竹林鈔
提供: 本願力
西山派は法然聖人の弟子、善恵房証空(1177-1247)を派組とする浄土宗である。証空上人は、14歳で法然上人の弟子となる。以来法然上人の還浄までの21年間、その許で修学し、『選択本願念仏集」の撰述に関しては引文の出拠を照合する勘文役をつとめた。証空上人は、同じ浄土宗でも鎮西派と異なり全分他力説をとなえ、一念を強調するなど親鸞聖人と近い思想であった。聖道門仏教を、浄土から還来穢国した菩薩の修する相とするような発想も、親鸞聖人の思想と近い幸西大徳にも共通する思想である。なお、親鸞聖人にもあるのだが、後世の真宗教団で特に強調された機法一体論、一念の強調と称名報恩の関係、宿善説という概念は覚如上人が西山派の学僧に師事していたことから、西山派の影響に依るものとする見方も存在する。ただ蓮如上人は、盛んに機法一体を論じるが、この『竹林鈔』で強調される「往生正覚不二」の機法一体論ではないことを留意すべきである。やはり乱世という時代に生きた蓮如さんには、西山派の帰還命根説ではなく、タスケタマエとタノムという穢土と浄土の二元論が時代に相応すると思われたのであろう。ともあれ、そのような意味で、この『竹林鈔』で説かれる西山派の教義と、親鸞聖人の示される本願力回向の体系との同異を学ぶのも面白いと思ふ。
- 読みやすくするため、漢字のの旧字は新字に、カタカナはひらがなに変換した。原文はノートに記載した。
目次
竹林鈔
竹林鈔巻上目録
第一、廃立行成事
第二、観仏念仏事
第三、念仏王三昧事
第四、即便当得事
第五、領解後帰平信事
第六、六字法門事
第七、機法一体事
第八、三心事
第九、聖道浄土事
第十、自力他力事
第十一、二種信心事
竹林鈔上 私云、此書一本 題「山叢林」
第一、廃立行成事
聖道の外に立浄土時は、廃立を本とす。
但し
故に此仏に帰しぬれは、初発心より仏果に至まて、万(よろず)の功徳皆名号に納て、行者の功徳となる故に、六字を即大善根とも説き、無上功徳とも云る[1]不思議の名号也。
三心既具しぬれは、行として成せすと云ことなしと釈し給り[2]。是を
八万の法と名号と各別に思ふは、凡夫の機情に留る随縁の法也。如来教法元無二[3]の体六字顕るを、名本願不思議名号。
譬 月を見る人の明石の浦を翫ふ時は、須磨の月をも更科姨捨山の月をも捨る也[4]。さてよくよく明石の月を見れは、明石を照す月は総して須磨をも照し、何(いず)くをも照す也。
法界を照す月なれども、明石の浦にて見る人は、猶明石の月と云か如し。名号即八万法蔵なれとも、浄土宗よりは何れも行体をは南無阿弥陀仏と取る也。
平信と云は、只月の面白きはかりを知て、須磨とも明石とも別(わか)ぬか如く、本願虚しからねは、必す往生すとはかり
第二、観仏念仏事
観仏三昧者釈迦教、念仏三昧者弥陀教也。[6]
極楽世界の依正二報種種の荘厳を観察思惟し、乃至穢土の苦を厭ひ、浄土の楽を欣ひ、機法の差別を
又名号は諸法の本源なるか故に、一心即名号也。一心是名号なれは、諸法又名号也。如此思惟する皆是観仏の所摂也。
次念仏三昧者、南無阿弥陀仏是也。
一代を六字につつむるは、弥陀教、念仏三昧の体也。六字を一代と説くは、釈迦教 観仏三昧の義也。而念仏観仏は
義理を一心に摂を名念仏。観仏は意業を本とし、念仏は口称を本とす。而を依心起行、釈迦一代の化儀、聖道門の通宗也。
帰行捨心[7]、直弥陀別意の弘願、浄土門の所詮也。
故に和尚[8]観仏三昧を立給は此意也[9]。三業倶に南無阿弥陀仏に成て、機法一体になるを、念仏三昧といふ。されは念仏三昧功能超絶[10]と釈せり。
第三、念仏王三昧事
道綽禅師 引『観仏三昧経』、念仏三昧は一切の三昧の王也と釈し給へり[11]。是仏果無上の功徳なるか故に、諸仏も不可思議也と讃め給ふ[12]。仏果には闕減なけれは、念仏三昧の中に一切諸法皆納る。故に和尚は「恒沙三昧自然彰」[13]と釈し給り。具縛の凡夫不断一毫惑、帰本願直証得仏果三昧。同仏心故[14]。
曇鸞『註論』には、仏の功徳如実なるか故に、修行の者又如実の功徳を得と釈し給り[15]。是則他力本願の加する所也。以凡夫自力 非可成(凡夫の自力を以つて成ずべきにあらず)。今浄土の機の前には、雖以心修行一切三昧、遂不取心(心を以つて一切の三昧を修行するといえども、ついに心を取らず)。名号帰入する故に。念仏三昧は一切の三味の王たり、主たり。不可以言宣(言を以つて宣ぶべからず)。故云 無称光也。
不可以心量(心を以つて量るべからず)。故名 難思光也。
第四、即便当得事
即便往生者[16]
、一たひ他力の信心発りぬれは、凡夫の三業は則ち仏の三業と
衆生若不生者、顕不可果遂故[19]、仏は衆生の往生を成する体也。仏若し正覚なり給はすは、衆生更に
是を和尚は「
次当得往生者、平生の証得雖無尽、機は猶煩悩具足の凡夫也。故に常に貪瞋等の惑障に犯さる。此故念念相続して、期臨終来迎也。此穢身果報尽て、観音の蓮台に託し、報仏の浄土に生しぬれは、一切の悪業は一としても起ること無し。即便当得は
又是即便当得と云は、念仏行者の平生臨終利益の姿也。必しも此謂を領解して往生するには非す。故に平信の者は此等義一も知らされとも、帰本願 名号を称すれは、即便当得の能自ら納れる也。摂取の益に預りぬれは、仏方よりは既往生し、機の方よりは
第五、領解後帰平信事
領解者、念仏の功徳を一分機の上に心得也。然を世人多名号をば浅く思て、領解を所詮とす、是大なる誤也。名号は仏果の功徳也。
円頓の教法も不可外求、名号即中道止観なるか故。然我等は見性悟道不曽置心、何して深く妙なる名号を以迷心得量(迷心を以つて量ることを得んや)、
然を若し有衆生願生彼国者は、発三種心即便往生す。何等をか三とする。一には至誠心、二には深心、三には迴向発願心なり。此三心を具すれは、必す往生することを得[25]と云り。就此三心 様様異義あれとも、和尚の御釈には、一心に信楽して往生を求願するを其義とせり。即是本願の至心信楽欲生我国の意なり。至心を名一心、則至誠心の義也。一心本願の名号に帰する心を誠の心と名(なづけ)る也。
信楽は深心也、深く信する心を体とす。欲生我国を迴向発願心と名く。
「若我成仏十方衆生、称我名号下至十声、若不生者不取正覚、彼仏今現在世成仏、衆生称念必得往生」[27]と云り。
法然上人は以此文安心の肝心とし給り[28]。只様もなく以称名の一行 決定往生の業と信すへし。
又『観経』云。「光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨」と云り。是は弥陀の光明無量無辺にして、普く照十方世界、只念仏の衆生を摂取して、永く不捨事(捨てざること)を説也。然は因位の本願に
平生の念仏は未決定の業と成そと思て、
第六、六字法門事
南無阿弥陀仏の六字は、一代聖教の肝心、頓教一乗の宗極。二尊諸仏の己証、凡夫出離の秘要也。是を深位に修する時は、十地の大聖も非思議して所究(究むる所なり)。是を浅位に授ぐる時は、七歳の小児も称念して顕其証。天竺には云南無阿弥陀仏也。震旦には
命は是生死無常の命也。無量寿は涅槃常住の寿也。彼仏は自ら涅槃常住の無量寿法を覚り得て、尽未来際引接十方衆生人なれは、我等か生死無常の命を帰(かへ)して後、極楽無為涅槃界に生して、仏と共に無量寿法を覚んと欲ふ心にて、南無阿弥陀仏と念すへき也。
如此念すれは、南無の二字は願と成り。阿弥陀仏は行と成て。願行具足して。則ち往生す。
故に大師御釈云。「言南無者。即是帰命。亦是発願迴向之義。言阿弥陀仏者。即是其行。以斯義故必得往生[30]」と云り。文の意は。南無は帰命也。帰命の心は往生の為也。故(ゆえに)亦是発願し迴向して往生を求る義也。如此帰すれは。阿弥陀仏無量無辺不可思議功徳の名号の力。即ち帰命の衆生の行体と成て。願行具足しつれは。一念も往生疑無しと云也。
問。帰命に付て命をよせ命を奉る義は易知。命を帰(か)へすとは何なる義ぞや。
答。譬は流を源に帰さんか如し。一切衆生曠劫流転の生死無常の命は。本(もと)より是諸仏の果徳涅槃常住の無量寿也。然を仏は衆生の命は即無量寿也と覚て。帰する者あれは摂取して不捨玉(すてたまわざれ)は。親く近く礙り無き智願力を成就し給り。衆生は自ら迷倒して
問。衆生の命本は無量寿常住の法なれとも。流転して生死無常の命と成を。今帰命して本家に帰(かえ)ると云とも。更又衆生と成て火宅に帰るへき歟。
答。此疑甚誤れり。是は本家と云 本(も)との家の義を不心得故也。今本と云は。本とは覚りの命なりしが始て迷の命となれるには非す。只無始曠劫より迷る衆生命は。本より以来無量寿法也と云義也。譬は白石の中に本より銀の性あり。黄石の中には本より金の性あり。然とも黄石白石を練さる時は。金銀性不顕。練磨金銀と成つれは。更に黄石とならさるが如く。衆生の心中には本より無量寿法性ありといへとも。
但し本より垂迹。浄土聖衆還来穢国する時。九界の形を現するは別の事也。元来未悟也。非謂前来成仏後起すと無明等也。九界とは三乗と六道と也。三乗者。菩薩・縁覚・声聞乗也。此九界に仏乗を加て云十界也[31]。今帰命の寿は九界の命也。無量寿は即仏果の寿也。
問。今の迷を翻して本家に還る義と。聖道門の中に始覚帰て本覚に同すと云へる義と何の差別かありや[32]。
答。始覚本覚の覚体は一なれとも。修行の用心に自力他力の不同あり。彼は自心の迷を翻して自心の覚に帰る。是は自力の迷を翻して他力の覚りに
是則聖道門は観心得道(心を観じて道を得る)を宗とし。浄土門は念仏往生(念仏して往生)を宗とする故 此差別あるなり。
問。聖道門の中にも念仏三昧の門あり。何そ偏に観心得道を宗として。自力難行の道也と定むるや。
答。諸経の中に所説の念仏と。今の宗の念仏と法体は一つ也。仏意は隔(へだて)なけれとも。
此は仏覚衆生時。衆生帰仏故に。此念仏は正く他力也。易行也。
然今有浄土門行人(しかるに今浄土門の行人ありて)。雖学念仏用心(念仏用心を学ぶといえども) 多く自力に帰して。一心帰命の輩少なし。是則 不信阿弥陀仏即是其行義故也[33]。
問。然らは何をか阿弥陀仏即是其行の義と知へきや。
答。世人の思るは阿弥陀仏と唱るは。即是口業の行なれは。即是其行と釈すと思へり。此義甚た不然。口称すれは口業の行也といはば。六字皆行也。何そ南無は是願也。阿弥陀仏は行也と可云や。
又口称の故に行也といはば。聞名往生の者は無行而生すと云へき歟。故に今の義は只就六字法門。願となり行となる功徳ありと心得也。其故は南無の二字の中には成願義(願の義を成じ) 阿弥陀仏の名号には成就行功徳(行の功徳を成就す)。一声称念すれは。一願一行具足し。十声称念すれは。十願十行具足し。乃至百千万億無量の願行を具足し。成就して決定往生の正業也と釈する也。
是則 命を阿弥陀仏帰するは願生の心也。此願既に仏に帰すれは。阿弥陀仏の無量無辺の功徳本願力の故に。帰命の願を扶持して摂取して不捨。仏の功徳即ち往生の行体となるを。即是其行と云り。「序題門」中に。「一切善悪凡夫。得生者莫不皆乗阿弥陀仏 大願業力為増上縁」[34]也と云り。一切善悪凡夫は能帰の機也。莫不皆乗と云は。即帰命の機の義なり。阿弥陀仏大願業力とは。即是其行体也。『婆娑論』には是を水路の乗船に譬へたり[35]。船は願力所成の名号の功徳に譬ふ。乗するは帰命願生の心に喩ふ。若しかちより行く時は。自力の足を力として歩み行か如く。聖道自力の行は機の三業を其体として仏道に入らんとす。
今の他力易行の道は不然(しからず)。以信仏因縁 帰命し発願すれは。所帰の仏の大願業力所成の無量無辺不可思議功徳の名号。行者の三業に代て浄土に往く力となる事。船に乗すれは歩行に勝(すぐれ)たるが如し。然に念仏行者還て己か三業を励すを其行と思るは。船乗する者の目足を運て進んとせんか如し。豈に謬るに非すや。
問。然らは念仏の行人は僅に帰命の願を発すばかりにて。三業の行をは不可修歟。
答。此義又不可然。三業を起せとも只是帰命の一心に住して。己か功を募(つのら)さる。是を名真念仏。
喩は乗船後は三業を摂て船中に住すへし。不摂三業(三業を摂せざるは) 船より落て岸に不到故に。念仏の行人は三業皆他力に帰して。自力の心を不雑(雑じじえず)。一心専念三業無間[36]とは名(なづけ)る也。三心の釈の中に。「身口意業所修解行。必須真実心中に作へし[37]」と云る此意也。如此一心に帰命しつれは。行住坐臥身口意業。寝てもさめても阿弥陀仏者即是其行の願力の船に乗して。浄土無生の彼岸に無不到(到らざるは無し)。此故に「一心専念弥陀名号。行住坐臥不問時節久近。念念不捨者是名正定之業[38]」とも釈する也。
問。此義実に甚深也。一心に帰命すへし。但し帰命といひ無量寿といふ。今の体は何なる法をや。
答。帰命の命は有為無常の法也。別に無其実体。
只色心連持相続する所を。仮りに命根と名けたり。故命を仏に帰する時き。色心三業悉く帰する也。無量寿の命は無為常住の法也。無為法性は即是無為の法也。故に帰命して浄土に生する時は。即無為法性の身と成て。無量寿の法を覚る也。捨此穢身 彼法性常楽を証すへしと勧るも此意也。[39]
又真言教の中には息風を命の体とする事あり。此故に帰命の法門は専ら弥陀の内証にありと談す。弥陀は五輪の中には風輪。三密の中には語密に司となりて。出入の息を其体とすと習故也。依此義今の帰命の義も。衆生の命の息本とより無量寿の体なる故に。翻迷 帰其本義あるべし。凡そ口称三昧の深義は真言宗に亘(わた)れり。三密加持の頓証は願力の功に帰す。然とも機情の領する所に難易の差別ある也。
問。如此義者。出入の息風を阿弥陀の常寿に帰して。乃至臨終にも。此心改変せすは。別に雖不称名 必す可往生歟。
答。此義勿論也。凡そ今の宗義は平生にても臨終にても。始て聞此教 一念帰信する時。即 証得往生無退失。此心常に存すれは。即ち常に称念する人也。縦(たと)ひたた念して不動舌立声。聞仏名発信心 生帰命念。皆是称名也[40]。
問。帰命の義いよいよ銘心肝。但し経には「発三種心即便往生」と説き。釈には「若少一心即不得生」と判せり。今只帰命すれは一心に即生すと云。相違するに非すや。
答。是全非相違。帰命の義の中に自ら三心具(そなわ)れり。三心の詮要は一心也。其の故は三心は只是信仏の心也。信心の初の心を至誠心と名け。中の心を名深心。後心を名迴向発願心。故に『論註』には三種の信心と云り[41]。信仏の心はまた帰命の心也。亦名念仏。故に帰命の外に別無三心。仍(よつて)本願の至心信楽欲生我国の文を引。ただ称我名号と釈し給へり。[42]
又「言南無者帰命 亦是発願迴向之義」と釈するも。帰命の意は至心信楽して迴向発願する心也と顕す也。七歳の小児も称念の証を顕す事。即此故なるへし。早く諸の雑念疑を捨てて一心に六字の名号を執持すへし。
第七、機法一体事
本云 念仏宗愚老顕意。
『観経』云。「諸仏如来是法界身。入一切衆生心想中[43]」と云り。是は仏の衆生を哀み給ふ余りに。凡夫の拙(つたな)き心中に入て正覚を成し給ふ也。譬は月の水に影を宿すか如し。月は遥なる空に栖(すむ)とも。此水を縁として必す影を移す。仏は十万億の西に浄土をしめて坐せとも。更に我等か胸の中を
善導 念仏し給時。口より仏の出たまふ此謂れなるへし。彼は正行も進み。利他の功徳も功積みたまへは。色にいで形に現じ。人にも見へ給ふ。其余の人は正行も少く徳もいたらねは見へ給ことなし。然とも我等か唱る念仏の息も。同く仏体なるへし。依之 古き御詞にも。是を凡夫の口称と云んとすれは。
第八、三心事
至誠心者。我等か虚仮雑毒の誠しからず心の内に。仏の真実の本願を憑み奉る心也。我等か心は縦ひ清心を発せとも。
次に深心と者。仏の本願を聞きなから。堅固の信心も
次に迴向発願心と
仏の功徳の衆生に成するとを比れは。悪は還て水上の油の如くになり。仏の功徳は水中の乳の如くなるへし。仏は神通自在の御心なれは。慈悲智恵方便を以て。衆生の善心の中。悪心の中。三毒の心中。十悪の心底まても。
よくよく是を可心得也。地獄の猛火は悪業の故に来迎す。化仏菩薩となるへき謂(いわれ)は無しといへとも。只今煩悩を発す心の中にも。仏の慈悲は附添て暫(しばらく)も
されは煩悩発らん時には。此煩悩よりも猶(なお) 仏の功徳は懇にて。定て哀み給らんと憑み。罪の深からんに随て。弥(いよい)よ仏の功徳は深重にこそ成り給ふらんと可思也。正(まさし)き地獄の猛火たにも化して仏となるは。大願の力也。其猛火も来らざらん人の憑本願(本願を憑みて)往生せん事は。疑あるまじき事也。
第九、聖道浄土事
又浅教には出入の息を数て。静乱意 観身不浄治貪心。観心法雖区皆先心。以智恵離生死[48]。是を云聖道門也。
浄土門者。「一切善悪凡夫。得生者 莫不皆乗阿弥陀仏大願業力 為増上縁也」[49]と釈し給へり。垢障覆深なれは真如の浄体を顕すこと
「根性利者皆蒙益。鈍根無智難開悟」[51]と釈し給り。是聖道浄土の姿也。「戒品浮嚢易破。智恵船筏不全」[52]。生死の大海を渡へき縁かけはてて。諸仏の化導に漏れ、八万の教益に
故に因位の悲願不虚。
『安楽集』に「得二種勝法以不排生死故不出火宅」[53]と云り。「難受人身 仏法難値。急に可励出離一行。思之非為他」[54]。よくよく我身の有様を量て、聖道より
故に和尚も我所愛は即是我有縁行也。汝か所愛は即汝か有縁の行也。欲学行必依有縁法[55]釈し給り。東へ行ん人には教東。西へ行ん人には西を教べし。努力不可有偏執(つとめて偏執あるべからず)。発菩提心解脱すること
第十、自力他力事
念仏をは申しなから妄念の起るに
大方聖道門の勧なれは、妄念を止(とど)め散乱をも静て念仏せはやと思へとも、煩悩内に具し、悪縁外に催す。凡夫の習は
妄念の中よりも。散乱の上よりも。口に名号を唱へ。心に名号を念し。身に名号を敬へは。三業其に南無阿弥陀仏に成て。一声に十悪の罪消て流転の障絶へ
以此思知へし。妄念の起るに付てもいよ[いよ]念仏の信心は立こと也。是を悪(あし)く心得て。或は
無始より難離(離れ難き)生死を離れて。今度往生の素懐を遂んと思立ほどの人は。争(いかで)か流転の業因を好み造るへきや。但 呑釣の魚は水にあること不久(久からず)。魚強く糸弱き時は如不引。難有 止悪修善の謂も。貪嗔具足の凡夫なれは。煩悩強くして歴縁犯すことあらは。必可随犯随懺。念念称名常懺悔せよと釈せり。
証空上人の御詞にも。帰命の行者の貪嗔は。水の上にふる雪の、ふるとは見へてたまらざる如しと云へり。念仏懺悔深く憑べし。凡そ念仏にさま[ざま]の功能あり。念仏すれは滅罪し。念仏すれは護念せられ。念仏すれは摂取せられ。念仏すれは往生す。是を名五増上縁利益[63]。
又摂取の益に預かれは。仏と衆生と一に成て。口に常に称すれば仏則聞給。身に常に礼すれは仏即見給ふ。心に常に念すれは仏即知給ふ[64]。月独り不宿ら。必す如尋水。念仏の行者の信水の水を尋て。摂取不捨の月も宿る也。
平生より業成するを云即便往生也。臨終に観音の蓮台に移るを名当得往生。一期の間護念せられ。臨終の夕には来迎し給ふ。是仏の名号の力也 当知。本誓莫忘。
第十一、二種信心事
或人云。本願をは信すれとも。
或人云。念仏は
前人は疑機(機を疑い)。後人は疑法(法を疑う)。機を疑ふ人の為には第一の信心を勧め。法を疑ふ人の為には第二の信心を勧む。機の有様を
釈第一信「一者決定深信。自身現是罪悪生死凡夫。曠劫已来常没常流転。無有出離之縁」[70]と云り。
聖道の心は一筋に就仏法 勧信(仏の法に就いて信ずることを勧むなり)。
[浄土の心は][71] 今身の有様を信せよと釈し給ふ。我身は往生難叶事(往生かない難き事)を
《自身》
嘉祥釈云。「夫死由生来。宜畏於生。吾若不生何有死。見其初生即知終死。宜泣生。不応畏死」[74]。生を受る人死に帰せぬ事なし。生時も独り生し、死時も独り死す[75]。無常念念に至て常に死王と居す[76]と云は、司業閻王[77]の眷属也。業に引れて独り行時。妻子も珍宝も更(さらに)随ふ者の無し。一且の名利に繋縛せられて。目前の事をのみ歓(よろこ)ひ。夢の後の昇沈を
一期はほとなき[78]仮の宿り。住はつべき[79]所に非す。此の必滅の理を思知て。常住の棲(すみか)を求むへし。喜あらん時は極楽の快楽を思ひやり。憂あらん時は地獄の苦を悲て。折に触れ事に随て。厭無常(無常をいとい)。涅槃を願ふへき也。
《曠劫》者。無始の名也。生死に輪迴する事の久(ひさしき)を顕す。《常流転》と云は。
釈第二信心云。
「二者決定深信。彼阿弥陀仏四十八願。摂受衆生。無疑無慮。乗彼願力。定得往生」[80]と。《彼四十八願》は第十八に極まる也。四十八願
《乗彼願力定得往生》者。煩悩に侵(おかさ)れて出離の縁なき愚痴の機を救んか為に。十念の悲願[83]を発して。因位の修行一念も真実ならずと云ことなし。捨国城妻子。難行苦行し給し万行万善。併(あわせて)本願の名号に納りたるに依て。此仏に帰命すれは。我等に代りて修し給し仏の功徳。即我等が功徳と成て往生する意也。
機を罪悪生死の凡夫そと信すれは無慢心。慢心ある時は不離生死也(生死を離れざるなり)。法を《乗彼願力定得往生》と信すれは無卑下心。卑下ある時には不往生也。機を思知て仏を憑は、自力を捨て帰他力憑む也。機の有様も。法の不思議も、余所(よそ)の事に非す。行者の自身に可思分也(思い分くべきことなり)。
されは「信知」してと釈し給り[84]。二種信心立(たち)ぬれは、自ら三心は具足する也。
至誠心者。以我身凡夫(わが凡夫の身をもって)の三業を真実となすに非す[85]。貪嗔具足の凡夫の習は。心に
深心の二種の信心の外に
又迴向心も第二の信心に顕るる名号を。随機説三世善(機に随いて三世の善を説く)、念仏に迴すれは皆往生の業と成也。
水火の二河は罪悪生死の凡夫 貪嗔を具足する姿也[86]。三心は二種の信心に顕れ。二種の信心は帰命の一念に極る。
帰命と者。名号の力にて決定往生すへしと疑はぬ心也。此故に三心も詞(ことば)にて云時は三つあるに似たれとも。行者の発す時は只一心に顕る。
南無は第一の信心を立る機の姿。阿弥陀仏は第二の信心を勧る本願の功徳也。されは三心の名をもしらす。二種の信心の有様をも弁ざる一文不通の輩も。本願の不思議を信して名号を唱れは。願力住持する故に。機法相成(機法あひ成じて) 必す往生する也。妄念を切る利剣[87]。貪嗔を
竹林鈔巻下目録
第十二。六字妙解鈔
第十三。念仏三昧為宗事
第十四。一心帰命事
第十五。十劫正覚事
第十六。浄土頓教事
竹林鈔巻下
第十二。六字妙解抄
十八 設我得仏と十方衆生とに校す。
問。六字の名号は其体何物そや。
答。機法 生仏体にして。無二の道理を以て其体とする也。其故は南無は帰命なれは衆生也。機也。無量寿を阿弥陀仏と名(なづけ)るは法也。然(しかれば)衆生の機 諸仏の法に帰するを云南無也。諸仏の法を衆生の機に覚るを阿弥陀仏と号する。故に機法一体にして生仏不二也。
是を念仏三昧の禅門と名けき。誠 頓教一乗の極致也。
問。機法一体生仏不二の道理に依らは、機をも忘れ、仏をも可亡。何そ唱此六字 他仏の浄土に生んと願するや。
答。生仏一如の理は誠に雖天然、衆生は迷一如。諸仏は不二にして覚れり。故に三世の如来出世して衆生を化すと云は、顕此一実理。為救衆生迷也。然は聖道八万門は観心得道を宗として、即此不二の心地に至しむ。故に根性利者 観智明かなれは雖取悟 鈍根無智の障重は無由。爰に弥陀の智願超世の本誓は、常没至愚の衆生を哀て、此六字他力一門を開き給り。是則衆生の迷心を捨て、一向他力に帰する言語を成する故。一心称念する者は即念帰無念 即生至無生(即ち念無念に帰し 即ち生は無生に至る)。
『五会讃』云。念即無念なれは不二門也。生即無生なれは第一義諦也と。正く此意也。然は観自身 止忘念 心励んよりは。
問。既一心称念すと云は、猶是心を先とするに非すや。何そ諸教の観心に異なる念仏の宗義を可立耶。
答。此難甚愚也。三心と者(は)、
問。阿弥陀仏去此不遠と説き。是心作仏是心是仏とも説くは似観心法門。諸師の意多然也。今義如何。
答。諸師は誠に約観心雖釈、今宗義は不然。先釈去此不遠文有三義。一分斉不遠者。従是 西方過十万億仏土。不隔恒河沙世界仏土 近説けり。[90]
二道里雖遥者、道の里数遥也と云とも。前念に命終すれは後念即生するか故に、唯一念の隔なけれは不遠と云り。
三不限命終時(三には命終の時を限らず)、平生注観すれは、心境相応して常に目前にある故に近しと云り。但し此三義は釈迦観仏三昧の分也。若し弥陀教念仏三昧の義をいはは、名体不二の仏身なれは。応声即現す。迴心正念にして生んと思ふ者、立地に即生す。
三悪火坑臨臨欲入の機を救んか為に、立撮即行が故に説 去此不遠。然は是心作仏是心是仏と説くは。第八観の文也。是は観仏三昧の法門也。其仏実には応声して来迎するを、真身観の中には念仏衆生摂取不捨と説けり。其文を釈するには親・近・増上の三縁義を述たり。皆是名体不二の仏の摂取衆生の相也。此義を信すれは知識の勧る声を聞くに、此声即仏身也と知り。自ら口称念しても。此声は即仏体也と信して。更に努力努力仏遠しと思ふ心には不可随。
『般舟讃』云。「唯恨衆生疑不疑。浄土対阿[面]不相忤。莫論弥陀摂不摂。意在専心迴不迴」[91] 文
『法事讃』云。「一切迴心向安楽。即見真金功徳身。浄土荘厳諸聖衆。籠籠常在行人前。迴心向者」[92]。
「玄義」云。「南無者。即是帰命。亦是発願迴向之義。言阿弥陀仏者。即是其行。以斯義故必得往生」[93]
と云り。
第七観の所現の仏体は正き此等の深義を顕す也。
第十三、念仏三昧為宗事
或人云。今念仏三昧は
今云。此義甚不可也。諸師は観仏三昧は一法の異とて、両三昧とは不分別[94]。今家には観仏をば名定心三昧。念仏をは名口称三昧。行相遥異也。然は観仏の定心三昧は釈迦教の意也。口称の念仏三昧は弥陀教の意也。弘願は釈迦諸仏の教位を超て。南無阿弥陀仏の口称を以て。頓教一乗の正宗要とせり。『観経』の流通分に観念相対して比校する時説云。「若念仏者当知。時[此]人是人中芬陀利華」なりと讃め給をは、専念弥陀名と釈して称念三昧と名たり。
さて下文には「当坐道場生諸仏家」と云り。称名三昧を往生成仏の宗とするに非すや。然に称名浅しと下して観念を宗とせは、近くは和尚の釈義に違ひ、遠くは二尊の密意に背く。雖学浄土教文、還不越諸教宗義也。
弘法大師の顕密二教を判し給ふに。一心の利刀をもて翫は顕なり。三密金剛を振ふは密也と習ふによらは。定心観恵を尊て口業の称名を賤むは。聖道宗の中に真言宗の深義をも不知人也。況や浄土弥陀別意の宗義をや。顕宗の学者。菩提成道の時は。但黙然坐禅して不起口業云り。
真言宗義は語密を為本と。口には誦真言。意には念真言。身に結印契を真言の仏とは成る也。
浄土宗の心は又三業皆南無阿弥陀仏の六字の法門に住して。往生をも遂け成仏にも至る也。南無阿弥陀仏者。生死無常の命を捨て。帰涅槃常住言也。此故に捨四位命帰果仏命時(四位の命を捨て果仏の命に帰す時)き、南無阿弥陀仏の義は顕れはつべき也。口には命を無量寿の悟に帰する思をなし、身には命を無量寿の覚に帰する相を表して坐道場時き、菩薩の三業 入無量寿覚位 名成仏也。
此三業は皆南無阿弥陀仏の六字の功徳法門也。南無阿弥陀仏の六字の法門なれは。総して口称三昧の三業と名(なづけ)る也。是則口称を為本 具三業法門也。例せは真言宗三密は皆語密を本とするか如し。不知此義者。口称名号を賤して。自心の観解を深しと思へり。既に弥陀智願別意に背けり。往生成仏共に遥なる安心也。抑等覚菩薩の道場に坐する時。賤仏名 称念せずといはば。釈迦成道復還て仏名を称念せしをば。此事軽相也と云へしや。
『無量寿経』云。去来現仏仏仏相念 文
妙覚如来猶称名すと許さは。等覚の菩薩何そ以口称三昧 成仏の因とせざらんや。其証文非一。『法華経』方便品。釈迦始て坐道場。三七日中に思惟し給し事を説て云。「我所得智慧。微妙最第一。衆生諸根鈍。云何而可度。尋念過去仏。所行方便力を以。我今所得道。亦応説三乗。作是思惟時。十方仏皆現。梵音慰論我。善哉釈迦文。第一之導師。得是無上法。随諸一切仏。而用方便力。舎利弗当知。我聞聖師子深浄微妙音。喜称南無仏。復作如是念。我於濁悪世。如諸仏所説。我亦随順行」[95]と云り。
此文の心は釈迦一代の説法は南無仏と称し給し言を始として。念仏三昧の力には八万聖教を説給へりと顕すなり。然は釈迦利他の説法も。以称名念仏 宗本とす。悉達の自成仏道も。必す亦た称名三昧を可為宗要。
『守護国界経』云。一切義成就菩薩道場に坐して。初夜分に
一道無為の正覚を成せし時き。油麻の諸仏の驚覚を蒙て。鼻端に唵の字を観して。後夜分に三密の成道を遂け給へりと説くも。此宗骨を以て見れは口称三昧の成道也。唵字は帰命也。南無の義と同し。一切義成就菩薩は悉達太子也。一道無為の覚は顕宗の至極也。即一心利刀也。唵字は三密金剛密宗要也。浄土宗の南無の義と同し。
帰命を宗とする謂れ立ぬれは。無量寿覚に成るを成仏とは知へし。さて南無阿弥陀仏の口称三昧を。頓教一乗の宗極と顕し畢ぬれは。弥陀超世の願意爰に顕れて。浄土の念仏宗は立也。此は序題門の教相。釈名門の宗義也。『五会讃』云。「念仏成仏是真宗」と云るも指此法門也。又往生と成仏と各別に執して。口称は往生の要也。成仏の宗に不及と云義は。不伝今宗 風迷情也。
今宗骨は往生成仏不二にして而二也。二而不二也。『法事讃』云。浄土無生亦無別。究竟解脱金剛身[96]なりと云へり。又「序題門」にも捨此穢身即証彼法性常楽と云るは。往生は即成仏の義也。
釈名門に「既生彼国更無所畏。長時起行果極菩提」[97]云。不二而二なる義也。往生既に成仏なる義を覚ぬれは。口称三昧の宗。往生には立して成仏には不立と云思ひはあるまじき也。よくよく可思之而已。
南無阿弥陀仏九品往生経云。仏説『九品往生阿弥陀三摩地集陀羅尼経』。
「大菩薩声聞大衆。往詣仏所白言世尊。無量寿国在九品浄域三摩地。即是諸仏境界如来所居。三世諸仏従是成正覚。具足三明増長福恵。」[98]
第十四、一心帰命事
師云。十方一切の三宝皆弥陀の功徳也と照し見る心にて。弥陀の功徳の外に更無異三宝と念する故に。一心とは云也。如此帰する時は。諸仏菩薩も歓喜し。天神地神も随喜する也。
若有二心 念弥陀外念余仏者。是則雑修雑行也。俗典にも一心を以ては可奉百君 以百心一君にも不可見と云り。念仏心も亦可如此。
次に帰命者。三義あり。帰依義。帰奉義。帰還義也。帰依仏を憑む心也。為蒙仏護念摂受 帰依する也。帰奉義者。謂命を弥陀に奉る義也。即仏を供養する心也。一切衆生の所重不過命故。帰命するを以て第一の供養とす。帰還義者。翻迷帰本家心也。前二義は通大小乗。後一義は在大乗。大乗中有聖道有浄土。聖道意は以生死流転命 帰一心本源。是猶依心立行門なるか故に自力の帰命也。
今浄上門の帰命は十方衆生の生死無常の命を捨て。無量寿覚の涅槃常住の本家に帰する也。
問。初二義は易知 帰還義は未顕。凡そ帰と云は他物を押取借請分得たらんを。本主に帰しつけん時。帰とは云へき也。然に無量寿命は自元仏命也。帰命は又衆生の各各の己か命他。仏命を押取にも非す。借請るにも非す。依何帰する謂可有耶。
答。如此疑は衆生各各の迷也。翻此迷如仏覚安心するを帰命とは云也。其仏覚者。弥陀如来法蔵比丘の昔。五劫思惟して。十方衆生の生死流転の苦を愍み。涅槃常住の楽を与ん事を思惟観察して。何なる道よりか此大悲の利益を。衆生に施べきと案し給しに。十方衆生我か果徳涅槃常楽の国を願ひ。我常楽涅槃の無量寿覚に帰命して。唱名号者一人としても生せすといはは。不取正覚と誓てそ。此大願は成就し。円満すへしと案し得て。即発四十八願。正覚を唱てより既に十劫を経たまへり。倩此理を思へは。我等か命をは無量寿の涅槃た[の]覚に収入て。無生常住の寿と知見しけるを。衆生愚迷にして不知本願深意、不解仏智普覚。各以人 我執心 我か命也と愛す。至今 生死流転しつるは。即仏の御命を押取て我命とす迷也。依之釈尊出世して凡夫を化し給ふ。大小漸頓教門雖区。翻邪帰正を安心とせずと云ことなし。其翻邪帰正の意は翻邪三帰とて、南無仏・南無法・南無僧と唱て。出九十五種邪道 入仏道正路。如此帰すれは行者身命即諸仏の命に帰する謂(いわれ)あり。
然に聖道諸教の門人は雖翻邪帰正。猶不捨自力情(邪を翻し正に帰すと雖、なお自力の情をすてず)。仏に帰しても更に我命と思へり。此は仏の御命を借請たる分斉也。然を今の浄土の安心は永く捨自力 専他力帰入すれは。借命永く仏に帰し奉るに当れり。一心に帰命して畢命を期とする念念相続の正行は。初一念正因 帰命の上に正行の帰命を相続する也。
其正行の帰命は仏の命を分て得たるを、又仏に奉帰也(帰したてまつなり)。其故は三業六根・色身命根。悉く捨て仏に帰し畢ぬれは。更に無衆生身命。只仏身命也。是云正因帰命。然又衆生と仏と分て因果位不乱。譬は父母の精血を分得て子孫の身体とするか如く。仏の御命をは分得て行者命とする故に。三業の功徳皆仏の功徳なれ。
然とも又行者の三業 仏の三業。彼此相分たる位に非す。不二而二也。是を真の仏子と名く。知此理故 我三業を守護し。行住坐臥に不捨帰命念。畢命を期とするは仏御命を分得たる命なれは。念念に力に帰し奉る。誠の心を至して仏恩を報謝する也。譬へは人の子の孝養の道を行は。身体髪膚を父母に受て破ざるを孝の初とする如く。念仏の行者も我身命は仏の身命なれは。三業緊くして敢て不懈孝の始とすべき也。
又人の子の身を立 名を挙け。親の徳を顕すは孝の終なるか如く。念仏の行者も真仏子と成ぬれは。念念相続し。畢命を期として臨終不乱也。されは信心一度発る正因成就の位に。我か命 仏の命に帰命して。越生死 昇涅槃。即便往生の因証也。已に此証を得ん人は。
問。今の帰命は十劫正覚の弥陀の涅槃に帰すと聞へたり。聖道門の自心の本源に帰すと云るは。本覚の理に帰する歟。然は二門の義
答。今無量寿の本家に帰る外に。実には更に本覚の本家も無き也。其故は法蔵比丘五劫思惟の智慧深く徹性海底 生死涅槃一道無礙なる謂を通達して。衆生一念帰命の位に。即無上大利を得て。我所住涅槃常楽に帰せん事。不可有滞と覚極めて所発仏智の願と名(なづけ)る故に。此正覚智海の外に更に不可論 真如性海。始覚本覚不二の覚を。十劫正覚の弥陀と知へし。故に「一到弥陀安養国。元来是我法王家」[99]と云り。
但し聖道門は依心の道なる故に。自ら本家に帰すと習。浄土門は乗願の故に念仏 証法性常楽也(念仏、法性常楽を証すなり)。
問。爾は聖道の行者は自ら発始覚智 直入本覚理。浄土門は帰弥陀 始覚転して証本覚理歟。爾は聖道は頓教也。浄土は漸教也と可云歟。如何。
答。聖道の宗義より来し判ぜは爾也と可云。浄土の宗義は全不然。彼聖道の学人の自ら帰本覚と思は自力の執也。望仏知見 以仏力帰する也。故に華厳 大品には菩薩の万行は不離念仏の心と明し。法華 真言には仏所護念神変加持と説けり。『智論』には若仏不念善根即滅と定たり。凡そ仏力を離て本家に帰る道無し。此義を如実明めて。捨自力帰他方念仏して帰本家。浄土真宗[100]の正義とせり。彼聖道の機情を見れは。自ら本家に帰すと思るは。猶是我法の執なるか故に非真実正念。真実の正念に非れは成仏の直道にも非す。故に自ら頓教と執すれとも還て漸門に落つ。是は機情の科也。彼れ若し解仏密意如説修行せは。如法華説即往安楽して一乗の覚を可開也。是を法華の召美とす。
又是華厳真言の正意也。普賢の十願極楽に帰るは華厳の極意也。諸仏の正覚弥陀に帰るは真言の密義也。能く諸教に明ならん人は不可疑此義故に観念門には諸教頓教文義歴然。
爾有人公然不信。何由有と云り。是を答るには自性悪人は不信。自性善人は不疑と答給へり。諸の善より[男]子・善女人。若し悪性の名を離んと思はば可信此義也。
問。如此多義甚深也。諸仏に帰命する帰命と。弥陀に帰命する帰命と二也哉一なりや。
答。此問非也。上来の義勢是明也。凡そ無量寿に非すは命を帰すべき理無し。故に諸仏に帰命するも。諸仏如来是法界身の謂にて。阿弥陀ならぬ仏なけれは。弥陀に帰命すと心得べき也。釈の偈の文に「帰命尽十方。乃至果得涅槃者」と云るは此意也。
果徳涅槃者。其体弥陀也。『法事讃』に果徳涅槃常住世と云。弥陀の妙果を無上涅槃とも云る此意也。されは華厳・法華・金光明・涅槃経等に。各各釈尊寿命長遠劫の功徳を説るは。釈尊の内証は阿弥陀也と顕されたり。『法事讃』に果徳涅槃常住世寿命延長難可量と云也。双樹林下往生楽と云を。釈尊涅槃の道場は弥陀涅槃会と讃め顕せるも此意也。
弘法大師『大日経』開題に。顕密の諸経如是我聞の上に曩謨の二字あり。翻訳の人略之。此帰命の二字は無量寿仏に帰する也と釈し給へり。然を此帰命の詞は能説の仏の自唱の言也とも釈し。結集の人の置る言也とも釈す。結集人と者。顕教は阿難。密教は金剛薩埵。『大日経』は即薩埵の結集也。金剛薩埵の弥陀に帰すらん事は其理可然。大日の帰命阿弥陀云事は似難思。其故は真言宗の意は以大日為諸仏本。四方四仏は大日の伴也。中台の大日還て西方の弥陀に帰すらん事。逆なるに似たり。然を大師已に『大日経』の教主帰弥陀曩謨と唱と許し給へり。依之深く習ふ事有りと 云云
取要 是をいはは。凡そ五仏三十七尊正覚を成する経は無不帰弥陀。『大日経』の疏にも仏仏道同更無異路と釈して。阿弥陀の位に不帰して成仏する仏なしと定たり。故に大日如来の自覚正智も弥陀に帰して成す。覚他の諸仏も弥陀の転法輪智より成す。故に両部の真言金剛界には唵の字を始とし。胎蔵界には嚢謨[101]の詞を始とす。皆是帰命也。所謂無量寿に帰する趣也。依之八万四千の法門は皆弥陀三昧法曼荼羅身と習へり。真言宗の習事は諸仏を弥陀に帰して。三密の中に語密を宗とするも。浄土宗義に親き謂也。
凡そ此事を案するに。夫大日弥陀果海一味也。光明遍照智徳何そ異らん。然に五方の仏位を以て五智を配するか故に。以法界体性智 名普門大日 以妙観察智 号無量寿仏。如此智智互融し。如此仏は仏仏同体也。以是『無量寿経』の中に又五智の名を列ねたり。仏智・不思議智・不可称智・[大乗広智・]無等無倫最上勝智と。是則仏地の五方大日の五智也。宜哉。彼如来の名を称する事。彼如来の光明智相の如く。彼名義の如に如実に修行し相応する者。生彼安楽国 到蓮華蔵世界。以名異執二界処別耶。何況や性浄円明内証三点。即十地の菩薩といへとも猶非其境界。
爾時如来往昔大悲願故 住於加持世界示現悲生曼荼羅。是又妙観察智秘妙方便力。五智願行を開て十方を摂取するに非すや。故今弥陀の願海に帰して欲浴大日智水 甘露灌頂。摂取作仏。仏仏道同無異路故也。
天台止観にも但専弥陀為法門主と釈す。況や浄土宗今の解釈。尽十方の三宝は皆無量寿の所開也と不顕耶。然に或学者尽十方の詞に迷て。通して帰諸仏と思る。愚痴の至り也。
天親の論には尽十方無礙光如来と云り。諸仏皆弥陀なれは。帰無礙光如来一仏讃嘆せるを。今の文は弥陀即ち諸仏也と開き出して。弥陀の功徳十方に遍する義を顕す也。
『大経』云。「廿露灌頂衆妙法声」[102]。善導釈云。「無辺菩薩弥陀心水浴身頂」[103] 文
第十五、十劫正覚事
問。弥陀の正覚十劫と説くは教文の方便歟。真宗の実義歟。若夫方便也といはは。大経小経は可非真実了義。若依之実義也といは、案法華意。開三乗顕一乗。廃近成立久成。一乗真実実義とせり。
『般舟経』の中にも三世諸仏依弥陀三昧と説歟。若十劫正覚迹門の方便也卜不遺者。久遠諸仏念弥陀成正覚義。如何可成立耶。
答。一義は十劫正覚は教文の方便也。如一辺難 大経小経不了義経になりぬと云難に至ては。了不了の義は随宗区なるへし。今の浄土の三経は。凡夫念仏して報仏の土に生する義を。分明に決了するを了義教とすへし。必しも久遠実成を宗とせされは。以不説此義 不可為不了義。例せは楞伽深密の五法三性の義を決了して立了義名。
法華には開三顕一して了義の名を立か如し。如此諸経の宗義無尽也。必しも一経の中に尽宗義。初て了義と不可名く故也。一義は十劫三世は摂入無礙なるへし。彼『華厳経』は寂滅道場始成正覚と説て。而も三世九世摂入無尽にして。始成の舎那即無始無終の仏也と談して。法華の開近顕遠をは還て教文の方便と下す。真言大毘盧舎那成仏神変加持経の宗も。三時を越たる仏日の中に三世の劫海を摂入して。法華の久遠無量をも此宗に会する歟。
如此諸宗の習自所依の経説を本として。一切の法門を摂入する法也。爾は宗の教相としては。正依経の中の十劫正覚を本として。三世諸仏の正覚をも。弥陀経の中の十劫正覚を本として。三世諸仏の正覚をも弥陀の智海に可摂入也。『大経』建立常然無衰無変と説を。彦琮法師は一立古今然と得たる十劫正覚の浄土。即無始無終の義を顕す也。如此解すれは諸文悉非相違。法華の実義も伽耶山の近成即本地の幽微也と観達するを以て。釈迦如来の久遠成道は皆 在衆生一念心中と釈する歟。彼久遠成道猶一念心中を不越へ。弥陀の十劫何そ三世の劫を不摂入耶。
爾は初め海徳仏初際の如来より。今時の釈迦未来の諸仏に至まて。弥陀の正覚をは於今十劫と可説義あり。三世諸仏の正覚は皆十劫正覚の阿弥陀仏と成也。五百塵点劫の釈迦も行此難事 得阿耨菩提と云時は。十劫正覚の弥陀を念して。本地無作の三身をも顕す也。
無始無終の大日も十劫の弥陀と成するを仏とは云也。
問。此義無礙自在なるに似たり。実に甚深也。但弥陀の正覚は何なる覚なれは。諸仏の本源。三世の所入と定むるや。
答。阿弥陀者。諸仏所証涅槃の常法也。此法常なるか故に諸仏も又常也。且釈迦の顕本は即無量寿と成也。如此諸仏は皆果徳涅槃常住世寿念延長難可量なれは。本国他方元無二。悉是涅槃平等法にして。仏と云仏は皆阿弥陀となり。浄土と云浄土は悉く極楽と成たるを。衆生の機根万差なれは。諸仏の利益区にして。用各立浄土導群生時。本国弥陀をも又諸仏随一の仏として。諸仏は能讃となり。弥陀は所讃と成て。発遣し来迎し。証誠する化儀はある也。既に無量寿常住の涅槃は諸仏の大涅槃の法体也けれは。一切衆生の命を帰すへき処也。
此故三世諸仏の正覚は南無阿弥陀仏と帰命する命。阿弥陀仏帰命をはりぬるを成仏と云也。『守護国界経』に一切義成就菩薩初夜に成道して。後諸仏の驚覚を蒙て。鼻端に唵字を観して。後夜の成道を唱るは。即此帰命の法門也。
問。真言教の意 無量寿は妙観察智成菩提位也と談する義也。今の義に同すや異すや。
答。或同或異也。異と者。教文の施設不同にして。彼は五智五仏の位を立て。妙観察智成菩提の一門の仏と説く。今は弥陀の五智海を以て。総して諸仏の本源と明す。此教門は異也。同と者。然に諸教の密意を探に。仏語千差なれとも旨帰一致なるへし。
彼の五智の覚体は皆以妙観察智成する義あり。凡そ仏と者覚也。自覚・覚他・覚行窮満せる智徳を以て仏と名れは。此覚体は妙観察智は邪正不謬智徳也。仍仏心者。大慈悲是。以無縁慈摂諸衆生と説て。此弥陀の仏身を見る時。即十方一切の仏を見ると云り。無縁慈者。一切本来成仏の自覚正智の上に。而も不忘衆生本迷。施抜苦与楽覚他之用也。
然は仏として阿弥陀仏の遍照の智を備へすと云こと無し。彼大日遍照の覚体も。正覚の名を得ことは無量寿位に帰する也。法相大乗の意。以妙観察智 断迷開悟の智本と定むるも。不異此義也。
問。『般若経』には三世諸仏は依般若波羅蜜 得阿耨菩提と云り。今は念仏と云相違に非すや。
答。是又非相違。般若三昧は一行三昧也。文殊般若に見へたり。般若の智は是念仏の智門なれは全非相違也。重重問答あり。略之
第十六、浄土頓教事
問、聖道門中に法華・真言・仏心等の宗は頓教也。易行也と談する歟。何そ必しも浄土の一門に限て易行・頓教と可称耶。
答。爾也。当世殊に此義を諍ふ人多し。但し是は凡夫の諍論也。馬鳴・竜樹等の大聖は聖道は難く浄土は易しと定給へり。加之(しかのみならず)諸宗の祖師 皆不堪自宗悟者には。弥陀の浄土を可勧と教たり。天台大師の臨終の行儀伝文分明也。
真言に三根の悉地を立るに。上根は即身成仏。中根は浄土往生。下根は仙窟の住寿と云り。
禅門には百丈禅師の清軌に。大事未弁者教令念阿弥陀仏と勧めたり。然を今の末学聖道の悟は浄土の往生よりも易行也と諍事。皆論師人師の所判に背けり。不足言事也。
所詮難行・易行は自力・他力の故也。又穢土・浄土の不同也。又正報の悟を求め依報の往生を願ふ差別也。故に鈍根無智は悟難けれは。還て不如入弥陀国と云り。而を今の世に我れ能く悟を得たりと思る。宗宗の行者を見るに。未得悟事顕然也。且く真言宗は大日如来の内証の眷属と共に。以如来言 種種の法門を説き給る教也。故に依其教得る人は他宗の未悟為悟宗義を諍ふ事は有とも。自宗の内に於て有無等の異見を生して。互諍ふ謂不可有。
同く大日普門の智印を伝て。真言如義の言を以て可説故。譬は彼の文殊は無相般若の智印を司り。普賢は法界縁起の法門に主となるか如く。真空妙有の二門殊なれとも。互に不相妨。同く無為の法楽を愛して諍論無きか如く。今の学者も可然。爰に当世を見聞するに。一乗の中に宗旨の諍嗷嗷也。互に自是非他の邪正未決。知ぬ真言の悟を得たる人無きに当れり。禅門亦如此。
凡そ伝得仏心人。は段段意同くして互に諍事無か如し。自他同心して和合すへし。然に違磨より至六祖宗 宗無諍論。六祖の下に五宗を別しより以来至当代。門流千差にして互に是非すと見へたり。就中我朝伝来の行人諍論殊に甚し。計り知ぬ。未証入仏心と云事を。此にて以自心開悟為解脱門故。鈍根無智の輩は雖学 難得証。
然浄土の一門は本来帰命の一心を正因とし。阿弥陀仏の願力を強縁とする故に。名号の法体は願行具足の道理也。不依智慧浅深。不論機根利鈍。唯能専念すれは往生無疑。更に自心の悟を宗とせざるか故に。経道滅尽の万歳までも。一念無上の大利不漏機 明かせり。然を今の学者の中に不得念仏宗骨人は。往生の得否は思依智慧浅深。此は浄土宗には非す。以聖道宗風 諍此宗故 非論限也。
問。易行は下機を引する方便なれは 聖道門より実義に非すと判せん事は。其理似可然。聖道門は既為根性利者也。何更可云方便引導権門耶。
答。是は自力宗の所判也。自力の宗には上機は求上法。下機には下法を授べしと定たり。故に以念仏易行 下機を救と云をは。法も随て浅行也と思へり。然に他力の宗義は願力の一行は仏智最上の法にして。然も極悪最下の機を摂すと習か故に。五乗凡聖機に漸頓あれとも。等 乗此一乗 入清浄真門頓教一乗の深義とす。此教の前には彼漸頓随宜の教は上中下の法門にて。因位の機情に堕て真実の仏乗に非れは。亦方便門也と下す也。
種種法門皆解脱 無過念仏。往西方門門不同名漸教。先求要行入真門とも云るは。皆此意を顕す也。
又難行方便は自力の機情を調伏せんか為也。自力の情は皆自ら賢善精進の思をなす。故為彼 教菩薩大行 難行苦行せしむるに。行は疆く機は弱して。自是を求め難事を思知る時。浄土易行の道ありと思知て。迴心念仏して浄土真門に可入也。
彼三論の恵布禅師等の如し。彼平生には執聖道難行 不願浄土。十劫有華内 自楽を受よりは。長時に地獄に有て衆生を済度せんと願ひけり。然るを身に重病を受て身心悩乱せし時。大悲の願も不起。無生の観も修せられず。又年来意楽は機に相応せざりけりと思知。只彼竜樹菩薩の垢障の凡夫は。生浄土 得無生忍後。濁世の衆生を可救と勧め給るは真実の道也けりと。病平愈せしかは迴心して一向念仏して往生を遂たりき。
又白楽天も本は天台の教を学して聖道を執せしかとも。老後に風病を受て自力の勤行廃れしかば。忽に入浄土門。迴心して投財宝 三尊の像変を画し。安置して一期本尊に擬す。
即讃云。
極楽世界清浄上。無諸悪道及衆苦。
願如我身老病者。同生無量寿仏国。[104]
異朝道俗多以如此。我朝先賢皆亦同之。彼顕真・公胤等則其人也。皆な始は聖道を執せしかども。終には浄土に迴心して念仏す。即『般舟讃』序文云。若能依教修行する者は。則門門仏を見て浄土生する事を得と云る。[105]此言誠哉。
問。万劫の修行難成事は一時煩悩百千間(まじえる)ならは。一日七日の念仏も煩悩の間隔あるへし。何そ専念を成して得生浄土耶。若一日七日一心専念行相続せは。一期念念も可相続。一生正念相続せは。万劫の修行も何そ不相続耶。
答。此難誠爾也。不明専念宗義者。此難実に難会。一時煩悩百千間の機の上に。一日七日専称仏の行を成する事は。念仏は他力の行業 煩悩賊害の憂無き故也。八万四千の行門は皆是自力の行なるか故に。煩悩強けれは其行難成。念仏の一行は本より障重の凡夫。賊害の苦機を助る仏力願力の行なる故に。一時煩悩百千間の機に於て。正念専修清浄業を成すれは。易行頓成の要法也。然に浄土の行人と称する人雖念仏。安心自力に還て念仏同諸行。甚背宗旨。
問。爾ば念仏の行者として。貪嗔煩悩の来間事を可憚歟。如何。
答。是又不然。念仏行は不問罪福多少時節久近。貪嗔を留んとも不嗜。不浄をも不止。只帰正念 一心称名すれは。不断煩悩入涅槃界也。但住此正念人は。三時六時懺悔を修する事あり。是正因の上の正行也。不問罪福多少。願力無礙道に乗しぬれは。不顧水火二河。決定往生の信心を堅くし。超断四流 頓証を得と云所も。名号滅罪の用を施す時。罪障懺悔の方法を用ひ。念仏生善の徳を顕す時。諸善の功徳を迴向する功あり。是は要門の修行なれは。定散の法門に同す。然とも念仏本内の要用なれは。因力の定散には非す。故に名正行也。
問。聖道の漸頓は倶に難行なれは。挙彼漸頓『観経』の頓は彼の漸頓よりも易行にして。而も頓なる義を顕すへし。何の『瓔珞経』の漸に対して讃『観経』・『弥陀経』頓。彼の法華・真言等の頓には不対耶。
且如三論宗者。云一念不生即是仏。如法華宗者。円頓者。初縁実相造境即中無不真実と云といへとも。初後無二無別と談して成頓義 如華厳宗者。可云信位成仏 如真言宗者。説発心即到。乃至禅門の見性成仏。皆是捨身不受身。開一念 頓成仏智。何そ彼等の頓に対して今の頓を不立。対瓔珞漸 成頓義耶。
然今『観経』は以一日七日念仏。命絶へて彼国に生て後 無生を証するを頓とす。瓔珞の万劫不退に対せは更雖可為頓。一念成覚即身成仏の頓に対せは。還て漸教と可云。如何。
答。此難実に爾也。但今釈の意は聖道は雖頓 断惑証理の道。断迷開悟の宗なれは。鈍根無智難開悟 機不相応者。還て万劫修功の漸門に同する謂れあり。故挙瓔珞漸 摂難行之漸頓也。
さて『観経』念仏他力の頓は。垢障の凡夫報仏の浄土入て。即悟無生の頓証を得るか故に。不簡機之利鈍。名号利剣力の頓中の頓益を成する故に。法華真言の頓に対して念仏の頓を不顕義の意とする也。然に一日七日の時節を挙る事は。且く以正行時節 対万劫修行也。
此正行は正因より発るか故に。正因即便の益を頓中の頓と成する也。但隔生 証無生者。彼一念成覚等頓成よりも慚也と云難に至ては。先彼諸宗の頓証王雖云一念。修行時節非無長短。
即嘉祥云。階級の階無れは一念の成覚を不妨。無階の階級なれは五十二位をも不妨と云り。又此『観経』に修行の時節を説事一日七日云へとも。往生の証を得事 発心即到の義あり。謂る発三種心即便往生是也。然は証を一念にとり。行を久近に励む事。彼此相同しといへとも。彼は自力也。此は他力也。彼は正報を期し。此は依報を求む。以自力求正報。一念頓成の証 鈍根無智には益無し。乗他力求依報。発心即到の益 常没底下不隔。
然又自力頓成は還て初心即悟と云へとも。下根の妙解浅けれは還て居娑婆人天。他力の一道より往生の証を得れは。垢障凡夫入浄土。不覚 転入真如門。大小僧祇恒沙劫。亦如弾指 須臾間なれは。往生即無生にして。還て仏果を不隔 深義ある事を顕す也。
浄土無生亦無別。究竟解脱金剛身と云り。讃の意。一到弥陀安養国。元来是我法王家と讃めたる宗義。皆此謂を顕す也。
凡そ聖道門の漸頓の悟を得る事は。実行の凡夫に於ては難立宗義也。凡そ菩薩の大悲万行は。還来穢国の時 可成法門也。竜樹『智論』にも具縛の凡夫発大悲心衆生を救んと思は。此理(ことわ)りある事無けんと云り。故に実行の凡夫は先以念仏一行 証浄土無生。還来穢国の時。修漸頓修行 除人法二執。悲智二行をは可成者也。
然は浄土宗の意にては。難行門をは如来随宜の方便の教と談する也。然を聖道門の方よりは。又凡夫往生の浄土の教をは方便也と思へり。是は宗宗互に我宗を実事と立るには。他宗を方便と云へき法則なるか故に。浄土宗よりも強(あながち)にとかむましき也。剰(あまつさ)へ一乗を真実と立る家には。三乗を方便と云ひ。三乗を真実と立る家には。一乗を方便と云か如く。難行を宗とする三乗漸教の自力の宗より。他力易行の念仏一乗の頓証の益を方便と不云。自力の宗は立まじけれは尤爾也と云へき事也。
他力真実の頓教一乗浄土宗の前には。自力難行の随宜の教益をは方便也と可云事勿論也 云云
写本云
此書者竹林寺道教上人御作也。真宗最要也。不可外見者也。
于時永正六年 己巳 後八月二十四日於和州宇多郡山辺庄戒長寺光舒軒。就文字難多不審。自身他身為修学繁昌。以方丈御本 如形書写之者也
真宗西山深草末葉 融誉 九三
- ↑ 晉訳『華厳経』第三十一に「修大善根念佛三昧」の文あり『無量寿経』下巻流通分p.81には一声の念仏を「乃至一念。当知此人 為得大利。則是具足 無上功徳。(乃至一念せんことあらん。 まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなり。)」とある。御開山は、この「乃至一念……無上功徳」のなんまんだぶを、『無量寿経』の説く功徳の宝であり真実の利益であるとみられたことは、「教文類」p.135の以下の文で判る。
「この経の大意は、弥陀、誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施することを致す。釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲すなり。」 - ↑ 「三心既具 無行不成(三心すでに具すれば、行として成ぜざるなし)」。「散善義」p.470で至誠心、深心、回向発願の三心を決釈される文。覚如師の『報恩講私記』p.1069に「至心信楽おのれを忘れてすみやかに無行不成の願海に帰し」とある。なお西山では名号を開いたものが『観経』の世・戒・行の三福であり十三観の定善だとする。これを念仏行成(念仏の行を成ず)であるという。
- ↑ 『法事讃』p.549に「如来教法元無二 正為衆生機不同 一音演説随縁悟(如来の教法は元無二なり。まさしく 衆生の機不同なるがために、一音をもつて演説したまふに、縁に随ひて悟る」。とある。◇仏の教えは本来ただ一つであるのに、衆生はそれぞれの素質能力に応じてさとるという意。
- ↑ 明石、須磨の月は『源氏物語』にも出る月の名所。更科姨捨山も古来から月の名所とされてきた。月と月に照らされる対象を法と機の関係として説く例は多い。ここでは名号をあらゆる存在を照らす月になぞらえて名号の超勝性を説く。
- ↑ 平信。ひらに信ずる意。平には、かたよらないとか正しいという意味がある。
- ↑ 「玄義分」p.305の、「今此観経 即以観仏三昧為宗 亦以念仏三昧為宗(いまこの『観経』はすなはち観仏三昧をもつて宗となし、また念仏三昧をもつて宗となす)」の文を考察して、観仏三昧は釈尊の教説、念仏三昧を阿弥陀仏の教説とする。元来は一経に二種の宗はありえないのであり、法然聖人までは観仏三昧と念仏三昧は同義語として見られていた。三昧(禅定)という語であるから当然の見方であろう。しかし、この文を『観経』には観仏三昧と念仏三昧の二行が説かれているとされたのは法然聖人であった。 御開山も「化巻」p.384で『観経』は一経両宗(念観両宗)の経意として引文されておられる。善導大師の当面の意では、同語反復の語として使われたであろう。しかし、観仏を説く『観経』の流通分付属の文に「汝好持是語 持是語者 即是持無量寿仏名(なんぢ、よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり)」の名号付属の文から逆観すれば一経両宗とする意もあったのであろう。その真意を明かされたのが500年後の法然聖人であった。
- ↑ 帰行捨心(行に帰して心を捨てる)。前段で説く聖道門の依心起行(心に依りて行を起こす)の反語。選択本願のなんまんだぶの行に帰入して自力の心を捨てるから帰行捨心という。 後に本覚、始覚という『大乗起信論』の用語が出るが、『大乗起信論』では法をの根拠を「一心法」として説く。この一心に対して帰行捨心を説くか。
- ↑ 和尚。以下の和尚とは善導大師のこと。
- ↑ 念仏三昧をあらわすために観仏三昧を釈されたという意。「散善義」p.500の「上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。」と阿弥陀如来の本願の意に立っての釈をいう。
- ↑ 「散善義」流通分p.499に「まさしく念仏三昧の功能超絶して、実に雑善をもつて比類となすことを得るにあらざることを顕す。」と、ある。
- ↑ 『安楽集』p.191に念仏の功を讃じて「この念仏三昧はすなはちこれ一切の三昧のなかの王なるがゆゑなり」と、ある文。
- ↑ 『阿弥陀経』や『称讃浄土仏摂受経』などの諸仏の讃嘆を指す。
- ↑ 礼讃に「恒沙三昧自然成(恒沙の三昧自然に成ず)」とある。
- ↑ 具縛の凡夫、一毫の惑をも断ぜずして、本願に帰せば直に仏果三昧を証得す。同じ仏心なるが故に。
- ↑ 『論註』観察門p.106に「 一には、ここにありて想をなしてかの三種の荘厳功徳を観ずれば、この功徳如実なるがゆゑに、修行するものもまた如実の功徳を得」とある。
- ↑ 西山派では、信心一発した時に往生が定まることを即便往生(現益)といい、命終して浄土へ往生することを当得往生(当益)という。即便往生と当得往生の語は『観経』の「若有衆生願生彼国者 発三種心 即便往生。何等為三一者至誠心二者深心三者廻向発願心。具三心者必生彼国。復有三種衆生当得往生(もし衆生ありてかの国に生ぜんと願ずるものは、三種の心を発して即便往生す。なんらをか三つとする。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具するものは、かならずかの国に生ず。また三種の衆生ありて、まさに往生を得べし。)」に依る。御開山は『大経』を真実経とし『観経』には隠顕を見られるから、即便往生の即と便を分けられて「即往生」は真実報土への往生を顕わし「便往生」は化土の往生を彰すとする。 「化巻」p.383十三文例 に「「発三種心即便往生といへり。 また「復有三種衆生当得往生」といへり。これらの文によるに、三輩について三種の三心あり、また二種の往生あり。」とされ、上輩・中輩・下輩の三種類の人について、それぞれ定善の自力の三心・散善の自力の三心・弘願他力の三心があるとされる。『愚禿鈔下』p.541参照。
- ↑ 「十方衆生称我名号、下至十声、若不生者不取正覚(十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ)」。『礼讃』p.711の第十八願文の意。
- ↑ 「六道三途皆摂取 蓮華会裏著真名(六道三途みな摂取し、蓮華会裏を真名と著す」『五会法事讃』にある文。
- ↑ 衆生もし生ぜざれば、果遂すべからずを顕わすの故に
- ↑ 「浄土仮名人穢土仮名人、不得決定一 不得決定異(浄土の仮名人と穢土の仮名人、決定して一なるを得ず、決定して異なるを得ず。)」◇ 『論註』p.55の願生問答では、浄土の仮名人も穢土の仮名人も願生者のことだが、ここでは仏と往生人の意とする。
- ↑ 「往生無一念疑故。因中説果 云即便当得也(往生に一念の疑い無きが故に、因の中に果を説きて即便を当得ともいう也)」。
- ↑ 教外別伝(きょうげ-べつでん)。禅宗の用語で、教典の外に言葉や文字であらわせない別の法が伝えられているということ。
- ↑ 『摩訶止観』で、修行の過程を六つの位に分けて説く中の、名字即。観行即をいうか。
- ↑ 不顕竹林寺之(竹林寺に於いてこの念仏の作を顕さず)。◇『樂邦文類』に、法照禅師が竹林寺においての文殊菩薩との問答、
「問曰、末代の凡夫智識浅劣にして、仏性の心地を顕現するに由なし。未だ審らかならず、何の法門を修するを最も其の要と為さん。
「文殊曰。汝の請問する所、今正に是れ時なり。諸の修行の門は、念仏に如く無し。我、過去に於いて念仏に因るが故に一切種智を得たり。)」との教示によるか。 - ↑ 『観経』の「若有衆生願生彼国者 発三種心即便往生。何等為三。一者至誠心 二者深心 三者廻向発願心。具三心者 必生彼国」の文。この一文は古来から略観経といわれている。必生彼国の《必》の字があるからである。
- ↑ 『無量寿経』の至心信楽欲生我国を、なんまんだぶを称える称我名号の意とする。
- ↑ 「若我成仏十方衆生、称我名号下至十声、若不生者不取正覚、彼仏今現在世成仏、衆生称念必得往生(もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ」と。かの仏いま現に世にましまして成仏したまへり。衆生称念すればかならず往生を得。)」。なおここでは、「当知本誓重願不虚」の文が省略されている。
- ↑ 御開山もこの「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生」の『礼讃』の一文を『後序」で、法然聖人から書いていただいたことを感佩しておられる。なお、御開山は世の字を省かれる。
- ↑ 善恵上人は、平生の念仏を未決定の業として臨終の正念を待つものは、念仏の本意を知らない者なので、あじきなし(道理に合わなく苦々しいこと)といわれたとする。法然聖人は、『西方指南抄』中本の「十七条御法語」p.133に、「又云、往生の業成就、臨終・平生にわたるべし。本願の文に別にゑらばざるがゆへにと云り。」とされている。
- ↑ 「玄義分」六字釈p.325「南無といふはすなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふはすなはちこれその行なり。 この義をもつてのゆゑにかならず往生を得」の文。
- ↑ 云十界也(十界と云うなり)。天台の、一念三千に地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏の十界を互具するという説。御開山は「真仏土巻」p.354で、「亦名聲聞・辟支佛。佛亦名地獄・餓鬼・畜生・人・天」の『涅槃経』の引文を「また声聞・辟支仏と名づく、仏をまた地獄・餓鬼・畜生・人・天と名づく」と訓じておられるのも、その影響であろうか。
- ↑ 『大乗起信論』の本覚と始覚を出して、本家に帰すことの意味を問う。
- ↑ これすなわち阿弥陀仏は即ち、これ其の行の義を信ぜざるが故なり
- ↑ 「玄義分」p.303の「一切善悪の凡夫生ずることを得るものは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁となさざるはなし」の文
- ↑ 『十住毘婆沙論』「易行品」p.5の乗船譬喩。
- ↑ 『般舟讃』p.717に「身行無間総名三業無間(身行じて無間なり、総じては三業無間に名づく)」とある。
- ↑ 「散善義」至誠心釈p.455の「身口意業所修解行 必須真実心中作(身口意業所修の解行、かならずすべからく真実心のうちになすべき)」の文。御開山は「身口意業の所修の解行、かならず真実心のうちになしたまへるを須ゐんことを」と訓じられた。
- ↑ 「散善義」p.463の「一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく」の文。
- ↑ 「玄義分」p.301の「この穢身を捨ててすなはちかの法性の常楽を証すべし。」の文。
- ↑ 「不動舌立声。聞仏名発信心 生帰命念。皆是称名也(舌を動かし声を立てず、仏名を聞きて帰命の念を 生じて信心を発すは、みなこれ称名なり)」。
- ↑ 『論註』で『浄土論』の「世尊我一心 帰命尽十方 無礙光如来 願生安楽国」の偈文を釈されるにさいして、一心の如実でない意を、不淳、不一、不相続の三心であらわされた。
- ↑ 『礼讃』p.711で、善導大師が第十八願を引いて「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚 彼仏今現世在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生(もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ」と。かの仏いま現に世にましまして成仏したまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得。)」と、本願文の至心信楽欲生の三心を略し「称我名号」と名号で釈されているという意。
- ↑ 『観経』p.100「諸仏如来はこれ法界身なり。一切衆生の心想のうちに入りたまふ」
- ↑ 如来の本願が真実であるから、その誠を憑む心も真実であるとする。
- ↑ 深心を、無信をも捨てたまわぬ深い心のあらわれの意と解すときは、既に信心の者である。ここでは、単なる無信をいうのではなく、自らの疑いという枠を越えた世界を言おうとしているのであろう。
- ↑ 「依心起於勝行。門余八万四千。随縁者皆蒙解脱(心によりて勝行を起すに、門八万四千に余れり。 縁に随ふもの、みな解脱を蒙る )」「玄義分」p.300には「依心起於勝行 門余八万四千 漸頓則各称所宜 随縁者則皆蒙解脱」とある。
- ↑ 一色一香無非中道。『摩訶止観』の、いかなる些細な存在にも中道の真理が備わっているという天台宗の意。
- ↑ 乱意を静めて、身の不浄を観じ貪心を治す。観心の法、区(べつべつ)なるといえども皆心を先とす。智恵を以つて生死を離る。
- ↑ 「一切善悪の凡夫生ずることを得るものは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁となさざるはなし」。「玄義分」p.301
- ↑ 聖道八万の法門を悟るべし
- ↑ 「根性利者皆蒙益。鈍根無智難開悟(根性利なるものはみな益を蒙る、鈍根無智は開悟しがたし)」。『般舟讃』p.718
- ↑ 戒品の浮嚢は破れやすく、智恵の船筏は全かからず。
- ↑ 「二種の勝法を得て、もつて生死を排はざるによる。 ここをもつて火宅を出でず」。『安楽集』聖浄二門判p.241
- ↑ 人身受け難し、仏法値い難し。急(にわか)に出離の一行励むべし。これを思ふは他の為に非ず
- ↑ 行を学せんと欲せば、かならず有縁の法によれ。
- ↑ 終日に仏を念ぜんも閑かに其の実を撿せば、浄心は是れ一二、其の余は皆濁乱せり。野鹿繋ぎ難く、家犬は自から馴れたり。
『往生要集』中「止悪修善」p.1013に「尽日に仏を念ぜんも、閑かにその実を撿すれば、浄心はこれ一両、その余はみな濁乱せり。 野の鹿は繋ぎがたく、家の狗はおのづから馴れたり。」とある。 - ↑ 『往生要集』の序に、源信僧都が自己を指して「予がごとき頑魯のもの」といわれている。
- ↑ 極重の悪人他の方便無し、ただ弥陀を称えて極楽に生ずるを得。◇『往生要集』の念仏証拠門p.1098に『観経』の意を引いて「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」とある。
- ↑ 『礼讃』p.658に「識颺神飛観難成就(識颺り神飛びて、観成就しがたし)」とある。「行巻」p.165で引文。
- ↑ 「序分義」p.340に「縦発清心猶如画水(たとひ清心を発せども、なほ水に画くがごとし)」とある。
- ↑ 畏罪者疑本願(罪を畏れる者は本願を疑う)。 これが造悪無礙につながる。
- ↑ 造罪者不可往生(造罪の者は往生すべからず)。これは、賢善精進の相の偽善者になる。
- ↑ 『観念法門』p.616に、「一には滅罪増上縁、二には護念得長命増上縁、三には見仏増上縁、四には摂生増上縁、五には証生増上縁なり」と、五種の増上縁を説く。
- ↑ 「定善義」真身観p436で、「念仏衆生摂取不捨」の意を、親縁、近縁、増上縁の三義であらわす。
- ↑ ここの宗家とは、二種信心をあらわされた善導大師のこと。
- ↑ となえながら往生せざる機の有様は、法の不思議を知らざるの人なり。 ◇阿弥陀仏が必ず往生せさると選択された本願の念仏を称えながら、往生しない人々のありようは、本願の教法を凡夫の思議によって領解し、その不思議なることを知らないからである、とする。
- ↑ ここでは、通仏教の廃悪修善の教説や、世間の善悪の倫理観によって、自らを省みて己の悪を分別し、このような者では、とても大願清浄の報土へは往生できないと自身を卑下することをいう。このことを『唯信鈔』p.1348では「このおもひまことにかしこきに似たり、驕慢をおこさず高貢のこころなし。しかはあれども、仏の不思議力を疑ふとがあり。仏いかばかりのちからましますとしりてか、罪悪の身なればすくはれがたしとおもふべき。五逆の罪人すら、なほ十念のゆゑにふかく刹那のあひだに往生をとぐ。いはんや罪五逆にいたらず、功十念にすぎたらんをや。罪ふかくはいよいよ極楽をねがふべし。「不簡破戒罪根深」(五会法事讃)といへり。善すくなくはますます弥陀を念ずべし」と誡めている。
『歎異抄』p.844では『唯信鈔』を引いて「『唯信抄』にも、「'弥陀、いかばかりのちからましますとしりてか、罪業の身なれば、すくはれがたしとおもふべき」と候ふぞかし。」とある。ともすれば機の深心を単独ととらえて罪悪感と混同されがちなのだが、法を伝える者は注意すべきである。広大な慈悲を仏の法の側に見て、その救済を信ずるのが機であると思われがちである。このご法義の先人は「信は仏辺にあおぎ、慈悲は罪悪機中に味わう」と云われた。己の罪悪を機中に味わうとき、その罪悪の者を《こそ》摂取して捨てないという、仏の信を仰ぐのが浄土教に於ける二種深信の心相である。浄土真宗が、仏の大悲の焦点を悪人に結ぶ、悪人正機であるとされる所以である。そのような意味で越前の周りのご法義の先輩は、信仰(仰ぎ信ずる)という言葉ではなく、仰信(信を仰ぐ)という用語を使用してきたのであった。 - ↑ ここでは、自らの能力も弁えず阿弥陀如来と同じような清浄な行が自らに可能であると思ふ驕慢なる者を出す。御開山はこのような輩を「正信念仏偈」で、「邪見驕慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯(邪見・驕慢の悪衆生、信楽受持することはなはだもつて難し。難のなかの難これに過ぎたるはなし)」といわれている。このような賢善精進の偽善者が多いことを嘆かれたのであろうか、また「化巻」で「濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし 」p.381と自力の行者を誡めれておられる。
法然聖人は『和語灯録』「諸人伝説の詞」p.676で、阿弥陀仏の選択本願念仏を、
ある人問ていはく、上人の御房の申させたまふ御念仏は、念念ことにほとけの御意にあひかなひ候らんとおぼえ候。智者にてましませば、くはしく名号の功徳をもしろしめし、あきらかに本願のやうをも御心得あるがゆへにと。
答ての給はく、なんぢ本願を信する事まだしかりけり。弥陀如来の本願の名号は、木こり・くさかり・なつみ・みづくみのたぐひごときのものの、内外ともにかけて、一文不通なるが、となふればかならずむまれなんと信じて、真実に欣楽して、つねに念仏申を最上の機とす。もし智恵をもて生死をはなるべくは、源空なんぞ聖道門をすててこの浄土門におもむくべき。まさにしるべし、聖道の修行は、智恵をきはめて生死をはなれ、浄土門の修行は、愚痴に反へりて極楽にむまると。
と、選択本願の念仏を人の賢愚で考察することを、たしなめておられる。同様なことを「諸人伝説の詞」に記されているのだが、問いに機嫌が悪かったのか、「御気色あしくなりて」とされている。
ある時問ていはく、上人の御念仏は智者にてましませば、われらが申す念仏にはまさりてぞおはしまし候らんとおもはれ候は、ひが事にて候やらん。
その時上人御気色あしくなりておほせられていはく、さばかり申す事を用ひ給はぬ事よ、もしわが申す念仏の様、風情ありて申候はば、毎日六万遍のつとめむなしくなりて、三悪道におち候はん、またくさる事候はずと、まさしく御誓言候しかば、それより弁阿はいよいよ念仏の信心を思ひさだめたりき。 - ↑ 兎角(とかく)。うさぎの角のこと。兎には角はないのだがその角の色をあれこれ論じることをいう。亀の毛の無いと合わせて、妄想の論義を「兎角亀毛」という。
- ↑ 一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。◇善導大師の『観経疏』p.457での『観経』の三心の一つである深心についての釈。
- ↑ 「浄土の心は」という文は本文にはないのだが、直前に聖道の心は法を信ずるとあるので対比されるために追加した。
- ↑ 生死の因。生死と輪廻は同義語であり、ここでは生死を繰り返してきた結果が現在の自己自身であるということである。それはまた、御開山が
三恒河沙の諸仏の
出世のみもとにありしとき
大菩提心おこせども
自力かなはで流転せり p.603
と、自力の菩提心によって出離をめざしたが、生死を流転してきたと示されるように、機の深信とは、自らのカが出離のために役に立たないと思い知らされることであり、それを宗学用語で「信機は捨機(機の深信を信ずるとは自らの能力を思い知り、機の自力を捨てること)」という。 - ↑ 生死は、有為の法なり、来れば必ず去る始終也?
- ↑ それ、死は生に由りて来る、よろしく生を畏るべし。吾もし生ぜずば何ぞ死あらん。其の初生を見るに即ち終に死すを知る。宜しく生を泣きて、死を畏るべからず。
『続高僧伝』巻第十一の、嘉祥大師の伝に、釈吉蔵。俗姓安。もと安息人也として「夫死由生来。宜畏於生。吾若不生何由有死。見其初生即知終死。宜応泣生 不応怖死」の文がある。
江戸時代の盤珪禅師は、「不生禅」をとなえ「不生の仏心」を提唱されたが、『中論』の不生不滅の解釈でもあった。生じていないならば滅することはありえないのだが、凡夫は仮有なる生に苦しんでいるということであろう。不生であることは不滅であるということである。もっとも浄土教では、死を浄土への往生と定義することで、「生死出づべき道」(恵信尼消息)p.811を、「往生極楽の道」(歎異抄)p.832として、提示するのである。 - ↑ 『無量寿経』三毒段p.56に「人在世間 愛欲之中 独生独死 独去独来(人、世間愛欲のなかにありて、独り生れ独り死し、独り去り独り来る)」とある。
- ↑ 『礼讃』p670に「無常念念至 恒与死王居(無常念々に至り、つねに死王と居す)とある。
- ↑ 司業閻王(閻王の業をつかさどる)。閻王とは地獄の王である閻魔大王のこと。地獄の業である閻魔の業をつかさどっている眷属ということ。
- ↑ ほとなき。辺(ほとり)無き。果てしが無いさま。
- ↑ 住はつべき。住み果てるべき。生死を全うするべき。
- ↑ 二には決定して深く、かの阿弥陀仏の、四十八願は衆生を摂受したまふこと、疑なく慮りなくかの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず。
- ↑ 「玄義分」p.326に「一々の願にのたまはく、〈もしわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を称してわが国に生ぜんと願ぜんに、下十念に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ〉」とあるに依る。 善導大師は四十八願の根底にそれぞれ第十八願の意を見ておられたので、四十八願をもって第十八願の意をあらわす。善導大師によればこの四十八願を成立させる根拠である第十八願とは「欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚(わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ)」の、なんまんだぶを称える意である。ゆえに「至心信楽」の安心を略して表現されるのであった。法然聖人はこの意を『和語灯録』「諸人伝説の詞」p.676で、
ある人問ていはく、善導本願の文を釈し給ふに、至心信楽欲生我国の安心を略したまふ事、なに心かあるや。
答ての給はく、衆生称念必得往生としりぬれば、自然に三心を具足するゆへに、このことはりをあらはさんがために略し給へる也。
と、されておられる。ともあれ、御開山のおっしゃる信心とは、なんまんだぶという名号によって知らしめられる、利他(他力)の菩提心であり、凡夫が信じるとか信じないというようなものではないのである。ゆえに、このご法義の先輩は本願力回向の信心を「御信心」と呼称してきた。 - ↑ 『礼讃』p.711に「本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得」と、ある文。
- ↑ 第十八願のこと。但し法然聖人や御開山聖人は、十念という数に執着することを避けるために「念仏往生の願」といわれていた。なお、この「念仏往生の願」の願名は法然聖人が命名されたのだが、『選択集』p.1214で「ただし善導と諸師とその意不同なり。諸師の釈には別して十念往生の願(第十八願)といふ。善導独り総じて念仏往生の願といへり 」と、善導大師の釈功とされておられる。
- ↑ 『礼讃』p.654には、機と法二種の深心ともに「信知し」という語がある。御開山は「信巻」p.228で直接『礼讃』の文を引かず、下至十声聞等の《聞》を強調したいために、以下の智昇の『礼懺儀』を引いておられる。衆生の側に於ける信とは自己の内に確立するものではなく、どこまでも《仏語》を聞いて信知することであるという意を示されたかったのであろう。これが眼見に対する聞見という意味ではある。
今信知 弥陀本弘誓願 及称名号下至十声聞等 定得往生 及至一念無有疑心(いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし)。 - ↑ このような至誠心の解釈は、御開山と非常に近い。法然聖人が『三部経大意』で「ただし、この至誠心はひろく定善・散善・弘願の三門にわたりて釈せり。これにつきて摠別の義あるべし。摠といふは自力をもて定散等を修して往生をねがふ至誠心なり。別といふは他力に乗じて往生をねがふ至誠心なり」とされた意を正しく継承しているのであろう。
- ↑ 御開山は『一念多念文意』p.693で、「凡夫といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり 」と、いわれている。
- ↑ 『般舟讃』の偈p.721に「利剣即是弥陀号。一声称念罪皆除(利剣はすなはちこれ弥陀の号なり、一声称念すれば罪みな除こる)」とあるによる。戦国末期の武将、最上義光の女(むすめ)駒姫(当時15歳ともいう)の辞世の句に、「罪をきる弥陀の剣にかかる身の なにか五つの障りあるべき」と、ある。これは当時五障三従として蔑まれていた女性にとって、「利剣即是弥陀号。一声称念罪皆除」という 『般舟讃』の偈文が受け容れられていたということであろう。
- ↑ 糜尼珠は摩尼珠のこと。『論註』p.126に「たとへば浄摩尼珠を、これを濁水に置けば、水すなはち清浄なるがごとし。もし人、無量生死の罪濁にありといへども、かの阿弥陀如来の至極無生清浄の宝珠の名号を聞きて、これを濁心に投ぐれば、念々のうちに罪滅して心浄まり、すなはち往生を得。」とある。
- ↑ さらに諸教の自力観行の努力に例すべからず。自心の定散自業の善悪を顧りみず、唯、一心に称念して一実の道に入るべき也。
- ↑ まず去此不遠の文に三義あり。一には分斉不遠とは、是れより西方に十万億の仏土を過ぎて、恒河沙世界の仏土を隔てず近きと説けり。
- ↑ 「唯恨衆生疑不疑。浄土対阿(面)不相忤。莫論弥陀摂不摂。意在専心迴不迴(ただ衆生の疑ふべからざるを疑ふを恨む、浄土対面してあひ忤はず、弥陀の摂と不摂とを論ずることなかれ、意専心にして回すると回せざるとにあり)」『般舟讃』p.733
- ↑ 「一切迴心向安楽。即見真金功徳身。浄土荘厳諸聖衆。籠籠常在行人前。迴心向者(一切、心を回して安楽に向かへば、すなはち真金功徳の身を見る。浄土の荘厳・もろもろの聖衆、籠々としてつねに行人の前にまします。心を回す者なり)」『法事讃』p.531。最後の「迴心向者」の文は無い。
- ↑ 「南無者。即是帰命。亦是発願迴向之義。言阿弥陀仏者。即是其行。以斯義故必得往生(「南無」といふはすなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。 「阿弥陀仏」といふはすなはちこれその行なり。 この義をもつてのゆゑにかならず往生を得。 )」「玄義分」p.325。
- ↑ 「玄義分」の「観仏三昧為宗亦以念仏三昧為宗」の文を法然聖人までのシナや日本の諸師は、善導大師が観仏三昧三昧の語を念仏三昧ともいうと別の表現で反復されたと見ていた。ところが法然聖人は、善導大師の『観経』流通分の意から推察して、この文は『観経』一経に観仏三昧の法義と念仏三昧の法義が顕わされていると御覧になった。つまり『観経』は、釈迦教と弥陀教が説かれている一経両宗の経典であるとされたのである。このような発想は「散善義」で、『観経』の流通分の 「汝好持是語持是語者 即是持無量寿仏名」を、「上来定散両門の益を説くと雖も、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向に専ら弥陀仏の名を称せしむるに在り。」とあることに示唆されたのであろう。そしてまた、「玄義分」に「然も娑婆の化主は其の請に因るが故に即ち広く浄土の《要門》を開き、安楽の能人は別意の《弘願》を顕彰したまふ。」と、要門と弘願という言葉があったからである。御開山聖人はこのような法然聖人の経典観を正確に受け継いでおられる。ともあれ、当然教相の立て方が違うので、この書の著者の云うように、行相はるかに異なりである。
- ↑ 我が所得の智慧は、微妙にして最も第一なり。 衆生の諸根鈍にして{略}云何して度すべきと。 尋いで過去仏の所行の方便力を以(念)て、 我が今得る所の道も亦三乗と説くべし。 是の思惟を作す時、十方の仏皆現じて、 梵音をもって我を慰諭したもう。 善哉釈迦文、第一の導師、是の無上の法を得たまえども、諸の一切の仏に随って方便力を用いたもう。{略} 舎利弗当に知るべし、我聖師子の深浄微妙の音を聞いて、喜んで南無仏と称す。復是の如き念を作す。 我濁悪世に於(出)いて諸仏の所説の如く、我も亦随順して行ぜんと。
- ↑ 浄土の無生また別なし。 究竟解脱の金剛身なり。『法事讃』p.533
- ↑ すでにかの国に生じぬれば、さらに畏るるところなし。 長時に行を起して、果、菩提を極む。「玄義分」p.305
- ↑ 大菩薩、声聞、大衆、仏の所に往詣して白して言さく、世尊、無量寿国に九品の浄域三摩地在り。即ち是れ諸仏の境界にして如来の所居なり。三世の諸仏是れより正覚を成ず。三明を具足して増長福恵なり。
- ↑ 一たび弥陀の安養国に到りぬれば、もとよりこれわが法王の家なり。『般舟讃』p.741
- ↑ 西山派に於いても宗名を指す語として、真宗や浄土真宗という語を使っていたことに留意。
- ↑ 嚢謨(のうも)。南無の音写語か?
- ↑ 甘露灌頂、もろもろの妙法の声
- ↑ 無辺の菩薩、弥陀の心水身頂に沐す。◇礼讃p.705には「無辺菩薩為同学 性海如来尽是師 弥陀心水沐身頂 観音勢至与衣被(無辺の菩薩同学となる。性海の如来ことごとくこれ師なり。弥陀の心水身頂に沐す。観音・勢至、衣を与へて被す。)と、ある。
- ↑ 極楽世界は清浄の上(土?)なり、諸の悪道及び衆の苦無し。願わくは、我が身の如く老病の者、同じき無量寿仏国に生ぜん。
- ↑ 「若能依教修行者 則門門見仏 得生浄土(もしよく教によりて修行すれば、すなはち門々に仏を見て浄土に生ずることを得。)」『般舟讃』p.725