歎異抄の中心問題
提供: 本願力
『歎異抄』の中心問題
- 紅楳英顕 相愛大学教授(現 名誉教授)
- (印仏研究第57の2、平成21年3月所収)
目次
はじめに
『歎異抄』の後序に著者唯円[1]は
- かなしきかなや、さいはいに念仏しながら、直ちに報土にむまれずして、辺地にやどらんこと。一室の行者のなかに信心ことなることをなからんために、なくなくふでをそめてこれをしるす。なづけて『歎異抄』というべし。(真聖全二の七九三)
と述べている。この文より窺えることは、唯円の歎異のこころは、異義者(信心ことなるもの)に対する憎しみ、腹立ちではなく、異義者がさいわいに念仏(称名念仏)しながら、報土に生まれることが出来ずに辺地(化土)にしか生まれることが出来ないことについてのかなしみであることが分かる。この念仏の真仮分別(二十願の自力念仏と十八願の他力念仏の分別)のないものが存することのかなしみが『歎異抄』の中心問題なのである。
以下。唯円の歎異の意を窺いながら、親鸞の説く他力念仏について考察することにする。
一、第十後半(別序)にみられる唯円の念仏観
別序といわれる第十後半に
- そもそもかの御在生のむかし、おなじくこころざしをして、あゆみを遼遠の洛陽にはげまし、信をひとつにして、心を当来の報土にかけしともがらは、同時に御意趣をうけたまはりしかども、そのひとびとにともなひて念仏まふさるる老若そのかずをしらずおはしますなかに、上人のおほせにあらざる異義どもを近来おほくおほせられあふてさふらふよし、つたえうけたまはる、(真聖全二の七七八)
とあるように、唯円は親鸞の教えを承け念仏している人々の中に、親鸞の教えと違うことをいう人がいること、すなわち口に念仏はしながら、親鸞の意に適った念仏(他力念仏)が称えられてないことを、歎いているのである。この点唯円の理解した親鸞の念仏は一遍が主張するような「名号は、信ずるも信ぜざるも、唱ふれば他力不思議の力にて往生す。(『播州法語集』日本思想体系十の三五三)、という信・不信は全く関係なしとするものや、あるいは一部の人の主張にみられる親鸞の説く念仏は称える全てが他力回向の念仏であり、自力・他力、信・不信、信前・信後は関係なしとする念仏観[2]②とは異なることが明らかである。
二、第九についての深励、了祥の見解
『歎異抄』第九は
- 念仏まふしさふらへども、踊躍歓喜のこヽろおろそかにさふらふことまたいそぎ浄土へまひりたきこヽろのさふらはぬは、いかにとさふらうべきことにてさふらふやらんと、まふしいれてさふらひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこヽろにてありけり。(真聖全二の七七七)
とある文で始まっている。以前私は第九について江戸時代の『歎異抄』註釈の代表者である深励(一七四六ー一八一七)と了祥(一七八八ー一八四二)の見解の相違について論じたことがある[3]③。深励は『歎異鈔講林記』(著者を如信とする。)に、ここにおける唯円を不了仏智の信前(他力信心獲得以前)の機とし
- 親鸞もこの不審ありつると仰せられたるは、祖師聖人和光同塵して凡夫と同じ意なることを示す。(中略)よくよく案じみれば等。我も其の不審ありしかどもよく思案してみれば不審におもふこヽろなきと云ふことなり。(中略)吾組の御答の意はよろこばれぬに就いて往生いかがと云ふて怪しむをあきらかにしたまはんとある大良薬なり(中略)この鈔の御教化の所対の機はみな不了仏智の疑の者に対しての御教化なり。(中略)参り度しと思はぬは煩悩の所為なり。そのこヽろの起らぬに就いていよいよ往生は一定とおもふべしとあるによりて。さては難有やと不了仏智の疑晴れ明信仏智の信心を獲るなり。(中略)この御勧めによりて今迄浄土に参られ間敷と思ひしが浄土参りにちがひなしと疑晴るヽなり。(真宗大系二四の七三以下)
と述べている。 これに対して了祥はここにおける唯円を信後の機とし、『歎異鈔耳そん』(『歎異鈔聞記』より前の講義録で著者を如信としている。)に
- 往生の信心は得ても生まれついた煩悩の足枷手枷かかった凡夫じゃで喜ぶこヽろの働きもうとく、急ぐこヽろの働きもでぬと、機の深信の煩悩具足を挙げて御 教化なさるが、この一章のすわりなり。(細川行信氏所蔵本)
と述べ、また後年の『歎異鈔聞記』(歎異抄の著者について如信説を否定し河和田の唯円説を述べたもの。)においても
- 第九章は、喜びの薄きも急ぐこころのなきも気にかけず、唯念仏して往生いかゞと計はぬこと。斯く本願を信じ念仏する無義為義をば九章に書いて、此の第十章に、夫れを無義為義と止めたと見える。(続真宗大系二一の八〇)
と述べて『耳そん』と同様に唯円を信後の機とし、第九を不喜不快章と名づけて、ここにおける唯円の不審は「往生いかがと云ふて怪しむ」のではなく「信巻」に述べられている親鸞の内省の語と同内容のものとし、ここのおける唯円を信後とするのである。
先にも述べたが[4]、第九における唯円を信後の機とする了祥の説は影響が大きく現在多く存する『歎異抄』の註釈の殆どがこの説によっている。だが果たしてこれが著者である唯円の意に適っているのであろうか。
三、第九と第十三
『歎異抄』において唯円の名が登場し親鸞との対話が述べられているのは、第九と第十三である。恐らくこの二つの対話は唯円に大きな精神的転換をもたらしたものと思われる。
先ず第十三についてであるが、第十三は冒頭に
- 彌陀の本願不思議におはしませばとて悪をおそれざるは、また本願ぼこりとて往生かなふべからずといふこと。この條本願をうたがふ、善悪の宿業をこヽろえざるなり。(真聖全二の七八二)
とあるように、彌陀の本願不思議であるからといって、悪をおそれないようなことでは本願ぼこりであり、往生はできないという人は、本願を疑っている人であると述べ、専修賢善計の異義を批判しているのである。そして、あるとき親鸞が唯円に私のいうことを何でもするかと尋ねたので、そうしますと答えたら、たとえば千人ひとを殺したら往生一定するぞといわれたので、それはおおせではありますが、私の力では一人も殺すことはできないと思いますと答えた。すると親鸞はそれなら何故私のいうことなら何でもするといったのか、といったと述べて、次下に
- これにてしるべし、なにごともこヽろにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし、しかれども一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこヽろのよくてころさぬにはあらず、(中略)われらがこヽろのよきをばよしとおもひ、あしきことをばあしとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることをおほせのさふらひしなり。(真聖全二の七八三)
とあるように、親鸞との対話による「これにてしるべし」とある教示により、「われらがこヽろのよきをばよしとおもひ、あしきことをばあしとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざる」専修賢善的(自力)なこころから、願の不思議によってたすけられるという他力の世界に転換したことを述べているのである。
次ぎに第九についてであるが、近角常観氏(一八七〇ー一九三八)は『歎異抄愚註』に
- 第九章は大切の証文の最後である。抑々聖人平常のご教化の中より耳のそこに留まるところ(歎序)、百分が一かたはしばかり少々ぬきいでゝ、書きつきられた証文が前九章である。殊に此の第九章は其結文として、唯円房が不審をたてゝ面のあたり聖人にご教化を蒙られたる著しき御物語である。これはしがきに同心行者行者の不審を散ぜんがためなりといわれたるに反照し、又最後の結文に「露命わずかに枯草の身にかゝりてさふらふほどにこそ、あひともなはしめたまふひとびと、御不審をもうけたまはり、聖人のおほせのさふらひしおもむきをも、まふしきかせまひらせさふらへども云云」とあるに照応する次第である[5]。
と述べている。「第九章は大切の証文の最後である」ということについては、この文が「大切の証文」の一つなのか、師訓の最後の文なのか、諸論のあるところではあるが、著者唯円が序で述べる「故親鸞聖人の御物語の趣」を記したものであり、「ひとへに同心行者の不審をさんぜんがため」のものである。しかも近角氏が指摘するように第九は唯円自身が不審をたてヽ直接親鸞から教示されたことを書き記しるしたものであり、唯円の強い想いが籠められているもの思われる。
上に論じたように、ここにおける唯円が信前か信後かについて深励と了祥とで意見が分かれるのであるが、要は唯円の「不審」の内容である。深励は「往生いかがと云ふて怪しむ」(『歎異鈔講林記』)とするに対し了祥は「往生の信心は得ても生まれついた煩悩の足枷手枷かかった凡夫じゃで」(『歎異鈔耳そん』)とあるように往生いかがの不審ではなく信後の内省とするのである。上述のように唯円が親鸞との直接対話を述べているのは、第九と第十三であり、これは唯円とって大きな転換となった印象深いものであったと考えられる。とくに師訓として記した御物語の中に示した親鸞の教示による不審の解決は第十三における転換より大きなものであり、唯円の生涯における最大の転換(往生極楽の問題についての解決)がなされたものであろうと考えられる。それから上引の『歎異抄愚註』にもあるように不審の語は『歎異抄』に三つあり、第九と序に「同心行者の不審を散ぜんがため」とあるものと、最後の結文に「あひともなはしめたまふひとびと、御不審をもうけたまはり」とあるものと反照・照応するものであり、十余カ国の境をこえて身命を顧みず往生極楽の道を問い聞くひとびとの不審は往生いかがの不審に他ならなかったと考えるべきであろう。
このようなことから第九における唯円は信前の機であり、唯円の不審は往生いかがの不審であったとする深励の考えが正しいと考えるのである。
上述のように深励は『歎異鈔講林記』第九釈下に
- この御勧めによりて今迄浄土に参られ間敷と思ひしが浄土参りにちがひなしと疑晴るヽなり。(真宗大系二四の七七)
とあるように、不了仏智の機がよろこびがおろそか、いそぎ浄土に参りたしとも思わぬでは往生いかがと怪しむのを、この御教化によりて「浄土参りにちがひなし」(往生一定)と明信仏智の信心決定のひととなると述べているのである。深励は『歎異抄』の著者を如信と考え、第九に登場する唯円とは考えていなかったのであるが、この文は実は唯円自身の筆によるものなのである。私は第九は唯円自身が親鸞の教示により不了仏智(自力信心)から明信仏智(他力信心)への転換(転入)告白を述べたものでもあると考える。
先に述べたように第九における唯円を信後の機とみる見解が多い。従って親鸞が「親鸞もこの不審ありつるに唯円房おなじこヽろにてありけり」とある文の解釈もまちまちである[6]⑥。「不審ありつる」については「不審が今もある」とするものと、「不審が過去にあっった」とするものとがある。「つる」は完了の助動詞であるから、国文学的には安良岡氏のいう「ありつる」は完了の助動詞「つる」を用いているので、この時までに、何度か、話者の親鸞にかかる「不審」があったことをしめしているといえよう。(『歎異抄全購読』一七〇)が妥当であろうし、この点でも深励の釈のよくよく案じみれば等。我も其の不審ありしかどもよく思案してみれば不審におもふこヽろなきと云ふことなり。(真宗大系二四の七三)とあるように「不審が今もある」というのではなく「不審が過去にあった」とする解釈が正しいとせねばならない[7]。
四、第九における唯円の念仏について
上に論じたように私は第九における唯円はは信前であったと考える。しからば、冒頭の「念仏まふしさふらへども」とある念仏はいかに考えるべきであろうか。
ここにおける唯円を信前とみる深励は、この念仏を無論信前のものとみるのである。『歎異鈔講林記』第十釈下に
- ときに上来の十章は後の九章を以て第一章を成立すると云ふ時は。上の章迄に第一章の初より終まで別別に成立し畢る。第二章では最初の勧信の処を成立し、第三章はその次の彌陀の本願には老少善悪の人を簡ばずといふ処を成立し。其次の五章は念仏にまさるべき善なきがゆへにと云ふ処を成立し、次上の一章は悪をもおそるべからずと云ふ処を成立して上の章までに第一章を別別に成立し終わる。(真宗大系二四の七八)
と述べているように、次上の一章(第九)は悪をもおそるべからずと云ふ処を成立して」と、第九は唯円の「踊躍歓喜のこころおろそかにさふらふこと、またいそぎ浄土へまひりたきこゝろのさふらはぬ」ことでは往生いかがであろうかと、悪をおそれる信罪心を否定するものとしているのである。従ってそこの念仏も信罪福心の信前念仏とみていることは明らかである。
ここにおける唯円を信後とみる了祥は念仏についても『歎異鈔聞記』に
- 然れば、第八章以下の祖訓に念仏々々と出る其の根本が、第二章の相承。又其の念仏が横超他力の念仏じゃで、信得て称える称名ゆへに。根本より云へば他力の信。然れば、このただ念仏してが祖訓十條を貫くこと知るべし。(続真宗大系二一の二八七)
と述べて第九の念仏も横超他力の念仏信後の念仏とし、また
- たゞ念仏で往生すると云ふ文あり。即ち第二章に「念仏よりほかに往生のみちをも存知し、(中略)」とあり、第四章には「念仏していそぎ仏になりて」あり、第九章には、念仏まふしさふらへども」とあり、第十章には「念仏には無義をもて義」とあり、(中略)これらは念仏の行に信をこめて、たゞ念仏で往生すると云ふ御教化。(同上三〇〇)
とも述べ、信後の念仏としている。このように了祥は第九冒頭の「念仏まふしさふらへども」とある念仏は、無上大利を具する横超他力の念仏(十八願の他力念仏)であり、第二にある「たゞ念仏」と同じものであり、信後の念仏とみるのである。
既述のように私は第九における唯円を信前の機とし、ここの念仏を信前の念仏とするとする深励の見解が正しいと考える。
以前私は「了祥師の誓名別信計についての疑問」[8]と題するものの中で了祥の念仏観につての疑問点を述べた。了祥は最古の写本である蓮如本をはじめとする多くの諸本の第十一が「これは誓願の不思議をむねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足して誓願名号の不思議ひとつにして、さらにことなることなきなり」(真聖全二の七七九)とあるところの「むねと」の三字のある本を用いる者を念仏往生の教えを誤る口称を嫌う法体募りの異義者であるとして、深励や西派の西吟・知空・法霖等がその類として非難するのである。また「但し呉れ呉れも注意しておくは、たゞ念仏してと云ふが直に信心。信の外に行なく、行の外に信なし、信心を要と顕すこの鈔、即ちたゞ念仏してと同じこと。(続真宗大系二一の二八八)とあるように念仏即信心の立場であり、また「全体念仏々々と云ふと何か別の行法の様なが、念仏は彌陀をたのむこと、我が叶はずして仏を頼むが念仏なれば、よく弁へてみると念仏に自力といふことはない。」(同上二七七)とも述べて、念仏には自力他力の分別はないといっているかのような表現もあり、口称を重視する口称募り的傾向が感ぜられるにである[9]。
さらに了祥は『歎異鈔聞記』に
- たゞ念仏する専修の外に信心を立てるのではない。一向専修の中に信心を置く。其源は『選択集』に「念仏行者必可具三心」とありて念仏の中に信心が入れてある。(同上二八五)
ともあり、法然の専修念仏から真門自力念仏を別開したのが親鸞であることが考慮されていないような見解もみられるのである。
以上の考察により、第九の「念仏まふしさふらへども」の念仏を他力弘願念仏とみる了祥の念仏観にも疑問があり、これを信前念仏(真門念仏)とする深励の見解が正しいと考える。
唯円は『歎異抄』の後序に「かなしきかなや、さいはいに念仏しながら、直ちに報土にむまれずして、辺地にやどらんこと」と述べているように著作時の唯円は、辺地にやどる真門念仏と報土に生まれる弘願念仏とをはっきり分別しているのである。、唯円が第九の冒頭の自分が述べている念仏は未だ信前の念仏であったが、ここの親鸞の教示によって、深励の釈「この御勧めによりて今迄浄土に参られ間敷と思ひしが浄土参りにちがひなしと疑晴るヽなり」(真宗大系二四の七七)のように、唯円自身が弘願に転入したという想いを述べているものと思われる。
五、第十六の廻心について
第十六に
- 一向専修のひとにおいては、廻心といふこと、たゞひとたびあるべし。その廻心は日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、彌陀の智慧をたまはりて、日ごろのこゝろをひきかへて、本願をたのみまひらするをこそ、廻心とはまふしさふらへ。(真聖全二の七八八)
とある。唯円は一向専修のひと、即ち念仏者において廻心はたゞ一度だけだと述べている。
これは法然が『選択集』に
- 是に貧道昔茲典を披閲して粗ぼ祖意を識り、立ちどころに余行を舎てヽ、こヽに帰しぬ。(真聖全一の九九三)
と述べている四十三歳の時の廻心や親鸞が『教行信証』「化土巻」に
- 然るに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。(真聖全二の二〇二)
と述べている二十九歳の時の廻心とは内容の異なるものである。即ち法然・親鸞の廻心は余行(雑行)《自力》を棄てて念仏(本願)《他力》に帰したのであるが、ここでいう廻心は一向専修のひと(念仏者)の廻心であるから自力念仏(真門念仏)から他力念仏(弘願念仏)への廻心のことなのである。一部の意見にここの「廻心といふこと、たゞひとたびあるべし。」とあることに異論を称える人がいるが、これは唯円が異義者とする専修賢善計のひとであり、念仏は称えているものの「日ごろのこゝろをひきかへて、本願をたのみまひらした」体験のない未廻心者、「若存若亡」のひとであるといえよう。
唯円は「本願をたのみまひらした」自分の体験を通して述べているのである。そしてその体験は恐らく第九の親鸞の教示によるものであったのであり、それほど重要な対話であったが故に「故親鸞聖人之御物語」の一つとして「同心行者の不審を散ぜんが為」に記したのであろうと思われる。
むすび
『歎異抄』の解説書は現代も多い。しかしながら、その殆どが著者唯円の「かなしきかなや、さいはいに念仏しながら、直ちに報土にむまれずして、辺地にやどらんこと」と述べる歎異の意が正しく理解できてないのである。第九の「念仏まふしさふらへども」の念仏を信後(弘願他力)の念仏と考え、親鸞にも往生に」ついての不審・不安があったような、「若存若亡」のひとであったとするような解釈が多いが、これは全くの間違いである。
「念仏まふしさふらへども」と、往生に不審が残っていた唯円が親鸞の教示によって不審が散じ、信心決定し、報土往生決定の身となったのである。唯円の歎異は自分が第九で述べているような信前の念仏をし(これを他力念仏であると勘違いしているひとも含まれる)、現世においては摂取不捨の利益にはあずかれず、当来には報土に生まれることのできないひとが多いことをかなしんだのである。
蓮如が奥書に「無宿善の機に左右無く之を許すべからず」とあるのは、造悪無碍のことだけでなく、念仏の自力他力の混同の問題もあったのではないかと考える。
註
- ↑ 著者については、如信説、河和田の唯円説、鳥喰の唯円説等があるが、現在河和田の唯円説がほぼ通説であり、妥当と思われるので筆者もこれに従う。
- ↑ 「仏教をいかに学ぶかー真宗学の場合」(日本仏教学会年報第六六、二〇〇一、八)。
- ↑ 「歎異抄第九章私見ー唯円の不審について ー」(「真宗研究第三十二輯」一九八七、 十二) 「歎異抄第九章の一考察」(印度学仏教学 研究三六の一、一九八七、十二)
- ↑ 同③
- ↑ 『歎異抄愚註』(三喜房仏書林、一九八・ 六刊、六二頁。)
- ↑ 中には唯円、親鸞共に信前の本願を疑う不了仏智の者とする見解もあるが、第九の時点の親鸞を信心未決定者と考えることは学述的には論外であるので、考察の対象とはしない。
- ↑ 『旺文社古語辞典』(第八版、八七頁)によると、「ありし」は「ありつる」より遠い過去を指して用いられ、「ありける」はその事柄が現在も続いてあるという意識で用いられた、とある。 「不審ありつる」を「不審が今もある」とする説は文法的に成立しない説である。また「不審が過去にあった」としながら、唯円を信後の機とする説は信前と信後の区別のついていない人の説だと思う。
- ↑ 相愛女子短期大学研究論集第三十六巻(一九八九、三)
- ↑ 同註⑧