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観心為清浄円明事

提供: 本願力

2017年2月22日 (水) 14:43時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版 (ページの作成:「心は清浄にして円明であると観察する事 問。真言の教えの中に月輪観という観法が有り、微妙甚深で大功徳が有ると云うが、...」)

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心は清浄にして円明であると観察する事

問。真言の教えの中に月輪観という観法が有り、微妙甚深で大功徳が有ると云うが、法相にもまた此の証が有るだろうか。
答。まだ正にそのことを書いた文を見ないが、同じ事が無い訳ではない。その証拠に云うならば。仏果の功徳を説くのに多く円明と云う。なぜなら、或いは自性は清浄にして円明の故に無漏と名づくと云い、或いは究極にみちびくのは円明にして純粋清浄の本識であると云うのなどが是である。円とは円満である。万徳の欠ける事がないからである。明は明浄である。性用が無垢だからである。あたかも世間の満月のようである。

問。仏の果である真理を知る智慧は障りを超え出ているので円明であるのは当然である。凡夫の妄念の心は常に煩悩を具えている。また一つの徳も無い。どうしてこの煩悩の心を観じて清浄とし、円明とするのか。
答。真理の本質としての清浄は凡夫も聖者も両方の位に通ずるのである。本来自性清浄とは涅槃の意義であり、依他起性のところに成就している。だから『成唯識論』に云う。客染煩悩が有るとはいっても本来は清浄であって、無数量の微妙の功徳を具えているのであるなどと云う。ただ自性が清浄なだけでなく、また無数の功徳を具えているのである。円明の二の意義は詳しく此の文に説かれている。また『勝鬘経』などは如来蔵を説くのである。すなわち在纏位の法身は煩悩の束縛があっても多くの徳を具えているという意味である。
次に智慧ということで如来蔵を論ずるならば、無漏の種子は法の然らしむるままに具わっている。煩悩の障りが有るとしてもこれを汚染することはできない。本性住(先天的に種子の存するもの)という本質が則ちこれのことである。

問。無漏の種子はたとえ清浄という意義が有るといっても、凡夫の位ではまだ現象として生じていなし、その様相も顕れていない。今どうして妄念に汚染された心をもって清浄であるとするのか。
答。有漏の心に寄って無漏の種子を観じても、是れまた別のものではない。ただいまだに現実に徴候が現れないといっても、因となるものが既に微妙なものなのである。諸の大乗教ではこれを名づけて仏性といい、これを称して如来とするのである。因において果を語るのは、聖教の常に説くところである。おおよそ因といい果というのは、不一不異である。また現在の心の上に過去や未来を立てるであろう。現在の世を離れて過去や未来が有ることはない。大乗仏教の因果は深く微妙であって言葉を離れているのである。仏智の前に凡夫の心を照してみれば、本来が清浄であって仏と異なることは無いのである。様相と本質は不二であって本質を離れて様相は無いのである。因と果は不異であって因を離れて果は無い。
だから涅槃経に乳酪の喩を説く。「人が乳業家に行き問うた、酪は有るかと。乳業家は答えて云った。酪は有る。そして牛乳を指して酪だと言った。現れていないが既に有る。人は仏性を具えていると知るべきことはまたこのようである。」(経の意)

小島僧都は二つの解釈をなした。但だ事物の浅いことを挙げ、その原理的本質を観てそれを本質の意義とするのか。つまり世間の満月をもって喩とする。これを観るのに過ぎることは無い。ただ世間の太陽や月は器世間に属する所である。一切の器世間は、あらゆる衆生の共業が感ずる所である。自己の第八識は恒に之れを変えていく。 器世間は阿頼耶識の相分である。様相を取り込んで心に帰れば、それは既に心の中に在るものである。観念がもっともそれに応ずるものだろうか。
ただ私のような愚かな人間は観念の行に堪えられない。ただ心をもって心を繋ごうと想うのである。私の心が清浄にしてちょうど満月のようであれば、分別心は次第に減って散乱する心は止むであろう。心が清く身が涼しければ滅罪の源になるだろうか。
また真言を唱えるべきである。功徳の力が広大だからである。「冐地」は菩提である。「質多」は縁慮心である。縁慮の心のその本質は、本より清浄である。即ちこれは菩提大覚の本体である。

問。真如は無相である。どうして有相の月輪をもって無相の真理を観ずるのか。
答。凡夫の心のはたらきでは速やかに無相の真理に入ることができない。それで有相の中でもこの相は少しは無相に近い。いろいろの物といろいろの色が無いからである。このように段々に進んで最後に無相に入るのである。喩えば息を数えることによって禅定を得ることができるようなものである。重ねてそのこころを云えば、始めに息を数えるのはちょうど散乱する心のようであるが、散乱する心の中にわずかにある寂静の心が最後には禅定の位に達するのである。

『心地観経』に云う。凡夫の観る所の菩提心の様相は、ちょうど清浄円満の月輪のようである。胸中の憶いの上では明朗にして存在する。もし速やかに不退転を得ようと欲するのならば、阿練若や空寂室に在って、身を端し念を正して如来の前に金剛縛の印を結んで、冥目して心の中の明月を観察し、この思惟をせよ。この満月の輪は五十由旬もあって、無垢にして明浄であり内外に澄徹し究極の涼しさ(涅槃の絶対の境地)である。月は即ちこれ心である。心は即ちこれ月である。不浄のかげりに染まることなく妄想は生じない。よく衆生をして身心を清浄にさせる。大菩提心は堅固にして不退であると云う。
『菩提心論』に経を引いて云うには、「もし勢力(偉大な力・能力)の増大することが無ければ、よく法を信じてひとえに菩提心を観るべきである。仏説は菩提心の中に万の行を具えて、清白にして純粋清浄の法を満足している。」

出離生死の道を受ける身としては、茫然としてその教えを聞かないのではないが、ただその菩提心が発らないのである。 これは則ち機が教えに乖いて、与えられる分を望んで教えに違うからなのだろうか。心広大の門に入ろうと思えば、私の性は堪えることができず、微妙な業を修行しようと思えば、自らの心は頼みにし難い。賢き先輩に遇うごとに問うてみても誰も答えてくれない。抑(そもそ) も何が法であり、何が行であるのか。浅いように見えて実に深いのである。
広大といってもなお容易に見えようか。容易だからこそ企(のぞ) むべきである。広大だからこそ頼むべきである。初心者にとっての要はこのことを以て最良とするのである。
そこで世間の男女の云うには、私の心が澄み、私の心が涼ければこそ、空は晴れて月は明るく、水は澄んで写る月影が清い。これはその身心が清涼な時である。たとえ水月に向かわなくとも、静かにその形を思い、或いはその事を語って、自ら心を悦ばせるのである。仏法の初めの門はこのようにあるべきである。自分の心の本質は本来清浄円満明朗であり、ちょうど秋の月のようである。たまたまこの事を聞いても、いまだに我の差別を隔てることがないが、密教の趣旨をいまだに習学してなくて、たとえ目を閉じ印を結ばないといっても、わずかに微妙な真理を心に思うだけで、巨きな利益を得るのである。顕教の中に正しくそれを説く文章が無いといっても、その勢いはほぼ同じである。言葉は異なっていても意義は一つである。心をこの事に繋げば究極は一つではないのか。
もし怖るべき事を話したならば幼子は聞いて恐れおののき、もし臭い穢い様子を憶えば腸がひっくり反り口中の食べものを吐くのは、人の事実とその心に感ずるところの浅深に依るのである。
命終の時に十方の仏を見て、極楽世界に往生したり、また観音菩薩が正しく無生忍を証するのは、この呪の力である。だから往生のことをあちらで云いこちらで云うのは皆すべて全く不思議のなせる所である。

仏子(貞慶)は六十年の間、空しく過ぎたといっても、もし数人の同じ法を求める仲間と、多くの日々に念誦をする間に、或いは一時、或いは一音でも、図らずも自分の心に銘記することがあるが、その徳はまた大聖世尊に達することが有るのである。その威力をもって、新たに宝の山に生まれる事は、どうして難であるとしようか。もしその願いが成就することがあれば、また他のことではない。ただ不思議の事と云うべきである。よって常に神呪(陀羅尼)の心を念じて他の功徳を思わない。総じて不思議に帰して終るのである。
西方往生は機は劣であっても浄土は勝れている。因は軽くても果は重いのである。然るに現に往生したという事実がある。世間は挙げて疑うことがない。これはただ弥陀の本願の威力である。そして本願を立てられた時は五劫という時間を思惟された。その思惟はこれを推測すれば、即ち能く不思議ということを知っておられたためであろうか。 そうでなければ、どうしてあの希有の願を発されることがあろうか。随ってまた行の有る者にも行の無い者にも善人にも悪人にも、取るに足らない軽微の業因をもって聖衆来迎を勧めたのである。聖衆が已に現れたならば往生は疑いない。ただし真実浄土の業が成就するのは、多く彼の聖衆が摂取する暫くの時の間に在るのであろうか。 そうではない、どうして最低の凡夫の粗雑な浅薄な縁をもって忽ちに微妙である浄土に生まれて、永く不退転の利益を得ることがあろうか。これは則ち不思議中の不思議なのである。

私は深く西方浄土を信ずるので、ひそかに此の考えを廻らした。学者の法相宗学の疑いにも同調せず、世人の一向の信仰にも同調しない。恐らくはこの一生の所作において、以前の称念などの行は仏を感じることが大いにあったとしても、その多くはなお疎因なのである。真実の正因正業は聖衆来迎の瑞相を見て後に希有の心を発すことである。或いは略法を開いたり、或いはいただいた所に依って、暫くの時といっても大乗の心に住すべきなのである。然る後に正しく浄土に生まれるべきである。その瑞相不思議と併んで仏宝と法宝と不思議なのである。

病の席で雑談することは多く観音補陀落の浄土往生の事であった。初心者の御同行等が云うには、此の事を忘れるかも知れない。概要を記録させてはどうだろうか。
答えて云った、何事か。すなわち始めに少々前の言葉を思い出して書き付けた人が有った。また云うには、或いは忘れ、或いは師の言葉に背くこともある、ただ此の事を口頭筆記をもってこれを書くのがよろしいのではないかと。その後床に臥しながら語ったことであるから、首尾一貫していないかも知れない。また注を付けた後は自分ではまだこれを見ていない。気力の衰えは日に日に進み、小さい声での語りは鮮明ではないから、きっとその誤りが多いのではないだろう

か。このような物が、外に出て世に流布すれば、人は悪い気を発すであろう。その怖れは一つではない。これを如何にしたものだろうか。

建暦三年正月十七日にこれを記した
同年二月三日辰の初め御入滅なされた
現行年の正月廿二日に書写し了った

興隆仏法の為利益衆生の為である
欣求浄土憲縁