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2012年8月17日 (金) 14:01時点における版

略論安楽浄土義

釋曇鸞撰

問て曰く。安楽国は三界の中に於て何れの界の所摂ぞや。
答て曰く。『釈論』(智度論巻三八)に言く。「斯の如きの浄土は三界の所摂に非ず、何を以ての故に、欲無きが故に欲界に非ず、地居なるが故に色界に非ず、色有るが故に無色界に非ざるなり」と。
『経』(大経巻上意)に言く。「弥陀仏、本菩薩の道を行じたまひし時、比丘と作り名けて法蔵と曰ふ。世自在王仏の所に於て、諸仏浄土の行を請問す。時に仏為に二百一十億の諸仏の刹土、天人の善悪、国土の精麁を説き、悉く現じて之を与へたまふ。時于法蔵菩薩、即ち仏前に於て、弘誓の大願を発し、諸仏の土を取りて、無量阿僧祇劫に於て所発の願の如く諸の波羅蜜を行じ、万善円満して無上道を成ず」と。別業の所得なれば三界に非ざるなり。

問て曰く。安楽国に幾種の荘厳有りてか名けて浄土と為すや。
答て曰く。若し経に依り義に拠らば、法蔵菩薩の四十八願は即ち是其の事なり。『讃』(讃弥陀偈)を尋ねて知るべし、復重ねて序べず。若し『無量寿論』(浄土論)に依らば二種の清浄を以て。二十九種の荘厳成就を摂す。二種の清浄とは、一には是器世間清浄、二には是衆生世間清浄なり。

器世間清浄に十七種の荘厳成就有り。
一には国土の相三界の道に勝過せり。
二には其の国広大にして量虚空の如く斉限有ること無し。
三には菩薩の正道大慈悲出世の善根 従り起る所なり。
四には清浄の光明円満し荘厳す。
五には備に第一珍宝性を具へて奇妙の宝物を出す。
六には潔浄の光明常に世間を照す。
七には其の国の宝物は柔軟にして触る者は適悦して勝楽を生ず。
八には千万の宝華池沼を荘厳し、宝殿・宝楼閣、種種の宝樹、雑色の光明、世界を影納して、無量の宝網虚空に網覆し、四面に鈴を懸けて常に法音を吐く。
九には虚空の中に於て自然に常に天華・天衣・天香を雨らして荘厳し普く熏ず。十には仏慧の光明照して痴闇を除く。
十一には梵声開悟して遠く十方に聞ゆ。
十二には阿弥陀仏無上法王の善力もて住持す。
十三には如来の浄華従り化生する所なり。
十四には仏法味を愛楽し禅三昧を食と為す。
十五には永く身心の諸苦を離れて。楽を受くること間無し。
十六には乃至二乗と女人と根欠との名をだも聞かず。
十七には衆生欲楽する所有れば心に随ひ意に称ひて無満足せずといふこと無し。是の如き等、是を器世間清浄と名く。

衆生世間清浄に十二種の荘厳成就有り。
一には無量の大珍宝王微妙の華台を以て仏座と為す。
二には無量の相好無量の光明仏身を荘厳す。
三には仏の無量の弁才機に応じて法を説き、清白を具足して人をして聞くことを楽はしめ、聞く者必ず悟解す、言虚説設ならず。
四には仏の真如智恵は猶し虚空の如し、諸法の総相・別相を照了して心に分別無し。
五には天人不動の衆は広大にして荘厳す、譬へば須弥山の四大海に映顕するが如く、法王の相具足したまへり。
六には無上の果を成就し、尚能く及ぶもの無し、況や復過ぐる者あらんや。
七には天人丈夫調御師と為りて大衆に恭敬囲遶せらるること師子王の師子に囲遶せらるるが如し。
八には仏の本願力もて諸の功徳を荘厳し住持す、遇ふ者は空しく過ぐること無し、能く速に一切の功徳海を満足せしむ、諸の浄心の菩薩と与に畢竟じて平等法身を証することを得、浄心の菩薩と上地菩薩と畢竟じて同じく寂滅平等を得。

九には安楽国の諸の菩薩衆、身は動揺せずして而も遍く十方に至りて、種種に応化し、実の如く脩行して常に仏事を作す。
十には是の如きの菩薩応化身、一切の時に前ならず不ならず、一心一念に大光明を放ち、悉く能く遍く十方世界至りて衆生を教化し、種種に方便し脩行して成ずる所にして、一切衆生の苦悩を滅除す。
十一には是等の菩薩一切の世界に於て余無く、諸仏の大会を照らすに余無く、広大無量に供養し恭敬して諸仏如来の功徳を讃歎す。
十二には是の諸の菩薩十方一切の世界の三宝無き処に於て、仏法僧宝の功徳大海を住持し荘厳して、遍く示して解せしめ、実の如く脩行せしむ。
是の如き等の法王八種の荘厳功徳成就と、是の如き菩薩四種の荘厳功徳成就と、是を衆生世間清浄と名く。安楽国土には是の如き等の二十九種の荘厳功徳成就を具す、故に浄土と名く。

問て曰く。安楽土に生ずる者には凡そ幾輩有りや、輩に因縁有りや。
答て曰く。『無量寿経』の中には唯三輩有り、上中下なり。『無量寿観経』の中には、一品の中を又分ちて上中下と為して、三三にして九なり、合して九品と為す。
今傍へて『無量寿経』に依り讃を為る。且く此の経の三品に拠て之を論ぜん。
上輩生には、五の因縁有り。一には家を捨て欲を離れて沙門と作る。二には無上菩提の心を発す。三には一向に専ら無量寿仏を念ず。四には諸の功徳を脩す。五には安楽国に生まれんと願ず。此の五縁を具すれば命終の時に臨みて無量寿仏諸の大衆と其の人の前に現ぜん。即便ち仏に随ひて安楽に往生し、七宝の華の中に自然に化生し、不退転に住せん。智慧勇猛にして神通自在ならん。

中輩生には、七の因縁有り。一には無上菩提の心を発す。二には一向に専ら無量寿仏を念ず。三には少多善を脩し斎戒を奉持す。四には塔像を起立す。五には沙門に飯食せしむ。六には繒を懸け灯を燃し華を散じ香を焼く。七には此を以て迴向して安楽に生まれんと願ず。命終の時に臨みて無量寿仏其の身を化現して、光明相好具に真仏の如くならん、諸の大衆と其の人の前に現ぜん、即ち化仏に随ひて安楽に往生し不退転に住せん、功徳智慧次で上輩のごとくならん。
又一種の安楽に往生するもの有り、三輩の中に入らず。謂く疑或の心を以て功徳を脩め安楽に生まれんと願ぜん、仏智・不思誼智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了せずして、此の諸智に於て疑惑して信ぜず。然も猶罪福を信じ善本を脩習して生ぜんと願ず。

下輩生には、三の因縁有り。一には仮使ひ能はざれども諸の功徳を作すこと、当に無上菩提の心を発すべし。二には一向に意を専にして乃至無量寿仏を十念す。三には至誠心を以て安楽に生まれんと願ず。命終の時に臨みて夢のごとくに無量寿仏を見たてまつり、亦往生を得ん、功徳智恵次で中輩の如くならんと。
又一種の安楽に往生するもの有り、三輩の中に入らず。謂く疑惑の心を以て諸の功徳を脩すること、前説に異ならず。安楽国に生れ已りて十宝の宮殿或は百由旬或は五百由旬なり、各々其の中に於て諸の快楽を受くること、忉利天の如くにして亦皆自然なり。五百歳に仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞聖衆を見ず。安楽国土には之を辺地を謂ひ亦胎生と曰ふ。辺地とは言ふこころは其の五百歳の中に三宝を見聞せず、義辺地の難に同じ、或は亦安楽国土に於て最も其の辺に在り。胎生とは譬へば胎生の人初生の時、人法未だ成らずが如し。辺は其の難を言ひ、胎は其の闇を言ふ。此の二名は皆此を借りて彼を況するのみ。是八難の中の辺地に非ず、亦胞胎の中の胎生にも非ず。何を以てか之を知る、安楽国は一向に化生なるが故に、故に知る実の胎生に非ざることを、五百年の後に還三宝を見聞したてまつることを得るが故に、故に知る八難の中の辺地にも非ざることを。

問て曰く。彼の胎生の者は、七宝の宮殿の中に処して快楽を受くるや、復何をか憶念する所ぞや。
答て曰く。『経』(大経巻下意)に喩へて云く。「譬へば転輪王の子罪を王に得んに、後宮に内着し繋ぐに金鎖を以てせんが如し。一切の供具乏少する所無きこと猶し王子の如し。王子時に妙好種種の自娯楽有りと雖も、其の心に愛楽せず、但方便を設けて免るることを求め出づることを悕ふことを念ず。彼の胎生の者も亦復是の如し、七宝の宮殿に処して妙色・声・香・味・触有りと雖も、以楽と為さず、但三宝を見たてまつらざるを以て供養して諸の善本を脩することを得ず、之を以て苦と為す。其の本の罪を識りて深く自ら悔責して彼の処を離れんと求めば即ち意の如くなることを得て還三輩生の者に同じ」と。当に是五百年の末に方に罪を識りて悔を生ずべしのみ。

問て曰く。疑或心を以て安楽に往生するものを名けて胎生と曰はば、云何が疑を起すや。
答て曰く。『経』の中に但「疑或不信」と云ひて疑意する所以を出さず、不了の五句を尋ねて敢て対治を以て之を言はん。「不了仏智」とは、謂く仏の一切種智を信了すること能はざるなり。「不了の故に疑を起す」、此の一句は総じて所疑を弁ず。下の四句は一一に所疑を対治す。疑に四意有り。

一には疑はく、阿弥陀仏を憶念するも必ずしも安楽に往生することを得ざらん、何を以ての故に、『経』(業道経)に言く。「業道は秤の如し、重き者先づ牽く」と。云何ぞ一生、或は百年、或は十年、一日も悪として造らずといふこと無きもの、但十念相続するを以て便ち往生することを得て、即ち正定聚に入りて畢竟して退せず、三途の諸苦と永く隔てんや。若し爾らば先牽の義何を以てか信を取らん。又曠劫より已来備に諸行を造る、有漏の法は三界に繋属せり、云何ぞ三界の結或を断ぜずして直少時に阿弥陀仏を念ずるを以て便ち三界を出でんや。繋業の義復云何がせんと欲すと。
此の疑を対治するが故に不思誼智と言ふ。不思誼智とは、謂く仏の智力は能く少を以て多と作し多を以て少と作し、近を以て遠と為し遠を以て近と為し、軽を以て重と為し重を以て軽と為し、長を以て短と為し短を以て長と為す。是の如き等の智、無量無辺不可思誼なり。譬へば百夫百年薪積を聚めて高さ千仞なるを、豆許の火もて焚くに半日に便て尽くるが如し。又躃者他の船に寄載すれば風帆の勢に因て一日に千里せんが如し、豈に躃者云何ぞ一日にして千里に至らんと言ふことを得べけんや。又下賤の貧人一の瑞物を獲て以て王に貢るに、王得る所を慶びて諸の重賞を加へ、斯須の頃に富貴望に盈つるが如し。豈以て数十年貧しく仕へて備に辛懃を尽くせども達せずして帰る者あるをもて彼の富貴を言ひて此の事無しといふことを得べけんや。
又劣夫の己身の力を以て驢に擲ち上らざれども、転輪王の行に従へば便ち虚空に乗じて飛驣自なるが如し。復擲驢の劣必ず空に乗ずること能はずと言ふことを得べけんや。又十囲の索は千夫も制らざれども、童子釰を揮へば瞬頃に両分するが如し、豈一の小児の力索を断ずと言ふことを得べけんや。又鴆鳥水に入れば魚蜯斯に斃れ、犀角泥に触るれば死せる者咸起つが如し、豈性命一び断たば生くべきこと無しと得べけんや。又黄鵠子安を呼ぶに子安還活るが如し、豈墳下千歳決め甦るべきこと無しと得べけんや。一切の万法は皆自力・他力、自摂・他摂有りて、千開万閇無量無辺なり、安ぞ一有礙の識を以て無礙の法を疑ふことを得んや。又五の不思誼の中に仏法最不可思誼なり、而るに百年の悪を以て重と為し、十念の念仏を疑ひて軽と為して、安楽に往生して正定聚に入ることを得ずといはば、是の事然らず。

二には疑はく、仏智は人に於て玄絶と為さず、何を以ての故に、夫れ一切の名字は相待従り生じ、覚智は不覚従り生じ、方に迷ふ如きは記方従り生ず。若し迷をして絶えて迷はざらしめば迷卒に解けざるべし、迷若し解くべくんば必ず迷へる者の解なり、亦解れる者の迷解とも云うべし、迷と解と解と迷と手を反覆するが猶きのみ、乃ち明昧を異と為すべきのみ、亦安ぞ超然たることを得ん哉と。此の疑を起すが故に、仏の智慧に於て疑を生じて信ぜず。此の疑を対治するが故に「不可称智」と言ふ。不可称智とは、言ふこころは仏智は称謂を絶し相形待するに非ず。何を以てか之を言ふとならば、法若し是有ならば必ず有を知るの智有り、法若し是無ならば亦応に無を知るの智有るべし、諸法は有無を離るが故に仏、諸法に冥ふときは則ち智相待を絶す、汝解迷を引きて喩と為すも、猶是一迷のみ、迷解を成ぜず、亦夢中にして他の与に夢を解くが如し、夢を解くと云ふと雖も是夢ならざるに非ず。知を以て仏を取るも仏を知ると曰はず、不知を以て仏を取るも亦仏を知るに非ず。非知非不知を以て仏を取るも亦仏を知るに非ず、非非知非非不知を以て仏を取るも亦仏を知るに非ず。
仏智は此の四句を離れたり、之を縁ずる者は心行滅し、之を指ふる者は言語断ず、是の義を以ての故に『釈論』(智度論巻一八)に言く。「若し人般若を見る、是則ち縛せ被れたりと為す。若し般若を見ざるも、是亦被れたりと為す。若し人般若を見る、是則ち解脱と為し、若し般若を見ざるも、是亦解脱と為す」と。此の偈の中に説かく。「四句を離れざる者を縛と為し、四句を離るる者を解と為すといへり」と。汝仏智は人と玄絶ならずと疑はば、是の事然らず。

三には疑はく、仏は実に能はず一切衆生を度したまふこと、何を以ての故に、過去世に無量阿僧祇恒沙の諸仏有ます、現在十方世界にも亦無量無辺阿僧祇恒沙の諸仏有ます。若し仏をして実に能く一切衆生を度せしむるときは、則ち応に久しく復三界無かるべし、第二の仏は則ち応に復衆生の為に菩提心を発し、具に浄土を脩して衆生を摂受したまふべからず。而るに実には第二の仏有まして衆生を摂受したまふ、乃至実には三世十方無量の諸仏有まして衆生を摂受したまふ。故に知る、仏は実に一切衆生を度したまふこと能はずと。此の疑を起すが故に、阿弥陀仏に於て有量の想を作す。此の疑を対治するが故に「大乗広智」と言ふ。大乗広智とは、言ふこころは仏は法として知りたまはずといふこと無く、煩悩として断じたまはずといふこと無く、善として備えたまはずということ無く、衆生として度したまはずといふこと無し。
三世十方の仏有ます所以は、五義有り。一には若し第二の仏無く乃至阿僧祇恒沙の諸仏無からしめば、仏便ち一切衆生を度したまふこと能はず。実に能く一切衆を度したまふを以ての故に則ち十方無量諸仏有ます、諸仏は即ち是前仏の度したまふ所の衆生なればなり。二には若し一仏一切衆生を度し尽くせば、後に亦応に仏有しますべからず。何を以ての故に、覚他の義無きが故に、復何の義に依てか三世の仏有ますと説かんや、覚他の義に依るが故に仏仏皆一切衆生を度したまふと説くなり。三には後仏能く度したまふは、猶是前仏の能なり、何を以ての故に、前仏に由て後仏有るが故に、譬へば帝王の冑相紹襲することを得るは後王即ち是前王の能なるが如きが故に。四には仏力能く衆生を度したまふと雖も、要ず須く因縁有るべし。若し衆生前仏と因縁無くば、復後仏を湏つべし。是の如く無縁の衆生の動もすれば百千万仏を逕るも聞かず見ざるは、仏力劣なるには非ざるなり。譬へば日月の四天下に周くして諸の闇冥を破すれども而も盲者は見ず、日の明ならざるには非ざるなり、雷声耳に震へども而も聾者は聞かず、声の励しからざるには非ざるが如し。諸の縁理を覚するを之を号けて仏と曰ふ、若し情強ひて縁に違せば正覚に非ざるなり。是の故に衆生無量なれば仏も亦無量なり、仏は有縁・無縁を問ふこと莫く何ぞ尽く一切衆生を度したまはざるやと微するは、理言に非ざるなり。五には衆生若し尽きなば世間即ち有辺に堕せ、是の義を以ての故に則ち無量の仏有しまして一切衆生を度したまふ。

問て曰く。若し衆生尽くべからざれば世間復無辺に堕せん、無辺の故に仏則ち実に一切衆生を度したまふこと能はざるや。
答て曰く。世間は有辺に非ず無辺に非ず、亦四句を絶す。仏は衆生をして此の四句を離れしめたまふ、之を名けて度と為す、其の実は度に非ず不度に非ず、尽に非ず不尽に非ず、譬へば夢に大海を渡るに濤波の諸難に値ひ、其の人畏怖して叫ぶ声外に徹る、人有ありて喚び覚すに坦然として憂無きが如し、但渡を為すは夢なり、渡を為さざるは河なり。

問て曰く。渡と不渡と皆辺見に堕すと言はば、何を以てか但一切衆生を度するを大乗広智と為すと説きて、衆生を渡せざるを大乗広智と為すと説かざるや。
答て曰く。衆生は苦を厭い楽を求め縛を畏れ解を求めずといふこと莫し。渡を聞けば則ち帰向し、不渡を聞けば渡せざる所以を知らずして、便ち仏は大慈悲に非ずと謂ひて、則ち帰向せず。帰向せざるが故に長く久夢に寝て息むべきに由無し。是の人の為の故に多く渡を説きて不渡を説かず。復次に『無行経』(諸法無行経巻下)に亦言く。「仏は仏道を得たまはず、亦衆生を度したまはざるも、凡夫強ひて仏と作り衆生を度したまふと分別す」と。衆生を度すと言ふは是対治悉檀なり。衆生を度せずと言ふは是第一義悉檀なり。二言各々所以有りて相違背せず。

問て曰く。如し夢息むことを得ば、豈是度にあらずや。若し一切衆生の所夢皆息めば、世間豈尽きざらんや。
答て曰く。説きて世間と為すも、若し夢息むときは則ち夢者無し、若し夢者無くば亦渡者をも説かず、是の如く世間は即ち出世間と名くと知らば無量の衆生を度すと雖も則ち顛倒に堕せず。

四には疑はく、仏は一切種智を得たまはず、何を以ての故に、若し遍く諸法を知りたまはば、諸法有辺に堕するが故に、若し遍く知ること能はざれば則ち一切種智に非ざるが故にと。此の疑を対治するが故に「無等無倫最上勝智」と言ふ。無等無倫最上勝智とは、凡夫の智は虚妄なり、仏の智は如実なり、虚と実と玄かに殊なり、理等しきことを得ること無し、故に無等と言ふ。声聞辟支仏は知る所有らんと欲すれば入定して方に知る、出定しては知らず、又知るも限有り。仏は如実三昧を得、常に深定に在まして遍く万法の二と無二とを照らしたまふ、深浅倫に非ず、故に無倫と言ふ。八地已上の菩薩は報生三昧を得て用て出入無しと雖も、而も習気微熏三昧極めて明浄ならず、仏智に形待するに猶有上と為す。仏は智断具足して法の如くにして照したまふ、法無量なるが故に照も亦無量なり、譬へば函大なれば盖亦大なるが如し。此の三句亦展転して相成ずべし仏智は与に等しき者無きを以ての故に、所以に無倫なり、無倫なるを以ての故に最上勝なり、亦最上勝なるが故に無等なり、無等なるが故に無倫なりといふべし。但無等と言ふに便ち足んぬ、復何を以てか下二句を須ふるとならば、須陀洹智の如きは阿羅漢と等しからざれども、而も是其の類なり、初地より十地に至るも亦是の如し。智は等しからずと雖も其倫ならざるに非ず、何を以ての故に、最上に非ざるが故に、汝知の有辺と無辺とを以て難と為して、仏は一切智に非ずと疑はば、是の事然ならず。

問て曰く。下輩生の中に十念相続して便ち往生を得と云へり、云何なるをか名けて十念相続と為すや。
答て曰く。譬へば人有りて空曠の逈なる処にして怨賊に値遇するに、刃を抜き勇を奮ひて直に来りて取らんと欲す、其人到り走りて一河を渡るべきを視る、若し河を渡ることを得ば、首領全かるべし。爾時河を渡る方便を念ず、我岸に至れば衣を着して渡るとや為ん、衣を脱して渡るとや為ん。若し衣納を着せば恐らくは過ぐることを得ざらん、若し衣納を脱がんには恐らくは暇を得ること無けんと。但此の念のみ有りて更に他縁無し、一ら何にして当に河を渡るべしと念はん、即ち是一念なり。是の如く十念余心を雑へざるを名けて十念相続と為るが如し。行者も亦爾なり、阿弥陀仏を念ずるに、彼の渡を念ずるが如くにして于十念を逕ふべし。若しは仏の名字を、若しは仏の相好を念じ、若しは仏の光明を念じ、若しは仏の神力を念じ、若しは仏の功徳を念じ、若しは仏の智恵を念じ、若しは仏の本願を念じて他心間雑すること無く、心心相次ぎ乃至十念するを名けて十念相続と為す。一往十念相続と言へば難からざるに似若たり、然れども凡夫、心は野馬の猶く、識は猿猴よりも劇し、駛して六塵に馳暫も停息すること無し、宣く信心を及ぼして預して自ら剋念して積習して性を成し善根堅固ならしむべしなり。仏頻婆娑羅王に告げたまふが如し、人善行を積めば死するに悪念無し、樹の西に傾き倒るるに必ず曲れるに随ふが如きなり。若し刀風一び至らしめば百苦身に湊まる、習在らざんば懐念何ぞ弁ずべけん。又宜く同志五三共に言要を結びて命終に垂たる時、迭に相開暁して為に阿弥陀仏の名号を称じて安楽に生まれんと願じ、声声相次で十念を成ぜしむべしなり。譬へば臈印もて泥に印するに、印壊して文成ずるが如く、此に命断する時は即ち是安楽国に生ずる時なり。一び正定聚に入れば更に何の憂ふる所あらん。


略論安楽浄土義