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わかりやすい宗義問答

提供: 本願力

2010年10月10日 (日) 12:41時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版 ((一) 真宗の信心とは)

わかりやすい宗義問答

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(第2集)

宗義研究の会

わかりやすい宗義問答

(第2集)

宗義研究の会

(一) 真宗の信心とは

問. どのような宗教においても「信心」は大切なこととされていますが、浄土真宗の信心は、他の教えでいわれるような信心とちがうのでしょうか。

答. 信心という言葉は同じでも、その意味内容は一つであるとは申せません。なぜかといいますと、それは信ずる法がちがうからであります。


問. どのように信心の意味内容がちがうのですか。

答. 一くちに宗教といいましてもいろんな教えがありますから、それらの教えでいわれる信心の意味を一々とりあげて論ずることはできません。一応てもとにある辞書で「信心」の項をひらいてみますと、「神仏を信仰して祈念すること」と説明されてあります。これが普通にいわれる信心の意味であると考えてよいでしょう。  ところが、真宗の信心は阿弥陀如来の名号のいわれを聞いて、その救いの力にお任せすることであります。つまり、わたくしが仏に対して祈念するのではなくて、仏の尊い願いのお心がわたくしに届いて信心となってくださるのです。 「他力の信心」とか「御廻向の信心」とかいわれるのがその意味であります。したがって、〈信心する〉というような表現をしないで、「ご信心をいただく」というふうに申すのであります。


問. 真宗の信心が他の教えでいわれる信心と異なることはわかりました。しかし、「他力の信心」とはいわれましても、本当にこれをいただくためには命がけの真剣な聞法求道がなければならぬと思います。そういう意味で、単に頭で理解することは易いかも知れないけれども、わが身にかけてご信心を味わうということは至難のことだと思いますが、いかがでしょうか。

答. おっしゃるとおり、聞法はあくまで真剣でなければなりません。けれども、命がけの苦労をしなければご信心はいただけないというふうに決めてかかることは、他力真宗のご法義を誤るおそれがありますから、気をつけなければなりません。


問. でも、『大無量寿経』には、「もしこの経を聞きて信楽受持することは、難中の難、この難にすぎたるはなし」と説かれ、親鸞聖人も「真実の信楽まことにうること難し」とおっしゃっているではありませんか。

答. それは聖人が『正信偈』に「邪険驕慢の悪衆生、信楽受持すること甚だもって難し」とおっしゃるように、如来より廻向される純粋な他力の信心ですから、自力の心をまじえて得ようとするならば、これほどむつかしい信心はないという意味であります。


問. 親鸞聖人も比叡山で二十年間、血みどろになって求めぬかれ、三願転入してやっと他力の信に到達せられたのですから、わたくしたちもやはり祖師の歩まれたように、三願転入の経路をたどって、命がけで求めぬくところに、はじめて第十八願の他力の世界がひらけてくると思うのですが。

答. 三願転入は、自力を捨てて他力に帰入すべき旨をわたくしたちにお示しくださったのです。それを、わたくしたちも聖人と同じように、第十九願の諸行を修め、それから第二十願の自力念仏を励むというふうにせねばならないと考えるならば、かえって聖人のご苦労を無にし、聖人のお勧めにしたがわないことになりましょう。


問. わたくしがいいたいのは、なにも自力から他力へと順次にたどらねばならぬというのではありません。ただ第十八願の他力のお救いを客観的に聞いているだけでは駄目だと申すのであります。現にこのわたくしが出る息は入るを待たず、ただいまも無常の風にさそわれたならば永劫に苦界に沈まねばなりません。わたくしのこの現実が鬼であり、地獄である、と徹底して内観してゆくところに、はじめて泉が湧きでるように、「われよく汝を救う」という如来のお慈悲にあわせていただくことができると思うのですが。

答. 他力のお救いを客観的に聞いているだけでは駄目だといわれることは、その通りにちがいあかません。しかし、お慈悲にあうためには、まず内観によって自己の罪悪を徹底的に掘りさげねばならぬといわれるならば、それは正しくありません。


問. でも、風呂に入るとき、着物をきたままで入る人がないように、お慈悲を聞かせていただくのに、心に着物をきて飾りたてていては、ご信心の味はいつまでたっても得られないのではありますまいか。つけてもらった教育も、おしえてもらった道徳も、ききおぼえた聴聞も、そのほかわたしの心を飾るあらゆるものをすっかり脱ぎすてたとき、いったい何が残るでしょう。お救いは如来のおはからいだと仰せられるのですから、如来にお任せしておけばよいので、わたくしたちは一切の飾りを捨てて、罪悪深重の愚か者である、と身を投げだすことによって、はじめて如来の真実の救いに遇えるのだと受けとめるのではいけないのでしょうか。

答. あなたは風呂に入るときのたとえを出して、わたくしの飾りをすっかり捨てて、如来の前に身を投げださねばならぬといわれますが、その飾りを捨てて身を投げだすことが、聞法の前提条件となり、わたくしの方からはからいをとってゆかねばならないと考えるならば、他力の信心とはちがうことになりましょう。 はからい多きわたくしが、聞法することによって、往生浄土についてのはからいがとれ、仏の仰せに信順する心がひらけるのであります。真宗の信心のすがたは、機の深信と法の深信との二種に開いて明らかにされております。これを古来、二種深信と申します。この二種の深信を別々のように考えたり、機の深信が法の深信の前提であるかのように理解するのは誤りであります。

(二) 二種深信の意味

問. ソクラテスも「汝自身を知れ」といっています。親鸞聖人は「煩悩具足と信知して、本願力に乗ずれば……」とおおせられ、蓮如上人も「わがみはわろきいたずらものなりとおもいつめて、ふかく如来に帰入するこころをもつぺし」とおっしゃっています。「地獄一定」とわが身を見限ってこそ、はじめてそこに「かかる者が弥陀にたすけられる」という法の喜びが与えられるものと思います。これが善導大師のおっしゃる「二種深信」の領解であると思うのですが、いかがでしょう。

答. たくさんの文を引いて二種深信の解釈を述べられましたが、あなたは罪悪観と機の深信とを混同していられるようです。それでは深信ではなしに、自力の浅信になりましょう。罪悪観が獲信のための必然的な過程であるとはいえません。無常観より入信する人もありましょう。また人生の苦悩に泣いてそれから聞法する人もありましょう。善導大師の二種深信は、名号のいわれを聞いて疑いのとれた心相を、機と法との二面から示されましたので、機の深信から法の深信に入るとか、機の深信が法の深信の前提条件であるといったものではありません。


問. それでは、二種深信とはどのような意味なのか、説明してください。

答. 善導大師の『散善義』に、『観経』の三心についてくわしく解釈されてありますが、その深心の解釈に、   深心というはすなわちこれ深く信ずるの心なり。また二種あり。   一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、噴劫よりこのかた常に没し常に流転して、出離の縁あることなしと信ず。   二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受したもう。疑いなく慮りなくかの願力に乗じて、定んで往生をうと信ず。

と示されてあります。はじめの深信は、救われるわたくし、すなわち機についてあらわされますから、「機の深信」とか「信機」とかいわれます。あとの深信は、救う如来の法について示されますから、「法の深信」とか「信法」とかいわれます。この二種は名号のいわれをお聞かせいただいて疑いの晴れた心相、すなわちわたくしのはからい心がとれて如来のお救いにうちまかせたすがたをあらわされるのです。


問. 「一つには」「二つには」と分けて、信機と信法とを示されているのですから、わたくしは地獄ゆきであると知らせてもらうことと、仏はそのようなわたくしをお救いくださるのであると知らせてもらうことと、明らかに二種の思いをおこすのではありませんか。

答. 二種にひらいてお示しくださってありますけれども、名号のいわれを聞いておこさしめられた他力信心のすがたを機と法との両面からあらわされたので、二種は別々の思いではありません。


問. 一つの信心のすがたであるならば、なぜ二種というのですか。

答. 真宗の信心は、わたくしの力はまにあわないと知らせていただいて、如来の願力におまかせすることであります。そこでこの信心を機のがわからいえば、自力がまにあわない(自力無功)と知って、わがはからいがすっかりとれることであり、法のがわについていえば、まったく仏にうちまかせ、仏にもたれきったということになります。わがはからいがすっかりとれることが、そのまま仏にすっかりうちまかせたことであり、仏にうちまかせたことが、そのままわがはからいのとれたことであって、この二種は別箇の心相ではありません。このことは、二種深信の一々についてさらによくうかがえば、おわかりいただけるでしょう。

(三) 機の深信について

問. 機の深信の意味をお示しください。

答. 機の深信のご文は前にあげたとおりで、これは救われるわたくしのありのままのすがた、すなわち機の真実(機実)を知らされることであります。「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」というのはわたくしの現在のすがたです。この罪悪は単に世間の法律や倫理などでいう悪だけではなく、如来の光によって照らし出されたわたくしの本性であります。うわべは善人らしくよそおい、人前ではりっばなことを言っていても、所詮は我利我欲にまどう罪深い凡夫であるといわれるのです。「噴劫よりこのかた」等とは無限の過去からのすがたです。この世に人と生まれてから罪を造って迷うているだけではなくて、始めなき大昔から、いつも悪道に沈み迷界をさまよいつづけてきたというのであります。「出離の縁あることなし」とは、迷界を出るてがかりがないということです。これは前に示された現在と過去のすがたに対して、未来永遠にみずからの力では迷界を出ることができないわたくしである、という意味をあらわします。  そうしますと、機の深信とは、わたくしは現に罪深い迷いの凡夫であって、無限の大昔から迷いつづけ、今後も永遠に迷界を離れることのできない者である、と決定して深く信知することであります。


問. いまの「機の深信」の解釈によりますと、やはりわたくしの罪悪性を徹底的に見つめること、つまり曾無一善、唯知作悪、地獄一定の極悪人であるという自覚に徹することであると受けとれるのですが、そうではないのでしょうか。

答. 機の深信は、要するに自力無功と知らせていただくこと、つまり、迷界を出るためにはわたくしの力はまにあわないと知らせていただいて、わがはからいを離れることであります。単に、自己の罪悪を徹底的に追究するということではありません。『往生礼讃』の前序には、「深心」の意味を示して、

 二つには深心、すなわちこれ真実の信心なり。  自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして、三界に流転して火宅を出でずと信知す(信機)。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声一声等におよぶまで定んで往生をえしむと信知して、いまし一念にいたるまで疑心あることなし(信法)。

とあらわされてあります。これは『散善義』のように、「一つには」「二つには」と分けてありませんけれども、やはり第十八願の真実信心のすがたを機と法との両面から示されたものであります。『散善義』では「罪悪生死」と示されているのに対して、いまの『往生礼讃』では「善根薄少にして」と述べられてあって、『往生礼讃』の方が『散善義』よりも罪悪性の表現がゆるやかであります。けれども、わが力では迷界を出ることができないと知らせていただくという点では、両者は全く同一であります。


問. 同じ善導大師の著作でも、「善根薄少」といわれる『往生礼讃』は、『散善義』よりも前の著作で、思想的にはなお浅く、『散善義』に示された三世にわたる深刻な罪悪感こそ徹底した深い思想であると考えられないでしょうか。

答. 思想的に浅深の別があるなどと軽率にいうことは、つつしまねばなりません。善導大師の解釈によれば、『観経』の九品はすべて凡夫であって、上三品は大乗の善に遇った凡夫、中三品は小乗の善に遇った凡夫と世俗の善人、下三品は造悪の凡夫で、罪の軽重によって三品を分けられています。この善悪の凡夫が本願によって救われるのであります。ゆえに法然上人は『選択集』の第八の三心章に、いわゆる信疑決判の釈を示され、

 まさに知るべし、生死の家には疑いをもって所止とし、涅槃のみやこには信をもって能入とす。ゆえにいま二種信心を建立して、九品の往生を決定するものなり。

と述べられてあります。上品や中品の善凡夫も己の善が浄土往生にまにあわず、下品の悪凡夫もその悪が往生のさわりにならず、善悪の凡夫がすべて己のはからいを離れて願力にうちまかせる信楽一心で往生させていただくのであります。親鸞聖人は「その機は、すなわち一切善悪大小凡愚なり」と仰せられ、また「願力成就の報土には自力の心行いならねば大小聖人みなながら、如来の弘誓に乗ずなり」と讃ぜられています。凡夫も聖者もすべてこの二種深信で報土の往生が決定するのであります。 これによって、単に罪悪感が深いとか浅いとかいうことで、機の深信が徹底しているか未徹底であるかを論ずることは、誤りであると知るべきでありましょう。


問. 凡夫も聖者も善人も悪人も、本願の信心をうれば浄土に往生し、本願を疑えば往生できないということは、よくわかります。その善人も聖者も、如来の前には極重の悪人であると知らしめられて、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」と気づかせていただくのが機の深信だと思いますが、いかがでしょう。

答. 善導大師は「自身は罪悪生死の凡夫」と仰せられ、わたくしどもも罪悪生死の凡夫であることは勿論であります。しかし、菩薩・聖者といわれるような方々を罪悪生死の凡夫とはいえません。そのような聖者がたのいただかれるご信心も、われわれ罪業の凡夫のいただくご信心も、一つであります。たとい聖者善人であっても、その善根や知恵では報土往生にはまにあいません。したがって、下品下生の悪機と同じく、自力を離れて他力に乗ずるのであります。存覚聖人の『六要鈔』に二種深信の意味を示されて、 「無有」等とは、まさしく有善無善を論ぜず、自功をからず、出離ひとえに他力にあることを明かす。……自力功なきを知るによって、ひとえに仏力に帰す。 等と解釈されてあります。自力がまにあわないと知らせていただいて、他力に帰することが肝要であって、すべての者が罪悪感に徹底せねばならぬなどとはおっしゃっていません。


問. 自己の罪悪感に徹しなくて、どうして他力の法水が入りましょうか。自分こそ下品下生の悪人であって地獄ゆきであると気づかしめられて、はじめてこれをお救いくださる法がいただかれるのではないでしょうか。

答. お救いにあずかるためには、どうしても自己の罪悪感に徹しなければならぬようにお考えのようですが、ほんとうに自己の罪悪のすべてを知りつくすことができるでしょうか。この世に生をうけて今日まで、罪でないと思ってしていることが実は罪であるという場合もありましょう。まして無始よりこのかた生々世々に造ってきた罪業、また未来に造るであろうところの罪業、それらの全体は到底はかり知ることができないでありましょう。〈ほんとうに自己の罪悪感に徹した〉などと考えることは、ひとりよがりのうぬぽれではないでしょうか。あるいはまた、一時的な罪悪意識の高まりにすぎないのではないでしょうか。


問. 三世にわたる己の罪業をすべて知りつくすことはできないでしょう。けれども、現にわたくしは恐ろしい根性をかかえた極悪人であるということは、法を聞くことによって知らせていただけます。〈自分はそれほど悪人ではない〉というような不徹底な罪悪感でどうして他力のお救いがわかりましょうか。まして、〈自分にもなにがしかの善根はある〉というような考え方では到底他力に帰することはできないと思います。この点いかがでしょうか。

答. 〈自分はそれほど悪人ではない〉とか、〈自分にも善根はある〉などと思えというのではありません。わたくしは勿論罪業深重の凡夫であり、悪人であります。しかし、罪悪感に徹することがお救いの必須条件のように考えることは誤りである、というのであります。人はそれぞれ性格が異なり、環境もちがいます。内向的な人もあれば外向的な人もいます。また凡夫と聖者との別があり、凡夫の中にも善悪の不同があり、悪にも軽重があります。したがって、その罪悪感も百人百様であります。そのような罪悪感を機の深信と考えるならば、機の深信は人によって千差万別となります。それでは自力各別の信となりましょう。『御伝紗』に、

 信心のかわるともうすは自力の信によりてのことなり。すなわち智慧各別なるがゆえに信また各別なり。 と仰せられ、

  他力の信心は、善悪の凡夫ともに仏のかたよりたまわる信心なれば、源空が信心も善信房の信心も、さらにかわるべからず。ただひとつなり。

と示されています。みずからの罪業を問いつめて、身をふるわせて号泣したからといって、必ずしも機の深信が徹底したとはかぎりません。また罪深いわたしであるとお聞かせいただき、事実そのとおりであると気づかせていただいていても、いっこうに深刻な罪悪感におののくことなく、ケロリとしているからといって、その人は機の深信がない、と一概に断定することはできません。  要は自力無功と知らせていただいて如来にうちまかせた心相、これが真宗の信心であります。


問. いまのお答えの中に、「みずからの罪業を問いつめて泣いたからといって、機の深信が徹底したとはかぎらない」とか、「深刻な罪悪感におののかないからといって、機の深信がないと一概に断定はできない」といわれますが、どうしてそんなことがいえるのですか。

答. みずからの罪業に気づいて号泣したとしても、それは一時の感情の高まりであって、それだけでは本物とはいえません。時がたてば泣いたことが嘘のように平気になり、またまた三毒の煩悩に身を焼くのが凡夫ではないでしょうか。ですから、そんな一時的な感情の高まりだけで、機の深信が徹底したなどと考えることは早計であります。これは法の深信についても、同様のことがいえましょう。尊いお慈悲をお聞かせいただいて、感激にむせぶほどの喜びを味わったとしても、その感激の時に法の深信がいただけたとか、そんな経験がなければご信心をいただいたとはいえないなどと、一概にいうことはできません。  これはみずからの罪業を問いつめて泣くことがいけないとか、感激にむせぶことがいけないなどと申しているのではありません。ただそうした一時的な感動をもって獲信の確証であるかのように誤認し、そのような体験をあてにすることは、気をつけねばならないというのであります。おのれの罪に泣くもよし、また泣けなくてもよし、感激にむせぶもよし、むせぶことができなくてもよしであります。要は、自分の機ざまを眺めて、それをあてたよりにすることなく、あてたよりになってくださる如来の願力にうちまかせた心相、それが他力の信心であります。


問. 自分を罪深いとも思わず、お慈悲を有難いとも思わなくても、ご信心がいただけるといわれるのですか。

答. そのようなことを言っているのではありません。仏願の生起本末を聞いて、わが身の罪深いことを知らせていただき、このようなわたくしをお救いくださる仏の慈悲をよろこばせていただくことは、いうまでもありません。ただ、おのれの罪業を問いつめて泣くほど徹底せねばならぬとか、躍りあがるほどに喜びが満ちあふれねばならぬとか、そういう規格をつくって、それにあてはまらねば本当のご信心ではないというふうに考えることが、誤りであるというのであります。


問. 蓮如上人の御文章には、   ただわが身はつみふかきあさましきものなりとおもいとりて、かかる機までもたすけたまえるほとけは阿弥陀如来ばかりなりとしりて、  (五帖十二通) とか、   ひとしれずつみのふかきこと、上臈にも下主にもよらぬあさましき身なりとおもうべし。 (五帖十四通) 等と示されてあります。これらのご文は罪深い身であると思わねばならぬというお勧めだと思いますが、いかがでしょう。

答. 御文章の一部分だけをつかまえないで、よく全体の思召しを味わわねばなりません。五帖第十二通の御文章は、そのつぎに、   なにのようもなく、ひとすぢにこの阿弥陀ほとけの御袖に、ひしとすがりまいらするおもいをなして、 等とおっしゃってあり、五帖第十四通の御文章も、そのつぎに、   それにつきては、なにとように弥陀を信ずべきぞというに、なにのわづらひもなく、阿弥陀如来をひしとたのみまいらせて、……さて、わが身のつみふかきことをばうちすてて弥陀にまかせまいらせて、 等と示されています。そのほかに「一心一向に阿弥陀如来たすけ給えとふかく心にうたがいなく信じて、我身の罪のふかぎ事をばうちすて、仏にまかせまいらせて」(五帖四通)とか、「機をいえば十悪五逆の罪人たりとも、五障三従の女人なりとも、さらにその罪業の深重にこころをばかくべからず。ただ他力の大信心一つにて真実の極楽往生をとぐべぎものなり」(五帖十五通) 等と示されてあります。  機実(わたくしの本当のすがた)をいえば、罪業深重のいたずら者でありますが、その罪業を徹底的に問いつめねばならぬとおっしゃるのではありません。「罪のふかきことをばうちすてて」とか「罪業の深重にこころをばかくべからず」とおっしゃるのであります。罪業はどれほど深くても、それを気にかけずともよい。かかる罪深き私をたすけんという本願を起こしてこれを成就せられた阿弥陀仏の法であるから、はからい離れて弥陀にまかせよ、とお勧めくださるのであります。


問. 「なにのようもなく弥陀にまかす」については、その前に自分の罪業を徹底して知らねばならないでしょう。自己の罪業の深さに徹しなくては、本当に弥陀にまかすことはできないと思いますが。

答. あなたは、どこまでも、みずからの罪悪感の徹底ということを獲信の必須条件のように考えていられますね。罪業深重のわたくしであるということは、如来の智慧によって見通されたわたくしの本当のすがたであります。勿論、法をお聞かせいただくことによってそれが知らしめられるのでありますが、その罪業の深さに徹するとはどういうことでしょうか。何か己の罪を徹底的に問いつめて、どうにもこうにもならぬと絶望の極に達するといった体験をすることを指すのであれば、それは思い誤りであります。親鸞聖人は「無漸無愧のこの身」とおっしゃっています。〈自分は本当に罪業の深さに徹することができた〉と思うたらば、それこそ大きなうぬぽれであり驕慢でありましょう。罪深い身であると知らせていただきながら、けっこう人なみ以上の善い人間であるようなつもりでいることよ、と反省慚愧せしめられるのが、本当にご法義が聞こえたすがたではないでしょうか。


問. 善導大師の示された二河白道のたとえは、信心のすがたをあらわされたものと聞いております。あのたとえの中に、

時にあたりて惶怖すること、また言うべからず。すなわちみずから思念すらく。われいまかえらばまた死せん。とどまらばまた死せん。ゆかばまた死せん。一種として死をまぬがれず。

等と、いわゆる三定死が示されています。これは自分の煩悩悪業を知って、どうにもこうに もならぬと、心の底からおそれおののく心境だと思います。これが二種深信の機の深信にあたるのではないでしょうか。

答. 二河白道のたとえは、おっしゃるように信心のすがたをあらわされたものであります。しかし、その中に示されてある三定死を機の深信であると考えるのは、大きな誤りです。三定死は、まだ釈迦・弥陀二尊の発遣・招喚の声を聞かない前の状態であります。いいかえますと、まだお名号のおいわれが信受されていない時の行者の心相であります。だから、「惶怖すること、また言うべからず」と、おのれの罪におそれおののいているのです。二種深信の信機は二尊の遣喚のお声が聞こえた心相、いいかえますと、お慈悲が届いたところにおこる心相であります。これは、あとに、

 あおいで釈迦発遣しておしえて西方に向かわしめたもうことをこうむり、また弥陀の悲心招喚したもうによりて、いま二尊のおんこころに信順して、水火二河を顧みず、念々にわ  するることなく、かの願力の道に乗じて、

等とおっしゃってあります。この「水火二河を顧みず」というのは、己の罪に恐れおののくことではありません。前にあげた蓮如上人の御文章に、「わが身のつみのふかきことをばうちすてて」とか、「罪業の深重にこころをばかくべからず」とありましたとおり、罪はいかほど深くてもそれを心にかけることなく、はからい離れて仏願力にまかせきったすがたであります。


問. 三定死はまだ他力の信を得る以前の心相であり、二種深信の信機は如来の喚び声が届いたところに起こさしめられる心相であることは、よくわかりました。けれども、他力の信を得るについては、必ず三定死の境地を経なければならないのではないのでしょうか。

答. 二河白道のたとえでは、三定死の次に二尊の遣喚を聞いて、そして願力の道に乗るという順序で示されてありますが、入信の経路も必ずそのとおりでなければならぬと考えることは正しくないでしよう。遣喚を聞く前と聞いた後とでは、自力と他力との相違があって、それは要門と弘願とのちがいをあらわされたものと窺われるのであります。なぜならば、善導のご解釈の上に、弘願に入るためには必ず要門を経なければならぬというお示しはなく、要門を廃して弘願他力を勧められるからであります。親鸞聖人の三願転入(第十九願の諸行の法から、第二十願の自力念仏に入り、更に第十八願の他力念仏に入る)のご解釈も、すべての人がこのような経路をたどらねばならぬといわれるのではありません。方便の法を捨てて真実の法に帰すべき旨をあらわされるのであります。

(四) 法の深信について

問. つぎに、法の深信について解説して下さい。

答. 法の深信というのは、救いの法の真実(法実)を知らせていただくことであります。その文は前にかかげたとおりです。「かの阿弥陀仏の四十八願は」と申しますのは、ことばは総じて阿弥陀仏の四十八願全体をあげていられますけれども、別しては第十八願の意味であります。第十八願には、衆生に名号を信じさせ称えさせて、もし往生させることができなければ仏にならぬ、とお誓いになってあります。そのお誓いのとおりに成就されたのが阿弥陀仏でありますから、衆生に信じさせ称えさせて往生させてくださるのは、この第十八願の成就したすがたであります。四十八願はそれぞれに仏の願いが誓われてありますけれども、要は衆生を救わねばおかぬという願いのほかはありません、ですから四十八願の全体が第十八願の一つにおさまってしまうのであります。言い換えますと、第十八願をひろげたものが四十八願ということになります。そこで、今は第十八願の意味を示すのに、「四十八願は」と総じてお出しになったのであります。  「衆生を摂受して」とは、わたくしどもをお救いくださることであって、その「衆生」というのは、まえの機の深信に示された罪悪生死で迷界を出ることのできないわれわれ凡夫であります。「疑いなく慮りなく、かの願力に乗じて」等というのは、うたがいためらうことなく如来のお救いにうちまかせることであって、「かの願力」とは衆生を摂受したもう阿弥陀仏のお力であり、「乗じて」とは乗託(おまかせ)することであります。そこで法の深信とは、阿弥陀仏は必ずわたくしをお救いくださるから、わたくしのはからいを去って如来の願力におまかせして、まちがいなく往生させていただく、と明らかに信知することであります。


問. 疑いぶかいわたくしどもは、「疑いなく慮りなく」といわれましても、到底ほんとうに疑慮不安から解放されることは不可能だと思います。このような心のままで救われるのである、と考えてよろしいのでしょうか。

答. 疑慮不安と決定深信とは、ま反対であります。疑慮不安のとれたのが真実信心であります。ですから、疑いの心があるかぎりは真実信心ではありません。したがって真実報土の往生はえられません。


問. それではどのようにして「疑いなく慮りなく」という心相になることができるのでしょうか。

答. 願力をお聞かせいただいて無疑無慮の心相になるのです。衆生を救うことにおいてまちがいのない法でありますから、これを聞いたわたくしの心相も、まちがいなく救われることよと無疑無慮にならせていただけるのです。  法の深信の「無疑無慮」は、下の文をつけて、「疑いなく慮りなくかの願力に乗じて」と読むときは、願力に乗託するわたくしの信じぶりに不安がないこと、何の綾府蝉もなくおまかせできたことをあらわします。これを上の文につけて、「衆生を摂受したまうこと疑いなく慮りなし。」と読みますと、衆生を救う願力の法に不安がないこと、法のお救いにまちがいないことをあらわします。救う法が無疑無慮の法だから、これを知らせていただいた衆生の信じぶりも無疑無慮にならせていただけるのです。それが願力の聞こえたすがたであります。


問. まちがいのない救いの法を聞くといわれましても、これを聞くわたくしに智慧の眼がないのですから、どれほど確かであると思い定めても、やはり何らかの不安は残りましょう。それがわたくしども凡夫の心情ではありませんか。

答. どれほど確かであると思い定めても何らかの不安は残るというのは、わたくしの思慮分別であるかぎり、当然でありましょう。しかし真宗の信心は、わたくしの思慮分別で思い定めるものではありません。あすはよいお天気にちがいないとどれほど確信しても、それはあくまで自分の判断であって、天気そのものはあてになりませんから、ひょっとしたら雨が降るかも知れないという不安は残ります。しかし、明日は夜があけないかも知れないと心配する人はありますまい。なぜなら、時がくれば必ず夜はあけることにきまっているからであります。まちがいなく救うの法を聞かせていただきながら、なお不安が残るということは、救いの法をあるがままに受取っていないことであります。まちがうことのない確かな法を知らせていただけば、おのずから自力疑心はとれてしまいます。それがおまかせできたすがたであります。


問. まちがいのない法を聞いてすっかりおまかせするか、おまかせしないかは、ぎりぎりのところでわたくしの宗教的決断であるといえましょうか。

答. その宗教的決断ということが、やはりわたくしの思慮分別でありましょう。口では「まちがいのない法を聞いて」といわれますが、ひょっとしたらという不安が残っているから、決断をせねばならないのです。そのような決断は他力の信心とは申せません。


問. 要するに、信仰はわたくしの知識の延長線上にあるのではなく、そこには飛躍がある。知識を越えたところに信仰があるということでしょう。信仰は一種の「かけ」(賭)であって、本願を信じて救われるか救われないか、そんなことはわたくしにはわからない。だが、自分は本願を信じて救われるという方にかけるのである。こう理解してよいでしょうか。

答. それはたいへんな誤りであります。信仰はたしかに単なる知識の延長ではありません。けれども、あなたがいまいわれるような「かけ」ではありません。はっきりと信知させていただくのであります。


問. でも、『歎異抄』の第二節に、

 念仏はまことに浄土に生まるるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるたり。たとい法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。

等と示されてあります。これは〈往生できるかどうか知らないけれども、自分は法然のいうことを信ずる方に賭ける、それでもし地獄におちても悔いはない。どうせ地獄ゆきの身なのだから〉という意味にとれます。それが「疑いなく慮りなくかの願力に乗じた」心持ちではないでしょうか。

答. 『歎異抄』のその部分だけ読みますと、あるいはあなたの考えるようにも見えましょう。しかしよく全体の意味を考えて、何を言おうとされているのかを、あやまりなく受けとらねばなりません。いったい、どのような相手に対して、どのような問題について、どのような意図で聖人がそういわれるのであるか。その背景を心得てうかがう必要があります。ここでくわしく解説することはさしひかえますが、要を申しますと、「総じてもって存知せざるなり」といわれるのは、往生できるかどうかわからないという不安を述べられたのではありません。人に言いまどわされて、念仏往生について不審をいだいたお同行がたずねてきたのに対し、聖人はそのようなことは如来のしろしめすところであって、わたしの関知するところでない、学問沙汰は要らぬ、はからいは無用だ、ということをおっしゃるのでありませす。また〈法然上人にだまされて地獄におちても後悔はない〉といわれるのも、地獄におちるかも知れぬという心配があるということではなくて、わたくしの本来もっている性質が地獄ゆきであって、わが力では絶対に助かる見込みがない身であることをいわれるのであります。ですから、つぎに「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」と仰せられるのです。これは二種深信の機の深信にあたります。つまり、自力はまにあわないと知らせていただくことであります。ゆえに、あとの文に「弥陀の本願まことにおわしまさば」等といって「親鸞が申す旨またもってむなしかるべからずそうろうか」といわれる。ここには人間のはからいのむなしいことと、如来の救いのむなしくないこととが、聖人の信の内容としてあざやかに示されていることを知るべきであります。


問. 機(わたくし)のすがたをながめれば、真実信心などさらになく、あるものは妄念煩悩ばかりで、往生いかがの不安もいっこうに消えぬ。しかし、法のお手元をながめれば助くるにまちがいない。このように心得て溢りますが、これで宜しいでしょうか。

答. それでは機と法とが別々であって、一信心の内容となっていません。助くるにまちがいないという法が聞こえたならば、往生いかがの不安はとれます。往生いかがの不安があるということは、助くるにまちがいない法が本当に聞こえていないこと、法がいただかれていないことであります。もちろん信後にも妄念煩悩は依然としてあり、地獄ゆきの自性に変わりはありませんが、信後に真実信心がないというのは、わけのわからぬことになります。


問. そうはいわれましても、わたしの心の中には真実心はありません。親鸞聖人も『悲歎述懐和讃』に、「浄土真宗に帰すれども  真実の心はありがたし  虚仮不実のわが身にて  清浄の心もさらになし」とおおせられています。真実信心がいただけたと思うのは、自力の信になると思いますが。

答. それはちがいます。あなたは真実心と真実信心とを混同していられます。この真実心というのは真実清浄の心のことで、妄念煩悩の反対であります。そのような真実心がわれらの上にあるとは申されません。真実信心というのは妄念煩悩の身のままで願力にうちまかせた心相であります。そのうちまかせる以外に別に真実なるものが、わたくしの心の中にできるのではありません。『悲歎述懐和讃』の「浄土真宗に帰すれども」等といわれるのは、本願を信受してはいるけれども清浄真実の心はないという意味であって、真実信心がないということではありません。これは救われた者の反省であり慚愧であって、そのままが法悦の中にあります。

(五) 二種の関係について

問. 機の深信と法の深信とについて、それぞれの意味は、おおむね理解することができました。しかし、自分が罪悪生死の凡夫で迷界を出ることができないと信知することと、如来の願力はこのようなわたくしを必ずお救いくださると信知することと、信知の内容が二つあるように思われます。しかも、法の深信の方は如来の願力におまかせするのですから他力ということはよくわかりますが、機の深信の方は自分の罪深いことを知ることですから、これは他力とはいえないと思いますが、いかがでしょう。

答. おたずねは二つですね。一つは信知の内容は二つであろうということ、もう一つは機の深信は自力であろうという疑問です。はじめに信知の内容が二つあるのでないことを明らかにしましょう。機の深信はわたしの力がまにあわないと知らされることですから、往生成仏についてのわたくしのはからいがすっかり取れたことであります。ゆえに、信機(機の真実を信知すること)は、そのまま捨機(わたくしのはからいを捨て離れた)ということであります。法の深信はわたしをお救いくださる如来の願力を知らせていただくことですから、往生成仏についてすっかり願力におまかせできたことであります。そこで、信法(法の真実を信知すること)は、そのまま託法(願力の法にまかせた)ということであります。このように信機は捨機であり、信法は託法でありますから、捨機即託法であって、別々の心相でないことがおわかりいただけるでしょう。わたくしのはからいがすっかりとれたのでなければ、如来にすっかりおまかせできたとはいえません。また如来にすっかりおまかせできたのでなければ、わたくしのはからいがすっかりとれたとはいえないのであります。したがって、信機の方は他力ではなかろうという疑問も、おのずから解消するでしょう。


問. 二種ともに他力の信心であることはわかりました。しかし機の深信は自己の罪悪性の問題で、自分が地獄ゆきの悪人であると知らしめられることでありましょう。これを知らされることが先決問題で、これが知られてはじめてお救いの法を受け入れることができると思われます。こういう意味で、信機が前で信法が後であるといえるのではないでしょうか。

答. それは誤りであります。信機信法の二種は阿弥陀仏の名号のいわれを聞かせていただくことによっておこさしめられた一信心の内容にほかなりません。前にお答えしたとおり、捨機即託法であって、捨機が前で託法が後であるというのはまちがっています。


問. 機法二種の深信は名号のいわれを聞くことによっておこさしめられる一信心の内容であるということを、もっとわかるように説明してください。

答. 第十八願成就文に「その名号を聞いて信心歓喜し」等と説かれてありますのを、親鸞聖人が解釈せられまして、 経に「聞」というは、衆生仏願の生起本末を聞いて疑心あることなし。これを聞というなり。「信心」というは、すなわち本願力廻向の信心なり。 等とおおせられてあります。これによりますと、「名号を聞く」とは「仏願の生起本末を聞く」ということであります。「仏願の生起本末」というのは、これを「仏願の生起」と「本」と「末」とに分けてうかがうことができます。まず「仏願の生起」というのは、本願のおこりということであります。掃除器のおこりはゴミであり、電灯のおこりは夜の闇であります。ゴミがあるからこれを掃除する器具が考案せられ、夜は暗いからそのために電灯が発明せられました。阿弥陀仏の本願は迷いの衆生がいるためにおこされたので、本願のおこりは迷いの衆生であります。その迷いの衆生とは、ほかならぬこのわたくしであります。聖人の常のおおせとして、『歎異抄』に、  弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。 といわれるのは、この意味であります。「本」とは因本の義で、阿弥陀仏が因位のとき、衆生を救うための願をおこし、行を修せられたことであります。「末」とは果末の義で、因位の願行が成就して阿弥陀仏となられ、因位の願いのとおりに現に衆生を救いつつある果上の力をいいます。この中で、仏願の「生起」は機であり、「本末」は法であります。この仏願の生起本末を聞いて、その通りに領解されたのが信心でありますから、おちるわたし(機)をお救いくださる願力(法)であることよ、と知らされます。この機と法とは切り離して考えることはできません。そのような名号のいわれを聞くことによっておこさしめられる信心ですから、信機と信法とは二種一具であって、前後はないのあります。もし、信機が前で信法が後であるならば、信法の前の信機は真実信心でないことになりましょう。また、それでは二種は別々であって、一具とはいえません。


問. 信機と信法とが二種一具ということは、救われない者が救われるということで、〈救われない〉と〈救われる〉とは相反する内容であり、矛盾である。けれどもその矛盾のままが一信心として成り立つところに、真宗の救済の特異性があると考えて宜しいでしょうか。

答. それもまちがっております。救われない者が救われるといえば矛盾のように聞こえますが、実は矛盾ではありません。機の深信における無有出離之縁(迷界を出ることができぬ)ということは、わたくしの自性を示したものであって、他力によっても迷界を出ることができぬという意味ではありません。阿弥陀仏の願力によっても絶対に救われない者が阿弥陀仏の願力によって救われるというのであれば、矛盾でありましょう。しかし今はそういうことではありません。わたくしの自性をいえば罪悪生死の凡夫で、わが力では迷界を出ることができぬ。そのわが力で迷界を出ることのできないわたくしを救うのが、阿弥陀仏の法であります。ゆえに、機と法とは矛盾するのではなくて、この機のためにこの法が成就せられ、この法はこの機を救うためにある。救われる機と救う法とは切り離すことのできない関係にあるのであります。


問. 二種深信は一具であって、前後もなく、また矛盾でもないとすれば、この二種は同時に並んで起こるのですか。

答. 同時に並んで起きるのであれば、二種は別々の心相になります。二種深信はそのような別々の心相ではありません。名号のいわれを聞いて、おちるわたくしがお救いにあずかると知らせていただく、つまり信機信法の二種は一具であります。信機は捨機であり信法は託法でありますから捨機即託法といわれることは、すでにくりかえし述べたとおりであります。


問. 一枚の紙に裏表があるように、信機と信法との二種は一つの信心の表と裏とであると考えてよろしいでしょうか。

答. 表裏というと、どちらが表でどちらが裏かということになって誤解されるおそれがあります。往生についてすっかりわたくしのはからいがとれたということと、往生についてはすっかり如来さまにおまかせできたということとは、同一のことであります。


問. 同一のことであれば、二種といわずにどちらか一種だけでもよいのですか。

答. 信機か信法のいずれか一種だけならば、他力の信心ということは明らかにならないでしょう。わたくしのはからいがすっかりとれたことが、そのまま、如来さまにおまかせできたことであり、如来におまかせできたことが、そのまま、わたくしのはからいがすっかりとれたことである。こういう信心でなければ、他力真実の信心ではありません。


問. 最近、二種深信の解釈として、信機のところでは浄土は無限に遠い未来のものど感じ、信法のところでは浄土は今ここにあってふれるものである、という人がいるようです。こういう理解のしかたはいかがでしょうか。

答. 今のおことばだけでは、そのいわんとする意味がよくわかりませんが、信機と信法とを相反する二つの心相として見ていられるようですね。もしそうだとすれば、それは二種深信の正しい解釈とはいえないでしょう。また二種深信は信心の相状の問題であって、浄土が遠いとか近いとかいうような問題ではありません。


問. 「松影の暗きは月の光かな」という歌でたとえられますように、月の光に照らされて、はじめて松影の暗いことがわかる。松影の暗いことが知れたのは月の光に照らされたことにほかならぬ。みずからの罪業の重いことを知らされたときが、すなわち他力のお救いがいただけたときである。わが身の罪深きことが本当に知られないで、お救いをいただいたというのは、それは本当のお救いではないと思いますが、どうでしょうか。

答. その歌そのものは、法の光りに照らされて自分の罪深いことが知らされるという意味に味わってよいと思われます。けれども、「みずからの罪業の重いことを知らされたときがすなわち他力のお救いがいただけたときである」というのは、誤解を生ずるおそれがあります。なぜかと申しますと、罪の重いことを知ることが、お救いにあずかるための条件となって、いわゆる機責めということが行われたり、自己反省の内観を強制して、一種の秘事法門のようなかたちにおちいる危険があるからです。


問. おちるわたくしをお救いくださる法であると知られたのが他力の信心であるならば、初起一念はたしかにおちるわたくしがお救いにあずかることになりましょうが、第二念以後の相続の上は、もはやお救いにあずかった身ですから、おちるわたしではない。したがって二種深信は初起一念の心相であって、信後にはもはや信機はないと考えてよいでしょうか。

答. それはとんでもない考えちがいであります。信後といえどもわたくしの自性は変わりません。依然として煩悩具足の凡夫であって、わが力では迷いを出られないわたくしであります。その自性のままで摂取の益をいただき、正定聚不退の身にならせていただくのです。ですから、二種深信は初後一貫、臨終の一念にいたるまで同じ心相であります。


問. 信心をいただいてお救いにあずかれば、もはや地獄に落ちられない身となるのでありましょう。それに依然として罪悪生死の凡夫で迷いを出ることのできないわたくしであるというのは、矛盾ではありませんか。

答. 矛盾ではありません。石は沈むのが自性であります。その石が船に乗せられたならば、沈む自性のままで沈まずに川を渡ります。船に乗せられた石は沈まない石に変わったのではなく、目方も変わりませんが、船に乗せられたために沈まないだけであります。わたくしどもも、この肉体がなくなるまでは地獄ゆきの自性は変わりません。それが変わるのは臨終一念のときで、浄土に生まれて、さとりの仏と変わるのであります。


問. でも、ご法義を聞かせていただいてお救いにあずかれば、やはり信前に比べて大きなちがいがあるのではないでしょうか。信前も信後もちっとも変わらないのであれば、平生業成とか信益同時とかいわれることが無意味なものになると思われますが、この点はいかがでしょうか。

答. それはたしかに信前と信後と大きなちがいがありましょう。信後には、まず第一にお救いにあずかった大きな喜びがあります。それから日常の生活においてもいろいろと変わる面がありましょう。みずからを省みてたしなみ、またすこしでも如来の思召しにそうように、よりよき生活を心がけることもできましょう。しかし、煩悩具足の凡夫でなくなるわけではなく、地獄ゆきのお粗末な自性が変わるわけではありません。聖人が、

浄土真宗に帰すれども  真実の心はありがたし  虚仮不実のわがみにて  清浄の心もさらになし とおおせられ、また、   悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを  喜ばず、真証のさとりに近づくことをたのしまざることを、恥づべし、いたむべし。

とおおせられるのは、この性得本来の機の相が変わらぬことを省みて悲傷せられたおことばであります。もちろん、それは単なる罪悪感による畏怖(おそれ)ではなく、如来のお慈悲にいだきとられた己のすがたを恥じていられるのであって、その恥じられるままが広大な法の喜びの中にあります。この点は信前の無漸無悦とは大がわりであります。


問. 二種深信というのは、とても複雑微妙なもので、容易には理解し得ないむつかしいものですね。

答. いいえ、決してそんなにむつかしいものではありません。一文不知の尼入道でもお聞かせにあずかれば必ずいただける、「こころえやすの安心」であります。聖人のお勧めを謙虚にお聞かせいただけば、ほんにやさしいおみのりであったことよと、心から喜んで受けいれることのできる尊いお味わいであります。よくよく聞かせていただいて、まちがいのないように領解させていただきましょう。

あとがき  浄土真宗の安心は、わたくしの往生成仏については、一切のはからいを捨て去って、如来の願力に任せきることであります。善導大師はこれを二種深信として示され、宗祖親鸞聖人はそれを承けて、『教行信証』の信文類に詳しく解明せられています。  しかるに、この二種深信について、いろいろの誤った受取りかたがなされているようであります。たとえば、深刻な自己内省による罪悪感を機の深信であると考え、あるいは、激しい情緒的な感動の体験をもって法の深信であると見なし、そのほか機法二種の深信について、二心に前後の別があるとし、また二心が並び起こると思い、さらには、二心は矛盾した心相であると考える、等々であります。  そこで、今回は機の深信・法の深信とはいかなる心相であるか、また二種の関係はどのようであるか、といったことについて、さまざまの問題を提起して、これをできるだけ平易に解説した。  もとより、平易に解説するとはいっても、内容が宗意安心の大切な問題でありますから、一読しただけではすぐにおわかりいただくことができないかも知れませんが、二度・三度と読みかえしていただいて、正しい領解を得てくださる一助ともなれば幸いであります。

昭和四十九年八月  宗義研究の会 編集者  宗義研究の会  伝道振興部

http://www009.upp.so-net.ne.jp/kobako/mondou.html
「坊さんの小箱」より許可を得て転載。

(二) 二種深信の意味

問. ソクラテスも「汝自身を知れ」といっています。親鸞聖人は「煩悩具足と信知して、本願力に乗ずれば……」とおおせられ、蓮如上人も「わがみはわろきいたずらものなりとおもいつめて、ふかく如来に帰入するこころをもつぺし」とおっしゃっています。「地獄一定」とわが身を見限ってこそ、はじめてそこに「かかる者が弥陀にたすけられる」という法の喜びが与えられるものと思います。これが善導大師のおっしゃる「二種深信」の領解であると思うのですが、いかがでしょう。

答. たくさんの文を引いて二種深信の解釈を述べられましたが、あなたは罪悪観と機の深信とを混同していられるようです。それでは深信ではなしに、自力の浅信になりましょう。罪悪観が獲信のための必然的な過程であるとはいえません。無常観より入信する人もありましょう。また人生の苦悩に泣いてそれから聞法する人もありましょう。善導大師の二種深信は、名号のいわれを聞いて疑いのとれた心相を、機と法との二面から示されましたので、機の深信から法の深信に入るとか、機の深信が法の深信の前提条件であるといったものではありません。

問. それでは、二種深信とはどのような意味なのか、説明してください。

答. 善導大師の『散善義』に、『観経』の三心についてくわしく解釈されてありますが、その深心の解釈に、   深心というはすなわちこれ深く信ずるの心なり。また二種あり。   一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、噴劫よりこのかた常に没し常に流転して、出離の縁あることなしと信ず。   二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受したもう。疑いなく慮りなくかの願力に乗じて、定んで往生をうと信ず。

と示されてあります。はじめの深信は、救われるわたくし、すなわち機についてあらわされますから、「機の深信」とか「信機」とかいわれます。あとの深信は、救う如来の法について示されますから、「法の深信」とか「信法」とかいわれます。この二種は名号のいわれをお聞かせいただいて疑いの晴れた心相、すなわちわたくしのはからい心がとれて如来のお救いにうちまかせたすがたをあらわされるのです。

問. 「一つには」「二つには」と分けて、信機と信法とを示されているのですから、わたくしは地獄ゆきであると知らせてもらうことと、仏はそのようなわたくしをお救いくださるのであると知らせてもらうことと、明らかに二種の思いをおこすのではありませんか。

答. 二種にひらいてお示しくださってありますけれども、名号のいわれを聞いておこさしめられた他力信心のすがたを機と法との両面からあらわされたので、二種は別々の思いではありません。

問. 一つの信心のすがたであるならば、なぜ二種というのですか。

答. 真宗の信心は、わたくしの力はまにあわないと知らせていただいて、如来の願力におまかせすることであります。そこでこの信心を機のがわからいえば、自力がまにあわない(自力無功)と知って、わがはからいがすっかりとれることであり、法のがわについていえば、まったく仏にうちまかせ、仏にもたれきったということになります。わがはからいがすっかりとれることが、そのまま仏にすっかりうちまかせたことであり、仏にうちまかせたことが、そのままわがはからいのとれたことであって、この二種は別箇の心相ではありません。このことは、二種深信の一々についてさらによくうかがえば、おわかりいただけるでしょう。

(三) 機の深信について

問. 機の深信の意味をお示しください。

答. 機の深信のご文は前にあげたとおりで、これは救われるわたくしのありのままのすがた、すなわち機の真実(機実)を知らされることであります。「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」というのはわたくしの現在のすがたです。この罪悪は単に世間の法律や倫理などでいう悪だけではなく、如来の光によって照らし出されたわたくしの本性であります。うわべは善人らしくよそおい、人前ではりっばなことを言っていても、所詮は我利我欲にまどう罪深い凡夫であるといわれるのです。「噴劫よりこのかた」等とは無限の過去からのすがたです。この世に人と生まれてから罪を造って迷うているだけではなくて、始めなき大昔から、いつも悪道に沈み迷界をさまよいつづけてきたというのであります。「出離の縁あることなし」とは、迷界を出るてがかりがないということです。これは前に示された現在と過去のすがたに対して、未来永遠にみずからの力では迷界を出ることができないわたくしである、という意味をあらわします。  そうしますと、機の深信とは、わたくしは現に罪深い迷いの凡夫であって、無限の大昔から迷いつづけ、今後も永遠に迷界を離れることのできない者である、と決定して深く信知することであります。

問. いまの「機の深信」の解釈によりますと、やはりわたくしの罪悪性を徹底的に見つめること、つまり曾無一善、唯知作悪、地獄一定の極悪人であるという自覚に徹することであると受けとれるのですが、そうではないのでしょうか。

答. 機の深信は、要するに自力無功と知らせていただくこと、つまり、迷界を出るためにはわたくしの力はまにあわないと知らせていただいて、わがはからいを離れることであります。単に、自己の罪悪を徹底的に追究するということではありません。『往生礼讃』の前序には、「深心」の意味を示して、

 二つには深心、すなわちこれ真実の信心なり。  自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして、三界に流転して火宅を出でずと信知す(信機)。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声一声等におよぶまで定んで往生をえしむと信知して、いまし一念にいたるまで疑心あることなし(信法)。

とあらわされてあります。これは『散善義』のように、「一つには」「二つには」と分けてありませんけれども、やはり第十八願の真実信心のすがたを機と法との両面から示されたものであります。『散善義』では「罪悪生死」と示されているのに対して、いまの『往生礼讃』では「善根薄少にして」と述べられてあって、『往生礼讃』の方が『散善義』よりも罪悪性の表現がゆるやかであります。けれども、わが力では迷界を出ることができないと知らせていただくという点では、両者は全く同一であります。

問. 同じ善導大師の著作でも、「善根薄少」といわれる『往生礼讃』は、『散善義』よりも前の著作で、思想的にはなお浅く、『散善義』に示された三世にわたる深刻な罪悪感こそ徹底した深い思想であると考えられないでしょうか。

答. 思想的に浅深の別があるなどと軽率にいうことは、つつしまねばなりません。善導大師の解釈によれば、『観経』の九品はすべて凡夫であって、上三品は大乗の善に遇った凡夫、中三品は小乗の善に遇った凡夫と世俗の善人、下三品は造悪の凡夫で、罪の軽重によって三品を分けられています。この善悪の凡夫が本願によって救われるのであります。ゆえに法然上人は『選択集』の第八の三心章に、いわゆる信疑決判の釈を示され、

 まさに知るべし、生死の家には疑いをもって所止とし、涅槃のみやこには信をもって能入とす。ゆえにいま二種信心を建立して、九品の往生を決定するものなり。

と述べられてあります。上品や中品の善凡夫も己の善が浄土往生にまにあわず、下品の悪凡夫もその悪が往生のさわりにならず、善悪の凡夫がすべて己のはからいを離れて願力にうちまかせる信楽一心で往生させていただくのであります。親鸞聖人は「その機は、すなわち一切善悪大小凡愚なり」と仰せられ、また「願力成就の報土には自力の心行いならねば大小聖人みなながら、如来の弘誓に乗ずなり」と讃ぜられています。凡夫も聖者もすべてこの二種深信で報土の往生が決定するのであります。 これによって、単に罪悪感が深いとか浅いとかいうことで、機の深信が徹底しているか未徹底であるかを論ずることは、誤りであると知るべきでありましょう。

問. 凡夫も聖者も善人も悪人も、本願の信心をうれば浄土に往生し、本願を疑えば往生できないということは、よくわかります。その善人も聖者も、如来の前には極重の悪人であると知らしめられて、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」と気づかせていただくのが機の深信だと思いますが、いかがでしょう。

答. 善導大師は「自身は罪悪生死の凡夫」と仰せられ、わたくしどもも罪悪生死の凡夫であることは勿論であります。しかし、菩薩・聖者といわれるような方々を罪悪生死の凡夫とはいえません。そのような聖者がたのいただかれるご信心も、われわれ罪業の凡夫のいただくご信心も、一つであります。たとい聖者善人であっても、その善根や知恵では報土往生にはまにあいません。したがって、下品下生の悪機と同じく、自力を離れて他力に乗ずるのであります。存覚聖人の『六要鈔』に二種深信の意味を示されて、 「無有」等とは、まさしく有善無善を論ぜず、自功をからず、出離ひとえに他力にあることを明かす。……自力功なきを知るによって、ひとえに仏力に帰す。 等と解釈されてあります。自力がまにあわないと知らせていただいて、他力に帰することが肝要であって、すべての者が罪悪感に徹底せねばならぬなどとはおっしゃっていません。

問. 自己の罪悪感に徹しなくて、どうして他力の法水が入りましょうか。自分こそ下品下生の悪人であって地獄ゆきであると気づかしめられて、はじめてこれをお救いくださる法がいただかれるのではないでしょうか。

答. お救いにあずかるためには、どうしても自己の罪悪感に徹しなければならぬようにお考えのようですが、ほんとうに自己の罪悪のすべてを知りつくすことができるでしょうか。この世に生をうけて今日まで、罪でないと思ってしていることが実は罪であるという場合もありましょう。まして無始よりこのかた生々世々に造ってきた罪業、また未来に造るであろうところの罪業、それらの全体は到底はかり知ることができないでありましょう。〈ほんとうに自己の罪悪感に徹した〉などと考えることは、ひとりよがりのうぬぽれではないでしょうか。あるいはまた、一時的な罪悪意識の高まりにすぎないのではないでしょうか。

問. 三世にわたる己の罪業をすべて知りつくすことはできないでしょう。けれども、現にわたくしは恐ろしい根性をかかえた極悪人であるということは、法を聞くことによって知らせていただけます。〈自分はそれほど悪人ではない〉というような不徹底な罪悪感でどうして他力のお救いがわかりましょうか。まして、〈自分にもなにがしかの善根はある〉というような考え方では到底他力に帰することはできないと思います。この点いかがでしょうか。

答. 〈自分はそれほど悪人ではない〉とか、〈自分にも善根はある〉などと思えというのではありません。わたくしは勿論罪業深重の凡夫であり、悪人であります。しかし、罪悪感に徹することがお救いの必須条件のように考えることは誤りである、というのであります。人はそれぞれ性格が異なり、環境もちがいます。内向的な人もあれば外向的な人もいます。また凡夫と聖者との別があり、凡夫の中にも善悪の不同があり、悪にも軽重があります。したがって、その罪悪感も百人百様であります。そのような罪悪感を機の深信と考えるならば、機の深信は人によって千差万別となります。それでは自力各別の信となりましょう。『御伝紗』に、

 信心のかわるともうすは自力の信によりてのことなり。すなわち智慧各別なるがゆえに信また各別なり。 と仰せられ、

  他力の信心は、善悪の凡夫ともに仏のかたよりたまわる信心なれば、源空が信心も善信房の信心も、さらにかわるべからず。ただひとつなり。

と示されています。みずからの罪業を問いつめて、身をふるわせて号泣したからといって、必ずしも機の深信が徹底したとはかぎりません。また罪深いわたしであるとお聞かせいただき、事実そのとおりであると気づかせていただいていても、いっこうに深刻な罪悪感におののくことなく、ケロリとしているからといって、その人は機の深信がない、と一概に断定することはできません。  要は自力無功と知らせていただいて如来にうちまかせた心相、これが真宗の信心であります。

問. いまのお答えの中に、「みずからの罪業を問いつめて泣いたからといって、機の深信が徹底したとはかぎらない」とか、「深刻な罪悪感におののかないからといって、機の深信がないと一概に断定はできない」といわれますが、どうしてそんなことがいえるのですか。

答. みずからの罪業に気づいて号泣したとしても、それは一時の感情の高まりであって、それだけでは本物とはいえません。時がたてば泣いたことが嘘のように平気になり、またまた三毒の煩悩に身を焼くのが凡夫ではないでしょうか。ですから、そんな一時的な感情の高まりだけで、機の深信が徹底したなどと考えることは早計であります。これは法の深信についても、同様のことがいえましょう。尊いお慈悲をお聞かせいただいて、感激にむせぶほどの喜びを味わったとしても、その感激の時に法の深信がいただけたとか、そんな経験がなければご信心をいただいたとはいえないなどと、一概にいうことはできません。  これはみずからの罪業を問いつめて泣くことがいけないとか、感激にむせぶことがいけないなどと申しているのではありません。ただそうした一時的な感動をもって獲信の確証であるかのように誤認し、そのような体験をあてにすることは、気をつけねばならないというのであります。おのれの罪に泣くもよし、また泣けなくてもよし、感激にむせぶもよし、むせぶことができなくてもよしであります。要は、自分の機ざまを眺めて、それをあてたよりにすることなく、あてたよりになってくださる如来の願力にうちまかせた心相、それが他力の信心であります。

問. 自分を罪深いとも思わず、お慈悲を有難いとも思わなくても、ご信心がいただけるといわれるのですか。

答. そのようなことを言っているのではありません。仏願の生起本末を聞いて、わが身の罪深いことを知らせていただき、このようなわたくしをお救いくださる仏の慈悲をよろこばせていただくことは、いうまでもありません。ただ、おのれの罪業を問いつめて泣くほど徹底せねばならぬとか、躍りあがるほどに喜びが満ちあふれねばならぬとか、そういう規格をつくって、それにあてはまらねば本当のご信心ではないというふうに考えることが、誤りであるというのであります。

問. 蓮如上人の御文章には、   ただわが身はつみふかきあさましきものなりとおもいとりて、かかる機までもたすけたまえるほとけは阿弥陀如来ばかりなりとしりて、  (五帖十二通) とか、   ひとしれずつみのふかきこと、上臈にも下主にもよらぬあさましき身なりとおもうべし。 (五帖十四通) 等と示されてあります。これらのご文は罪深い身であると思わねばならぬというお勧めだと思いますが、いかがでしょう。

答. 御文章の一部分だけをつかまえないで、よく全体の思召しを味わわねばなりません。五帖第十二通の御文章は、そのつぎに、   なにのようもなく、ひとすぢにこの阿弥陀ほとけの御袖に、ひしとすがりまいらするおもいをなして、 等とおっしゃってあり、五帖第十四通の御文章も、そのつぎに、   それにつきては、なにとように弥陀を信ずべきぞというに、なにのわづらひもなく、阿弥陀如来をひしとたのみまいらせて、……さて、わが身のつみふかきことをばうちすてて弥陀にまかせまいらせて、 等と示されています。そのほかに「一心一向に阿弥陀如来たすけ給えとふかく心にうたがいなく信じて、我身の罪のふかぎ事をばうちすて、仏にまかせまいらせて」(五帖四通)とか、「機をいえば十悪五逆の罪人たりとも、五障三従の女人なりとも、さらにその罪業の深重にこころをばかくべからず。ただ他力の大信心一つにて真実の極楽往生をとぐべぎものなり」(五帖十五通) 等と示されてあります。  機実(わたくしの本当のすがた)をいえば、罪業深重のいたずら者でありますが、その罪業を徹底的に問いつめねばならぬとおっしゃるのではありません。「罪のふかきことをばうちすてて」とか「罪業の深重にこころをばかくべからず」とおっしゃるのであります。罪業はどれほど深くても、それを気にかけずともよい。かかる罪深き私をたすけんという本願を起こしてこれを成就せられた阿弥陀仏の法であるから、はからい離れて弥陀にまかせよ、とお勧めくださるのであります。

問. 「なにのようもなく弥陀にまかす」については、その前に自分の罪業を徹底して知らねばならないでしょう。自己の罪業の深さに徹しなくては、本当に弥陀にまかすことはできないと思いますが。

答. あなたは、どこまでも、みずからの罪悪感の徹底ということを獲信の必須条件のように考えていられますね。罪業深重のわたくしであるということは、如来の智慧によって見通されたわたくしの本当のすがたであります。勿論、法をお聞かせいただくことによってそれが知らしめられるのでありますが、その罪業の深さに徹するとはどういうことでしょうか。何か己の罪を徹底的に問いつめて、どうにもこうにもならぬと絶望の極に達するといった体験をすることを指すのであれば、それは思い誤りであります。親鸞聖人は「無漸無愧のこの身」とおっしゃっています。〈自分は本当に罪業の深さに徹することができた〉と思うたらば、それこそ大きなうぬぽれであり驕慢でありましょう。罪深い身であると知らせていただきながら、けっこう人なみ以上の善い人間であるようなつもりでいることよ、と反省慚愧せしめられるのが、本当にご法義が聞こえたすがたではないでしょうか。

問. 善導大師の示された二河白道のたとえは、信心のすがたをあらわされたものと聞いております。あのたとえの中に、

時にあたりて惶怖すること、また言うべからず。すなわちみずから思念すらく。われいまかえらばまた死せん。とどまらばまた死せん。ゆかばまた死せん。一種として死をまぬがれず。

等と、いわゆる三定死が示されています。これは自分の煩悩悪業を知って、どうにもこうに もならぬと、心の底からおそれおののく心境だと思います。これが二種深信の機の深信にあたるのではないでしょうか。

答. 二河白道のたとえは、おっしゃるように信心のすがたをあらわされたものであります。しかし、その中に示されてある三定死を機の深信であると考えるのは、大きな誤りです。三定死は、まだ釈迦・弥陀二尊の発遣・招喚の声を聞かない前の状態であります。いいかえますと、まだお名号のおいわれが信受されていない時の行者の心相であります。だから、「惶怖すること、また言うべからず」と、おのれの罪におそれおののいているのです。二種深信の信機は二尊の遣喚のお声が聞こえた心相、いいかえますと、お慈悲が届いたところにおこる心相であります。これは、あとに、

 あおいで釈迦発遣しておしえて西方に向かわしめたもうことをこうむり、また弥陀の悲心招喚したもうによりて、いま二尊のおんこころに信順して、水火二河を顧みず、念々にわ  するることなく、かの願力の道に乗じて、

等とおっしゃってあります。この「水火二河を顧みず」というのは、己の罪に恐れおののくことではありません。前にあげた蓮如上人の御文章に、「わが身のつみのふかきことをばうちすてて」とか、「罪業の深重にこころをばかくべからず」とありましたとおり、罪はいかほど深くてもそれを心にかけることなく、はからい離れて仏願力にまかせきったすがたであります。

問. 三定死はまだ他力の信を得る以前の心相であり、二種深信の信機は如来の喚び声が届いたところに起こさしめられる心相であることは、よくわかりました。けれども、他力の信を得るについては、必ず三定死の境地を経なければならないのではないのでしょうか。

答. 二河白道のたとえでは、三定死の次に二尊の遣喚を聞いて、そして願力の道に乗るという順序で示されてありますが、入信の経路も必ずそのとおりでなければならぬと考えることは正しくないでしよう。遣喚を聞く前と聞いた後とでは、自力と他力との相違があって、それは要門と弘願とのちがいをあらわされたものと窺われるのであります。なぜならば、善導のご解釈の上に、弘願に入るためには必ず要門を経なければならぬというお示しはなく、要門を廃して弘願他力を勧められるからであります。親鸞聖人の三願転入(第十九願の諸行の法から、第二十願の自力念仏に入り、更に第十八願の他力念仏に入る)のご解釈も、すべての人がこのような経路をたどらねばならぬといわれるのではありません。方便の法を捨てて真実の法に帰すべき旨をあらわされるのであります。

(四) 法の深信について

問. つぎに、法の深信について解説して下さい。

答. 法の深信というのは、救いの法の真実(法実)を知らせていただくことであります。その文は前にかかげたとおりです。「かの阿弥陀仏の四十八願は」と申しますのは、ことばは総じて阿弥陀仏の四十八願全体をあげていられますけれども、別しては第十八願の意味であります。第十八願には、衆生に名号を信じさせ称えさせて、もし往生させることができなければ仏にならぬ、とお誓いになってあります。そのお誓いのとおりに成就されたのが阿弥陀仏でありますから、衆生に信じさせ称えさせて往生させてくださるのは、この第十八願の成就したすがたであります。四十八願はそれぞれに仏の願いが誓われてありますけれども、要は衆生を救わねばおかぬという願いのほかはありません、ですから四十八願の全体が第十八願の一つにおさまってしまうのであります。言い換えますと、第十八願をひろげたものが四十八願ということになります。そこで、今は第十八願の意味を示すのに、「四十八願は」と総じてお出しになったのであります。  「衆生を摂受して」とは、わたくしどもをお救いくださることであって、その「衆生」というのは、まえの機の深信に示された罪悪生死で迷界を出ることのできないわれわれ凡夫であります。「疑いなく慮りなく、かの願力に乗じて」等というのは、うたがいためらうことなく如来のお救いにうちまかせることであって、「かの願力」とは衆生を摂受したもう阿弥陀仏のお力であり、「乗じて」とは乗託(おまかせ)することであります。そこで法の深信とは、阿弥陀仏は必ずわたくしをお救いくださるから、わたくしのはからいを去って如来の願力におまかせして、まちがいなく往生させていただく、と明らかに信知することであります。

問. 疑いぶかいわたくしどもは、「疑いなく慮りなく」といわれましても、到底ほんとうに疑慮不安から解放されることは不可能だと思います。このような心のままで救われるのである、と考えてよろしいのでしょうか。

答. 疑慮不安と決定深信とは、ま反対であります。疑慮不安のとれたのが真実信心であります。ですから、疑いの心があるかぎりは真実信心ではありません。したがって真実報土の往生はえられません。

問. それではどのようにして「疑いなく慮りなく」という心相になることができるのでしょうか。

答. 願力をお聞かせいただいて無疑無慮の心相になるのです。衆生を救うことにおいてまちがいのない法でありますから、これを聞いたわたくしの心相も、まちがいなく救われることよと無疑無慮にならせていただけるのです。  法の深信の「無疑無慮」は、下の文をつけて、「疑いなく慮りなくかの願力に乗じて」と読むときは、願力に乗託するわたくしの信じぶりに不安がないこと、何の綾府蝉もなくおまかせできたことをあらわします。これを上の文につけて、「衆生を摂受したまうこと疑いなく慮りなし。」と読みますと、衆生を救う願力の法に不安がないこと、法のお救いにまちがいないことをあらわします。救う法が無疑無慮の法だから、これを知らせていただいた衆生の信じぶりも無疑無慮にならせていただけるのです。それが願力の聞こえたすがたであります。

問. まちがいのない救いの法を聞くといわれましても、これを聞くわたくしに智慧の眼がないのですから、どれほど確かであると思い定めても、やはり何らかの不安は残りましょう。それがわたくしども凡夫の心情ではありませんか。

答. どれほど確かであると思い定めても何らかの不安は残るというのは、わたくしの思慮分別であるかぎり、当然でありましょう。しかし真宗の信心は、わたくしの思慮分別で思い定めるものではありません。あすはよいお天気にちがいないとどれほど確信しても、それはあくまで自分の判断であって、天気そのものはあてになりませんから、ひょっとしたら雨が降るかも知れないという不安は残ります。しかし、明日は夜があけないかも知れないと心配する人はありますまい。なぜなら、時がくれば必ず夜はあけることにきまっているからであります。まちがいなく救うの法を聞かせていただきながら、なお不安が残るということは、救いの法をあるがままに受取っていないことであります。まちがうことのない確かな法を知らせていただけば、おのずから自力疑心はとれてしまいます。それがおまかせできたすがたであります。

問. まちがいのない法を聞いてすっかりおまかせするか、おまかせしないかは、ぎりぎりのところでわたくしの宗教的決断であるといえましょうか。

答. その宗教的決断ということが、やはりわたくしの思慮分別でありましょう。口では「まちがいのない法を聞いて」といわれますが、ひょっとしたらという不安が残っているから、決断をせねばならないのです。そのような決断は他力の信心とは申せません。

問. 要するに、信仰はわたくしの知識の延長線上にあるのではなく、そこには飛躍がある。知識を越えたところに信仰があるということでしょう。信仰は一種の「かけ」(賭)であって、本願を信じて救われるか救われないか、そんなことはわたくしにはわからない。だが、自分は本願を信じて救われるという方にかけるのである。こう理解してよいでしょうか。

答. それはたいへんな誤りであります。信仰はたしかに単なる知識の延長ではありません。けれども、あなたがいまいわれるような「かけ」ではありません。はっきりと信知させていただくのであります。

問. でも、『歎異抄』の第二節に、

 念仏はまことに浄土に生まるるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるたり。たとい法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。

等と示されてあります。これは〈往生できるかどうか知らないけれども、自分は法然のいうことを信ずる方に賭ける、それでもし地獄におちても悔いはない。どうせ地獄ゆきの身なのだから〉という意味にとれます。それが「疑いなく慮りなくかの願力に乗じた」心持ちではないでしょうか。

答. 『歎異抄』のその部分だけ読みますと、あるいはあなたの考えるようにも見えましょう。しかしよく全体の意味を考えて、何を言おうとされているのかを、あやまりなく受けとらねばなりません。いったい、どのような相手に対して、どのような問題について、どのような意図で聖人がそういわれるのであるか。その背景を心得てうかがう必要があります。ここでくわしく解説することはさしひかえますが、要を申しますと、「総じてもって存知せざるなり」といわれるのは、往生できるかどうかわからないという不安を述べられたのではありません。人に言いまどわされて、念仏往生について不審をいだいたお同行がたずねてきたのに対し、聖人はそのようなことは如来のしろしめすところであって、わたしの関知するところでない、学問沙汰は要らぬ、はからいは無用だ、ということをおっしゃるのでありませす。また〈法然上人にだまされて地獄におちても後悔はない〉といわれるのも、地獄におちるかも知れぬという心配があるということではなくて、わたくしの本来もっている性質が地獄ゆきであって、わが力では絶対に助かる見込みがない身であることをいわれるのであります。ですから、つぎに「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」と仰せられるのです。これは二種深信の機の深信にあたります。つまり、自力はまにあわないと知らせていただくことであります。ゆえに、あとの文に「弥陀の本願まことにおわしまさば」等といって「親鸞が申す旨またもってむなしかるべからずそうろうか」といわれる。ここには人間のはからいのむなしいことと、如来の救いのむなしくないこととが、聖人の信の内容としてあざやかに示されていることを知るべきであります。

問. 機(わたくし)のすがたをながめれば、真実信心などさらになく、あるものは妄念煩悩ばかりで、往生いかがの不安もいっこうに消えぬ。しかし、法のお手元をながめれば助くるにまちがいない。このように心得て溢りますが、これで宜しいでしょうか。

答. それでは機と法とが別々であって、一信心の内容となっていません。助くるにまちがいないという法が聞こえたならば、往生いかがの不安はとれます。往生いかがの不安があるということは、助くるにまちがいない法が本当に聞こえていないこと、法がいただかれていないことであります。もちろん信後にも妄念煩悩は依然としてあり、地獄ゆきの自性に変わりはありませんが、信後に真実信心がないというのは、わけのわからぬことになります。

問. そうはいわれましても、わたしの心の中には真実心はありません。親鸞聖人も『悲歎述懐和讃』に、「浄土真宗に帰すれども  真実の心はありがたし  虚仮不実のわが身にて  清浄の心もさらになし」とおおせられています。真実信心がいただけたと思うのは、自力の信になると思いますが。

答. それはちがいます。あなたは真実心と真実信心とを混同していられます。この真実心というのは真実清浄の心のことで、妄念煩悩の反対であります。そのような真実心がわれらの上にあるとは申されません。真実信心というのは妄念煩悩の身のままで願力にうちまかせた心相であります。そのうちまかせる以外に別に真実なるものが、わたくしの心の中にできるのではありません。『悲歎述懐和讃』の「浄土真宗に帰すれども」等といわれるのは、本願を信受してはいるけれども清浄真実の心はないという意味であって、真実信心がないということではありません。これは救われた者の反省であり慚愧であって、そのままが法悦の中にあります。

(五) 二種の関係について

問. 機の深信と法の深信とについて、それぞれの意味は、おおむね理解することができました。しかし、自分が罪悪生死の凡夫で迷界を出ることができないと信知することと、如来の願力はこのようなわたくしを必ずお救いくださると信知することと、信知の内容が二つあるように思われます。しかも、法の深信の方は如来の願力におまかせするのですから他力ということはよくわかりますが、機の深信の方は自分の罪深いことを知ることですから、これは他力とはいえないと思いますが、いかがでしょう。

答. おたずねは二つですね。一つは信知の内容は二つであろうということ、もう一つは機の深信は自力であろうという疑問です。はじめに信知の内容が二つあるのでないことを明らかにしましょう。機の深信はわたしの力がまにあわないと知らされることですから、往生成仏についてのわたくしのはからいがすっかり取れたことであります。ゆえに、信機(機の真実を信知すること)は、そのまま捨機(わたくしのはからいを捨て離れた)ということであります。法の深信はわたしをお救いくださる如来の願力を知らせていただくことですから、往生成仏についてすっかり願力におまかせできたことであります。そこで、信法(法の真実を信知すること)は、そのまま託法(願力の法にまかせた)ということであります。このように信機は捨機であり、信法は託法でありますから、捨機即託法であって、別々の心相でないことがおわかりいただけるでしょう。わたくしのはからいがすっかりとれたのでなければ、如来にすっかりおまかせできたとはいえません。また如来にすっかりおまかせできたのでなければ、わたくしのはからいがすっかりとれたとはいえないのであります。したがって、信機の方は他力ではなかろうという疑問も、おのずから解消するでしょう。

問. 二種ともに他力の信心であることはわかりました。しかし機の深信は自己の罪悪性の問題で、自分が地獄ゆきの悪人であると知らしめられることでありましょう。これを知らされることが先決問題で、これが知られてはじめてお救いの法を受け入れることができると思われます。こういう意味で、信機が前で信法が後であるといえるのではないでしょうか。

答. それは誤りであります。信機信法の二種は阿弥陀仏の名号のいわれを聞かせていただくことによっておこさしめられた一信心の内容にほかなりません。前にお答えしたとおり、捨機即託法であって、捨機が前で託法が後であるというのはまちがっています。

問. 機法二種の深信は名号のいわれを聞くことによっておこさしめられる一信心の内容であるということを、もっとわかるように説明してください。

答. 第十八願成就文に「その名号を聞いて信心歓喜し」等と説かれてありますのを、親鸞聖人が解釈せられまして、 経に「聞」というは、衆生仏願の生起本末を聞いて疑心あることなし。これを聞というなり。「信心」というは、すなわち本願力廻向の信心なり。 等とおおせられてあります。これによりますと、「名号を聞く」とは「仏願の生起本末を聞く」ということであります。「仏願の生起本末」というのは、これを「仏願の生起」と「本」と「末」とに分けてうかがうことができます。まず「仏願の生起」というのは、本願のおこりということであります。掃除器のおこりはゴミであり、電灯のおこりは夜の闇であります。ゴミがあるからこれを掃除する器具が考案せられ、夜は暗いからそのために電灯が発明せられました。阿弥陀仏の本願は迷いの衆生がいるためにおこされたので、本願のおこりは迷いの衆生であります。その迷いの衆生とは、ほかならぬこのわたくしであります。聖人の常のおおせとして、『歎異抄』に、  弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。 といわれるのは、この意味であります。「本」とは因本の義で、阿弥陀仏が因位のとき、衆生を救うための願をおこし、行を修せられたことであります。「末」とは果末の義で、因位の願行が成就して阿弥陀仏となられ、因位の願いのとおりに現に衆生を救いつつある果上の力をいいます。この中で、仏願の「生起」は機であり、「本末」は法であります。この仏願の生起本末を聞いて、その通りに領解されたのが信心でありますから、おちるわたし(機)をお救いくださる願力(法)であることよ、と知らされます。この機と法とは切り離して考えることはできません。そのような名号のいわれを聞くことによっておこさしめられる信心ですから、信機と信法とは二種一具であって、前後はないのあります。もし、信機が前で信法が後であるならば、信法の前の信機は真実信心でないことになりましょう。また、それでは二種は別々であって、一具とはいえません。

問. 信機と信法とが二種一具ということは、救われない者が救われるということで、〈救われない〉と〈救われる〉とは相反する内容であり、矛盾である。けれどもその矛盾のままが一信心として成り立つところに、真宗の救済の特異性があると考えて宜しいでしょうか。

答. それもまちがっております。救われない者が救われるといえば矛盾のように聞こえますが、実は矛盾ではありません。機の深信における無有出離之縁(迷界を出ることができぬ)ということは、わたくしの自性を示したものであって、他力によっても迷界を出ることができぬという意味ではありません。阿弥陀仏の願力によっても絶対に救われない者が阿弥陀仏の願力によって救われるというのであれば、矛盾でありましょう。しかし今はそういうことではありません。わたくしの自性をいえば罪悪生死の凡夫で、わが力では迷界を出ることができぬ。そのわが力で迷界を出ることのできないわたくしを救うのが、阿弥陀仏の法であります。ゆえに、機と法とは矛盾するのではなくて、この機のためにこの法が成就せられ、この法はこの機を救うためにある。救われる機と救う法とは切り離すことのできない関係にあるのであります。

問. 二種深信は一具であって、前後もなく、また矛盾でもないとすれば、この二種は同時に並んで起こるのですか。

答. 同時に並んで起きるのであれば、二種は別々の心相になります。二種深信はそのような別々の心相ではありません。名号のいわれを聞いて、おちるわたくしがお救いにあずかると知らせていただく、つまり信機信法の二種は一具であります。信機は捨機であり信法は託法でありますから捨機即託法といわれることは、すでにくりかえし述べたとおりであります。

問. 一枚の紙に裏表があるように、信機と信法との二種は一つの信心の表と裏とであると考えてよろしいでしょうか。

答. 表裏というと、どちらが表でどちらが裏かということになって誤解されるおそれがあります。往生についてすっかりわたくしのはからいがとれたということと、往生についてはすっかり如来さまにおまかせできたということとは、同一のことであります。

問. 同一のことであれば、二種といわずにどちらか一種だけでもよいのですか。

答. 信機か信法のいずれか一種だけならば、他力の信心ということは明らかにならないでしょう。わたくしのはからいがすっかりとれたことが、そのまま、如来さまにおまかせできたことであり、如来におまかせできたことが、そのまま、わたくしのはからいがすっかりとれたことである。こういう信心でなければ、他力真実の信心ではありません。

問. 最近、二種深信の解釈として、信機のところでは浄土は無限に遠い未来のものど感じ、信法のところでは浄土は今ここにあってふれるものである、という人がいるようです。こういう理解のしかたはいかがでしょうか。

答. 今のおことばだけでは、そのいわんとする意味がよくわかりませんが、信機と信法とを相反する二つの心相として見ていられるようですね。もしそうだとすれば、それは二種深信の正しい解釈とはいえないでしょう。また二種深信は信心の相状の問題であって、浄土が遠いとか近いとかいうような問題ではありません。

問. 「松影の暗きは月の光かな」という歌でたとえられますように、月の光に照らされて、はじめて松影の暗いことがわかる。松影の暗いことが知れたのは月の光に照らされたことにほかならぬ。みずからの罪業の重いことを知らされたときが、すなわち他力のお救いがいただけたときである。わが身の罪深きことが本当に知られないで、お救いをいただいたというのは、それは本当のお救いではないと思いますが、どうでしょうか。

答. その歌そのものは、法の光りに照らされて自分の罪深いことが知らされるという意味に味わってよいと思われます。けれども、「みずからの罪業の重いことを知らされたときがすなわち他力のお救いがいただけたときである」というのは、誤解を生ずるおそれがあります。なぜかと申しますと、罪の重いことを知ることが、お救いにあずかるための条件となって、いわゆる機責めということが行われたり、自己反省の内観を強制して、一種の秘事法門のようなかたちにおちいる危険があるからです。

問. おちるわたくしをお救いくださる法であると知られたのが他力の信心であるならば、初起一念はたしかにおちるわたくしがお救いにあずかることになりましょうが、第二念以後の相続の上は、もはやお救いにあずかった身ですから、おちるわたしではない。したがって二種深信は初起一念の心相であって、信後にはもはや信機はないと考えてよいでしょうか。

答. それはとんでもない考えちがいであります。信後といえどもわたくしの自性は変わりません。依然として煩悩具足の凡夫であって、わが力では迷いを出られないわたくしであります。その自性のままで摂取の益をいただき、正定聚不退の身にならせていただくのです。ですから、二種深信は初後一貫、臨終の一念にいたるまで同じ心相であります。

問. 信心をいただいてお救いにあずかれば、もはや地獄に落ちられない身となるのでありましょう。それに依然として罪悪生死の凡夫で迷いを出ることのできないわたくしであるというのは、矛盾ではありませんか。

答. 矛盾ではありません。石は沈むのが自性であります。その石が船に乗せられたならば、沈む自性のままで沈まずに川を渡ります。船に乗せられた石は沈まない石に変わったのではなく、目方も変わりませんが、船に乗せられたために沈まないだけであります。わたくしどもも、この肉体がなくなるまでは地獄ゆきの自性は変わりません。それが変わるのは臨終一念のときで、浄土に生まれて、さとりの仏と変わるのであります。

問. でも、ご法義を聞かせていただいてお救いにあずかれば、やはり信前に比べて大きなちがいがあるのではないでしょうか。信前も信後もちっとも変わらないのであれば、平生業成とか信益同時とかいわれることが無意味なものになると思われますが、この点はいかがでしょうか。

答. それはたしかに信前と信後と大きなちがいがありましょう。信後には、まず第一にお救いにあずかった大きな喜びがあります。それから日常の生活においてもいろいろと変わる面がありましょう。みずからを省みてたしなみ、またすこしでも如来の思召しにそうように、よりよき生活を心がけることもできましょう。しかし、煩悩具足の凡夫でなくなるわけではなく、地獄ゆきのお粗末な自性が変わるわけではありません。聖人が、

浄土真宗に帰すれども  真実の心はありがたし  虚仮不実のわがみにて  清浄の心もさらになし とおおせられ、また、   悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを  喜ばず、真証のさとりに近づくことをたのしまざることを、恥づべし、いたむべし。

とおおせられるのは、この性得本来の機の相が変わらぬことを省みて悲傷せられたおことばであります。もちろん、それは単なる罪悪感による畏怖(おそれ)ではなく、如来のお慈悲にいだきとられた己のすがたを恥じていられるのであって、その恥じられるままが広大な法の喜びの中にあります。この点は信前の無漸無悦とは大がわりであります。

問. 二種深信というのは、とても複雑微妙なもので、容易には理解し得ないむつかしいものですね。

答. いいえ、決してそんなにむつかしいものではありません。一文不知の尼入道でもお聞かせにあずかれば必ずいただける、「こころえやすの安心」であります。聖人のお勧めを謙虚にお聞かせいただけば、ほんにやさしいおみのりであったことよと、心から喜んで受けいれることのできる尊いお味わいであります。よくよく聞かせていただいて、まちがいのないように領解させていただきましょう。

あとがき  浄土真宗の安心は、わたくしの往生成仏については、一切のはからいを捨て去って、如来の願力に任せきることであります。善導大師はこれを二種深信として示され、宗祖親鸞聖人はそれを承けて、『教行信証』の信文類に詳しく解明せられています。  しかるに、この二種深信について、いろいろの誤った受取りかたがなされているようであります。たとえば、深刻な自己内省による罪悪感を機の深信であると考え、あるいは、激しい情緒的な感動の体験をもって法の深信であると見なし、そのほか機法二種の深信について、二心に前後の別があるとし、また二心が並び起こると思い、さらには、二心は矛盾した心相であると考える、等々であります。  そこで、今回は機の深信・法の深信とはいかなる心相であるか、また二種の関係はどのようであるか、といったことについて、さまざまの問題を提起して、これをできるだけ平易に解説した。  もとより、平易に解説するとはいっても、内容が宗意安心の大切な問題でありますから、一読しただけではすぐにおわかりいただくことができないかも知れませんが、二度・三度と読みかえしていただいて、正しい領解を得てくださる一助ともなれば幸いであります。

昭和四十九年八月  宗義研究の会 編集者  宗義研究の会  伝道振興部