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「法然教学の研究/第一篇/第七章 八選択と三選の文意」の版間の差分

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先ず『大経』によれば、念仏は阿弥陀仏によって諸行を選捨して、選取された選択本願の行であった。この「選択本願」を明かしたのが「本願章」である。釈尊はその本願の意をうけて、諸行は小利有上と選び捨て、念仏のみを選んで一念大利無上功徳と讃嘆された。この「選択讃嘆」を明かしたのが「利益章」である。かかる本願の行であり、無上功徳の法門であるから、釈尊は諸経が滅尽する末法万年の後までも念仏を選んで特留すると宣言された。この「選択留教」を明かしたのが「特留章」である。次に『観経』によれば、弥陀の心光は、余行のものを照摂せず、本願に報いてただ念仏の行者を選んで摂取されると説かれている。この「選択摂取」の義を明かしたのが「摂取章」である。また下品上生には、来迎された弥陀の化仏が、聞経等の非本願の雑行をさしおいて本願行たる念仏のみを選んで讃嘆されたという。この「選択化讃」の義を明かしたのが「化讃章」である。ことに付属のところでは、釈尊は、自ら開説した定散諸行を非本願の故をもって廃捨して付属せず、本願の意に順じて本願行たる念仏のみを選択して付属された。この「選択付属」の意義を明かしたのが「付属章」であった。また『小経』には、六方恒沙の諸仏が悉く本願行たる念仏を選んで証誠されると説かれている。この「選択証誠」の義を明かしたのが「証誠章」である。さらに正依の三部経のみならず一巻本の『般舟三昧経』には、
 
先ず『大経』によれば、念仏は阿弥陀仏によって諸行を選捨して、選取された選択本願の行であった。この「選択本願」を明かしたのが「本願章」である。釈尊はその本願の意をうけて、諸行は小利有上と選び捨て、念仏のみを選んで一念大利無上功徳と讃嘆された。この「選択讃嘆」を明かしたのが「利益章」である。かかる本願の行であり、無上功徳の法門であるから、釈尊は諸経が滅尽する末法万年の後までも念仏を選んで特留すると宣言された。この「選択留教」を明かしたのが「特留章」である。次に『観経』によれば、弥陀の心光は、余行のものを照摂せず、本願に報いてただ念仏の行者を選んで摂取されると説かれている。この「選択摂取」の義を明かしたのが「摂取章」である。また下品上生には、来迎された弥陀の化仏が、聞経等の非本願の雑行をさしおいて本願行たる念仏のみを選んで讃嘆されたという。この「選択化讃」の義を明かしたのが「化讃章」である。ことに付属のところでは、釈尊は、自ら開説した定散諸行を非本願の故をもって廃捨して付属せず、本願の意に順じて本願行たる念仏のみを選択して付属された。この「選択付属」の意義を明かしたのが「付属章」であった。また『小経』には、六方恒沙の諸仏が悉く本願行たる念仏を選んで証誠されると説かれている。この「選択証誠」の義を明かしたのが「証誠章」である。さらに正依の三部経のみならず一巻本の『般舟三昧経』には、
:菩薩於此間国土、念阿弥陀仏、専念故得見之、即問、持何法得生此国、阿弥陀仏報言、欲来生者、当念我名、莫有休息、則得来生。<ref>『般舟三昧経』(一巻本)(大正蔵一三・八九九頁)、なお現存の『般舟三昧経』は「当念我名」となっているが、法然は「常念我名」とある本に依られたのであろう。</ref>
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:菩薩於此間国土、念阿弥陀仏、専念故得見之、即問、持何法得生此国、阿弥陀仏報言、欲来生者、当念我名、莫有休息、則得来生。<ref>『般舟三昧経』(一巻本)(大正蔵一三・八九九頁)、なお現存の『般舟三昧経』は「当念我名」となっているが、法然は「常念我名」とある本に依られたのであろう。</ref>{{SH3|no2|菩薩この間の国土において阿弥陀仏を念ぜよ。もつぱら念ずるがゆゑにこれを見たてまつることを得。すなはち問いたてまつれ。いか なる法を持ちてかこの国に生ずることを得ると。 阿弥陀仏報へてのたまはく、来生せんと欲せば、まさにわが名を念ずべし。休息することあることなくは、 すなはち来生することを得ん。}}
  
 
とあり、阿弥陀仏自ら「当(常)念我名」と名号を選択されている。この「選択我名」を加えた八選択をもって、選択念仏の義が開顕されていることがわかる。これを仏に約してみれば、選択本願、選択摂取、選択化讃、選択我名の四種は阿弥陀仏の選択であり、選択讃嘆、選択留教、選択付属の三種は釈迦の選択であり、選択証誠は諸仏の選択であることがわかる。
 
とあり、阿弥陀仏自ら「当(常)念我名」と名号を選択されている。この「選択我名」を加えた八選択をもって、選択念仏の義が開顕されていることがわかる。これを仏に約してみれば、選択本願、選択摂取、選択化讃、選択我名の四種は阿弥陀仏の選択であり、選択讃嘆、選択留教、選択付属の三種は釈迦の選択であり、選択証誠は諸仏の選択であることがわかる。
  
 
 かくて法然は、<br />
 
 かくて法然は、<br />
:然則釈迦、弥陀及十方各恒沙等諸仏、同心選択念仏一行、余行不爾、故知三経共選念仏以為宗致耳。
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:然則釈迦、弥陀及十方各恒沙等諸仏、同心選択念仏一行、余行不爾、故知三経共選念仏以為宗致耳。{{SH3|no3|しかればすなはち釈迦・弥陀および十方のおのおのの恒沙等の諸仏、同心に念仏の一行を選択したまふ。余行はしからず。ゆゑに知りぬ、三経ともに念仏を選びてもつて宗致となすのみ。}}
  
 
と結ばれる。こうして念仏往生は釈迦、弥陀、十方の諸仏が同心に選択された三仏随自意の法門であり、浄土三部経は、この選択念仏を宗致とする経典だったのである。ところで釈迦、諸仏の選択といっても、それは阿弥陀仏の本願の意に順じて、本願の行法を讃嘆し、留教し、付属し、証誠するのであるからその根源は阿弥陀仏の選択本願に帰する。又弥陀の摂取も化讃も選択本願の成就相であるから、要するに八選択は選択本願の一つに収まる。十六章にわたって、三仏の八選択を明かし、それによって念仏往生の宗義を確立されたこの書を『選択本願念仏集』と名づけられた所以である。
 
と結ばれる。こうして念仏往生は釈迦、弥陀、十方の諸仏が同心に選択された三仏随自意の法門であり、浄土三部経は、この選択念仏を宗致とする経典だったのである。ところで釈迦、諸仏の選択といっても、それは阿弥陀仏の本願の意に順じて、本願の行法を讃嘆し、留教し、付属し、証誠するのであるからその根源は阿弥陀仏の選択本願に帰する。又弥陀の摂取も化讃も選択本願の成就相であるから、要するに八選択は選択本願の一つに収まる。十六章にわたって、三仏の八選択を明かし、それによって念仏往生の宗義を確立されたこの書を『選択本願念仏集』と名づけられた所以である。
  
 
 ところで『三部経大意』の終わりに『小経』の法義を要約して、
 
 ところで『三部経大意』の終わりに『小経』の法義を要約して、
:若またこれを信ずれば、たゞ弥陀の本願を信ずるのみにあらず、釈迦の所説を信ずるなり。釈迦の所説を信ず  れば、六方恒沙の諸仏の所説を信ずるなり。一切諸仏を信ずれば、一切菩薩を信ずるなり。この信ひろくして  広大の信心也。<ref>『三部経大意』専修寺本(真聖全四・七九九頁)、なお金沢文庫本(真宗学報一七・七七頁)や、『和語灯』一所収の「三経釈」(真聖全四・五六四頁)には「諸仏ヲ信スレハ、一切法ヲ信スルニナル、一切法ヲ信スレハ、一切ノ菩薩ヲ信スルニナル」となっている。</ref>
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:若またこれを信ずれば、たゞ弥陀の本願を信ずるのみにあらず、釈迦の所説を信ずるなり。釈迦の所説を信ずれば、六方恒沙の諸仏の所説を信ずるなり。一切諸仏を信ずれば、一切菩薩を信ずるなり。この信ひろくして広大の信心也。<ref>『三部経大意』専修寺本(真聖全四・七九九頁)、なお金沢文庫本(真宗学報一七・七七頁)や、『和語灯』一所収の「三経釈」(真聖全四・五六四頁)には「諸仏ヲ信スレハ、一切法ヲ信スルニナル、一切法ヲ信スレハ、一切ノ菩薩ヲ信スルニナル」となっている。</ref>
  
といわれている。この『三部経大意』には、選択という用語は使われていないが、念仏一行が弥陀、釈迦、諸仏の本意であることを顕わされたもので、その心は『選択集』と同じである。特に最後の「この信ひろくして広大の信心也」といわれたものは、親鸞が「化身土文類」に「良勧既恒沙勧、信亦恒沙信」<ref>「化身土文類」真門章(真聖全二・一五七頁)</ref>といわれたものと照応しているようにみえる。尚「三経共選念仏以為宗致」といわれた『選択集』の文意を、親鸞は「是以三経真実、選択本願為<宗也」<ref>「同右」要門章(同右・一五三頁)</ref> と伝承されている。また『愚禿鈔』上に、『大経』と『観経』の上に十六選択があると釈出されたのも、明らかに法然を承けて展開されたものである<ref>『愚禿鈔』上(真聖全二・四五六頁)</ref>。
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といわれている。この『三部経大意』には、選択という用語は使われていないが、念仏一行が弥陀、釈迦、諸仏の本意であることを顕わされたもので、その心は『選択集』と同じである。特に最後の「この信ひろくして広大の信心也」といわれたものは、親鸞が「化身土文類」に「良勧既恒沙勧、信亦恒沙信」{{SH3|no4|まことに勧めすでに恒沙の勧めなれば、信もまた恒沙の信なり。}}<ref>「化身土文類」真門章(真聖全二・一五七頁)</ref>といわれたものと照応しているようにみえる。尚「三経共選念仏以為宗致」といわれた『選択集』の文意を、親鸞は「是以三経真実、選択本願為宗也」{{SH3|no5|ここをもつて三経の真実は、選択本願を宗とするなり。}} <ref>「同右」要門章(同右・一五三頁)</ref> と伝承されている。また『愚禿鈔』上に、『大経』と『観経』の上に十六選択があると釈出されたのも、明らかに法然を承けて展開されたものである<ref>『愚禿鈔』上(真聖全二・四五六頁)</ref>。
 
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2019年9月21日 (土) 22:04時点における版

法然教学の研究/第二篇/第七章 八選択と三選の文意

第七章 八選択と三選の文意

第一節 八選択の釈意

 『選択集』第十六「慇付章」は、他の章と異って引文についての私釈がなく、上来のべてきた十六章全体の法義を「選択」の二字にしぼり、それを八選択として収約する、いわば総結の釈がおかれている[1]。すなわち浄土三部経は諸行の中から念仏を選択することに帰結するとして、『大経』に三種の選択が、『観経』に三種の選択が、『小経』に一種の選択が示されているといい、さらに本説中にはなかったが『般舟三昧経』に一種の選択があるから、都合八選択が示されていることがわかるといわれるのである。

先ず『大経』によれば、念仏は阿弥陀仏によって諸行を選捨して、選取された選択本願の行であった。この「選択本願」を明かしたのが「本願章」である。釈尊はその本願の意をうけて、諸行は小利有上と選び捨て、念仏のみを選んで一念大利無上功徳と讃嘆された。この「選択讃嘆」を明かしたのが「利益章」である。かかる本願の行であり、無上功徳の法門であるから、釈尊は諸経が滅尽する末法万年の後までも念仏を選んで特留すると宣言された。この「選択留教」を明かしたのが「特留章」である。次に『観経』によれば、弥陀の心光は、余行のものを照摂せず、本願に報いてただ念仏の行者を選んで摂取されると説かれている。この「選択摂取」の義を明かしたのが「摂取章」である。また下品上生には、来迎された弥陀の化仏が、聞経等の非本願の雑行をさしおいて本願行たる念仏のみを選んで讃嘆されたという。この「選択化讃」の義を明かしたのが「化讃章」である。ことに付属のところでは、釈尊は、自ら開説した定散諸行を非本願の故をもって廃捨して付属せず、本願の意に順じて本願行たる念仏のみを選択して付属された。この「選択付属」の意義を明かしたのが「付属章」であった。また『小経』には、六方恒沙の諸仏が悉く本願行たる念仏を選んで証誠されると説かれている。この「選択証誠」の義を明かしたのが「証誠章」である。さらに正依の三部経のみならず一巻本の『般舟三昧経』には、

菩薩於此間国土、念阿弥陀仏、専念故得見之、即問、持何法得生此国、阿弥陀仏報言、欲来生者、当念我名、莫有休息、則得来生。[2]「隠/顕」菩薩この間の国土において阿弥陀仏を念ぜよ。もつぱら念ずるがゆゑにこれを見たてまつることを得。すなはち問いたてまつれ。いか なる法を持ちてかこの国に生ずることを得ると。 阿弥陀仏報へてのたまはく、来生せんと欲せば、まさにわが名を念ずべし。休息することあることなくは、 すなはち来生することを得ん。

とあり、阿弥陀仏自ら「当(常)念我名」と名号を選択されている。この「選択我名」を加えた八選択をもって、選択念仏の義が開顕されていることがわかる。これを仏に約してみれば、選択本願、選択摂取、選択化讃、選択我名の四種は阿弥陀仏の選択であり、選択讃嘆、選択留教、選択付属の三種は釈迦の選択であり、選択証誠は諸仏の選択であることがわかる。

 かくて法然は、

然則釈迦、弥陀及十方各恒沙等諸仏、同心選択念仏一行、余行不爾、故知三経共選念仏以為宗致耳。「隠/顕」しかればすなはち釈迦・弥陀および十方のおのおのの恒沙等の諸仏、同心に念仏の一行を選択したまふ。余行はしからず。ゆゑに知りぬ、三経ともに念仏を選びてもつて宗致となすのみ。

と結ばれる。こうして念仏往生は釈迦、弥陀、十方の諸仏が同心に選択された三仏随自意の法門であり、浄土三部経は、この選択念仏を宗致とする経典だったのである。ところで釈迦、諸仏の選択といっても、それは阿弥陀仏の本願の意に順じて、本願の行法を讃嘆し、留教し、付属し、証誠するのであるからその根源は阿弥陀仏の選択本願に帰する。又弥陀の摂取も化讃も選択本願の成就相であるから、要するに八選択は選択本願の一つに収まる。十六章にわたって、三仏の八選択を明かし、それによって念仏往生の宗義を確立されたこの書を『選択本願念仏集』と名づけられた所以である。

 ところで『三部経大意』の終わりに『小経』の法義を要約して、

若またこれを信ずれば、たゞ弥陀の本願を信ずるのみにあらず、釈迦の所説を信ずるなり。釈迦の所説を信ずれば、六方恒沙の諸仏の所説を信ずるなり。一切諸仏を信ずれば、一切菩薩を信ずるなり。この信ひろくして広大の信心也。[3]

といわれている。この『三部経大意』には、選択という用語は使われていないが、念仏一行が弥陀、釈迦、諸仏の本意であることを顕わされたもので、その心は『選択集』と同じである。特に最後の「この信ひろくして広大の信心也」といわれたものは、親鸞が「化身土文類」に「良勧既恒沙勧、信亦恒沙信」「隠/顕」まことに勧めすでに恒沙の勧めなれば、信もまた恒沙の信なり。[4]といわれたものと照応しているようにみえる。尚「三経共選念仏以為宗致」といわれた『選択集』の文意を、親鸞は「是以三経真実、選択本願為宗也」「隠/顕」ここをもつて三経の真実は、選択本願を宗とするなり。 [5] と伝承されている。また『愚禿鈔』上に、『大経』と『観経』の上に十六選択があると釈出されたのも、明らかに法然を承けて展開されたものである[6]


註釈

  1. 『選択集』(真聖全一・九八九頁)、なお八選択は、すでに「阿弥陀経釈」(古本『漢語灯』三・古典叢書本・二四頁)に同様に述べられている。
  2. 『般舟三昧経』(一巻本)(大正蔵一三・八九九頁)、なお現存の『般舟三昧経』は「当念我名」となっているが、法然は「常念我名」とある本に依られたのであろう。
  3. 『三部経大意』専修寺本(真聖全四・七九九頁)、なお金沢文庫本(真宗学報一七・七七頁)や、『和語灯』一所収の「三経釈」(真聖全四・五六四頁)には「諸仏ヲ信スレハ、一切法ヲ信スルニナル、一切法ヲ信スレハ、一切ノ菩薩ヲ信スルニナル」となっている。
  4. 「化身土文類」真門章(真聖全二・一五七頁)
  5. 「同右」要門章(同右・一五三頁)
  6. 『愚禿鈔』上(真聖全二・四五六頁)