- 観心為清浄円明事(心は清浄にして円明たるを観ずる事)
問ふ。真言教の中に月輪観有り。微妙甚深にして大功徳有りと云々。法相にも亦此の証有りや。
答ふ。未だ正文を見ざれども、義勢は無にあらざるか。其の証に云く、仏果の功徳を説くに多く円明と云ふ。謂ふ所、或は性浄円明の故に無漏と名くと云ひ、或は引極円明純浄本識 と云ふ等、是なり。円は円満なり。万徳欠ける事なき故に。明は明浄なり。性用は無垢なるが故に。宛も世間の満月の如し。
問ふ。仏果の理智は障を出ずるが故に円明しかるべし。凡夫の妄心は常に煩悩を具す。亦一徳も無し。何ぞ之を観じて清浄と為し、円明と為すや。
答ふ。理性の清浄は凡聖の位に通ず。本来自性清浄は涅槃の義なり。依の方に成ず。故に論(『成唯識論』)に云わく。客染有りと雖も本性は浄にして、無数量の微妙の功徳を具す等と云々。只自性清浄ならず。又無数の功徳を具す。円明の二義詳しく此の文に在り。又『勝鬘』等は如来蔵を説く。則ち在纏(如来蔵)位は衆徳を具すの義也。次に智に於て之を論ずれば、無漏の種子法爾として具足す。惑障有りと雖も之を染ずること能わず。本性住性則ち是れ也。
問ふ。無漏の種子は設ひ浄の義有りと雖も、凡位にては未だ現行を生ぜず。其の相顕れず。今何ぞ妄染心を以て清浄と為すや。
答ふ。有漏心に寄りて無漏の種子を観ずる。是れ亦、違無し。只未だ現行せずと雖も、因既に微妙なり。諸大乗教に之を名づけて仏性と為し、之を称して如来と為す。因に於て果を談ずるは、聖教の常説也。凡そ因と云ひ果と云ひ、不一不異なり。又現在心の上に過去未来を立つる。現在世を離れて過未有ること無し。大乗の因果は深妙にして言を離る也。仏智の前に凡夫心を照さば、本来清浄にして仏と異ること無し。相性不二にして性を離れて相無し。因果は不異にして因を離れて果無し。
故に『涅槃経』に乳酪の喩を説く。人、乳家に到りて問ひて云はく、酪有るや。答へて云はく。酪有り。是れ即ち乳を指して酪と為す。現れずして既に有り。人、仏性を具す。知るべきこと亦爾り。{経意なり}。
小島僧都二つの釈を作す。但だ事の浅なるを挙げて其の理性を観じて本義と為すか。仍ち世の満月を以て喩と為す。之を観ずるに過ぎたるは無し。但だ世間の日月は器界の摂する所也。一切の器界は、諸の有情の共業の感ずる所也。我が第八識は恒時に之を変ず。頼耶(阿頼耶識)の相分也。相を摂して心に帰すれば既に心中に在り。観念尤(もと)も応ずるか。
但だ予の如き愚人は観念に堪えず。只心を以て心を繋がむと想ふ。我が心清浄にして猶(なお)し満月の如ければ、分別は漸少し散乱は聊止せむ。心清く身凉きは滅罪の源と為るか。
又真言を誦すべし。功力広大の故也。冐地は菩提也。質多は縁慮心也。縁慮の心は其の性、本より浄なり。即ち是れ菩提大覚の体也。
問ふ。真如は無相也。何ぞ有相の月輪を以て無相の理を観ずるや。
答ふ。凡夫の心行は頓に無相の理に入ること能はず。故に有相中に此の相少しく無相に近し。衆物と衆色無きが故に。此の如く漸漸に遂に無相に入る。譬へば息を数へるが故に定を得るが如し。重ねて意を云ふに、初め息を数へるは猶散心の如し。散心の中の稍しき寂静遂に定位に住す。『心地観経』に云はく、「凡夫の観ずる所の菩提心の相は、猶ほ清浄円満の月輪の如し。胸憶の上に於いて明朗にして住す。若し速やかに不退転を得むと欲すれば、阿練若及び空寂室に在りて、端身正念して前如来金剛縛印を結び、冥目して臆中の明月を観察し、是の思惟を作せ。是の満月輪は五十由旬にして、無垢明浄・内外澄徹・最極清凉なり。月即ち是れ心。心即ち是れ月。塵翳は染まること無く妄想は生ぜず。能く衆生をして身心清浄せしむ。大菩提心は堅固不退なり」と云々。
『菩提心論』に経を引きて云はく、「若し勢力広増無くば宜しく法を信じ単に菩提心を観ずべし。仏説此の中に万行を具して、清白純浄の法を満足す。」
出離の道は取ける身の惘然として其の法を聞かざるに非ず、ただ其の心〔菩提心〕の発らざるなり。
是れ則ち機の教と乖き、与の分を望みて之に違ふの故か。心広大の門に入らんと欲すれば、我が性堪えず、微少の業を修せむと欲すれば、自心頼み難し、賢老に遇ふ毎に問ふと雖も答へず。抑も何ぞ法、何ぞ行。浅に似て而も実に深し。大と雖も猶ほ易の如きなるや。易の故に企むべし。大の故に頼むべし。初心の要は之を以て最と為す。而して世間の士女(男女)の云はく、我が心澄み、我が心凉しき矣。虚晴れて月明く、水澄みて影清きは、是れ其の身心清凉の時也。縦ひ水月に向かはずと雖も、閑かに其の形を思ひ、或は其の事を語りて、自ら心を悦ばせしむ。仏法の初門は是の如くあるべし。自心の性は本来清浄円満明朗なり。宛も秋月の如し。適(たまた)ま此の事を聞きて、未だ我が分を隔てざれば、密教の旨未だ習学に及ばずして、設ひ目を冥じ印を結ばずと雖も、聊か妙理を思惟すれば、巨益空しからず。
顕教の中に正文無しと雖も、義勢大同なり。語は異にして義は一也。心を此の事に繋ぐは至要一に非ざるか。
若し可怖の事を語れば嬰児聞きて戦き、若し臭穢の相を憶へば腸反りて哺を吐くは、人の事において心に感ずるの浅深に依る。命終に十方仏を見、極楽世界に往生す、又観音正しく無生忍を証するは、此の呪力也。爾れば彼に云ひ此に云ふは皆不思議の致す所也。仏子(貞慶自身を指す)六十年の間、空しく過ぐと雖も、若し数輩の同法、多日念誦の間に、或は一時、或は一音、図らずして我が心に銘すれば、其の徳又大聖に達すること有り。其の威力を以て、新たに宝山に生まれむ事、何ぞ以て難と為さん。若し其の願成ずることは、亦他に非ず。只不思議事と云ふべし。仍ち常に神呪(陀羅尼)の心を念じて別徳を思はず。総じて不思議に帰し畢りぬ。西方往生は機劣にして土勝る。因軽くして果重し。現に往生の事あり。世を挙げて疑わず。これ只弥陀本願の威力なり。
而るに本願を立つるの時は五劫に思惟す。其の思惟はこれを計るに、即ち能く不思議を知る故か。
爾らざれば、浄か彼の希有の願を発せむや。随て又有行・無行・善人・悪人、軽微の業因を以て聖衆来迎を勧む。聖衆已に現ずれば往生疑いなし。但し真実浄土の業成就は、多く彼の聖衆摂取せる暫時の間に在りや。
爾らず、浄か最下の凡夫麁浅の縁を以て忽ちに微妙の浄土に生まれ、永く不退転の利を得むや。是れ則ち不思議中の不思議也。
予は深く西方を信ずるが故に、竊かに此の案を廻らす。学者性相の疑に同ぜず。世人一向の信に同ぜず。恐らくは一期の所作に於いて、以前の称念等は仏を感ずること大なりと雖も、多くはなお疎因なり。真実の正因正業は瑞相を見て後に希有の心〔正念〕を発す。或は略法を開き、或は被(こう)むる所に依って、暫時と雖も大乗の心〔菩提心〕に住すべし。然る後に正しく浄土に生ずべきなり。其の瑞相不思議と併(なら)びて是れ仏宝法宝不思議なり。
病席の雑談は多く観音補陀落の事に在り。初心の同法等云はく、此の事廢妄せんと欲す。粗記せしめては如何。
答へて云はく、何事有りや。仍ち始め少々先の言を思い出だして書き付けらるるの人有り。又云はく。或は失し、或は背く、只此の事口筆を以て之を書くべしと云々。
其の後臥し乍ら詞を出だす。首尾散散なるか。又注付の後は自ら未だ之を見ず。気力の衰へは日に逐ひ、微音の言語分明ならず。定めて其の誤り多きか。此の如きの物、外に在りて流布すれば、人悪気を生ぜむ。其の憚り一に非ず。之れ如何に為む。
建暦三年正月十七日之を記す
同年二月三日辰の初め御入滅
現行年正月廿二日書写しめ了ぬ
興隆仏法の為利益衆生の為
欣求浄土 憲縁