。真理をさとった人々(ブッダ)は、動揺することがない。
第十九章 道を実践する人
256 、 あらあらしく事がらを処理するからとて、公正な人ではない。賢明であって、義と不義との両者を見きわめる人。
257 、粗暴になることなく、きまりにしたがって、公正なしかたで他人を導く人は、正義を守る人であり、道を実践する人であり、聡明な人であるといわれる。
258 、 多く説くからとて、それゆえにかれが賢明なのではない。こころおだやかに、怨むことなく、恐れることのない人、───かれこそ<賢者>と呼ばれる。
259 、 多く説くからとて、それゆえにかれが道を実践している人なのではない。たとい教えを聞くことが少なくても、身をもって真理を見る人、怠って道からはずれることの無い人───かれこそ道を実践している人である。
260 、 頭髪が白くなったからとて<長老>なのではない。ただ年をとっただけならば「空しく老いぼれた人」と言われる。
261 、誠あり、徳あり、慈しみがあって、傷わず、つつしみあり、みずからととのえ、汚れを除き、気をつけている人こそ「長老」と呼ばれる。
262 、 嫉みぶかく、吝嗇(りんしょく=けち)で、偽る人は、ただ口先だけでも、美しい容貌によっても、「端正な人」とはならない。
263 、これを断ち、根絶やしにし、憎しみをのぞき、聡明である人、───かれこそ「端正な人」とよばれる。
264 、頭を剃ったからとて、いましめをまもらず、偽りを語る人は、<道の人>ではない。欲望と貪りにみちている人が、どうして<道の人>であろうか?
265 、大きかろうとも小さかろうとも悪をすべてとどめた人は、もろもろの悪を静め滅ぼしたのであるから、<道の人>と呼ばれる。
266 、 他人に食を乞うからとて、それだけでは<托鉢僧>なのではない。汚らわしい行ないをしているならば、それでは<托鉢僧>ではない。
267 、この世の福楽も罪悪も捨て去って、清らかな行ないを修め、よく思慮して世に処しているならば、かれこそ<托鉢僧>と呼ばれる。
268 、269 、ただ沈黙しているからとて、愚かに迷い無智なる人が<聖者>なのではない。秤を手にもっているように、いみじきものを取りもろもろの悪を除く賢者こそ<聖者>なのである。かれはそのゆえに聖者なのである。この世にあって善悪の両者を(秤りにかれてはかるように)よく考える人こそ<聖者>とよばれる。
270 、生きものを害うからとて<聖者>なのではない。生きとし生けるものどもを害わないので<聖者>と呼ばれる。
271 、272 、 わたしは、出離の楽しみを得た。それは凡夫の味わい得ないものである。それは、戒律や誓いだけによっても、また博学によっても、また瞑想を体現しても、またひとり離れて臥すことによっても、得られないものである。修行僧よ。汚れが消え失せない限りは、油断するな。
第二十章 道
273 、 もろもろの道のうちでは<八つの部分よりなる正しい道>が最もすぐれている。もろもろの真理のうちでは<四つの句>(四諦)がもっともすぐれている。もろもろの徳のうちでは<情欲を離れること>が最もすぐれている。人々のうちで<眼ある人>(ブッダ)が最もすぐれている。
274 、これこそ道である。(真理を)見るはたらきを清めるためには、この他に道は無い。汝らはこの道を実践せよ。これこそ悪魔を迷わして(打ちひしぐ)ものである。
275 、 汝らがこの道を行くならば、苦しみをなくすことができるであろう。(棘が肉に刺さったので)矢を抜いて癒す方法を知って、わたくしは汝らにこの道を説いたのだ。
276 、汝らは(みずから)つとめよ。もろもろの如来(修行を完成した人)は(ただ)教えを説くだけである。心をおさめて、この道を歩む者どもは、悪魔の束縛から脱れるであろう。
277 、 「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
278 、 「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
279 、 「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
280 、 起きるべき時に起きないで、若くて力があるのに怠りなまけていて、意志も思考も薄弱で、怠惰でものをいう人は、明らかな知慧によって道を見出すことがない。
281 、 ことばを慎しみ、心を落ち着けて慎しみ、身に悪を為してはならない。これらの三つの行ないの路を浄くたもつならば、仙人(仏)の説きたもうた道を克ち得るであろう。
282 、 実に心が統一されたならば、豊かな知慧が生じる。心が統一されないならば、豊かな知慧がほろびる。生じることとほろびることとのこの二種の道を知って、豊かな知慧が生ずるように自己をととのえよ。
283 、一つの樹をを伐るのではなくて、(煩悩の)林を伐れ。危険は林から生じる。(煩悩の)林とその下生えとを切って、林(煩悩)から脱れた者となれ。修行僧らよ。
284 、たとい僅かであろうとも、男の女に対する欲望が断たれないあいだは、その男の心は束縛されている。───乳を吸う子牛が母牛を恋い慕うように。
285 、自己の愛執を断ち切れ、───池の水の上に出て来た秋の蓮を手で断ち切るように。静かなやすらぎに至る道を養え。めでたく行きし人(仏)は安らぎを説きたもうた。
286 、 「わたしは雨期にはここに住もう。冬と夏とにはここに住もう」と愚者はこのようにくよくよと慮って、死が迫って来るのに気がつかない。
287 、 子どもや家畜のことに気を奪われて心がそれに執著している人を、死はさらって行く。───眠っている村を大洪水が押し流すように。
288 、 子も救うことができない。父も親戚もまた救うことができない。死に捉えられた者を、親族も救い得る能力がない。
289 、心ある人はこの道理を知って、戒律をまもり、すみやかにニルヴァーナに至る道を清くせよ。
第二十一章 さまざまなこと
290 、つまらぬ快楽を捨てることによって、広大なる楽しみを見ることができるのなら、心ある人は広大な楽しみをのぞんで、つまらぬ快楽を捨てよ。
291 、他人を苦しめることによって自分の快楽を求める人は、怨みの絆にまつわれて、怨みから免れることができない。
292 、 なすべきことを、なおざりにし、なすべからざることをなす、遊びたわむれ放逸なる者どもには、汚れが増す。
293 、 常に身体(の本性)を思いつづけて、為すべからざることを為さず、為すべきことを常に為して、心がけて、みずから気をつけている人々には、もろもろの汚れがなくなる。
294 、(「妄愛」という)母と(「われありという慢心」である)父とをほろぼし、(永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という)二人の武家の王をほろぼし、(主観的機官と客観的対象とあわせて十二の領域である)国土と(「喜び貪り」という)従臣とをほろぼして、バラモンは汚れなしにおもむく。
295 、 (「妄愛」という)母と(「われありという慢心」である)父とをほろぼし、(永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という)二人の、学問を誇るバラモン王をほろぼし、第五には(「疑い」という)虎をほろぼして、バラモンは汚れなしにおもむく。
296 、 ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、昼も夜も常に仏を念じている。
297 、 ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、昼も夜も常に法を念じている。
298 、ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、昼も夜も常にサンガ(修行者のつどい)を念じている。
299 、 ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、昼も夜も常に身体(の真相)を念じている。
300 、 ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、その心は昼も夜も不傷害を楽しんでいる。
301 、 ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、その心は昼も夜も瞑想を楽しんでいる。
302 、 出家の生活は困難であり、それを楽しむことは難しい。在家の生活も困難であり、家に住むのも難しい。心を同じくしない人々と共に住むのも難しい。(修行僧が何かを求めて)旅に出て行くと、苦しみに遇う。だから旅に出るな。また苦しみに遇うな。
303 、 信仰あり、徳行そなわり、名声と繁栄を受けている人は、いかなる地方におもむこうとも、そこで尊ばれる。
304 、 善き人々は遠くにいても輝く、───雪を頂く高山のように。 善からぬ人々は近くにいても見えない ───夜陰に放たれた矢のように。
305 、 ひとり坐し、ひとり臥し、ひとり歩み、なおざりになることなく、わが身をととのえて、林のなかでひとり楽しめ。
第二十二章 地 獄
306 、いつわりを語る人、あるいは自分でしておきながら「わたしはしませんでした」と言う人、───この両者は死後にはひとしくなる、───来世では行ないの下劣な業をもった人々なのであるから。
307 、袈裟を頭から纒っていても、性質(タチ)が悪く、つつしみのない者が多い。かれらは、悪いふるまいによって、悪いところに(地獄)に生まれる。
308 、 戒律をまもらず、みずから慎むことがないのに国の信徒の施しを受けるよりは、火炎のように熱した鉄丸を食らうほうがましだ。
309 、 放逸で他人の妻になれ近づく者は、四つの事がらに遭遇する。───すなわち、禍をまねき、臥して楽しからず、第三に非難を受け、第四に地獄に墜ちる。
310 、 禍をまねき、悪しきところ(地獄)に墜ち、相ともにおびえた男女の愉楽はすくなく、王は重罰を課する。それ故にひとは他人のなれ近づくな。
311 、 茅草でも、とらえ方を誤ると、手のひらを切るように、修行僧の行も、誤っておこなうと、地獄にひきずりおろす。
312 、その行ないがだらしなく、身のいましめが乱れ、清らかな行ないなるものもあやしげであるならば、大きな果報はやって来ない。
313 、もしも為すべきことであるならば、それを為すべきである。それを断乎として実行せよ。行ないの乱れた修行者はいっそう多く塵をまき散らす。
314 、 悪いことをするよりは、何もしないほうがよい。悪いことをすれば、後で悔いる。単に何かの行為をするよりは、善いことをするほうがよい。なしおわって、後で悔いがない。
315 、辺境にある、城壁に囲まれた都市が内も外も守られているように、そのように自己を守れ。瞬時も空しく過ごすな。時を空しく過した人々は地獄に墜ちて、苦しみ悩む。
316 、 恥じなくてよいことを恥じ、恥ずべきことを恥じない人々は、邪な見解をいだいて、悪いところ(地獄)におもむく。
317 、恐れなくてもよいことに恐れをいだき、恐れねばならぬことに恐れをいだかない人々は、邪な見解をいだいて、悪いところ(地獄)におもむく。
318 、 避けねばならないことを避けなくてもよいと思い、避けてはならぬ(必ず為さねばならぬ)ことを避けてもよいと考える人々は、邪な見解をいだいて、悪いところ(地獄)におもむく。
319 、遠ざけるべきこと(罪)を遠ざけるべきであると知り、遠ざけてはならぬ(必らず為さねばならぬ)ことを遠ざけてはならぬと考える人々は、正しい見解をいだいた、善いところ(天上)におもむく。
第二十三章 象
320 、 戦場の象が、射られた矢にあたっても堪え忍ぶように、われらはひとのそしりを忍ぼう。多くの人は実に性質(たち)が悪いからである。
321 、馴らされた象は、戦場にも連れて行かれ、王の乗りものとなる。世のそしりを忍び、自らをおさめた者は、人々の中にあっても最上の者である。
322 、 馴らされた騾馬は良い。インダス河のほとりの血統よき馬も良い。クンジャラという名の大きな象も良い。しかし自己をととのえた人はそれらよりもすぐれている。
323 、何となれば、これらの乗物によっては未到の地(ニルヴァーナ)に行くことはできない。そこへは、慎しみある人が、おのれ自らをよくととのえておもむく。
324 、「財を守る者」という名の象は、発情期にこめかみから液汁をしたたらせて強暴になっているときは、いかんとも制し難い。捕らえられると、一口の食物も食べない。象は象の林を慕っている。
325 、 大食いをして、眠りをこのみ、ころげまわって寝て、まどろんでいる愚鈍な人は、大きな豚のように糧を食べて肥り、くりかえし母胎に入って(迷いの生存をつづける)。
326 、 この心は、以前には、望むがままに、欲するがままに、快きがままに、さすらっていた。今やわたくしはその心をすっかり抑制しよう、───象使いが鉤をもって、発情期に狂う象を全くおさえつけるように。
327 、つとめはげむのを楽しめ。おのれの心を護れ。自己を難処から救い出せ。───泥沼に落ち込んだ象のように。
328 、 もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができるならば、あらゆる危険困難に打ち克って、こころ喜び、念いをおちつけて、ともに歩め。
329 、 しかし、もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができないならば、国を捨てた国王のように、また林の中の象のように、ひとり歩め。
330 、 愚かな者を道伴れとするな。独りで行くほうがよい。孤独(ひとり)で歩め。悪いことをするな。求めるところは少なくあれ。───林の中にいる象のように。
331 、 事がおこったときに、友だちのあるのは楽しい。(大きかろうとも、小さかろうとも)、どんなことにでも満足するのは楽しい。善いことをしておけば、命の終るときに楽しい。(悪いことをしなかったので)、あらゆる苦しみ(の報い)を除くことは楽しい。
332 、 世に母を敬うことは楽しい。また父を敬うことは楽しい。世に修行者を敬うことは楽しい。世にバラモンを敬うことは楽しい。
333 、 老いた日に至るまで戒しめをたもつことは楽しい。信仰が確立していることは楽しい。明らかな知慧を体得することは楽しい。もろもろの悪事をなさないことは楽しい。
第二十四章 愛 執
334 、恣(ほしいまま)のふるまいをする人には愛執が蔓草(つるくさ)のようにはびこる。林の中で猿が果実を探し求めるように、(この世からかの世へと)あちこちにさまよう。
335 、この世において執著のもとであるこのうずく愛欲のなすがままである人は、もろもろの憂いが増大する。───雨が降ったあとにはビーラナ草がはびこるように。
336 、 この世において如何ともし難いこのうずく愛欲を断ったならば、憂いはその人から消え失せる。───水の滴が蓮華から落ちるように。
337 、 さあ、みんなに告げます。───ここに集まったみなさんに幸あれ。欲望の根を掘れ。───(香しい)ウシーラ根を求める人がビーラナ草を掘るように。葦が激流に砕かれるように、魔にしばし砕かれてはならない。
338 、 たとえ樹を切っても、もしも頑強な根を断たなければ、樹が再び成長するように、妄執(渇愛)の根源となる潜勢力をほろぼさないならば、この苦しみはくりかえし現われ出る。
339 、快いものに向って流れる三十六の激流があれば、その波浪は、悪しき見解をいだく人を漂わし去る。───ひの波浪とは貪欲にねざした想いである。
340 、 (愛欲の)流れは至るところに流れる。(欲情の)蔓草は芽を生じつつある。その蔓草が生じたのを見たならば、知慧によってその根を断ち切れ。
341 、 人の快楽ははびこるもので、また愛執で潤される。実に人々は歓楽にふけり、楽しみをもとめて、生れと老衰を受ける。
342 、 愛欲に駆り立てられた人々は、わなにかかった兎のように、ばたばたする。束縛の絆にしばられ愛著になずみ、永いあいだくりかえし苦悩を受ける。
343 、 愛欲に駆り立てられた人々は、わなにかかった兎のように、ばたばたする。それ故に修行僧は、自己の離欲を除き去れ。
344 、 愛欲の林から出ていながら、また愛欲の林に身をゆだね、愛欲の林から免れていながら、また愛欲の林に向って走る。その人を見よ! 束縛から脱しているのに、また束縛に向って走る。
345 、346 、 鉄や木材や麻紐でつくられた枷を、思慮ある人々は堅固な縛とは呼ばない。宝石や耳環・腕輪をやたらに欲しがること、妻や子にひかれること、───それが堅固な縛である、と思慮ある人々は呼ぶ。それは低く垂れ、緩く見えるけれども、脱れ難い。 かれらはこれをさえも断ち切って、顧みること無く、欲楽をすてて、遍歴修行する。
347 、愛欲になずんでいる人々は、激流に押し流される、───蜘蛛がみずから作った網にしたがって行くようなものである。思慮ある人々はこれをも断ち切って、顧みることなく、すべての苦悩をすてて、歩んで行く。
348 、前を捨てよ。後を捨てよ。中間を棄てよ。生存の彼岸に達した人は、あらゆることがらについて心が解脱していて、もはや生れと老いとを受けることが無いであろう。
349 、あれこれ考えて心が乱れ、愛欲がはげしくうずくのに、愛欲を淨らかだと見なす人には、愛執がますます増大する。この人は実に束縛の絆を堅固たらしめる。
350 、 あれこれの考えをしずめるのを楽しみ、つねに心にかけて、(身体などを)不浄であると観じて修する人は、実に悪魔の束縛の絆をとりのぞき、断ち切るであろう。
351 、さとりの究極に達し、恐れること無く、無我で、わずらいの無い人は、生存の矢を断ち切った。これが最後の身体である。
352 、愛欲を離れ、執著なく、諸の語義に通じ諸の文章とその脈絡を知るならば、その人は最後の身体をたもつものであり、「大いなる知慧ある人」と呼ばれる。
353 、 われはすべてに打ち勝ち、すべてを知り、あらゆることがらに関して汚されていない。すべてを捨てて、愛欲は尽きたので、こころは解脱している。みずからさとったのであって、誰を(師と)呼ぼうか。
354 、教えを説いて与えることはすべての贈与にまさり、教えの妙味はすべての味にまさり、教えを受ける楽しみはすべての楽しみにまさる。妄執をほろぼすことはすべての苦しみうち勝つ。
355 、彼岸にわたることを求める人々は享楽に害われることがない。愚人は享楽のために害われるが、享楽を妄執するがゆえに、愚者は他人を害うように自分も害う。
356 、田畑は雑草によって害われ、この世は人々は愛欲によって害われる。それ故に愛欲を離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報を受ける。
357 、田畑は雑草によって害われ、この世は人々は怒りによって害われる。これ故に怒りを離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報を受ける。
358 、 田畑は雑草によって害われ、この世は人々は迷妄によって害われる。それ故に迷妄を離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報を受ける。
359 、 田畑は雑草によって害われ、この世は人々は欲求によって害われる。それ故に欲求を離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報を受ける。
第二十五章 修行僧
360 、 眼について慎しむのは善い。耳について慎しむは善い。鼻について慎しむのは善い。舌について慎しむのは善い。
361 、身について慎むのは善い。ことばについて慎しむのは善い。心について慎しむのは善い。あらゆることについて慎しむのは善いことである。修行僧はあらゆることがらについて慎しみ、すべての苦しみから脱れる。
362 、 手をつつしみ、足をつつしみ、ことばをつつしみ、最高につつしみ、内心に楽しみ、心を安定統一し、ひとりで居て、満足している、───その人を<修行僧>と呼ぶ。
363 、 口をつつしみ、思慮して語り、心が浮わつくことなく、事がらと真理とを明らかにする修行僧───かれの説くところはやさしく甘美である。
364 、 真理を喜び、真理を楽しみ、真理をよく知り分けて、真理にしたがっている修行僧は、正しいことわりから墜落することがない。
365 、 (托鉢によって)自分の得たものを軽んじてはならない。他人の得たものを羨むな。他人を羨む修行僧は心の安定を得ることができない。
366 、 たとい得たものは少なくても、修行僧が自分の得たものを軽んずることが無いならば、怠ることなく清く生きるその人を、神々も称讃する。
367 、名称とかたちについて「わがもの」という想いが全く存在しないで、何ものも無いからとて憂えることの無い人、───かれこそ<修行僧>とよばれる。
368 、 仏の教えを喜び、慈しみに住する修行僧は、動く形成作用の静まった、安楽な、静けさの境地に到達するであろう。
369 、 修行僧よ。この舟から水を汲み出せ。汝が水を汲み出したならば、舟は軽やかにやすやすと進むであろう。貪りと怒りとを断ったならば、汝はニルヴァーナにおもむくであろう。
370 、五つ(の束縛)を断て。五つ(の束縛)を捨てよ。さらに五つ(のはたらき)を修めよ。五つの執著を超えた修行僧は、<激流を渡った者>とよばれる。
371 、 修行僧よ。瞑想せよ。なおざりになるな。汝の心を欲情の対象に向けるな。なおざりのゆえに鉄丸を呑むな。(灼熱した鉄丸で)焼かれるときに、「これは苦しい!」といって泣き叫ぶな。
372 、 明らかな知慧の無い人には精神の安定統一が無い。精神の安定統一していない人には明らかな知慧が無い。精神の安定統一と明らかな知慧とがそなわっている人こそ、すでにニルヴァーナの近くにいる。
373 、修行僧が人のいない空家に入って心を静め真理を正しく観ずるならば、人間を超えた楽しみがおこる。
374 、個人存在を構成している諸要素の生起と消滅とを正しく理解するに従って、その不死のことわりを知り得た人々にとって喜びと悦楽なるものを、かれは体得する。
375 、 これは、この世において明らかな知慧のある修行僧の初めのつとめである。───感官に気をくばり、満足し、戒律をつつしみ行ない、怠らないで、淨らかに生きる善い友とつき合え。
376 、 その行ないが親切であれ。(何ものでも)わかち合え。善いことを実行せよ。そうすれば、喜びにみち、苦悩を減するであろう。
377 、 修行僧らよ。ジャスミンの花が花びらを捨て落とすように、貪りと怒りとを捨て去れよ。
378 、 修行僧は、身も静か、語(ことば)も静か、心も静かで、よく精神統一をなし、世俗の享楽物を吐きすてたならば、<やすらぎに帰した人>と呼ばれる。
379 、みずから自分を励ませ。みずから自分を反省せよ。修行僧よ。自己を護り、正しい念いをたもてば、汝は安楽に住するであろう。
380 、実に自己は自分の主(あるじ)である。自己は自分の帰趨(よるべ)である。 故に自分をととのえよ。───商人が良い馬を調教するように。
381 、 喜びにみちて仏の教えを喜ぶ修行僧は、動く形成作用の静まった、幸いな、やすらぎの境地に達するであろう。
382 、たとい年の若い修行僧でも、仏の道にいそしむならば、雲を離れた月のように、この世を照らす。
第二十六章 バラモン
383 、バラモンよ。流れを断って。勇敢であれ。諸の欲望を去れ。諸の現象の消滅を知って、作られざるもの(ニルヴァーナ)を知る者であれ。
384 、 バラモンが二つのことがら(止と観)について彼岸に達した(完全になった)ならば、かれはよく知る人であるので、かれの束縛はすべて消え失せるであろう。
385 、 彼岸もなく、此岸もなく、彼岸・此岸なるものもなく、恐れもなく、束縛もない人、───かれをわれはバラモンと呼ぶ。
386 、 静かに思い、塵垢(ちりけがれ)なく、おちついて、為すべきことをなしとげ、煩悩を去り、最高の目的を達した人、───かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
387 、太陽は昼にかがやき、月は夜に照し。武士は鎧を着てかがやき、バラモンは瞑想に専念してかがやく。しかしブッダはつねに威力もて昼夜に輝く。
388 、 悪を取り除いたので<バラモン>(婆羅門)と呼ばれ、行ないが静かにやまっているので<道の人>(沙門)と呼ばれる。おのれの汚れを除いたので、そのゆえに<出家者>と呼ばれる。
389 、 バラモンを打つな。バラモンはかれ(打つ人)にたいして怒りを放つな。バラモンを打つものには禍がある。しかし(打たれて)怒る者にはさらに禍がある。
390 、愛好するものから心を遠ざけるならば、このことはバラモンにとって少なからずすぐれたことである。害する意(おもい)がやむにつれて、苦悩が静まる。
391 、 身にも、ことばにも、心にも、悪い事を為さず、三つのところについてつつしんでいる人、───かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
392 、正しく覚った人(ブッダ)の説かれた教えを、はっきりといかなる人から学び得たのであろうとも、その人を恭しく敬礼せよ、───バラモンが祭の火を恭しく尊ぶように。
393 、螺髪を結んでいるからバラモンなのではない。氏姓によってバラモンなのでもない。生れによってバラモンなのでもない。真理と理法とをまもる人は、安楽である。かれこそ(真の)バラモンなのである。
394 、 愚者よ。螺髪を結うて何になるのだ。かもしかの皮をまとって何になるのだ。汝は内に密林(汚れ)を蔵して、外側だけを飾る。
395 、 糞掃衣をまとい、痩せて、血管があらわれ、ひとり林の中にあって瞑想する人、───かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
396 、われは、(バラモン女の)胎から生れ(バラモンの)母から生れた人をバラモンと呼ぶのではない。かれは「<きみよ>といって呼びかける者」といわれる。かれは何か所有物の思いにとらわれている。無一物であって執著のな人、───かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
397 、 すべての束縛を断ち切り、恐れることなく、執著を超越して、とらわれることの無い人、───かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
398 、 紐と革帯と網とを、手網ともども断ち切り、門をとざす閂(かんぬき)を滅ぼして、めざめた人、───かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
399 、罪がないのに罵られ、なぐられ、拘禁されるのを堪え忍び、忍耐の力あり、心の猛き人、───かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
400 、怒ることなく、つつしみあり、戒律を奉じ、欲を増すことなく、身をととのえ、最後の身体に達した人、───かれをわれは<バラモン>とよぶ。
401 、 蓮葉の上の露のように、錐の尖の芥子のように、緒の欲情に汚されない人、───かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
402 、 すでにこの世において自分の苦しみの滅びたことを知り、重荷をおろし、とらわれの無い人、───かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
403 、 明らかな知慧が深くて、聡明で、種々の道に通達し、最後の目的を達した人、───かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
404 、在家者・出家者のいずれとも交らず、住家がなくて遍歴し、欲の少ない人、───かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
405 、 強くあるいは弱い生きものに対して暴力を加えることなく、殺さずまた殺させることのない人、───かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
406 、敵意ある者どもの間にあって敵意なく、暴力を用いる者どもの間にあって心おだやかに、執著する者どもの間にあさて執著しない人、───かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
407 、芥子粒が錐の尖端から落ちるように、愛著と憎悪と高ぶりと隠し立てとが脱落した人、───かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
408 、 粗野ならず、ことがらをはっきりと伝える真実のことばを発し、ことばによって何人の感情をも害することのない人、───かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
409 、 この世において、長かろうと短かろうと、微細であろうと粗大であろうとも、浄かろうとも不浄であろうとも、すべて与えられていないもの物を取らない人、───かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
410 、現世を望まず、来世をも望まず、欲求がなくて、とらわれの無い人、───かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
411 、 こだわりあることなく、さとりおわって、疑惑なく、不死の底に達した人、───かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
412 、 この世の禍福いずれにも執著することなく、憂いなく、汚れなく、清らかな人、───かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
413 、 曇りのない月のように、清く、澄み、濁りがなく、歓楽の生活の尽きた人、───かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
414 、 この障害・険道・輪廻(さまよい)・迷妄を超えて、渡りおわって彼岸に達し、瞑想し、興奮することなく、疑惑なく、執著することなくて、心安らかな人、───かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
415 、この世の欲望を断ち切り、出家して遍歴し、欲望の生活の尽きた人、───かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
416 、 この世の愛執を断ち切り、出家して遍歴し、愛執の生存の尽きた人、───かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
417 、 人間の絆を捨て、天界の絆を越え、すべての絆をはなれた人、───かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
418 、 <快楽>と<不快>とを捨て、清らかに涼しく、とらわれることなく、全世界にうち勝った英雄、───かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
419 、 生きとし生ける者の生死をすべて知り、執著なく、よく行きし人、覚った人、───かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
420 、 神々も天の伎楽神(ガンダルヴァ)たちも人間もその行方を知り得ない人、煩悩の汚れを滅ぼしつくした真人、───かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
421 、 前にも、後にも、中間にも、一物をも所有せず、無一物で、何ものをも執著して取りおさえることの無い人、───かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
422 、牡牛のように雄々しく、気高く、英雄・大仙人・勝利者・欲望の無い人・沐浴者・覚った人(ブッダ)、───かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
423 、 前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を滅ぼしつくすに至って、直観智を完成した聖者、完成すべきことをすべて完成した人、───かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
岩波書店「ブッダの真理のことば・感興のことば」中村元著より