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十住毘婆沙論研究

提供: 本願力

2019年11月19日 (火) 16:11時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

『十住毘婆沙論研究』 武邑尚邦p.110

 初地を菩薩の必成不退とみる『十住毘婆沙論』は世親が「住地」「釈名」「安住」と科した三分の叙述の内容を必成不退の如実菩薩の相を明らかにするものとみたのである。すなわち「入初地品」「地相品」「浄地品」の三品の叙述がこれを示している。

 ところで、このような必成不退の菩薩には、必ず成就すると保証される願と、その必成を保証する行が具備されねばならない。そのためには、まず願が必成であるために発願の根本における発心が必成のものでなければならない。とすれば、その発心は仏に保証された発心であり、法の確実な裏付けをもつものでなければならない。この為に論は「釈願品」で願を明し乍ら、次に「発心品」を説いて願の必成を根拠付ける発心の確実性を求め、それが「仏教えて発心せしむ」という点と、三宝帰依にあることをつきとめた。すなわち、このような発菩提心こそが阿惟越致を約束するものである。そこで発心を吟味し確実な発心が仏にしからしめられ、護法の為と衆生救済の為とのものは仏道成就が約束されるということから、そのような不退転を如実菩薩の中の無条件に仏になれるものとして「阿惟越致相品」の最初にあげ、これを明らかにした。しかし、七種発心中、後の四種発心には成不成があり、不成なるものは敗壊の菩薩として堕二乗、堕凡夫であるとして、これを敗壊の菩薩とよんだ。しかし、後の四種発心は成の場合も認められ、そのようなのを漸々に精進して菩提を成ずる人といってきたのである。いま「易行品」は、このような漸々に精進して菩提を得る菩薩に対して、真に成仏を達成せしめる道を説こうとして設けられているのである。ところで、この点については古来からの「易行品」の註釈では、大体いまいった漸々精進の菩薩の為ではなく、敗壊の菩薩の為であるとする解釈がなされている。たとえば東陽円月師の『易行品略解』には

此品前後の諸品に六度等の行を説くものは漸々転進の機に応ず。今此一品に諸仏菩薩の称名易行を説くものは敗壊の機に応ず。

と。「易行品」は敗壊の菩薩の為に説かれたものとしている。しかし、敗壊の菩薩とは仏道に発趣するに修善除悪の強い意志力をもたないものなどといわれるが、実は二乗法を信楽し、二乗に堕し自らの利楽のみを求めるものをいうのであり、これが正しく「菩薩の死」といわれるものである。このような堕二乗のものは、決して二度と大乗法に帰入しえないので、敗壊した菩薩は名のみの菩薩であるというのである。いま「易行品」は最初にも偈説されるように、たとえ地獄におちても、堕二乗の如く、もう二度と大乗へ戻ることのできない二乗とちがって、畢竟して仏に至ることを得る道として説かれたものと思われるから、敗壊の菩薩が成仏する道が易行道であると、敗壊と易行とを直結することは正しくない。このような点で、「易行品」は「敗壊するような菩薩」ではあっても、堕二乗の敗壊菩薩ではなく、むしろ、漸々に精進をする惟越致の菩薩の為に開示されたものと理解すべきであろう。このような菩薩道を「易行品」「除業品」「分別功徳品」の三品で明らかにするのである。

 まず「易行品」についてみよう。この品の初めに「問うて曰く、この阿惟越致の菩薩の初事は先に説くが如し。阿惟越致に至る者は、諸の難行を行じ、久しうして乃ち得べきも、或は声聞、辟支仏地に堕せん。もし、しからば、これ大衰患なり」といい、難行による漸々精進の菩薩の菩薩行は仲々成じ難く、ともすれば、その精進にたえずして二乗に堕することになる。これは、正しく菩薩の死であって大衰患であり、古来、これを難行道に諸久堕の難ありといわれてきたのである。

すなわち、いま説いた論の本文が

「行[諸]難行、[久]乃可得、或[堕]声聞辟支仏地。若爾者是大衰患。」

といわれるからである。

 このことを論は「助道法」の中に説くが如しとして偈によってこれを示す。

もし声聞地及び、辟支仏地に堕するは是れを菩薩の死と名づく。則ち一切の利を失す。もし地獄に堕するも、是の如きの畏れを生ぜざるに、若し二乗地に堕すれば、則ち大怖畏となす。地獄の中に堕するも、畢寛じて仏に至ることを得るも、若し二乗地に堕せば、畢竟じて仏道を遮す。仏自ら経の中において、是の如きの事を解説したもう。人の寿を貪る者の、首を斬れば則ち大いに畏るが如く、菩薩もまた是の如し。もし声聞地、及び辟支仏地において応に大怖畏を生ずべし。
と。この助道法の所説をよりどころとして、菩薩の死である堕二乗におち入る難行道以外に、たとえ地獄に堕しても仏道を遮することのないような菩薩の生きる道を求めたいというので、次に、もし諸仏の教えの中に、易行道にして疾く阿惟越致地に至ることのできる方法があれば、それを教えてほしいが、そのような道はないのかと問うのである。

 ところで、いま、ここに「助道法」といわれるものは何をいうのかというに、この趣旨は『菩提資糧論』巻三に菩薩の死について述べる偈と相応する。すなわち、そこには

声聞独覚地 若人便為死 以断於菩薩
諸所解知根。
仮死堕泥梨 菩薩不生怖 声聞独覚地
便為大恐怖。
非堕泥梨中 畢竟障菩提 声聞独覚地
則為畢寛障。
如説愛寿人 怖畏於斬首 声聞独覚地
応作如是怖。(大・三二・五二七c~五二八a)[1]

と説かれている。

 さらに偈中、経の中においてといわれる経は『清浄毘尼方広経』中の

仏言。応怖。天子。但菩薩於声聞地中倍応生怖。天子、於意云何、如人護命、爲畏斬頭.畏斬手足。(大・二四・一O八Oa)

によると思われる。

 以上のように、二乗地に堕する可能性をもった阿惟越致地への菩薩道は、正しく難行道である。しかし、この場合、難行道とは単に修行が困難であるということではなかろう。菩薩行としての六波羅蜜行は成程、困難なことであろう。しかし、これを修行して仏になる道は確保され、保証されてあるのである。そこで、ここでいう難行とは、二乗地に堕し、菩薩の死を招くことについていわれているはずである。すなわち、地獄におちるということは修行者にとって決して好ましいことではない。しかし、地獄に堕ちても再び成仏への道があることは保証されている。ところが、もし二乗に堕すれば、殆んど成仏への可能性はなくなるのである。したがって次に説かれる易行・信行方便とは、修行が易であるという点よりも、堕二乗の可能性のない道であるところに易行の真意があるといってよいのではないか。もしも、易が単に容易なさとりへの道をいうなら、それは仏道の堕落であって易行道ではないはずである。

 この願いに対して、汝は儜弱怯劣と訶し、菩提を求めるためには身命をもおしんではならないというのは、二乗地に堕する可能性をもつ道でなく、地獄にも堕するかもしれないが、いつかは成仏する道であるから、易と考えて容易の道といってはならないと訶したものというべきであろう。

 さて、その弾訶の後に論には「若し人、発願して阿籍多羅三貌三菩提を求めんと欲して、未だ阿惟越致を得ずんば、その中間において、応に身命を惜まず、昼夜精進して頭燃をはらうが如くすべし。」といって偈を示す。すなわち「助道の中に説くが如し」という。この偈もまた確実には一致しないが、『菩提資糧論』巻三の

菩薩為菩提 乃至未不退 譬如燃頭衣
応作是勤行。
然彼諸菩薩 為求菩提時 精進不応息
以荷重担故。       (大・三二・五二七b)

を依処とするものである。偈として

菩薩未だ阿惟越致地に至ることを得ずんば、応に常に勤めて精進して、猶し頭燃をはらい、重坦を荷負するが如くすべし。菩提を求むるがための故に、常に応に勤めて精進して、解怠の心を生ぜざれ。声聞乗、辟支仏乗を求むる者のごとき、但だ己が利を成ずる為にするとも、常に応に勤めて精進すべし。何ぞ況んや菩薩は、自ら度し、また彼を度せんとするにおいておや。この二乗の人において、億倍して応に精進すべし。

と説かれる。

 いま、助道の中に説くとしてあげた、この経説をよりどころとして、菩薩が仏道を成ずる為には、応に並々ならない勤行精進が必要であると説くのである。そこで、易行をと求めるものに、たとえ信方便易行があるとしても、このことを考えて、それは容易な、安易な道であると考えてはならない。
ただ、この易行道は諸久堕の難のある菩薩道と異って、いつまでも仏道成就の可能性をもつものであることを自覚して、勤行精進し、必ず成仏すべしとの決意が与えられるものであることを示そうとして、偈の後に

 大乗を行ずるものに対して、仏は偈の如くに説かれたのである。発願して仏道を求めることは、三千世界をもちあげるよりも、なお重いのである。汝が、阿惟越致は、この法甚だ難し、久しくして乃ち得べし、若し易行道ありて、疾く阿惟越致地に至ることを得るやと間うのは、全く怯弱下劣の言葉であり、これは大人志幹のいうことではない。と再び訶し、次いで、汝が、若し必ずこの方便を聞こうとするなら、これから、その道を説くであろうという。この論の作者の自問自答には、前にいったように、論の著者自身に必ず成仏できる道として易行道が求められていたことを示すものである。その点、難行道といわれるものは成仏不定の道、易行道とは成仏必定の道というべきであろう。

 それでは、その易行道とは何か。これについて論は(一)十方十仏易行、(二)阿弥陀仏等易行と大きく二様の易行を説く。しかも第二の阿弥陀仏等の易行を(1)阿弥陀仏易行、(2)過未八仏易行、(3)十一仏易行、(4)三世諸仏易行の四段にわけて述べ、最後に善意菩薩等の諸大菩薩をあげ「是の如き等の諸の大菩薩みな応に憶念し、恭敬し、礼拝して阿惟越致地を求むべし」と結ぶのである。

 さて、易行道を説くについて、まず易行の説をおこすために難易を対比して易行の何であるかを示す。

 仏法に無量の門あり。世間の道に難有り、易あり。陸道の歩行は則ち苦しく、水道の乗船は則ち楽なるが如し。菩薩の道も、またかくの如し。或は勤行精進するあり、或は信方便を以って、易行にして疾く阿惟越致に至る者あり。

と。

 ここには仏法について、難易の二道を世間における陸道の歩行と水道の乗船に対比し、両道あることを示すのである。したがって、難行道とは、既に前に述べてきた漸々に精進して阿惟越致地にいたる道をさし、それについて論は「序品」においては

復次菩薩有八法、能集一切功徳。一者大悲、二者堅心、三者智慧、四者方便、五者不放逸、六者勤精進、七者常摂念、八者善知識、是故初発心者疾行八法、如救頭然、然後当修諸余功徳。

と、その難行であることを示し、「阿惟越致相品」には不得我などの五法を説く。さらに「地相品」には初地不退を得るに菩薩は堪受等の七法を行ずることを説いていたのである。いま、このように説いてきた難行に対して、水道の乗船にたとえられる易行道を示し、それを信方便というのである。その信方便の易行道によって疾く不退転にいたるのが、難に対する易であるというのである。この場合、それがただ教理や思想でないことはいうまでもない。信方便というのは具体的な行道でなければならない。ところで、信方便の易行とは具体的に何をいうのであるかというに、十方十仏の易行を説いて、これを結んで偈に

若人疾欲至 不退転地者 応以恭敬心
執持名号

と説き、その説明にも「若し人、一心にその名号を称すれば、即ち阿褥多羅三貌三菩提を退せざることを得」とある。さらに阿弥陀仏等の易行についても

阿弥陀等の仏及び諸の大菩薩あり、名を称して一心に念ずれば、また不退転を得

と偈説し、さらに

 若し人、我を念じ名を称し、自ら帰せば即ち必定に入り、阿藩多羅三貌三菩提を得ん。

といっている。このように信方便易行とは、具体的には称念仏名である。

ところで、まずこの十方十仏の易行について

若し菩薩にして、この身において阿惟越致地にいたることを得て阿褥多羅三貌三菩提を成就せんと欲するならば、まさに、この十方の諸仏を念じて、その名号を称すべし。

といって『宝月童子所聞経阿惟越致品』に説くが如しとして、この経典を引用するのである。ここに長々と引用されるこの経典については、月輪賢隆博士に詳しい研究があるので、その詳細についてはふれない。ところで、この十方十仏の説明の中で、大切なものはといえば、それは東方無憂世界の善徳如来を讃嘆して

宝月よ。もし善男子、善女人、この仏名を聞いて、よく信受するものは、すなわち、阿据多羅三貌三菩提を退せず。余の九仏の事も皆またかくの如し。

といわれる点にあるであろう。そのために十仏の名号、国土の名が解説されているのである。

 この経典の引用については、現存施護訳と本論の本文と比較する場合、月輪博士の対照によっても明らかなように、施護訳は非常に簡略であるが、現存チベット訳は本論の引用と大略相応する。さらに偈讃が本論では長行の後に一括してあげられるが、チベット訳では十仏それぞれの長行の後、夫々偈讃が述べられている点に相異があるが、その趣意はほぼ同意である。因みに十仏十土をあげれば次の如し。

東方 善徳仏 無憂界
南方 栴檀徳仏 歓喜界
西方 無量明仏 善世界
北方 相徳仏 無動界
東南方 無憂仏 月明界
西南方 宝施仏 衆相界
西北方 華徳仏 聚音界
東北方 三乗行仏 安穏界
上方 広衆徳仏 衆月界
下方 明徳仏 広世界

さて、『宝月童子所聞経』による十方十仏を説きおわって、論は

「間うて曰く、ただこの十仏の名号を聞いて、執持して心におけば、すなわち阿褥多羅三貌三菩提を退せざるを得るのか、さらに余の仏、余の菩薩の名あって、阿惟越致に至ることをうるとなすや」

と問い、それに答えて

阿弥陀等の仏、及び諸の大菩薩あり、
名を称して一心に念ずれば、また不退転をう。

と偈説し、長行釈を加えるのである。すなわち、阿弥陀仏等の百七仏の名をあげて、その易行を示している。その名をあげた後、

是の諸の仏世尊、現に十方清浄世界に在す。皆、名を称して憶念すべし

と結んで、次に代表として出された阿弥陀仏について

阿弥陀仏の本願は是の如し。若し人われを念じて名を称し、自ら帰せば即ち必定に入り、阿褥多羅三貌三菩提を得んと

と説き、次いで、偈讃するのである。

 この阿弥陀仏に対して述べられる二十九偈の弥陀別讃が何によるものであるか明瞭ではないが、そこには今日の『無量寿経』の類に属する経典の本願文が予想される。次にしばらく、このような点を明らかにする為に偈について考えておこう。

三十二偈の中、二十九偈までは正しく讃嘆の偈であり、後の三偈は結讃である。まず、初めの二十九偈についてみるのに、浄土真宗本願寺派の学哲明教院僧鎔の『十住毘婆沙論易行品中阿弥陀偈讃法音鼓』には次のように分科している。

・畧して如来の光明の智慧を讃嘆する
 初、体相を示す 1
 二照用を示す 2
・広く行者の得益の相を明す
 初 仏力によることを明す
  ・至徳具足の益 3
  ・入正定聚の益 4
  ・即生無碍の益 5
 二藉土の徳を明す
  ・不更悪趣の益 6
  ・色相等勝の益 7
  ・六通具足の益
   ・天眼耳通 8
   ・神足他心宿命通 9
   ・漏尽通 10
  ・声聞無数の益 11
  ・性順行善の益 12
  ・第一無比の益 13
三 能念の益を明す
  ・現益  14
  ・当益
   ・十方同往益 15
   ・相好具足益 16
   ・遍遊広供益 17
  ・示信疑得失 18
・重ねて諸仏同讃に約して明す
 初 総挙  19
二 別して明す
  ・国土厳浄の徳 20
  ・身業円満の徳
   ・足 相 21
   ・毫 相 22
  ・因行奇妙の徳 23
  ・口業普度の徳
   ・破 業  24
   ・救 倒  25
  ・最尊第一の徳 26
  ・五乗斉帰の徳 27
  ・二利自在の徳 28.29

 いま、ここには、これらの一々の説明は後に述べるので、省略するが、このような弥陀讃が、『無量寿経』系の経典を予想せしめることはいうまでもなかろう。ここに称念仏名が信方便といわれるのもこの阿弥陀仏易行に中心をおいていることも、想像にかたくない。しかし、本論としては、この阿弥陀仏易行を詳しくしながらこれを百七仏易行の代表として説いていることはいうまでもない。

 次で、論は過去七仏、未来弥勒仏、十一仏、総じて三世の仏、諸大菩薩を憶念恭敬礼拝すべきことを説いて「易行品」をおわるのである。

 以上の「易行品」の説明をみる時、信方便易行といわれるものが、称念仏名ということであり、それが主として阿弥陀仏易行として説かれていることは明かである。といって。論全体の構成から考えて、本論はこの阿弥陀仏易行を説こうとして構成されているとはいえないので、前に述べたように、信方便易行を出した理由は、菩薩の死である堕二乗のおそれのない道を求めるものに対するものである。その点、この易行といわれる信方便には堕二乗の怖れはないが、堕悪趣の難は避けることができない。ただ堕悪趣の難はあっても菩薩道に戻り成仏への道はとざされてはいないのである。しかし、それでは漸々に道を求め、精進するものが、この称名憶念で必定に入り、不退転地にいるならば、そこでは自らの発心により発願せる願は、必成となるので、この「易行品」の叙述によって、願成就はその説明を終了してよいであろう。ところがなお次に「除業品」と「分別功徳品」がつけられるのは、どのような意味があるのであろうか。次に、この点に注意しなければならない。


  1. 声聞・独覚地にもし人るを便(すなわ)ち死となす 菩薩の諸の解知する所と根を断ずるを以つてなり。
    仮に死して泥梨に堕するも 菩薩は怖れを生ぜざれども 声聞・独覚地は 便(すなわ)ち大恐怖となす。
    泥梨の中に堕するも 畢竟じて菩提を障(さ)ゆるに非ず 声聞・独覚地は則ち畢寛じて障りとなる。
    寿を愛する人は 斬首を怖畏すと説くが如く 声聞・独覚地は まさにこの如きの怖れを作すべし。