『慕帰絵詞』第五巻 第一段 宿善の事
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鎌倉の唯善房と号せしは、中院少将具親朝臣の孫、禅念坊[1]の真弟なり。幼年のときは少将輔時猶子とし、成仁の後は亜相雅忠卿の子の儀たりき。仁和寺相応院の守助僧正の門弟にて、大納言阿闍梨弘雅とてしばらく山卧道をぞうかがひける。いにしへ法印と唯公と、はかりなき法門相論の事ありけり。
法印は「往生は宿善開発の機こそ善知識に値(まうあひ)てきけば、即信心歓喜するゆへに報土得生すれ」と云々。
善公は、「十方衆生とちかひたまへば、更に宿善の有無を沙汰せず、仏願にあへば、必ず往生をうるなり。さてこそ不思議の大願にて侍れ」と。
ここに法印かさねて示す様、「大無量寿経には、若人無善本 不得聞此経 清浄有戒者 乃獲聞正法 曾更見世尊 則能信此事 謙敬聞奉行 踊躍大歓喜 驕慢弊懈怠 難以信此法 宿世見諸仏 楽聴如是教」[2]ととかれたり。宿福深厚の機はすなはちよく此事を信じ、無宿善のものは驕慢弊懈怠にして、此法を信じかたしといふこと、あきらけし。
随て光明寺和尚この文を受けて、「若人無善本 不得聞仏名 驕慢弊懈怠 難以信此法 宿世見諸仏 則能信此事 謙敬聞奉行 踊躍大歓喜」[3]と釈せらる。
経釈ともに歴然、いかでかこれらの明文を消して、宿善の有無を沙汰すべからずとはのたまふや」と。
その時又、唯公「さては念仏往生にてはなくて、宿善往生といふべしや、如何」と。
又、法印「宿善によて往生するともまふさばこそ、宿善往生とは申されめ。宿善のゆへに、知識にあふゆへに、聞其名号 信心歓喜 乃至一念[4]する時分に往生決得し、定聚に住し不退転にいたるとは相伝し侍れ。これをなんぞ宿善往生とはいふべき哉」と。
そののちはたがひに言説をやめけり。
伊勢入道行願とて五條大納言邦綱卿遺流なりしかば、真俗二諦につけ和漢両道にむけてもさる有識の仁といわれしが、後日此事を伝聞て彼相論の旨是非しけり。
伊勢の入道の詞に云 北殿の御法文は経釈をはなれず道理のさすところ言語絶し畢ぬ。又南殿(唯善)の御義勢は入道法文なりとて、あざわらひけりと云々。
昔は大谷の一室に舅甥両方に居住せしにつきて、南北の号ありければ行願かくいひけるにこそ。
- ↑ 禅念坊。覚信尼公の再婚相手である小野宮禅念のこと。出家して小野宮禅念と名乗った。唯善は覚信尼公と禅念の間の子で覚如上人とは甥と叔父の関係である。
- ↑ もし人、善本なければ、この経を聞くことを得ず。 清浄に戒を有てるもの、いまし正法を聞くことを獲。むかし世尊を見たてまつりしものは、すなはちよくこの事を信じ、謙敬にして聞きて奉行し、踊躍して大きに歓喜す。驕慢と弊と懈怠とは、もつてこの法を信ずること難し。宿世に諸仏を見たてまつりしものは、楽んでかくのごときの教を聴かん。
- ↑ もし人善本なければ、仏の名を聞くことを得ず。驕慢と弊と懈怠とは、もつてこの法を信ずること難し。宿世に諸仏を見たてまつりしものは、すなはちよくこの事を信ず。謙敬に聞きて奉行し、踊躍して大きに歓喜す。
- ↑ その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。
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