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新領解文/新作領解文の勧学寮による解説

提供: 本願力

『本願寺新報』2023(令和5)年2月1日

 このたび、ご門主より発布されましたご消息は、新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)と題していますが、平易さを重視し、唱和することを目的としたために、その肝要を現代版に直したものであることをご理解ください。
 ところでこの文は、三段に分けて受け止めることができます。まず第一段は、「南無阿弥陀仏」のおこころです。そのおこころをありがとう、といただき、おまかせする[信心]。そして救われていく「浄土」。それに「報謝の念仏」について述べています。第二段では、そのみ教えを私たちにお示しくださった宗祖親鸞聖人、また、お伝えくださった歴代宗主の恩徳について感謝を表しています。第三段では念仏者の日々に生活する態度を示し、聞法を勧める構成になっています。
 どのようなご文も同じですが、いかに味わって拝読するか、その味わい方が肝心です。いま、このご文を、二、三行ずつに分けてその肝要を窺ってまいりましょう。

第一段 お念仏のこころに
南無阿弥陀仏

 はじめに、六字の名号が掲げられます。この名号は単に名前ではありません。阿弥陀如来の顕現したおすがたを示すものです。
 親鸞聖人が名号といわれるとき、多くの場合、上に本願の語が冠せられます。「本願名号正定業」などです。他に「誓願の名号」とか「誓いの名号」などの例もみられます。これらは、名号が本願であり誓願されたそのこころを表しているという意味です。本願とは、阿弥陀如来が因位の法蔵菩薩であったとき、一切の苦しみ悩む衆生を一人のこさず救いとろうと誓われたものです。この願いが成就して阿弥陀仏となられ、そして名号となって私をよんでくださっているのです。ですから続いて

「われにまかせよ そのまま救う」の弥陀のよび声

とあります。「そのまま救う」が阿弥陀如来の願いですので、短い消息文の中に二度にわたって述べられます。親鸞聖人はこの六字の名号を

しかれば、「南無」の言は帰命なり(中略)ここをもって「帰命」は本願招喚の勅命なり。「発願回向」といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり

註釈版聖典170ページ
として、阿弥陀仏が名号となって煩悩に覆われる私の上に届き「まかせよ、わが名を称えよ」とよびかけてくださるすがたと味わわれたのです。また、この名号はよび声ではありますが、阿弥陀仏の功徳のすべてを与えたいという慈悲のすがたでもあるのです。しかも、信ずることも、念仏することも如来よりいただくものと味わわれます。

私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ
「そのまま救う」が 弥陀のよび声

 ここで問題は、「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ」の受け止め方です。私たち凡夫の立場からすれば、異様な内容と映ります。しかし、阿弥陀如来の立場からするならば違って受け止めることができるのです。仏教では、迷いの世界とさとりの世界の両方を説きます。いま、私の煩悩と仏のさとりは本来一つ、と言われるのは、さとりの世界の風光を示すものです。
 阿弥陀如来には絶対的な真実無相の立場と、人間を救う仏として具体的なかたちをあらわす二面性があります。それが智慧と慈悲の阿弥陀仏と言われる所以です。智慧とはさとりを指しますので、その智慧の眼で眺めた時には「煩悩と菩提は一つ」と見ることができます。このさとりの智慧から衆生救済の慈悲が導き出されるのですから「ゆえ」が付加されているのでしょう。
 要するに阿弥陀如来のさとりの智慧から「この私をよんでくださる慈悲」が出されたという意味です。この弥陀のよび声に私が呼応して「ありがとうございます」といただくのです。「そのまま救う」とよびかけてくださるのですから、素直に「この身このまま、おまかせします」と、ただただおまかせするのみを「いただく」と言っているのです。ですから

ありがとう といただいて

と続きます。
 阿弥陀如来の必ず救うという慈悲のこころをそのまま受け入れて、この身をおまかせする。ここを「信心をいただく」と表現し、ここに他力の救いが成立します。本願を憶念して、自力のこころを離れていく、それ以外に煩悩具足の私が迷いの世界から抜け出る道はありません。

この愚身をまかす このままで
救い取られる自然の浄土

 すでに述べたように、救われるということは、如来のよび声を聞き、おまかせするということです。ですから、如来の側からすれば「そのままの救い」であり、私の側から言えば「このまま救われる」ということになります。
 ここを「愚身をまかす」とあえて「愚身」と書いて「み」と読むように指示されています。私という愚かな身ながら[このまま救われる]ことを表そうとされているのです。そうすれば、私の命が終かったその時にお浄土に往生させていただき、この私を仏にしてくださいます。
 その往生させていただく世界が「救い取られる 自然の浄土」、いわゆる極楽浄土です。浄土が自然の語によってさとりの世界であることを表そうとしています。「自然虚無之身無極之体」という経典のことばにも、自然がさとりを意味していることが窺えます。

仏恩報謝の お念仏

 阿弥陀如来の私をよんでくださるよび声が届いた瞬間からお浄土に寄せていただくまでのこの世での生活、それが「ありがとうございます」という感謝の念仏生活以外にはありません。「仏恩報謝のお念仏」と表現される所以です。南無阿弥陀仏と私の口からお念仏が出ます。決して救いの因として役立たせるためではありません。阿弥陀如来のご恩をよろこぶ気持ちがあふれ出たものです。仏になるべき身に育てあげていただいたご恩に対する報恩の念仏です。

第二段 師の徳を讃える
これもひとえに
宗祖親鸞聖人と
法灯を伝承された 歴代宗主の
尊いお導きに よるものです

 ところで、愚身の私が往生させていただく手段は、すべて阿弥陀さまの方で完成されていますので、これを「他力」といいます。この「他力の法門」を数あるお釈迦さまの教えの中から見出してくださり、この私に至るまでお伝えくださったのは「ひとえに宗祖親鸞聖人と 法灯を伝承された 歴代宗主の 尊いお導きに よるもの」と言えましょう。親鸞聖人ましまさずば、と思うとき本当にお念仏に遇いえた喜びが湧きあがってきます。そして法灯を伝承された歴代宗主のお導きに感謝しなければなりません。

第三段 念仏者の生活
み教えを依りどころに生きる者 となり
少しずつ 執われの心を 離れます

 「そのままの救い」とか「摂取不捨の救い」とはいっても、どんな悪事をしてもいいということではありません。「薬あればとて、毒をこのむべからず」という誡めもあります。ですから、他力の教えをいただき感謝の念仏を称える人たちの生き方はどのようなものといえるでしょうか、それを考えねばなりません。消息文では「み教えを依りどころに生きる者」と示されています。
 今生が終わった後の行き先が定まれば、その後の生活は当然ながら異なってくるものです。努力しなくとも「少しずつ 執われの心」が離れていきましょう。「執われ」とは「この世の財産や地位、名誉等々」に執われることで、当然ながら、そこには「生きる」ことも含まれます。要するに、死んだ後まで相続できないものへの執着です。
 私たちは、この執着心からなかなか離れることができないものです。しかし、それが阿弥陀如来のみ光に照らされて、死後に至るまで相続できないものとわかれば、少しずつ心に変化が生じてくるものです。そこを聖人は

仏のちかひをききはじめしより、無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ、三毒をもすこしづつ好まずして、阿弥陀仏の薬をつねに好みめす身となりておはしましあうて候ふぞかし

註釈版聖典739ページ
と示してくださいます。
 ここの「誓いを聞き始めしより」の文が大切です。煩悩成就の凡夫ですが、如来の誓願を知ったならばという意味でしょう。そうすれば、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころが少しずつ遠のいていくものだと示してくださっているのです。

生かされていることに 感謝して
むさぼり いかりに 流されず

 執われの心が薄れてくれば「生かされていることに 感謝」ができます。私たちは多くのご縁によって生かされています。常に自分を中心において、さまざまなご縁を眺めていますが、ご縁が先にあっての私だということがわかります。生かされて生きているのです。そのように思うとき、煩悩的欲求に無批判に従うことはできません。
 また、貪・瞋・痴の三毒の煩悩は死ぬまで無くなりませんが、親鸞聖人がお示しくださったように「無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ」てくるに違いありません。これらを「むさぼり いかりに 流されず」と言い表しているのです。くれぐれもそのように努力しなければならないという意味ではありません。自ずからそのような念仏生活ができるという意味ですのでご注意ください。

穏やかな顔と 優しい言葉
喜びも悲しみも分かち合い

 「和顔愛語」は法蔵菩薩修行の徳目の一つです。阿弥陀如来はいつも私たちによりそい、私の喜び悲しみを共にしてくださる仏さまです。
 善導大師は、阿弥陀仏と念仏の衆生との関係を親縁で示してくださいます。親しい間柄という意味です。阿弥陀さまと私が親しい間柄ということをこころに思い浮かべるとき、自然にこころ穏やかになり、顔や言葉にあらわれるものです。私の優しい態度や言葉は、広く他におよび、曇鸞大師が念仏者を「四海のうちみな兄弟とするなり」(註釈版聖典310ページ)と言われるような輪が広がっていきます。すなわち、「穏やかな顔と 優しい言葉」また「喜びも 悲しみも 分かち合」う生活が送れることになるのです。

日々に 精一杯 つとめます

 念仏申して生きることは、生きる意義がはっきりするということです。『仏説無量寿経』には

愚痴矇昧にしてみづから智慧ありと以うて、生の従来するところ、死の趣向するところを知らず

註釈版聖典70ページ
とあります。どこから来て、どこへ帰っていくのか知らない私です。そのような私に生きる方向を指し示してくださるのがお念仏です。
 そのお念仏による仏恩報謝の生活では、このように素睛らしい心安らぐ日常が送れるということです。
 そのために、私たちはとにかく「阿弥陀如来のよび声に呼応」しなければなりません。この呼応することが「ご信心をいただく」という意味でもあります。まず私たちが聞法にはげみ、そして少しでも如来のお心にかなう生き方を目指し、「日々に 精一杯 つとめ」なければならないでしょう。それを奨励した言葉であることを肝に銘じなければなりません。
 今回発布された消息文を以上のような味わいで唱和くださいますことをここに念じます。