意識の形而上学
提供: 本願力
Ⅲ「真如」という仮名
一般に東洋哲学の伝統においては、形而上学は「コトバ以前」に窮極する。すなわち形而上学的思惟は、その極所に至って、実在性の、言語を超えた窮玄の境地に到達し、言語は本来の意味指示機能を喪失する。そうでなければ、存在論ではあり得ても、形而上学ではあり得ないのだ。
だが、そうは言っても、言語を完全に放棄してしまうわけにもいかない。言語を超え、言語の能力を否定するためにさえ、言語を使わなくてはならない。いわゆる「言詮不及」は、それ自体が、また一つの言語的事態である。生来言語(ロゴス)的存在者である人間の、それが、逆説的な宿命なのであろうか。
この点に関して、人はよく偉大なる「沈黙」について云々する。あたかも、形而上学的体験の極所においては、じっと黙りこんでしまいさえすれば、それで全ての問題が解決するかのように。
だが、皮肉なことに、「沈黙」は「コトバ」へのアンチテーゼとしてのみ体験的意義を発揮するのだ。言語を否定するための「沈黙」もまた、依然として言語的意味連関の圏内の一事項にすぎない。
元来コトバにはなんの関係もない路上の石ころの「沈黙」にも深玄な意味がある、と言う人があるが、そもそも石ころの「沈黙」に深玄な意味を賦与するのは、人間の意味志向的意識であることを憶うべきである。「沈黙」は、決して言語の支配圏を超越しきってはいないのだ。まして、形而上学の樹立を目指す哲学的思惟の場合、いたずらに「沈黙」を振りかざしてみても、いささかも問題の解決になりはしない。いかに言語が無効であるとわかっていても、それをなんとか使って「コトバ以前」を言語的に定立し、この言詮不及の極限から翻って、言語の支配する全領域(=全存在世界)を射程に入れ、いわば頂点からどん底まで検索し、その全体を構造的に捉えなおすこと──そこにこそ形而上学の本旨が存する。そしていま、『大乗起信論』は、まさにそれを試みようとするのである。
右のような事態にかんがみて、東洋哲学の諸伝統は、形而上学の極所を目指して、さまざまな名称を案出してきた。曰く「絶対」、曰く「真(実在)」、曰く「道(タオ)」、曰く「空」、曰く「無」等々。いずれも、本来は絶対に無相無名であるものを、それと知りつつ、敢えて、便宜上、コトバの支配圏内に曳き入れるための仮りの名(『起信論』)のいわゆる「仮名」)にすぎない。
プロティノスの一者」という名もまた然り。「一者」(to hen)という名称が、純然たる仮名にすぎないことを、プロティノス自身が次のように明言している(Enn.Ⅳ)。曰く、自分が「一者」という名で意味しようとしているものは、本当は一者でも何でもない。それは「有の彼方(epekeina ousias)」「実在性の彼方(epekeina ousiãs)」「思考力の彼方epekeina noù)」なるもの、つまり言詮の彼方なる絶対窮極者なのであって、それにピタリと適合する名称などあるはずがない。しかし、そんなことを言っていては話にならないので、「強いて何とか仮りの名を付けるために、止むを得ず、一者と呼んでおく」。またそれに言及する必要がある場合「かのもの(ekeîno)」という漠然として無限定的な語を使ったりもするが、「実は、厳密に言えば、かのものともこのものとも言ってはならないのである。どんな言葉を使ってみても、我々はいわばそれの外側を、むなしく駈け廻っているだけのことだ」(Enn.Ⅵ.9)と。意識と存在のゼロ・ポイントの本源的無名性と、「一者」という名の仮名性とを説き尽して余すところなし、というべきであろう。
これと全く同じ趣旨で、『起信論』は「真如」という仮名を選び取る。この語が一つの仮りの名、すなわち便宜的な符丁にすぎないことを、『起信論』のテクストは次のように明言する。
「一切諸法(=全ての存在分節単位、一切の内的・外的事物事象)は、ただ妄念(=意識の意味分節作用)に依りて(相互間の)差別有るのみ。もし心念(=分節意識)を離るれば、則ち一切の境界(=対象的事物)の相(=形姿)なし。是の故に、一切の法は、もとよりこのかた(=本来的には)言説の相(=コトバで表わされる意味単位としての事物の様相)を離れ、名字(=個々別々の事物の名称)の相を離れ、心縁(=思惟対象)の相を離れ、畢寛(=本源的には)平等(=一切の存在にわたって絶対無差別)にして、変異あることなく破壊す可からず、唯だ是れ一心(=絶対全一的な意識)のみなるを、故(ことさら)に(=強いて)真如と名づく。」
「一切の言説は仮名にして実なく、ただ妄念に随えるのみにして不可得(=コトバでは存在の真相は把提できない)なるを以ての故に、真如と言うも、また相(=この語に対応する実相)の有ることなし。言説の極(=コトバの意味指示作用をギリギリのところまで追いつめて)、言(ごん)に依りて言を遣(や)るを謂うのみ(=コトバを使うことによって、逆にコトバを否定するだけのこと)……」
「当に知るべし、一切の法は(=本源的には)説く可からず、念ず(=思惟す)可からず。故に(=こういう事情をはっきり心得たうえで、敢えて)真如となす(=真如という仮名を使う)なり」と。
「真如」とは、字義どおりには、本然的にあるがままを意味する。「真」は虚妄性の否定、「如」は無差別不変の自己同一性。もとサンスクリットの tathatā の漢訳で、原語的にも「ありのまま性」の意。真にあるがまま、一点一画たりとも増減なき真実在を意味する、とでも言っておこうか。
だが、この語が仮名にすぎないということは、一体、どういうことなのであろうか。さきに列挙したいろいろな名称が、全部、仮名であることを我々は承知している。それらのどの一つも本当の名でないならば、どの名を選んで形而上学的窮極者の名としても、結局、同じことなのであろうか。「真如」の代りに、例えば「道(タオ)」とか「無」とかいっても同じことなのか。いや、決してそんなことはない。「真如」と「道」と「無」との間には、歴然たる違いがある。それぞれの術語の背景にある言語的意味のカルマが違うからだ。同じく意識と存在のゼロ・ポイントを指示するにしても、例えば「真如」と「道」では、意味指示のアプローチが、文化パタン的に、全然違っている。では、なぜそんなことになるのか。
仮名にせよ何にせよ、あるものに何々という名をつけることは、たんに何々という名をつけるだけのことではない。命名は意味分節行為である。あるものが何々と命名されたとたんに、そのものは意味分節的に特殊化され特定化される。「真如」という仮名によって名指される意識と存在のゼロ・ポイントは、「道」という別の仮名によって名指される意識と存在のゼロ・ポイントとは、それぞれの文化パタン的含意の故に、意味指示的に別物である。
我々はここで、どうしても意味分節ということに考察の焦点を合わせなければならない。