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『柴門玄話』について

提供: 本願力

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/820753

柴門玄話(さいもん-げんわ)』について

石泉僧叡和上は、浄土真宗の行と信を顕わすときに二つの法相があるとされた。
いわゆる行信という次第での顕わし方と、信行という次第で顕わす二つがあると云われる。
信行の次第でいう場合は、「稟受(りんじゅ)の前後」とし、行信の次第で語るときは「法相(ほっそう)表裡(ひょうり)」で云うのだとされる。稟受の稟は、上から下へうけるという意味で受と合わせて熟語して稟受(りんじゅ)という。(稟をほんと読む読み方もあるようである)
「稟受の前後」とは、信と行を受けた前後で語る。いわゆる信心正因 称名報恩という場合は信行の次第である。稟受の前後であるから時剋(時間)が立つ。
「法相の表裡」とは、行信の次第で顕わす場合で、行は口称で、外に表に顕れているから表とし、心念は内に潜むものだから(うち)というのであるとされる。この場合は行信の次第だが、時は語らない。この例として御消息の七通目を挙げられている。

「行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。」(p.749)

この場合は表の行より裡への信というのであるから、「法相の表裡」での顕わし方だといわれるのである。
そして、龍樹菩薩が『十住毘婆沙論』で「みな名を称し憶念すべし。阿弥陀仏の本願はかくのごとし」(七祖p.15) と「法相の表裡」で示されて已来(このかた)、七高僧を通じて御開山の「智慧の念仏うることは 法蔵願力のなせるなり 信心の智慧なかりせば いかでか涅槃をさとらまし」(p.606)まで伝承されてきたのが、「法相の表裡」という法相であるというのである。
この「法相の表裡」という主張は曲解され、当時の信因称報説を半ばドグマ化していた僧分から称名正因の異安心として強烈な攻撃を受けたと、石泉和上は『柴門玄話』に記しておられる。
御開山は『尊号真像銘文』に、行文類で引文されておられる法然聖人の『選択集』の標宗の語を、

「南無阿弥陀仏 往生之業念仏為本」といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。(p.665)

と「安養浄土の往生の正因は念仏を本とす」とされておられるので何の問題もないと思ふのだが、当時の封建社会にあっては困難な主張であったのだろう。
さて『柴門玄話』では、信の体は名号であるとして以下のように記しておられる。──ほぼ原文であるが漢字を新字体に、カタカナを平仮名に直し漢文は適宜読下しした。

三信釈に「至心則是至徳尊号為其体(至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とす)」(p.231)と云がごとし。かれ初(はじめの)心を釈して後の二心を彰す。三心則一なれば至心の体尊号なるときは信楽欲生もその体別なく、たヽ一尊号なり。
いはふる至心為体信楽為体(至心の体となし信楽の体となす)はこのこヽろなり。その尊号とは大行なり。大行露現の名願力をもて信心の体を顕わす。
第二巻(行文類)に「念仏則是 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏即是正念(念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なり)」(p.146)とあるはこのこヽろなり。思てみつべし。
それ信心といふは心中に快く名号を受けられたるなり。名号の外はすべて雑行雑修自力。その雑行雑修自力の心を捨離して「以斯義故必得往生(この義をもつてのゆゑにかならず往生を得)」(p169 で引文の善導大師の六字約の文)とある名号の信知せられたるを快く受けたりとす。
されば信心といふは たヽこれ名号を内心に獲得したるなり。中興(蓮如)上人ちかく宝章(御文章)にのたまはく

信心といふはいかやうなることぞといへば、ただ南無阿弥陀仏なり。この南無阿弥陀仏の六つの字のこころをくはしくしりたるが、すなはち他力信心のすがたなり。(3-2)

又云く

南無阿弥陀仏といふは、すなはちこれ念仏行者の安心の体なり (4-6)

又云

当流の信心決定すといふ体は、すなはち南無阿弥陀仏の六字のすがたとこころうべきなり。(4-8)

又云

一流安心の体といふ事。南無阿弥陀仏の六字のすがたなりとしるべし。(4-4)

又云

当流の安心の一義といふは、ただ南無阿弥陀仏の六字のこころなり (5-9)

とも又

他力の信心をうるといふも、これしかしながら南無阿弥陀仏の六字のこころなり。(5-10)

されば安心といふも、信心といふも、この名号の六字のこころをよくよくこころうるものを、他力の大信心をえたるひととはなづけたり。(5-13)

されば南無阿弥陀仏と申す体は、われらが他力の信心をえたるすがたなり。この信心といふは、この南無阿弥陀仏のいはれをあらはせるすがたなりとこころうべきなり。(5-22)
ともいへり。

ここで思われるのが『御一代記聞書』にある、念声是一(ねんしょう-ぜいち)の問答である。念声是一とは、『選択集本願念仏集』(七祖p.212)で、『無量寿経』には「十念」とあり、善導大師の釈には「十声」とあるのはどういう意味か、という問答を出し「念・声是一なり」と、念と声は同じであるとされたのに依る。以下は『御一代記聞書』にある問いと蓮如上人の答えである

一 念声是一といふことしらずと申し候ふとき、仰せに、おもひ内にあればいろ外にあらはるるとあり。されば信をえたる体はすなはち南無阿弥陀仏なり。とこころうれば、口も心もひとつなり。(p.1232)

法然聖人は、念と声とは表現の違いであると言われていたのだが、蓮如上人は「おもひ内にあればいろ外にあらはる」と、内にある名号が外に称名として現れるのが念声是一であるとされておられる。これを思いつつ「法相の表裡」の観点で前記の『御文章』の文を味わうと、『御文章』を拝読する時に称名報恩と違う新しい面が見えてくるようである。
ともあれ御開山の仰るとおり「真実の信心はかならず名号を具す」(p.245)であった。

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