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『現代の教学問題――派外からの論議について――』

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『現代の教学問題――派外からの論議について――』

(宗義問題研究会)所収の稲城選恵「二種深信について」

一、浄土真宗親鸞会(高森親鸞会)の主張

(1)『白道燃ゆ』-高森顕徹著-によると、

 弥陀の五劫思准の願をよくよく案ずれば偏に我一人のためであったの大歓喜はこの地獄の釜底でなければ体験できない。(一五〇頁)

(2)『顕正』-高森顕徹著-にも、

 すべてにゆき詰られた聖人が、吉水の法然上人にめぐりあわれ、「いづれの行も及び難ければ、とても地獄は一定すみかぞかし」と出離の縁が絶えはてたと同時に、弥陀五劫思惟の願をよくよて案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなり」と知らされて、たちどころに他力摂生の旨趣を受得し、凡夫直入の信心を決定なされたのだ……(八四-八五頁)

(3)『こんなことが知りたい』①-高森顕徹著-

 そして聞けば聞くだけ、求めれば求めるだけ、聞ききらない必堕無間の自己に驚き、火の中つきぬけても、ここ一つはと思わずにおれなくなるのです。

 そして自力まに合わなかったと、助かる望みが断ち切られて、無間のドン底へ叩きおとされた時、十劫以来、呼び続けて下されていた阿弥陀の み声が、五臓六腑をつらぬくのです。

 「ただのただもいらんただであったか、他力とはこんな楽な世界とは知らなんだ知らなんだ」とおどり上るのです。自力一杯求めたことのないものに自力無効と知らされる筈がありません。どうにもなれない自分だと頭で合点しているのと、自力まに合わなかったと知らされて地獄へ叩きおとされたのとは天地の違いであります。(一一六~七頁)

次に親鸞会の信者の例からのものをみると、

(4)『絶対の幸福』(上)-谷口春子書翰集-

 鳴呼、地獄より他に行く処のなき我身であったと地獄へ堕ち切った処まで行かなくては助けられた味合いは判りません。


(5)『絶対の幸福』(下)-同右-
 「アア、自分のような者は絶対助からん」と、もうこれ以上、堕ちるところがないというところまで堕ちてゆきました。その地獄の底で生きた阿弥陀仏とお値いすることができたのです。」(一〇四頁)

また、

 極重の悪人、自己とは何であるかを、善知識先生より真剣必死に聴聞を重ねさせて預けば、法の御力によって自己が知らされ、地獄一定住み家と堕ち切らせて項き、その時、始めて魂に御六字の光が届いて下さるのです。

とある。
これらの文によると、二種深信の機の深信と罪悪観との混同が明らかに知られる。

二、二種深信ということ

 二種深信という言葉は存覚上人の「三心三信同一之事」[1] にはじめて出づるもので、内容は善導大師の『散善義』ならびに『往生礼讃』に示されている。特に『散善義』では『観経』三心釈中の深心の釈に、「亦二種あり、一つには決定して深信、……二つには決定して深信」とあるから二種深信という立名をされたものである。今、『散善義』の疏文を出すと、

二つには深心、深心と言ふは即ちこれ深信の心なり。亦二種あり。 一には決定して深く自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より己来、常に没し、常に流転して出離の縁あることなしと信ず。二には決定して深く彼の阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して疑なく、慮なく、彼の願力に乗じて定んで往生を得と信ず。(『真聖全』一-五三四)

とある。更に『往生礼讃』前序の安心の内容を明かす三心釈の深心釈にも、

二つには深心、即ちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。今、弥陀の本弘誓願は名号を称すること、下至十声一声等に及ぶまで、定んで往生を得しむと信知して乃し一念に至るまで疑心あることなし。故に深心と名く。(『真聖全』一-六四九)

とある。『散善義』には「深信の心」とあるのが、『礼讃』では「真実の信心」とあり、「一者、二者」が略されている。

 更に宗祖の『愚禿鈔』の釈によると、前に二種深信の『散善義』の文を出され、次に、

今この深信は他力至極の金剛心、一乗無上の真実信海なり。

とあり、一他力の信心の内容を二種に開いたものであることが知られる。それ故、法の深信釈では「摂受衆生」を「衆生を拝受したまふ」と訓まれていることは注意すべきである。

 二種深信の二種は、一つには機の深信であり、二つには法の深信をいう。機の深信-信機-は性得の機の内容をあらわすもので、法の深信-信法-は願力の法をいうのである。この機法の真実を信知することである。しかるにこの二種は一具として真実の信心の内容を開いたものである。

 元来、善導大師の上では諸師の『観経疏』の誤解に対し、「深く本願に籍りて真宗を興す」(『浄土文類聚鈔』)とあるごとく、仏の本願によって解釈されたのである。それ故、『観経』の深心を本願の「信楽」、成就文の「信心歓喜」の信に換えられ、深信とされているのである。しかも深信の深は「化身土巻」によると、

是を以て大経には信楽と言へり。如来の誓願疑蓋雑ることなきが故に信と言へるなり。観経には深心と説けり。諸機の浅信に対せるが故に深と言へるなり。‥‥‥‥復一心に就いて深あり、浅あり。深とは利他真実の心是なり。
浅とは定散自利の心これなり。

とあり、深信の深は他力をあらわすものといわれる。それ故、二種深信の深信は他力の信心を意味し、『往生礼讃』でも「真実の信心」といわれる所以である。この他力の信心に機法別なる二種の信心が存する筈はあり得ない。

 本来、一他力の信心の内容を二種に開いたので、機法の異なれる深信が一つになったのではない。それ故、『六要鈔』第三にも、

深等と言ふは能信の相を明す。亦有等とは所信の事を顕す。これ則ち機法二種の信心なり。

とあり、深信は能信の相を明すといわれ、「亦二種有り」という機法二種の深信は「所信の事を顕す」とある。これによると、明らかに一他力の信心の心相を二種に開いたものであることが明らかである。
この他力の信心の心相を二種に開いた理由は先哲も種々あげられているが、『六要鈔』の釈の如く、対外的には聖道門の生仏一如の理によるさとりと浄土門の立場のすくいの立場の相違を明らかにせんがためといわれる。また内に向かうと『選択集』や『和語灯』の釈の如く、信罪福心の自力疑心の虜となるものに対し、他力の信相を明らかにせんがためといわれる。即ち『選択集』三心章には、

次に深心とは謂く深信之心なり。当に知るべし。生死の家には疑を以て所止となし、涅槃の城には信を以て能入となす、故に今、二種の信心を建立して九品の往生を決定するなり。

とあり、上六品の善機の信海(己の功徳をあてにする)の心に固執するものには法の深信を開き、下三品の悪機の信罪(己の罪をおそれる)の心に固執するものには機の深信を開いて、「有善無善を論ぜず、自らの功をからず、、出離偏えに他力にあることを明かす」と、他力平等の信なることを明らかにされている。

また『和語灯録』巻一にも、

これは善導和尚は未来の衆生のこのうたがひをおこさん事をかへりみて、この二種の信心をあげて、われらがごとき煩悩をも断ぜず、罪悪をもつくれる凡夫なりとも、ふかく弥陀の本願を信じて念仏すれば、十声一声にいたるまで決定して往生するむねをば釈し給へる也。
かくだに釈し給はざらましかば、われらが往生は不定にぞおぼへまし。あやうくおぼゆるにつけても、この釈のことに心にそみておぼへはんべる也。さればこの義を心えわかぬ人にこそあるめれ。ほとけの本願をばうたがはねども、わが心のわ去ければ往生はかなはじと申しあひたるが、やがて本願をうたがふにて侍る也。(『聖教全』四-五七八~九)

 また、同巻二にも、

はじめにわが身の程を信じて、のちにはほとけのちかひを信ずる也。のちの信心のために、はじめの信をばあぐる也。
そのゆへは住生をねがはんもろもろの人、弥陀の本願の念仏を申しながら、わが身、貪欲瞋恚の煩悩をもおこし、十悪破戒の罪悪をもつくるにおそれて、みだりにわが身をかろしめて、かえりてほとけの本願をうたがふ。善導はかねてこのうたがひをかがみて、二つの信心のやうをあげて、われらがごときの煩悩をもおこし、罪をもつくる凡夫なりとも、ふかく弥陀の本願をあふぎて念仏すれば‥‥

                 (『聖教全』四-六一四)

とあり、信罪福心の虜となる自力疑心の機に対し、二種の信心を開かれたことが明らかに知られる。

 元来、他力の信心はその体は名号法そのものである。名号の内容は「信巻」における成就文の釈の如く「仏願の生起本末」である。この仏願の「生起」を聞いたのが機の深信の内容であり、また仏願の「本末」を聞いたのが法の深信の内容といわれる。この仏願の生起本末の内容を自らの側の仕事とするのが信罪福心の自力心である。それ故、一深心を二種に開かれた理由はこの信罪福心を否定せんがためといわれる。即ち仏願の生起を聞くことによって信罪の心が否定され、仏願の本末を聞くことによって信福の自力心が否定されるのである。

 特に機の深信と罪悪観とを混同する人は、この仏願の生起の機の深信を信罪の心によってとらえているのである。この仏願の生起の内容と機の深信の関連は『歎異抄』後序の文によっても明らかに知られる。即ち、

聖人のつねの仰せには、弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずればひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそれほどの業をもちける身にてありけるをたすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよと、御述懐候ひしことをいままた案ずるに、善導の「自身は現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねにしづみ、つねに流転して、出離の縁あることなき身としれ」といふ金言にすこしもたがはせおはしまさず。……

                      (『真聖全』二-七九二)

とある。この弥陀の五劫思惟の願は親鸞一人を除いては成立しない。しかも蓮如本の『歎異抄』だけは「そくばくの業」が「それほどの業」となっている。このそれほどは勿論前の句の「五劫思惟の願」をうけている。また次の機の深信の内容に接続していることが考えられる。『維摩経』問疾品「衆生病むが故に菩薩病む」とあるように、「弥陀五劫思惟の願」はそのまま「無有出離之縁」の機の深信の衆生の病によることが明らかに知られる。この場合、機の深信の内容はそのまま仏願の上の問題となっている。ここに仏願の生起の存在理由があるのである。『歎異抄』第九章にも、

仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、……(『真聖全』二―七七~八)

とあるように、煩悩具足の身であることは仏の側にかねて問題にされた内容である。更に『論註』の上でみると、総説分の三厳二十九種の総相といわれる。

清浄功徳の釈には、

仏本この荘厳清浄功徳を起し玉ふ所以は三界はこれ虚偽の相、これ輪転の相、これ无窮の相にして蚇蠖の循環するが如く、蚕繭の自縛するが如し。
哀れなる哉、衆生この三界顛倒の不浄に締るを見そなはし、衆生を不虚偽の処に、不輪転の処に、不无窮処に置て畢竟安楽大清浄処を得しめんと欲めす。(『真聖全』一-二八五)

とあり、虚偽の相、輪転の相、無窮の相は正しく二種深信の機の深信の内容と同義である。しかも三厳二十九種の釈の初めには等しく「仏本」とあり、生起本末があげられている。この「本」は私が問題にする以前を意味する。それ故、本は宿とも訳されている。この私の問題にするに先行して、仏の側に既に問題にされているのである。

 それ故、機の深信の内容そのものは自らが問題にした自己でなく、既に仏の側から問題にされた私そのものの内容であることが明らかに知られる。

 特に善導教学の根底なるものは機根論にある。
諸師が韋提希を権人とみるに対し、貪瞋具足の凡夫とみる。しかも顛倒倒見の凡夫といわれる。それ故、華座観の立撮即行の説明にある如く、

六賊常に随ひて、三悪の火抗臨々として入りなんと欲す。
                     (『真聖全』一-五一四)

とある火急に臨む衆生は「詐り親しみて笑を含む」とある顛倒倒見の凡夫である。ここに生起本末すべて仏願の内容とならざるを得ない理由が存するのである。この生起本末の仏願の内容を自らの仕事とするのが信罪福心である。

 故に信罪の心には信機を、信福の心に固執するものには信法を開き、疑心自力心を否定せんがために二種を開かれたのである。

 それ故、機の探信の内容は仏の側から見られた自己そのものの内容であるから、おちるものが、おちるそののまま、おちる心配は無用となる。ゆえに信機は即捨機であるといわれる。しかるに罪悪観は自らがおちる自己を見いだすので、自らが問題にした自己である。ここにはおちることの自覚は、そのまま救いを求める要求が、背後に手を出していることに注意しなければならない。信罪と信機とは全く質的に異なるのである。地獄一定といわれる『歎異抄』の自己の内容は、自らが問題にするに先行して、既に仏願の上に問題にされている自己そのものである。そこには地獄一定のそのまま往生一定である。罪悪観と機の深信とは、自力と他力の根本的相違がある。

 このような機の深信と罪悪観との混同は、二種一具の、一具の内容の誤解から生ずるものである。二種一具は一他力の信心の内容を二種に開いたものであるが、機法各別の深信が一つになったのではない。多くの異解者は、全く相反するものの機法二種が一つになるように解釈し、あるいは機の深信が前で、法の深信が後のように考えるところから間違いを生ずるのである。

三 親鸞会の問題点

 高森氏の問題となる根底は二種深信の解釈の誤解より生ずるものである。特に機の深信と罪悪観との混同である、既述の如く、「弥陀の五劫思惟の願が我一人のためであったということは地獄の釜底でなければ体験できない」とあり、「助かる望みが断ち切られで無間のどん底にたたきおとされた時、阿弥陀仏の招喚の勅命が聞こえる」といい、「地獄へ堕ち切った処まで行かなくては助けられた味合いは判りません」とあり、「地獄一定住み家と堕ちきらせて頂き、その時はじめて魂に御六字の光がとどいて下さる」とある。いずれも自らが絶対に「救われない存在」であるという自覚を前提にしなければ阿弥陀仏の救いは成立しない。このような罪悪観を救いの前提とし条件とする人は、必ず求道、三定死、信決定、体験、大歓喜等と入信の順序が定式化している。信一念の覚不を強調せざるを得ない理由も、二種深信の誤解より生ずるのである。まず求道の前提として、地獄におちるという恐怖心をあおる事から始まるわけである。

 勿論、後生の一大事を問題にしない限り、救いの法に遇う御縁は恵まれない。現代人の如く、この問題から背を向けているものには法義に通ずる門は開かれない。しかし、この問題はすべての人に共通するものであるが、私一人の問題である。それは人間であること、生きていることそのことの問題である。しかも火急な問題で明日に譲ることが出来得ない、「今ここ」にある人間存在の根底に横たわっている問題である。蓮師の「仏法には明日と申すことあるまじく侯」とある所以である。この問題の前には地上のすべての価値は否定され、虚無の深淵に立たされる。ここに全存在をあげての求道がはじまる。外に向いた眼が一度内に向かうと、当為と現実、理想と現実は恒に背を向けている。罪悪の自覚は内に向かった時、はじめて問題となる。良心がめざめるからである。倫理学者のいう道徳的良心の覚醒は、逆に背を向ける罪障の自覚となる。良心の活動を無限に高めると罪障の自覚も正比例して無限に深化し、無限の暗黒の世界に堕ち入る。その極限を一念覚知者等は善導大師の二河譬の「ゆくも死、かえるも死、とどまるも死」という三定死といわれ、キュルケゴールは絶望といっている。

 真剣に求める者にのみこの自己に遭遇する。一歩上昇せんとすればより深く無底の深淵に堕ちこんでいく。この絶対に救われ難い存在にかけられたのが弥陀の本願であり、名号法であると聞かされた時、誰しも歓喜の感激に酔いしびれないものがいるであろうか。罪悪観はこのように道徳的良心の覚醒によって展開するのである。よく知識人の言葉に、人間の限界の発見によって宗教の世界は開かれるといわれるのも、このような立場において理解されるであろう。しかし、この場合いかに深刻に自らの罪障を悩んでも人間理性を場としているのであるのである。

 元来、悪の自覚は善を要求するのである。絶対悪の自覚は絶対善の要求なくしては成立しない。救われたい要求と救われない自らの悩みは永劫に表裏関係の上に立つ。生きんとする意欲が燃焼するほど、自ら沈んでいかねばならない立場はそのまま放置できない。

 この自己矛盾はそのまま裏面にかくされた信罪福の自力心が絶対者にのびているのである。善本徳本の名号の功徳に目をつける。悪の自覚、罪障の深き疵を癒すものは善本徳本の絶対善以外にはないからである。絶対悪は絶対者によって満たされ、不完全の自覚は完全の要求を必然ならしめる。この絶対善である名号の発見は実に表現し難い喜悦をもつことであろう。一般に欲しいものが与えられると誰しも喜びをもつ。たすかりたいものにたすかる法が与えられると誰しも喜ばざるを得ない。むしろ一般の救いの概念の中にはこのような対応的呼応関係において考えられている。

 しかし、このような罪悪観は道徳的理性を場とするもので、自らによって問題にされている罪悪であり、第十八願の宗教的立場とは次元を異にするのである。

 宗教的罪悪観は、道徳や倫理的立場の人が人に対するに反し、人間が絶対者に対することによって生起するのである。そこには見る側の自己から見られた側の自己に転換するのである。自力無功ということも、みずからによって知ることはみずからの眼によって眼をみんとするがごとくである。というのは無功を問題にする自己が残され、救いを求める自己がかくされているからである。自力無功とはこの見られた側の自己の内容をいうのである。自らが問題にするに先行して「仏かねてしろしめして煩悩具足の凡夫」といわれる仏願の生起の自己の内容である。仏願の上で既にみられた側の自己は、救われないものが救われないもののままで、自らのおののきや不安もなく、救いを求める要求もあり得ない。そこには信罪福心は否定される。前者の罪悪観は自らの信罪福心の虜となっているのに反し、見られた側の罪悪観は信罪福心の否定を場としている。全く質的な相違があるのである。機の深信とは既述の如く、仏願の生起本末の生起の内容であるから一般に自らを問題としている罪悪観の否定である。

 それ故、一般に考えられる罪悪観と機の深信との混同によって正しく信罪福心の虜となり、救いも自らの信罪福心の要求に応ずるものとなる。ここに二十願的立場に通ずることとなる。既述の如く、『教行信証』一部六巻は十八願と二十願の立場の真仮廃立にその中心が考えられる。二十願は折角名号法を聞きながら信罪福心の自力心の虜となるため、真実弘願の法に遇うことが出来ない聞損の機である。それ故、「真門釈」の結歎の文には、

悲しき哉、垢障の凡愚、無際より已来、助正間雑し、定散心雑するが故に、出離その期なし、自ら流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。良に傷嗟す可し、深く悲歎すべし。
凡そ大小聖人、一切の善人、本願の嘉号を以て、己が善根とするが故に信を生ずること能はず、仏智を了らず。彼の因を建立することを了知すること能はざる故に報土に入ることなきなり。(『真聖全』二-一六五)

とあり、助正間雑の心や定散心の自力心にとらわれている限り、永劫に仏願力に遇うことは不可能であると厳しく誡められている。

 宗祖の生涯かけて最も問題にされているのは十八願と二十願の真仮の廃立にある。それは既述の如く、『教行信証』一部六巻のみならず、和讃をはじめ、他の著作の上にもみられるのである。二十願も「聞我名号」と願文にあり、本願の成就丈にも「聞其名号」とある。双方ともに名号を所聞の体とし、所信の体とするのである。しかるに二十願は折角名号法を聞きながら信罪福心の自力疑心にとらわれているから真実の法にあうことが出来ないのである。それ故、浄土真宗で最も問題となるのは自力疑心である。蓮師の宗名の御文章にもあるように、浄土真宗の「真」の一字を加えたことは自力疑心を認めるか否かにあるといわれる。自力心を認める限り、真宗とはいわれないのである。この自力心はみずからによっては征服することは不可能である。他力の法によってのみ否定されるのである。しかも自らが求めるに先行して既に与えられている名号法を聞信するから自力心を否定されざるを得ないのである。

 この順序が逆になり、自らが先行すると、折角、生涯をかけて開法しても永遠に本願にあうことは出来ない。真剣な聞法者ほど、この順序が逆になっている場合が多いのである。ここに聞法に苦労しなければならないのである。聞くこと以外に本願に遇う道は開かれていないが、聞いて信じなければならぬと己の側に力をいれるほど、逆に救いから遠ざかるのである。かつての妙好人の跡をみると明らかである。それは否定媒介としては重要な意味をもっているが、救いには直接しないのである。ここに聞法の厳しさがあるのである。

 浄土真宗の第一前提は本願成就である。「信巻」末の横超の釈に、

横超とは即ち願成就一実円満の真教、真宗是なり。(『聖教全』二-七三)

とあり、本願成就を前提とするから平生業成の教義が成立するのである。それは救いの法がこちらが求めるに先行して、既に与えられているのである。それ故、聞信と同時に即得往生の益をうるのである。『教行信証』の「教巻」の初めの文は二相四法から始まっている。このこともまさしくかかる立場を明らかにしたものである。

 この自らが求めるに先行して既に与えられている法を、逆に自らが先行するのが二十願、真門の機である。それは逆に救いの法をはねつけることとなるのである。それ故、二十願から十八願へは転入といわれる「転」の言葉が用いられている。直入や趣入の直通でなく、否定媒介を意味するものである。

 親鸞会の立場は折角聞法に力をいれながら、順序が逆になるから、信心獲不に力が入り、信罪福心の虜となっているのである。