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『慕帰絵詞』第五巻 第一段 宿善の事

提供: 本願力

2013年3月2日 (土) 16:29時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

 浄土真宗で「宿善」という言葉の意味でよく参照される『慕帰絵詞』第五巻 第一段の宿善の事の文章。『慕帰絵詞』(ぼき-えことば)とは本願寺三代目を名乗られた覚如上人の帰寂(入寂)を恋い慕うゆえ作成された伝記である。しかして覚師を讃仰するあまりに筆がすべることもあったことに留意して読むべきであろう。なお宿善の語義は、前世・過去世につくった善根功徳のことであり、本文中で覚師が『無量寿経』の往覲偈を引いて、曾更見世尊 則能信此事 謙敬聞奉行 踊躍大歓喜(むかし世尊を見たてまつりしものは、すなはちよくこの事を信じ、謙敬にして聞きて奉行し、踊躍して大きに歓喜す。)とあるように過去世における善根を指す言葉である。あくまでも遇い難き生死出ずべき道に遇い得たことを感佩する語であることに注意すべきである。なお、御開山には宿善という語は無く法に遇いえた慶びを語る宿縁という語はあるが宿善という語は無い。後年、蓮如聖人が宿善という言葉を使われるが、この場合も「宿善めでたしといふはわろし。御一流には宿善ありがたしと申すがよく候ふよし仰せられ候ふ。」(現代語訳:宿善がすばらしいというのはよくない。宿善とは阿弥陀仏のお育てのことであるから、浄土真宗では宿善がありがたいというのがよいのである)(御一代聞書233)と、言われるように宿善とは、法に遇い得た現在から過去を振り返る言葉である。

鎌倉の唯善房と号せしは、中院少将具親朝臣の孫、禅念坊[1]の真弟なり。幼年のときは少将輔時猶子とし、成仁の後は亜相雅忠卿の子の儀たりき。仁和寺相応院の守助僧正の門弟にて、大納言阿闍梨弘雅とてしばらく山卧道をぞうかがひける。いにしへ法印と唯公と、はかりなき法門相論の事ありけり。

法印(覚如)は「往生は宿善開発の機こそ善知識に値(まうあひ)てきけば、即信心歓喜するゆへに報土得生すれ」と云々。
善公(唯善)は、「十方衆生とちかひたまへば、更に宿善の有無を沙汰せず、仏願にあへば、必ず往生をうるなり。さてこそ不思議の大願にて侍れ」と。

ここに法印かさねて示す様、「大無量寿経には、

若人無善本 不得聞此経
清浄有戒者 乃獲聞正法
曾更見世尊 則能信此事
謙敬聞奉行 踊躍大歓喜
驕慢弊懈怠 難以信此法
宿世見諸仏 楽聴如是教」[2]

ととかれたり。宿福深厚の機はすなはちよく此事を信じ、無宿善のものは驕慢弊懈怠にして、此法を信じかたしといふこと、あきらけし。
随て光明寺和尚この文を受けて、「若人無善本 不得聞仏名 驕慢弊懈怠 難以信此法 宿世見諸仏 則能信此事 謙敬聞奉行 踊躍大歓喜」[3]と釈せらる。
経釈ともに歴然、いかでかこれらの明文を消して、宿善の有無を沙汰すべからずとはのたまふや」と。

その時又、唯公「さては念仏往生にてはなくて、宿善往生といふべしや、如何」と。[4]

又、法印「宿善によて往生するともまふさばこそ、宿善往生とは申されめ。宿善のゆへに、知識にあふゆへに、聞其名号 信心歓喜 乃至一念[5]する時分に往生決得し、定聚に住し不退転にいたるとは相伝し侍れ。これをなんぞ宿善往生とはいふべき哉」と。
そののちはたがひに言説をやめけり。

伊勢入道行願とて五條大納言邦綱卿遺流なりしかば、真俗二諦につけ和漢両道にむけてもさる有識の仁といわれしが、後日此事を伝聞て彼相論の旨是非しけり。
伊勢の入道の詞に云 北殿の御法文は経釈をはなれず道理のさすところ言語絶し畢ぬ。又南殿(唯善)の御義勢は入道法文なりとて、あざわらひけりと云々。
昔は大谷の一室に舅甥両方に居住せしにつきて、南北の号ありければ行願かくいひけるにこそ。


  1. 禅念坊。覚信尼公の再婚相手である小野宮禅念のこと。出家して小野宮禅念と名乗った。唯善師は覚信尼公と禅念の間の子で覚如上人とは、文中に「舅甥」とあるように甥と叔父の関係である。『歎異抄』の著者ともくされる唯円とは師弟、あるいは唯円は小野宮禅念の先妻の子であるともいわれる。
  2. もし人、善本なければ、この経を聞くことを得ず。 清浄に戒を有てるもの、いまし正法を聞くことを獲。むかし世尊を見たてまつりしものは、すなはちよくこの事を信じ、謙敬にして聞きて奉行し、踊躍して大きに歓喜す。驕慢と弊と懈怠とは、もつてこの法を信ずること難し。宿世に諸仏を見たてまつりしものは、楽んでかくのごときの教を聴かん。◇『無量寿経」下巻の往覲偈の文。現在にこの法を聞き得たのは、過去世における遇法の縁であったという意。
  3. もし人善本なければ、仏の名を聞くことを得ず。驕慢と弊と懈怠とは、もつてこの法を信ずること難し。宿世に諸仏を見たてまつりしものは、すなはちよくこの事を信ず。謙敬に聞きて奉行し、踊躍して大きに歓喜す。◇『往生礼讃』p.674の文。ここでも「宿世に諸仏を見たてまつりしものは」とあり、現在から過去を振り返って感佩する意である。
  4. この唯善師の表明は正しい。ただ、覚師は法に遇い得た処の信を論ずるのであり、唯善師は念仏往生の願である行について語るのであって、そもそも議論が噛み合っていない。
  5. 「その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。」『無量寿経』の本願成就文。◇覚師は、本願成就文から法義を論じ、唯善師は第十八願の念仏往生の願の意に立ち論じているのである。覚師は一念義的傾向が強く、唯善師は本願に選択された名号を重視する立場であったのであろう。



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