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仏教の思想5

提供: 本願力

2023年12月21日 (木) 16:02時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

角川ソフィア文庫

  • 仏教の思想 1_知恵と慈悲<ブッダ>
  • 仏教の思想 2_存在の分析<アビダルマ>
  • 仏教の思想 3_空の論理<中観>
  • 仏教の思想 4_認識と超越<唯識>
  • 仏教の思想 5_絶対の真理<天台>
  • 仏教の思想 6_無限の世界観<華厳>
  • 仏教の思想 7_無の探求<中国禅>
  • 仏教の思想 8_不安と欣求<中国浄土>
  • 仏教の思想 9_生命の海<空海>
  • 仏教の思想 10_絶望と歓喜<親鸞>
  • 仏教の思想 11_古仏のまねび<道元>
  • 仏教の思想 12_永遠のいのち<日蓮>

の『仏教の思想5 絶対の真理〈天台〉』田村 芳朗著〈角川文庫〉から抜粋してみた。
一元論の本覚法門から特長のある二元論が派生したという田村 芳朗氏の考察は面白い。→相対的二元論・絶対的一元論
御開山の場合は、善導大師・法然聖人の示される穢土・浄土の二元論を、曇鸞大師の『論註』の指示によって相対を包みこんで、本願力回向の誓願一仏乗とされるのである。法然聖人は、此土と彼土を分けることによって、空疎な観念遊戯の仏教から現実に苦悩する者を救う大悲に着目され、御開山はそれを本願力回向と発展させたのである。


仏教の思想5 絶対の真理〈天台〉抜書

3 日本での天台思想

日本天台の開花─最澄

 日本の天台宗は、そのはじめから、すでに華厳ないし『大乗起信論』の思想をとりこんでいる。伝教大師最澄は、天台法華の教学を研究するまえに、華厳の論書や『大乗起信論』をひもといたのであり、中国におもむいて習得した天台教学は、華厳宗と交渉をもつにいたったところのものである。

 最澄は法華が華厳よりすぐれていることを主張してはいるが、その法華を超勝的な一乗(根本法華、果分法華)とみなしたり、また真理の生成(真如隋縁[1])を説いたりするところには、明らかに華厳哲学の摂取がうかがわれる。根本一乗の観念は、本来は華厳について立てられたものである。それを最澄は、法華にとりこんだのである。このように、日本天台は、その最初において天台法華思想と華厳思想とを統合する位置にあったといえる。

 最澄は、そのほか代表的な仏教思想を法華の一乗のもとに結集し、動員して、仏教の一大総合体系の確立をはかった。それは、直接的には、奈良仏教界の雑然とした寄合い所帯にたいし、一つの信念の筋をとおそうとしたものであると考えられるが、当時の日本が仏教の諸思想を総合統一する位置にあったことも、大いに関係しているといえよう。

 たまたま時を同じゅうして出現した弘法大師空海(宝亀五年─承和二年<七七四─八三五>)も、仏教の総合体系づけをこころみている。ただし、最澄と空海において、最高真理の探究の方向は対照的である。最澄は、宇宙を究極に向かって、いわば遠心的に真理を探究していったのにたいし、空海は、宇宙を内奥に向かって、いわば求心的に真理を探究していった。かくして、最澄は究極の真理にあたる『法華経』の一乗妙法を幹とし、空海は内奥の神秘にあたる真言密教の秘法を核として、それぞれに思想・哲学の総合体系化をくわだてたのである。

 空海の著書『秘密曼茶羅十住心論』(五十七歳)は、仏教内外の諸思想を一〇の段階に分け、最後に真言密教でもってしめくくったもので、比較宗教論であるとともに、総合思想体系書でもあるが、興味深いことは、第七に空・中観を説く三論宗をおき、第八に天台宗、第九に華厳宗をあて、最後の第十に真言宗をもってきていることである。これ、真理における普遍・具体.生成が順次に高くとりあげられていって、最後に一つに結束され、終止符が打たれたことを意味する。

 最澄における総合的な思想体系書としては、『照権実鏡』(五十一歳).『守護国界章』(五十二歳)・『法華秀句』(五十五歳)などがあるが、空海とくらべたとき、最澄の思想体系には未完成なところが存する。しかし、それだけ発展の余地があったといえるので、事実、叡山天台は、最澄のあとを受けて思想的に大いなる飛躍をとげ、天台本覚思想という哲理としてはクライマックスな段階にまでおもむく。また数多くの優秀な思想家が叡山から輩出した。栄西・法然・親鸞・道元・日蓮などの鎌倉新仏教の祖師たちも、もとはみな叡山の学僧であった。

 空海の思想体系は、みごとに完結したもので、教理的には、つけ加えるものを残さなかった。そのために空海以後の真言宗は、もっぱら神秘体験の技術をみがくことに集中していった。いわゆる教相にたいする事相の重視である。比叡山は人格完成の道場、真理探究の学山となったのにたいし、高野山は秘法伝授の霊場、神秘体験の霊山となっていった。

 真言宗は事相にもっぱらとなっていくうち、しだいに教相面をたなあげし、その結果、真言密教が単なる呪術の施行になりさがる危険性が生じた。しかし、本来は、背景に思想のシンフォニーともいうべき広大・深淵な教理体系が存していたのである。こんにち、教相面に残した空海の大いなる遺産が再認識される必要のあるところである。

 日本天台では、密教をとりいれて事相面も発達したが、教理の研鎖に主要な努力をそそぎ、叡山は真理の殿堂としての威容をそなえるにいたり、そこでの哲学は、思考の限界を突破し、真理の絶頂をきわめるものとなった。それは、一口にいって絶対的一元論の極致と称せよう。これを、仏教の専門用語を使って天台本覚思想と呼んでいる。つぎに、その思想進展の跡を簡単にたどっておこう。

天台本覚の思想――絶対的一元論

 伝教大師最澄において、すでに大乘仏教の最高クラスである法華・華厳・密教・禅などの諸思想が吸収されたが、慈覚大師円仁・智証大師円珍・五大院安然によって密教思想が一段と推進され、叡山中興の祖といわれる慈惠大師良源から弟子の惠心僧都源信、檀那院覚運へ、さらに平安末期から鎌倉中期にかけて、仏教の代表的な諸教理を結束し、最高の哲理としての絶対的一元論の極致へとおし進めていった。これを名づけて天台本覚思想という。

 本覚とは『大乗起信論』に説かれたことばで、覚・不覚の二辺をこえた不二・空に真の絶対的なさとりがあり、それが生滅の現象界(生滅門)に本来、本然としてそなわることをいったものであるが、天台本覚思想は、この『大乗起信論』の本覚の意味を拡大解釈して、消滅・変化する現象界こそが、本来、ほんとうのさとりの世界であると主張した。多種多様な現象が生起・変滅する現実のすがたこそは、永遠・普遍な真理の生成躍動のすがたであり、そこにこそ、ほんとうの生きた真理が存するということである。逆に現実相を捨てて立てられた真理は、仮のものであり、死んだものであるとされる。

 仏についていえば、凡夫のふるまいに真の仏のすがたが見られ、浄土についていえば、穢土のただなかに真の浄土のありかが知られ、時間についていえば、只今のひとときに真の永遠のいぶきが感ぜられるということである。なんとなれば、現実の有限・相対なるものは、すべて無限・絶対なるものの具現態であり、活現態であり、その意味で真実態だからである。

 普遍的真理の具現と生成ということを論理的に徹底させるならば、天台本覚思想のごときものとなろう。天台本覚思想は、天台の性具説と華厳の性起説とを極点において統合したものといえる。真理に関して、あますところなくきわめつくしたものである。われわれは、それから人生にたいする大いなる達観を学びとることができよう。

 たとえば、死の問題であるが、われわれは通例、生にたいして死を、死にたいして生を見、そうして死を否定して生の永続(不死の生)を願う。しかし、これでは真に永遠なる生命を感得することはできない。死も捨て、生も捨て、生死の二辺を超越したところ、すなわち不生・不死(不滅)のところに、いいかえれば生死一如のところに永遠はつかまれるのである。否定し、捨てるならば生も死も、肯定し、とるならば生と死の両者をである。そこに真の永遠がみいだされる。積極的にいうなら、死もまた、生と同様に永遠の活動のすがたであり、活動態なることである。かくして、はじめて死にたいする恐怖も克服され、生もよし、死もまたよしと達観されてくる。『生死覚用鈔』(本無生死論)に、

生死の二法は一心の妙用
有無の二道は本覚の真徳なり
故に生の時も来たることなく
死の時も去ることなし
無来の妙来、無生の真生
無去の円去、無死の大死
生死体一、空有無二

とうたうゆえんである。
 日本天台を中心として発展していった本覚思想は、われわれの相対分別的な思考を最後の一線において突破し、絶対的一元論のきわみにまで達し、そこから大いなる人生達観・人生肯定をうちたてたものとして、その価値は不朽であり、その意義は絶大であるといえよう。事実、日本の仏教諸宗のみならず、一般思想や神道理論に、また文芸の方面にも大きな影響を与えた。

本覚思想の墮落

 われわれは、本覚法門をひもとくとき、あたかも山頂に立って地上をはるか低く見おろしたごとき、あるいは、かごの鳥が大空に向かって放たれたごとき感を受ける。われわれが日常生活において、狹いわくにとらわれ、あれこれと価値判断し、一喜一憂する心が無限に解放されるのをおぼえる。人生からの高らかな飛翔である。そうして、ただいまこの瞬間に、永遠なる生命の躍動するをおぼえ、絶対の境地にひたされ、無上の歓喜がわきおこる。それは人生にたいする大いなる達観であり、そこから人生にたいする大いなる肯定が生まれてくる。

 ところで注意すべきことは、哲学理論としての頂上が、しばしば宗教実践としては谷底であるということである。天台本覚思想は、まさにそのよき例となった。最高・究極の哲理である絶対的一元論が、現実実践においては、つまずきとなり、ついには墮落・崩壊を招くにいたったのである。

 絶対的一元論は、本来は二元相対の現実相を無視して立てられたものではなかった。ところが、本覚思想を推進していった天台の学僧たちは、絶対的一元の境地に陶酔するあまり、現実の二元相対の事実相を忘却するにいたり、また、現実に目を向けたときには、絶対的一元の思想をじかに適用し、悪そのまま善、煩悩そのまま菩提というふうに直接肯定し、結果は、ひとびとをして愛欲・煩悩を増長せしめ、退廃におとしいれることになり、みずからも、また墮落していったのである。実践的、改革的な生成力動性も失われていった。

 天台本覚思想は、こうして鎌倉末から南北・室町にかけて爛熟のはてに、宗教実践的に退落の道をたどり、愛欲・財欲の成就をいのる「玄旨帰命壇」のごときものさえが発生するにいたった。ついに江戸中期に慈山妙立・霊空光謙が出て、徹底的に批判を加え、その結果、天台本覚思想は終わりをつげることになる。

 それまでに天台本覚思想を批判し、そこから出たものが、何人かいた。鎌倉新仏教の祖師たちが、その代表例である。かれらは、すべて一度は仏教のユニヴァーシティともいうべき叡山天台に在学した。しかし、二元相対の現実を直視したかれらは、この現実にたいして実践・救済の動力をおこすべく、不二絶対の観念の殿堂から出て、而二相対(ににーそうたい)の現実の世界へおりたった。その先べんをつけたものが、法然である。

天台思想と鎌倉新仏教――法然

 法然源空は、十五歳の時、叡山にて出家し、天台思想を学ぶが、十八歳の時、感ずるところあって叡山西塔の黒谷にこもる叡空に師事した。叡空は融通念仏を唱えた良忍から浄土教を学んでいる。その後、法然は奈良仏教界にも遊学し、研究を積んだが、四十三歳の時、中国の浄土教の大成者である善導の『観経疏』「散善義」を読み、その中の「一心専念弥陀名号」のことばに感銘を受け、念仏の一行を選びとり、それをひたすら(一向)專修するようになる。後に京都東山の吉水において浄土念仏の布教をつとめ、多くのひとびとを感化した。六十六歳の時、『選択本願念仏集』を著わし、浄土念仏の一宗を確立したのである。

 父子・兄弟・叔姪あいはむ阿修羅のごとき闘争を展開した保元・平治の乱から平家滅亡にかけてのわずか三十年間の時勢の変化・動揺は、過去数百年にも匹敵するといわれているが、そのような平安末期の無常と濁悪にみちた末法的世相を直視した法然は、天台本覚思想の絶対的一元論によってカバーされていた浄土教から、そのカバーをはずし、相対的二元論としての本来の浄土教にたちかえり、そこに現実救済の道を見いだした。

 かくして、日本に天台本覚思想の徹底した絶対的一元論と法然浄土念仏の徹底した相対的二元論とが、あい並行しておこることになる。

 なお浄土教は、すでに古く叡山天台や奈良仏教界にとりいれられ、また民間にもしだいに流行していったが、それが徹底した現実否定ないし二元相対の思想として発揮されるのは、法然にきてである。一般的考えかたの傾向としては一元的な現実肯定であった日本の中に、強力な現実否定の思想が、法然をとおして、ここにはじめて生まれたといえるが、これについては、当時の時代・社会背景が無常・濁悪ただならぬ様相を呈したことが大いに作用していると思われる。

 ともあれ、平安末期における未曾有ともいうべき末世的社会現象は、それを直視するものに、現実をそのまま是として肯定し、あるいは不二一如の境地に観念することをもはや不可能ならしめるものであった。ひとびとは、現実の無常と濁悪の中に立たされ、人間の弱さと愚かさと罪深さを痛感させられ、強烈な現世否定と彼岸希求を心にいだくにいたる。このときにおいて仏教が救済・実践の力を発揮しうるためには不二絶対の思想的高みから而二相対(ににーそうたい)におりたつことが、必要とされてくる。法然が相対的二元論としての浄土教に立脚したことは、まさに時代に即応したものであった。

 親鸞・道元・日蓮など、現実にたいする積極的な救済・実践につとめた鎌倉新仏教の祖師たちも、法然のあとを受けて、なにほどか相対的二元論の形態をとった。法然をはじめとして鎌倉新仏教の祖師たちに共通するところは、不二絶対から而二相対(ににーそうたい)におりたち、仏・仏法・浄土などを凡夫・世法・穢土などにたいする 相対的絶対者として有化し、定立し、そうすることによって、現実対向の主成力動性を獲得したことである。

 ただし、現実対向のありかたを子細に見るならば、それぞれのあいだに相違のあることが知られる。大きくは、法然と親鸞・道元・日蓮の三者とのあいだに相違が生じている。これには、法然と三者とのあいだの時代的ずれが関係しているといえよう。

 法然の出現は、まさに社会の没落期にあたり、現実否定・来世希求が尖鋭かつ切実なひびきをもっていた時で、そこで法然は、そのような状況に対応すべく、端的に現実否定の思想ないし浄土教を説いた。しかし、親鸞・道元・日蓮が布教や著作にはげんだ時期は、新興武士階級による新秩序建設がはじまっており、現実への積極的な働きかけが見えだしたころで、したがって、法然の現実否定の思想を、そのまま受けつぐわけにはいかなくなった。

 親鸞が法然の弟子として、同じ浄土教を奉じながら、法然とのあいだに立場の相違をきたし、道元と日蓮は、法然と同様に二元相対の現実に立脚しながら、法然とのあいだに主張の相違をきたしたゆえんである。

浄土の絶対化へ──親鸞

 親鸞は、九歳の時、叡山に登り、二十九歳まで、二〇年間、叡山で仏道を修めた。しかし、感ずるところあって法然を吉水にたずね、浄土念仏に心のよりどころを見いだし、かれの弟子となった。五十二歳の時『教行信証』を執筆し、自己の思想を確立している。

 ところで、『教行信証』や晩年の著である『唯信抄文意』(八十五歳)『一念多念文意』(同)あるいは『末灯抄』などの消息類、さらに各種の和讃などを見ると、そこには、しばしば一念の信で来世往生がさだまるとか、信心まことの人は仏にひとし(如来等同)[2] とか、それゆえに臨終まつことなく、来迎たのむことなし、ということが説かれている。ひいては、煩悩と菩提、生死と涅繋の不二一体[3]も主張されている。

 阿彌陀仏についてみれば、その本体は仏性であり、法性・真如・一如・実相であり、したがって、阿彌陀仏は世界にみちみちてあると説く。そこから、草木ことごとくみな成仏ともいう[4]

 これらの説によって知ることは、親鸞は浄土教を絶対的一元論としてうちだしていることである。事実、かれみずから、浄土教を「円融満足極速无碍絶対不二之教」(『教行信証』行巻)と定義し、自力と他力にしろ、あらゆる相対概念を絶したものとしている。

 法然は天台本覚思想の絶対的一元論の中に包みこまれた浄土教を、その包みからとりだし、相対的二元論としての本来の浄土教をうちたて、他力の浄土念仏を強調したのであるが、それとくらべて、親鸞は、浄土教を再び天台本覚思想の中にもどしたという感がしないでもない。これについては、つぎのようなことが理由として考えられよう。

 すなわち、法然は叡山天台に学んだものとして、そこで説かれた絶対的一元論の思想的高さは知ってはいたが、二元相対の現実に対応するために、わざわざ絶対から相対へおりたった。ところが、その法然によってとりだされた浄土教そのものは、本来、単なる相対的二元論であった。したがって、それ自身において絶対化へと高められるべき運命にあったといえる。まわりに高度な絶対的一元論があれば、その要求はなおさらのことであろう。これに答えたのが、親鸞ということである。なお、さきに見たように、法然と親鸞とのあいだの時代的ずれも、関係しているといえよう。

 ただし、親鸞における絶対的一元論は、単なる現実肯定としての一元論ではなく、極悪深重な人間存在にたいする凝視・悲嘆をとおして立てられたものである。親鸞は、二元相対の現実を直視し、その上で絶対的一元の世界を感得したので、これを一口でいえば、「相対の上の絶対」ということになろう。

修禅強調──道元

 道元は、十四歳の時、叡山で出家したが、本来本法性・天然自性身、つまり一切衆生は本来そのまま仏であるという本覚思想に疑問をおこし、一年ほどして叡山を去り、あらためて求道をこころざし、さらに二十四歳の時、宋におもむいて、当時の禅風を見聞して帰った。

 道元の大著『正法眼蔵』(九五巻)は、三十二歳から書きはじめて、亡くなる五十四歳の時に完成したものであるが、その中で強調したことは、本証妙修、証上の修、つまり、修証一等なるがゆえに証は修に現成し、身心一如・性相不二なるがゆえに、心は身へと肉化(身現)し、性は相へと具現すべきであるということである。

 つまり、道元は、叡山で天台本覚思想を学び、絶対的一元論の哲理としての深さは知ったのであるが、現実実践の上で満足することができず、そこで叡山を捨て、最後に座禅の一行に実践の動力を見いだし、それを自己のよりどころとするにいたったのである。

 道元は、根底において凡夫と仏、修行とさとり(証)、身体と心の不二一体を認め、そのかぎり、天台本覚思想と同様に絶対的一元論に立ったのであるが、しかし、不二一体なるがゆえに仏が凡夫に活現し、証は修に現成し、心は身へと具現すべきであるとし、そこから坐騨の行道を強調したのである。ここにおいては、かれは相対的二元論に立ったので、事実、仏性は成仏ののちに具足するものであるというような、はっきりした二元論的言説も見えてきている。道元の立場を一口でいうならば、「絶対の上の相対」ということになろう。

社会的救済へ──日蓮

 日蓮についてみると、かれは十二歳の時、天台密教の寺院があった清澄寺に登り、十六歳で出家し、それから鎌倉に遊学に出かけ、二十一歳の時、叡山におもむき、そこで十年間、仏教研究にふけった。三十二歳の時、一応の結論を得て故郷に帰り、ひとびとのまえで自己の習得した思想を発表後、鎌倉にきて、そこを根拠地として布教を開始した。

 日蓮は、ほかの祖師たちとちがって、幼少期においては父母健在であり、人生の無常を感ぜしめたり、現実にたいして懐疑をいだかせたりする素因は見いだせない。ほかの祖師たちの出家には、それが動機となっているが、日蓮の場合は、仏教をとおして学問を身につけようとした、いわば知的探求が出家の動機である。

 したがって、かれは、清澄山や叡山で学んだ天台本覚思想をそのまま受け入れ、初期においては、一元論的な、現実肯定的な世界観をもって、おのがよりどころとした。そうして、そのような世界観に反するものとして、もっぱら法然の浄土念仏に攻撃の矢を向けたのである。

 ところが、鎌倉伝道をはじめて五年ほどたったころ、天災地変・社会不安が連続して発生するにいたり、それが日蓮をして深刻な懐疑におちいらせることになった。その懐疑とは、仏教が種々盛んに信奉されながら、なぜ災害が続出し、人民の悲劇は増すのかということであった。日蓮は、この疑問をいだいて、仏教研究をやりなおすにいたる。その結果、疑問は氷解するとともに、一つの結論をつかむにいたった。その結論にもとづいて述作されたものが、『守護国家論』(三十八歳)から『立正安国論』(三十九歳)にかけての一連の書である。真の日蓮の仏教は、ここからはじまるといえよう。

 日蓮のつかんだ結論は、社会救済としての仏教の確立ということであった。そうして個人の魂の救済ならば、それぞれ個人にあった教義が選ばれ、方法がとられてかまわないが、社会全体の救済ということになると、仏教が一団となって強力な体制をしく必要があり、それがなされないために、社会不安を除くことができず、世を乱れにまかせることになると考えたのである。

 こうして日蓮は、仏教の統一をさけび、統一の柱として『法華経』をあらためてとりあげ、さらに、社会救済においては、まず為政者の姿勢をただす必要があると判断し、『立正安国論』を、実権をにぎっていた前執権の北条時頼に進呈したのである。

 日蓮によれば、社会の改造なくては平安は到来しないこと、社会の改造は正しい思想・理念の確立によって可能なこと、そこに仏教が呼びだされるのであり、その仏教が社会改造の力を発揮するには、一致協力して統一体制をしき、統一的行動をとらねばならないということである。

 こういうことで、日蓮は統一仏教の樹立を意図し、その柱として、『法華経』を一段高くかかげるにいたった。ただし、世界観としては、不二円融・開会本覚の思想のもとに一切を同列・平等に肯定する初期の態度を持続していた。したがって、そのような世界観に立つ天台・真言ないし禅にたいしては批判を向けず、攻撃の矢は、やはり法然の浄土念仏に向けられた。法然にあっては、世界観は現実否定の色濃き相対的二元論であり、形態的には諸行を廃して念仏の一行を立てるもので、日蓮の意図した統一仏教という形態からはみでるものであった。ここに、両面において、日蓮の非難の対象となったのである。

 ところで、『立正安国論』をとおしての日蓮の進言・勧告はとりあげられず、逆に同書に見える念仏批判があだとなって、弾圧をまねくにいたる。四十歳の時、伊豆流罪、五十歳の時、佐渡流罪、その間にも、たびたび迫害を受けるなど、苦難にみちた日蓮の人生歴が展開されていく。この受難が、ひいては日蓮の世界観にも一大転回をもたらすことになる。

 いままで絶対的一元論のもと、現実肯定的であったのが、現実にたいし対決的、改革的になり、教判についても、歴史主義的、相対主義的なカテゴリーを立ててくる。伊豆流罪期の『教機時国鈔』(四十一歳)・『顕謗法鈔』(同)に見える教・機・時・国・序の五綱(五義・五知)判がそれである。つまり、時代・国情や人間の機根に種々あり、それに応じて教説も種々現れるのであり、しかも、いま一つの教義・思想が選びとられたとしても、その前にどういう教義・思想が流布していたかを知った上で、説かれねばならない。これが序(仏法流布の前後)ということである。

 それとともに、『法華経』にたいする目のつけどころも変わってくる。「法師品」第十から「嘱累品」第二十二にかけて、苦難とたたかいながら真理の現実具現にはげむ菩薩のことが説きあかされているが、その部分に注目し、しばしば引用するようになり、また、みずからを、そのような菩薩の流れをくむものと自覚するにいたる。そうして、その自覚のもと、自己独自の教義をうちたててくる。それが書に著されたのが、佐渡流罪期の『開目鈔』(五十一歳)と『観心本尊抄』(五十二歳)である。

 かくして、後期の日蓮は、道元と同様に「絶対の上の相対」を立場とするものであるといえよう。「絶対の上の相対」ということについては、法然も、その立場であるといえるが、法然の場合は、そこから現実否定・超越へとおもむいたにたいし、道元と日蓮は現実具現・改革へと向かったのである。その道元と日蓮において、前者は個的であり、後者は社会的であるという点において、それぞれの独自性が見られる。つまり、道元は個の主体的・実践的・実証に徹したのにたいし、日蓮は歴史形成・現実改革を重視し、ひいては未来における理想社会の実現をめざしたのである。ともあれ、ここに、強力な生成力動の観念が成立したことを知る。

「あばたもえくぼ」論

 最期に、「あばたもえくぼ」という卑近なことばを例にとって総括してみると、「あばたもえくぼ」とは、本来は、愛執のために目がくらんで、「あばた」を「えくぼ」と勘違いすることをいったものであるが、天台本覚思想の絶対的一元論によれば、「あばた」も「えくぼ」の一種として肯定されてくるので、これが本覚思想の「あばたもえくぼ」論である。

 いいかえれば、「えくぼ」に固定的な美をおき、それにたいして「あばた」を醜とみなすことは誤りで、「えくぼ」にしても、「あばた」にしても、すべて絶対的な美の一つの現れかたにすぎないということである。こうして、世の諸事象は、すべて絶対的真理の生きたすがたとして肯定され、そのほかに別の真理なるものがあるのではないとされる。

 以上が天台本覚思想の考え方であるが、これに全く反対の立場をとったのが法然である。法然は相対的二元論に立ち、それによれば「あばた」と「えくぼ」とは、はっきりと峻別される。そうして、この世は、すべて「あばた」であって、「えくぼ」は来世彼岸の世界に見いだされるとする。そこから、この世にたいする期待を来世浄土に置きかえることが説かれてくる。

 親鸞は、法然の考えかたを受けつぎながら、それを絶対化した。すなわち、親鸞によれば、「あばた」は「あばた」であって、「えくぼ」ではないが、しかし、その「あばた」のところにおいて、「えくぼ」との比較を絶した絶対的美の境地が感得されるのである。卑近なたとえで説明すると、わが女房は他の女性と比較すれば醜であるが、それでは醜なるわが女房を美なる他の女性と取りかえるかといえば、そうではなく、わが女房に他との比較をこえた絶対的なつながり(宿縁)を感ずるのである。有限相対の現実において無限絶対の仏の光明が輝き、仏の慈悲に浴し、仏の生命に包まれるということである。阿弥陀仏という名は、まさに、それを表現したものである。

 つぎに道元・日蓮の立場についてみると、やはり、「あばた」は「あばた」であって、「えくぼ」ではないが、しかし、その「あばた」に、かえって「えくぼ」の美が、ときには、「えくぼ」以上の美が発揮されるので、それゆえ、「あばた」に生まれあわせたことに、かえって深い意義を見いだそうとするのである。ここから、「あばた」に美を発揮するための努力実践が説かれてくる。

 道元の場合は、その実践は主体的実証という形をとったが、日蓮の場合は、社会的実現という形をとった。

 右のそれぞれの立場を絶対と相対の概念によってまとめると、天台本覚思想は絶対的一元論、法然は相対的二元論、親鸞は「相対の上の絶対」、道元と日蓮は「絶対の上の相対」に立ったものといえよう。 親鸞と道元・日蓮は、天台本覚思想の絶対的一元論と法然の相対的二元論との止場・統合につとめたものであり、とくに道元や日蓮において、絶対を相対に具現するという生成力道の論理が確立されたと結論することができよう。


相対的二元論・絶対的一元論

  1. 真如は絶対不変であるが、さまざまの縁に応じて種々の差別相を生ずることをいう。(コトバンク)
  2. 「如来等同」とは、如来と等しいという意で同じといふ意味ではない。『華厳経』入法界品の「この法を聞きて信心を歓喜して、疑なきものはすみやかに無上道を成らん。もろもろの如来と等し」(信巻 237)の 文から「如来と等し」といわれたのである。
    また、王日休の『龍舒浄土文』の「不退転は梵語にはこれを阿惟越致といふ。『法華経』にはいはく、〈弥勒菩薩の所得の報地なり〉と。一念往生、便ち弥勒に同じ。」(信巻 263) の文から「弥勒に同じ」とされたのであった。賜ったご信心は仏心であるという意から弥勒と同じとされたのであった。
  3. 御開山が、煩悩即菩提、生死即涅繋を説くのはわたしを包み込んである如来や浄土の徳を讃嘆し、仏心であるようなご信心の欲を讃仰する意であった。
  4. 唯信鈔文意(正嘉本)に「この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心にみちたまへる也、草木国土ことごとくみな成仏すととけり。」とある。(正嘉本 p.702