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延暦寺奏状

提供: 本願力

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親鸞聖人が、『教行証文類』をどうしても著さなければならなかったという、嘉禄の法難の因となった『延暦寺奏状』。この 延暦寺衆徒の奏請により再度専修念仏が禁止される因となった奏状が提出されたのは元仁元年であり、御開山が、

 三時の教を案ずれば、如来般涅槃の時代を勘ふるに、周の第五の主穆王五十三年壬申に当れり。その壬申よりわが元仁元年[元仁とは後堀川院諱茂仁の聖代なり]甲申に至るまで、二千一百七十三歳なり。また『賢劫経』・『仁王経』・『涅槃』等の説によるに、すでにもつて末法に入りて六百七十三歳なり。

と、行証すたれた末法の世で、真に仏陀の覚(証)りを得るには、なんまんだぶという行法しかありえないと書き留めておられた文書を整理して『教行証文類に』に「我元仁元年」と(しる)された時であった。この時(元仁元年、1224)をもって真宗教団では御開山の立教とするのである。もちろん法然聖人の説かれた浄土の真実義を表現する書であって、決して師に背いて新たな義を主張するものではなかった。これは、少しく法然聖人の遺された書の文と御開山の発揮された思想の根底を窺えば領解できるであろう。法然聖人には、荒削りな魅力があり、御開山には法然聖人の思想を綿密に咀嚼し、本願力回向という体系で、法然聖人の示された往生浄土の教えを示して下さったのである。ともあれ、既存の思想内でしか仏教を把握できなかった、浄土門からは聖道門と呼ぶ側の当時の思想を知るには、この書の発想は面白いと思ふ。




一、捨諸教修行 而専念弥陀仏広行流布時玆未至事。

一には、諸教の修行を捨てて、専ら弥陀仏を念じて広行流布の時、ここに未だ至らざる事。

右双観経説 念仏法門之文云 当来之世経道滅尽 我以慈悲哀愍 特留此経 止住百歳 云々。

右、双観経に念仏法門を説く文に云く、当来の世に経道滅尽せんに、われ慈悲をもつて哀愍して、特にこの経を留めて止住すること百歳せん。 云々

慈恩西方要訣 釈此文云。

慈恩、『西方要訣』にこの文を釈して云く。

如来説教 潤益有時。末法万年余経悉滅。弥陀一教 利物偏増時 経末法 満一万年。一切諸経。並従滅没。釈迦恩重。留教百年 云々。

如来の説教、潤益に時あり。末法万年に余経悉く滅し、弥陀の一教、利物偏えに増す時、末法をへて一万年を満てん。一切の諸経。並びに滅没より、釈迦の恩、重く教を留むること百年せんと云々。

余経悉滅者 即指末法万年後也。 余経ことごとく滅とは、すなわち末法万年後を指す也。

既云時経末法 満一万年 一切諸経等 従滅没。 すでに時、末法をへて一万年を満てて一切の諸経等、滅没に従ふと云へり。

是以末法万年内 更為経道滅尽期乎。 これを末法万年の内なるを以って、更に経道滅尽の期となすや。

就中 慈恩釈者 依善見律。彼律文云 如来滅後一万年中 前五千年 名為証法。後五千年 名為学法。 一万年後経書滅没 唯有剃刀頭 着袈裟僧。{取意}

なかんずく慈恩の釈は『善見律』による。かの文に云く、如来の滅後一万年のうち、前の五千年を名づけて証法となし、後の五千年を 名づけて学法となす。 一万年の後、経書滅没し、ただ頭を剃刀し袈裟を着す僧あり。

慈恩 正指此時 而謂余経悉滅也。 慈恩、正しくこの時を指して謂余経ことごとく滅すと謂ふ也。


当知 於正像末法之間 非念仏偏増之時矣 まさに知るべし、正像末法の間において、念仏偏に増の時に非ず。

而彼等云 釈尊滅後 星霜眇焉 設致 帰命有何之験。