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「他知の世界 ―浄土真宗の信心―」の版間の差分

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2010年10月26日 (火) 14:51時点における版

他知の世界 ー浄土真宗の信心ー
(宗教研究三四七、平成十八年三月刊所収)
 親鸞浄土教の特徴を代表するものとして、現生正定聚を主張し、現世からの救いの強調したことが挙げられる。この点については、幸西の一念往生(『玄義分抄』別時門)、証空の即便往生(『観門義』等)、一遍の一念往生(『一遍聖絵』第一)の主張にもそれぞれ現世からの救いが強調されているのであるが、幸西、証空、一遍においては臨終来迎が説かれ、それをたのむべきことがすすめられているのである[1]
 ところが親鸞は「来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆへに、臨終ということは諸行往生のひとにいふべし。いまだ真実の信心をえざるがゆへなり。(中略)真実信心の行人は、摂取不捨のゆへに正定聚のくらいに住す。このゆへに臨終まつことなし、来迎たのむことなし、信心のさだまるとき往生またさだまるなり。(『末灯鈔』一)と述べているように、臨終来迎を否定し、またそれをたのむ必要のないことを述べ、さらには臨終来迎をいうひとは信心未決定のひとであると述べているのである。これは親鸞が信心決定するときに往生の問題はすべて完了すると言う自分自身の宗教体験による強い確信をもっていたからであろう。
 周知のように親鸞は信心を「凡夫自力の信に非ず、大悲回向の心」(『浄土文類聚鈔』)と述べ「本願力回向之信心」(『教行信証』「信巻」)と述べているように、自身の上に開発した信心(疑蓋无雑〈『教行信証』「信巻」〉、如来の御ちかひをきゝてうたがふこゝろのなきなり〈『一念多念文意』〉)をすべて如来よりたまわりたものとしたのである。親鸞が「不思議の仏智を信ずるを 報土の因としたまへり 信心の正因うることは かたきがなかになをかたし」(『正像末和讃』)と述べているように、その信心が往生の正因であり、その心が定まったときが摂取不捨の利益にあずかったときであり、往生決定のときと確信し実感したのである。この往生一定の確信と実感をすべて彌陀の御もよほし(他力)としたのが親鸞であったのである。
 ここで注意しておかねばならない問題は「悲しき哉、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利太山に迷惑して定聚の数に入ることを喜ばず」(『教行信証』「信巻」)、「凡夫といふは、无明煩悩われらがみにみちみちて、よくもおほく、いかりはらだち、そねみねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらずきえずたえず」(『一念多念文意』等とある文から、親鸞は生涯自身の往生に確信をもてなかったのではないかという意見があることであるが、これが間違いであることは親鸞が「日月の、くも・きりにおほはるれども、やみはれてくもきりのしたあきらかなるがごとく、貪愛瞋憎のくもきりに信心はおほはるれども、往生にさわりあるべからずとしるべしと也。」(『尊号真像銘文』)と述べ、また『高僧和讃』曇鸞讃の若存若亡の心(あるときにはわうしょうしてむすとおもひあるときにはわうしょうはえせしとおもふをにゃくそんにゃくまうといふなり)を不淳心として否定していることで明らかであろう。
 禅宗の語に「冷暖自知」とある。自分が飲むことによって、その水の冷暖を自分が知るように、悟りも自分が実践体得する以外に知る方法はない、という意味といわれる。浄土真宗は現世で悟りを開く教えではないが、現世からの救済を強く説く教えである。上述の如く、親鸞は自分自身の往生一定の確信と実感を強く語るのであるが、これをすべて彌陀の御もよほし(他力)とするのである。すなわち救済の事実を他力によって知らしめられたとうけとめているのである。

 このようなことから浄土真宗の信心決定による往生の確信の安堵と慶びの世界は「他知の世界」と表現されうるべきものと思考する。
  1. 親鸞浄土教における救済の現実的意義(印 仏研究第五十一の一、平成十四年十二月刊)