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浄土という関係性

提供: 本願力

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浄土という関係性

抽象論より事実の重み

 かつて浄土が死者を受け入れる場であったが、今では多くの日本人が死んだら天国に往くと言う。そこには死生観の大きな断絶があると思われるが、いつ、どうしてそのような転換が起こったのだろうか。そんな問題に関心を持つ研究者や知識人はほとんどいない。死を論ずる人はいても、死後や死者の問題は公的な場ではタブーとなってきた。そんなことを語るのは無知で迷信的な庶民であり、近代的な欧米の学問を身に付けた知識人にとっては恥ずかしいこととされた。

 いつの頃からか、「永眠」というきわめて冷たい言葉で死者を突き放すのが、当たり前になった。死者はただ眠っていればいい、生者の世界とは無関係だ、というのである。広島の原爆死没者慰霊碑には、「安らかに眠って下さい過ちは繰返しませぬから」という有名な言葉が刻まれている。その決意は潔いものの、やはりそれでいいのだろうかと思わないわけにはいかない。実際、それ以後も随分と「過ち」を繰り返してきているのだから、死者はとても「安らかに眠って」はいられないであろう。

 もっとも、近代が死後や死者の問題を追放したのは、理由がないわけではない。近代の合理的、科学的な思考では、死後のことなど解明できない。科学的に実証できないことは、ないものとして論じないのが、近代の流儀だ。哲学者のカントは、死後の霊魂が存在するか否かは、純粋理性では決定できないことを明らかにした。こうして、死後や死者の問題は、哲学的な議論か見捨てられた。

 このような動向に、仏教界も敏感に反応した。著名な仏教学者が、「本来、仏教は死者のためのものではなく、この生をよりよく生きるための知恵だ」などと説き、それが正しいかのように世間に流布した。そこから、僧侶たちまでもが、「葬式仏教は、日本の民俗に妥協した方便であり、仏教の正しいあり方ではない」などと言うようになった。「葬式は死者のためにするのではなく、それを機会に関係者が集まり、信仰を深める場だ」と公言してはばからない僧侶もいる。そんな僧侶に葬式をされるのでは、死者はあまりに気の毒だ。

 実際には、仏教はもっとも古い段階から死者と関わりを持ち、その伝統が長く受け継がれ、仏教の展開の基盤をなしてきた。阿弥陀仏の極楽浄土を説く浄土教は、そのような死者の仏教を代表するものだ。近世末に神道が自立した宗教として確立しようと志したとき、最大の問題は葬式儀礼の欠如ということであうた。そこで、仏教をまねて、神葬祭という神道式の葬式を作り出した。このように、葬式は宗教の中核をなす儀礼である。

講演でこんな話をすると、「それではあなたは死後の霊魂の存在を認めるのか」と、しばしば質問される。「仏教は無我を説くのだから、死後の存続を認めるのはおかしい」という説を展開する人もいる。だが、これは明らかに無我説の誤解である。確かに無我説では霊魂という実体的な存在を否定する。キリスト教などでは、霊魂は永遠に個体性を保って存在すると説くが、仏教はそれを認めない。しかし、だからと言って、死後何もなくなってしまうと考えるのは、逆の極論であり、断見(否定的なニヒリズム)として、仏教では否定する。

 それでは、どう考えたらよいのであろうか。仏教ではそれに関する哲学的な議論が展開してきたが、そのような議論以前にまず、僕たちは実際に死者と関係しないわけにはいかないという事実から出発すべきだ。バブル期には、「死んだらゴミ」などと勇ましく言う人もいたが、身内の愛しい人が亡くなった時、その遺骸がゴミで、廃棄してしまえば終わり、などと本当に思っている人がいるだろうか。死者はこの世界からはいなくなっても、死者との関係はそれで終わるわけではない。死者はある時には生者を責め、ある時には力づけてくれる。それは事実であり、その事実を認めることから出発すべきである。それを、「霊魂が存在するか否か」という ような抽象的な議論に話を持っていってしまうから、おか しくなってしまうのだ。

 このことを、僕は「関係は存在に先立つ」と定式化している」西洋の哲学では、「存在するか否か」という存在論、が優先される。しかし、そのような抽象論ではなく、実際に死者と関係しているという事実の重みこそ重要なのだ。

(末木文美士 すえき・ふみひこ 国際日本文化研究センター教授)