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十六問答記

提供: 本願力

2022年11月26日 (土) 12:52時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

編集中

『浄土真宗聖典全書』六の解説から、(〔……〕は林遊の追記)

 本書は、〔高田派十世〕真慧上人の撰述である。本書は、教義・法式・儀礼に関する門徒からの十六項目の問答で構成されており、それらの問答に真慧上人自身が答えていく形式となっている。そのため、本書は「真慧上人御問答」とも称される。
 教義については、第一問答の十劫安心、第三・第七の自力念仏、第五、第十問答の雑行、第六問答の平生業成、第九問答の本尊などに関する項目がある。また法式・儀礼に関しては、第八問答の法名や第十五問答の葬儀などに関する素朴な疑問についても答えており、当時論点となった事項を具体的に知ることができる内容も含んでいる。{後略}

  • 亀甲括弧〔……〕内の記述は読解を補助するために林遊が付した。


第一問答

尋云(たずねていわく)、十劫正覚の(いわれ)を知るを往生の体と云こと如何(いかん)[1]。 答、自元(もとより)浄土門のこゝろは、一文不知の愚鈍の下機を本として、称名の一行を本願としたまふ間、たとひ十劫のいわれを知らずというとも、信心決定ならば往生において疑いあるべからずそろ〔候〕。すでに光明大師は「衆生称念(しゅじょう-しょうねん)必得往生(ひっとく-おうじょう)「隠/顕」
衆生称念すればかならず往生を得
(散善義) と釈し、法然上人は『選択集』にをいて、「南無阿弥陀仏、往生之業(おうじょう-しごう)念仏為本(ねんぶつ-いほん)「隠/顕」
南無阿弥陀仏 往生の業は念仏を本とす
とあらわし、鸞上人は「名号を不思議と信じ、誓願を不思議と信じそろ〔候〕よりほかに異なる義なし」と、「御消息」(古写消息一意[2]) に残しをかれ候あひだ、ゆめゆめ相伝なきともがら〔輩〕のまふ〔申〕すことを、本になさるべからずそろ〔候〕なり。


第二問答

尋云、当流の義、余流に少しも似そろはゞ、たすかるまじということいかん。答、このこと、一向学文をせざるものゝまふ〔申〕すことにてそろ〔候〕。聖道門にさえ()たるところあり。いわんや、浄土一門のなかにをいて、すこしも当流は余流にに〔似〕べからずといふこと、無下にあさましき義にてそろなり。にたるところもあり、またにざるところもそろなり。


第三問答

尋云、極楽を願うを自力と言うこと如何。答、いわれざる義にてそろ。流祖上人の『和讃』(浄土和讃) にも、「安楽国をねがうひと 正定聚にこそ住しけれ 邪定・不定聚くにになし 本誓悲願のゆえなれば」といえり。また「弥陀初会の聖衆は 算数のをよぶことぞなき 浄土をねがわん人はみな 広大会を帰命せよ」(浄土和讃) といへり。その上、『愚禿鈔』(巻下意)に、「厭離真実・欣求真実」と二種の真実を明かして、欣求真実をば流義の安心と釈したまひそろ。ことに『唯信抄(鈔)文意』に、「願生彼国といふは、かのくにゝにむ〔生」まれんとねがへとなり」と をほせ〔仰〕られそろ〔候〕。加様の義を知らざるものゝまふ〔申〕すことにてそろ〔候〕。


第四問答

尋云、至心信楽の信、衆生にすこしもあるまじといふこといかん。 答、すでに願文に機を「十方衆生」(大経巻上)とあらわして、「至心信楽 欲生我国 乃至十念」 「隠/顕」
至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。
(大経巻上)と、安心起行のすがたを誓いたまい候機に候はでは、いかがあるべく候や。たゞし衆生はこのちかひをたのみ候へども、みなもと法蔵因位の時、われら衆生に信行ともにほどこ〔施〕しあたへたまい候あひだ、他力の信・他力の行とこゝろへ候なり。かるが故に『経』(大経巻上) に「令諸衆生功徳成就」とみえて候。これ、たのむこゝろは機に候へども、功を本にゆづり候へば、他力の信にて候なり。この心を『和讃』(高僧和讃)に、「無碍光の利益より 威徳広大の信をえて かならず煩悩のこおりとけ すなわち菩提のみずとなる」とあらはし、また善導和尚は、「自信教人信、難中転更難、大悲伝普化、真成報仏恩」「隠/顕」
みづから信じ人を教へて信ぜしむること、難きがなかにうたたさらに難し。大悲をもつて伝へてあまねく化するは、まことに仏恩を報ずるになる。
(礼讃) と釈したまい候。当流の門人、「伝」の字に心をと〔留〕めべく候。まことに本寺知識の厚恩にあらずは、いかでか生死の苦海をこへて涅槃無為の浄刹にいたらむや。報じても報じがたく謝しても謝しがたきは、仏恩・師恩にて候。


第五問答

尋ていわく、雑行、地獄にをつといふこといかん。答、雑行は真実報土にはむ〔生〕まれずそろ、地獄には を〔堕〕ちずそろ〔候〕。雑行、地獄にをつと言うことは、謗法罪にてそろなり。雑行も至心発願すれば、往生浄土の方便の善となりそろ。和讃を見らるべくそろ。

第六問答

尋云、「即便往生」(観経)、平生業成の証になるべからずといふこといかん。 答。「即便往生」の文、平生業成の証にてそろなり。総じて三経の説相にをいて、流祖上人、顕彰隠密の義をたてゝ、顕のときは格別とこゝろえ、彰のときは三経一致とこゝろえそろなり。『大経』(巻下)・『弥陀経』には「即得往生」ととき、『観経』には「即便往生」とみへてそろ。是れ平生業成の証にてそろなり。 ただし即得往生の義を『大経』には平生に約し、『弥陀経』には臨終に約すとみへてそろ。 これは当流にをひて往生決定することは、臨終にてもそろへ、平生にてもそろへ、念仏の信心さだまるときを往生とこゝろえそろなり。 両経の深意このこゝろなり。たゞしまた上人、「即便往生」を『観経』・『双巻経』に配当 なされそろときは、「即往生をば大経往生、便往生をば観経往生のこゝろなり」(化身土巻意 愚禿鈔巻下意)と釈したまふなり。これは顕のかたの釈にてそろなり。



  1. 衆生を済度する阿弥陀仏は十劫の昔に成仏しているのであるからそれを心にとどめおくことが信心であるとする説。→chu:十劫安心
  2. 古写消息とは、高田派専修寺に所蔵される宗祖の直弟等が書写した六通の消息を指す。「註釈版聖典」では、(23)に「ただ誓願を不思議と信じ、また名号を不思議と一念信じとなへつるうへは、なんでふわがはからひをいたすべき。ききわけ、しりわくるなどわづらはしくは仰せられ候ふやらん。」とある意を引いている。