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「念仏の三義」の版間の差分

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:なんぢは天台の學者なれば、すべからく三重の念佛を分別してきかしめむ。一には摩訶止觀にあかす念佛、二には往生要集にすすむる念佛、三には善導の立給へる念佛なりとて、くはしくこれをのべ給ふ。文義廣博にして智解深遠なり。崑崙のいただきをあふぐがごとし。[http://www.jozensearch.jp/pc/zensho/image/volume/31/page/296 『法然上人行状絵図』p296]
 
:なんぢは天台の學者なれば、すべからく三重の念佛を分別してきかしめむ。一には摩訶止觀にあかす念佛、二には往生要集にすすむる念佛、三には善導の立給へる念佛なりとて、くはしくこれをのべ給ふ。文義廣博にして智解深遠なり。崑崙のいただきをあふぐがごとし。[http://www.jozensearch.jp/pc/zensho/image/volume/31/page/296 『法然上人行状絵図』p296]
 
なお『口伝鈔』に聖光の逸話として、
 
なお『口伝鈔』に聖光の逸話として、
: 聖人(法然)のたまはく、「念仏は唐土(中国)の念仏か、日本の念仏か」と。修行者しばらく停滞す。しかれどもきと案じて「唐土の念仏を求むるなり」と[云々]。聖人のたまはく、「さては善導和尚の御弟子にこそあるなれ」と。そのとき修行者、ふところよりつま硯をとり出して二字を書きてささぐ。鎮西の聖光坊これなり。([[chu:口伝鈔#P--888|口伝鈔 P.888]])
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: 聖人(法然)のたまはく、「念仏は唐土(中国)の念仏か、日本の念仏か」と。修行者しばらく停滞す。しかれどもきと<ref>きと。しっかりと。確かに。</ref>案じて「唐土の念仏を求むるなり」と[云々]。聖人のたまはく、「さては善導和尚の御弟子にこそあるなれ」と。そのとき修行者、ふところより[[chu:つま硯|つま硯]]をとり出して二字を書きてささぐ。鎮西の聖光坊これなり。([[chu:口伝鈔#P--888|口伝鈔 P.888]])
とあるのは、この伝によるのであろう。<br /> また良忠は、『選択伝弘決疑鈔』で、念仏、本願念仏、選択本願念仏の三義にわけ、最初の念仏を諸師所立の念仏として「'''万行随一の念仏'''」といわれていた。}}
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とあるのは、この伝によるのであろう。<br /> また良忠は、『選択伝弘決疑鈔』で、念仏、本願念仏、'''選択本願念仏'''の三義にわけ、最初の念仏を諸師所立の念仏として「'''万行随一の念仏'''」といわれていた。
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[http://www.jozensearch.jp/pc/zensho/detail/volume/7/page/189 『選択伝弘決疑鈔』]
 
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或稱或總或別倶是念佛今恐此濫故言本<br />
 
或稱或總或別倶是念佛今恐此濫故言本<br />
 
願念佛也耳私謂大師本願祖師選擇辭異義同云々<br />
 
願念佛也耳私謂大師本願祖師選擇辭異義同云々<br />
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2019年11月28日 (木) 13:24時点における最新版

法然聖人は『法然上人行状絵図』で、聖光房に、念仏には三重があると指示された。

なんぢは天台の學者なれば、すべからく三重の念佛を分別してきかしめむ。一には摩訶止觀にあかす念佛、二には往生要集にすすむる念佛、三には善導の立給へる念佛なりとて、くはしくこれをのべ給ふ。文義廣博にして智解深遠なり。崑崙のいただきをあふぐがごとし。『法然上人行状絵図』p296

なお『口伝鈔』に聖光の逸話として、

 聖人(法然)のたまはく、「念仏は唐土(中国)の念仏か、日本の念仏か」と。修行者しばらく停滞す。しかれどもきと[1]案じて「唐土の念仏を求むるなり」と[云々]。聖人のたまはく、「さては善導和尚の御弟子にこそあるなれ」と。そのとき修行者、ふところよりつま硯をとり出して二字を書きてささぐ。鎮西の聖光坊これなり。(口伝鈔 P.888)

とあるのは、この伝によるのであろう。
 また良忠は、『選択伝弘決疑鈔』で、念仏、本願念仏、選択本願念仏の三義にわけ、最初の念仏を諸師所立の念仏として「万行随一の念仏」といわれていた。

『選択伝弘決疑鈔』

選択本願念仏集

問ふ、この題額その意いかん。
答ふ、伝に云く、この題の中においてしばらく三義あり。
終(つい)に一意となる。一とは念仏、二には本願念仏、三には選択本願念仏なり。
初めに念仏といふは万行随一の念仏なり。
これまさに諸師所立の念仏の義なり、いまだ正雑・助正を分別せざるが故なり。
次に本願念仏といふは、万行の中において正・雑を分別し正行の中において助正を細判す。その正業は称名念仏なり。弥陀の本願に順ずるが故に。故に雑行をとどめて専ら念仏を行ず。これまさに今家所立の念仏の義に当たれり。
後に選択本願念仏と言ふは、本願の義の上において更に選択の一義を加ふ。これはこれ祖師上人『大阿弥陀経』に依て、始めてこの義を立つなり。
いわゆる、その本願とは二百一十億諸仏願行の中より、選択したまえる所の本願なればなり。
終に一意と成ずるとは、しかるに今この集の中に備(そなわ)るに、三義を存ずるには非ず、三義 相成じてただ一義となす。
いわく念仏は直(ただ)の念仏に非ず、則ちこれ本願の念仏なり。
本願念仏はまた直(ただ)の本願念仏に非ず、則ちこれ選択本願念仏なり。
おほよそ念仏とは或いは観、或いは称、或いは総、或いは別、ともにこれ念仏なり。
今このを恐るが故に本願念仏なりと言ふのみ。
私にいわく、大師の本願、祖師の選択、辞(ことば)は異なるに義同じと云々。 ➡参照 三重の念仏

選擇本願念佛集

問此之題額其意如何答傳云於斯題中且有三義
終成一意一者念佛二者本願念佛三者選擇本願念
佛也初言念佛者萬行隨一念佛也是當諸師所立
念佛之義未分別正雜助正故次言本願念佛者
於萬行中分別正雜於正行中細判助正其正
業者稱名念佛順彌陀本願故故止雜行專行念
佛是當今家所立念佛之義後言選擇本願念佛
者於本願義之上更加選擇一義此是祖師上人依
大阿彌陀經而始立此義也所謂其本願者自二百
一十億諸佛願行之中所選擇之本願也終成一
意者然今此集中非備存三義三義相―成唯爲一
義謂念佛非直念佛則是本願念佛也本願念佛亦
非直本願念佛則是選擇本願念佛也凡念佛者或觀
或稱或總或別倶是念佛今恐此濫故言本
願念佛也耳私謂大師本願祖師選擇辭異義同云々


  1. きと。しっかりと。確かに。