金魚掬いの救いと磁石のはたらき
提供: 本願力
金魚
──{前略}──
はじめて仏様・阿弥陀仏の本願の教えを聞いて、そして浄土を願う心をおこした人が、しかし自分の心の愚かな事、また自分の身の罪業にまつらわれている浅ましい姿を見るにつけ、思うにつけて、こんな愚かな身で、こんな煩悩具足の浅ましい身で、どうして往生する事ができようか。こんな身では仏様のお心に契わないだろう。何とか美しい心にならなければ往生できないのではないかと言って心配しているような人々に対しては「我が心の善悪をば沙汰せず」 (御消息 P.740) 自分の心の善し悪しを問題にしなさんな。煩悩具足の凡夫である事を見抜いた上で、そのままを救うとおっしゃる仏様がいらっしゃるのだから如来様におまかせをして、自分の心の善し悪しを心配して「こんな事では救われまい」と思うような要らない心配をしないで良いのだ。こういう風に教えてあげる事が大事だ。それが大切な事だ。しかしどんな煩悩具足の凡夫であっても、どんな罪業深重の者であっても、そのままをきっとこの親が救うぞと仏様はおっしゃって下さいますけれども、しかし「どんな悪い事をしても良い」とは一言も言われてはおりません。「どんな悪をしてもいい、どんな振る舞いをしても良い」とは一言もおっしゃってはおられません。そんな事は強要されていない。
寧ろこの前言いましたように、悪を造るという事は自分で自分の首締める事です。自分で自分の首を締め、自分で自分を苦しい羽目に追い詰めていくのが悪を造る相でございます。そして自分で自分を苦しい状況に追い詰めていく、そんな姿を憐れんで、そしてそういう悪にまつらわれる事のない人間に育て上げよう。そういう人間を立派な仏に仕上げようというのが仏様の救いであって、如来様が救うというのは金魚
その意味で親鸞聖人はよく仏様の救いを磁石で喩えておられます。磁石が鉄を吸いつけるようなものだと言われています。磁石が鉄を吸いつけた時に、磁石の磁場に入った時に鉄は磁石の方に向かって動いていきます。普通の鉄では絶対に動かないのです。普通の釘が勝手に動いたらややこしいでしょう。大工さんが仕事しよう思って屋根へ上がって釘を出したら「お前とつきあいするのは嫌だ」と言って釘が余所へ行ったら、釘が勝手に動いたら仕事になりません。釘は自分で動かないものなのです。ところが動かない筈の釘が自分で自発的に動く時があるのです。自発的に、というよりも必然的に動いていく事がある。これは磁石に近づいた時です。磁石を近づけた時に、釘はその磁石の方に向かって動いていきます。これは磁場の中に入るからです。あれは外面はただの鉄釘だけども、その鉄は変貌してます。あれは鉄でなくなっているのです。単なる鉄ではなくなっているのです。あれは実は磁石になっているのです。磁場の中に入りますと鉄釘が磁石に変わるのです。同じ鉄でも磁気を帯びた鉄と磁気を帯びない鉄とでは鉄の原子は違わないけれども原子の配列が違っているのだそうです。
あの磁石の喩えは元々は経典(華厳経)に出てくるのです。親鸞聖人もそれを如来様の本願の救いの模様を顕わすのに使っていらっしゃるのです。阿弥陀仏の本願力というのは磁石のようなものだ。「よく本願の因を吸うが故に」(行巻 P.201) 本願の因を吸いつけ如来が救おうとされた救いの対象を自らに吸いつけていくのだ。それが仏様の救いのはたらきだという。その磁石に吸いついた鉄は磁石になっているのです。ですからプラスとマイナスがピタッと一致するように引っついていく訳なのです。ですから磁石に引っついてる釘の所へ他の釘を引っ付けますと、その釘がまたその釘に引っ付いていきます。という事は釘が既に磁石になってる証拠です。今申しましたように電子顕微鏡で見ますと磁気を帯びますと原子の配列が瞬間にスウーと変わるのです。そうなりますと単なる鉄ではなくて磁石になっているのです。
そうしますと本願を聞いた。そして本願を信じたという事は、その意味で外見は煩悩具足の凡夫のままの姿だけれども。しかし内的に変革を受けてる、大きな変革を受けてる。どんな形で変革を受けるかと言ったら仏様と同質のものになっていく。そして仏様と同質のものになるから、仏様の方に向かって親近性をもつ。そして仏様に向かっていくような人間になる。第一に教えを聞く事を段々と楽しむようになっていく。私達は元々は教えを聞くなどという事は嫌な事です。仏教の話を聞く気はありはしない。またそんなものを聞こうとも思いはしない。それが段々と教えを聞く事が楽しくなっていく。それだけ教えに対して親近性が出てきます。そして仏の名を称え、浄土を思う人間になっていく。仏を思う人間になっていく。これは質的に変革を受けてる証拠です。鉄が磁石に変わっていくように外見は少しも変わらないけども内的には大きな変わりが出来てきている。外的には錆びた折れ釘であっても磁気を帯びた折れ釘は他の釘を吸いつける能力を持つ。丁度そのように仏様の教えを聞いて、そして仏様に向かった存在に変わってくる。そしてまた縁のある人達を仏様の方に向け変えていくような、そんなはたらきをする人間に変わっていく。そのあたりに実は大きな変革が行われていくのです。
だから救われるという事は、やはり質的に変わっていく事なのです。外面的には余り変わりはないようだけれども質的に変わっていく。質的に変わればもちろん外面にもいくつかの変化はある。当然変化はある。その一つは今申しましたように教えを聞いて喜ぶ人間になる。そして人々に「共にこの教えを聞いて共に仏様の子である事に目覚めていきましょう」という呼びかけも出てくるようになる。その辺からやはり仏様の教えに従って、言ったらダメだぞと言われた言葉はやはり言わないように、してはいけないと言われた事はしないように慎んでいこうという
そこで「かくききてのち」 (御消息 P.740) こういう風に煩悩具足の愚かな者を、そのままで救おうと思し召す仏様の教えに触れた時に、その時に私達は大きな変革を受ける。そうですね磁石が釘を引きつける時に「お前錆びてるからダメ」とは言いません。「お前は錆びてるから引きつけてやらん」そんな事を言いはしません。鉄である限り錆びていようがどうしようが、ボロボロになっていても磁石はその鉄を引きつけます。曲がった釘だから引きつけてやらないなんて事は言いません。錆びた釘だろうが曲がった釘だろうが、鉄ならば引きつけるのです。阿弥陀仏の本願もその通りだ。賢かろうと愚かであろうと罪業深き者であろうと、その人が、いのちある者であるが故に如来は無条件に引きつけて下さる。そして如来と同質のものに仕上げて下さる。そういうはたらきが仏様の救いのはたらきです。だからこのように聞いて後「仏を信ぜんとおもふこころふかくなりぬるには」 (御消息 P.740) 仏様の本願を聞いて、そして教えをいよいよ喜ぶ人間になる。教えを聞く事を楽しむ人間になってきたという事です。そして仏様に親しみ深くなってくる。この「信ぜんとおもふこころふかくなりぬるには」 (御消息 P.740) というのは信ずる心が深くなるという事は、仏様に段々と親しみ深くなるという事です。今まで疎遠であったものが段々、仏様に親しみ深くなる。今までお仏壇にお礼をするのも、そんな気が起こらなかったものが段々と仏様にお礼を申すようになり。お念仏するのが気恥ずかしかった。お念仏しようなどという心おきなかったものが、それが段々とお念仏を申すようになってくる。その姿が段々と仏様に馴染んできている姿です。仏様に対する馴染みが深くなってくる。それを「信ぜんとおもふこころふかくなりぬるには」 (御消息 P.740) 仏様の教えを楽しんで聞くような心が段々と深くなってくると「まことにこの身をもいとひ、流転せんことをもかなしみて、ふかくちかひをも信じ、阿弥陀仏を好みまうしなんどするひとは」 (御消息 P.740) 自分の煩悩の浅ましさに気がつく。腹の立つ事の浅ましさ、人を妬んだり呪うたりする事の浅ましさ、その事の愚かしさ浅ましさというのが段々と分かってくる。しかし人を妬む心はなくならないし、人に嫌な事を言われた時に腹立つ心もなくならないけれども、しかし全くなくならないというのではない。十あったものが九や八になったらだいぶ違います。腹立ちというものがそうです。
我々はやはり嫌な事を言われたら腹が立つのです。皆さんそうでしょう。何を言われても腹は立たない、そんな所まで中々行きません。仏様ではないのですから。教えを聞いたって地金は地金ですので、悪口を言われて「言うのは向こうの勝手だ、怒るか怒らないかは俺の勝手だ」というのでスーッと済ましてるという訳にはいきません。中々そういう風にはいきません。だけど少しは違ってくるのです。腹立ちも質が少しずつ違ってくる。憎たらしい相手に、死んでしまえと思うくらいに腹立つ。思うと余計に腹が立ってくる。あれは自分の心で憎しみを増幅するのです。或いは「あいつだけは、この恨みは死んでも忘れんぞ」と思った途端に腹立ちが倍加していくのです。だけどその時に「あいつは腹立つ奴だ、死んでも忘れんぞ」という所が出てきた時に「いや死んだら忘れるぞ」と思ったら良いのです。「死んでまではこんな思いは持っていかないぞ」と思う。これはあります。「死んでまでこんな汚い思いは持っていかないぞ」という事が出てくる。そうしたら「死んだら忘れるぞ」と言ったらどこか知りませんがスコンと抜ける所があるのです。
「あいつは腹立つ奴だ、死んでしまえ」と腹立てた時に、「いや死ななくてもよい、俺にとったら憎い奴だけど、しかし彼が存在する事は素晴らしい事なのだ。仏様は大切なものだとおっしゃっておられるのだから、彼もまた如来様の子として大切なのだ。私にとっては憎い奴だけど、しかし彼は彼として存在する事に意義があるのだ」と思いますと。そうですね三分くらいは腹立ちは静まります。三分静まったらだいぶ違うのです。プラスアルファとマイナスアルファでは差引しますとだいぶ違います。人間の心というのは腹立ってる時には火に油を注ぐようにガンガンやるのです。そんな事があるでしょう。何か嫌な事を言われてカーッと腹立つ。昼は忙しいし、仕事にかまけて忘れている。しかし晩になって寝て何もする事がなくなったら思い出す。思い出してきたらまた腹が立ってくる。そして腹を立ててどうするのかというと、そういえば三年前にもあんな事を言った、と忘れていた事まで思い出すのです。そしたら何の事はない。治りかけてる傷を、瘡蓋をはがすようなものです。心の瘡蓋をはがして傷口を大きくしているのです。忘れている事は無理に思い出さなくてもよいのです、人間というのは嫌な事は忘れるように出来ているのです。それで生きていけるように出来ているのです。そんなものを全部覚えていたら生きていけません。適当に忘れるように出来ているのです。忘れる事は良い事なのです。忘れるから生きていけるのです。だから私はこの頃は忘れるという事は素晴らしい事だと思っているのです。
そんな風に瘡蓋が出来て治りかけている所を又ペーッとはがして。そう言えばあいつは三年前にもあんな事を言った、という事を思い出して腹が立つ。そこへもってきて。そう言えばあいつだけではない、こいつもこんな事を言ったあいつもあんな事を言ったと思い出す。忘れている事を全部思い出して。そしてそれに火をつける。火に油注ぐ。そして夜寝られなくなってしまうのです。バカな話です。それと同じ事で自分で自分の心にたぶらかされてる訳です。そういう点でブレーキがかかるのです。お浄土まで持っていかないぞ。この憎しみの心は浄土まで持っていかないぞ。死んだら忘れるでと言うと、何かどこかでスコンと抜けるのです。「お前のような奴は死んでしまえ」というのを「死なんでも良いぞ」と言ってみなさい。言わなくても良いですから心の中で密かに思う。密かに思うとどこか腹立ちの心にスーッと水かけたような。全部は鎮火はしないですけれども少なくとも三分か四分くらいはシュッと腹立ちが静まっていくのです。それなのです。「この身をもいとひ、流転せんことをもかなしみて、ふかくちかひをも信じ、阿弥陀仏を好みまうしなんどするひとは、もとこそ」 (御消息 P.740) この「もとこそ」というのは以前はという事です。「こころのままにてあしきことをもおもひ」心のままに自分の思いにまかせて、我が心の妄念のままに、煩悩のままに「あしきことをもおもひ、あしきことをもふるまひなんどせしかども、いまはさやうのこころをすてんとおぼしめしあはせたまはばこそ」 (御消息 P.740) そういう愚かな心を捨てたいものだ、こんな嫌な心を捨てたいものだと。これはなくなっているのではないのです。あるから言うのです。
煩悩がなくなったらこんな事は思いません。あるから言うのです。腹が立つから「ああこんな心捨てたいものだな。人を妬んだり憎んだりする心があるから、こんな心を捨てたいものだな」と思う。こういう事が大事な事なのです。人の幸せ妬むというのは人間にとって最低です。最低だというのはどういう事かと言いますと。結局一番辛い事です。幸せな人が居たら全部腹が立つのですから。これは腹立ちの材料、不幸の材料が一杯あるようなものです。これは人間にとって一番不幸な事なのです。そういう人の幸せを妬み嫉むような心がおきた時に、こんな心を捨てたいものだなと思う。そういう心がおきるだけでもね、ブレーキがかかる。心にブレーキがかかるという事は大事な事です。そのブレーキをかけて下さるのが阿弥陀様なのだ。「あしきことをもふるまひなんどせしかども、いまはさやうのこころをすてんとおぼしめしあはせたまはばこそ」 (御消息 P.740) 捨てたいものだなぁと思う人こそ「世をいとふしるしにても候はめ」この「世をいとふしるし」とはこの煩悩の世を厭うしるし。「また往生の信心は、釈迦・弥陀の御すすめによりておこるとこそみえて候へば」 (御消息 P.740) この往生の信心というのは、お釈迦様のお勧め、阿弥陀様のご本願のお勧めによってこの信心はおこったのだとお経の中に説かれておりますから、「さりともまことのこころおこらせたまひなんには、いかがむかしの御こころのままにては候ふべき」 (御消息 P.740) 阿弥陀様のお育てにより、お釈迦様のみ教えによって、本願を信じ、念仏を申す人間になったお方ならば、そんな尊いご縁を頂いた人ならば、どうして昔のままの煩悩を無条件に肯定するような、そんな昔のままの心であって良い事がありましょうか、とおっしゃっているのです。
──{後略}──
脚 註: