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提供: 本願力

2019年12月8日 (日) 11:45時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

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梯實圓和上  『攻めの蓮如上人』

 この前から蓮如上人が、吉崎の方へ進出をされた、お年は五十七歳でございますが、文明三年という年に吉崎の方へ出向されたということをもうしました。そしてこの吉崎時代の、これは蓮如上人にとっては大きくいえば、のるかそるか、本願寺の興亡をかけた大変な出来事であったわけでございます。それは吉崎という場所がすでにもう加賀、越前は戦乱の渦中にありまして、非常に危険な場所であるということは百も承知の上で、しかもそのぎりぎりの選択をされてそしてその越前の吉崎へおいでになったわけです。
 越前においでになって蓮如上人の大変精力的な教化活動が行われるわけですが、吉崎時代でコメントすべきこととしては、早くから『御文章』による教化をしていくという新しい教化方法、伝道の方法というものがここで定着をするわけです。『御文章』による教化が吉崎時代の特筆すべきことです。
 それからもう一つは、この時代に正信偈と和讃を出版して、正信偈和讃による、新しい宗教儀礼というものを確立していかれたということです。『正信偈和讃』の開版と新しい勤行、宗教儀礼、そういうことが行われていくわけです。この二つが吉崎時代の大変大きな出来事です。
 もう一つは吉崎時代の中期、つまり吉崎時代というのは文明三年から七年にかけてなんです。蓮如上人の年令は五十七歳から六十一歳にかけての時期です。文明五年頃から政治権力との抗争が生まれてきまして、いわゆる一向一揆というものが頻発するようになるわけです。そこで政治勢力との摩擦をいかに避けるかということが大変大きな課題になってきます。三番目として、掟の制定。これは文明五年以後になるんですが、掟の制定は政治権力との調整ですね。政治権力への配慮が行われるようになるわけです。こういうことが吉崎時代の公のこととして問題になる事柄でございます。
 蓮如上人の私的なことがらとしては、文明四年に見玉尼というお嬢さんが亡くなります(*)。これはまあ、大変大きなショックを受けられるわけです。それから文明六年には吉崎御坊が、これは出火ですが、焼け落ちてしまうわけです(*)。すぐに再建いたしますけれども、そういう吉崎御坊の大火がございます。
 いろいろな事件があるわけですが、先ず『御文章』による教化、これはそれから後今世紀に至るまで東西両本願寺を通して、蓮如上人の『御文章』を拝読する、そして『御文章』を中心とした伝道が行われていくわけですけれども、それは大変大きな成功を収めたわけです。その『御文章』による教化というのが本格的に行われてくるのが吉崎時代です。
 蓮如上人は四十七歳の時に初めて『御文章』をお書きになった。いわゆるお筆始めの『御文章』といわれるものです(*)。これはこの前申しました寛正二年という年です。『御文章』の第一号です。それから後、数通の『御文章』が書かれてくるようでございますが、だいたい六通ほど『御文章』が書かれます。つまり寛正二年ですから、蓮如上人の年でいいますと、四十七歳から五十七歳の初めまでの間にだいたい六通ぐらい、その中の一通は『御文章』と言えるかどうか問題があるようですが、とにかく十年間で六通ぐらい書かれているのでございます。
 ところが文明三年五十七歳の夏から六十一歳まで、まるまる四年半ほどの間に日付がちゃんと残っているものでだいたい八十通余りが書かれています。約八十通としておきましょう。これは同じのが日を変えて出されたりすることがありますし、同じタイプだけど少し文章が違っていたり、内容が少し違っていたり、同じものもあれば文章の違ったものもあります。こういうものを差し引きしてだいたい八十通ほどがこの四年半ほどの間に書かれています。そして全体として今日残っています『御文章』は、重複があるのでどう数えるかは問題がありますが、約二百五十通ほど残っています。その中で日付がはっきりとしていますのは百九十通ほどです。ほとんど半数近いのが、この四年間で書かれているということです。ですから、どんなに吉崎時代にたくさんの『御文章』が書かれたかということが分かります。勿論この中には日付はないけれども明らかにこれは吉崎時代のものだということがあるわけです。そういうのを入れると八十通を超します。九十通ぐらいになります。それくらいのたくさんの『御文章』がこの四年ほどの間に書かれているということです。
どれだけ『御文章』の教化というのは吉崎時代の伝道の手段として重要であったかということが分かると思います。

その吉崎時代の『御文章』ですけれども、この前申しました安芸の蓮崇という人がおります。安芸の蓮崇の要請によったと、安芸の蓮崇が是非とも『御文章』をもってご教化して下さいと、このようにお願いをしたといわれているのです。それは実はすでにこの時代までに何通かの『御文章』が書かれておりまして、その『御文章』が実際に近江の門徒、堅田門徒であるとか、金ヶ森の門徒であるとか、滋賀県の門徒達の中で『御文章』が読まれる。そしてこれが非常に効果をあげているということを安芸の蓮崇は見抜いているわけです。それで蓮如上人に是非とも『御文章』をお書きいただきたいとお願いをして、それで『御文章』をお書きになるようになった。こういうことです。けれども『御文章』が書かれてもその『御文章』がどのような役割を果たしたかということが問題です。我々が普通考えるように、手紙ならある個人に宛てて手紙を出された、それは読んだらしまいというようなことになりますけれども、そうじゃなくてこの『御文章』は特異な書かれ方をしたということです。
それはどういうことかというと、実は講の組織というものがすでに滋賀県時代に行われていたのですが、その組織を北国においても盛んに組織していかれたわけです。だいたい十人とか二十人とかの門徒が集まって、一つの最小単位の講をつくるわけです。これを小寄りと呼んでいます。だからどんな小さな村でもそれくらいの人数はおりますから、組織ができるわけです。少し大きくなりますとその講を二つに分けます。そういう小さい講を小寄りというわけです。そういう講がいくつか集まって講の連合ができます。大寄りです。これは一つの村単位の寄り合いが行われるような講があります。そしてその中心にあるのがその村の宗教施設である道場です。それを中心としてその村にいくつかある、場合によっては三つくらいの講が集まって一つの道場を支えていく。そういう道場がいくつか集まって小さい地方の寺があるわけです。そういう寺がいくつか更に集まって大きな寺、大坊というものがあるわけです。そういう寺が更に加賀の国でいうと二俣の本泉寺であるとか山田の光教寺であるとか、あるいは光徳寺であるとかというような大きなお寺、越前でいいますと、藤島の超勝寺だとか本覚寺だとかというような豪族クラスの巨大な寺に統合され、それが本願寺に直参していき、本願寺を中心にした大きなピラミッド型の組織が出来上がるわけですが、そのしかし初めから大きな訳ではなく、草の根を分けるようにして信者を獲得し、その信者達が講をつくって、きちんと信者を吸収していくわけです。信者ができましてもテンデンバラバラで放ったらかしていたら、伝道者がいなくなりましたら、またバラバラになって消えてしまいますから、講の組織にして一つの組織化していく訳なんです。こういう形の組織を作っていったわけなんです。
この講の中でこの『御文章』が読まれていくわけです。講の中に十人いれば一人くらいは字の読める人がいるわけです。あるいは読めなければ道場の主に、これはまあ本格的に、どれくらいか知らないが一応仏教を学んでいる人ですからお経も読めるし、ちょっとしたお聖教も読んで解説もできるくらいの力を持っています。勿論『御文章』は読めます。そういう『御文章』を読める人が中心になって、講の寄り合いの時に『御文章』を読んでいくわけです。そしてその『御文章』を読んでその解説をする、あるいはこの『御文章』についての質疑応答を行っていくわけです。これを「寄り合い談合」と呼ぶわけです。こういう寄り合い談合を行いましてそして『御文章』による法義の伝達を一人一人に定着をさせていく、こういう組織を作ってらっしゃったのです。その組織の中へ『御文章』が入っていくわけです。そして『御文章』を中心にした講の寄り合い、そして話し合い、そしてそこでお互い同行としての結びつきを強くしていくということになるわけです。ちょうどこの頃、南北朝時代から次第に山岳、村が次第に惣といわれる組織を持つようになってくるわけです。惣村といわれる形を取った組織を取ってくるわけです。惣の中には村の指導者を中心にして、それぞれの村の中で自分たちで村を合議制によって村を運営していくという体制が惣村といわれるものなんです。ここには大人、年寄りといわれるような人たちがいるわけです。大人とか年寄りといっても年寄っているということではなくて、その村の有力者です。その大人とか年寄りというのは元来いわゆる名主といわれるものです。名主というのは新しい土地を開発しますと、新しい田圃ができます。その田圃を申請をするときに、申請の名義人になれる人が名主です。何々右衛門、何々左右衛門というような名前で名義で田圃が申請されていく、そういう名田、田圃の名義人になるような人がその村の有力者です。その名主クラスの人が大人とか年寄りといわれるような村の指導者になるわけです。そして村はことに応仁の乱前後になりますと、ほとんど無政府状態のようなことですから、村は村人によって自衛しなければならない、ということで村をぐるっと堀をめぐらして、村へはいるところには木戸をつくりまして、不審な人間・よそ者は簡単に入れない。尤も行商人や芸能人などは稀人として訪れてくれることは歓迎をする。それによって外の世界とわずかながらも接触を保ち、いろんな情報を得るわけです。そういう意味で外来者、稀人というのは大変大事にはしますけれども、しかしその土地の人とは一線を画しましてだれでもその時に定着するということは許さないわけです。そしてその村は水さらいや道普請などの時にはみんなが共同してやるわけです。それは全部合議によって決まるわけです。何か大事なことがあると惣の寄り合いによって決まる。ちょうど惣の寄り合い談合が行われるように、ご法義の寄り合い談合というのが惣村の中で行われていくようになるわけです。こういう形で実はそれぞれのいろんな村の中に講の組織が出来上がっていくわけです。
それが蓮如上人がおいでになりまして、どんどん教化をされますと、その講の組織が各村の中に、惣の中に出来上がっていくわけです。これは惣ですから、ある限界までいきますと、その村は全体がひっくり返るわけです。雪崩現象を起こします。あるところまである人数まで獲得しますと、あとその組織の中へ入らないものははじき出される形になります。ある程度の人数を獲得すると逆にその村の人たちは講の組織の中に入らないとうまく日常生活ができないという状態になるわけです。そんな形で一つの村がいつの間にか本願寺の門徒に変わってしまう。惣ぐるみで門徒集団が出来上がっていきます。これから後の話になりますが、この惣が今まではそれぞれ独立した村で、例えばこの村のここの土地は興福寺の土地だ、この土地は延暦寺の土地だ、この土地は九条家の土地だ、この土地は近衛家の土地だ、というふうにそれぞれ荘園が一つの公儀の中にもそういう荘園がありまして、その荘園の中に、みなそれぞれバラバラで村が支配されていたわけです。それがだんだんと浄土真宗のご法義を聞いた人たちがあの村の人たちも蓮如上人さんのお弟子か、あの村の人も本願寺の門徒か、というようなことで、あの村も門徒、この村も門徒、考えてみるとそれぞれの道場衆はそれぞれあるお寺に所属し、そのお寺もずっと遡れば本願寺に所属した、そういう集団になってきているわけです。その中で相互に寄り合い談合の中で、ご法義だけではないいろんな情報が伝達されるようになってくるのです。これがやがてとんでもない大きな組織が出来上がりまして、これが戦闘集団になると一国をひっくり返すようなことになるわけです。これは又後の話ですが。とにかく、こういう惣村の中での講の組織を作って、講の組織の中で蓮如上人がお書きになった『御文章』が読まれていくという状況だったわけです。
 蓮如上人が吉崎に進出された頃、どんな教化が為されていたか、ということです。直接的にはよく見ませんが、わずか四年ほどの間に加賀、越前、能登、越中、若狭、北国四カ国か五カ国をいつの間にか本願寺の勢力圏になってしまう。何故こんなに短い期間にそんな進出が可能であったのかという一つの問題があります。それは一つは蓮如上人のご教化の態度、ご教化の有り様というものがそれを物語るだろうと思うのです。それを一つの『御文章』を通して見ておきたいと思います。これは文明三年、蓮如上人が吉崎に坊舎が出来上がるのが文明三年の七月、二十日過ぎくらいにお寺が完成します。その年の四月に北国へおいでになってそしてここへお寺をつくろうということになりまして、勿論それまでにはずっと根回しがしてあるんですよ。新しいところへいってからに、ここへお寺建てます、アホかちゅうようなもんです。それまでに根回しがしてありまして、行ったときにはちゃんと寺が建てられるようにしてあるわけです。吉崎の山を引き平らげて平地にして一宇の坊舎をつくる。恐らく一月や二月かかるでしょう。いくら多くの人が集まりましても山を平らげてそこに寺をつくるわけですから、相当時間がかかります。そして七月二十日過ぎに寺が出来上がって蓮如上人がそこへおいでになるのです。それまでは加賀とか越前の寺々を回りながら教化をして行くわけです。その中にこういう『御文章』があります。文明三年七月十五日付の『御文章』は第一帖の第一通ですが、それより少し前です。恐らく文明三年の五月から六月頃と考えられる『御文章』です。これは実は二通あります。一通は帖外の第五通に入っていますし、もう一つは帖外の第六通にございます。帖外の第六通になっているのは、七月十六日付けになっています。同じ趣旨の文章ですが、それよりもう少し七月十六日付けのは

「加賀の二俣にて文明三 七月十六日」

ということが細註が書いてある『御文章』です。これは御真筆で残っています。金沢市の本泉寺に残っています。それは書き出しは

「文明第三初秋中旬の頃」

というのですから、七月のころです。しかしそれより少し前、

「文明第三炎天のころより」

というのですから、真夏ですね。したがっておそらくこれは五月終わりから六月頃です。六月として約一カ月前、だいたい七月十六日付の手紙のもう一つ前のは原型だと思うのですが、文明三年六月頃のお手紙です。これを見ますと蓮如上人が北国に進出された頃にどのような教化をされていたかが分かるわけでございます。今日はこの文章を拝読していきたいと思います。読んでみます。

「文明第三炎天のころに、賀州加ト郡五ヶ庄の内かとよ、或片山辺に人十口ばかりあつまりゐて申しけるは、このごろ仏法の次第以外わろき由を讃嘆しあへり。そのなかに勢たかく色くろき俗人のありけるが、かたりけるは、一所の大坊主分たる人に対して仏法の次第を問答しける由を申て、かうぞかたり侍りけりと云々。」

こういう書き出しなんです。蓮如上人はなかなか文章家で、能・狂言が好きな方です。謡曲なども好きです。好きなんだけれども、ご法義を伝えることが忙しくて能を楽しむ暇がなかったと仰っております。けれども後に、山科本願寺が出来上がりますと、しばしば能楽師を呼びまして、能・猿楽を演じさせて、自分も結構やんなはるんですね。誓願寺というのがございますが、あれなんかよくやらされたそうです。お話聞いているみんなが退屈しますと、一曲やるというような、今だったらさしずめカラオケですね。そういうことがあるんです。だいたいネアカなんですね。人好き、すごく人が好きなんですね。そういうタイプの人ですのでずいぶんたくさんの人が集まってくるんです。謡曲を書くような積もりで初期の『御文章』はしばしばそういう書き方がされています。この『御文章』も非常に劇的な、ドラマチックな書き方ですね。
 文明三年の真夏の頃だった。五月の終わりか六月の初め頃でしょう。加賀の国加卜(かぼく)郡の五ヶ庄という村だったそうな。ある山辺に人が十人ばかり集まって寄り合い談合をしておった。これは小寄りですね。つまりその山里の村の人たちが十人ほど集まって、話し合いをしておった。どんな話をしておったかというと

「このごろ仏法の次第以外わろき由を讃嘆しあへり。」

このごろはどうも浄土真宗のご法義が正しく受け取られていないようだ、ということです。浄土真宗のご法義が乱れている。これは放っておくわけにはいかんじゃないか。これは勿論在家の信者達です。どうもこのあたりの真宗のご法義が乱れている。これは放っておくわけにはいかん、といって話し合いをしておった。その中に

「そのなかに勢たかく色くろき俗人のありけるが」

というのは、背が高くて色が黒い在家の信者ですが、野武士を思わせるような風格の男ですね、こういうのを主人公に持ってくるわけです。

「かたりけるは、一所の大坊主分たる人に対して仏法の次第を問答しける由を申て、かうぞかたり侍りけり」

ついこのあいだ、大坊主の方と仏法の問題について問答をしたというのです。実はこういうふうなことだったんだとその在家の信者がいったというのです。しかしこれは、すごく挑戦的なものです。大坊主というのは大きなお寺の住職の身分にある人ということです。大坊主分といいますと、加賀でいうと二俣の本泉寺だとか山田の光教寺とかいった大きなお寺、越前では和田の本覚寺とか藤島の超勝寺という巨大なお寺です。大坊というのはその下に二十から三十、場合によっては五十くらいの道場を持っているわけです。二十の道場を持っていたとしても、その一つの道場に例えば百人の門徒があるとしますと、二千軒の門徒をかかえているということになります。もしこれが五十になりますと、五千軒の門徒をかかえているということになるわけです。この大坊主分というのはその土地の豪族ですね。大変なものでございまして、その土地の豪族でして、大坊主分になりますとだいたい二千から三千、場合によっては五千くらいの兵隊の動員能力を持っています。これはもう大変な殿様です。加賀の本泉寺は別格としまして、今言った藤島の超勝寺というのはこれはもう大変なものです。和田の本覚寺もそうですが、藤島の超勝寺は朝倉の士官でもあるわけです。朝倉出の有力者ですから。
あるいは和田の本覚寺は吉崎あたりは奈良の興福寺の大乗院の領地です。その領地を在地で管理しているのが、和田の本覚寺ですから、大きな勢力を持っているわけです。こういうのが大坊主です。その大坊主の身分にある人ということで大坊主分というのです。これはもう殿様なんですね。それに向かって在家の信者が、色黒く、背高き俗人が、こともあろうに仏法について問答してやっつけるわけですね。こういう設定になっているわけです。大胆不敵、なかなかたいへんなものです。こういう設定をするというのが面白いですね。こういう『御文章』を書いて読ませるんですから、どれほど攻撃的であったかということが分かるわけです。『御文章』として「かくぞかたり侍りけりと云々」こう言って

「件俗人問て、当流の大坊主達はいかやうにこゝろねをもちて、その門徒中の面々をば御勧化候やらん、御心もとなく候。くはしく存知仕候て聴聞すべく候。」

こう言ったんですね。この俗人が大坊主分の人に対して、問答を仕掛けた。浄土真宗の大坊主達は、どういう心根を持って、どういうこころで門徒の人々をご教化していらっしゃるのか、それを承りたい。どうも心得られん節がしばしば見られるが、一体あなた方はどのような思いでご門徒の方々を御教化していらっしゃるのか、一言聞かせてくれと言ったというのです。そしたら、

「大坊主答ていはく、仏法の御用をもて朝夕をまかりすぎ候へども、一流の御勧化のやうをもさらに存知せず候。たゞ手つぎの坊主へ礼儀をも申し、又弟子のかたより志をもいたし候て、念仏だに申候へば肝要とこゝろゑたるまでにてこそ候へ。さ候間、一巻の聖教をも所持候分も候はぬあさましき身にて候。委細かたり給ふべく候。」

こう言ったというのです。いやあ、そう言われると私はつらいのだけれども……ということですね。仏法のお陰で朝晩こうして暮らしているのだけれども、浄土真宗の肝要を私は詳しく知らない。ただ私は本願寺に対する、手次というのは、本願寺に取り次いでくれる中間にある、たとえば二俣の本泉寺であるとかいうような寺に対して「礼儀をも申し」というのは盆暮れの付け届けもちゃんとし、そして「弟子の方よりは」というのは下寺ですね。たくさんの下寺をもっていますから、その下寺の弟子達からは私の方へ志をくれる。こうしてちゃんと本願寺へもお金を差し出している。それから又、弟子達の方からもちゃんと決められたお金は志としてもらっている。そんな形で世間一般の付き合いだけはちゃんとさせてもらっている。その上で念仏さえ申せばそれでいいのだ、お念仏さえすればお浄土へいけるんだと心得ている。ただそれだけのことで、「一巻の聖教をも所持候分も候はぬ」というのですから、私はそんな難しい真宗の教義なんてものは一巻のお聖教を読んだこともない。そういう浅ましいものだ。もし詳しいことを知っているならお前の方からいってくれといったんですね。

「委細かたり給ふべく候。」

そうすると

「俗のいはく、その信心と申すすがたはさらさら御存知なく候やらん。」

それじゃなんですか、あんたは浄土真宗の信心ということを全く知らないというのですか、といったんですね。もし全く知らないのだったら袈裟を取りなさいということです。本当に知らないんですか、といった。

「答ていはく、我等がこゝろへをき候分は、弥陀の願力に帰したてまつりて朝夕念仏を申し、仏け御たすけ候へとだにも申候へば往生するぞと心得てこそ候へ、そのほかは信心とやらんも安心とやらんも存ぜず候。これがわろく候はゞ御教化候へ、可聴聞候。」

とお坊さんが言ったというのです。いや、全く知らんかというとなんだけどな、私はずっと代々心得ているのは阿弥陀様の本願力に帰依して朝晩念仏を申して、仏様どうぞこれで助けて下さいませとお願いさせすれば往生するのだと心得ている。その他信心とも安心とも、そんなことは一切私は知りません。もしこれが間違っているとしたら、正しい教えを言ってくれとそのお坊さんが言ったというのです。ここで、又後で言いますが、弥陀の願力帰したてまつりて朝夕念仏を申し、仏け助け給えと申し候えば往生するぞと心得て候へ、と言っているでしょ。これが間違っているんですね。これが間違っていると言ってこれから批判していくわけです。ですから、これなかなかシビアーな教義問答です。その次、

「俗いはく、さては大坊主分にて御座候へども、さらに聖人一流の御安心の次第をば御存知なく候。」

ほう、あんたは大坊主、大きなお寺の御住職でたくさんの門徒をあずかってご法義を伝えなければならない責任ある位置にありながら、浄土真宗の一流の安心を全く知っておられないですね。「聖人一流の御安心の次第をば御存知なく候。」あんた真宗のご法義知らない、と言った。

「我等は俗躰の身にて大坊主分の人に一流の信心のやう申入候斟酌のいたりに候へども、「四海みな兄弟なり」と御沙汰候へば、かたのごとく申入べく候。」

私はこうして在家の身で、あなたは袈裟衣をまとったお坊さんです。在家の方がお坊さんに対して真宗のご法義を説くなんてことは誠におおけなき沙汰であるけれども、しかしご開山は「四海のうちみな兄弟」だとおっしゃった。だから兄弟の分に免じて一言申させていただきましょうか、といったのです。だいぶんきついですね、これ。

「かたのごとく申入べく候。坊主答ていはく、誠以貴方は俗人の身ながらかゝる殊勝の事を申され候ものかな、いよいよ我等は大坊主にては候へども、いまさらあさましくこそ存候へ、早々うけ給り候へ。」

まあ、あんたはえらいことを言いなさる、というわけです。貴方は在家の身であるけれども何とも尊いことを仰る。「四海のうちみな兄弟」なんてとんでもないことをあなたは御存じになっている。私は大坊主ではございますけれども、いまさら浅ましく覚えます。どうぞ正しい浄土真宗のご法義を説いて下さいませ、と大坊主は言ったというのです。これはまあ、素直な大坊主です。

「答ていはく、かくのごとく御定候あひだ、如法出物に存候へども、聴聞仕置候おもむき大概申入べく候。御心をしづめられ候てきこしめさるべく候。」

如法出物というのは、差し出がましきものを絵に描いたようなものでございますけれども、あなたの仰るとおりに私が今まで聴聞しておりますことを申し上げましょう。心を静めて聞いて下さい。といって、

「まづ聖人一流の御勧化のおもむきは信心をもて本とせられ候。そのゆへは、もろもろの雑行をなげすてて一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として仏のかたより往生を治定せしめたまふなり。このくらゐを「一念発起入正定之聚」とも釈したまへり。このうへには行住坐臥の称名念仏は如来我往生をさだめ給ふ御恩報尽の念仏と心得べきなり。これを信心決定の人とは申なり。」

とこう言ったんですね。有名な聖人一流章はここからでてくるのです。こういうふうな教化をしていくんですね。少し休憩します。

 先程申しましたが、「聖人一流の御勧化のおもむきは信心をもって本とせられ候……」という言葉で始まる『御文章』がございます。大変短い、『御文章』の中でも一番短い『御文章』ですけれども、これは文明三年の最初期の『御文章』の中から一節だけを取り出して、言葉を少し変えて一通の『御文章』にして出されたものです。それは恐らく晩年のことであったと思います。そういうことで聖人一流章というのはもともと独立したものではなかったという事です。
 私が大変出すぎたことでございますが、いわば在家のものがお坊さんに対して、仏法を説くということはまるで釈迦に説法みたいなことで、大変出すぎたことですけれども、しかし四海のうちみな兄弟だとご開山は仰っておられますので、あえて申させていただきましょう、こう言ってまず

「聖人一流の御勧化のおもむきは信心をもって本とせられ候。」

親鸞聖人の教えの根本は信心であるのだ。阿弥陀仏の本願を信じ、弥陀をたのみたてまつる信心、これが親鸞聖人の教えの一番根本にあるのだ。

「そのゆへは」

は、どうしてかということではなく、そのすがたは、ということです。信心をもって本とせられ候というそのすがたはどういうことかというと

「もろもろの雑行をなげすてて」自力のはからいを捨てて、「一心に」ふたごころなく「弥陀に帰命すれば」

阿弥陀様におまかせをするならば、如来様の仰せに従い、仰せのままに如来様におまかせをするならば、

「不可思議の願力として仏のかたより往生は治定せしめ給ふなり」

阿弥陀様の本願力によって、仏様の方の一方的なはたらきによって私の往生は決定して下さるのだ。

「このくらゐを」

この如来様の本願力によって往生決定してもらったその位を一念の信心の起こった時に正定聚に入るという言葉で曇鸞大師はご解釈をして下さったのだ。

「このうへには」

この信心が決定した上は

「行住坐臥の称名念仏は」

行住坐臥というのは、歩いていても止まっていても座っていても寝ていてもどんな姿でもそのままお念仏を申させていただけばいいんだが、そのお念仏は仏たすけ給へと思ってとなえるのとは違う。念仏を申し仏たすけ候へとだに申候えば、といっていたがそうじゃない。仏たすけたまへと思って念仏するのではないのだ。そうじゃなくて

「如来我往生をさだめ給ふ御恩報尽の念仏と心得べきなり」

たすけてくださって有り難うございますと御礼を申し上げる念仏であると、そう心得べきである。

「これを信心決定の人とは申すなり」

これが信心決定した人というのだ、こういうふうに言ったんですね。ここで信心正因称名報恩という、信心が往生の正因であり、その後の称名は御恩報謝の念仏の営みである、これが親鸞聖人の教えの味わい方だと言っているわけです。
 この前のところに、大坊主の人が、

「弥陀の願力に帰したてまつりて朝夕念仏を 申し仏け御たすけ候へとだにも申候へば往生するぞと心得てこそ候へ」

といったのは、それはいかんというのですね。どこがいかんかというとお念仏をとなえて助けて下さいとお願いするようなお念仏は、それは親鸞聖人のお念仏ではないと言っているわけです。
ここではまだ、「たすけたまへ」という言葉を否定的に使っているわけです。この「仏たすけたまへ」という言葉を信心を表す言葉として肯定的に使うようになるのは、これから二年後の文明五年です。これはまたそこで言います。この時点までは仏たすけたまへと思って念仏してはいけないという説き方で一貫しています。この後も念仏するときには、仏たすけたまへとおもってはいけない、ということは一貫しているんですけれども、信心を表すときには、「仏たすけたまへとたのめ、御たすけ候へと弥陀をたのめ」と弥陀をたのむ内容として「御たすけ候へ」という言葉を使うようになります。これは文明五年、これから二年後です。なぜそういうふうになったかということは後で言います。
 そこでこれが浄土真宗の信心決定の人というのだと言ってその次、

「次坊主様の信心の人と御沙汰候は」

坊主様、あなたが信心の人と仰っておったのは、

「たゞ弟子のかたより細々に音信をも申、又なにやらんをもまいらせ候を信心の人と仰られ候。これは大なる相違とぞ存候。」

あなたが信心の人というのは、お寺にいろいろのものをもってくる人のこと、あるいはお金をたくさんもってくる人のことを信心の人と言っているけれども、それは大きな間違いだ、というのです。金をもってくるのが悪いのではない、しかし金をもってくるのを信心の人であると考えるのは大間違いだというのです。
じゃお金を持っていかなくてもいいのかというとそんなことはない。如来様のお救いにあずかったのなら、あずかったご法義を存続していくためにどんどんお金を持って来るのはいい。しかしお金を持ってきたら信心の人だと思ったらいけないということです。この辺難しいところです。しかしここでははっきり言いなはる。

「よくよく此次第を御こゝろゑ候ひて、真実の信心を決定あるべきものなり。」

その事をよく考えて、金持っていって、お金を本願寺へたくさん納めたり、又あなたの寺へお金をたくさん納めているのが、信心の人だとそんなことを考えたら大間違いです、という。これはまた後にもう一度問題が大きく取り上げられますのでそこで申し上げます。信心があるから持っていくんじゃないか。金持っていく私を信心がないなんて言うのだったらもう本願寺の門徒をやめるという人が出て来るんですね。やめるんならやめたらいい、といってじゃんじゃんやるわけです。まあ、このあたりのやりとりはすごいです。この辺の蓮如上人は攻めの蓮如と言えるんです。強烈な攻めです。

「当時は、大略かやうの人を信心のものと仰られ候。あさましき事にはあらず候哉。」

大略かやうの人というのは、ものをたくさん持ってくる人のことで、その人を信心のものと見ておりますがまことにそれは浅ましいことだ。それは念仏にことよせて世俗の欲望を満足しようとする人であって、そういうものは親鸞聖人の門弟ではないというのです。

「この次第をよくよく御分別候て御門徒の面々をも御勧化候はゞいよいよ仏法御繁盛あるべく候ふあひだ、御身も往生は一定、又御門徒中もみな往生決定せられ候べき事うたがひなく候。」

 そういうふうに心得て信心正因称名報恩のおいわれを正確に受け入れられるならば、あなたの往生は一定するし、あなたの御門徒の人たちも往生一定、仏法はいよいよ繁盛するのだ。

「これすなはち「自信教人信難中転更難大悲伝普化真成報仏恩」の釈文に符号候べき」

善導大師が、自ら信じ人を教えて信ぜしむ、難きがなかにうたたまた難し、大悲伝えてあまねく化す、真に仏恩を報ずるになる、と仰った。自ら信じその自ら信じたご法義を人々にお伝え申す。それが阿弥陀様の本願に報いたてまつる御恩報謝の営みである、と善導大師が仰いましたが、先ず自分が信心を決定して、そして人々に正しいご法義を伝搬する、これが大坊主の仕事じゃないかともうした。

「由申候処に」

こう申したところ

「大に坊主悦て殊勝のおもひをなし、まことに仏在世にあひたてまつりたるこゝろして、解脱の法衣をしぼり、歓喜のなみだをながし、改悔懺悔のこゝろいよいよふかくして申されけるは、向後我等が少門徒も貴方へ進じおくべく候。」

そう申し上げたところこのお坊さんは大変喜んで、誠に尊いことだという思いを為し、まあ、私は仏様のご在世に遭ったような気がします。今までの過ちを悔い改める(改懺)、これからはこんな過ちはもう致しませんと仏様やみんなの前で自分の過ちを言い表す(懺悔)ような気持ちで言うには、今日以後私は実は少門徒を持っています。本願寺へ隠している門徒です。申請していない門徒をあなた方に差し上げます。

「つねには御勧化候て信心決定させたまふべく候。」

あなたに差し上げますから、その門徒達をご教化して信心決定してやってくださいませ。

「我等も自今以後は細々に参会をいたし聴聞申て仏法讃嘆仕るべく候。」

私達もこれからあなた方の仲間に入れてもらって、あなた方のご法座に寄せてもらって、ご法義を聴聞し、そして信心決定して仏法を讃嘆していきたい。仏法を人々に伝えていきたいと思います。

「誠に「同一念仏無別道故」の釈文いまにおもひあはせられてありがたく候とて、」

 同一念仏無別道故というのは、「四海のうちみな兄弟なり」というのと続いているのです。同一に念仏して別の道なきが故に遠く通ずるに四海のうちみな兄弟なり、という言葉です。同じお念仏をいただいて同じ阿弥陀様をおや様と仰ぐ私達は一天四海のうちみな兄弟であるという、その四海のうちみな兄弟だといわれたから、じゃ、兄弟のよしみによって逆さまだけれども私は親鸞聖人の教えを申しましょう、といったでしょ。それに対して、あんたえらいことを知っているなと言いましたが、このお坊さんちゃんと知っていたわけなんですね。同一念仏無別道故、同一に念仏して別の道なきが故に……それで四海のうちみな兄弟だと言われたのは、ああ、誠にその通りだな。同じ念仏の道を歩ませていただくという事は

「いまにおもひあはせられてありがたく候とて、此炎天のあつさにや扇うちつかひてほねおりさうにみゑて、この山中をぞかへるとて、またたちかへり、ふるきことなれども、かくぞ口ずさみける
うれしさをむかしはそでにつゝみけり、こよひは身にもあまりぬる哉。
と申すてゝかへりけり。まことにこの坊主も宿善の時いたるかとおぼへて、仏法不思議の道理もいよいよありがたくこそおぼへはんべり。あなかしこあなかしこ。」

炎天の暑さであったのだろうか、ほねが折れるほど扇を使っていたというのですから、半分は照れくさかったという事ですね。これだけやっつけられたからだいぶ大汗をかいたんでしょうね。骨が折れるほど扇を使いながらこの山中を帰っていきかけたんだがまたたちかえり、この辺能の舞台を思わせるような場面です。またたちかえり、古き言葉だけれどもこう口ずさんだ。

うれしさをむかしはそでにつゝみけり、こよひは身にもあまりぬる哉。

この歌の通りに今日は心晴れ晴れとしましたといって身に余るような喜びを持って帰らせていただきますと言って帰っていった。

まことにこの坊主も宿善の時いたるかとおぼへて、仏法不思議の道理もいよいよありがたくこそおぼえはんべり。あなかしこ、あなかしこ。

こういう『御文章』を講の法座の中であるいは道場の中で、在家の人が、あるいはお坊さんが堂々と読むわけですね。それを大坊主の人も小坊主の人も在家の人もみんな一斉に聞くんですからね、これは激しい教化ですよ。それから蓮如上人に対する風当たりも強くなるんですよね。若造が、俺たちが今まで聞いたこともない安心だとか、信心だとかという難しいことばかり言って、どむならんというからにみながいうとるという『御文章』もあります。これはこの次にお話をしますけれども、相当激しい『御文章』だと言うことが分かります。
考えてみたら、本願寺を支えている一番心棒になるような、そういう大坊主を回心させていくわけですね。ただ組織を作ればいいということではないのです。一人一人が仏法に目覚めなければならないのです。聖人一流のご勧化のおもむきに目覚めなければいけない。それの一番基だというので、ここでは豪族であろうと、大坊主であろうと、在家の信者であろうと、ここでは全く分け隔てはない、という形でご教化になるのですが、この後、蓮如上人の一族、恐らく息子さんだと思います。息子さんたちは北国の有力なお寺に入りまして、そしてそこで北国のご法義を支えていくわけです。その人達を在家の信者がやっつけていって、京都御一族つまり本願寺に貢ぐからといってそれでお浄土へいけるわけはないぞといって、実に厳しいご教化があるんですね。そういう『御文章』もあるんです。自分の身内から本願寺の一番の重役達から姿勢を正させていく。これは蓮如上人ご自身が命がけの思いで姿勢を正した。そのために弾圧を受けて本願寺がたたき潰されたわけですからね。それだけの覚悟をして身をただした。自ら姿勢を正しただけに本願寺のご法義を支える人たちが誤った姿勢であったらご法義は途中でたち腐れてしまう。ですからすごく厳しい教化がされていくわけです。これが初期の『御文章』です。
しかしこんな『御文章』を在家の信者がお寺で読んでいくときに、読んでいる連中どんな気がしただろうか、聞いている連中どんな気がしただろうか。蓮如上人が読むんだったらいいけれども、『御文章』ですからどこへでもいっているわけですから、大変なものです。こういう『御文章』がこれからどんどん出てくるのです。この後、こんな『御文章』もありますね。『御文章』の一帖目の一通、

「或人いはく、当流のこころは、門徒をばかならずわが弟子とこころえおくべく候ふやらん、如来・聖人(親鸞)の御弟子と申すべく候ふやらん、その分別を存知せず候ふ。また在々所々に小門徒をもちて候ふをも、このあひだは手次の坊主にはあひかくしおき候ふやうに心中をもちて候ふ。これもしかるべくもなきよし、人の申され候ふあひだ、おなじくこれも不審千万に候ふ。御ねんごろに承りたく候ふ。」

 こういう書き出しの手紙があります。これも「私はうちの門徒を私の弟子だと思ったらいいのか、それともうちの御門徒だけれども実はご開山聖人の御門徒であると思ったらいいのか、又、あちらこちらに本願寺に隠している門徒があるけれども、それも本願寺にかくしておいたらいいのか、それともそんなことをしたらいかんのか、ちゃんと申請しなければいけないという人もあるけれども、それはどっちがほんまやろか、詳しく聞かせてくれ。こんな問いかけの手紙なんですよね。

「 答へていはく、この不審もつとも肝要とこそ存じ候へ。」

きわめて大事な問いだといって、

「かたのごとく耳にとどめおき候ふ分、申しのぶべし。きこしめされ候へ。」

それについて私が今まで聞かせていただいていることを申しますからよく聞いて下さい。

故聖人の仰せには、「親鸞は弟子一人ももたず」(歎異抄・六)とこそ仰せられ候ひつれ。「そのゆゑは、如来の教法を十方衆生に説ききかしむるときは、ただ如来の御代官を申しつるばかりなり。さらに親鸞めづらしき法をもひろめず、如来の教法をわれも信じ、ひとにもをしへきかしむるばかりなり。そのほかは、なにををしへて弟子といはんぞ」と仰せられつるなり。さればとも同行なるべきものなり。これによりて、聖人は「御同朋・御同行」とこそ、かしづきて仰せられけり。
さればちかごろは大坊主分の人も、われは一流の安心の次第をもしらず、たまたま弟子のなかに信心の沙汰する在所へゆきて聴聞し候ふ人をば、ことのほか切諌をくはへ候ひて、あるいはなかをたがひなんどせられ候ふあひだ、坊主もしかしかと信心の一理をも聴聞せず、また弟子をばかやうにあひささへ候ふあひだ、われも信心決定せず、弟子も信心決定せずして、一生はむなしくすぎゆくやうに候ふこと、まことに自損損他のとが、のがれがたく候ふ。あさまし、あさまし。

親鸞聖人の仰せには、私の弟子なんてものは一人もいない。私はただ如来様のみ教えを如来様に代わってお伝えさせていただいているだけで、私が救うのではないのだから、私の弟子というものは一人もいない。親鸞聖人はそう仰ったといわれている。だから念仏する人は皆友であり、同行である。親鸞聖人はいつも御門徒の人を「御同朋(同じ親を持つ兄弟)・御同行(同じ浄土への道を歩む友)」と敬意を表してへりくだって御門徒の方々を尊敬しておられた。それが親鸞聖人の生き方だ。大坊主の人たちが自分が安心決定していないし、自分にご法義がないために、たまたま弟子あるいは門徒が信心の沙汰をする在所へいって聴聞をする人があったらことのほかせっかんをくわえて、そんなところへいってはいかん、お前はけしからん奴だと言って、仲違いなどをすると聞いている。そんなことだから坊主もしかしかと信心の一理を聴聞することもなし、又弟子達を聴聞の場にいく邪魔をするために、我も信心決定せず弟子も信心決定せず一生むなしく過ぎていくという事は、自損損他、自分を損ない同時に人も損なっていく、浅ましく罪業深き姿である。あさまし、あさまし。

こういうのです。

古歌にいはく、
うれしさをむかしはそでにつつみけり こよひは身にもあまりぬるかな「うれしさをむかしはそでにつつむ」といへるこころは、むかしは雑行・正行の分別もなく、念仏だにも申せば、往生するとばかりおもひつるこころなり。「こよひは身にもあまる」といへるは、正雑の分別をききわけ、一向一心になりて、信心決定のうへに仏恩報尽のために念仏申すこころは、おほきに各別なり。かるがゆゑに身のおきどころもなく、をどりあがるほどにおもふあひだ、よろこびは身にもうれしさがあまりぬるといへるこころなり。あなかし<こ、あなかしこ。

   文明三年七月十五日

古歌にいわく、「うれしさをむかしはそでにつつみけり こよひは身にもあまりぬるかな」ここにも同じ歌があります。よほどこの歌が気に入ったのでしょう。「うれしさをむかしはそでにつつむ」というのは、昔は自力他力の心得もなく、念仏したら往生するんだと思って、自力のはからいを捨てて本願他力に帰するという信心の心を知らない状態であった。「こよひは身にもあまる」というのは、自力を捨てて他力に捨てるという、捨てるものと取るものをはっきりと聞き分けて、一向一心になりて、信心決定のうへに仏恩報尽のために念仏申すこころは、おほきに各別なり。かるがゆゑに身のおきどころもなく、をどりあがるほどにおもふあひだ、よろこびは身にもうれしさがあまりぬるといへるこころなり。あなかしこ、あなかしこ。

これが文明三年七月の十五日の手紙です。先程の手紙より一月くらい後です。帖内の『御文章』はこのように割とおとなしい内容ですね。前の『御文章』ほどきつくないでしょ。これでもほんとは結構きついんだけども。これから帖外と帖内とあわせながら蓮如上人の相当厳しいご教化を見ていきたいと思います。これが御門徒の人たちを奮い立たせるわけです。そして燃え上がるような情熱を持った信者が育てられていくわけです。やはり自分がボルテージが高い。ものすごいボルテージの高い蓮如上人のご教化が人々の心に火をつけたわけですね。これが燎原の火のように広がっていくことになるのです。この辺を『攻めの蓮如』と呼んでいるわけでございます。それでは今日はこれで終わらせていただきます。