「浄土真宗に対する100の質問」の版間の差分
提供: 本願力
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にある、若不生者 不取正覚の御文です。浄土真宗とは、あらゆる仏教がそうであるように目覚めた仏陀に成ることを目的とする教えです。往生浄土門の浄土真宗では阿弥陀如来のご本願を受け容れて、浄土へ往生して仏陀に成るという教法です。ですからこの「若不生者 不取正覚」は、もし我が浄土へ生まれさせることが出来ないならば、我(阿弥陀如来)は正覚を取らないという意味です。<br> | にある、若不生者 不取正覚の御文です。浄土真宗とは、あらゆる仏教がそうであるように目覚めた仏陀に成ることを目的とする教えです。往生浄土門の浄土真宗では阿弥陀如来のご本願を受け容れて、浄土へ往生して仏陀に成るという教法です。ですからこの「若不生者 不取正覚」は、もし我が浄土へ生まれさせることが出来ないならば、我(阿弥陀如来)は正覚を取らないという意味です。<br> | ||
− | + | 阿弥陀如来が、十方の衆生を悟りの世界である我が国(浄土)に必ず生まれさせるという誓いであって、「若不生者」に衆生を信楽(信心)にさせるという意味はありません。<br> | |
本願文は、設我得仏からみれば如来の願いであり、若不生者からみれば誓いです。 | 本願文は、設我得仏からみれば如来の願いであり、若不生者からみれば誓いです。 | ||
さて、ご質問のような発想は、本願成就文の「即得往生 住不退転」と本願文を安易に関連させ、信心の利益である正定聚と信心を混乱していることから生じます。 | さて、ご質問のような発想は、本願成就文の「即得往生 住不退転」と本願文を安易に関連させ、信心の利益である正定聚と信心を混乱していることから生じます。 | ||
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+ | 第十八願が成就したという本願成就文は以下のとおりです。 | ||
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+ | 諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生住 不退転 唯除五逆誹謗正法。 | ||
+ | (あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と正法を誹謗するものとをば除く) | ||
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本願文は阿弥陀如来の誓願であるから、「若不生者 不取正覚」と衆生の往生と自らの正覚を生仏一如に誓われているのです。<br> | 本願文は阿弥陀如来の誓願であるから、「若不生者 不取正覚」と衆生の往生と自らの正覚を生仏一如に誓われているのです。<br> | ||
第十八願成就文は、釈尊が阿弥陀如来の本願が成就したことを告げられる一段です。<br> | 第十八願成就文は、釈尊が阿弥陀如来の本願が成就したことを告げられる一段です。<br> |
2010年10月12日 (火) 18:12時点における版
Q.第十八願の若不生者の「生」は「平生に信楽に生まれる」ことなのですか?
A.このような発想は本願文の破壊です。
浄土真宗の根本経典である『大乗無量寿経』には、阿弥陀如来の救済とそれを釈尊が説いてくださる教説から成り立っています。おたずねの「若不生者」というのは、この第十八願文、
設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆誹謗正法
(たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。 )
にある、若不生者 不取正覚の御文です。浄土真宗とは、あらゆる仏教がそうであるように目覚めた仏陀に成ることを目的とする教えです。往生浄土門の浄土真宗では阿弥陀如来のご本願を受け容れて、浄土へ往生して仏陀に成るという教法です。ですからこの「若不生者 不取正覚」は、もし我が浄土へ生まれさせることが出来ないならば、我(阿弥陀如来)は正覚を取らないという意味です。
阿弥陀如来が、十方の衆生を悟りの世界である我が国(浄土)に必ず生まれさせるという誓いであって、「若不生者」に衆生を信楽(信心)にさせるという意味はありません。
本願文は、設我得仏からみれば如来の願いであり、若不生者からみれば誓いです。
さて、ご質問のような発想は、本願成就文の「即得往生 住不退転」と本願文を安易に関連させ、信心の利益である正定聚と信心を混乱していることから生じます。
第十八願が成就したという本願成就文は以下のとおりです。
諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生住 不退転 唯除五逆誹謗正法。 (あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と正法を誹謗するものとをば除く)
本願文は阿弥陀如来の誓願であるから、「若不生者 不取正覚」と衆生の往生と自らの正覚を生仏一如に誓われているのです。
第十八願成就文は、釈尊が阿弥陀如来の本願が成就したことを告げられる一段です。
ですから、釈尊は、阿弥陀如来の本願が成就したことを示すために「願生彼国」と浄土を彼の国と示されいるのです。
阿弥陀如来の本願と釈尊の教説を混乱するからこのようなおかしな解釈になるのですね。
もっと詳しく知りたい方は(別ページの詳細解説へリンク)
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【親鸞会の主張】
(株)チューリップ企画と田中一憲氏の論戦(親鸞会の公式サイトである『親鸞会.NET』で「「若不生者不取正覚」の〝生まれる〟の真意」と題して、こちらを参照するようにリンクが貼られている) http://shinjin.info/2008/10/211714155.html 『【第17回】若不生者は、死後か平生か』
元来、『口伝鈔』の体失・不体失の往生の事]の諍論といわれるものは、一念義と多念義の諍論であり、体失往生とは、臨終に来迎を得て業事成弁し浄土へ往生するとする多念義と、平生の信の一念に業事成弁して往生が決定するという両者の議論です。