法然教学の研究 /第一篇/第四章 専修念仏論の確立/第四節 正雑二行の得失
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第四節 正雑二行の得失
さて「二行章」は、つづいて正雑二行について親疎対、近遠対、無間有間対、不回向回向対、純雑対という五番の相対を行って二行の得失を判定し、二行廃立を極成していかれる[1]。正行、すなわち正助二業を修するものは、阿弥陀仏において親昵、隣近、憶念不間断の得益があり、また「別不レ用二回向一、自然成二往生業一」の徳があり、それこそ純一無雑の往生行である。それに対して雑行を修するものは、阿弥陀仏において疎遠であり、憶念は間断し、回向しなければ往生行にならないものであり、人天三乗及び十方浄土にも通じた雑通の行でしかないといわれるのである。このように五番の得失をあげて二行の相対廃立を行われたのは、「大経釈」のころからである。
五番の相対について、僧叡は、親疎対と近遠対は現生の益について明かすものであり、無間有間対は信に約し、不回向回向対は生因の義に拠り、純雑対は行体の是非を定めたものであるといわれている。又初の二つのうち親疎対は心に約し、近遠対は身に約してしばらく分別したものであるという[2]。またこうした五番の相対は、『散善義』就行立信釈に二行の得失をのべて「若修二前正助二行一、心常親近、憶念不レ断、名為二無間一也、若行二後雑行一、即心常間断、雖レ<可二回向得一生、衆名二疎雑之行一也」といわれたものに依られている。中でも親疎対と近遠対は『定善義』の摂取三縁釈下の親縁と近縁に依り、不回向回向対は『玄義分』の六字釈にその義の根拠をおかれていることは、その釈中の引文によって知られる。 尚純雑の義については、用語の使用例を詳細にあげ、①経律論、②賢聖集、③密教、④外典における純雑の語例を示した上で善導は往生行について純雑を分判されたといわれている。これは純雑の義意は各々その用途によって趣きを異にしているから錯解してはならないと注意されたものであろう。恐らく往生行について正雑の分判を行い一行専修というわが国では初めての新しい実践形態を樹立するについて、その用語にまで法然は心を配っておられたことを物語っている。 さきにも一言したが、『選択集』の広本は、この部分が「大経釈」と同じように、非常に詳細に論述されていたこともそれを裏づけている。
さてこの五番の相対において、その得は「正助二行を修するものは」といって正行に与えられているが、尅実すれば正定業たる称名に与えられるべき得であるといわねばならない。そのことは第四の不回向回向対において『玄義分』の六字釈を引用して不回向の義意を証明されるところに明らかに窺うことができる。
今此観経中、十声称仏、即有<十願十行<具足、云何具足、言<南無<者、即是帰命、亦是発願回向之義、言<阿弥陀仏<者、即是其行、以<斯義<故、必得<往生<、
といわれたものが六字釈であるが、これによれば南無阿弥陀仏と称えるとき、その南無、すなわち帰命の義として発願回向のいわれがあるから、念仏すれば、別して回向を用いなくても、自然に往生業と成るといわれるのである。従ってこの不回向の徳義は前三後一の助業にはないものであって、念仏のみのもつ徳義を、任運に随伴している助業にまで及ぼしたものであることがわかる。僧叡は、この不回向回向対は真宗の至要であって、前後の得失はこれを基本としており、法然、親鸞両祖の「相伝秘要心髄、正在<于茲<」といっている。
すなわち親鸞は、この不回向の釈義に準拠しつつ、『論註』の回向門の往還二回向の釈を換骨して本願力回向の宗義を確立されたというのである。
法然によれば、雑行は、その行体は人天三乗の行であって、阿弥陀仏の浄土へ往生する行ではない。従って行者がそれを浄土へ回転趣向しなければ、往生の因とはならないから、雑行は回向行であるというのである。『選択集』に「回向者、修<雑行<者、必用<回向<之時、成<往生之因<、若不<用<回向<之時、不<成<往生之因<故」といわれる所以である。 これに対して「修<正助二行<者、縦令別不<用<回向<、自然成<往生業<」といい、正行、すなわち尅実していえば称名は不回向行であるとされるのである。称名が不回向であるのは、それは阿弥陀仏の本願において、衆生往生の行業として選び定められた選択本願の行だからである。すでに如来が本願において往生行と選定されている以上、衆生が回向をする必要は全くなく、称名すれば、そのままで往生の業因となっていくから「自然成<往生業<」といわれたのである。従ってこの「自然」とは本願の自爾をあらわしているといわねばならない。 いわゆる願力自然の義意である。そうすると、次に引用されている六字釈の「発願回向之義」とは、衆生からいえば不回向であるような願力自然の「発願回向」の義意を含められていたとしなければならない。このような含意を読みとって開顕されたのが、親鸞の「行文類」における六字釈だったと考えられる。すなわち、
是以帰命者、本願招喚之勅命也、言<発願回向<者、如来已発願、回<施衆生行<之心也。言<即是其行<者、選択本願是也。
といわれた如来の発願回向と選択本願の行の義意は、法然の不回向釈のもつ幽意を釈顕されたものといえよう。親鸞が『浄土文類聚鈔』に「聖言論説特用知、非<凡夫回向行<、是大悲回向行故、名<不回向<、誠是選択摂取之本願……」といい、『正像末和讃』に「真実信心の称名は、弥陀回向の法なれば、不回向となづけてぞ、自力の称念きらはるる」と讃詠されているが、いずれも、不回向の義意と如来回向の義とを表裏の如く用いられている。 これによって、法然の不回向義の幽意を開いて如来回向の教義を確立していかれたことが窺えるのである。
さて「二行章」は、私釈が終わったあとに再び『往生礼讃』の専雑二修の得失を判ずる文が引用され、さらに短いながらも私釈が施され、千中無一の雑修を捨てて、百即百生の専修に帰すべきことが勧誡されている。ここに「専修正行」「雑修雑行」といわれているように、法然にあっては、正行と専修、雑行と雑修は、行体と修相のちがいはあるが、大体同義語として用いられているようである。なお「大経釈」には、この『礼讃』の引文に対して「私云、凡此文者、是行者至要也、専雑之訓、得失之誡、甚以苦也、求<極楽<之人、盍<貯<寸符<哉」といい、さらに『往生要集』「大文第十問答料簡」の往生階位の釈文を引いて、三不三信と専雑二修の義意を詳らかにされている。
これは『選択集』広本には、「大経釈」のままに掲載されているが、現行の『選択集』略本では省略されている。 しかしこの『往生要集』の文が、法然をして源信教学から善導教学へ移行せしめる機縁の一つとなっていたことについては、別稿で詳述する如くである。いずれにせよ、『選択集』の引文、私釈の例格を破って、二度までも引文と私釈を施されているところに「二行章」のもつ意味の重大さを窺うことができよう。