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親鸞聖人における生と死

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親鸞聖人における生と死

紅楳英顕
(日本仏教学会年報75号<2010,7刊>所収)

はじめに

 本年度の共同研究テーマは「仏教の生死観」である。テーマの説明に「いのちの重さがますます軽くなり、昏迷を深めている現代社会を覆う諸問題を考える時、生死を通して生命の本質を見つめる仏教の教えを改めて確認し…」とあるように今回のテーマの「生死観」の生死は涅槃に対していう生死(しょうじ)の意味の考察ではなく、生(せい)と死(し)についての考察をすることが、共同テーマの趣旨に適うと考え、親鸞聖人(以下親鸞)における生と死ということで論ずることにする。

一、現世からの救いの確信

 親鸞は『教行信証』「証巻」に

然るに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萠往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり。(真聖全二の一〇三)

と述べ、又『浄土三経往生文類』(広本)には

大経往生といふは如来選択の本願、不可思議の願海、これを他力とまふすなり。これすなわち念仏往生の願因によりて、必至滅度の願果をうるなり、現生に正定聚のくらひに住してかならず真実報土にいたる。(真聖全二の五五一)

と述べ、また『浄土和讃』には

真実信心うるひとは すなはち定聚のかずにいる 不退のくらいにいりぬれば かならず滅度に至らしむ(真聖全二の四九三)

等と述べて、現生に正定聚の位に住することを述べているのである。周知のように第十一願文の当面は正定聚と滅度と共に浄土における益であり、正定聚も浄土の益なのである。これを自らの釈顕により、正定聚を信一念の時に獲る現生の益として現生正定聚を語るのである[1]。  そして『教行信証』「信巻」断四流釈に

断といふは、往相の一心を発起するが故に、生として当に生を受くべき无し、趣としてまた到るべき趣无し。已に六趣・四生因亡じ果滅す、故に即頓に三有の生死を断絶す。故に断と曰ふなり。(真聖全二の七四)

とあり、又『高僧和讃』には

金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 彌陀の心光摂護して ながく生死をへだてける(真聖全二の五一〇)

とあるように、信心決定の時に「六趣・四生因亡じ果滅す」と生死(迷界)が断絶される(へだてられる)と述べられている。即ち信心決定の時に現世において往生成仏の定まった現生正定聚の位に入ることを理論的に述べているのである。いうまでもないことであるが、親鸞の独自の釈顕による現世からの救いの強調は理論のみに基づいたものではない。現実の救済体験の実感と自覚によるものである。このように現生正定聚を主張した親鸞はさらに『浄土和讃』に

信心よろこぶそのひとを 如来とひとしとときたまふ 大信心は仏性なり 仏性すなはち如来なり(真聖全二の四九七)

と述べ、『正像末和讃』には

真実信心うるゆへに すなはち定聚にいりぬれば 補処の彌勒におなじくて 無上覚をさとるなり(真聖全二の五一九)

等と述べているように、信心のひと(正定聚のひと)はすでに仏になることが決まっているので(煩悩具足の身ではある)、「如来とひとし」とか「彌勒(五十一位の等覚の菩薩)におなじ」といわれているのである。このように独自の釈顕によって現生正定聚を主張しさらにそれが如来とひとし、彌勒におなじと述べるのである。さらに彌勒については『教行信証』「信巻」には

まことに知んぬ、彌勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆえに、龍華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は 横超の金剛心を窮むるがゆえに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。ゆえに便同といふなり。(真聖全二の七九)

と述べ、『正像末和讃』には

五十六億七千万 彌勒菩薩はとしをへん まことの信心うるひとは このたびさとりをひらくべし(真聖全二の五一九)

と述べて現生正定聚のひと(信心のひと)は彌勒より先に悟りをえることを強調し、彌勒より勝れた菩薩であるといおうとしているのである。また、『正信偈』には

仏、広大勝解の者と言へり。是の人を分陀利華と名づく。(真聖全二の四四)

と述べて、信心のひとを仏は広大勝解者、分陀利華(白蓮華)とほめ讃えていると述べているのである。 このように親鸞は独自の釈顕により現生正定聚を主張し、その徳を高く讃嘆するのであるが、『正像末和讃』聖徳奉讃には

仏智不思議の誓願を 聖徳皇のめぐみにて 正定聚に帰入して 補處の彌勒のごとくなり(真聖全二の五二六)
聖徳皇のあはれみて 仏智不思議の誓願に すすめいれしめたまひてぞ 住正定聚の身となれる(同上)

と、「正定聚に帰入して」、「住正定聚の身となれる」等と述べている。上述のように正定聚の徳を高く讃嘆する親鸞であるが、それはただ傍観者的に述べているのではなく、自分自身か今、現生正定聚の位にあると述べているのである。これは大変大きなことであり、独自の釈顕である現生正定聚の主張が傍観者的客観的な、単なる論理ではなく親鸞自身の体験による救済の実感、自覚によるものであることが明らかに知られるのである。
 親鸞の深い自己内省の語により、信心決定の自覚や往生一定の確信はなかったのではないかという意見は根強くある。しかしこれは誤りである。もしそうであるなら、現生正定聚の主張等その他多くの独自の釈顕が生ずることはなかったことであろう。例えば『教行信証』「信巻」の「悲しき哉、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑……」(真聖全二の八〇)、『一念多念文意』の「凡夫といふは、无明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおほく、いかりはだち……」(同上六一八)とある文は慶嘆ともいわれるように、信後(信心決定後)の内省の中の慶びの語であり、信心決定の無自覚や往生決定の不確信を意味するのではない。また『正像末和讃』愚禿悲歎述懐に「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわがみにて 清浄の心もさらになし」(真聖全二の五二七)とあるところから親鸞聖人に信心決定の自覚はなかった、という意見もあるが、これも親鸞は浄土真宗に帰した後(信後)も煩悩具足のままであり、虚仮不実のわが身である故に「真実の心」、「清浄の心」がないというのであり、信心がないといっているのではないのである[2]。尚、『歎異抄』第九によりこれに関連した意見があるがこれについては後述する。
 このように親鸞は『教行信証』「化土巻」に自ら

然るに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦雑行を棄てて本願に帰す。(真聖全二の二〇二)

と、述べているように本願を信ずる身となり、仏の救済を体得し実感し、その救済の世界を現生正定聚の位と釈顕したのである。『教行信証』の初めの総序には

爰に愚禿釈の親鸞慶ばしい哉。西蕃月支の聖典、東夏日域の師釈に遇ひ難くして 今遇うことを得たり。聞き難くして已に聞くことを得たり。(真聖全二の一)

と述べ、終わりの後序には

慶ばしい哉。心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。深く如来の矜哀を知りて良に師教の恩厚を仰ぐ。(真聖全二の二〇三)

と述べているように、『教行信証』は初めから終わりまで、現生正定聚の世界の慶びを語り連ねているといえるのである。そしてその慶びとは「信巻」に

遇たま浄信を獲ば、是の信顛倒せず。是の信虚偽ならず。是を以て極悪深重の衆生、大慶喜心を得、諸の聖尊の重愛を獲る也。(真聖全二の四八)

とあるように、不顛倒、不虚偽の真実不変の大慶喜心なのである[3]

二、臨終来迎の否定

 親鸞は『末灯鈔』一に

来迎は諸行往生にあり。自力の行者なるがゆへに、臨終といふことは諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆへなり。(中略)真実信心の行人は、摂取不捨のゆへに正定聚のくらいに住す。このゆへに臨終まつことなし、来迎たのむことなし、信心のさだまるとき往生またさだまるなり。(真聖全二の六五六)

と述べている。源信の『往生要集』巻中末、臨終行儀、巻下末、臨終念相に述べられている[4]、浄土教で極めて重視されてきた臨終来迎を否定したのである。現世からの救いについては他の浄土教者にもその主張はみられるのではあるが、臨終来迎否定はまさに他に全く類のない釈顕といえるであろう。因みに少し時代を後にする一遍も現世からの救いを強調し、現世往生の主張はするのであるが、臨終来迎・臨終正念は厳しく説くのである[5]。「来迎は諸行往生にあり」と独自の願海真仮釈により、臨終来迎が誓われている第十九願を自力諸行の方便願とし、「臨終ということは諸行往生のひとにいふべし」と述べるのでいるが、「いまだ真実の信心をえざるがゆへなり」と結んでいるように臨終来迎の否定も確固たる信心決定の自覚から生じた往生決定の確信によるものと思われる。
 『末灯鈔』六に

なによりも、こぞ・ことし、老少男女おほくのひとびとの死にあひて候へ。ただし生死无常のことはり、くはしく如来のときをかせおはしまして候うへは、おどろきおぼしめすべからず候。まず善信が身には臨終の善悪をばまふさず、信心決定のひとは、うたがひなければ正定聚に住することにて候なり。さればこそ愚痴无智の人もをはりもめでたく候へ。如来の御はからひにて往生するよし、ひとびとにまふされ候ける、すこしもたがわず候なり。(真聖全二の六六四)

とある。この書簡は終わりに「文応元年十一月十三日 善信八十八歳 乗信御房」とあり、文応元年(一二六〇)に最晩年の親鸞が書いたものであることが分かる。文応元年は大飢饉の歳であったと伝えられており、東国において多くの人々が飢餓や疫病のために死亡したと考えられる。恐らくその中には臨終が悪相であった者も少なくなかったことであろう。それについての乗信の懸念に対して親鸞が答えたのが先の『末灯鈔』六であろう。「善信が身には臨終の善悪をばまふさず、信心決定のひとは、うたがひなければ正定聚に住することにて候なり。さればこそ愚痴无智の人もをはりもめでたく候へ。」と、臨終の善悪の相は全く関係なく信心決定のひとは正定聚に住し往生間違いない、と晩年においても些かも揺るぎない確信を述べているのである。

三、恵信尼のみた信心決定のひと親鸞

 夫・親鸞の死の知らせを末娘・覚信尼より受け、それに返信した妻・恵信尼の書簡(『恵信尼消息』五)に親鸞の常日頃からの自己の往生についての強い確信を知ることができる。『恵信尼消息』五は

去歳の十二月一日の御文、同二十日あまりに確かに見候ぬ。何よりも殿の御往生中々はじめて申に及ばず候。(真聖全五の一〇四)

で始まっている。十一月二十八日の親鸞の死を知らせた覚信尼への返信である。
 覚信尼の書簡が残っていないにで想像の域ではあるが、親鸞の臨終を見守った覚信尼がその様子を恵信尼に伝え、親鸞が往生したのであろうかどうだろうかと恵信尼に尋ねていたのではなかろうか。恐らく覚信尼も父・親鸞からつねに「信心のさだまるとき往生またさだまるなり。」、「臨終の善悪をばまふさず」と聞いていたことであろう。しかし上述のこの年の僅か二年前の親鸞の乗信房への返信にもみられるように多くの人々は臨終の様子が気になっていたと思われる。しかも源信の臨終行儀に影響を与えたといわれる千観の『十願発心記』には

臨終の時、身心安楽とは、人生まれて未だ愛欲を断ぜず、命終の時必ず三の愛を起こす。一には境界愛、謂ゆる必死の兆現前する時その所愛の妻子眷属屋宅などにおいて、深重の愛を生ず。二には自体愛、(中略)三には当生愛、(中略)この三種の愛その心を流動するが故に、心に愁悩を生じ、命まさに尽きんとする時、風力脈を解き、千苦相い迫むが故に、身は極苦を生じ、身心苦に遇うて念仏すること能わず[6]

とある。即ち臨終正念を妨げる者として三の愛が挙げられ、その中の一に境界愛として妻子眷属屋宅が挙げられている。親鸞の子である自分(覚信尼)や益方(覚信尼の兄・道性)が親鸞の臨終を見守ったのが、親鸞の臨終正念を妨げたのではなかろうかという意味のことが書かれていたかも知れない。しかし上掲のように恵信尼は「何よりも殿の御往生中々はじめて申に及ばず候。」と返信の冒頭に覚信尼の不安をきっぱりと否定している。そして親鸞が法然との出会いにより生死出づべき道を解決したこと、自分が親鸞を観音菩薩の化身として敬い続けてきたことを述べて、結びに

されば御臨終は如何にもわたらせ給へ、疑ひ思まいらせぬうへ、同じことながら、益方も御臨終にあいまいらせて候ける、親子の契りと申しながら、深くこそおぼえ候へば、嬉しく候候。(真聖全五の一〇六)

と述べている。臨終の様子がどうであったとしても往生には全く関係のないことであることを強調し、親鸞が往生したことは絶対間違いないと再度述べ、自分や益方が臨終に侍ったことを懸念していたかとも推測される覚信尼の不安に対しても、益方も御臨終あうことができたのは、大変嬉しく思うと述べているのである。恵信尼が親鸞の救済体験に基づいた独自の釈顕である現生正定聚・臨終来迎否定の意を正しく理解していたことが知られるのであり、また恵信尼にそう理解せしめた親鸞の平生からの往生決定の揺るぎなき確信の深さを感じさせられるのである。

四、『歎異抄』第九から窺われる親鸞の死生観

 『歎異抄』第九は著者の唯円が自分の信仰上の問題について直接親鸞に尋ねた内容が述べられたものであり、極めて重要な箇所である。この場面は善鸞事件の頃と考えられ、『諸寺異説弾妄』によれば両者の年齢差は五十歳位であり、親鸞が八十歳過ぎ、唯円が三十歳過ぎであったと考えられる。

念仏まふしさふらへども、踊躍歓喜のこころおろそかにさふらふこと、またいそぎ浄土へまひりたきこころのさふらはぬは、いかにとさうらうべきことにてさふらふやらん(真聖全二の七七七)

と尋ねた唯円に対し親鸞が

親鸞もこの不審ありつるに唯円房おなじこころにてありけり。(同上)

と答えているのである。ここの「この不審ありつるに」については様々に解釈されている[7]。唯円の「不審」が信前(信心決定前)か信後(信心決定後)か。「ありつる」とは現在か過去か、様々な意見があるのであるが、唯円の「不審」は往生についての大丈夫かどうかの不安であるから信前のものであり、「ありつる」の「つる」は完了の助動詞であるから、今もあるというのではなく、かってあったことがある、という意味である。すなわち私(親鸞)もかってそのような不審があったことがあるという意味であり、今もあるということではないのである[8]
次下に

また浄土にいそぎまひりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも煩悩の所為なり。(中略)なごりおしくおもへども、娑婆の縁つきてちからなくしておはるときにかの土へはまひるべきなり。いそぎまひりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じさふらへ。(真聖全二の七七八)

と親鸞の言葉が述べられている。ここにある「死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆる」、「なごりおしくおもへども」という言葉は親鸞が往生についての不安、即ち死についての不安や恐怖をもち続けていたとする意見が多いのであるが、そうではないのである。上述のように「信心さだまるとき往生またさだまなり」と述べ、現生正定聚を主張し、自己の往生一定を確信していたのが親鸞である。このことは『高僧和讃』に真実信心ではない不淳心の若存若亡の左訓に

あるときはわうしやうしてむすとおもひあるときはわうしやうはえせしおもふをにゃくそんにゃくまうといふなり(親鸞聖人全集二の一〇〇)

とあるように、あるときは往生するように思うが、あるときは往生できないと思うのは不淳心であり、真実信心ではないと述べている。また『尊号真像銘文』末(広本)には

摂取心光常照護といふは、信心をえたる人おば、無碍光仏の心光つねにてらし、まもりたまふゆへに、无明のやみはれ、生死のながきよすでにあかつきになりぬとしるべしと也。已能雖破无明闇といふはこのこころなり、信心をうればあかつきになるがごとしとしるべし。貪愛瞋憎之雲霧常覆真実信心天といふは、われらが貪愛瞋憎をくもきりにたとえて、つねに信心の天におほえるなりとしるべし。譬如日月覆雲霧雲霧之下明无闇といふは、日月の、くもきりにおほはるれども、やみはれてくもきりのしたあきらかなるがごとく、貪愛瞋憎のくも・きりに信心はおほはるれども、往生にさわりあるべからずとしるべしと也。(真聖全二の六〇二)

とある。即ち信心決定後も煩悩はなくなることはないのであるが、信心が決定しておれば煩悩がいくら興盛しようともそれが往生のさわりには全くならないと述べているのである。
 私は親鸞が信心決定(十八願転入)したのは二十九歳の時と考えるが、『歎異抄』第九の対話は親鸞の八十歳過ぎのことであり、いずれにせよ信心決定後のことである。確固たる現生正定聚の自覚、往生一定の確信のなかに在ったのである。「死なんずやらんとこころぼそくおぼゆる」、「なごりおしくおもへども」という言葉の後に「煩悩の所為なり」、「いそぎまひりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じさふらへ。」とあるように、臨終の一念に至るまで煩悩具足である故に「こころぼそくおぼゆる」、「なごりおしくおもう」気持ちはあっても[9]、そこに往生については些かな不安も介在してはいない大安堵の心であり、まさに死を超克した大慶喜心の他力信心の境地なのである[10]

むすび

 以上のように親鸞は独自の釈顕によって経典の当面では死後彼土(浄土)の益であるである正定聚を現世の益である現生正定聚とし、しかもこれを「如来とひとし」、「彌勒のおなじ」とまで述べて現世からの救いのを強調したのである。そしてその救いの境地は「臨終まつことなし、来迎たのむことなし信心さだまるとき往生またさだまるなり」と当時の浄土教の常識である臨終来迎をも否定するものであった。これは親鸞に現世からの救済が強く確信され実感されていたことを示すものである。親鸞の信心について「一点の疑いもなく晴れ々とする決定心」はなかった、とか、「自己の往生を確信した」といえば何パーセントかの疑いがあることであり、自力心であるから、親鸞には往生の確信はなかったと、という意見があるが、これらは大変な間違いであり、親鸞の信心は「一点の疑いもなく晴れ々とした決定心」であり、「往生一定を些かの不安なく百パーセント確信した」ものである。これは親鸞自身の救済体験に基づくものであり、親鸞が『教行信証』「信巻」初め信心の徳を述べたの十二嘆名の第一に「長生不死の神方」(真聖全二の四八)と述べているように現世における信心により恵まれる、死をすでに超克した大安堵の境地といえるであろう。

  1. 幸西の『玄義分抄』「別時門」に「然れば 則現身得不退の益……入正定聚というは一念を指すなり」とあるところは、親鸞の現生正定聚論に先行するものであるかのようにみえるが、「証彼無為之法楽は初地、既生彼国更無所畏長時起行は万行円備、果極菩提は仏果也」とあるように、往生して初地を得、それから、万行を修して仏果を得るのであり、親鸞の現生正定聚とは内容の異なるものである。
  2. 『蓮如上人御一代記聞書』二一三(真聖全三の五八四)に「心得たとおもふはこころえぬなり、心得ぬと思ふは心得たるなり。彌陀の御たすけあるべきことのたふとさよと思が心得たるなり。少も心得たると思ふことあるまじきことなり」とあることから、機辺の決定心(信心決定の自覚)を否定する見解があるが、これは間違いである。大派本願寺内事局蔵御一期記(実悟自筆本)に「心得たりと思ふは慢心なれば大にあさましきなり心得ましき事を心得は仏の御慈悲によりてなれは心得は凡夫の心得さる也」(真聖全三の五八三、下註)と追加文があるように、凡夫が自分の力で心得たと思ってはいけない、心得るのは仏の御慈悲によるのである、といっているのである。信心決定の自覚を否定しているのではない。 『蓮如上人御一代記聞書』二一三が機辺の決定心(信心決定の自覚)を否定するのではないことを大派の深励や本派の南渓も述べている。拙稿「親鸞浄土教における救済の理念と事実」(印仏研究五六の二、平成二十年三月刊)
  3. 本願寺派において三業惑乱で「一念覚知説」が異義とされたためか、信心決定の自覚を否定する傾向がみられる。しかし『御裁断御書』(浄土真宗聖典〈注釈版〉一四一四頁)は、獲信の年月日時の覚・不覚を論ずることを否定されたのであり、信心決定の自覚そのものを否定したのではない。拙稿「信一念と信の覚不について」(印仏研究五五の二、平成十九年三月刊)、同「親鸞浄土教にお ける救済の理念と事実」(印仏研究五六の二、平成二十年三月刊)。
  4. 真聖全一の八五四以下、同九〇三以下。
  5. 拙稿「親鸞浄土教の救済の現実的意義ー一遍教学との比較研究ー」(大阪私立短期大学協会研究報告集、第四十一集。平成十六年十月刊)。  同「親鸞と一遍の救済論」(印仏研究五三の二、平成十七年三月刊)
  6. 佐藤哲英『叡山浄土教の研究』(昭和五四年、百華苑刊)、第二部資料編一九八頁。源信の『往生要集』臨終行儀には「境界・自体・当生の三種の愛を転じて念仏三昧成就して極楽に往生することを得しめ下へ」(真聖全一の八五九)とある。
  7. 佐藤正英『歎異抄論釈』(二〇〇五、五、青土社刊)六六九頁以下。 矢田了章編『歎異抄に問う』(二〇〇七、二、永田文昌堂刊)一四頁。
  8. 拙稿「歎異抄の中心問題」(印仏研究五七の二、平成二十一年三月刊)
  9. 法然の言葉に「死生ともにわづらひなし」(法然上人行状図、法然上人伝全集一一六頁)とある。『御文章』四の十三に「法然聖人の御ことばにいはく「浄土をねがふ行人は病患をえてひとえにこれをたのしむとこそおほせられたり。しかれどもあながちに病患をよろこぶこころさらにもてをこらず。あさましき身なり。はづべし、かなしむべきもの歟」(真聖全三の四九六)とある。親鸞・蓮如は「病患をよろこぶこころ」はないと述べてはいるが、そこに死の不安、往生についての不安は全くないのである。
  10. 鈴木大拙氏のいう「生きてよし、死んでよし」(『宗教経験の事実』〈一九四三、六刊、大東出版社〉序)という世界はこのことであろう。