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教行信証講義/行巻

提供: 本願力

校正前の本文

如来の家には些〈すこし〉の過咎〈とが〉な
(1-359)
く穢れもないからである。即ちこの菩薩は凡夫世間の道を捨てて出世間道に入り、成仏に定まったことを只管〈ひたすら〉心に楽み喜びつつ、仏を敬うて、四功徳処の利他の徳を得、六波羅蜜を修めた果報である自利の利益を得、諸の仏種を断たずこれを増長することが出来るから、心に大なる歓喜が溢れるのである。かような功徳を具えた初地に入ったことであるから、この菩薩のもてる苦みは初果の聖者のやうに僅〈わずか〉に大海水中の二三渧位である。元よりこの後なお百千億劫の間菩薩の行を修めて証りを開かねばならぬとは云え、これまで迷いに迷いを重ねた無始以来の苦みに比ぶれば、よしや百千億劫の修行の期間があっても、それはほんの大海水の二三渧と云わねばならぬ。即ち滅し了った苦は大海水の如く多く今持って居る苦は二三渧の如く少ないのである。この理由〈わけがら〉によりてこの初地を歓喜地と名けるのである。
(1-360) 

②へ


て居らぬ。臨終まで依然として罪悪深重の凡夫である。ただ本願他力に疑晴れた仕合せには、時々御催促を頂いては、喜ばせて貰うだけである。それであるから、消滅した苦は僅に二三渧の如く、滅しない苦は大海水の如く多くあるのである。けれども、二三渧の様な少いものではあるが、その聞法信喜の味〈あじわい〉に常に舌鼓打たして項いて居るのである。
 清沢満之先生の「他力救済の感謝」に曰く。
  我れ他力の救済を念ずるときは、我が世に処するの道開け、我他力の救済を忘るるときは我が世に処するの道閉づ。
  我れ他力の救済を念ずるときは、我物欲のために迷はさるること少く、我他力の救済を忌るるときは物欲のために迷わさるること多し。
  我れ他力の救済を念ずるときは、我が処する所に光明照し、我他力の救済を忘るるときは我が処する所に黒闇覆う。
  鳴呼他力救済の念は、能く我れをして迷倒苦悶の娑婆を脱して、悟達安楽の浄土に入らしむるが如し。我れは実にこの念に依って現に救済されつつあるを感ず。もし世に他力救済の念たけかりせば、我は遂に迷乱と悶絶とを免かれざるべし。然るに今や濁浪滔々の
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闇黒世裡にあって夙に清風掃々の光明界中に遊ぶを得るもの、その大恩高徳豈区々たる感謝嘆美の及ぶ所ならんや。
と。

謂〈おも〉うに『御本書』のこの節の意、蓋し、清沢先生のこの感謝である。
 扨てまたこの聞信の行者は、一切の天龍夜叉鬼神乃至菩薩仏方まで、愛敬供養して下されるのである。これ実に名号所具の大利益である。聞信の行者は如来を愛敬して自利利他の徳を得、益々信心を増長するから、何の中からも歓喜が胸に溢れるのである。
──fin──


 【余義】一。この分取海水の喩の中、本文の文点と引用文の文点と違って居る所がある。本文から読めば、「一毛を以て百分となし、一分の毛を以て、大海水をもしは二三渧分取するが如し、苦の已に滅するは大海水の如く、余の未だ滅せざるは二三渧の如し」と読む。処が引用の文点に依れば、「一毛を以て百分となし、一分の毛を以て大海水を分取するが如し、二三渧は苦の已に滅するが如し、大海水は余の未だ滅せざるが如し。二三渧の如きを心大〈おおき〉に歓喜す」と読ませてある。坂東の御真本、現行の四本、御展書〈おのべがき〉みなこの点に読ませてある。それで本文ではその文点の示すごとく、いわゆる見惑已滅大海水、修惑未滅二三渧という意味で、初果の聖者になれば、ものの道理に迷う煩悩は悉く滅して、事物
⓷へ



 扨て他力浄土門に当てて考えてみると、他力念仏の行者は、聞信の立処〈たちどころ〉に、迷の因果が滅びて仕舞い、ただ残る所は、甞て過去の業因に報い顕われたこの穢身だけであるから、滅した苦は大海水の如く、残る苦は二三渧の様なものである。然し、これは法の利益の上からいうので、更に機に受けた私の感の上からいうと、聞信の一念に迷妄の因果は滅びて恒沙の功徳は身に満てりとはいうものの、信者自身の実際からいうと、煩悩は少しも断じ
(1-362)
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に迷う煩悩だけが未だ滅せず、従って苦についても、已に断じ終った苦は大海水の如く多く、未だ断じ終らぬ苦は二三渧だけしかないから、菩薩は大にこれを歓喜するというのである。所が御引用の文義をその文点からみてみると、講義にも記した通り他力の行者は、無明煩悩われらが身にみちみちてつねに四苦八苦にせめられて居るから、苦の滅せざるは大海水の如くである。しかしこういう有様にあり乍らも常に法をきいて歓喜に溢れ、生死の苦に安住して居るが、それは丁度大海水に比べて汲み取った二三渧の水の様なものであるぞということを示し給うたものである。「二三渧の如きを心大〈おおき〉に歓喜す」というは、「有漏の穢身はかわらねど、こころは浄土にすみあそぶ」とあるが如く、四苦八苦の娑婆にありながらも、聞法する身の仕合〈しあわせ〉には、常に法味に飢えず、歓喜に溢れて居ることを示し給うたものである。吾れ吾れ凡夫の機に受けた実感の方からいえば、正しく聖人の改め給うた御点の如くいわねばならぬのである。然し、大法の徳用の方からいうと、聞いて信ずる一念に於いて、本願他力の不思議によって、六趣四生の因を亡じ果を滅し給うから、巳滅大海水というべく、現世一生に受けたこの穢身が残って居る計りであるから未滅二三渧といわねばならぬ。親鸞聖人はこの大法の徳用の方からいう義をも茲に合せていい
(1-363)
顕わさんとし給う覚召があるものであるから、合法の処では、本文通の点にして、改め給わなんだ。譬喩の処で文点を改めるならば、合法の処でも同様に改めねばならぬ咎であるが、それを改め給わぬのが、この二義を以て見よという覚召があるのであろうと思われる。『六要鈔』主もこの二義を以て見ねばならぬということを示さんがために、「その文点に依って義理を解すべし。言う所の文点は口伝に在る可し」と示し給うたのである。これによって『六要鈔会本』には文点を全く省いてあるのである。
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