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第一問答
尋云(たずねていわく)、十劫正覚の謂(いわれ)を知るを往生の体と云こと如何(いかん)。 答、自元(もとより)浄土門のこゝろは、一文不知の愚鈍の下機を本として、称名の一行を本願としたまふ間、たとひ十劫のいわれを知らずというとも、信心決定ならば往生において疑いあるべからずそろ〔候〕。すでに光明大師は「衆生称念必得往生」(散善義) と釈し、法然上人は『選択集』にをいて、「南無阿弥陀仏、往生之業念仏為本」とあらわし、鸞上人は「名号を不思議と信じ、誓願を不思議と信じそろ〔候〕よりほかに異なる義なし」と、「御消息」(古写消息一意) に残しをかれ候あひだ、ゆめゆめ相伝なきともがら〔輩〕のまふ〔申〕すことを、本になさるべからずそろ〔候〕なり。