「新しい領解文」に対する声明(六)
提供: 本願力
「新しい領解文」に対する声明(六)
このたびの慶讃法要を終えて、石上智康総長は辞意を示し総局は総辞職となった。それにより開催された臨時宗会での石上前総長の挨拶のなかに、いくつか看過できない発言があったので、有志の会として考えを示しておきたい。氏は次のように述べている。
ご消息は、内事部より回移されたご消息文案について、「宗門法規」の定めるところに従い、事前に勧学寮の同意を得たため、同意されたそのままの文案で申達(註、一般にいう上申の意味)し、ご発布賜ったのであります。総局としてその手続に瑕疵はございませんし、私が文案に関与した事実もございません。
ご消息の発布は、「宗法」第九条により、申達した総局が責任を負います。しかし、事前に勧学寮の同意がなければ、ご消息発布の申達をすることができないことは、「宗法」第一一条の規定上、明らかであります。…中略…このたびも、この規定に基づき、勧学寮の同意があったからこそ、ご消息発布の申達手続ができたのであります。
この答弁に石上氏がどのような姿勢で総長職を務めてきたのかが鮮明に表れている。
まず驚かされるのは、「私が文案に関与した事実もございません」との一言である。すでに述べてきた通り、今回「ご消息」として発布された「新しい領解文(浄土真宗のみ教え)」という文章には、石上氏の著書と酷似する表現が多数見出されることは今や周知の事実である。にも関わらず、氏は関与していないという。ならばご門主さまか、もしくは別の第三者かが、氏の著書から表現を用いて作文したということになる。もし前者だというのなら、これほどご門主さまを愚弄した発言はあるまい。また後者だというのなら、氏の関与がまったくない中で、第三者がなぜそのようなことをする必要があったのか説明できない。
また石上氏は、従来、勧学寮への諮問を経て正しく手続きは進められたと主張するが、その「同意」の内容および経緯に関してさまざまな情報が飛び交っている。氏は挨拶の中で、内事部から回移された「ご消息」文案に勧学寮が同意を与えたことを、四月に就任した新勧学寮頭と二人で確認したと述べているが、その言葉以外に何のエビデンス(証拠)も示されていない。宗門が何よりも重んじる宗意安心に関することで、国内外にこれほどの混乱を招いている今、手続きに瑕疵なく適切に進められたというのであれば、どの段階でどのように勧学寮で同意を得ていったのか、議事録が開示されるべきである。
加えて言うならば勧学寮は、「新しい領解文」について、発布直後に長文で難解な解説文を発表し、そのなかで「凡夫の立場からは、異様な内容と映ります」と述べ、また新聞紙上には「真宗教義に沿った解釈を基礎に持たないと誤解が生じる可能性があるため、解説を熟読してほしい」との異例の見解が掲載されている。この苦渋に満ちた警告のような言葉に注意しなければならない。少なくとも勧学寮の「同意」とはこの難解な解説文の熟読、およびその理解が前提にないと、この文章は誤解を生じる危険性があるという見解にたった上での同意であったということは間違いない。
このたびの慶讃法要では、解説文をただ配布しただけで強引に唱和が推し進められ、この六月からは、ついに得度習礼においても「新しい領解文」の暗誦・唱和が課せられることが通知された。しかしながら、これから得度を受けようとする者はもとより、あの難解な解説文を一読して理解できる僧侶・門信徒が、はたしてどれほどいるであろうか。そう考えると、勧学寮の解説がどれほど正しく機能するか、はなはだ疑問である。そもそも勧学寮が当初から発信していたのは、門末の僧侶・門信徒が日常的に出言する「領解文」としては不適切だということである。またもし理解できたとしても、「新しい領解文」そのものが問題を抱えている以上、悲しいことにそれは浄土真宗の安心から遠く離れたものにしかならないのである。「新しい領解文」の推進活動は、浄土真宗の宗意安心をないがしろにするものでしかない。
しかるに今回の挨拶を見れば、石上氏の関心は、「領解文」の核心である宗意安心にではなく、手続き上に瑕疵はなく、いかに自分には責任がなかったかという自己正当化にしかないようである。しかしながら最も大きな問題は、掲げ続けられている文章が、親鸞聖人のご法義に照らして誤っていることである。無論、ご消息の発布について、手続き上に瑕疵がないとする主張も勧学寮の議事録が開示されていないので確認のしようもないのであるが、我々はご法義に乖いているからこそ声を上げ続けているのである。
前総局が強引に唱和を推進しても、まったく浸透しないのはなぜなのか。また、多くの浄財を投入して作成した掲示用ポスターも全国から返送が相次いでいるのはなぜなのか。それは、「新しい領解文」の内容が、今まで大切にしてきた「聖人一流」のご法義と異っていることに、全国の僧侶・門信徒が気付いているからにほかならない。
内容に問題を抱え、これだけ騒動を引き起こしたあの文章が、これから一転して多くの僧侶・門信徒に受け入れられ、喜ばれていくということはもはやあり得ない。これまで阿弥陀如来に大切に照育されてきた念仏者に対し、ご法義に対する異なった領解を強制的に暗誦・唱和させるようなことなど、断じてあってはならない。
また、石上氏は挨拶の中で、我々有志の会の声明がご門主さまの慶讃法要でのご発言に対して言及していないと非難しているが、それは有志の会とご門主さまとを対立構造に位置づけようとするかのごとき発言である。しかしながら我々有志の会が問題にしているのは、総局の申達によって進められた一連の宗務行為が、正しい法義の護持・普及のために行われたものではないという一点にある。みずからが責任者として申達しておきながら、あたかもご門主さまを盾にするかのごとき氏のこうした一連の発言は、極めて無責任なものである。
新たに発足した総局におかれては、石上総局の方針を継承することが、ご法義、宗門、そしてご門主さまをも傷つけ続け、全国的な混乱に拍車をかけることになることを、まず重く受け止めていただきたい。そして、全国の門末の僧侶・門信徒をいかに悲しませているのかよく現実をみていただき、正しい宗意安心にもとづいて再出発するべく、冷静なご判断をもって宗務を行っていただくことを願ってやまない。
最後に、この声明文は本願寺派の勧学・司教有志により発するものであるが、その「志」(こころざし)とは、ご法義を尊び、お念仏を大切にする僧侶と門信徒の同朋同行と共に、ご門主さまを大切に思う、愛山護法の志であることはいうまでもない。
二〇二三年 六月一〇日
浄土真宗本願寺派 勧学・司教有志の会
代表 深川 宣暢(勧学)
森田 眞円(勧学)
普賢 保之(勧学)
宇野 惠教(勧学)
内藤 昭文(司教)
安藤 光慈(司教)
楠 淳證(司教)
佐々木義英(司教)
東光 爾英(司教)
殿内 恒(司教)
武田 晋(司教)
藤丸 要(司教)
能仁 正顕(司教)
松尾 宣昭(司教)
福井 智行(司教)
井上 善幸(司教)
藤田 祥道(司教)
武田 一真(司教)
井上 見淳(司教)
他数名